唐招提寺への道 大和路 東山魁夷

 芒の穂の白く揺れる道は、柿と蜜柑畑の段丘を真直ぐに登録っている。行く手には、三輪山

が左右に緩やかに流れる均斉のとれた稜線を秋空に描いて、大和の鎮めの山に相応しい悠然

とした山容を示している。

 道を登りつめると、桧原神社の鳥居の前に出るのだが、私はその手前で、上下の二つの池

に挟まれた堤へと道を外れる。堤の中程に低い自然石に刻まれた歌碑がある。


   大和は

  国のまほろば

  たたなづく

  青かき

  山ごもれる

  大和し

  美し


 倭 建 命東征の帰途、伊勢の能褒野で死を前にしての望郷の歌と、古事記に記されて

いる。日本書紀では、景行天皇の御代になっていて、倭建命の悲劇的な風貌は、かなり薄め

られている。いずれにせよ、遠い古代の深い霧の彼方にある提え難い物語であるが、この歌

には、これ以上、簡明直截に大和の美を歌うことが困難と思われるほどの響きがある。また、

何か心の底からの切実な想いが寵められているようにも感じられる。もともとは、古代の国

讃めの言葉を並べただけの単純なものであるのかもしれないが、古事記の記述のような劇的

な成り立ちを知らないでも、私達を感動させる力を今も持っている。それは、日本人の美意

識の原点とも言えるものに強く触れているからではないだろうか。 緑繁る山々に囲まれた安

らかな自然、温和な気候、稔り豊かな壌土。日本人にとって、永遠に心の故郷としてのイメー

ージを抱かせる呪文でもある。

 「桜井市で、山の辺の道などに、万葉の歌をいろんな人に書いてもらって、歌碑を建てるこ

とになっているのです。 目立たない小さな自然石に刻んで、道端の草叢に、そっと置いてあ

るようにすれば良いと思います。あなたも何か書いて下さい」と、川端康成先生から言われ

たのは、ずいぶん以前のことであった。川端康成 歌碑⇒⇒⇒  東山魁夷 歌碑⇒⇒⇒

 私はいま、三輪山を背に、先生の歌碑に向って立っている。稲田の稔りの明るい大和平野

の彼方に、二上山を正面にして、左に金剛葛城、右に信貴の山並みが、夕暮れ近い光漠と

した色を見せて連っている。まるで小島が浮んでいるかのように、耳成敵傍香具の三山

が並ぶのを見ると、この盆地が太古、湖であったことが偲ばれる。すぐ眼下には、箸墓の黒

黒とした森。

 広潤な眺望を追った眼が、再び足許の歌碑に戻る。先生の揮毫が急逝によって果されなか

ったのは残念であるが、「美しい日本の私」のペン字原稿から文字を集めて刻まれ たもので

ある。歌は勿論、石も場所も、先生自身が選ばれたと聞いている。遠足に来た子供達が、腰

をかけて弁当を食べられるような恰好の石というのが、先生の念願であったらしい。万葉の

歌でなく、この歌を選ばれたことは、先生の心境の何かが語られているように思われてなら
ない。

  香具山は
  畝火ををしと耳梨と
  相争ひき神代より

  かくるらし古昔も
  然なれこそうつせみも
  嬬(つま)を争ふらしき

 この中大兄皇子の歌を反歌(かえしうた)を抜きにして書こう と私は思っている。「かくなるらし」
「かくにあるらし」、「然なれこそ」を「然にあれこそ」と読む人もあるから、原文で書いていたほ
うが無難であろう。丁度、川端先生の書かれた歌碑に近く、池の堤の端に三山を望
見するのに
最も適しい場所があるから、そこへ建ててもらうことになっている。この歌は、

原文では「高山波(かぐやまは) 雲根火雄男志等(うねびおおしと)」となっているが、畝傍雄々
しとするか、畝傍を愛(を)しとするかに問題がある。雄々しとすれば、敵傍は男性であろうし、
愛しとすれば、男女のどち
らとも言えない。三山の性別については、多様な解釈が可能である。
才色兼備の額 田 王
対しての中大兄皇子と大海人皇子の関係が前提となって、どうも、女性
である畝傍山を、男
性である香具山と耳成山が争ったというイメージが湧き易いが、香具山を女
性、畝傍を男性
とする説のほうもかなり多い。

 朝、奈良ホテルを出て、山の辺の道に沿って巡って来た私が、いま、この大和の代表的な

景観を 恣(ほしいまま)にする池のほとりで一休みしているわけであるが、二上山の上へ傾きか
かった太
陽を、時計の針を戻すように、三輪山の頂に帰したとして、爽やかな秋の朝からのこと
を話そう。

 ホテルを出て間もなく、古市の家並みを見下すあたりへさしかかる。この一角に、いつも

私の眼を引く場所がある。白壁の土蔵の前に柿の実る風景である。古市の町中を通る時も、

やはり、黄土色の土塀と倉の好ましい構図に出会うことがある。それは、何処にでもある風

景で、平凡と言ってしまえば、それまでだが、この懐かしさは、私には根深いものがある。

 円照寺を訪れる。雨上りの境内の静けさ、清らかさ、 尼寺の優しさが、庭に咲きこぼれる

萩の風情にも匂う。三島由紀夫氏の「豊鏡の海」に月修寺として出てくる尼寺のモデルであ

ろうと言われている。
 和爾村(わに)。細い坂道に沿う古い村落。南に和爾下神社がある。石段を登ると、小高い
ところ
に桃山期の丹青に彩られた神社がある。小振りではあるが、纏りのよい優れた構えで
ある。
このあたりに住んでいた古代の大氏族である和珥氏の祖を祀る。

 すぐ近くに人麿塚があり、柿本寺がこの辺に在ったと言われている。柿本人麿は和耳氏の

一族の出だという。北葛城郡新庄町にも、人麿の出身地とされている場所があるが、両者は

何か関係があるのだろうか。あれほどの大歌人でありながら、その名が史書に見えないの時
どういうわけか。位が六位以下の身分であったからとの説が長く踏襲されて来たが、近頃、

正史にある柿本臣猨(さる)、あるいは、柿本朝臣佐留が、人麿であるか、または、その近親
者とい
う説が出て来ている。この説を樹てられた梅原猛氏によると、さらに猿丸太夫と人麿が
同一
人物であり、人麿は流罪の果ての刑死、しかも水死というこ とになる。遠い昔の世のこ
とで
はある。


万葉歌碑 東山魁夷

 桜井市から、山の辺の道に建てる歌碑が出来たという通知があった。既定の場所への据え

付けも終ったから、奈良へ来た時に立ち寄ってほしいとのことである。この歌碑については、

ずっと前の章で触れているが、万葉の歌から桜井市に関係の深い場所を詠んだ三十数首を選

び、それをいろんな人に書い貰って、野仏のように、ひっそりと草叢に置きたいとの市の

意図によるものである。川端康成先生からも、生前に話を聞き、承諾はしていながら、

書くことが何より苦手の私は、長い間、出来ないままになっていた。川端先生のは、一つは

「大和は国のまほろばたたなづく青垣山ごもれる大和し美し」の、古事記にある倭建命の歌で、

それは三輪山の麓、檜原神社の下に、上下二つの池に挑まれた堤に在る。ここからは大和盆

地の中央に、三山が程よい間隔で立ち並ぶのが見渡される。桃と蜜柑の畑に囲まれた美しい

場所である。これらのことについては、前に書いたし、その時に、私は中大兄皇子の三山の

歌を書いて、この堤の北端の、三山が最もよく眺められる位置に建てて貰うつもりであると

も記している。また、三山の歌には、読み方に問題になっている箇処が、二、三あるから、

原文で書いたほうが無難であろらうということも触れておいた。

 唐招提寺への用件を兼ねて、歌碑を見に行くことにした。市長の池田氏が案内して下さっ

て、夕暮れ近い光の中で、池の傍の碑の前に立った。以前に訪れた時は、芒の穂が白く揺れ

ていたが、こんどは、檜原神社から下りて来る時に、馨しい香りが漂うのを感じて、ふと、

辺りを見廻すと、蜜柑畑の濃縁の葉の間に、白い小さな花が咲いているのに気付いた。

 二上山金剛葛城の山々が、西の空に薄肯く連っている。日没には、まだ、間があるが、

タべの静寂と崇厳が、すでに広大な天地に訪れていた。ここから見える三山は、畝傍を真中

にして、香久耳成が向い合い、古代人のあの歌の発想が、そのまま、私達に伝って来るの

を感じる。

  高山波雲根火雄男志等耳梨与相静競伎      東山魁夷 歌碑⇒⇒⇒

  神代従如此爾有良之古昔母然爾有許曾

  虚蝉毛嬬乎相格良思吉

  かぐやまはうねびををしとみみなしとあひあらそひき

  かみよよりかくにあるらしいにしへもしかにあれこそ

  うつせみもつまをあらそふらしき


 中大兄皇子の時代でも「古昔(いにしへ)も然にあれこそ」と詠まれた悠久の太古の人の心、
二つの山
が一つの山を恋し争う、自然と人間が何の疑いもなく一体となって呼吸し、喜び悲し
分ち合っていた素朴な感情の流露に、私は人間存在の根源的な宿命を見る。万葉の世は、
して安らかな時代とは言えないが、万葉の数々の歌には、自然と人間との深い結び付きを
おらかな格調で伝えるものが多く、私達が心を惹かれるのも、そのためではないだろうか。

 歌碑の傍には一本の山躑躅(やまつつじ)が、ちらほら花を着けている。上の池は、すぐ眼の
前に仰ぐ三
輪山の鬱蒼と繁った山容を映して、静まりかえっていた。

 永い時を感じさせる風景である。ここから眺めている限りでは、万葉の歌の詠まれた頃と、

あまり変っていないのではないかとさえ感じられる。このささやかな碑は、刻まれた文字が

消滅し去っても、石そのものはかなり長く残ることだろう。しかし、現在は山でも断ち截ら

れ、崩されて、野に変る世の中である。石でさえ、長く残るとは言い切れない。いや、「昨日

の淵ぞ今日 は瀬になる」と、飛鳥川の変転を世の無常になぞらえたのは、万葉の時代からそ

う遠くない古今集の歌人である。

 減びるものは減び、永遠に残ると見えるものも、やがて滅ぶ。 



山の辺の道

 ここから、乙木竹之内萱生と道は統く。大和盆地を見下し、遠く近く古墳の丘を望む。

稲田の畦には芒が靡(たなび)き、緩やかな丘に柿が実り、蜜柑が実る。

 竹之内や萱生は、周囲に濠を続らせていた環濠集落の跡が残っている。村も民家も古び、

水に映って美しい。萱生の村の柿や蜜柑の畑の丘に登る。すぐ眼前に手白香皇女の陵の松の

森が迫り、南方には崇神天皇陵が見える。遠く耳成山と畝傍山が重なって望見され、いかに

も大和の国のただ中に来たのを感じる。鳥の声、虫の声がしきりである。 手白香皇女⇒

 崇神天皇陵景行天皇陵と並ぶ。松、杉、その他常緑樹の恐しい迄の繁り。その逞しさ、

その静けさ。すぐ傍の道路を絶えず車が疾走しているにもわらず、御陵の森は常に深閑

と静まりかえっている。

 崇神天皇陵は山辺 道 勾 岡 上 陵と呼ぶ。三輪山の麓、磯城に都を営まれた四世紀前半

頃の天皇。三輪山の大物主神の祭祀権を獲得し、天皇家の基礎を固められた人に相応しい
雄大な御陵でもある。
 景行天皇陵は山辺道上陵と呼ばれる。三輪山の北、纏向に都を造られた天皇。戦乱を

鎮圧に東奔西走されて、近江で莞去されている。たいへんな子福者でもある。

 もう、三輪山は近い。

 ここにもう一つの巨大な古墳がある。倭迹迹日百襲姫命の陵、俗に箸墓と呼ぶ。三輪の大物

主神と、この姫との恋物語が日本書紀に記されている。夜だけ通ってきて朝になると帰って

しまう大物主神に、昼間、姿を見たいと願う姫に対して、神は翌朝、姫の櫛箱の中に入って

いると告げる。姫が箱を開けて見ると、美しい小さなが入っていた。姫の驚きの叫び声に、

神は己れの姿に恥じて三輪山に姿を隠してしまう。姫は悔いの念に自殺する。

 しかし、この話は、古事記のほうが、より素朴で美しい。活玉依毘売の許に夜な夜な通っ

て来る恋人の素性を知るため、裾に麻糸をつけておき、朝になって、その糸を辿って行くと、

三輪山の神の社に入っていたと言うのである。倭述々日百襲姫のほうは、孝霊天皇の皇女で、

超能力のある巫女であったとみえて、その墓の大きさは驚くべき規模である。「日は人作り、

夜は神作る」と歌われ、遥か大和の西の端の 二上山から、人々が手から手へと石を受け渡し

て造ったと伝えられている。

 巻野内から穴師、車谷と辿る。


  足引の山河の瀬の響るなべに弓月が獄に雲立ち渡る ⇒⇒⇒

  三諸のその山並に児らが手を巻向山は継のよろしき ⇒⇒⇒

  巻向の痛足の川ゆ往く水の絶ゆることなくまた反り見む

  巻向の山辺響みて行く水のみなわの如し世の人吾は ⇒⇒⇒

  ぬばたまの夜さり来れば巻向の川音高しも風かも疾き ⇒⇒⇒

  巻向の槍原もいまだ雲居ねば小松が末ゆ沫雪流る ⇒⇒⇒

 ここで、この章の冒頭の、池の堤へと辿り着くことになる。果樹畑の中の道を、登りつめ

ると、丸太柱に太い注連縄を懸け渡しただけの、朴訥で野趣のある鳥居を潜り、槍原神社

前へ出る。三輪山の深々とした森に向って、三輪鳥居と呼ばれる風変りな鳥居が立っている。

崇神天皇が、宮居の内にあった天照大神の御霊を、ここに移し祀られたと伝えられる。元伊

勢と呼ばれる所以である。

 大神神社へ詣でる。樹々の繁み深い境内は、もう、かなり暗くなってきた。渋い苔の色の

ついた櫓皮葺きの拝殿の屋根は、背後の黒々とした杉の木立ちと、落ち着いた調和を示し、

金色の金具が荘重に光る。この立派な拝殿だけがあって、本殿は無い。三輪山自体が神であ

る。赤松の森の中に辺津磐座、奥津磐座というふうに、岩石の集団が頂上まで数段にわたっ

て祀られていて、その岩に神酒をふり注いで祈るということである。前に円照寺のところで、

三島氏の「豊饒の海」にちょっと触れたが、大神神社や三輪山は、この小説の第二巻「奔

馬」の重要な舞台になっていて、神社の境内や、神の座としての山中の描写は精緻を極めて

いる。第一巻「春の雪」の主人公であった松枝清顕にゆかりのある飯沼勲少年が、神前の剣

道仕合で優勝する。狂言廻しの役の本多が、その仕合で勲少年を見、その後、山の磐座を拝

して、滝に打たれに行く。そこで勲少年に、清顕の転生のしるしである脇腹の三つの黒子が

あるのを見る。勲は勿論、第二巻の主人公であって、割腹して死ぬところでこの巻は終って

いる。

 狭井川辺へ行く。いまは、草葉の繁りの中を僅かに流れる細流となっている。傍に古代の

祭祀の場の趾がある。神武天皇が即位の前に皇妃を決められる時、大久米命の案内で三輪
狭井川のほとりで七人の姫に逢われた。狭井川の名は、山百合が川のほとりにたくさん自
したからという。狭井は山百合の古名佐葦による。天皇は七姫の先頭に立って歩いて来た
伊須気余理比売を選ばれた。
  唐招提寺への道 東山魁夷






海柘榴市(つばいち)

 私は、いま、昔の海柘榴市に辿りついた。今は三輪町のはずれの金屋の部落がそれである。

古い家並みが残っている。灯がともり、うらぶれた淋しい感じである。古代交通の要衝に当

るこの土地の繁栄は、万葉の歌で知ることが出来るのみである。

  紫は灰指すものぞ海石榴市の八十の街にあへる児や誰 ⇒⇒⇒

  海柘榴市の八十の簡に立ち平し結びし紐を解かまく惜しも 

 古い世の歌垣。踊り合い、歌い合った若い人々の姿が偲ばれる。しかし、影媛とその恋人

の鮪臣、太子であった武烈天皇との三角関係の悲しい物語も、海拓榴市が重要な舞台となっ

ている。これも歌垣の中での三人の息づまるような歌の問答が劇的である。恋に破れて激怒

した太子は大伴連に命じて鮪臣を討たせたと、日本書紀に語られている。

 春日野と三輪山を結ぶ山沿いの古道である山の辺の道には、数々の太古の物語が秘めら
ている。それらは、現在の私達にもよく解るものが多い。つまり赤裸な人間性が出ているも

のが少くないからである。煩雑な現代から、悠久の夢の世界へ 誘われもするが、人間性その

ものは昔も今も変らないようである。

 このへんで三輪山に別れを告げることになるが、私は、この山を見るたびに、日本人の美

的感覚の原型を感じる。その形は最も単純で豊かな曲線を持ち、左右の均斉のとれた気品の

ある姿とでも言うべきか。また、山即ち自然が神であり、その神は、エホバのような峻烈な

神ではなく、すこぶる人間的な神である。それでいて、人間を超えた力を持ち穀物の豊饒と、

子孫の繁栄を司る神である。

 私は、この山をスケッチしたいと思って、よく近くまで行くのだが、その度に、どういう

のか雲や霞がかかって、はっきり見えない時が多い。大物主神の御機嫌が悪いのだろうか。

  三輪山をしかも隠すか雲だにも情あらなむ隠さふべしや ⇒⇒⇒

                               額田王

  唐招提寺への道 東山魁夷




今井町

 山の辺の古道を辿って奈良から金屋へと来たが、更に桜井から耳成山のすぐ南を西行し、

飛鳥川の流れのそばにある今井という小さな町について語らねばならない。今井という町の

名は、あまり聞き馴れない名であるかもしれない。奈良から大和路を巡る途中でタクシーの

運転手に、この町の名を言っても、知らない場合が多い。知っていても、

「あすこに、何かあるのですか」と怪訝な顔をする。

「古い民家が揃っているので」と言うと、

「あれは江戸時代ですよ。古いものではありません」と、軽蔑の調子で言葉を返す。ここで

は千年以上経たないと、古いということにはならないらしい。

 今井は日本では珍しい町である。西洋では少しも珍しいことではないが、日本では古い町

の姿は急速に変り、消滅してしまったからである。今井の町も極原市の中に在って、その周

囲は、喧騒の巷である。このような環境の中に、静かな古い町が在るとは、誰にも信じられ

ない。しかし、一歩、この町内に入ると隔絶された世界に在る自分を感じる。

 狭い路地を挟んで古い家並が統いている。中には今西家のような八つ棟造りと言われる白

壁の堂々とした建物や、上品寺屋と言う酒倉を従えた大きな構えの造り酒屋等もあるが、多

くは普通のしもたやで、ひっそりと軒を並べている。昔は幾重にも濠をめぐらした町で、こ

こへ出入りするのには、すべて門を潜らなければならなかったが、今は残っていない。僅か

に内濠の跡が見られる。町全体が防禦のための機構を備えていたわけである。ヨーロッパの

ハンザ都市の性格に似ている。

 約四百年前、今井兵部卿という武士が、一向宗の信徒を集めて寺内町を造った。称念寺は、

今井氏の子孫が今も住職を勤めている。堺と共に自治組織を持つ商業都市として栄えたが、

幕末、諸大名に貸し付けていた金が、時代の変動と共に回収が出来なくなり、町全体が衰微
した。
そのために、今日まで昔の姿を留める結果となったと言われる。

 今西家は慶安三年(一六五○) 創建。江戸初期町家の形式がそのまま残り、外観が雄大で、

屋根の造りが複雑であり、小城郭の観がある。太い格子窓の下に、頑丈な駒繋ぎの環が取り

付けられているのも眼を引く。内部を見せて貰ったが、広い土間があり、いかめしい式台を

踏んで部屋へ入る。土間に面して店、中の間、台所と並び、それぞれの奥が、奥店、納戸、

仏間になっている。土間の上は大きく吹き抜けになっていて、太い梁組を仰ぐ。二階へ上る

と、座敷と厨子と呼ばれる広い部屋になっている。隅のむしこ窓から町の古い家並みを覗く。

この窓は物見の役をも持つものであった。

 豊太閤本陣跡で、御茶屋屋敷と呼ばれる家がある。太閤が吉野遊覧の時の本陣の跡であり、

後に代官松村氏の陣屋になったところ。称念寺で住職の今井氏に逢い、この町の保存に努力

していられる話を聞く。古くから住みついている人は少くなり、町に対しての愛着も薄くな

ってきた現在、かなり多くの家々が国の重要文化財に指定されていても、町のこの雰囲気が

何時まで保たれるかは疑問である。今の外観を残して修理することも益々、困難になってゆ

くことだろう。町の中には廃屋になってしまって、崩れ落ちようとする家もある。

 私は古い町が好きで、日本国中をずいぶん観て歩いたほうだが、これほど一区劃の中に、

纏って古い民家の残っている例は稀有のことと思われる。民族の貴重な文化的遺産であるこ

とは言う迄もない。積極的で実質を伴った保存方法を国家で考えてほしいものである。


  唐招提寺への道 東山魁夷



令和と梅花(ばいか)の宴

梅花歌卅二首 并序

 天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也。于時、初春令月、氣淑風和、梅

 披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。加以、曙嶺移雲、松掛羅而傾蓋、タ岫結霧 鳥封

 穀而迷林。庭舞新蝶空歸故鴈。於是蓋天坐地、促膝飛觴。忘言一室之裏、開衿

 煙霞之外。淡然自放、快然自足。若非翰苑、何以據情。詩紀落梅之篇。古今夫

 何異矣。宜賦園梅聊成短詠。


【読み下し】梅花(うめのはな)の歌三十二首 井せて序

 天,平二年正月土三日に、帥(そち)の 老(おきな)の宅(いえ)に萃(あつ)まりて、宴会を申(ひら)
 く。 時に、初春(しょしゅん)の月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風(やわら)ぎ、梅は鏡前
 (きょうぜん)の粉(こ・よそほ)ひを披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(こう)を 薫(かをら)
 す。
 加之(しかのみにあらず)、曙(あけぼの)の嶺に雲移り、松は 羅(うすもの) を掛けて蓋(きぬがさ)
 を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥は 穀(うすもの)に封(こ)めらえて林に迷(まと)ふ。庭には
 新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故雁(こがん)帰る。ここに天を 蓋(きぬがさ)とし、地を座(しきみ)
 とし、膝(ひざ)を促(ちかずけ)け 觴(さかづき)を飛ばす。言(こと)を一室の裏(うち)に忘れ、衿
 (えり)を煙霞(えんか)の外に開く。淡然(たんぜん)と自(みづか)ら 放(ほしきまま)にし、快然と
 自ら足(た)る。若(もし)し翰苑(かんえん)にあらずは、何を以(も)ちてか 情(こころ)を攄(の)べ
 む。詩に落梅(らくばい)の篇(へん)を紀(しる)す。 古(いにしへ)と今(いま)とそれ何そ異(こと)
 ならむ。宜(よろ)しく園の梅を賦(ふ)して 聊(いささ) かに短詠(たんえい)を成すべし。

