第83代 土御門天皇(つちみかど)地図

後鳥羽天皇天皇(第一皇子)
在子(ざいし)(源通親の娘)
実母   藤原範子(藤原範兼の娘)
誕生 …1195年(建久6年)12.
御名・異称 (ため)(ひと)・土佐院・阿波院・行源
中宮 藤原麗子
女院 藤原(みち)()(贈皇太后)
立太子… ――― 
即位 …1198年(建久9年)1.11  在位年数 …12年
崩御 …1231年(寛喜3年)10.11  (年齢37才)
皇居 …平安宮    年号…建久、正治、建仁、元久、建永、承元

後鳥羽天皇には、4才の第一皇子為仁親王、坊門信清の女との間に3才の第二皇子、藤源通親の妻の兄の藤原範季の女との間に2才の第三皇子があった。この三皇子の誰を皇太子にするかで、卜筮により決定する運びとなり、結果第一皇子となった。しかし、第一皇子の外祖父が僧侶である点から非難されたのである。ここで源通親が2、3才の皇太子登極(天皇が即位すること)は不吉であると反論したために第一皇子の為仁親王に決定されたいきさつがある。幼帝ということもあり、事実上後鳥羽上皇の院政が敷かれた。

土御門天皇は性質温厚で情が深いのに対し、父後鳥羽上皇は性格が強いため二人の間で意見が合わず、特に目にかけていた第三皇子の守成親王(順徳天皇)に譲位させた。

土御門天皇は10男9女の子沢山であった。そのほとんどは仏門に入ったが、源通親の長男の通宗の女である典侍通子の子(邦仁王)のみ仏門に入らず、後に四条天皇崩御の後、後嵯峨天皇となっている。

「新古今和歌集」は後鳥羽上皇の勅撰であり、土御門天皇も「続後撰集」等の勅撰集を残した。新三十六人撰の一人であり、一流歌人であった。

一方鎌倉幕府では、頼朝が没し、頼家が跡を継いだが、まもなく北条時政以下13名の御家人による合議政治が開始された。承久の乱(1221年)では、土御門天皇は討幕計画に関与していなかったことから、乱後幕府が後鳥羽・順徳両上皇を配流したが、罪に問われることはなかった。しかし土御門上皇はこれを潔しとせず、自らの意志で幕府に申し出て、土佐国へ下った。その後、阿波国へ還った。

陵墓名 金原(かねがばらの)(みささぎ)   八角形・空堀   火葬塚…徳島県鳴門市大麻町池の谷字大石

所在地 京都府長岡京市金原金原寺

火葬後、御骨は京都の西山金原の御堂に奉安された。金原の御堂が朽廃し、所在不明になったが、元禄検討以降に御堂跡が判明、金原陵とされた。

 南面する八角形で雑木が密生する。空濠をめぐらし、1863年(文久3年)9月修治された。