西宮古墳地図
(にしのみや)

     
 

史跡 西宮古墳昭和三一年八月七日指定

 この古墳は、廿日山丘陵(はつかやま)の南端に築かれた三段築成の方形墳

ある。墳丘は一辺約三六mの正方形で墳丘高は正面で七·二m以上あり、本来の
高さは約八mと思われる。墳丘斜面は約三五度の勾配で、墳丘全体と東側周溝
底には貼石が施されている。

 墳丘の東西と北側は台形状に大きく掘削され周溝をめぐらせている。
横穴式石室は南に開口し、玄室は墳丘中央部に位置する。

石室は切石を用いた精美なもので平群町越木塚で産出する石材によって築かれ、
石室床面は墳丘二段目のテラス面に合わせている。

石室の全長は約一四mで玄室の長さ約三.六m、幅·高さが約一 ·八mである。

 石室内部に収められた刳抜式の家形石棺は棺蓋が失われ棺身のみであるが
兵庫県産の竜山石で製作されたものである。石棺の長さは二二四㎝、幅一一五㎝、
高さ七六㎝である。石室前方の墓道より須恵器の杯蓋,高坏片が出土している。
七世紀の中頃から後半の築造と考えられ、平群谷を代表する終末期の古墳として
重要である。

 平成十一年十一月 奈良県教育委員会

 被葬者として、大化改新に際し東国の国司として派遣された平群臣や、聖徳太子の

長子「山背大兄王」などの名が挙げられている。 

悲劇の皇子たち  烏土古墳   
     
     

   








三里古墳地図
(みさと)

     
   
本墳は、石棚のある特異な横穴式石室をもつ古

墳で、墳丘は原形がそこなわれているが、全長約

四〇mの北向きの前方後円墳の可能性も考えらて

ている。外部施設としては葺石があるが埴輪はみ

られない。昭和五〇年に横穴式石室の発掘調査が

実施された。石室は南西に開口する両袖式で、天

并石や側壁の大半を失っている。玄室の長さ四.六

m、幅二..四m、高さ約三m、羨道の長さ四六m、
幅一 ,四mで、奥壁に接して床から〇.七m、

の高さのところに石棚が設けられている。石室

内には排水溝があり、玄室から羨道の中央を通り

石室外に至っている。玄室内には組合式石棺の底

石が、羨道部には箱式石棺があり、さらに鉄釘の

遣存から玄室,羡道にもそれぞれ木棺があったと

推定とれている。石室内から、環、棗玉、ガラ

ス玉、馮具、直刀、鉄鏃、刀子、須恵器、土師器

釘,中世上器などが検出されている。

 石棚をもつ横穴式石室は、近畿地方では和歌山

県の紀ノ川流城など眼られた地城にみられるもの

で、,奈良県下ではほかに紀ノ川上流の吉野郡下市

町岡峯古墳、同郡大淀町槙ケ峯古墳の二例が知ら

れるのみで、本例の存在はきわめて注目される

なお、本墳の築造年代は、副葬遺物などから六世

紀後半と推定さ巩る。

   奈良県教育委員会



ツボリ山古墳 地図

奈良県史跡指定 (昭和48年)

 墳丘は削られて不明であるが、 四角い 「方墳」の可能性があり、石室規模や周辺の

地形から一辺が20m以上の規模が考えられる。主体部は南に開口する横穴式石室で、

内部には2つの家形石棺が納められている。石室は自然石を積み上げた両袖式である。

 古墳築造時の副葬品はほとんど残っておらず、土師器 須恵器の小片と平安時代の

黒色土器腕が出土しただけである。

 石棺は二上山の凝灰岩を用いた立派なもので、 奥の玄室棺には縄掛け突起のついた

蓋が残っている。(7世紀初頭頃)    2002ー12-6



三里古墳 地図

奈良県史跡指定 (昭和25年)

 矢田丘陵の裾、小谷池の端に造成された古墳。 形は不明確であるが、全長35mほ

どの前方後円墳か直径22mの円墳と考えられている。

 玄室奥壁には板石による石棚が作られており、奈良県内では3例しかない珍しいも

のである。石棚は紀ノ川流域に多く分布しているところから紀氏の平群進出の指標と

位置付ける考えもある。

 副葬品もよく残り、馬具·武具・須恵器・土師器などが多数出土している。






石床神社旧社地地図
(いわとこ)

     

 越木塚集落の南東部、伊文字川流域を見お

ろす位置にあり、本殿や拝殿は当初からなく、

鳥居と社務所があっただけで、崖面に露頭し

た高さ約6m、幅10数mの巨大な「陰石」

を御神体としている。「延喜式」に記載のあ

る式内社で、祭神は剣刃石床別命。貞観元年

(859)には従五位上を授けられている。

  地域での磐座(陰石)信仰が窺え、古い信

仰形態を伝える貴重な神社である。

 大正13年(1924)に集落内の素盞嗚神社[現

:石床神社]に合祀されている。

 この付近には花崗岩の巨石が多数露頭し

烏土塚古羵西宮古墳に運ばれており、古墳
,時代~飛鳥時代の石材産地でもある。


消渴・石床神社地図
(しょうかち・いわとこ)