【訳】梅 花の歌三十二首 序文

天 平二年正月十三日に、長 官の旅人宅に集まって宴会を開いた。時あたかも新,好き月、空気
は 美 しく風はやわらかに、梅は美女(びじょ)の鏡の前に 装(よそお)う白粉(おしろい)のごとく白

く咲き、蘭は身を飾った香(こう)の如きかおりをただよわせている。のみならずあけ方の山頂には
雲が動き、松は薄絹のような雲をかずいてきぬがさを 傾(かたむ)ける風情を示し、山
のくぼみに
は霧がわだかまって、鳥は薄霧にこめられては 林 にまよい鳴いている。庭
には新たに 蝶の姿を
見かけ、空には年をこした雁が飛び去ろうとしている。ここ
に天をきぬがさとし地を 座(しきい) と
して、人々は膝を近づけて酒杯をくみかわしている。

すでに一座はことばをかけ合う必要もなく睦(むつみ)み、大自然に向かって胸 襟を開きあってい
る。淡々とそれぞれが 心のおもむくままに振舞い、 快(こころよ)くおのおのが
みち足りている。
この心 中を筆にするのでなければ、どうしていいあらわしえよう。中 国で
も多く落梅(らくばい)の
詩篇(しへん)がある。古今異なるはずとてなく、よろしく庭の梅を詠ん で、い
ささかの歌を作ろう
ではないか。
  中西進遍 万葉集 講談社文庫

 新元号である「令和」は、天平二年(七三〇)の梅花の宴で詠まれた歌三十二首(巻五・ 八一五
~八四六番歌)の前に置かれた宴の趣旨を述べる漢文から採られた。梅花の宴
は大宰府の長官
だった大伴旅人が主催したもので、当時まだ珍しい植物だった梅をテ
ーマに掲げ漢詩文になぞら
えて和歌を詠む、和漢折衷 の斬新な宴だった。
  奈良県立万葉文化館 井上さやか

  大伴旅人
新しい年号  長屋王亡きあとの藤原氏  令和と梅花の宴 
万葉賛歌  うめ  令和について 
はじめての 万葉集  あをによし  




籠神社(この)

 『丹後国風土記』逸文にあるように、豊受大神は、丹後半島に舞い降りている。その丹後国一宮
籠神社で、『丹後一宮籠神社縁起』によれば、当国籠之大
明 神 (豊受大神)は、日本第一の明
神で、鎮護国家の神であること、その影向
(ようごう・神や仏が人の姿に身をやつして現われること
)は、与謝郡の天 橋立の松の梢の
上で、大きな籠のような形をし、光り輝いていたという。

 また、神代のこと、丹後の粉河という清流に八人の天女が降りてきて、水浴びをしていたという。
塩土老翁という人物がひとりの羽衣を盗み、ひとりの天女
塩土老翁と夫婦となって、酒をつくっ
て暮らすようになったという。天女は常
に光を放ちながら虚空を飛び、それはまるで鳥籠から光を
放つようであったとし
ている。

 このように、丹後国の一宮の籠神社は、豊受大神を祀る神社である。すでに触れたように、豊受
大神は伊勢外宮で配られる神として名高いが、はじめこの地に
降臨し、のちに伊勢に勧 請された
ということになる。したがって、籠神社の別
名は、「元伊勢」とも呼ばれ、その祭神を「豊受大神宮之
本宮籠宮大明神」と呼
ぶのである。

 各種の伝承によれば、第十代崇神天皇の時代、天照 大神がこの地に神幸し、また、雄略 天皇
のとき、天照大神の神託によって、豊受大神が御饌の神(みけ・朝夕
の食事の世話をする神)として、
伊勢に遷された、とする。つまり、豊受大神の問
「トヨ」とは、穀物などの「豊穣」につながる「豊」で
あったことが分かる。
  天孫降臨の謎 関裕二




天孫降臨の最大の問題

 天孫降臨神話の最大の問題は、なぜ皇祖神が、南部九州(日向の襲の高千穂峰・宮崎県と鹿児島
県の県境の霧島、或いは宮崎県西臼杵郡高千穂)に舞い降りたのか、と
いうことである。

 この地は縄文色の強い土地柄であり、ヤマト朝廷、東国の蝦夷と共に、「夷狄」とみなしていた者た
ちである。

 なぜ皇祖神が、自ら「野蛮人」のレッテルを貼った、その隼人の真っ只中に舞い降りたことにしなけ
ればならなかったのだろう。

 だいたい、天孫降臨の直前、天照大神高皇産霊尊たちは、「出雲」に国譲りを強要していたので
あって、その奪った地·出雲には目もくれず、なぜ唐突に日向が登場したのか、まったく理解できない
のである。

 なぜ八世紀の朝廷は、天皇家の祖神たちを、 わぎわざ南部丸州に降臨させたのか、という疑問が
浮かぶのである。

 北部九州に降臨してもよかったのだし、それよりも、ヤマトに真っ先に降臨すべきであった。

 それだけではない。『日本書紀』は、「神武以前」、すでにヤマトには物部氏の祖·饒速日命なる人物
が降臨し、土着の首 長と手を結び、ヤマトを統治してい
たとする。

 この 「饒速日命」 は、天皇家の正統性を述べるうえで邪魔な存在でしかない。それを放置したまま、
なぜ皇祖神は南部九州に舞い降りたのであろう。

 少なくとも、『日本書紀』は、歴史時代の南部九州の熊襲(隼人)を、征討される立場の人々として描
いている。そのもっとも有名な例が日本武尊の熊襲征
伐で、 また神功皇后も、熊襲征伐を目的に北
部九州に陣を張っている。

 「作り話」としては、『日本書紀』の神話はあまりに不自然である。もっとまともなストーリーを展開す
ることもできたはずなのである。


隼人の地に残された不思議な古墳群

 ところで、天孫降臨神話の地日向の国には、不思議な古墳群が存在する。それが、宮崎県西都市
西都原古墳群である。

 ここには約三百三十基におよぶ三世紀半ばから七世紀半ばにかけての古墳(うち、三十一基が前
方後円墳、その他、円墳、方墳、地下式横穴墓、横穴墓といった様々な型式の墳墓が揃っている)が
密集している。

 西都原古墳群の特徴のひとつは、長期にわたって、同じ場所に古墳群がつくられたということ、また
一方で、ヤマトの前方後円墳とそっくりな形をした遺構が揃っている、ということなどである。

 たとえば、西都原古墳群のなかでもっとも古い前方後円墳は、八十一号墳で、これは纏向遺跡の発
生期の前方後円墳として名高い「石塚古墳」と形がよく似ている。また、纏向遺跡でもっとも有名で秀
麗な箸墓古墳とそっくりなもの、それから時代が下がり、天理市の西殿塚古墳、同じく天理市の伝
崇神天皇陵の行燈山古墳、伝景行天皇陵の渋谷 向 山古墳といった、天理市、桜井市を中心とする
ヤマトを代表する前方後円墳とそっくりな前方後円墳が、西都原の一か所に揃っているのである。

 また、木花之開耶姫の墓とも伝えられ(もちろん伝承の域を出ていないが)、宮内 庁の御陵墓参考
地に指定されている墳長一七六メートルの西都原最大の前方後円墳·女狭穂塚(めさほづか)は日本
全国を見渡しても四十八位という大きさであり、九州のなかでは最も大きい。

 最大の問題は、ヤマト建国の象徴である継向の前方後円墳とそっくりな墳墓が日向の地に造営され
たということであろう。

 このことは、ヤマト建国の前後から、ヤマトと日向の間に盛んな交流のあったことを示している。また、
それだけではなく、「夷狄=隼人」の地、「日向 (ここでは九州の東南海岸だが)」が「ヤマト建国」を支持
していた疑いさえ出てくるのである。これはいったい何を意味しているのだろう。 ここに天孫降臨の謎
を見みる思いがするのである。


  天孫降臨の謎 関裕二  

  隼人  
 飛鳥寺 飛鳥資料館  須弥山石  年表539年 
藤原弘嗣の乱  天孫降臨の最大の問題  平城京  周遊紀行文 
雄略天皇  履中天皇  飛鳥京跡苑池   




日本書紀が蘇我氏を隠匿

日本書紀』が蘇我氏の系譜を隠匿した理由

 物部氏や大伴氏、また中臣(藤原)氏といった古代の有力豪族は、みな『日本書紀』によって、出自
が明らかにされた。仮にそれが根拠のない伝承として
も、出自を「保証」「承認」されたことはたしかで
ある。これに対し、蘇我氏
なぜか無視されるのである。

 その『日本書紀』を編纂したのが藤原不比等であり、藤原氏は蘇我本宗家を叩きつぶすことで権
力を手 中にした。そして、『日本書紀』のなかで、蘇我氏を
こき下ろしたのである。

 したがって、もし蘇我氏が渡来系とすれば、『日本書紀』は、これを隠す必要はなかった。むしろ、
蘇我氏を罵倒する材料として、積極的に活用しただろう。

 「日本の王家を乗っ取ろうとしたのが渡来人だった!」

 と叫ぶことができたはずである。

 だが、『日本書紀』が選んだのは、系譜を「無視」することであった。蘇我氏の出自を公にはしなか
ったのだ。それは、蘇我氏の出自が分からなかったからと
考えるよりも、彼らの出自が「思いのほか
正統」だったからと考えると、辻褄(つじつま)が
合ってくる。

 すなわち、蘇我一族は怪しい素 性の人物群 ではなく、由緒正しい家系であり、だからこそ、『日本
書紀』はあえてこれを抹殺せざるを得なかったと考えら
れる。そうしなければ、蘇我氏を倒した藤原氏
の正当性が失われるほどの、正しい家系である。

 三世紀、纏向建設に向けて多くの地域が集まっていた。ところが『日本書紀』は、このヤマト建国前
後の歴史の主役や脇役たちの活躍を無視し、「出雲神話」
と「天孫降臨」そして「神武東征」という説話
にすり替えてしまった可能性が高
い。つまり、ヤマト建国の様相を、『日本書紀』は「天皇家の祖神と
出雲神の相
剋」という単純な構造に焼き直してしまった、ということである。

 たとえば、考古学的には、ヤマト建国にもっとも貢献したのは、瀬戸内海の吉備地方と考えられる
ようになった。それはなぜかというと、纏向に集まった土器
の中で、吉備の物の「質」「レベル」が、他
を圧倒していたからだった。多くの
土器が「生活用品」であったのに対し、吉備のそれは、宗教儀礼に
用いる代物だ
ったのである。

「具体的には特殊器台形と特殊壷形と呼ばれる土器で、前方後円墳に並べ、首長霊祭配を行うため
の儀器である。

 政治が「マッリゴト」といわれていた時代の「吉備の特殊器台形土器」は重大な意味を持っている。
また、前方後円墳の原形は、纏向出現の直前に吉備に生ま
れた楯築弥生墳丘墓であった疑いが強
くなってきている。

 三世紀のヤマトに突出した強大な王が出現したとは考えられないが、継向の中心勢力は吉備だっ
た可能性は高くなるばかりなのである。


『日本書紀』の第一の目的は蘇我氏を悪役に仕立て上げること

 『日本書紀』は藤原氏の政敵·蘇我氏をとことん悪く書いている。藤原不比等の中臣鎌足は蘇我氏
の横暴を憎み、天皇家の行く末を憂い、蘇我入鹿暗殺と
クーデターを起こしたと記している。蘇我氏
は自分勝手に皇室の民を使い、王位
をうかがっていたとするのである。そして、蘇我本宗家を倒すこ
とによっ
天皇を中心とした律 令 国家の整備に着手(大化改新)することができたのだとする。

 しかし近年、このような『日本書紀』の示した勧善懲悪の図式に、いくつも疑問が投げかけられてい
る。

 蘇我入鹿は聖徳太子の子·山 背大兄王の一族を滅亡に追い込んでいるが、この凶行の背後には
黒幕がいて、それが中臣鎌足だったのではないかとか、ある
いは、律令制導入に積極的だったのは
むしろ蘇我氏のほうで、その功績が横取り
されたのではないか…..…などなど。

 問題は、その藤原氏が潰した飛鳥の蘇我の政権のことである。

 藤原氏が心血を注いだのは、いかに蘇我氏の正止体を抹殺するかにあったはずで、そのいい例
が、蘇我氏の祖の名を『日本書紀』が無視している点である。

 『古事記』には、蘇我氏の系譜が明記されている。それによれば、第八代孝元天の皇子·比古布
都押之信 命が木 国 造(紀伊の国造)の祖,宇豆比古の妹,
山下影日売を要って産んだ子が建 内 宿
禰(武内宿禰)
さらに建内宿禰の子·蘇賀石 河宿禰は蘇我臣等の祖であったという。 したがって、『古
事記』にし
たがえば、建内宿禰が蘇我氏の遠祖であったことになる。

 ところが、『日本書紀』を開いてみると、次のように記されている。

 第八代孝元天皇と物部氏出身の伊香色謎命との間に彦太 忍 信命がいて、武内宿禰の祖父にあ
たる、とある。しかし、武内宿禰が蘇我氏の祖であるとは、ど
こも書いていない。

  
  天孫降臨の謎 関裕二




朝廷が神話構築した不純な動機

 これまで通説は、『日本書紀』の神話が「天皇家の正統性」を証明し、また「王権獲得の正当性」を、
誇張をもって説き明かしたものと考えてきた。
しかし、そう決めつけることは早計であろう。

 少なくとも、『日本書紀』編纂の中心に藤原不比等が座っていたとするならば、『日本書紀』が単純
な「天皇家のための歴史書」だったかどうか、じつに怪
しいといわざるを得ない。

 藤原氏は天皇の妃に自家の女人を送り込み、その腹から生まれた皇子を即位させることで、権力
を掌握していた。しかも、藤原氏のいうことを聞かない皇
族は、有無をいわさず抹殺したのである。

 藤原氏にとって天皇とは、権力を維持するための「道具」であり、彼らにとって、天皇の正統性とは、
要するに藤原氏の天下を保証するためのフィクションに
すぎなかったわけである。

 したがって、『日本書紀』の神話とは、「天皇の正統性」を主張するのが最大の目的ではなく、「藤
原氏の正統性·正当性」を主張する、という 「裏」の動機
目的こそが大切だったことに気づかされる。
そういう視点で神話を読み直せば、
新たなヒントを得られるのではあるまいか。

   天孫降臨の謎 関裕二





実際の神武東征

 『日本書紀』のなかで「神武東征」と華々しく描かれたヤマト建国も、実際には征服劇ではなかった
ことは、老考古学的にほぼ立証されている。

 ヤマトは、ひとりの独裁者の征服劇によって成立したのではなく、いくつもの首長層の緩やかな連
合体であった可能性は高くなる一方なのだ。

三世紀のヤマトには、前代未聞の政治と宗教の都市·纏向が建設され、また、新たな宗教観を示す
前方後円墳が造営されるに至る。しかも、纏向も前方後円墳も、どちらも吉備、出雲、北部九州、
ヤマトという当時の巨大化した勢力のそれぞれの文化をもち寄った代物だった可能性が高く、その
なかで吉備が優位性を保っていたようだが、唯一突出した存在というものがなかった。したがって、
三世紀のヤマトの 「大王」は、征服者でも独裁王でもなかったと考えられるうになったのである。


 考古学の証言によれば、はじめヤマトには吉備 · 出雲·東海· 北陸の土器と理関葬文化が集まり、
最後の最後に北部九州勢がやってきたという。とするならば、
まず「出雲神 ·大物主神」がヤマトに舞
い降り、さらに饒速日命がこれにつづ
いてヤマトの基礎を築き、最後の最後に「九州の大王」神武が
迎えられたという
話の骨格は、「纏向と前方後円増墳の完成」の考古学と奇妙に重なってくるわけで
ある。

   『日本書紀』にしたがえば、神武がヤマトに君臨するはるか以前、出雲神·大物主神
   は 、ヤマトに住みたいといいだし、遷し祀られたといい、またヤマトを造
成した神
   と讃えられたという。また、その後、神武天皇がまだ九州にいたころ、
ヤマトの地
   にはすでにいずこからともなく饒速日命なる人物が舞い降りてい
て、土着の首長
   ·長髄彦の恭順を得て、この地域を統治していたとする。神武天
皇はこの話を聞き、
   「ヤマトこそ都にふさわしい」と確信し、東征を決意する。

   ちなみに饒速日命はヤマト最大の名門豪族物 部氏の始祖に当たる。

    神武天皇は長髄彦の抵抗にてこずるも、饒速日命の子の可美真手命 (宇摩志
   麻
遅命)の王権禅譲によって、ヤマトの王位を獲得するに至るのである。

 
   天孫降臨の謎 関裕二
 



隼人

 天皇家の祖と隼人(熊襲)の祖は繋がっていたと『日本書紀』はいう。だがその一方で八世紀の朝
廷は、隼人を蔑視し、まつろわぬものという路印を押して
いるのである。この矛盾をどう考えればい
いのだろう。

 たとえば『日本書紀』は、太古以来、隼人は造反を繰り返し、ヤマト朝廷は盛んに征伐を繰り返し
てきたと、記録している。

    海幸山幸神話(二人は天津日高日子番能邇邇芸命の子)のなかで、隼人の祖·
    海幸彦(火蘭降 命)
は山幸彦に対し、これからは「俳優の民」になりましょう、とい
    っている。
また、一書第二では、隼人たちは天皇のもとを離れず、代々「吹ゆる狗
    (いぬ)して奉
る者」になったという。狗吠のはじまりである。


   呪術に長けた隼人を重用したャマト朝廷

    隼人は大嘗 祭でも特別な役割を担っている。

    大嘗祭式の開始は、隼人の吠声からはじまり、また、大嘗祭では隼人のつくっ
    竹製品が使われる。たとえば、「竹製の目籠」が神座(かみくら)に置かれ、死と
    復活の重
要な役割を果たしている。

    「目籠といえば、山幸彦が塩土老翁の用意した無目籠(まなしたま)に乗せられて
    海神(わたつみ)の宮に
連れて行かれたことを思い出す。宮島正人氏は、『海神
    宮訪問神話の研究』(和泉
書院)のなかで、この無目篭について、次のように指摘
    している。

