第67代 三條天皇(さんじょう)地図

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冷泉(れいせん)天皇(第二皇子)
藤原超子(ちょうし)(藤原兼家の娘)
誕生 …976年(貞元元年)1.
御名・異称 居貞(スエサダ)・金剛浄
中宮 藤原妍子(ケンシ
皇后 藤原?子(セイシ)
立太子 986年(寛和2年)7.16
即位 …1011年(寛弘8年)在位年数 …5年
崩御 …1017年(寛仁元年).(年齢42才)
皇居 平安宮 
年号 (かん)(こう)長和(ちょうわ)
東宮時代、大納言藤原(なり)(とき)の娘?子(セイシ)と藤原道長の娘妍子(ケンシ)があり一帝二后(妃)であった。三天皇が即位すると両者とも女御とされ、妍子を中宮(皇后)とされ、2ヶ月遅れて、?子は4皇子・2皇女をもうけていたので皇后とされた。
道長は娘の彰子が一条天皇との間に産んだ第一子敦成親王を皇位につけ、摂政となることを望んでいた。天皇は眼病のためやむをえず敦成親王(のちの後一条天皇)に譲位し、?子の産んだ敦明親王を新帝後一条天皇の皇太子にした
三条上皇病没後、敦明親王は道長の圧迫にたえかね、1年余りで皇太子を辞した。
道長は彰子の産んだ第二子敦良親王(のちの後朱雀天皇)を皇太子とし、敦明親王に十一条院の号を贈った。
陵墓名 (きた)(やまの)(みささぎ)   円墳   火葬塚 京都市北区衣笠鏡石町
所在地 京都市北区衣笠西尊上院町
船岡の西辺岩陰で火葬され、遺骨を北山小寺の中に収めた。この小寺は所在不明で、幕末修陵の際も判明せず、1889年(明治22年)陵が発見され修治された。
御陵は南面する円墳で、周囲を生け垣で囲む。民家に囲まれ、いわゆる北山で、大文字山の東麓に位置し、西方は金閣寺に接する。
「栄華物語木綿四手」に「12日の夜ぞ、御葬送せさせ給う。一条院のおはしましし岩陰にぞおはしましける。…」と三条天皇崩御のことが見える。
?子は1025年(万寿2年)53才で、妍子は1027年(万寿4年)34才で崩じ、両者とも宇治市木幡の宇治陵に葬られている。