飛鳥寺首塚地図

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飛鳥寺本堂,正式寺名は鳥形山安居院(あんごいん) 釈迦如来坐像(飛鳥大仏)(重文)
本尊 釈迦如来坐像(飛鳥大仏) 飛鳥大仏について⇒⇒⇒
銅製
像高 275.2cm
開基 蘇我馬子が建立したわが国初の大寺院。
鳥形山 真言宗豊山派(古代の寺院には山号はなく、後になって付けられた山号である。) 
飛鳥大仏として知られる本尊銅製釈迦如来坐像は推古6年(606)4月に「銅(あかがね)・繍(ぬいもの)二躰の丈六仏」が完成。
本堂本尊の安置により、飛鳥寺は名実ともに完成した。
飛鳥寺略縁起
 崇峻天皇元年(588)蘇我馬子が創立した日本最初の本格的寺院であり、
寺名を法興寺、元興寺、法満寺、飛鳥寺(現在は安居院)とも呼んだ。
(法興・元興共に日本で最初に仏教が興隆したという意味)
 本尊飛鳥大仏(釈迦如来)は推古天皇13年(605)天皇が詔して鞍作鳥仏師(止利仏師)に造らせた日本最古の仏像である。
高さは約3mで、当時銅15トン、黄金30kgを用いて造られた。
 旧伽藍は仁和3年(887)と建久7年(1196)に焼失し、室町以降は荒廃したが寛永9年(1632)と
文政9年(1826)に再建され今日に至っている。
 鎌倉時代の火事で壊れ、当初のままなのは顔の一部と右手だけとされてきたが、大部分が飛鳥時代造立時のものと
判断できると研究結果がある。(早稲田大学研究チーム)
 現在は真言宗豊山把に属し、新西国第9番、聖徳太子第11番の霊場でもある。
 元興寺に保管されていた建材の年輪の調査で、588年直後の伐採と判明。
 奈良市内にある元興寺塔跡及び元興寺極楽坊は飛鳥寺(法興寺)が平城に移ったものである。
これに対して、飛鳥寺は本元興寺(もとがんこうじ)と称される。
現在の本堂(今の安居院)は、江戸時代に中金堂跡に建てられた。しかし、本尊の釈迦如来坐像(重文 飛鳥大仏)は、
創建時の位置に鎮座している。
 推古天皇13年(605)に飛鳥寺は蘇我馬子(?〜626)によって建立された日本最古の豊浦寺と並ぶ蘇我氏の氏寺で、
(飛鳥寺と豊寺は、僧寺・尼寺がセットで建立された。他には聖徳太子が建立した法隆寺中宮寺の2例だけ。)
三つの金堂や五重の塔が並ぶ壮麗な伽藍が配置されており、
飛鳥寺式と呼ばれるようになった。また、本格寺院私寺。
 その後に建立された大阪の四天王寺(日本最古の官寺、)や再建の法隆寺伽藍より大きく、
当時の蘇我氏の勢力が窺がわれる。
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飛鳥・白鳳 僧寺と尼寺 法隆寺の謎
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飛鳥の歴史 調査と保護の歩み 飛鳥時代の都市計画  甘樫丘から 和田萃 
天武天皇の時代には大官大寺川原寺(本)薬師寺と並ぶ「四大官寺」に指定されて、朝廷の保護を受けるようになった。
 安居院は飛鳥寺に当初建立された。東西両金堂を含めて三つあった金堂の内、最初に建てられた中金堂である。
その本尊丈六の釈迦如来坐像は飛鳥大仏と称させられて有名である。
わが国の現存最古の仏像で606または609年。高さ2.75mの銅像。杏仁形の目はアルカイックスイルといわれ、
法隆寺の釈迦三尊などと共通する。作者は鞍作鳥(くらつくりのとり=止利仏師)である。
本像は建久七年(1196)の雷火で焼失し大きな損傷を受け現在では、額と目のあたり、
右手中央三指のみが当初の姿を保っている。
 向って左から見ると優しい顔といわれている。