    無日堅間の小船を造り、火遠理命(彦火火出見尊)を海 神 営に導いたのは塩椎
    神(塩土老翁)であり、同時にこの神は、紀一書によれば、川雁に変じ
た航海神で
    あった。(中略)一種の儀礼的死であるとすれば、ここにこそ、死
者の霊魂を「鳥船」
    が冥界に運ぶとされる鳥船信仰、及びこの信仰と密接に結
びつく舟葬の観念が、
    この物語の背後に存する、と断じてよいかもしれない。

    このように、隼人は、生と死の境界における呪能力を期待されていたことがは
    する。

    それだけではない。六世紀末、敏達天皇十四年八月の条には、敏達天皇が崩御

    され、残 宮が営まれ、隼人が警護にあたったと記されている。

    さらに、隼人は天皇の死と祭配 にも深く関わっている。
  天孫降臨の謎 関裕二





本薬師寺跡

 奈良市の薬師寺の前身寺院が建てられたとされる本薬師寺跡(7世紀末、特別史跡)で、南門跡が
つかった。橿原市教育委員会が5日発表した。薬師寺の伽藍建設をめぐっては、飛鳥時代の
原京
(694~710)
に築かれた本薬師寺からの「移築説」と、平城京遷都後の奈良時代の現在地での
「新
築説」があった。 南門の規模や構造が異なる可能性が高いとみられ、新築説をさらに補強する
成果となりそうだ。

 薬師寺は680年、天武天が皇后(後の持統天皇)の病気快復を願って藤原京内に創建され、710
年の平城遷都
に伴って奈良,西ノ京の現在地に移されたとされる。近年の奈良の薬師寺東塔に対す
年輪年代測定で奈良時代前半の建立が明らかとなり、東塔新築説が確定的となった。

 市教委は今年2~3月、中門跡の南の約118平方mを発掘調査。中門の約20m南から柱の礎石
が設置されたとみ
られる穴三つがみつかった。

伽藍中央を軸に対称に並んでいることなどから、南門跡の可能性が高いとみている。


異なる規模·構造

 南門の規模は東西約15m、南北約10mとみられる。中門より大型だった。一方、奈良薬師寺の
創建時の南門は東
西約10m、南北約9.5m 。

 小澤毅,三重大学教授(考古学)は「新築説をさらに裏付ける成果だ。 飛鳥時代の主要寺院は南
門より別の門の方
が大きいが、奈良時代は南門が大きくなる。本薬師寺はその最初の事例ではな
いか」と
話す。 (田中祐也)


 奈良·西ノ京の薬師寺のルーツとされる本薬師寺跡で、大きな南門が存在していた痕跡が初めて
確認された。薬師寺
は約1300年前の飛鳥時代末期、日本初の本格的な都だった藤原京内に創建
、平城京遷都に伴って現在地に移されたとされる。

南門跡の発見は「移築説」と「新築説」とで対立してきた論争をほぼ決定づけ、古代都城と寺院の
歴史を考
える上でも注目される。

 発掘調査した橿原市教育委員会によれば、南門跡では東西に柱が4本並んでいたとみられ、その
柱の問隔
は奈良時代と同じV尺(約5げ)だった。一方、 奈良の薬師寺の当初の南門は柱が6本で、
規模も構造も異
なっていた。

 かつて本薬師寺跡を発掘調査したことのある花谷浩·出雲弥生の森博物館長(考古学)は「考古資
料と
しての新築説の新たな裏付けがみつかった。 都城制での寺院構造を考える貴重な成果だろう
」と話す。

 南門跡は藤原京の主要な東西道路に面し、長さは約15m。長さ13m余りの中門より大きいこと
が分かっ
た。大脇潔·元近畿大教授(歴史考古学)によれば、飛鳥時代の寺院は、国内初の本格的
寺院とされる飛鳥
寺(奈良県明日香村)で西門が大きいように必ずしも南門は重視されなかった。

 一方、奈良時代は、都が中国の都城にならって碁盤目状に区画された都市計画(条坊制)に基づ
いて造ら
れ、寺院の立地も大通りに面するようになると、正面となる南門が重視された。

「本薬師寺は都の条坊を意識した最古の事例になるのではないか」とみる。
  2019-9-26  朝日新聞



本薬師寺跡に南門

 奈良市の薬師寺の前身寺院が建てられたとされる奈良県橿原市の本薬師寺跡(7世紀末、特別史
跡)で、南門跡がみ
つかった。 橿原市教育委員会が5日発表した。薬師寺の伽藍建設をめぐっては、
飛鳥時
代の藤原京(694~710)に築かれた本薬師寺からの「移築説」と、平城京遷都後の奈良時代
の現在地での「新
築説」があった。南門の規模や構造が異なる可能性が高いとみられ、新築説をさら
に補
強する成果となりそうだ。

南門重視、最古例か

 薬師寺は680年、天武天が皇后(後の持統天皇)の病気快復を願って藤原京内に創建され、710年
平城遷都に伴って奈良·西ノ京の現在地に移されたとされる。 近年の奈良の薬師寺東塔に対する

年輪年代測定で奈良時代前半の建立が明らかとなり、東塔の新築説が確定的となった。

 市教委は今年2~3月、中門跡の南の約118平方mを発掘調査。中門の約20m南から柱の礎石が
設置されたとみ
られる穴三つがみつかった。伽藍中央を軸に対称に並んでいることなどから、南門跡
可能性が高いとみている。

異なる規模·構造

 南門の規模は東西約15m、南北約 10mとみられる。 中門より大型だった。一方、奈良· 薬師寺の
創建時の南門は東
西約26m、、 南北約9. 5m.。
 小澤毅·三重大学教授(考古学)は「新築説をさらに裏付ける成果だ。 飛鳥時代の主要寺院は南門
より別の門の方
が大きいが、奈良時代は南門が大きくなる。 本薬師寺はその最初の事例ではない
か」と
話す。
   2019-9-26  朝日新聞(田中祐也)



日本書紀の神話



神話は政治的目的で書かれた?

 神話は純粋に、「歴史を残たい」から書かれたものではないという一事である。『日本書紀』の神話
は、
あくまで八世紀の朝廷の正統性·正当性を述べるために書かれたのであって、ここを見落とすと、
分かることも分からなくなる。

 津田史学の申し子を自称する直木孝次郎氏は、

 神話といえば、民衆の思想、民族の信仰をあらわすものと思われやす いが、

また神話とは本来そうしたものであるが、「記紀」にまとめられている日本神
はそうではないのである。天皇家による日本統一の確立という政治目的に奉

するように改作された政治的物語なのである。(『日本神話と古代国家』講談

学術文庫)

 と語り、天皇家が神話を提造したと考えるが、じつはこれは間違いで、もっと別の者たちの思惑を想
定しなければならない。上山春平氏は、『日本書紀』編纂
の中心に八世紀の権臣·藤原不比等がいて、
「自らの手でつくり上げた律令制
をたくみに利用しながら、旧来の氏姓制度のもとでは、とうてい太刀
打ちできそ
うにない名門の豪族たちを圧倒する地位に藤原家をおし上げるための素地をつくった」
(『神々の体系』中公新書)として、その不比等が、藤原氏の正当性を証明
するために、神話を記したの
ではないかと推理し、以下のように論を進める。

 まず、神話(『古事記』)には、明確な図式というものがあって、アメノミナカヌシを頂点に、二つに分か
れた「高天原系」と「根国系」の神々が対置され、最
後にイワレヒコ(神倭伊波礼毘古命=神武天皇)でつ
ながり、ヤマト朝廷誕生
に結びつけられている、とする。

 では、なぜこのような図式が描かれたかというと、八世紀、藤原不比等の時代に出現した「律令制の
原理と氏姓制の原理の矛盾葛藤とその解決の筋書き」
( 「続·神々の体系』中公新書)にほかならないと
するのである。

 つまり、旧態依然とした氏姓制に安住するヤマトの豪族層を、藤原不比等や藤原氏が律令制をもっ
て駆逐したのであり、このような経緯が、神話における出雲国譲り大国主神建御雷命や高皇産霊
尊 (高御産巣日神)の姿に投影されている、とするのである。

 さらに、権力を握った藤原氏の野望は、自家の女人の産んだはじめての皇子·首皇子(第四十五代
·聖武天皇)の即位であり、しかし一方で、首皇子の即位
が父子相 承の皇位継承という慣習を打ち破る
ことにつながるから、「女帝」から孫への皇位継承という図式を、天照大神から孫の天津彦彦火瓊瓊
杵尊
への統治権の禅譲という新たな神話を構築することによって、正当化しようと図った、というので
ある。

日本書紀と古事記と違い
 『日本書紀』には、たしかに天照 大神が女性であったと記されているが、『古事記』では性別が逆に
なっていて、『古事記』のいうところの天照大御神は、「女帝」なのではなく、乙巳の変蘇我入鹿を殺し
天智天皇(中大兄皇子)にほかならない、とするのである。八世紀の朝廷が記したのは『日本書紀』で
あって、かたや『「古事記』は、『日本書紀」を編纂した朝廷とは相反する勢力が記した文書であったと
考えられる。たとえば、『日本書紀』は朝鮮半島の百済を重視し、百済寄りの文書であるのに対し、
『古事記』はむしろ新羅を尊重しているが、この差の意味するところは大きい。.

 
 天孫降臨の謎 関裕二




  
西明寺 隠れ菩薩

 滋賀県甲良町にある西明寺の国宝本堂の柱2本に、8体の仏像「八大菩薩立像」が描かれていること
がわかったと、調査した広島大の研究者らが発表した。 

柱は媒で黒くなり、肉眼ではほとんど見えなかったが、赤外線撮影したところ、像が浮かびあがった。

 本堂中央の須弥壇の左右端にある2本の柱から見つかり、4体ずつが上下2段に描かれていた。
いずれも腰高の細身で、顔は小さな目、垂直の鼻筋、太いあごなどの特徴がある。

 調査した安嶋紀昭·広島大教授(美術史学)と高間由香里。大阪教育大講師(同)によると、江戸時代 

ごろに補筆された跡があるが、原画はそれよりも古い時期に描かれたらしい。 

 寺は、「湖東三山」の古寺として知られる。本堂は鎌倉時代初期(世紀初め)に創建、南北朝時代 (14
世紀中ごろ)に現在の形に改築されたとされる。柱の像の一部は見えていたが、須弥壇には多くの仏像
が安置され、撮影機材を置く場所がなく、長い間調査できなかった。東京で開催中の「古典×現代2020」(
朝日新聞社など主催)に仏像を出展したことなどで調査が可能となり、昨年6月に実施された。 
   2020-8-12 朝日新聞(筒井次郎、渡義人)

 

 「八大菩薩立像」が確認されたのは、本堂(国宝) の須弥壇脇にある2本の 柱。広島大と大阪教育大の
合同調査チームが赤外線撮影したところ、すすで覆わ れた表面に4体ずつ菩薩像が浮かびあがった。

 安嶋紀昭·広島大教授によるとその姿 は長身で奥行きが薄く、背筋をそって若千腹部が出ている姿勢
など古式の様相が見て取れ、7世紀中ごろの法隆寺の百済管をほうふつさせるという。

 たとえば耳の表現。法隆寺の玉虫厨子扉絵にみられるシンプルな表現に似るといい、手のひらも中国
隋代の描き方で法隆寺金堂壁画より古い特徴を備えるとみる。「解明の鍵は小さな部分に宿っているも
の。柱絵を描いたのは、金堂壁画以前の描き方を踏襲している絵師集団ではなかったか」と安嶋さん。

 西明寺本堂の創建は鎌倉時代初期で、南北朝期に拡張されたというのが通説だが、それを証明する明
確な文献資料はないらしい。むしろ工具の加工痕や梁などの機造から、「母体となった建物が鎌倉以前
にあったのではないか」(安嶋さん)というのだ。

 西明寺のある犬上郡付近は奈良時代に東大寺建立にかかわる絵師集団が輩出した地だけに、7世紀
に渡来系絵師がいてもおかしくない。本堂は飛鳥時代に創建された犬上氏の氏寺ではなかったか。調査
チームは、そう推測する。ならば、柱絵は知られざる先行建物の存在を物語っているのだろうか。

 白鳳美術の白眉とされる法魔寺金堂壁画に年代的に並ぶとなれば、日本美術史上の大きな発見だ。
それだけに慎重論は少なくない。

 描線や容貌の表現から見ても飛鳥時代までのぼるのは無理で中世以降にくだるとか、古い様式を意識
して描いたのでは、などの見解も。通説より古い創建を建築史的に証明できるのか、といった声もあるよ
うだ。

 食い違う様式論の限界を超えるには年輪年代など科学的な分析も期待されるが、国宝の建物だけに難
しく、議論は平行線をたどりそう。しかし今回の発見 が、今もなお未知の絵画資料が眠っている可能性を
示唆した事実は大きい。仏教絵画に詳しい有賀祥隆・東京芸術大客員教授は「柱の下から仏画が出てき
たのは貴重な発見。制作年代や描かれた背景はこれからの検討課題だろう」と話す。
   2020-10-8 朝日新聞 夕刊 (井次郎、渡義人、編集委員·中村俊介)




竹之内街道

 613年に整備され、日本最古の官道とされる竹内街道。その東の起点近くにあるのが、街道名の由来と
もなった竹内集落(奈良県葛城市)だ。縄文時代から人々が住み始めたとされ、いまも草ぶきの大和棟が
残る古い町並みがみられる。

 「集落周辺からは、縄文時代から奈良時代までの遺跡が見つかっています」。暮城市歴史博館館長補佐
の神庭滋さん(47)は、集落の東の入口で辺りを指しながら説明する。周辺の開発に合わせた調査では、
縄文時代の墓や、弥生時代の石器が見つかった

 集落に近い二上山は、石器の材料となるサヌカイトの産地。縄文時代には竹内峠を越えて各地に石器が
運ばれた。石器の工房跡のような遺跡も見つかっている。石器作りの職人らが、この地に移り住んだことが
竹内集落の始まりとされる。

 同じ場所に代々暮らせば、古い建物を壊して建て直すのが一般的だ。では、なぜ複数の遺跡が残ってい
るのか。神庭さんは「背面の山が土砂崩れをおこし、埋まった場所が遺跡となった可能性がある」という。

 集落を西に進むと、江戸時代の面影を残す町並みが現れる。当時は、伊勢 (三重県伊勢市)や長谷寺
(奈良県桜井市)、修験道の聖地。大峰山 (同県天川村)へ向かう観光客でにぎわう宿場町だった。松尾芭蕉
も旅の疲れを癒やして、いくつか俳句を残した。集落には行き先を示す石の道標が今も残る。

庭さんは豊富な水を挙げる。集落は、葛城山系の山水を水路に引き込んでおり、いまも食器などの洗い場
が残る。行き交う旅人や、連れ歩く牛馬の飲み水の心配もいらなかった。

 現在も集落を通る竹内街道が613年に整備された道かは分からないが、江戸時代にあった道だという。
道標の横に立って古い町並みを見渡すと、はたごや茶屋の呼び込みでにぎわう様子が見えてきそうだ 。
  2020-8-14 朝日新聞 (渡辺元史)


竹之内集落

 近鉄南大阪線磐城駅から徒歩約20分。 竹内街道沿いには、松尾芭蕉が滞在中に詠んだ綿弓の句の
石碑のほか、無料の休憩所がある。休憩所には江戸時代の集落を再現した地図などが展示されている。
母方の実家がある 竹内で、幼少期を過ごした作家司馬遼太郎は、竹内峠と大和側の山麓(さんろく)を
「故郷のようなもの」と評した。著書「街道をゆく」 では、竹内街道を「国宝に指定されるべき道」と記した。
集落周辺に街道の東の起点・長尾神社がある。



朝風の棚田と飛び石 和田萃

 石舞台古墳や島庄遺跡のある明日香村島庄から、飛鳥川沿いの道をたどって飛鳥川上流を訪

ねるのは、まことに心楽しい。稲淵集落を抜けた川沿いに飛鳥川上 坐 宇須多伎比賣命 神社

柏 森集落の中に加夜奈留美命 神社があって、ともに飛鳥川の水神を祀る式内社である。

 明日香村島庄から稲淵に至る飛鳥川沿いの道の対岸に、見事な棚田が広がっている。日本棚

田百選にも選ばれている「朝風千軒」。昔は千軒もの家があって、栄えた所だったという。「朝

風千軒」では以前には休耕田を見かけたが、近年、棚田オーナー制度がすっかり定着し、かつ

ての景観がよみがえった。嬉しいことである。

田植えの済んだ後や、稲穂が赤らんで棚田の畔(くろ)が彼岸花で覆い尽くされる頃の景観は素晴
らしい。稲刈りが終わると、棚田のオーナーらによる案山子フェスティバルも開催され、大勢の人

たちでにぎわう。

 稲淵の龍 福寺に残る「竹野王碑」に「朝風」の地名がみえ、古代から「朝風」と称されてい

たことがわかる。竹野王碑は三重の小さな石塔四面に銘文を彫んでいるが、風化していてほと

んど読み取れない。銘文の文末は、かろうじて「天平勝寶三年 (七五一)歳次辛卯」と読めるので、

奈良時代中期の石碑である。稲淵から明日香村上平田に通じる峠道があり、かつて竹野王碑は

朝風峠 (現在では平田峠と称する) 付近にあったと伝えている。朝風の地名は、陽が上ると、川下

から上流に向けてさわやかな風が吹き上げてくることに由来するらしい。「アスカ」という地

名の由来とともに、小著「飛鳥」でふれたから、参照されたい。

 稲淵集落の入り口にある勧請橋の近くに、「勧請縄」が飛鳥川に架け渡されている。その

中央に稲藁で作った男性のシンボルが吊り下げられているので、「男綱」と呼び慣わす。日本

の各地に、疫病神や悪霊などが道を伝ってムラの中に侵入するのを防ぐため、勧請縄をムラの

入り口や出口に架け渡す民俗がある。「道切り」とも言う。「道切り」は、中世の『一遍上人絵伝』

にもみえるから、稲淵の勧請縄を架け渡す習俗は確実に中世にまで遡る。

 勧請橋から少し上流に「飛び石」がある。表面の平らな、八つの自然石が川中に据えられて

いて、歩いて川を渡ることができる。「飛び石」に立って上流を見ると、山峡が迫り飛鳥川に沿

って風が流れる。まことに心地よい。皇極三年(六四四) 正月、中大兄皇子中臣鎌足
蘇我入鹿打倒の秘策を練りながら、稲淵 (当時は南淵)

にあった南淵請安の家に通ったという(『日本書紀』)。二人がこの「飛び石」を渡った可能性も

あるだろう。「飛び石」を踏んで飛鳥川を渡る時、私はいつも我が身が奥飛鳥の景観に溶け込み、

時空を超えて古代にいるような思いにとらわれる。

 稲淵集落の中ほど、やや小高い丘の上に南淵請安の墓がある。近世になって作られたもので

あるが、かつて朝風峠近くにあった「セイサン塚」を遷したと伝える。「セイサン」は「セイアン
(請安)」が訛ったものだろう。

 稲淵では、吉野の上市に至る芋ヶ峠越えの道に沿って集落が形成されている。山の麓に連な

る見事な石垣をもつ民家群や、山麓の飛鳥川沿いの低地に広がる水田や畠地の形成する景観は、
中世的なものと言ってよい。そうした景観には、古代に遡るものも含まれているだろう。
万葉集』に歌われた飛鳥の景観は、飛鳥川上流の奥飛鳥に色濃く残っている。
  飛鳥の古社を歩く 和田萃



飛鳥川上坐宇須多岐比賣命神社 和田萃

 稲淵集落を抜け、飛鳥川沿いの道を上ってゆくと、「宮山」と称する円錐形の小山に、式内

社の飛鳥川上坐宇須多伎比責命神社が鎮座する。

道沿いに神社名を示す石標があり、百九十段もの長く険しい石段を上ると、山の中腹に拝殿が

ある。当社は拝殿のみで本殿がない。大和の青垣の山々の一つ、三輪山と同じように、「宮山」

は神体山であり、神の龍りいます神奈備山として信仰されてきた。飛鳥の中心部からは南淵山

に隠れて見えないが、朝風峠 (明日香村稲淵と上平田を結ぶ旧道の峠) から望むと、まことに
秀麗な山であることがよくわかる。

 近世には「宇佐宮」と称されていたが、式内社の飛鳥川上坐宇須多伎比責命神社であること

に間違いない。石標のすぐ下を飛鳥川が流れている。付近の河床は露岩で、永年にわたる速い

水の流れで大きく削られて曲流しており、そのためいつも大きく渦巻いている。そして滝つ瀬

となって流れ下る。そうしたところから、神体山である「宮山」に、ウスタキヒメ命 (渦滝媛命)

