第17代 履中天皇 (りちゅう)地図

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仁徳天皇(第一皇子)
磐之姫尊
誕生━━
御名・異称大兄(おおえの)(いざ)穂別(ほわけ)  大兄⇒⇒⇒
皇后草香幡梭(くさかのはたひ)皇女  皇妃黒姫
立太子…343年(仁徳天皇311.15
即位…400年(履中天皇元年)2.1  在位年数…5
崩御…405年(履中天皇6年)3.15  年令━━
皇居磐余稚(いわれわか)(ざくら)  年号━━
○長く続いた末子相続は仁徳天皇によって中断され、仁徳天皇の長子である履中天皇の即位によって、長子相続が確立された。

(みず)()(わけ)皇子(反正天皇)を皇太子に立て、磐余に都を遷し、平群木菟宿禰、蘇我満智宿禰、物部伊筥(もののべいこ)()大連、円(豆夫羅)大便(おお)()等が協力して、国政を執ったと見える。円大便主は葛城
襲津彦の孫で、ここに平群、蘇我、葛城の武内宿禰系氏族と物部氏の大豪族による政治への関与が、初めて示された。

○淡路島に狩りしたとき、河内飼部(うまかい)が馬の口をとってお供した。飼部(うまかい)の入れ墨が消えないまま出かけたところ、淡路島の伊弉諾(いざなぎ)神の神宮が血がくさくて困ると言ったのでこの後は入れ墨をしなくなったとあり、当時かなり入れ墨の風習があったようである。

陵墓()()()(みみ)(はらの)(みなみの)陵(石津丘古墳)  前方後円墳
所在地大阪府堺市石津ヶ丘
○御陵は南面する巨大前方後円墳で段丘端部を利用して造営する。全長360m、後円部径205m、高さ18.6m、前方部幅237m、高さ15.3mの規模で、西側くびれ部に造り出しを付加する。葺石・埴輪も顕著に認められ、仁徳(大山)、応神陵(誉田御廟山こんだごびょう)に次ぐ全国第3位の規模を誇っている。数基の陪墳もあり、三段築成、二重濠周庭帯もある大王墓である。

 一重濠(ほり)の水が夏には淡い緑になり、冬は濃い青に変わると言われている。
 記紀や延喜式に記す百舌鳥耳原三稜(第16代仁徳・第17代履中・第18代反正)の内の一つ。
○陪墳の七観山古墳から、三角板帯綴式、同鋲留式の短甲や衝角付冑も多数出土し、埋葬施設のない陪墳とされる。出土埴輪の編年等から五世紀前半代に比定でき、在位時期と考古学的編年観とは矛盾しない。

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履中天皇と墨江の中つ王
―大和の漢(あや)氏、多治比部などの伝承の物語―
 墨江の中つ王が大殿に火をつけたので大和に逃げる・・・
 その隼人の飲む時に大きな椀が顔を覆いました。
そこで座の下にお置きになった大刀をを取りだして、
その隼人の首をお斬りになりました。
かようにして明くる日に上がっておいでになりました。よってそこを近つ飛鳥と名づけます。
大和に上がっておいでになって仰せますには、
今日はここに留まって祓いをして、明日出て神宮に参拝しましょう。
と仰せられましたそこでそこを遠つ飛鳥と名づけました。
かくて石の上の神宮に参って、天皇にすべて
平定し終わって参りました。と奏上致しました。
墨江中王
(すみのえのなかつみこ)   
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