二年坂地図
みずからの生活手段というものを持たない女性たちも多かったのだろう。ただただ観音さまの慈悲にすがってこの世を生きていこうと願っていたらしい。彼女たちが求める観音の慈悲とは、心のの満足を得るとか、好きな人と添いとげたいといった生易しいものではなかったはずだ。 雨の日も風の日も、この清水へ参詣してくるのは、今日明日の生活のためだった。 当時の参詣者たちは、一枚の着物もなく、一杯の粥さえ口にできずにいた人びとも多かった。彼らが欲しいものは、雨露をしのぐ屋根であり、一枚の着物、一杯の粥だったのだろう。 だから、孫お祈りは、真剣そのものであったろう。ただ、頭を垂れて拝むのではなく、涙ながらかきくどく。そして「何でもいいから、少しでもいいからご利益を」と、まるで観音様を脅かすような迫力で頼みこんだにちがいない。 「祈りというよりも、むしろ強請(ごうせい)であるようなそれだ」と亡くなられた奈良本辰也氏は書いておられた。 清水寺に多くの参詣者や観光客が押しかけるのは、清水寺の宣伝上手だといった話ではなく、昔から人びとの最後のよりどころとして愛され、慕われ、頼られてきた。 ・・・ 清水寺への坂道、二年坂という名の坂で、ここで転ぶと二年以内に死ぬといわれるらしい。 百寺巡礼 五木寛之 より |
たらたら坂地図
京都市街地の中心部、新京極通り三条通りが交差する地点に、高さ1.5m、長さ15mの坂道が出現する。 手ぬぐいを扱う老舗「永楽屋」のすぐ隣、この短い坂道は、たらたら坂という。 京都では古代末〜中世にかけて、特徴的な地形が生まれていた。鴨川の河底低下であった。平安時代後期 ごろから気候変動などの影響で、鴨川水流の河床を削る力が強まった。その結果、鴨川と周辺の土地の間に 高さ2mほどの浸食崖が形成され、鴨川の河原と周辺の段丘、というように、高低差が生じて行った。そして これ以降、平安京東部の左京エリアは、低い河原から約2m高まった土地として、安定的に人びとが居住する ようになった。これが現在の京都市街地のぼたいとなっていった。 次に変化が訪れたのは、中世から近世へと移り変わる時期。豊臣秀吉による京都改造だった。。 秀吉は京都東側の新たな玄関口として、鴨川に三条大橋を設置した。更にその橋と市街地をスムーズに 結ぶため、地面が低い鴨川の河原に堤防状に土を盛り、その上に新たな道路を開いた。これが今の三条通り である。その結果、当時の河原を通行するところのみ、三条通りの両側に斜面が生まれた。 だが市街地に入った道は浸食崖上の土地を通るため、周囲との高低差はなくなる。そこで生まれたのが たらたら坂である。 不思議なのは、三条通りから新京極につながる箇所だけが坂になっており、すぐ西となり寺町通りと三条通り がつながる箇所は平坦である。 これは、寺町通りは秀吉の改造前から市街地であるため、三条通りとは高低差は生まれない。一方、新京極 通りはもともとの鴨川の河原を通るため、三条通りとの間に斜面が生じた。これがたらたら坂である。 |
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