という水の女神が祀られたのである。

 皇極元年 (六四二) 七月の大早 (大ひでり) に際して、皇極女帝は南淵の河上に行幸し、跪(ひ
ざまず)いて四方を拝し天を仰いで祈ったところ、たちどころに雷鳴して大雨が降り出した。雨は
五日間にも及び、普(あまね)く天下を潤した。それで人々は「至徳(いきおいまします) 天皇」と誉
め讃えたという。南淵河は飛鳥川の上流を指す。皇極女帝が雨請いをした場所は、「宮山」の中
腹であった可能性が大きい。

 さらに飛鳥川沿いの道を上ってゆくと、道際に小さな磐座がある。「福石」と言う。その場

所から対岸に勧請縄が架け渡されている。「女綱」と称す。「男綱」と同様、中央に藁で作った

女性のシンボルを吊るしている。稲淵の集落を抜けた辺りから「福石」付近までは、山峡が迫

って見上げる空も狭い。時折、車とすれ違うものの、雨の日などは心細くさえ思う。ところが

「福石」を過ぎると、川辺に水田や畠が広がり、空も広やかになって、心が晴れる。明日香村

栢森地区である。栢森の地名は、かつて栢の木が多数あったことに由来するのだろうか。
芋ヶ峠に至る旧道に沿って、栢森の集落が広がる。
  飛鳥の古社を歩く 和田萃



加夜奈留美命神社 和田萃

 栢森地区では、飛鳥川の川床は露岩となっており、各所で小さな流れが注ぎ込む。それで村

なかを歩いていると、いつも川の瀬音が響いて心地よい。集落の中ほど、旧道に沿って見事な

百日紅のある龍福寺があり、すぐ東に隣り合って式内社の加夜奈留美命神社が鎮座している。

鎮座地は尾根筋のやや小高い所で、北側の崖下には男淵·女淵から流れ下ってくる川がある。

龍福寺の前にも東南からの細い川の流れがあるので、二筋の川に挟まれた社地では絶えず川の

瀬音が響いている。そうした川の瀬音「ナルミ」を、水の神として肥ったのが加夜奈留美命神社

である。

 式内社の加夜奈留美命神社の鎮座地は、近世末頃には不明となっていた。それを復興したの

が、後に南画の大家として著聞するようになった富岡鉄斎 (一八三六~一九二四)である。鉄斎は

若い頃、大田垣蓮月尼 (一七九一~一八七五) の薫陶を受け、幕末には勤王の志士と交わって国
事に奔走した人である。その功績が認められ、明治初年に石 上神宮 (奈良県天理市に鎮座)の
宮司に任命された。その在任中、鉄斎は加夜奈留美命神社の復興を志し、何度も岡 (明日香村岡)
に宿泊して調査を重ねた。そして栢森の小字「堂の後」にある「葛神」と称されていた小祠を式内社
の加夜奈留美命神社と考証した。

 鉄斎はまた、同社復興 の資金を捻出するため、村人に書画を書き与え、その代価を貯えた。
岡の旧家に富岡百 錬 (当時、鉄びやくれん斎は百錬·白錬と号した) の署名のある書画を見かける

のは、そうした経緯による。

鉄斎の「公私事歴録」によれば、明治十一年(一八七八)に堺県に書類を提出し、また金五円を地元
に奉納して、同社を復興した。

書類の提出先が堺県であるのは、明治九年に奈良県が堺県に合併されたことによる。明治十四年
に至り大阪府に編入されたが、明治二十年に分離独立して、再び奈良県となった。

 なお地元の方にうかがうと、富岡鉄斎が復興した社殿は、昭和八年 (一九三三) 十一月に近隣
の火事で延焼し、その後に再建されたものである。  

飛鳥の古社を歩く 和田萃


飛鳥・藤原の宮都

 宮都が飛鳥·藤原にあった6世紀末から8世紀初め、古代東アジアはひとつの文化圏を形成していた。

人思想文化技術の豊かな交流のあったグローバルな世界/時代のなかで、我が国は新たな国づくりを行い、自らの国を
「日本」と呼んだ。「飛鳥·藤原の宮都とその関連資産群」は東アジアにおける交流と「日本」誕生の記録が刻まれた遺跡群
である。

我が国の歴史上、飛鳥時代と呼ばれる6世紀末から8世紀初め、我が国はじめての本格的な宮都が飛鳥·藤原

の地に築かれた。この時代、我が国を含めた東アジア諸国は中国を中心とした東アジア文化圏と呼ばれる

世界を形成し、そこでは人·思想·文化·技術の豊かな交流があった。このなかで我が国は中国に遣隋使·遣唐使
を派遣し、朝鮮半島からは僧、技術者等を積極的に招来し、律令という政治制度の導入や世界宗教であった

仏教の受容など様々な思想·文化·技術を摂取し自己のものとして発展させた。「日本」という国号、「天皇」

という称号は飛鳥時代に生まれたとされる。古代東アジアがひとつの文化圏にあったグローバルな世界のな

かで、我が国は律令制による天皇を中心とした中央集権国家に生まれ変わり、自らの国を「日本」と呼んだ。

「飛鳥·藤原の宮都とその関連資産群」は、東アジアにおける歴史上重要な交流と「日本」誕生の記録が刻ま

れた、累代の天皇,皇族の宮殿をはじめ、それに附属する漏刻(水時計)、祭記、苑池などの諸施設、はじめての仏

教寺院である飛鳥寺などの諸寺院、当時の有力者の墳墓などの遺跡群で構成された資産である。
 

 「飛鳥·藤原の宮都とその関連資産群」は地下に重要な遺構·遺物が遺存する我が国の考古学的遺跡を代表する遺跡群
である。

これらは、現在日本の政治社会·文化の基層となり、時代を越えて現代に生きる我々にも大きな影響を与えている。

飛鳥·藤原の遺跡群は、木造建築の遺跡を主体とすることから地上に可視的な痕跡を残すことが稀な、地下に重要な遺構。

遺物が残る我が国の考古学的遺跡の価値特質を代表する。これらは、飛鳥·藤原がその後再び日本の政治、経済の中心

地となることがなかったことから、歴史的変容を受けることなく今なお地下に良好な状態で残されている。遺構及び土器

や瓦、文字資料としでの木簡などの豊富な出土遺物は精緻な調査が行われ、「日本書紀」などの文献史料の研究も併せ、

新たな国家形成期における政治、社会、文化、宗教等のあり方を生々しく伝えている。

飛鳥,藤原の資産群は現代に生きる我々にとっても大きな価値を持っている。構成資産のひとつ、大和三山は我が国古来

の神々が鎮まる山であり、さらに神仙思想の影響から宮を鎮護する神山として藤原宮の選地にも大きな影響を与えたが、

宮を正しく三方に囲む三山の情景は時代を越えて残存する優秀な風致景観として現在に残っている。また、宮跡、寺院跡

等の遺跡群は、現代日本政治の基層をなす官僚制等の政治機構 理念の成り立ち及び現代日本人の精神文化、生活様
式の基盤となる仏教等の宗教·思想の受容のあり方等を遺構のなかに体現している。

現在、日本、中国、韓国等東アジア諸国の間ではメディア文化等新たな文化の交流が展開されている。東アジアの現在と未

来を考えるために、我が国古代史上最も豊かな交流のあった飛鳥時代を振り返り、その歴史的意味を認識することは重要

であり、飛鳥·藤原の地下に眠る遺跡群は我々にその意味を語りかけている。
  世界遺産{飛鳥・藤原」登録推進協議会 明日香村・桜井市・橿原市・奈良県



六角堂頂法寺

 京都の東西に六角通が走る。由来は六角堂 頂法寺。その名の通り、
本堂は六角形だ。

 「わが思う心のうちは六(むつ)の角(かど) ただ円(まろ)かれ

と祈るなりけり」

 これは六角堂の御詠歌。心にひそむ六つの角をすて、心を丸くしようと
説く。 六つの角とは目、耳、鼻、舌、身、意、つまり五感と意識によって生
じる欲だ。「心や体が正しく作用していると思っていても、だれしも先入

観があり、色眼鏡でみては、 うそをつく。六つの角を、 あえてお堂に作り、
人びとに教えているのです」 と僧侶の田中良宣執事。

 今年、 没後1400年にあたる聖徳太子が創建したと伝わる。 587年、
大阪の四天王寺をつくるため、材木を求めてこの地を訪れた。四天王寺
法隆寺よりも早く建てられた寺という。はじまりを意味する「頂」と、仏法
の「法」の字から頂法寺になった。

 初代住職は小野妹子遣隔使のあとに出家し、法名は尊務。それ以来 
六角堂の住職は「専」の字をつける。次の住職は、いけばな池坊の次期
家元の専好さんだ。
 2022-5-16 朝日新聞(岡田匠)



海龍王寺

 奈良時代以前、野見宿称を祖とする土師氏の氏寺を、平城

遷都の際に藤原不比等が譲り受け、邸宅を構えます。

 不比等の没後、これを受け継いだ娘の光明皇后は、遣唐

留学僧·玄助が新しい仏法を無事に持ち帰ることを願い、

寺院の伽藍を整備しました。帰国後、玄肪は内裏に近い

この寺院の住持に任じられます。旅の途中、嵐に襲われた

玄防が海龍王経を唱え難を逃れたことから、寺号も海龍王寺

と改められました。このエピソードにちなみ、 いまでも

旅行や留学の安全を祈願するお寺として知られています。

 見どころは、創建当初からの建物である西金堂(重要文化財)

と、堂内に安置されている天平時代建造の五重小塔(国宝)。

 また江戸時代に建てられた本堂には、鎌倉時代造立でご本尊

の十一面観音立像(重要文化財)(※)が安置されています。

 春先には雪柳が境内一円に咲き乱れ、「花の寺」としても

有名です。

※通常は戸帳越しの公開。毎年3月下旬~4月上旬、5月上旬、
10月下旬~11月上旬の特別開帳等でのみ開帳。


玉体杉

 テレビで、マラソンをよく見る。4㌔を走り通す選手の姿を追っているうちに

夢中になっている。

 そんなとき、千日回峰行者の酒井雄哉さんのことを思い出す。行者は日に40㌔

近くを歩き、それが断続的に千日間つづく。マラソンランナーは1日仕事である 

が、回峰行者は千日仕事だ。

 1対1000、これは凄い、と思わないわけにはいかない。もっともマラソンランナー
は走るのが専門。だが、回峰行者は歩きに歩く。そういう違いはある。

舞台はもちろん比叡山の鬱蒼と茂る山中での話である。 

 その酒井さんがまだご存命のころ、私は一夜だけそのあとを追いかけたことが

ある。ちょうど酒井・大阿闍梨が二度目の回峰行に挑んでおられるときだった。

飯室谷の御坊でご挨拶し、あらかじめお許しを得ていた。深夜に起き、白装束で

山道にあらわれる行者のシルエットを拝んであとをつけた。

 むろん飛猿のように峰々に分け入る行者にそのままついていくことなどできる

わけがない。自動車道をタクシーで先回りし、行者の出現を待つのである。ほん

のわずかだけ山歩きをしただけだったが、それでも全身から汗がにじみ出た。

 峰々をかけめぐる行者のルートはきちんと定められており、立ち寄って礼拝す

る場所も決められている。その一つに「玉体杉」と称する巨木がすっくと立って

いるところがある。奥比叡ドライブウェイ沿いに、横川に向かって行ったところ

だ。

 行者を追って車を捨てて山道に入り、しばらく歩くと峰の林が切れたあたりで

急に視界が開け、一本の杉の巨木が天を摩して伸びている。下方に目を移すと京

都の洛中洛外がかすかな灯りの海を浮かび上がらせ、闇の底に沈んでいた。

 見ると、その巨木の足元に、平らな石でつくられた座席が設けられている。 そ

こに行者が座り、はるか御所を望んで玉体(天皇のからだ)の安穏を祈る。 玉体

加持のことだが、その作法が今日まで伝えられているのである。酒井さんがお経

を唱えているあいだ、 その足元に2匹の犬がうずくまり、じっと耳を垂らしてい

た。その光景が今でも眼前に浮かぶ。
  2016-11-12  朝日新聞
山折哲雄やまおり・てつお 1931年生まれ。宗教学者、
国際本文化研究センター元所長。


唐招提寺のうちわまき

 鎌倉時代、唐招提寺の中興の祖・大悲菩薩覚盛上人が「自分の血

を与えるのも菩薩行」と、蚊にく われるまま修行していたことを偲

び、法華寺の尼僧がせめて蚊を払 ってさしあげようと団扇を作って

亡き上人に供えたのが由来だ。 舎利殿(鼓楼)からまかれる団扇を

授かると、病魔退散、厄除けのご利益があるといわれ、例年5月19

日には多くの人で賑わう。 団扇は授与所でも求めることができる。



高市皇子の挽歌

 この歌は、天武天皇の長子の高市皇子が持統天皇十 (六九六)年に亡

くなった時の挽歌で、『万葉集』中で最長の長歌として知られています。

前半は、父の意を受けて壬申の乱を最前線で戦い、軍衆を率いて勝利に

導いた高市皇子の勇壮な姿が、長歌の名手である柿本人麻呂によって見

事に描写され、「歌による壬申紀」とでも言うべき雄大な叙事詩となって

います。後半では、主人を失った高市皇子宮に仕える人々の悲しみや葬

送のさまが描かれます。歌中の「埴安の御門」、「香具山の宮」、「百済の

原」、「城上の宮」といった地名は、高市皇子宮の比定地を探す手がかり

としても重視されています。
  県民だより 奈良 2022ー6月号 (本文万葉文化館 竹内亮)

 

かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏(かしこ)き 明日香の 真神(まがみ)が原に 
ひさかたの 天つ御門(みかど)を 畏くも定めたまひて 神さぶと 磐隠(いわがく)ります

やすみしし わご大君の きこしめす 背面(そとも)の国の 真木(まき)立つ 不破山越えて

高麗剣 (こまつるぎ) 和蹔(わざみ)が原の行宮(かりみや)に 天降り 座(いま)して 
天の下 治め給ひ 食(を)す国を 定めたまふと 鶏が鳴く吾妻の国の御軍士(みいくさ)を 
召し給ひて ちはやぶる 人を和(やは)せと 服従(まつろ)はぬ 国を治めと 皇子ながら 
任し給へば 大御身(おほみて)に 大刀取り佩かし 大御手(おほみて)に 弓取り持たし
御軍士を あどもひたまひ 斉(ととの)ふる 鼓(つづみ)の音は 雷(いかづち)の 声と聞くまで

吹きせる 小角(くだ)の音も 敵(あた)見たる虎か吼(ほ)ゆると 諸人の おびゆるまでに 
捧げたる 幡(はた)の靡(なびき)は冬ごもり  春さり来れば 野ごとに 着(つき)きてある火の 
風の共(むた) 靡(なび)くがごとく 取り持てる 弓弭(ゆはず)の騒(さわき) み雪降る 
冬の林に 飃風(つむじ)かも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの恐(かしこ)く 引き放つ 
矢の繁(しげ)けく  大雪の 乱れて来れ  服従はず 立ち向ひしも露霜の 消なば消ぬべく 
行く鳥の あらそふ間に 渡会(わたらひ)の 斎(いつき)の宮ゆ  神風に  い吹き感はし 
天雲(あまくも)を 日の目も見せず 常闇に 覆ひ給ひて 定めてし 瑞穂(みずほ)の国を 
神ながら 太敷(ふとし)きましてやすみしし わご大君の 天の下  申し給へば 万代に 
然しもあらむと 木綿花(ゆふはな)の 栄ゆる時に わご大君 皇子の御門を 神宮(かむみや)に

装(よそ)ひまつりて 使はしし 御門の人も 白栲(しろたへ)の 麻衣着(あさころもき)

埴安(はにやす)の 御門の原に 茜さす 日のことごと 鹿(しし)じもの い匍(は)ひ伏しつつ 
ぬばたまの 夕(ゆふへ)になれば 大殿を ふり抜(さ)け見つつ うづらなす い匍ひもとほり 
侍へど 侍ひ得(え)ねば 春鳥(はるとり)の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 憶(おも)ひも 
いまだ尽きねば 言(こと)さへく 百済の原ゆ 神葬(かむはふ)り 葬りいませて 麻裳(あさも)よし
城上(きのへ)の宮を 常宮(とこみや)と 高くしまつりて 神ながら 鎮まりましぬ 然れども 
わご大君の 万代と 思ぼしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや 天の如 
ふり放け 見つつ玉襷(たまだすき) かけて偲はむ 恐くありとも

 柿本人麻呂 巻二 (一九九番歌)

訳 (大意)

 飛鳥の真神原で天下をお治めになった (天武)天皇が、荒々しい従わぬ者

を鎮めよと高市皇子に任されたので、皇子は勇ましく軍衆を率い、伊勢

の神宮から吹く神風で敵を惑わせて平定なさった。そうして栄えていた

折、皇子はお隠れになり、宮人たちはさまよい嘆いた。皇子がおられた香

具山の宮はいつまでも荒れることがないだろう。深くお偲びしていこう。


黒死病

 中世ヨーロッパの人口の3分の1が犠牲になったともされる「黒死病」。その原因と

なるペスト菌は14世紀前半に、中央アジアからもたらされた――。そんな研究成果を

ドイツや英国のチームが発表した。いまのキルギス北部で発掘された人骨から、古いペ

スト菌のDNAの復元に成功した。

 ペスト菌は、ネズミ類の体内に潜む細菌で、ノミを介し て人に感染することが知られ

ている。

 14世紀の大流行は欧州で「黒死病」と呼ばれて恐れられた。1346年春に、クリミ

ア半島の黒海沿岸で発生したのが最初の記録で、その後、欧州や中東、北アフリカにも

広がった。その起源については、西ユーラシアから東アジアまで、いくつか説がある。

考古学的な証拠の一つが、 現キルギス北部で発掘された、複数の中世の人骨。墓石

に刻まれた文字から、多くが1338~39年に、「疫病」 で亡くなって埋葬されたこと

がわかっていた。ただし、欧州の黒死病と生物学的な関連があるのかは不明だった。

 独マックス・プランク進化人類学研究所や英スターリング大などの研究チームは、こ

の人骨の歯から古いDNA断片を採取して配列を解読。 す ると、うち3体から、ペスト

菌のDNA断片が見つかった。 断片をつなぎ、当時のペスト菌のDNAを復元するこ

とに成功した。

 さらに、これまで特定され黒死病の古いペスト菌などと比較。その結果、黒死病の

ペスト菌は、今回復元されたペスト菌から11世紀前半に直接分岐したことがわかった。

 キルギスと中国にまたがる天山山脈の周辺は、中国と地中海を結ぶシルクロードの交

易が盛んだった。この地域に生息するネズミの仲間からはペスト菌が見つかっている。

 チームは、この地域で当動物から人へのペスト菌の感染が起こり、その後の黒

死病につながったと考えられるとした。

 成果は15日付の科学誌ネイチャー電子版に掲載された。 
  2022ー6ー16 朝日新聞(夕刊)野口憲太


大峰山参拝禊ぎ場

 赤根天神社東側の天神池の前、石段を降りると、禊ぎ場の跡が残って

います。ここは今里地区の若衆が、奈良県吉野郡にある修験道の根本霊

場である大峰山へ参拝の折に、道中の安全と修行の成就を願って身を清

めた禊ぎ場でした。

 この場所には、かって絶え間なく清らかな水が湧き出ており、古来か

ら神聖な地として大切に守られてきました。 昭和40(1965)年ごろま

では、女人禁制で実際に使用されていたと言われています。

 今里では、毎年9月ころ成人に達する前の若衆が、 先達 (大峰山山入

の回数で格付け) の引率により大峰山の行場で修行しました。

 これは、大人の男に仲間入りする節目の一つとされ、 「行者さん」 ・

「行者講」と呼ばれていました。 「行者講」というのは、大峰山信仰に基

づく集団で、地元各地区に存在していました。 最近では、 代参者が交代

で大峰山 参拝し、 お札を講員に配っているそうです。

 昔はほかに、 伊勢講 大師講、観音講などの信仰的な集団が各地で組

織されており、信仰が生活と密着し、住民同志のつながりも密接であった
ことをうかがい知ることができます。

 なお、禊ぎ場脇の祠堂の中には修験道の開祖とされる“役行者”の

石像が安置されています。 高さ89cmほどの浮彫りの像で、 刻銘による

大峰山参拝禊ぎ場弘化3(1846)年、大峰山へ38回も参詣した俗名惣七衛
門の建立と刻まれています。
 長岡京市の史跡を訪ねて」長岡京市ふるさとガイドの会 より


赤根天神社

 祭神は伊弉諾尊伊弉冉尊ですが、 現在は赤根天神社と呼ばれてい

ます。 鳥居に「天満天神宮」とあり、 菅原道真公も祀っていると思われ

ます。

| 昔、この地には井ノ内の旧家石田家の屋敷があり、 この神社は屋敷

内に建つ石田家の氏神であったそうです。 その後、応仁の乱で焼失し、

元和2 (1616) 年、 石田瀬兵衛が再建したと伝えられ、現在も境内には

石田瀬兵衛寄進の石灯籠や石鳥居などが残っています。

 石田家は井ノ内の有力な旧家で、 角宮神社や、 光明寺などの寺社にも

石田家寄進の石灯籠 鳥居が今も数多く残っています。

 江戸時代中期以降は、 ここ今里地区の鎮守社として、 住民らが家内安

全、五穀豊穣を祈り、境内の灯籠などにも寄進した今里住民の名前が

刻まれています。

 本殿は一間社流造、 こけら葺で、 奥行一間の前廂をつけて拝所とし、

身舎内部は二室から成り、 内陣の正面には板扉、外陣の正面には格子戸

4枚を立てています。 かなり大きな社殿で、木割も大きく、全体に堅実

な造りとなっています。

 蟇股の彫刻や、虹梁の絵模様など、細部の意匠は比較的おとなしく

造られていて保守的な傾向が見られます。

 造営は正徳3(1713)年と伝えられ、蟇股や虹梁などの意匠の特徴も、

18世紀前期のものとして間違いないようです。

 かつては、天神社所有の田があり、その収入で供物などを賄ってきた

といわれていますが、現在は今里の七つの町内が1年交替で宮当番を務

め、毎月1日と15日に社域を清掃し、御神酒を供え、区民の安全を祈

願しています。

 この七つの町は「チョウ」と呼ばれていたころからの古い町だけで構

成されています。

 このようなことから昔の地区住民と赤根天神社とは深いつながりが

あったことがわかります。 このほか、毎年、元旦祭、 お節会祭、お千度

参りなどの年間行事も行っており、 また、 この神社は、 向日市の向日神

社の御旅所としての役割も務めており、 向日神社還幸祭には向日神社の

御輿(御鳳輦と呼ばれる)も巡行し、 今里自治会と子供会の二対の子供

神輿 (男神輿女 (花) 神輿) が町内を練り歩きます。

 今里自治会館に保管してある古文書にはこの神社の事がいろいろ記録

されています。

 平成4(1992)年に修復が行われ、その時「寶永二歳酉三月日 深草

瓦町 久右衛門」の刻銘がある、 瓦製の狛犬一対が見つかり、その歴史

的価値が認められ、 平成6 (1994) 年市指定文化財となりました。 同時

に、本殿とその覆屋も文化財指定されました。
 長岡京市の史跡を訪ねて」長岡京市ふるさとガイドの会 より



奈良豆比古神社の翁舞(県民だより 奈良 2022/2023 9月号)

