太安万侶墓地図

   
太安万侶神坐像 太安万侶墓誌(重文) 
 
室町前期の木像
多坐弥志理都比古神社(おおにいますみしりつひこ) 
銅板に、居住地や位階勲等、
没年など41文字が刻まれている。

太安万侶   おおのやすまろ  多神社
古事記
太安万侶墓
賣太神社
元正天皇
書紀の編纂
古事記の成立
謎が多い光仁天皇陵 
太安万侶墓誌
 厚さ1mmの薄い銅板を短冊形に切り、表側に鏨彫り(たがねぼ)りで銘文がが打ち刻まれている。
「左京四條四位坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥
年七月六日卒之 養老七年十二月十五乙巳」
 銘文は2行のみ。裏面に銘文はなく、表面から打ち込んだ文字が浮き出ている。
 墓誌とは、故人の姓名や位階、業績、没年を石や金属に刻んで墓に納めたもの。日本では7世紀末
から8世紀の墓誌が16点現存する。
 もはや古墳を造る時代ではなく中級貴族といえども墓は簡素である。それでも古墳時代の木棺と
同じコウヤマキ材が使われ、骨を納めた木柩の中には貴重な天然真珠が4点あった。火を受けて
おらず、火葬後に添えたらしい。(墓誌、真珠とも重文)
田原塚ノ本古墳 飛鳥の古墳 太安万侶
時に舎人ありき   遅咲きの天皇「光仁天皇」    
 1979年1月、奈良市東郊の茶畑から一基の火葬墓が見つかり、埋納されていた銅板の墓誌から、安万侶の墓であることが分かった。
墓からは、安万侶本人とみられる熟年男性の火葬骨も見つかっている。
 墓誌の記載から、太安万侶は平城京の左京四条四坊(現在のJR奈良駅の西側)に住んでいた。
 太氏は多氏とも記され、本拠地は今の田原本町多付近。
太安万侶
 古事記の編者。奈良時代の文官で、父は壬申の乱で功績があった多品治(おおのほんち)とされる。1979年1月、奈良市此瀬町
の茶畑で墓が見つかり、埋葬されていた墓誌から平城京左京四条四坊に住み、官位は従四位下勲五等、命日は7月6日と分かった。
出土した遺骨は近くの寺に供養されたが、今年(2012年)7月、かって安万侶の墓と伝承があった多神社近くの塚に分骨を納める
計画が進む。
 古代氏族である太(多)氏の本拠地は、田原本多周辺と考えられている。この地には現在も、多神社が所在する。
 多氏の先祖とされる神八井耳命(かむやゐみみのみこと)、皇位を弟の綏靖天皇に譲って祭りを司ったことが「古事記
に記される。
 飛鳥と斑鳩を結ぶ太子道(筋違道)が通る。
 藤原京の時代は、役人は都の中に国から宅地が支給されるが、従来の住まいも所有しており、ここから通勤する場合もあった。
多の地から藤原京まで約4km、平城京の南端から平城京までも4kmであるから、役人としても安万呂も通えない距離ではなかった。
 都が平城京に移り、「古事記」を完成させた安万呂は、氏長となり養老7年(723)に従四位下・民部卿として亡くなる。
 出土した墓誌からは、平城京左京四条四坊に住まいしたことが知れる。
   
太安万侶墓 

 

古事記 安田靫彦やすだゆきひこ・1884-1978)昭和21年(1946)
 稗田阿礼が語る古い記録や神話を太安万侶が筆記し

ている様子を、端正な筆致で描いている。燭台の脇の

机に置かれている硯は風字硯(「風」の漢字に似た形

の陶硯。奈良時代後半によく使われていた)だろうか。

安田靫彦は、明治後期から

昭和にかけて活躍した日本画家。歴史的な題材を多く

とり上げ、「古事記』に登場する神や人物も描いた。