第95代 花園天皇(はなぞの)地図

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伏見天皇(第三皇子)
顕親門院藤季子(きし)(左大臣洞院(さね)()の娘)
誕生 …1297年(永仁5年)7.25
御名・異称 (とみ)(ひと)・遍行
女院 正親町実子
立太子 …1301年(正安3年)8.24
即位 …1308年(徳治3年)11.16
在位年数 …10年
崩御 …1348年(貞和4年)11.11(年齢52才)
皇居 …平安宮
年号 (とく)()延慶(えんぎょう)(おう)(ちょう)正和(しょうわ)(ふん)(ほう)
持明院統と大覚寺統の抗争が著しく、幕府のとりなしで、1317年(文保元年)両統迭立協約が成立する。いわゆる「文保の御相談」である。
大覚寺統の後宇多天皇の皇子尊治親王は9才年上であった。文保2年に譲位した。
好学より学者天皇として名高い。「花園天皇宸記」を残している。
1335年(建武2年)落飾して遍行と号した。
後伏見天皇の皇子量仁親王(北朝光厳天皇)の叔父にあたり、養育に心血を注いで、皇子を誡める書を贈った。この後南北朝の抗争がはじまった。
陵墓名 (じゅう)(らく)(いんの)(うえの)(みささぎ)  円墳
所在地 京都市東山区粟田口三条坊町
梓宮(シキュウ)を花園寺に移し、十樂院の上の山で火葬され、拾骨もなくその火葬場に盛土して御陵を造営した。今はないが、おそらく塔婆を立てていたと思われる。
御陵は青蓮院の裏山に立地し、西面する円墳で、高さ1.5mで、八角形に石柵が組まれている。正面には石門を構築している。
十樂院は安元年間(1175〜1176)の頃、後白河天皇の女御の建春門院滋子が、父平時信の冥福を祈るため造られ、青蓮院に属していたが、のち廃絶して今はない。さらに所在も不明となった。
幕末に現陵と確認され、1864年(元治元年)修治された。初めは十樂院上山陵と称されていた。