 翁舞は毎年 10月 8日に行われている、奈良市の代表的な伝統行事です。
奈良時代に春日王の病気平癒祈願のため、 2人の皇子が舞を奉納した
のが始まりとされていますが、そのうちの 1人が安貴王でした。翁舞は猿楽
(能 )のルーツといわれており、大和各地の祭礼行事で奉納されてきました。
中でも奈良豆比古神社には古い形が残されており、 国の重要無形民俗
文化財にも指定されています。
翁舞の起源

 翁舞の歴史は古く、奈良時代に春日王の病気を治すため、2人の皇子が舞を奉

納したことが始まりとされています。翁舞は猿楽(能)のルーツといわれており、春日

大社をはじめ、各地の祭礼行事で奉納されてきました。中でも奈良豆比古神社に

は特に古い形態が残っており、国の重要無形民俗文化財にも指定されています。

 また、神社には現在使用されているものを含め多数の能面や装束が伝えられ

ています。室町時代に作られたものもあり、翁舞での使用時を除き普段は奈良国

立博物館に保存されています。

 

古式ゆかしい伝統の舞

 翁舞は毎年10月8日の夜、秋祭り宵宮 (本祭の前日)で氏神である奈良豆比古神

社に奉納されます。9月2日に年齢と経験によって配役が決定します。小学3~6年
生が演じる千歳・青年が担う小鼓 三番叟(そう)、そして地謡・大 鼓・脇の翁を経て
60歳代太夫の翁を演じま 地謡のリーダーである地頭は太夫の経験者が演じる重要
な役で、笛は熟練者が担当します。また、輪番で選ば れる3軒の当家は翁舞には
出演せず、1年間の祭事の世話をします。

 9月22日から1週間は毎夜練習を行い、10月4日には神社の拝殿で「勢揃え」と呼

ばれる予行練習を行います。宵宮当日の20時ごろ、演者は神社の衣装部屋で着替え、

渡り床(橋掛かり)を通り、拝殿に着座します。笛と小鼓の音とともに太夫と地謡が

掛け合う前謡から舞が始まり、千歳が長寿を祝う千歳舞、太夫が天下泰平を祈願

する太夫舞、脇2人の翁が太夫の舞に加わる翁三人舞、千歳と三番叟が問答を行う

三番叟舞の順に1時間ほど演じられます。


後世につなぐため

 古くは「翁講」に所属する人々が翁舞を継承していましたが、少子高齢化の影

響で後継者が減少傾向になっています。

そこで平成15年に「翁舞保存会」を結成し、氏子から後継者を広く募っています。

また、従来は9月27日であった配役決定の時期を最近は4月中旬に早め、練習期

間を長く確保するなどの取り組みも行っています。


高穴穂宮(たかあなほのみや)地図

 
 高穴穂宮跡碑 
元帥伯爵 東郷平八郎書
日本書紀 景行天皇 
 五十八年の春二月の辛丑の朔辛亥(11日)に、近江国に幸して、志賀に居しますこと
三歳。 是を高穴穂宮と謂す。

 六十年の冬十一月の乙酉の朔辛卯(7日)に、天皇、高穴穂宮に崩りましぬ。
時に年一百六歳。

  幸して     いでまして
  居します    まします
  三歳      みとせ
  謂す      まうす
  崩りましぬ  かむあがりましぬ

 延喜兵部式に穴多駅がみえる。今、大津市穴太。

なお古事記には景行天皇の近江遷幸のことは見えず、次の成務天皇について
「坐近淡海之志賀高穴穂宮、治三天下也」とある 。

 崩御の年百六歳とすると、即位時四十七歳となり、立太子した垂仁三十七年
にはまだ生れていないことになる。一方、即位前日本書紀によって立太子の時
二 十一歳とすると即位時八十四歳、崩御の年百四十三歳となる。記に「御年壱
佰参拾漆歳」とあり、後代の年代記類にも諸説あり一定しない。

宮の跡
   
   
穴太(あのう)駅 地図 
   
近江神宮3.3km 東海自然歩道 日吉大社2.5km→ 



弓削の皇子への挽歌

 やすみしし わご大君(おおきみ)

 高光(たかひか)る  日の皇子

 ひさかたの  天(あま)つ宮に

 神(かむ)ながら  神(かみ)と座(いま)せば

 其(そこ)をしも  あやにかしこみ

 昼はも  日のことごと

 夜(よる)はも はも夜(よ)のことごと

 臥(ふ)し居嘆(ゐなげ)けど

 飽(あ)き足らぬかも

  置始東人 (おきそめのあづまひと) 巻二(二〇四番歌)

あまねき支配者のわが大君、高く輝

く日の御子、遥かな天の宮殿に神々し

く神としておいでになったので、そのこ

とを不思議なほど恐れ、昼は一日中、

夜は一夜中、身をふせ、座り、嘆くの

だが、心の満たされないことよ。

 

 この歌は、天武天皇の皇子のひとりである弓削皇子が亡くなった時

に、置始東人が詠んだ歌です。

「やすみししわご大君」とは天皇への讃美表現ですが、天武天皇の皇

子たちにも用いられました。

 弓削皇子は天武天皇と大江皇女との間に生まれた皇子で、大江皇
女は天智天皇の娘であることから、天智天皇の孫にもあたります。

 『懐風藻』には、持統天皇十(六九六)年に高市皇子が亡くなった際、
皇位を継ぐ人物を選定する場で弓削皇子が発言しようとして葛野王に
叱責されたとあります。このとき弓削皇子は、同母の兄である長皇子
を推薦しようとしたと考えられています。長皇子と弓削皇子は父母とも
に皇族であり、皇位を継承するに足る身分であったといえます。しかし、
天武天皇と持続天皇の子である草壁皇子の子・軽皇子が皇位を継ぐ
ことは、すでに内定していたといわれます。翌年には即位し、文武天皇
となりました。

 弓削皇子が亡くなったのは、文武天皇三(六九九)年のことでした。こ

の歌の作者である置始東人は生没年未詳ですが、同年の難波行幸に

も同行して歌を詠んでいます。
 県民だより奈良 2022-11月号 (本文 万葉文化館 井上さやか)


粟原寺跡(おお ばらでらあと・桜井市)地図

 弓削皇子の異母兄弟である草壁皇子を追善するために発願された

寺院で、持統天皇八(六九四)年には金堂と丈六の釈迦像が造られまし

た。談山神社所蔵の当寺院の三重の塔の伏鉢(国宝)には寺院創建の由

緒を記した銘文が彫られており、現在は奈良国立博物館に寄託されて

います。当地には礎石だけが残り、「粟原寺跡」として国の史跡に指定

されています。
 県民だより奈良 2022-11月号


国栖奏(くずそう)

国栖奏 (奈良県指定無形民俗文化財)

 旧暦の1月14日に浄見原神社で奉奏されている国柄奏。その歴史は古く、288年、
応神天皇吉野に行幸された時に、国栖人が歌舞を奏したのが始まりとされる。

 672年にも大友皇子の追っ手から大海人皇子を助け、腹赤の魚(ウグイ)、醴酒
(こざけ・一夜酒)、毛彌(もみ・アカカエル)などを献上し、国栖舞を奏した。天武天皇
は即位後、国栖舞を「翁の舞」と名付け、大嘗祭などで奉奏することを定めた。
 その後、平安末期の争乱で奉奏ができなくなると、国栖人は天武天皇をご祭神

とする浄見原神社を造営し、今日まで絶えず国栖奏を奉奏している。

 県民だより 奈良2022年11月号 吉野村産業観光課
川舟に隠れた皇子 山崎しげ子 県民だより 奈良2022年11月号

 四季折々、美しく彩られる吉野の山々と山裾を縫う清流、吉野川。今回は、その
吉野郡吉野町の国が舞台のお話。『国栖』で語られるハラハラドキドキの物語を
辿ってみたい。

 昔、昔、日本の主都が琵琶湖に近い近江大津宮にあった時代、時の天皇である
天智天皇が病床に伏し、皇位継承の話がささやかれた。天皇の本心は実子の
大友皇子に。それを察した天皇の弟で皇太子の大海人皇子は危険を感じ、吉野に
身を隠した。

 能『国栖』はここから始まる。

***

 釣り竿を持ち、川舟に乗って国栖に住む老夫婦が帰ってくる。と、わが家の上に
紫雲がたなびいている。 紫雲は高貴なしるし。不思議に思い家に入ると、何とそこ
には冠に直衣(のうし)姿の大海人皇子がおられた。

 実は、この皇子の役は、子方の少年が演じている。その可憐さに客席の緊張感
はにわかに和む。

 聞けば、皇子は二、三日、食事をされていないとか。夫婦は根芹(ねぜり)と国栖

魚(鮎) の焼物を差し上げた。

 皇子は二人を労い、鮎の片身をに与えた。それを翁が吉凶を占うため吉野川に
放つと、不思議や、鮎は生き返り、泳ぎ去った。皇子が天皇になる瑞兆だった。

 さて、舞台は一転、クライマックスへ。弓矢を持った敵方の追っ手が登場する。
翁は皇子を急ぎ、伏せた川舟の中に隠した。 そして気迫の応戦で追っ手を追い

払う。この場面は痛快。

 舟から救い出された皇子。少しぐったりしている。客席は、幼い子方が暗い舟の中
で耐えていた健気さにグッと胸を熱くする。皇子は、「都に帰った時は、この恩に報
いよう」と申され、老夫婦は感涙。

続いて、舞台はにわかに華やぐ。

天女が舞い、蔵王権現が出現、来るべき天皇の御代を寿ぎ終演となる。
***

 大海人皇子は吉野で挙兵、大友皇子軍との激戦(壬申の乱)に勝利し、天武天皇
として飛鳥浄御原宮で即位した。英明な天皇の、日本の新しい国造りはここから始
まる。

 今年は、その壬申の乱 (672年)から1350年の年でもある。




舎人親王邸(地図

 

 天武天皇の皇子で、「日本書紀」の編纂者として広く知られる舎人親王 (676 ~
735)。その邸宅跡の有力候補地を奈良市埋蔵文化財調査センターが10月まで

発掘調査したところ、奈良時代前期の大型建物跡が見つかった。過去の調査で検出

された建物跡と南北に整然と並んでおり、舎人親王邸説を補強する発見として注目

されそうだ。 

 建物跡が見つかったのは、奈良市大宮町4丁目の国道369号に面し

事務所建設予定地。今年6~10月の発掘調査で、東西15・6m、南北2

・7m以上の掘立柱の大型建物跡が見つかった。柱を立てるための穴は

方形で、一辺約1・5mと大型。その約6m北では、この建物を外部と区

画する塀の跡が、約34mにわたって東西に延びているのが見つかった。

 この調査地の南では、1986年の発掘調査で、今回見つかったのと

ほぼ同規模の東西に長い建物跡が検出された。今回の建物跡と柱の位
置が列状にそろっており、調査を担当した同センターの菊井佳弥調査員は 

「二つの建物が、約7mの間隔で南北に並んで立っていた」と指摘する。

 この場所に舎人親王邸があったという説を唱えているのは、文化庁の

近江俊秀・主任文化財調査官だ。県立橿原考古学研究所の所員だった
2005年、今回の調査区の約200m南を発掘調査した。 平城京は碁盤

の目状に区画され、約130m四方の「町」が土地の基本単位。 近江さ

んが発掘した場所の周辺では、4町分の正方形の範囲で同じ窯で焼かれ

た瓦が出土し、区画を隔てる道路も当初はなかったことが分かった。

 近江さんは、この場所では遷都の直後、4町分が一つの宅地として利

用されていたと推定。 それだけ広大宅地が与えられるのは最高クラス

の政治家が天皇の皇子に限られ、その中でまだ邸宅の場所が分かってい

ない、舎人親王邸の可能性が高いと結論づけた。今回見つかった建物跡

について近江さんは「この発見を第三者がどう評価するか、注目してい

る」と話す。

 この地区の約500m西では、1988年に同じく4町分の広大な邸宅跡が
見つかり、出土した木簡の内容から、舎人親王と並ぶ奈良時代初期の
皇族政治家、長屋王の邸宅跡だと分かった。今回の建物跡が舎人親

邸であることを示す直接的な証拠はまだないが、菊井さんは「今後、

周辺の調査で溝や井戸の跡が見つかれば、居住者の手がかりになる
木簡が出土する可能性がある」と話している。 
  2022-12-22  朝日新聞(今井邦彦)



二条城よみがえる門

 二条城が普請中だ。

 徳川家康が1603年に築城して以来初の本格修理が続いている。京都市が20

年計画で2011年度から始め、これまでに新たな発見もあったらしい。

 二条城と言えば、大政奉還など日本の歴史の移り変わりを見守ってきた世界遺

産でもあり、京都屈指の人気観光スポットだ。城内の28棟が国宝や重要文化財に

指定され、狩野探幽ら狩野派が描いた重要文化財の障壁画は1千面を超える。 久

しぶりに行ってみた。

 城内に入ると、まず目を引くのは「唐門」だ。国宝の二の丸御殿の正門にあた 

る。優美な曲線を描く唐破風を持ち、「鶴や亀、不死を象徴する青い蝶など長寿や

繁栄にちなむ彫刻で彩られている。 大修の第1弾として13年に往時の色鮮やか

な姿によみがえった。

 屋根を受ける垂木の先には菊紋の飾り金具があるが、修理の結果、その下に徳

川家の葵の家紋が隠されているとわかっ た。二条城は大政奉還で朝廷に移管さ

れ、明治中期に離宮になった。その際に改装されたらしく、やはりあるじが変わ

ればその紋も変わるのだろう。

 目下修理中は阪神・淡路大震災で構造がゆがんだ本丸御殿。この工事が24年3

月に終わると、次は二の丸御殿という。

 その二の丸御殿は、徳川15代将軍の慶喜が1867年、大政奉還を明らかにした場
として知られる。 大広間には将軍が集まった諸藩の重臣らと対面する場面

が人形で再現され、見どころの一つだ。

 だが、京都市元離宮二条城事務所の鳥居将志総務課長は「実は大政奉還の
場面を再現したものではなく、あくまで部屋の使われ方をイメージしたものです」と

言う。人形は昭和30年代に置かれ、従来は慶喜が大広間で大政奉還を宣言したと

説明されてきた。 最近の研究で、諸藩に意向を伝えたのは老中の板倉勝静で、慶

喜はその後に意見のある数人だけと面会していたと判明した。教科書にも載った
邨田丹陵作の「大政奉還」の絵も、大広間ではなく黒書院の場面として描かれて

いる。今後、修理にあわせて人形の配置がかわる可能性もあるようだ。

 歩くと音が鳴る「うぐいす張り」の廊 下も、かつては侵入者を知らせるための

工夫されてきた。これも数年前から「長い年月を経て緩んだ床の固定金具と

釘のこすれ音が生じており、当初から意図されたものではない」との説明文を 

掲示している。 大修理が終われば音が聞こえなくなるかもしれない。鳥居さんは

「どこを直し、 どこをそのままにしておくのがいいのか、十分議論していく必要

があります」と話す。

 来年1月4日から黒書院「二の間」の特別入室も始まる。 最近の城事情を見

に、訪ねてはいかがだろう。
  2022-12-24 朝日新聞(夕刊  ・義人)




継体天皇母方の墓(地図

 古墳時代中期(4世紀末~5世紀初頭)で、北陸地方最大の前方後円墳と確認された
六呂瀬山古墳群(福井県坂井市)の1号墳。祭祀場とみられる張り出し部 (造り出し)
から、格式が高い家形埴輪の棟飾り 「鰹木」が見つかっており、越前(福井県北東部)
を中心に北陸地方に強い影響力を持った首長の墓とみられている。 この地域には、
継体天皇(?~531年)の母の生家があり、即位するまでの半世紀、この地に居住し、
越前などを治めていたことが知られる。 地方から迎えられて即位するという稀有な形
となった継体天皇。 被葬者は継体天皇につながる人物との見方が強く、 その子孫が
継体天皇の活動を支えてきたのかもしれない。
   2023-1-5 産経新聞(夕刊)   (編集委員 上坂徹)

 

食物模した土製品

 六呂瀬山古墳群(国の史跡)は二基の前方後円墳(1、3号墳)と二基の方墳(2、4号墳)
で構成され、最大規模の1号墳の調査は昭和53(1978)年度以降、随時行われてきた。
坂井市教委によって昨年10~11月に実施された調査では、前方部の裾の位置を確認
し、全長が143mと確定。従来同規模とされてきた秋常山古墳群(石川県能美市)

の1号墳(前方後円墳、全長約140m) を上回って、北陸地方で最大の前方後円墳と判
明した。

 また、後円部東側にある造り出しからは、「鰹木」などの埴輪片のほか小型の壺 食
べ物を模した土製品などが見つかっており、この場所で祭祀が行われていた可能性が
高いという。

 同古墳は山の斜面を削って造成されており、これまでの調査で、墳丘は途中に一段
の平坦面を持つ二段築成で、葺石が施されていたことが分かっている。それぞれの
面の縁辺に沿って直径20cm程度の円筒埴輪が並んでいたと想定される。墳丘では、
ファイバースコープカメラによる地中調査で、内部に石棺が2基埋まっていることが確
認されており、福井市の足羽山(あすわやま)周辺で産出する笏谷石(しゃくだにいし・
緑色凝灰岩)で作られた、舟形石棺と呼ばれる棺の破片も見つかっている。

 発掘調査した坂井市教委文化課の小林美土里学芸員は「北陸最大の古墳と分かっ
たことで、被葬者は北陸 で 極めて大きな権力、財力を持っていた首長と考えられま
す。 古墳の周辺は、継体天皇が母親とともにその生家に戻り、育った地域にあたりま

