唐古遺跡地図

   
2000年前の楼閣の描かれた土器片と復元された楼閣 
   
2200年前に建っていた大型建物跡と唐古池 
 

 この場所は、弥生時代前期以来の谷地形が徐々に埋没して
後期頃までくぼ地となっていました。このくぼ地は大量の土器と

ともに埋没しているのですが、その中から全長5.3 cmのヒスイ

製勾玉が出土しました。新潟県南部の姫川流域でとれたヒスイ

原石を加工したもので、 弥生時代最大級です。 

「唐古·鍵遺跡」

 唐古·鍵遺跡が存在したのは、弥生時代、山の辺の古墳群が作られた直

前の時期と考えられている。弥生時代は紀元前4~5世紀から2~3世紀

にわたる農耕中心の時代で、その遺跡は県内で400程ある。大半は盆地

の東南部に多く存在する。唐古·鍵遺跡はその一つで、ほぼ弥生時代全期

に存在した大型の拠点集落の一つであった。

 集落の構造は、東西600メートル南北700メートルの規模で住居跡

や方形の周溝墓もあり、村の周りに多重の環濠が巡らされていた。環濠の

もつ意味は、低地帯の為の洪水対策、交通手段(運河)、敵からの防御、

或いは村の共同体意識を高めるためなどが考えられている。微高地には高

床式の最も古い建物とされる棟持柱(むなもちばしら)で支えた総柱建物は
生活空間のない
(遺物が出てこない事から)場所に建てられていたようだ。
微高地の中で
も神聖な場所やそうでない場所の住み分けがされていたと
想定される。

 出土した絵画土器には寄棟造りの大型建物に加えて、楼閣の高層建築物

が描かれている。場面をイメージして描かれたものだとすると今後の発掘

で楼閣の建物が出てくることも考えられる。石製の銅鐸の鋳型や土型銅鐸

鋳型外枠も出土している。これら銅鐸の制作場所が公害や火災を予防する

などを考慮した場所にあり、すでに都市計画的なことがなされていたよう

だ。青銅の原料を持ち込むことができ、その鋳造を専属にする高い技術の

銅鐸製造集団を抱えていることからも、唐古·鍵はかなり力を持っている

集落であったといえよう。さらにヒスイ勾玉の褐鉄鉱容器が出土している。

一部が欠け、ヒスイ大型勾玉2個と土器片が詰められていた。

この褐鉄鉱は中空で良質の粘土を核として周囲に鉄分が凝結し、その
粘土が収縮することにより
生成されるもので、中の粘土は中国では
「禹余糧(うよりょう)」と呼ばれ、
薬として用いられた。道教の中に「殻の中
の粘土を食すると不
老不死になる」という教えがある。実際、奈良の正倉院
の「種々
薬帳」の中には薬として保存されている。つまり、唐古の弥生人が
中国の道教を知っていて埋納した可能
性が考えられるのである。楼閣の建物
をはじめ、道教の思想などの精神的
なものまで中国のものを取り入れていた
集落であったのではないか。集落
が地域の中心というばかりでなく、中国大陸
と交流していたことも推測さ
れる。

 唐古·鍵の集落が近畿と大陸とを結んでいた集落であり、やがて、

時代、奈良時代へと繋ぐ役割も果たしていたのではないか。

 いずれにせよ、唐古·鍵遺跡は大和政権の生まれる直前の時代の遺跡と

いうことができよう。
黒田大塚古墳⇒⇒⇒


  

  山の辺文化会議 文化講座(第28号:平成19年度) 
   田原本町教育委員会課長補佐藤
田三郎

唐古·鍵遺跡*所在地 田原本町大字唐古及び鍵

 唐古·鍵遺跡は奈良盆地のほぼ中央、寺川と初瀬川に挟まれた沖積地に立地する弥生時代の
大集落遺跡です。1936-7年、末永雅雄博士らによって唐古池の第1次発掘調査がおこなわれました。
この調査で出土した木製品や炭化米など様々な遺物は、弥生時代の総合的な認識をもたらし、
学史的に著名な遺跡となっています。遺跡は、標高50mの水田下に弥生時代の遺物包含層があり、
弥生時代前期から古墳時代前期にいたる約700年間の遺構遺物が保存されています。
環濠に囲まれた遺跡の面積は約30万㎡で、弥生時代で最も大きい集落の一つです。集落内部では、
高床・堅穴住居、木器貯蔵穴や井戸などの遺構が検出されています。また、出土遺物では、 土器、
石器、 木器など弥生時代にみられる各種遺物があります。特に重要な遺物として銅鐸の鋳型など

の鋳造関係遺物や桜閣の描かれた土器があります。

  動画    唐古・鍵遺跡⇒⇒⇒
全動画⇒⇒⇒ 



鏡作坐天照御魂神社地図

     

○ 鏡作神社(鏡作座天照御魂神社)

