六波羅蜜寺地図

本堂
 六波羅蜜寺(真言宗)は空也が六原に西光寺を建てたことに始まる。

 951(天暦5)年,京に悪疫が 流行したとき,村上天皇は当時「市の聖」として

尊敬されていた空也に悪疫 退散の勅を下した。空也は高さ1丈(約 3m)の

十一面観音像をつくり,車に安置して市中を回り, 背竹を八葉のハス
の花のように割り, 茶をたてて小梅 干と結昆布(むすびこんぶ)を入れ

茶を病人に飲ませ, 歓喜勇躍(かんきゆうやく)しつつ念 仏を唱えて病魔を退散させ

たという。のち十数年かけて大般若経を書写し,963 (応和3)に

完成して鴨川原で大供養を行い,大方灯会を行った。 


   
 空也上人立像(重文) 弁財天
 口から六体の阿弥陀様がある空也上人像(重文)は、鎌倉時代に、仏師運慶の四男・康勝(こうしょう)によって作られた。
 上人は「南無阿弥陀仏」と唱えたその一音一音が、六体の阿弥陀様の姿になったという伝説をあらわしたもの。
 13世紀初め。像高117.6cm、木造、康勝(運慶の4男)の作。
 六波羅は平家の拠点であった。当時は5200もの平家の館があった。
 空也上人(903〜72)の肖像について、左手に鹿の角をつけた杖を持ち、胸につるした鉦(かね)を撞木(しゅもく)で
打ちながら「南無阿弥陀仏」と唱えて歩いた旅姿を写実的に表している。
 空也は諸国を行脚して30代後半に京都にはいった。念仏を勤めながら道を整備したり、遺棄された遺体を火葬したり
するなど社会事業にも努めたため、「阿弥陀聖」「市聖」と夜ばれて尊敬された。
 後半生は造仏や写経などで貴族層にも布教を広げ、六波羅密寺の前身の西光寺を開いた。
 貞治2年(1363)修築の本堂はじめ、空也上人、十一面観世音、弘法大師、平清盛、地蔵菩薩、薬師如来
など藤原・鎌倉期の仏像が数多くあり、いずれも重文。
   
 平清盛公の塚   平清盛公の塚
 平氏一族が邸宅をかまえていた付近に建立されて

いる六波羅蜜寺。

   
道元禅師 
 天暦5年(951)、疫病平癒のため空也上人により開創された真言宗智山派の寺院で、
西国33ヶ所観音霊場の第17番札所として古くから信仰を集めている。空也上人の自刻
とつたえられる十一面観音立像(国宝)を本尊とする。
 空也上人醍醐天皇の第二皇子で、若くして出家し、歓喜踊躍(かんきゆやく)しつつ
念仏を唱えたことで知られ、今に伝わる六斎(ろくさい)念仏の始祖である。
 往時は寺域も広く、平家の邸館や鎌倉幕府の探題が置かれるなど、源平盛衰の史跡の
中心でもある。
宝物館には定朝の作といわれる地蔵菩薩立像のほか、空也上人立像、平清盛座像、長快
(ちょうかい)作の弘法大師像など数多くの重要文化財を安置し、境内の十輪院が仏師運慶
一族の菩提寺であったことから、本尊の脇に祀られていたという運慶・湛慶(たんけい)座像
も所蔵している。
 年中行事として、正月三が日の皇服茶(おうぷくちゃ)、8月の萬燈会(まんとうえ)、かくれ
念仏として知られる12月の空也踊躍念仏(国の重要無形民族文化財)が有名である。

 鴨川の東、松原通から五条・七条に及ぶ六原一帯は、鎌倉幕府の出先

機関であった六波羅政庁のあったところである。

 六波羅政庁は承久の乱によって京都に攻め上ってきた北修時房・泰時

が、そのまま京都にとどまり、乱後の処理にあたったのが起こりで、は

じめは六波羅守護と称した。その後は京都朝廷の監視と反幕分子の取り

締りや市中の警備にあたり、また近畿・西国における幕府の政務をとり

あつかった。その長を探題と称し、北条一族の中の有力者二名をもって

任じた。

 この政庁は南北二ヶ所からなっていて、北方庁は六波羅の西北部、北

御門町 (松原通大和大路西入ル下ル)の地といわれ、北門があった。. 

六波羅蜜寺
   
 
 文楽では、【阿古屋琴責の段】 の段は三段目の口に当たり、

元々はその後の物語の冒頭となる場面でしたが、独立した一段
とし
て上演されるようになり、今では大曲の一つとされています。

 景清探索の詮議に当たる重忠と岩永は、一方は爽やかさの中
に秘
めた深謀を持つ人物で、他方はユーモラスでありながらも
短慮な
人物というように対照をなしており、これに対峙する阿古屋
は五条
坂きっての傾城です。

 阿古屋はまず箏曲組歌『菜蕗(ふき)の琴の調べに乗せ、景清
の行方を
知らないと返答します。次に、阿古屋は景清との馴れ初
めを語り
『班女』の一節を三味線で唄いつつ、源平の合戦の後、
景清に逢え
ぬ寂しさを切々と語ります。そして、哀切な胡弓の
『相の山』
の巣籠』を奏で、高まる夫への想いとその行方を知ら
ぬ身の潔白を
訴えます。床で奏でる三曲の美しい響きに乗せ、
阿古屋の人形がま
るで楽器を弾きこなすかのように見せる耳目
ともに美しい一段です。続き 

阿古屋琴責の段続き(壇浦兜軍記より)⇒⇒⇒