す。古墳築造は継体天皇が越前国に来るより前のことですが、被葬者は継体天皇の
母親の一族と関わりがあったと想定されます」。

 さらに「古墳の形体は畿内の古墳に似ており、出土した埴輪には畿内の技術がみら
れます。しかし、石棺は笏谷石を使い、越前特有の形をしている。畿内と越前の技術
が合わさ って造られた古墳といえます」という。

応神天皇五世孫

 『日本書紀』によると、男大迹王(おおどおう・継体天皇)は彦主人王と垂仁天皇 七世
孫とされる振媛の間に、近江国 高島郡の三尾(滋賀県高島市)の別 業(別邸)で生まれ
た。幼いころ父親が亡くなったため、振媛は生家のある越前国の高向(坂井市)に男大

迹王を連れて帰った、という。男大 迹王はそこで成長した。

 そして、武烈天皇が18歳で亡くなり、継嗣がなかったため、ヤマト政権の大連
大伴金村が群臣に諮り、越前国の三国 (同)にいた、応神天皇の五世孫とされる
男大迹王を次期天皇に推挙。男大迹王は越前国を出て、507年に河内国の樟葉宮
(大阪府枚方市) 継体天皇として即位した。 57歳の時だったという。

 継体天皇は幼いころに移った越前国に半世紀程度、居住していたことになるが、
その活動は母親の振媛の一族が支えていたとみられている。

その一族とは。 日本書紀の注釈書『釈日本紀』(鎌倉時代)で引用された 『上宮記』
逸文などから、振媛北陸、近江に勢力を張ったとされる三尾氏の子孫とする説がある。

体天皇の后妃のなかにも、 三尾氏出身が2人いるという。

 一方、父親の彦主人王は、「上宮記」の記述などから琵琶湖の東側(湖東)を拠点とし
た息長氏に連なっているとみる向きがある。 息長氏の出身者も継体天皇の妃に名を
連ねている。

 小林学芸員は「振媛は有力者の娘で、古墳は振媛の一族の力の大きさを示してい
るとも考えられます。 埴輪の技術者を畿内から呼ぶなどして古墳を造ったが、ヤマト
政権の言いなりになるばかりではなかった。北陸、越前の独自性も打ち出していた」と
話している。

(文中年齢は数え年)

 
即位から20年後 大和入り

 『日本書紀』によると、第26代と伝えられる6世紀前半の天皇。応神天皇の5世の孫と
される。武烈天皇に跡継ぎがなかったため、その死後、越前国三国(福井県坂井市)か
ら迎え入れ、樟葉宮(大阪府枚方市)で即位。その後、筒城宮(京都府京田辺市)、弟国宮
(同向日市)を営み、大和に入ったのは 即位から約20年後で、磐余玉穂宮(奈良県桜井
市)を都とした。この時代、朝鮮半島では、倭が進出していた加耶(任那)などの動向への
対応、九州では筑紫国造磐井の乱 (527年)などがあり、ヤマト政権の支配が揺らいだ時
代だったといわれる。 継体天皇陵について、宮内庁は太田茶臼山古墳(大阪府茨木市)
を治定しているが、築造時期が継体天皇の死亡推定時期と合致せず、近年は今城塚古
墳(大阪府高槻市)が有力視されている。



宝殊寺三重宝篋印塔 ほうじゅじ(地図

 長徳年中(995~999年)の創建です。 花山法皇西国三十三所観音霊場
の巡拝をした際、僧・仏眼により開基されたと伝えます。『摂津名所図会』巻
之六には「花山法皇御塔・仏眼 上人塔、ともに境内にあり。 石浮図の古墳

なり」とあり、三重宝篋印塔が二基並立したのを指しています。

 東塔(右)は、総高約212cm。相輪は上部宝珠 請花が欠失しており、初層笠部

は上二段、下二段、その間に上層軸部とも一石で造り出し、二層目笠部が上二段、
下二段となり、 やはり軸部とも一石で造り出します。 軸部を一段とすれば、三段、
三段となり、三層目笠部が上六段、下二段となります。隅飾りは摩滅して分かりに
くいですが、無地一弧となっており、やや直立します。初層軸部である塔身四面は
無地、高さ約30cm、幅約28cmを測ります。 基礎部は高さ約35cm、幅約52cm、
上段受座を二段とし、基礎四面も無地です。

 西塔(左)は、総高約208cm。相輪の最上部九輪目から上の請花、宝珠が欠失し

ます。初層笠部は上二段、下二段、 二層目笠部の段形は上三段、下二段で、とも
に上層軸部を一石で造り出しており、三層目笠部の段形は下二段、上五段となり
ます。 初層軸部である塔身四面には、蓮座上に舟形光背を彫りくぼめて、四方仏
を半肉彫りします。高さ約30cm、幅約29cmを測ります。

基礎は高さ約42cm、幅約54cm、上段受座を二段として、輪郭を巻いた正面右
寄りには、合掌する並体の僧形坐像が刻まれています。

 隅飾りは三層共に二弧で無地、反りは東塔よりやや大きいと見られます。いず
れも紀年銘はありませんが南北朝時代初期と見られ、東塔のほうが様式的に古
い造作です。残念なことに大阪北部地震 (2018年)で倒壊しましたが、後世に残し
たい貴重な石造品です。
  2023ー1-5  産経新聞(地域歴史民俗考古研究所所長辻尾榮市)

 



富雄丸山古墳

 
奈良・富雄丸山古墳

 日本最大の円墳 富雄丸山古墳(奈良市、4世紀後半)で、過去に類例のない

盾形銅鏡と全長2mを超える巨大な鉄剣が出土した。

銅鏡も鉄剣も国内で過去最大のものだという。銅鏡の背面は全面が複雑な
文様に覆われており、専門家は「古墳時代青銅工芸の最高「傑作」と評価し
ている。

 古墳を発掘調査している奈良市埋蔵文化財調査センターと、協力機関の
奈良県立橿原考古学研究所が25日発表した。

 同古墳は同センターが2018年度から発掘調査を進めてきた。今年度は造
り出し(突出部)を発掘し、全長5前後の木棺を収め埋葬施設を新たに発見。

 木棺を覆う粘土の中から、全長約2.37m、幅約6cm鉄剣と、長さ約64cm

幅約31cmの銅鏡が重なって出土した。

 銅鏡は通常の円形ではなく、盾の形をした類例のないもの。中央に鈕(ち
ゅう・つまみ)があり、その上下に二つ、日本列島で作られた大型の銅鏡「鼉
龍鏡(だりゅうきょう)」とそっくりの円形文様があることから「鼉龍文盾形銅鏡」
と命名された。 鏡面の面積はこれまで最大だった福岡県・平原遺跡の銅鏡
(直径46・5cm)を上回る。

 鉄剣は左右にうねるように屈曲した「蛇行剣」で、完全な形で出土したもの
としては過去最大となる。 その巨大さから、実用の武器ではなく、邪悪なもの
を退ける祭器とみられる。

 木棺は未盗掘とみられ、保存状態も良好だった。 市教委は来年度以降
に内部を調査する方針。

 古墳の調査を指導した和田晴吾・兵庫県立考古博物館長は「他に類例の
ない特異な剣や鏡とともに葬られ被葬者とは、どんな地位の人物だったのか。
棺内の調査にも期待がかかる」と話している。
  2023-1-26 朝日新聞(今井邦彦).

 全長2mを超える巨大な 剣に盾の形をした異形の鏡。 奈良市の富雄丸山
古墳で出土した前例のない副葬品に、古墳の研究者らも驚きを隠せなかった。
「被葬者を邪悪なものから守るため」「農耕儀礼に使われたのでは」。様々な
仮説が飛び交う。

 昨年12月、同市埋蔵文化財調査センターの村瀬陸さんは、木棺を粘土で
覆った「粘土」と呼ばれる埋葬施設を慎重に掘り下げていた。 金属探知機で
強い反応が出た部分があった。

 「刀剣や矢じりが大量に出てくるかも」。しかし次第に姿を現したのは、人の 

背丈を超える長さの1本の鉄剣。しかもその下に、見たことがない形の銅板
が顔をのぞかせていた。

 銅板の中央には円形の銅鏡と同じ形の錘(つまみ)がある。上下に並んだ
円形の文様は、体をうねらせたを浮き彫りにした「鼉龍鏡」にそっくり。その
周囲は「鋸歯文(きょしもん)」と呼ばれる三角形の模様で埋められていた。

 鼉龍鏡は「倭」と呼ばれた日本で生まれた鏡で、この盾形銅鏡も倭鏡(国産

鏡)の可能性が高い。「古墳時代青銅工芸の最高傑作と言っていい」。奈良
県立橿原考古学研究所(橿考研)の岡林孝作副所長は、興奮した様子で語
った。

 鏡も盾も、邪悪なものを「退ける「辟邪(へきじゃ)」の願いを込めた副葬品
とされる。 盾形銅鏡は二つを合わせてより呪力を強めたとみられるが異な
る二つの器物の形や模様を巧みに組み合わせていた。銅鏡に詳しい福永

伸哉・大阪大教授も「ヤマト王権の技術の高さと芸術的創造性は、我々の
想像を超えていた」と驚く。

 銅鏡と重なって出土した巨大な剣は、途中で左右に 大きくねった「蛇行剣」

だった。橿考研の北山峰生・指導研究員によると、これまでに全国で出土し
た蛇行剣は約80本。「富雄丸山古墳に副葬された蛇行剣はその中で最古
の例。 蛇行剣近畿で生まれた可能性が高まった」という。

 蛇行した形について北山さんは、朝鮮半島の百済で4世紀後半に作られ、
石上神宮 (奈良県天理市)に伝わる七支刀と共通の思想があると推測する。
「七支刀の銘文からは辟邪の思想が読み取れる。剣を普通とは異なる形
にして辟邪の力を強める思想が、この時期に日本にも伝わったのでは」

 類例のない盾形銅鏡、巨大蛇行剣と共に眠る被葬者はどんな人物なのか。

 大阪大の福永さんは、ヤマト王権の大王墓とみられる巨大な前方後円墳
が奈良盆地東南部から北部に移動した4世紀後半、新たに王権の重要な
地位に就いた人物だとみる。「この時期、富雄丸山古墳や兵庫県の
茶すり山古墳など、各地に巨大な円墳が築かれる。 ヤマト王権の中の政変
で、奈良盆地北部などの勢力が作っ新政権を支えた新興勢力の墓ではない
か」と指摘した。
  2023-1-26 朝日新聞(今井邦彦)

 
 富雄円山古墳から出土した蛇行剣銅鏡
 
 富雄円山古墳から出土した盾形銅鏡
富雄円山古墳
 盾へのこだわり深く 

 前例のない「盾形銅鏡」が出土し、世間を驚かせた

奈良市丸山1丁目の富雄丸山古墳 (4世紀後半)。 実

は鏡の他にも、盾をかたどった形象埴輪や、盾の絵が

線刻された円筒埴輪など、何かと「盾」へのこだわり

を感じさせる出土品が多い。 2カ所の埋葬施設に眠る

被葬者は、どのような人物だったのか。

 

 富雄丸山古墳は直径約109㎡の円墳で、頂上部分と、北東に突き出た「造り

出し(突出部)」の計2カ所に、円筒形の木棺を粘土で覆った「粘土槨」と呼ば

れる埋葬施設がある。昨年秋からの発掘調査では、造り出しの粘土棚で全長23

7cmの蛇行した形の鉄剣と、全長64cm、幅31cm盾形の銅鏡が見つかった。

2年前の調査で出土した 盾形埴輪は、造り出し東側のくびれた部分の外に置か

れていた。高さは125cm前後で、四角い「方形」の盾を表現。全体が文様で覆

われ、上端に近い部分は鋸歯文(ギザギザ模様)で飾られていた。盾形埴輪は頂

上の粘土槨の周辺にも立っていたようで、破片が多数見つかった。

 盾の線刻画がある円筒埴輪は、盾形埴輪の出土位置とは古墳の反対側になる、

西側最下段の埴輪列で出土。復元高1mほどの埴輪の下端近くに、縦約6cm

横約4・5cmの大きさで、最外郭を鋸歯文で飾った方形の盾が描かれていた。

 作り出しの粘土欄で見つかった盾形銅鏡は、頂上が高く盛り上がった 「山形」

の盾を模しており、盾形埴輪や線刻画の方形の盾とは形が異なる。一方で、文様 

に鋸歯文が使われている点は一致している。

 古墳時代の武器を研究している鹿児島大学の橋本達也教授によると、これらの

モデルになった盾は、山形のものは革製、方形のものは木製だった可能性が高い

という。全面を鋸歯文で飾った山形の革盾は、4世紀後半ごろの古墳に副葬され

たものが最古とされてき「富雄丸山古墳の築造年代はそれらの古墳よりも

若干古く、革盾の出現は今 まで想定していたより早まりそう。その最新型の革盾

を鏡という古くからの権威の象徴と合体させた点が興味深い」と話す。

 橋本教授が注目するのは、盾が持つ霊的な力だ。

「鋸歯文などの文様は、武器としての盾の機能には関係ない。こうした模様を持

つ革盾は、実用品ではなく邪悪なものを寄せ付けない力を持つ祭器で、だからこ

そ鏡と融合したのでは」 古墳時代の盾といえば、天理市の石上神宮には2枚

の巨大な鉄盾(5世紀後半)が伝わっている。県立橿原考古学研究所の小栗明

彦企画係長は、富雄丸山古墳のすぐ北を通って大阪平野と奈良盆地を結ぶ
「暗越奈良街道」(現在の国道308号)は、4世紀後半にヤマト王権によって開発さ

れ、その事業には石上神宮をまつった勢力が、富雄丸山古墳の被葬者と共に
関わったとみている。

 「石上神宮に隣接する天理市・布留遺跡で出土した朝鮮半島系の珍しいタイプ

の土器が、この街道に近い生駒市の遺跡でも出土している。富雄丸山古墳の
調査が進めば、石上神宮や暗越奈良街道との間に、さらにつながりが見えてくる
かもしれない」と小栗さんは期待する。
 2023ー2-21  朝日新聞 (今井邦彦)

 

 日本最大の円墳・富雄丸山古墳(奈良市 4世紀後半) で出土した国内最大と

される鉄剣が27日、 奈良県橿原市の県立橿原考古学研究所 (橿考研)で報道陣
に初めて公開された。 橿考研などの調査で、鉄剣は木製の鞘におさめられていた

ことも新たにわかった。

 鉄剣は、 刃が左右にうねるように屈曲した「蛇行剣」 (全長約2.37m幅約6cm)。 

 奈良市教委の昨年度の調査で、過去に類例のない盾形銅鏡とあわせて出土。
今年1月に発表された。 当時は土ごと取り上げられ、共同調査研究をしている
橿考研で保存処置中だったが、 今回片面のクリレーニングが終わったため、公開
された。

 鉄剣の屈曲は7ヵ所程度。剣は木製の鞘におさめられており、 樹種は現在調査

中という。 鞘や柄には漆が使われた痕跡があり、 辰砂(しんしゃ)を原料とする赤
色顔料が付着していたとみられる。 残る片面のクリーニングは今秋ごろまでかか
る見込みで、一般公開の時期は未定という。

 古墳時代の刀剣に詳しい豊島直博 ・ 奈良大教授(考古学)は、 「鞘や柄など

『刀装具』 をつけた状態で副葬されたようだ。 柄の一部と鞘は重なる構造だった

とみられ、裏返して土を慎重に取り除けそば 装具の全体像が見えてくるのではな

いか」と話している。
  2023ー6-28  朝日新聞(清水謙司、今井邦彦、写真は小宮路勝)

 国内最大の円墳、 奈良市の富雄丸山古墳で昨年11月末に見つかった
長さ2.4m近くもある蛇行剣。 保存処置を経て6月下旬、 報道陣に初公開された。
大蛇のように曲がりくねった形から、被葬者の霊を邪から守る 「辟邪(へきじゃ)」
の意味があるという。 さらに、ヤマト王権から一線 を画した勢力が、 独自に権威
の象徴としたとの見方も。 巨大前方後円墳が集中する同市北部の佐紀古墳群か
ら西方約5㌔にポツンと築かれた 「孤高の古墳」。 異様なまでに長大な剣 は、
政権の “非主流派〟 を貫いた被葬者の矜持だったのだろうか。
  2023-7-20  産経新聞(夕刊) (小畑三秋)

 

 同古墳(4世紀後半、直径109m)で見つかった蛇行剣は、剣身が7カ所ほど緩や
かに屈曲し、長さ237cmで国内最大。墳丘の造り出しに設けられた埋葬施設「粘
土槨」(長さ6・4m、幅1・.2m)から出土し、木棺を覆う粘土の中に埋め込まれていた。

 古墳時代に作られ、国内で85例が確認された蛇行剣。 「剣と大蛇の結びつきは、
古代の文献から読み取れる」と、辰巳和弘・同志社大元教授(古代学)は指摘する。

 播磨国風土記には、大蛇のように伸び縮みする剣が発見され、霊力がある朝廷
に献上したと記録。日本書紀の天智天皇即位前記にも「宝剣を奉った」とあり、同
じ剣とみられる。

 古事記のヤマタノオロチ伝説にも登場する。 スサノオノミコトがヤマタノオロチを
退治し、その尾から出てきたくさなぎのつるぎの草薙剣だった。 

 今回の蛇行剣について「これほど長大な剣をあえて作ったのは、辟邪の意味だ
けとは思えない」と辰巳さん。 歴代天皇には鏡、剣、玉という三種の神器が伝わり、
現代まで受け継がれている。古墳時代も、王権だけでなく首長クラスも聖なるもの
を「レガリア」として伝え、その一つが蛇行剣とみる。

 

職人の技に驚嘆

 「蛇行剣には不思議なことが多すぎる」。刀匠で藤ノ木古墳(奈良県斑鳩町)の
大刀の復元などで知られる河内國平さん(11)も目を見張る。

「刀鍛冶として思うのは、これだけ長い剣をどのように焼き入れしたか。

高温で熱してから水につける際、剣を横に寝かせれば自重で曲がってしまう。作業
はスピードも要求される。当時の職人はどのように作ったのか。今後の分析で、ど
こまで焼きが入っていたか分かれば面白い」

 さらに「刀を作る際は、武器として戦える大きさが基本。重さの目安はバット1本分」
とし「蛇行剣はあまりに長くて重い。 武器の役目はなく祭祀的なものだろう」と思いを
巡らせた。

 なぜ長大な蛇行剣を必要としたのか。 辰巳さんは、同古墳が円墳では国 内最大
でありながら、王権の象徴である前方後円墳ではない点に着目する。

ヤマト王権とは一線を画した独自の勢力で「自分しか持てないものを特別に作らせ
たのかもしれない」と推測。「他の古墳に類例がないのは完全なオリジナルだから」と
話す。

 粘土槨では、蛇行剣と一緒に青銅製の盾形銅鏡(長さ64cm、最大幅31cm)も

見つかっている。神獣を表す「鼉龍(だりゅう)」の文様を施した鏡2枚分を上下に配し

た斬新なデザイン。 古代の青銅鏡では最大で、盾形の鏡は他に例がない。

 蛇行剣とともに国産とみられ、辰巳さんは、いずれも独自の権威の象徴とみる。
「貴重で珍しい宝物だからといって、ヤマト王権から下賜されたとはかぎらない。

 

勢力 長続きせず

 しかし、独自性を誇った勢力も長続きはしなかった。これに続く目立った

古墳が築かれなかったためだ。「蛇行剣も盾形銅鏡も、権威の象徴として代々

伝えるはずだったが、ヤマト王権に押さえ込まれ、やむなく造り出しの粘土

に埋めたのではないか」と指摘する。

 一方で、同古墳の被葬者は、ヤマト王権と関係が深い人物との説も強い。

西方の生駒山地を越えれば大阪という立地から、ヤマト王権と大阪・河内勢

力との仲介を果たしたフィクサーともみられている。

 果たして被葬者は―。木棺は完全な形で残っており、未盗掘。奈良市教育

委員会は今年度内に木棺内の発掘を計画しており、副葬品に注目が集まる。

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 蛇行剣の保存処置は、類例のない大きさだけに慎重を極めた。粘

土槨から発見されたのは昨年11月末。発掘は奈良市教育委員会、保

存処置や分析は県立橿原考古学研究所が担当し、半年がかりで片面

の処置が終了した。

 粘土槨からの取り出しは同年12月8、9日。蛇行剣が破損しない

よう樹脂などで補強し、周囲の土と一緒に発泡ウレタンで固定。 蛇

行剣の下にアルミ板を差し込んで地面と切り離し、人の手で持ち上

げられた。

 翌年1月6日に同研究所でエックス線撮影。表面が土やさびで覆われ、
現状を確認した。 出土当初、古墳の発掘現場では研究者らから「これ
ほど長い剣は見たことがない。何本かの剣が重なっているのではない
か」との指摘もあった。エレックス線撮影で1本の剣と判明し、国内最大
の蛇行剣と確定した。