創建は第10代崇神天皇の御代三種の神器の内の「八咫鏡」を鋳造せる神々の祖を祀る神社で延喜式内大社である。
郷中は17自治会。 

鏡作座 天照御魂神社 田原本町大字八尾字ドウズ

旧郷社
祭神 天照国照彦火明命・石凝姥命・天児屋根命

近在に宮古・鏡作伊多神社、保津・鏡作伊多神社、小阪・鏡作麻気神社、

石見・鏡作神社があり、これら所在地は「和名抄」 の鏡作郷。


延喜式神名帳 「城下郡の項に「鏡作坐天照御魂神社 大月次、新嘗」

文献初出    天平二年(720)大倭国主税帳(正倉院文書)二十五束

          大同元年(806)大和国で二戸、伊豆国で十六戸神封「新抄格勅符抄」

          貞観元年(859)従五位下より従五位上に昇位 「三代実録」

          神主 主水直の家に伝える「阿可理薬」の事が記載。「大同類聚方」

          天保年間(1830-44) 社前の拍犬を大坂の鏡屋中が奉納

                   「在八尾村与宮古、但馬、黑田、岩見、今里、西代、

                   新町村共預祭祀、社傍有鏡池池今乾涸」と

                                           「大和誌」

      

古代の鏡

 延喜式内大社である鏡作神社には、 唐草文帯三神二獣鏡が神宝として祀られている。社伝では崇神天皇が内侍

所の神璽の鏡を鋳造させた時の試鋳の鏡を御神体として祀っているとある。実際に伝わる鏡は三角縁神獣鏡の外

区の欠落したもので、中国製の鏡と考えられている。 この地を本貫とする鏡作氏は、古くから鏡鋳造をおこなっ

ていたと伝えられる。江戸時代には、鏡職人が境内の鏡池で鏡を洗い清めたといい、 現在でも全国の鏡業者の信

仰を集めている。なお、神社の北側500mにある唐古鍵遺跡では、青銅器の鋳造関連遺物が多く出土しており

古代の鋳造集団との関連も注目される。   

鏡作坐天照御魂神社 鏡石について

 この鏡石は江户時代に前の鏡池より出土したもので古代の「鏡」製作時、近辺の鏡作娜より粗鏡の仕上げ即ち
鏡面の研磨工程時使用された用具と推察される。

 鑄造面を「鏡面」への研磨時、この鏡石の凹面に 粗鏡を固定し上方ら水を流し乍ら、二上山の麓より採取した
金剛砂等で、「平面加工」や「鏡面加工」を施した時の用具かと老察 される。

  文 堀内篤夫 

御鏡(內行花文八葉鏡)

 拝殿にございます御鏡は、国内で発掘された最大の館(国宝・一説に八咫鏡とされる)が、
素材・大きさ・裝飾に至るよで、完全に再現されたものでございます。

 鏡作大明神のもとに復活した御鏡の御前にて、御参拝下さい。

     鋳造 上田合金株式会杜 故上田富雄氏

     

田原本町 町·村の歴史 大字 八尾

 当「八尾村」は古道「下ツ道」 中世の 「中街道」沿いにあり、 街道沿いを常盤町、 そ

の西の集落を本村と謂ひ、その全体を八尾村と称した。 古文書には、「八百村」と記し

たのもあるが、近世は八尾村と記す。 本村は農業を主体とした村落、 常盤町は医師や

職人、酒造等商業を主体とした集落で双方一体して八尾村が構成され、 江戸時代は

大和郡山藩に属して居た。

 村の西には約90町歩の田畑を擁し、今の近鉄田原本線の西側まで八尾領である。 そ

の為、近辺では最大の溜池を擁し、田畑を潤していたが戦後、土地開発の波に乗り、

その多くが市街化し住宅が建ち、 西八尾や南八尾等、五つの自治会が設立され、 八尾

から分離独立して貰っている。

 古文書に拠れば、 昔、 八尾村は戸数170戸 人口760人程だったが、 現在八尾自治

会だけでも650戸、 外の八尾領内の五自治会を合わせると約1500戸近くになる。 尚、 隣

の新町村は元和年間に八尾村よりの分村とある。  

   
  動画    鏡作坐天照御魂神社⇒⇒⇒
全動画⇒⇒⇒ 





安養寺地図 

     

法性山 専求院 安養寺 (ほうしょうざんせんぐういんあんよう)

 寛永10年(1633)の創立。名僧行基の開山。寺川の東側にあったが、洪水のため、
江戸時代中頃現在の位置に移されたと伝えられている。寺内には名匠快慶作
阿弥陀如来立像「建仁年間」(重文)が安置されている。境内には約400年前天文2年

(1533)銘の石仏もあって古くから由緒をもっている。 

 安養寺の沿革
 当寺は寛永十年(1633) に源蓮社宝誉上人の
開祖で山門を入って正面に本堂 (宝永三年· 1706)、右手に地蔵堂 (享保十七年.1733)、
左手前に鐘楼、左奥に庫裏があり、 寺地北が墓地となっている。
安養寺本尊は阿弥陀如来坐像 (安土桃山時代)で本尊とは別に鎌倉時代 前期国重文
阿弥陀如来立像客仏が秘仏本尊として祀られて来て、 当寺と寺川を挟んだ東側に在った
廃浄国寺の仏像と伝えられる。
     
 安養寺(浄土宗)創建は寛永年間国の重要文化財の快慶作 「阿弥陀如来立像」は有名である。
 





 二階堂地蔵堂 膳夫寺跡跡 地図

   
 二階堂地蔵堂 膳夫寺跡跡

 ごの地蔵堂の前を通る南北の道路は下道、現在、中街道と呼ば呼ばれている。
ここから東へ延びる道は、布留街道、現在市道一号線で、この東百m程のところ
に布留社(石上神宮)の一の鳥居があった。ここは古代からの交通の要衝として
発達した。

 この付近に膳夫寺があった。この寺の堂が、二階造りに似ているところから
二階堂と名づけられたと伝わる。今も二階堂,二階堂下、二階堂筋 の小字名を
留めている。