第103代 後土御門天皇(ごつちみかど)地図

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後花園天皇(第一皇子)
嘉樂門院藤原信子(藤原孝長の娘)
誕生
…1442年(嘉吉2年)5.25
御名・異称 成仁(フサヒト)
大典侍 庭田朝子(贈皇太后)
立太子 … ――― 
即位 …1464年(寛正5年)7.19
在位年数 36年
崩御 …1500年(明応9年)9.28(年齢59才)
皇居 平安宮
年号 寛正、文正、応仁、文明、長享、延徳、明応
天皇在位中の最大の出来事は応仁の乱(1467〜1477年)である。この大乱は室町幕府の末期、京都を中心に前後11年にわたって繰り広げられた。幕府は守護大名に対して十分な統制力をもっていなかったため、同時代半ば以降守護大名らの反乱に苦しめられた。さらに幕府の失政、政治腐敗が進行し、土一揆や徳政一揆が続発するようになると、いよいよ幕府の政治的基盤は揺らいでいった。
将軍家をはじめとして、管領の畠山、斯波両家の跡継ぎ問題が深刻化し、これに細川、山名の両有力守護大名らの勢力争いが加わって、ついに事態は大規模の戦闘に発展した。戦いは次第に中央から地方へと拡散していった。
乱後、後土御門天皇は、朝儀の復興に努められ、応仁の乱以降途絶えていた内裏での元日、白馬、踏歌の三節会の習礼の儀が行われている。新しく御学問所を造り、和漢の学、仏典、医書の講義を聞き、皇子の勝仁親王にも学問を勧められた。三条西実隆をその師と定めている。「後土御門院御拾遺集」等の歌御製集がある。

  

陵墓名 深草北陵   法華堂    後深草天皇以下十三方合葬
所在地 京都市伏見区深草坊町
泉涌寺山門跡の西南隅に葬場殿を設けられた。葬場殿は、方1間で檜皮宝形造りで、屋根に金彩の宝珠を置き、殿内火炉があり、白壁塗りで炉孔は六綾形を呈し、四面に門を設け、白木の鳥居を造る。四門の額には東は発心、南は修行、西は菩提、北は涅槃の金彩銘が書かれ、北門から梓宮入御する。宝興は、宝形八角龕で、頂きに金彩宝珠が置かれ、柱は黒漆塗り、八面総てに唐錦を貼り、四方に鳥居があるものであった。
火葬され深草法華堂に納骨された。12帝陵の一つである。