 3月に三次元計測。54㎛という人の髪(太さ約100㎛)の 半分近くの
凹凸まで判別できる高精細の測量図が完成した。

 粘土やさびを除去するクリーニング作業は4月6日から着手。手術用の
顕微鏡などでのぞきながら、針や筆、ピンセットを使って、砂粒を一つず
つ取り除くような作業だったという。

 「土がポロッととれると、黒い「漆が顔を出した」と担当の奥山誠

・総括研究員。蛇行剣が漆の塗った装具に納められていたことが

分かった。作業は2人で担当し、順調に進んでも1日に20~30cm.四

方。漆や赤色顔料があると5~6四方がやっとで、6月8日に終了した。

 同研究所の岡林孝作・学芸アドバイザーは「奈良市教委と現場の

状況を確認しながら作業をした。

屋内のラボに運び込んだことで、より精密な調査ができた」と説明した。
今後は裏面の保存処置に取りかかるため、一般公開の時期は未定。



刀に象眼文字

 古墳時代の横穴墓群があった熊本市中心部で出土し鉄刀に、紀元604年の

干支とみられる「甲子年」の象眼文字が見つかった。

銘文を刻む古墳出土の剣やは全国で10例に満たず、古代国家の成り立ち
や社会構造、地方支配の実態を解明する資料となる。

 熊本市と熊本大学が2日に発表した。鉄刀は昨年、熊本城内のNHK跡地を調

査した際に見つかった。

 全長約556mでさびに覆われ、X線CTスキャンで透視すると「甲子年五」を含

む6文字が浮かんだ。続く2文字は不鮮明だが「月」「中」とみられ、製作時期

らしい。 鉄刀の形状などから、「甲子年」は604年である可能性が高いとい

う。 表面を彫って金属を埋め込む象眼技法で、材質は今後調べる。

 604年は飛鳥時代が幕開けした推古朝のころ。 奈良・飛鳥地方に都が置か

れ、国家の確立に向けて大和政権は全国支配を進めつつあった。 熊本市は
中央政府から地元の有力豪族に贈られた鉄刀とみている。

 象眼銘入りの刀剣は「日本書紀」などが編纂される前の日本を知る手がかり。

稲荷山古墳(埼玉県)の鉄剣や江田船山古墳 (熊本県)の大刀など十指に満た

ず、多くは国宝や重要文化財に指定されている。

 出土品としては8例目で、銘文は箕谷2号墳(兵庫県)の鉄刀に似るとい

う。 坂上康俊・九州大学名誉教授(古代史)は「中央政権から下し渡された可能

性が出てきた。冠で序列を表す有名な『冠位十二階』(603年)と同じころ

地方の中小豪族に対しては、刀を与えて序列化をはかったのではないか」と

話す。
  2023-1-28  朝日新聞(杉浦奈実、編集委員・中村俊介)

 過去に類例のない盾形銅鏡と巨大な鉄剣が見つかった日本最大の円墳・
富雄丸山古墳(奈良市、4世紀後半)で28日、発掘調査現場の一般公開が始
まり、1400人を超える見学者が訪れた。

 同古墳は奈良市埋蔵文化財調査センターが2018年度から発掘調査を進めて

きた。今年度は造り出し(突出部)を発掘し、 全長5前後の木棺を収めた埋施設
を新たに発見。木棺を覆う粘土の中から、全長約2・37m幅約6cmの鉄剣と、
長さ約64cm、幅約31cmの盾形の銅鏡が重なって出土した。

 同センターと協力機関の県立橿原考古学研究所の25日の発表を受け、一般
公開を迎えた。雪の影響で地面にぬかるみもあるなか、見学者は墳丘をめぐり、
木棺の上に鉄剣と銅鏡のパネルが置かれている様子をのぞき込み、カメラを
向けていた。

  2023-1-28  朝日新聞(米田千佐子)

 


河島皇子の挽歌

 敷栲の 袖かへし君  玉垂の

 越智野過ぎゆく  またも逢はめやも

    柿本人麻呂 巻二(一九五番歌)
敷栲:しきたえ
玉垂:たまたれ
越智野:おちの

 重(し)き拷の袖を交わしたあなたは、玉を貫く

 越智野にみまわっていく。ふたたび逢うことはあるのだろうか。

河島皇子挽歌

 この歌は、天智天皇の皇子である河島(川島)皇子の挽歌として、

柿本人麻呂泊瀬部皇女に献上した歌とされます。

 長歌(一九四番歌)では客観的な描写もうかがえますが、付随す

る歌として詠まれたこの短歌は、泊瀬部皇女の立場で詠まれていま

す。「またも逢はめやも」とは、ふたたび逢うことを望んでもそれが

かなわないことを強調した表現といえ、皇子の死を嘆く皇女の心情

が伝わってくるようです。

 河島皇子は、持統天皇五(六九一)年九月九日に没したと『日本書紀
』に記されています。天武天皇八(六七九)年の吉野の盟約に参加

し、天武天皇十 (六八一)年には国史編纂の大事業を命じられるな

ど、天智天皇の皇子ではありましたが、「壬申の乱」(六七二年)後に活

躍したことで知られます。天武天皇の皇女である泊瀬部皇女が妻で

あった故かともいわれます。

 現存する最古の日本漢詩集『懐風藻』(七五一年成立)によれば、

皇子謀反事件(六八六年)で 親友を密告した人物とされてい

ます。河島皇子は、大津皇子と生涯裏切ることのない友情を約束し

ながら謀反の計画を密告した、河島皇子への批判は多いがむしろ忠

臣として素晴らしい行いである、ただ、なぜ親友を十分に諫め教え

なかったのだろうか、と疑問が記されています。同書には、穏やかで

度量の広い人物であったともあり、『日本書紀』には河島皇子が大

津皇子を密告したとも、何らかの褒賞を得たとも記されていないこ

とから、実際には謀反事件に関与していなかった可能性も指摘され

ています。

 柿本人麻呂による皇子や皇女の挽歌は何例かあり、いずれも優

れた歌と評されています。
 けんみんだより 奈良 2023-2月号
  (本文 万葉文化館 井上さやか)


とゆら「豊浦」

 奈良県高市郡明日香村大字豊浦の古い呼称。奈良県の大和盆

地南部、大和川支流飛鳥川左岸に位置し、「トイラ・トヒラ」と

も呼ばれます。一説に「トユラ」は、飛鳥川が曲流する形状を示

した語といわれています。

 飛鳥時代、この地は初の女性天皇である推古天皇が「豊浦宮

を構えて崇峻天皇五年(五九二) に即位した場所として知られて

います。以後、約百年間にわたって、この周辺には歴代の天皇の

宮が集中しました。 崇峻天皇 殺から一月後の急な即位であっ

たために、この「豊浦宮」は、豊浦を拠点としていた推古天皇

の外戚蘇我稲目(蘇我馬子の父) の向原(むくはら)の邸宅を
一部利用したも のと考えられています。

 推古天皇十一年(六〇三)に は豊浦の北部に隣接する小墾田

に宮を移しました。そして「豊浦宮」跡には、奈良時代成立の
『元興寺伽藍縁起井流記 資財帳』によると、日本最古の

尼寺豊浦寺(建興寺)が建立さ れたと記されています。

 現在は、浄土真宗向原寺があ り、境内周辺には豊浦寺創建期

の塔跡・金堂跡・講堂跡の遺構 があります。さらに下層には、

石敷をめぐらした掘立柱建物や 砂利敷が確認され、「豊浦宮」
の遺構が明らかになっています。

 令和4年10月1日 10月号かぎろい



幸魂奇魂(さきみたま・くしみたま)

 幸魂・奇魂は、ともに和魂(にぎみたま)の名(みな)にて、幸・奇
とは、その徳用(はたらき)を
いうなり、二魂(ふたみたま)にはあらず
      
(本居宣長『古事記伝』十二之巻)

 神代紀上・第八段・第六の一書

 『古事記』とならんで大切な神典は、西暦七二〇年に撰上された、わが国最初の
正史『日本書紀』である。本書は、神代の巻から神武天皇の人代の巻へと続き、
持統天皇までの全三〇巻からなる。

 神代の巻は、本書の第一巻と第二巻に収められ、第一巻を「神代紀」(じんだ
いき) 上巻、第二巻を「神代紀」

下巻という。その両巻は、全十一段からなり、「神代紀」上巻は第一段から第八段、
「神代紀」下巻は第九段から第十一段を収める。 各段が、「本書」(または正文)と
数種の「一書(いっしょ)」からなるのは、 朝廷の伝承以外に、諸家の伝承をも尊
重して収められたからである。

 さて、幸魂奇魂の用語は、「神代紀」上巻の第八段第六の一書にある。それに
よると、海に突然神々しい光が現れ、大己貴神の前に向かってき た。神はその
光に誰だ、と尋ねたところ、「汝の幸魂奇魂なり」という。そこで神は、その御魂

の求めに応じて、三輪山に宮を設けて祭った。そ れが大神神社の始まりである。

幸魂奇魂

 本居宣長によると、わが古代人は、神名を現御 身(うつしみみ・お身体を現さ
れた時の御名)と御霊(お身体を隠された後の御名)とで区別したという。たと

えば、大己貴神大物主神の場合、大己貴神は現御身の御名であるが、
大物主神は大己貴神が八十坰手(やそくまで・黄泉国、または幽冥界とも)にお
隠れになる時、この地に残された御霊の御名を指す。

よって、単純に大物主神を大己貴神の別名としてはならない、と注意した。

 また、魂も和魂・荒魂・幸魂・奇魂と四種に区別したが、幸魂奇魂とは、和魂の
別名であって、その徳用に応じて付けられたという。

 たとえば、『日本書紀』神功皇后の巻に、和魂は「玉身(おおみみ)に服(つ)き、
寿命(みいのち)を守む」とあるように、身を守り、幸いをもたらす御魂を指し、その
御魂の徳用を幸魂とした。一方の奇魂とは、奇霊き徳をもって、 よろずのことを知
りわきまえて、種々の事業を成り立たせる徳用を指したのである。

 なお、二魂にはあらず、とは、もしふたつの 魂ならば、二神が現れなければなら
ないが、そうした例は見られないからである。

ムスビの神の恩頼

 国作りの大神と称される大国主神は、『古事記』 では、協力者の少名毘古那神
常世国へ行ってし まわれた後、将来の不安から憂いられたとある。

 一方、『日本書紀』では、大己貴神は、国作りをすべて自分一人で成し遂げた、
と誇らかに宣言したとある。いずれの書も、その後に神々しい光、すなわち幸魂
奇魂が神の眼前に現れたとある。

 それについて宣長は、幸魂奇魂が現れる前の神(大国主神、大己貴神)には、
まだ和魂が乏しかったので、神産巣日神が幸魂奇魂を現して、教えを与えたのだ
という。神は、その教え通りに、その御魂を三輪山にお祭りすると、乏しかった

和魂が栄んになって、神の身を守り、幸いをもたらすとともに (幸魂)、奇霊き徳を
もって、ついにイザナキ・イザナミが果たせなかった国作り を完成させた(奇魂)、
というのである。

 なお、「出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこかんほぎのことば)」(古代の
祝詞) には、大穴持命が自身の和魂を八咫鏡に取りつけて、「倭大物主櫛玉命」
と名付けて三輪山に鎮め、天皇の近き守り神にし、自身は杵築宮(出雲大社)に
鎮座したとある。この和魂とは、大神神社のご祭神であり、 「櫛玉命」とは、

その奇魂の徳用を指す御名である。
 令和4年10月1日 10月号かぎろい  (國學院大學教授 西岡和彦)


大和川付替え

 
 新大和川流域及び旧大和川

 奈良盆地の飛鳥川・高田川 ・竜田川などの水を集め、 生駒山地の南端、 亀の瀬
の峡谷を通って河内平野に流れてきた大和川は、 柏原市安堂町付近で、河内長野
市から流れてきた石川と合流。 そこから、現在は西方に向かって堺の北を流れ、
大阪湾にそそぐ。

 しかし、1704年(宝永元)年までは、 大和川 石川の合流点から旧柏原村 (柏原市)
の東を北へ流れ、二俣 (八尾市) で分かれて東は玉櫛(串)川、 西は久宝寺 (長瀬)
川となり、玉櫛川は旧英田村 (アガタ) (東大阪市) で吉田川と菱江川に分流した。
吉田川は深野池新開池に流れ込み、 再び菱江川に合流し、 森河内 (東大阪市) に
至って久宝寺川と合流して大坂城の東付近で淀川にそそいでいた。 このように、
大和川の流れは、古来、 河内平野では北流して網の目のように分かれて複雑をき
わめていた。.

 これらの流路は、 古大和川 ・河内川とも呼ばれ、 弥生~古墳時代の流路の一部
が発掘調査により確認されている。 また、 水勢はゆるやかだが、 ひとたび大雨が続
けば堤は決壊し、 大洪水をもたらし、古くから流域住民の苦悩と困惑の元だった。
江戸時代に入っても洪水は頻発し、 その被害は甚大だった。 そこで、 河内国河内
郡今米村(東大阪市今米) の庄屋中甚兵衛ら、 河内平野の治水計画を企て、 大和川
・石川の合流点から境に通じる新水路を作り、 旧河道や沼地を干拓し、 新田開発に
より耕地の増加を図ろうとした。 新河道にあたる住民から激しい反対の声があがっ
たが、 中甚兵衛らは志を捨てず 40年間も幕府へ働きかけた。 その結果、 大坂の代
官堤奉行 ・万 (萬) 年長十郎の援助を得て、ついに幕府を動かし、 1704年(元禄17)
年2月に着工した。 中甚兵衛は普請奉行大久保甚兵衛と同名であることを憚り、
甚助と改め、 普請奉行をつとめた。 工事の際は、内側に家紋と各種の 「水」の文字が

染め抜かれた鹿皮陣羽織を着用したという。 新しい川筋は、柏原の船橋を起点に、
全長 14.5km・川幅約180m とした (柏原 藤井寺市境の船橋集落は、この工事で壊され、
旧石器・縄文時代以降の大集落である 沿橋遺跡は大和川の川床となり、現在に至る)。
工事は急速に進み、同年10月、 全域の工事が完成・完了し新川への水流切り替えが
終わった。 近代的機械のない当時、 この大土木工事がわずか8ヶ月で完了したのは、
驚異的な事である。 付け替え地点に堤防を築き堰き止めた事から、 築留 (つきとめ)
の(柏原市上市丁目の国道25号線と東高野街道の交差点付近) の地名が生まれ、
築留二番樋は国の登録文化財に指定。


高千穂峡

 セミの嗚・を聞きながら、坂道を下る。汗をぬぐい、さらに階段を下りると、底がエメラルド
グリ—ンに芝峡谷が見えてきた。
 宮崎県北部にある「高千穂峡」。約 27万年前から4度にわたり、 噴火した阿蘇山の火砕流
冷え固まり、川などが侵食されてできた。
 「日本の滝百選」にも選ばれている「真名井の滝」は、約17mの落差があり、峡谷の見ど
ころとなっている。
 7月下旬、神奈川県小田原市の会社員、磯田勇治さん ( 58 )は夫婦で九州をー周する旅行
の途中で立ち寄った。計画を立てるとき、「 30年前に来たことがあった」という高千穂峡は外せ
なかった。「今日も相変わらず見応えがある」  貸しボ—卜に乗れば、峡谷の景色を下から眺
めることができる。真名井の滝に近づくと、上から見たときの白い線が柔らかく流れ落ちる姿と
は異なつていた。大きな音を立てて流れ落ちる滝は、豪快で荒々しい印象だ。
 流水の勢いで風が吹き、水しぶきの冷たさもあって天然のクーラーのように涼しい。一般社団
法人「高千穂観光協会」統括主任の藤士怜さん ( 48 )は「夏は特に、景色を見るだけでなく、
涼しさを求めて来る方も多い」と話す。 
 高千穂は流しそうめんの発祥の地とも言われている。 飲食店の「千穂の家」では、「元祖流し
そうめん」の看板を掲げていた。
 注文すると、 1口分ずつ竹のといを流れてくる。自分のそうめんの時には店員が合図をくれ、
他の客のそうめんと間違える心配はないという仕組みだ。 店員の女性が、目で合図をくれた。
 そうめんが流れてくる。箸でつかむのは意外と簡単だった。竹の先にはザルがあり、取りこぼ
した分は最後にまとめて食べられる。札幌市から家族で旅行に来ていた須賀原大河さん ( 11 )
は「思ったより簡単だった。流れてくるから特別な感じがしておいしかった」と話した。
 うだる暑さの夏にこそ、涼しい空気と豊かな緑に包まれた高千穂峡は、多くの人を魅了する。
   2023-8-26  朝日新聞・夕刊   (椎木慎太郎 ) 



鳳凰堂 創建当時

  世界遺産•平等院(京都府宇治市)鳳凰堂は、創建当時は一部が板ぶきだった可能性が高い、
とする研究成果を、平等院が31日発表した。中堂の大屋根は現在と同じく瓦ぶきだったが、
屋根の下にある「裳腰(もこし)」と呼ばれる飾り屋根などは板ぶきで、二つを調和させた姿だっ
たという。
  鳳凰堂は、藤原頼通が平安時代の 1053年に建てた。創建当時の屋根の姿ははっきりせず、
近年は木の瓦でふかれ、1101年の大修理で総瓦ぶきになったとの説が有力視されてきた。
平等院では、鳳凰堂建立970年にあわせて改めて検証。平成修理(2012〜14年)で、創建期とみ
られ る平瓦が約280枚確認されており、中堂の大屋根は当初から瓦ぶきだったとする一方、
重視。勾配が緩く、瓦ぶきには不向きな裳階は板ぶきだった可能,性が高い、としている。 
 2023-9-1  朝日新聞 (西田健作)



丹生

 「丹」が生まれると書いて、「舟生」。地名としても知られています。それを名前とする女神がニウツヒメ。和歌山県の高野山麓にあるニ丹生都比売神社の主祭神です。弘法大師•空海はニウツヒメを守護神としており、高野山の壇上伽霊にもニウツヒメをまつる社殿が設けられています。
  「丹」とは赤色の鉱物、 -般に水銀朱 (辰砂・しんしゃ )のことを指すといいます。水銀朱は縄文時代から塗料や防腐剤として、また、古代には金めっきの媒介剤 (アマルガム )としても珍重されました。三重県南部の丹生鉱山一帯 (多気町丹生 )は、歴史的な水銀朱の産地としても知られています。
 ただし、「丹生」 =水銀朱の産地とは言いきれません。三重・奈良の県境にある高見山西麓 (奈良県東吉野村 )には、水神をまつる丹生川上神社 (中社 )が鎮座しています。しかし、その一帯で水銀朱が採れたという話はなく、「丹」 =水銀朱説はどうも腑に落ちません。
 謎多き「丹生」。その正体を見極めたいと思っていたところ、丹生川上神社のさらに上流、吉野川 (高見川 )の源流域 (同村杉谷 )に、県内でも珍しい低温水の間欠泉 (一定周期で水がふき出す泉 )があると聞き、気になって訪れてみました。
 現地に行くと、赤く染まった泉からコンコンと水が湧き出しています。そのそばには、高さ約 1• 5mの真つ赤な「天然タワ—」 (噴泉塔 )。その頂上からもコポコポと水が噴出しています。水は無色透明ですが、鉄分・塩分濃度が高く、なめればピリッとしよっぱいサイダーの味。健康にはよさそうです。これはミネラルが溶け込んだ高濃度の鉱泉(炭酸水素塩泉 )で、酸化すると鉄分で赤色の天然化合物になります。「丹生だ」と心の中でつぶやきました。
 空海といえば、弘法井戸 (弘法水 )の伝承。それは、彼が旅の途中で水に困っていた村人の声に応じ、手にした杖で地面を突くと水が湧き出した、というもの。この弘法水も実は高濃度の鉱泉で、それを神格化すると、「丹」を生み出す女神•ニウツヒメになります。 
 紀伊半島は約 1 5 00万年前、海底火山の一部でした。それが徐々に陸化し、海水が地下にたまり、マグマで暖められて地上にあらわれたのが温泉 (鉱泉 )。件(くだん)の「丹生」は、山中に眠る太古の海の記憶ともいえそうです。
  2023-9-10  朝日新聞 大淀町教委学芸員 松田 度