     
   
     
 消渇神社は、本来は地域の産土神(うぶすな)である
正勝(まさかつ)の神として祀られていた。

 室町時代に、旅の僧信海が腰の病を治して

もらってから下半身の病気に御利益があると

して村人に信仰されるようになる。

 江戸時代には社名から女性の病気や性病に

効果があるとして京都祇園からの参拝者もあ

り、参道に茶店が出るほど賑わったという。

 願掛けには境内階段下の屋形で土の団子を

一二個つくりこれを供えて祈願し、願いが叶

うとお礼に米の団子を一二個お供えする。

 石床神社は、大正一三年(一九二四)に旧社地

より消渇神社境内奥の現在地に合祀された。

 拝殿前に天保五年(一八三四)の狛犬が、奥に

寛文七年(一六六七)の石灯篭が奉納されている。

 瓦葺きの覆屋内に三つの社殿があり、中央

が石床の神である。また、左右の社殿には太玉命
(ふとたま)と本来の祭神である素盞嗚命を祀っており、
拝殿の奥には神篭石(かみごおり)がおかれている。








平群神社地図
(へぐり)

   
 
 

大和国平群郡に鎮座 生駒 群町西宮617

創建 神功皇后の時代(4世紀半ば)

御祭神 大山祗命 境内社御祭神 天照大神

由緒: 御祭神大山祇神は山野を司る神で

平郡氏の祖武内宿禰が神功皇后と共に

朝鮮へ出兵の際、戦勝を祈願しこの地に

祀ったと伝う。のち五穀豊穣と、武運

長久、家内安全の守護神として信仰を

あつめ今日に至る。延喜式神名帳に

「平群神社五座(並大月並、新嘗)」と

あり,神宮寺としての龍華山西宮密寺が

あった古い社格の神社である

平群氏が祖神の武内宿禰と,,木菟宿禰

(つくのすくね)を祀ったのだろう。

履中天皇襲われる    












紀氏神社地図
(きし)

     
 『延喜式』神名帳に「平群坐 紀氏神社、神大。月次新嘗」と記載のある式内大社で

近世には辻の宮、椿ノ宮とも呼ばれていた。,

 祭神は平群木菟宿禰(ずくのすくね)で、紀船守(紀氏もくは平群氏の末裔)がその祖、
平群木菟を祀
っている。中世には春日神社にもなっていた。

 本殿は春日造りで朱塗り、銅板葺き。延宝七年(一六七九)の石灯篭が最も古く、
境内社春
日神社の鳥居は元禄一五年(一七〇二)の寄進。

 上庄·椣原(しではら)·西向(にしむかい)の3大字の氏神で、境内には3つの座小屋
(ざこや)があり、その座小屋は拝殿
を囲むように配され、北が上庄大字、南が西向大字、
拝殿と相対する西側は椣原大字の座
小屋である。

 南北の座小屋は土間であるが、中世の荘園平野殿庄の関係で役人を招待した椣原
の座小
屋だけは床板が張られている。

 社地が南の椿井にあったとの記録もありそこから現在地に移された可能性もある。

   
  上庄ほたるの里公園 
 
 座小屋 西側の椣原大字座小屋だけは床板張。
紀寺跡     




白山神社 地図

白山神社

 福貴寺の寺内社としてイザナギ ·イザナミの神を祀っていたが、明治の神仏分離に

より、森垣内の小森神社と栗坪の三十八社神(子守神社)を合祀して福貴全体の氏神

となった。享保14年(1729)奉納の慈尊山白山大明神の湯釜が伝わっており、大峰

山へ参拝する村人は必ず当社や報告したという。(弥勒堂の前に大峰山灯龍がある。)

 ご神体として3体の仏像が奈良国立博物館に寄託されている。十一面観音菩薩・阿

弥陀如来・地蔵菩薩でいずれも彩色のない白木の一木造りの立像で、室町時代の作と

いわれている。

 境内奥に近世の宝篋印塔と五輪塔笠石が積み上げられた法隆寺の高僧「道詮律師」

の供養墓ある。道詮は延暦16年(797) 武蔵の国に生まれ、後に法隆寺に住み、東

大寺で玄輝上人に師事、三論の奥義を極めた。また朝廷の帰依も厚く、 伝燈大師し号

して南都七大寺僧綱を兼ねた。

 この白山神社の周辺が福貴寺の跡で、慈雲山福貴寺と号し、 道詮の隠居寺として栄

え、盛時には六十坊を数えたという。