蘇我馬子
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四天王寺創建の由来  和田廃寺跡     

 昭和三十一年から継続的な発掘調査の結果、塔を中心に三方に金堂を置き、その外側に回廊をめぐらし、さらに北側に講堂、南側に中門、南大門の跡があり、壮大な伽藍であることが判明した。寺域は、南北290m、東西200〜250mの規模をもち、飛鳥では大官大寺とともに最大規模の寺院であった。
 この伽藍配置は、多くの影響にあった百済には存在せず高句麗の古都平壌にある清岩里廃寺・上五里廃寺・定陵寺に見られる。
伽藍配置比較⇒⇒⇒
 1塔3金堂の高句麗式の伽藍や聖徳太子の師の高句麗僧・恵慈が入ったとされるこから、寺は高句麗系と見られていた。ところが瓦の詳しい分析や
韓国・中国での調査・研究も進み、今では百済や中国南朝の影響の方が高句麗より濃厚だとの見解が強い。
  飛鳥寺は崇峻元年(588)馬子が政敵の物部守屋を滅ぼして絶大の権力を握る。(蘇我氏と物部氏は、仏教対神道の勢力争いのトップ氏族として競い合い、聖徳太子を味方に付けた蘇我氏が勝利)その戦勝を記念して飛鳥盆地の真ん中につくり始められた日本最古のお寺を建立する(建立発願は蘇我馬子)。飛鳥時代の幕開けを告げる大記念物と言えるものであった。
 大化の改新のきっかけとなった中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足の出会いの蹴鞠の会はこの寺の庭で行われたされている。また、皮肉にも、打倒蘇我氏のために結集した本拠地はこの寺に置かれた。蘇我氏は滅び飛鳥寺は残った。その後、2度の落雷火災により本堂は焼失、現在残っている建物は江戸時代に再建された講堂だけである。推古天皇時代に造られた本尊、飛鳥大仏は今に残る。
 日本初の本格的伽藍を持つ仏教寺で、塔を中心に、その北と東西に三つの金堂がたっていた。
 北の中金堂にあった鞍作止利(くらつくりのとり)が制作したといわれる、丈六金銅仏(釈迦如来坐像)飛鳥大仏は、いまもその位置を動いていない。
 蘇我氏の氏寺という意味だけでなく、わが国最初の本格的な伽藍寺院として、文化的にも歴史的にもおおきな画期をつくりだした。 
 日本書紀によれば崇峻天皇元年(588)に蘇我馬子は法興寺を建立することを計画、同五年に仏堂(金堂)・歩廊(回廊)が完成、推古天皇元年(593)には塔を起工し、同四年には一応の建物が完成したようである。同十三年には丈六仏像を造り、翌十四年に安置したとある。日本最古の本格的な寺院で、その造営に際して多くの博士・工人が朝鮮半島から渡来して当たったことが記されている。 
 大化改新や天皇の病気平癒など飛鳥時代を通じて飛鳥における中心的な役割を果たした。
 577年11月に百済王から技術者が日本に送られ、588年に仏舎利が届いて造営を開始した。
 仏教は6世紀半ばまでに日本に伝わったとされる。本格的に受容されるのは飛鳥寺の段階からだが、建物は鎌倉時代に焼失、仏舎利の行方も分からない。
 以前から日本に渡来していた朝鮮系の人々を駆使して、いまだかって飛鳥びとの目に触れたことのない大陸様の寺院、
しかも百済・新羅にも例のない1塔3金堂形式の荘麗な大伽藍は、蘇我氏と馬子の財力と実力のほどを、
いやおうなく飛鳥の貴族と庶民にみせつけるものであったし、逆に天皇家にとっては蘇我氏に対する恐怖感をかきたてる種になった。
 皇極4年(645)6月12日、中大兄皇子が飛鳥板蓋宮の大殿で蘇我入鹿を暗殺したあと、ただちに飛鳥寺に入って防衛を固めた。
このことは、蘇我氏の権力と財力の象徴であった飛鳥寺を抑えられたことで、クーデターの成功を意味する。 
 西門は礎石をおいて柱を建てた瓦葺きの門。
間口3間11.5m、奥行2間5.5mの規模だった。
門の西には塀があり、土管をつないだ上水道が埋まっていた。
寺の西に、飛鳥の檜舞台、「槻(つき・ケヤキの古名)の木の広場」があったからだ。
 中大兄皇子と藤原鎌足はこの蹴鞠(けまり)の場で皇極天皇三年(644)に出会う。
中大兄皇子19歳、鎌足32歳であった。
 翌年の645年に、古代史上最大のクーデター大化改新をなしとげた。
この時、二人は飛鳥寺に陣をかまえ、西門から甘橿(樫)丘の蘇我入鹿・蝦夷の
館をにらんでいた。
 槻の木の広場⇒⇒⇒
 672年の壬申乱の時には軍隊がうめつくした。
 その後は、外国使節や遠方の使者を歓迎する宴会の場所となり、
噴水がおかれ、歌や踊りが満ちあふれた。
 西門はそんな歴史をみまもってきた。 
 飛鳥中心部を取り囲む丘陵部での防衛用柵列も判明している。
日本書紀が記しているような、防衛施設としても活用された姿も浮き彫りになり
つつある。
 中大兄皇子と中臣鎌足が蹴鞠を通じて初めて出会った「槻の木の広場」とされる飛鳥寺
西方遺跡で、7世紀後半とみられる1棟の建物跡が見つかっている。
 斉明天皇の時代以降、東北地方の蝦夷や南九州の隼人ら辺境とされた地域の人々
や外国人を招いて宴会を催した。
 寛政四年(1792)のもので、当時すでに「飛鳥大仏」と呼ばれていたことがわかる。 金堂礎石
 都が平城京へ移るとともに法興寺も現在の奈良市に移転し、元興寺となったが、飛鳥の旧寺は本元興寺と呼ばれた。
中世に焼失、江戸時代に再興され、いまは安居院(あんごいん)と呼ばれている堂と庫裏、鐘楼を残す。
昭和三十三年の新鋳。
美術文様は古式を採用、音響は美しい余韻、
1分20秒を残す。
観世音菩薩思惟殿
 我が国最初の本格的寺院、飛鳥寺の造営は、百済から渡ってきた寺工、鈩盤博士(ろばん)、瓦博士 、画工らが主体になった。
推古14年(606)に完成した寺の本尊を堂内に入れたのは、渡来系の仏師、鞍作鳥(くらつくりのとり・止利仏師)であった。
於美阿志神社⇒⇒⇒
 寺に安置されている日本最古の金銅仏、飛鳥大仏は銅の分析の結果、仏身の80%は鋳造当初のままと分かった。
火災などに伴う後世の修理で補った部分は予想より少なく、可なり原形をとどめている可能性が高い。


蹴鞠

白峯神宮  下鴨神社  猿田彦 
蘇我氏の没落  聖徳太子の皇子はなぜ殺されたか  談山神社 
槻の木の広場  文武天皇  天智天皇 
蘇我氏の首塚  京都御所  後嵯峨天皇 
後冷泉天皇 年中行事  蹴鞠



五輪塔を首塚または胴塚ともいう。首塚⇒⇒⇒
入鹿の祖父が建立した飛鳥寺を望む。