第68代 後一條天皇(ごいちじょう)地図
父 … 一条天皇(第二皇子) 母 … 上東門院藤原彰子(藤原道長の娘) 誕生 …1008年(寛弘5年)9.11 御名・異称 … 敦成(アツヒラ) 中宮 … 藤原威子(道長の娘) 立太子 …1011年(寛弘5年)6.13 即位 …1016年(長和5年)1.29 在位年数 …20年 崩御 …1036年(長元9年)4.17 (年齢29才) 皇居 … 平安宮 年号 … 長和・寛仁・治安・万寿・長元 ○ 冷泉統(系)と円融統(系)が迭立し交互に天皇が即位した時代である。 ○ 摂政に藤原道長がなった。 ○ 皇太子は三条天皇の皇子敦明親王であったが辞退され、道長は娘彰子が産んだ敦良親王を皇太子とした。さらに道長の三女威子を後一条天皇の中宮とし、四女嬉子を敦良親王の妃とした。 ○ ちなみに、道長の長女彰子は一条天皇、次女研子は三条天皇、三女威子は後一条天皇の中宮になった。いわゆる「一家立三后」といわれた。 ○ 威子は後一条天皇より15才上であり、二皇女が生まれたが、この二皇女は共に子供を産まず、ここに後一条天皇の血統は絶えることになった。そのため、弟の後朱雀天皇が即位した。 ○ 中央では藤原氏が栄華を極めていたが、地方では世情不安であった。 |
|
陵墓名 … 菩提樹院陵 円墳 所在地 … 京都市左京区吉田神楽岡町 ○ 御陵は荒廃し、元禄検討でも判明せず、考察され現陵に決定された。1864年(元治元年)修治し、後一条天皇火葬所とされた889年(明治2年)あらためて本陵となし、菩提樹院陵と称されるようになった。 ○ 御陵は東面する円墳で、高さ約3m、径約35mの規模であり、南に後冷泉天皇皇后章子内親王菩提樹院陵があり、空濠をめぐらし、土堤と生垣をめぐらしている。 |