父 … 桓武天皇(第三皇子)
母 … 藤原旅子(たびこ)(藤原百川の娘)
誕生 …786年(延暦5年)
御名・異称 … 大伴・日本根子天高譲弥遠・西院帝
皇后 … 正子こ内親王
皇妃 … 高志内親王(贈皇后)
立太子 … 810年(大同5年)9.13
即位 … 823年(弘仁14年)4.16
在位年数…10年
崩御 …840年(承和7年)5.8(年齢55才)
皇居 … 平安宮
年号 … 弘仁、天長
○皇子の恒世親王を皇太子に立てようとされたが固辞され、嵯峨上皇の正良親王(仁明天皇)を立てた。「神皇正統記では「末代までの美談にや、旨仁徳兄弟相譲り給し後にはきかざりしこと也」とたたえている。これは兄の嵯峨天皇がかって弟の淳和天皇を皇太子とされた御心に報いられたものである。
○淳和天皇は積極的に良吏の登用をはかり、地方官に広範な権限を賦与した。奈良時代中期よりの地方政治の荒廃と天平年間(729〜749年)の公廨稲設置にともなう交替国司間の紛争を解決するため設けられた勘解由使は、大同年間(806年)いったんは観察使に職掌がとって代わられたが、淳和朝に再び政治の刷新をめざして再設置された。
○淳和朝では公卿らの意見によって、巡察使が諸道に巡遣され、国司に良吏をあてるとともに勧農政策が活発に推進された。土地政策としては大規模な勘解由の設定がされ皇室財源の強化が企図された。「日本後紀」の編纂が進められ令義解が完成した。
○質素を旨とした淳和天皇は、「斂葬の具は一切薄きに従い、多く国人を煩わしてはならぬ、毎年末に幣帛、供え物を御陵に奉ることが荷前(のざき)というが、このようなことはしてはならぬ。人没すれば精魂は天に帰る。しかるに陵墓存すれば、ここに魂が残り、たたりをなし、長く災いを後々まで残す。よろしく骨を砕いて粉となし、これを山中に散すべし」と皇太子恒貞王に遺詔された。
陵墓名 …大原野西嶺上陵 円墳
所在地 … 京都市右京区大原野南春日町
○御骨は遺詔によって大原野西嶺山の頂きに散布され、国民が服する喪の国忌や野前(奉 幣物)や陵戸等はすべて停止された。「延喜諸陵式」にこの御陵を載せていないのは、完全に遺詔を守ったためと思われる。
京都西北部、標高641mの小塩山の頂上が散骨地である。つまり、大原野西嶺上のことである。元は小石を積み重ねた円塚が五基東西に並んであったらしいが、今は四基あり、土で覆っている。1865年(慶応元年)修治された。
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