日本武尊

 日本の古代史における伝承上の英雄。『古事記』では倭建命。『古事記』『日本書紀』によると、景行天皇の皇子で、幼名は小碓命(おうすのみこと)。武勇に優れていたため、父から熊襲の川上梟帥 (かわかみのたける『古事記』では熊曾建 )兄弟の征伐を命じられ、おばの倭比売の衣装奮り、女装して梟帥に近づき討った。そのとき梟帥から「日本武」皇子の名を献上された、という。その後、東征を命じられる。伊勢にいた倭比売から授けられた天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ草薙剣 )で困離を打ち払い、蝦夷を平定。その帰途、伊勢の能褒野で崩じたという。死後、霊は白鳥となって、大和の琴弾原に渡ったため、この地に陵を造ったが、さらに白鳥は河内の古市邑に飛んでいったことで、そこにも陵を造り、いずも白鳥陵と呼ばれた、という。日本武尊の陵墓は宮内庁によって「白鳥陵古墳」 (羽曳野市 )に治定され、世界文化遺産に登録された百舌鳥・古黒填群の構成資産となっている。 




水落遺跡 県民だより奈良 2023ー10月号

飛鳥水落遺跡明日香村
 飛鳥水落遺跡は、甘橿丘の東麓、飛鳥川沿いの平地に位置します。
 石貼りの基壇とその上に建つ総柱建物、さらに基壇内部には木樋が走り、基壇中央には漆塗りの木箱が据えられていました。前例のない構造のこの遺跡は調査の結果、漏刻台と時を告げる鐘を鳴らす鐘楼の跡であることが分かりました。 7世紀中頃の遺跡とみられ、斉明天皇 6年 ( 660年 ) 5月に造られた漏刻台にあたります。最上段の給水槽から最下段の受水槽に水を流し、最下段の目盛りの上昇によって時間を観測する階段状の漏刻が想定され、唐から伝来し設置されたと考えられています。これらの遺構は、 7世紀後半には廃絶しており、近江大津宮への遷宮にともない漏刻も飛鳥から大津へと移されたとみられます。 
国家統治と時間の概念
 飛鳥宮から藤原宮へ。 2つの宮殿が政治の中心となつた 7世紀後半から 8世紀初頭にかけて、国の形が整えられていきました。この時期、天皇を中心とする国家組織を整備し、戸籍、税制、貨幣や儀式、刑罰などの統治制度が定まっていきました。このときに導入された重要な概念に「時間」があります。共通した時間認識=時刻を定めることは、役人の勤務や民衆の生活などを統一的に管理する基準となりました。「時間」の支配は、ひとつの世界を支配することに他ならないのです。
勤務時間の誕生
 実際、この時期に時間の管理が始まったことが、『日本書紀』に記されています。後飛鳥岡本時代
の斉明天皇 6年 ( 6 6 0年 )に、皇太子である中大兄皇子が始めて漏刻 (水時計 )を造り、民衆に時を
知らせたとあります。この漏刻が設置されたのが、飛鳥水落遺跡です。天智天皇 10年 ( 6 7 1年 )、飛鳥から遷った近江大津宮 (滋賀県大津市 )にて、漏刻台を新たに設置し、時を知らせる鐘鼓(しょうこ)を撃ち鳴らした、この漏刻は天皇が皇大子時代に造ったものである、という記事があり、天皇とともに漏刻も移動しました。
 藤原京へ都が遷った後に定められた「律令」には、具体的な組織も定められています。陰陽寮に管理職である漏刻博士を 2人、実務担当の守辰丁 20人を置く、とあります。具体的な位置は不明ですが、藤原宮内の陰陽寮に漏刻が置かれ、管理されたと思われます。今も昔も、勤務時間の管理は組織の運営に不可欠です。 
 この「時」から現在の我々と同じように、当時の役人も「遅刻」や「定時」を心配するようになったのです。 


角刺神社略伝記

『角刺神社略伝記』
 角刺神社拝殿に入って正面の扉上部に『角刺神社略伝記』が掲げられています。角刺神社の由来や祭神の飯豊天皇について記されたものです。ここで、その一部をご紹介します。
(前略)
 清寧天皇が崩御されると、億計王弘計王は、互いに天皇の位を譲り合って、天皇がいない状況となってしまいました。そこで飯豊女王が、しばらくの間、天皇になることにして、この忍海村に角刺宮を置きました。
(中略)
 飯豊天皇は、万民を大切に思う心が深い方でした。それに加えて風流を好まれる方でもありました。ある日、角刺宮を出て、秋津嶋でゆっくりとした時間を過ごし、忍海部の磐船などをご覧になられていた時、南の方から桜の花びらが飛んできて、盃におちました。天皇は趣があることと思い、歌を詠まれたそうです。
 このことから、その地を花落と呼んでいたのですが、後に花内に改められました。
 この年の11月に、飯豊天皇は崩御されました。そして、葛城埴口丘陵に葬られました。
 その後、臣下たちに神懸があって、飯豊天皇が自分の御霊を祀りなさいとお命じになられたので、角刺宮の跡に社を造り、その御霊をお祀りすることになりました。
(後略) 


 
飯豊女王関係系図
 飯豊女王=飯豊天皇の父は、天皇になることを期待された市辺押磐皇子(いちべのおしはのみこ)、母は大豪族葛城氏出身の荑
媛(はえひめ)です。
 父は雄略天皇によって暗殺され、この時、弟たちは播磨(兵庫県)の忍海氏のもとに匿(かくま)われます。
 姉弟が再会するのは、飯豊女王が忍海高木角刺 宮で、政治をはじめて以降のことです。



塼仏(せんぶつ)

 
  彫刻をほどこした「型」に、粘土を押し付けて文様をかたどり、焼き上げて作成する。
7世紀中葉には出現し、8世紀前半まで盛んに制作された。
 漆を接着剤として塗り、金箔を貼りつけるものや、彩色をほどこすものなどがある。
 金堂や塔、講堂などにともなって出土する場合がほとんどで、寺院の建物内で使
用されたことがわかる。固定用の釘穴をもつものもあり、壁などに設置されたと考え
られる。一方で、礼拝用と考えられるものもある。
 葛城市内では、只塚廃寺・石光寺當麻寺加守廃寺で博仏が出土している。

塼仏関連
恭仁京謎の寺  崇福寺中小金堂  橘寺 
川原寺  岡寺  山田寺 
飛鳥・白鳳文化 法観寺八坂塔  仏教のはじまり 
川原寺      


身分的階級(中世寺院)

上から順に
 貴種・良家・学侶・堂衆・下部
 学侶と堂衆の違いは、潅頂を受けることのできる学侶以上の階層と異なり、堂衆以下
の僧侶は寺が伝える正当な密教を習得・継承することができなかった。
 潅頂とは密教において阿闍梨から法門を伝授されるときに行うもので、種々の戒律や
資格を授けて正当な継承者とするための儀式。

 堂衆(行人・禅衆•夏衆といった呼称もある)は修験道の主要な担い手となり、斗藪(とそう)
と呼ばれる修行、つまりは山岳での修行によって験力を身に付けることで堂衆の集団とし
ての結束を強めようとした。これは寺院社会の本流にはおかれなかった修験者が人々の
帰依を受け、その活動を展開し、学侶集団への対抗といえる。




仮面芸能

 いまも能楽や伝統芸能「翁舞」に受け継がれている日本の「仮面芸能」その伝承と発展に
大きな役割を果たしてきたのが大和の国、現在の奈良県だ。その歴史を振り返る特別展
「仮面芸能の系譜」が、県立美術館の開館50年記念展として奈良市登大路町の同館で開
かれている。
 展示のスタートは、縄文時代の東北地方で作られたとされる「鼻曲がり土面」から。続く
弥生時代には、 i奈良盆地でも仮面をつけて神に祈る行為が始まっていたようで、田原本町
の清水風遺跡で出土した土器( 1世紀ごろ )には、かぶり物と衣装で鳥に粉した人物の姿
が描かれている。
 「日本書紀」などの歴史書によると、飛鳥時代には朝鮮半島の百済から大陸風の仮面劇
伎楽」が大和に伝来。奈良時代には 東大寺の大仏開眼法要でも演じられた。現在は
途絶えてしまったが、さまざまに復元が試みられている。展示には藤田美術館 (大阪市 )が
所蔵する奈良時代の伎楽面、奈良国立博物館や薬師寺が復元した伎楽面、衣装などが
並んだ。
 やはり中国や朝鮮半島から渡来し、平安時代にかけて日本風に変化した音楽と舞が
「雅楽」だ。摂社•若宮神社の「おん祭」などで今も盛んに雅楽が演じられる奈良市の春日大社
からは、「陵王」をはじめとするさまざまな演目の面や衣装が出陳された。
 注目されるのは、県内各地の社寺に伝わる、田楽や翁舞の面の数々だ。翁舞は長寿や
子孫繁栄を願って舞われるもので、能楽として洗練される 以前の「猿楽」の姿を残してい
るともいわれる。古いものは室町時代から各地域で大切にされてきた 面が前期 ( 22日ま
で )•後期 ( 24日から )合わせて 50点以上 も会場に並ぶ。
 猿楽は室町時代、「大和四座」のーつ、結崎座(現在の観世流 )から出た観阿弥世阿弥
によって「能」として大成され、武士に舞された。四座の一つの流れをくむ金春流に伝わり、
現在は東京国立博物館が所蔵する重要文化財の能面8点が「里帰り」するのも今展の話
題だ。
 展示を担当した三浦敬任学芸員は「今回の展示品はほとんどが県内にゆかりがあるもので、
『仮面芸能のふるさと』である奈良だからこそ実現した特別展。地元の人にこそ見てほしい」
ーと話している。 
  2023-10-17 朝日新聞 (今井邦彦)
 
1 天河神社 (天川村 )に
伝わる能面「尉 (じょ
う )」 (室町時代•重要
文化財 )
2 手向山八幡宮
(奈良市 )に伝わる翁面
(室町〜安土桃山時代 )
3 談山神社に伝わる
翁面 (室町〜安土桃山
時代 )。
「摩多羅神 (まだらしん )
面」とも呼ばれる
4 談山神社 (桜井市 )
に伝わる能面「若い女」
(江戸時代


金印

   
 このまばゆい輝きは、はるか 2千年も昔から変わらない。弥生時代、九州のとある王さまが海外か
ら手に入れたという国宝金印。それが放つ神秘と来歴の謎にいざなわれ、出土の地、志賀島 (福岡
市東区 )をたどる旅に出た。
  一辺 2 • 34cm四方、 10円玉サイズの小さな金の塊。「漢委奴国王」の 5文字が刻まれ、つまみは
蛇をかたどる。教科書でもおなじみの国宝がこの世に現れたのは天明 4 ( 1 7 8 4 )年。福岡藩に届
けられた口上書によると、お百姓の甚兵衛さんが水田の溝を修理していると石があり、そ れを取り
除いたらキラリと光ったという。  
 一体、これはなんだ ?正体洗喝破したのが儒学者、亀井藤冥だ。博識を駆使し、中国の史書
「後漢書」が紀元 57年のこととして記す、日本からの使いに後漢の光武帝が贈った金印だと 
断じたのである。
 「委奴国」の読み方には諸説あるが、弥生の福岡平野にあったとされる「魏志倭人伝」記載の
「奴国」とみて、倭の奴国(わのな)と読むのが通説だ。
 これぞ、ザ・国宝。ところが、実は出土状況がよくわからない。記録には地名が呼崎(かなさき)と
か叶ノ浜とかあるから海沿いの可能性が高そうだ。ならば、それを収めていたらしい石とは何か。お墓
の石棺だろうか、埋納施設だろうか。ほかに遺物はなかったのか。そんな不可解さが墳墓説や隠匿説、
漂着説などを生み、さらには金印そのものの真贋論争さえ、たびたび引き起こしてきた。
 百聞は一見にしかず、現場百回。まずは志賀島に行かなくては始まらない。
 細い砂州を貫く 一本道、潮風を感じつつ車を走らせた。右は外洋につながる玄界灘、左はいにしえよ
り海外文化を受け入れてきた博多湾。眼前に深緑の志賀島が迫ってくる。
 その立地は、まさに日本の玄関口にふさわしい。船上から島影を認めたいにしえの旅人たちは目的
地への上陸が間もないことを実感し、ようやく航海の緊張を緩めたことだろう。
 島内に入った。博多湾を眺めつつ「金印海道」を走ると、ほどなく金印公園に着いた。入り 口に
「漢委奴国王金印発光之 処」の碑がそびえている。しかしあくまで先学による推定地であって、正確
な出土地点はいま だ不明のままだ。
 その具体的な痕跡をつかもうと、これまで福岡市などが発掘調査に挑んだが、みな不発に終わった〔山
塊が海岸線にせり出す急峻な地形だけに、たとえ水田があったとしても、すでに出 土遺構もろと
も荒波に勇洗われてしまったのでは。そんな悲観的な見方もある。
 なるほど、海沿いぎりぎりを走る道のわきはすぐ断崖になつていて、とても耕作地の余地はなさそうだ。
 ところが、 1枚の古写真がある。 1 9 5 1年刊行の岩波 I文庫「金印の出た土地」に載る風景写真には、
波打ち際との間に今はない猫の額ほどの水田らしき土地が、確かに見えるのだ。また、それを示唆する
古絵図もある。 !
 もしここに金印を収めた遺構があったのなら、海中に没してしまったのだろうか。水中に潜って調べた
らひょっとして……想像を巡らすこと、しばし。
 それにしても、これほどのお宝が、車で一周わずか 15分ほどの小島にあったのはなぜだろう。奴国の
中枢である福岡平野の方が、よほどふさわしいのに。疑問は募るばかりだ。
 金印公園の展望広場に立ってみた。眼下に博多湾が広がる。能古島が浮かび、その左には遠く福岡
市のビル群を望めた。この一帯はかっての奴国の本拠地だ。視線を右へ転じると、そこには奴国と並ぶ
「伊都国」があつた糸島半島。倭人伝が双璧と伝える 2大強国の故地が、能古島を挟んで東西同時に
見通せるのだ。ということは、この 2国からも、それぞれ志賀島が見えたに違いない。
 福岡市の文化財専門職、常松幹雄さん ( 66 )は、この立地に着目した 。
 一見ライバル視されがちな奴国と伊都国だけれど、お互いに深く交流したことが考古資料からわかっ
ており、「政治的な伊都国と生産性の高い奴国が連携して倭国の中枢を構成したのではないか」。
 常松さんいわく、やがて後漢の後ろ盾が弱まると、役割を終えた金印は志賀島に埋められた。そのとき
ここで、なんらかの儀式が催されたのではないか、と想像をめぐらせる。「それが鏡や矛を使う祭りやイ
ベン卜だったのなら、太陽に照らされた金属器の輝きは両方の本拠地から見えなくてはならなかつ .たは
ず」。その条件を満たすのが志賀島だった、というわけだ。
 今でこそ、のどかでひなびた志賀島。けれど民族学神話学の泰斗だった故•大林太良さんは、海外文化
の窓口、博多湾の入り口に浮かぶこの島こそ海上交易における積み荷の集散地、一大貿易センターと考
えた。
 この要衝に勢力を張ったとされるのが海の民、阿雲族(あずみ)。宗像や住吉と並ぶ古代海人族だ。
玄界灘を望む小高い丘に鎮座する志賀海神社は阿曇族が奉じた海の神、綿津見 3神をまつる。
 地元福岡で「金印と歴史の会」を主宰する会長の岡本顕実さん ( 79 )は、 2 0 0 7年から金印と阿曇族を
めぐるシンポジウムを毎年開催し、この 2月に過去 12年間のエッセンスをまとめた「現代『金印』考」 (龍
鳳書房 )を上梓(じょうし)した。
 金印の来歴は海人族抜きには語れない、と岡本さん。ひよっとしたら、阿曇族の祖となる海人族はす
ぐれた航海術や経験を買われて、奴国派遣の使節に大きな役割を果たしたのではなかったか
 さて、旅の終わりはいよいよ本物とのご対面だ。福岡市博物館 (早良区 )を訪れた。
 常設展示の入り口に足を踏み入れると、いきなり漆黒の空間が行く手をはばむ。その中央で黄金の光
に包まれた 1点に、視線は吸い寄せられる。ただ金印だけの世界。安定元素とはいえ、おそらく寸分た
がわない姿で 2千年の時を刻んできた奇跡に息をのんだ。 
 闇と光が演出するコントラス卜は、あまりに強烈だ。その輝きは、きっと半永久的に変わらないだろう。
数々の歴史の謎を秘めながら。
  2023-10-18  朝日新聞(夕刊)(編集委員•中村俊介 ) 

金印
耶馬台国  伊邪那岐命  東大寺山古墳 
日本語表記の始まり  年表239年  文字の始まり  


丹生都比売神社由緒

 紀の川より紀伊山地に入り標高四五〇mの天野盆地に当社が創建されたのは古く、 今から千七百年
以上前のことと伝えられます。天平時代に書かれた祝詞である『丹生大明神告門(のりと)』によれは
丹生都比売大神天照大御神の御妹神さまで稚日女命とも申し上げ、神代に紀の川流域の三谷に降臨、
紀州・大和を巡られ農耕を広め、この天野の地に鎮座されました。また、『播磨国風土記』によれば、
応神天皇が社殿と紀伊山地北西部一帯の広大な土地を神領として寄進されたとあります。
 ご祭神のお名前の「丹」は朱砂の鉱石から採取される朱を意味し、古代から魔除けの力があるとされ、
魏志倭人伝』には既に邪馬台国の時代に丹の山があったことが記載され、その鉱脈のあるところに
「丹生」の地名と神社があります。全国にある丹生神社は八十ハ社、丹生都比売大神を祀る神社は百
八社、摂末社を入れると百八十社余を数え、丹生都比売神社は、その総本社であります。
 千二百年前、真言密教の根本道場の地を求めていた弘法大師の前に、丹生都比売大神の御子、
高野御子大神は黒と白の犬を連れた狩人に化身して現れ、高野山へと導いたと云わっています。弘法大師
は、丹生都比売神社よりご神領である高野山を借受け、山上大伽藍に大神の御社を建て守護神として祀り、
開山しました。これ以降、神と仏が共存する日本人の信仰観がこの地において形成されてゆきました。中世、
当社の周囲には、 数多くの堂塔が建てられ明治の神仏分離まで当社は五十六人の神主と僧侶等で守ら
れてきました 。
 また、高野山参詣の表参道である町石道の中間にある二つ鳥居は、神社境内の入口で、まず当社に参拝
した後に:高野山に登ることが慣習でした。
 鎌倉時代には、行勝上人により気比神宮から大食都比売大神、厳島神社から市杵鳥比売大神が勧請され、
社殿が北条政子により寄進され、本殿が四殿となり、このころから国家安泰を祈る舞楽法会が江戸時代まで
盛んに行われます。現存する本殿は、室町時代に復興され、朱塗りに彫刻と彩色を施した壮麗なもので、
一間社春日造では日本一の規模を誇り楼門とともに要文化財に指定されています。
 尚、平成十六年七月「紀伊山地の霊場と参詣道」の丹生都比売神社境内が「神道と仏教の融合した文化
景観がある」として、世界遺産に登録されました。さらに、平成ニ十八年十月には、古代からの当社への
参詣道である「三谷坂」が追加登録されました。 


小治田安萬侶墓誌(おはりだのやすまろぼし)

 明治45年(1912).都祁(つげ)野の地で茶畑の耕作中に偶然発見された。小治田安萬侶は
蘇我氏と同族小治田氏の出身であり、その本拠地は飛鳥の小治田だが、墓は
太安萬侶と同様に盆地東方の高原地帯に営まれた。墓誌は主板1枚と左右の副板2枚
からなる。「左琴(さきん)」と「右書(うしょ)」は、書芸を示す言辞であり、六朝以来の中国的
教養観の影響と理解される。
 主板には、居住地、位階、姓名等が記され、その順番は太安萬侶墓誌に近い。神亀6年
(729)に従四位下で卒しており、太安萬侶と近い境遇にあった人物として比較される。 
 
 写真上墓誌復元 
奈良県立橿原考古学研究所
   
 小治田安万侶墓誌 奈良県山辺郡都介野村 (都祁村)大字甲岡字西畑か
ら明治四十四年 (ー九ー ー )に、一木の檜を割って身と?にし中を到り抜き
印籠蓋式に組み合わせた 骨臓棺とともにニ枚の副誌を伴って出土した。
また昭和二十六年 (一九五二)に、同地より和同開珍 (銀銭)十枚と土器類
などが出土した。墓誌は金銅板縦二九•七cm横六・二cmで整った楷書で
三行に「右京三条二坊従四位下小治田朝臣安 /万侶大倭国山辺郡都家
郷郡里崗安墓 /神亀六年 (七二九 )歳次巳 (己 )巳ニ月九日Jと刻し、
副誌は銅板で縦一五・三~ ー五•八cm、横ニ・ハ~二・七cm「左琴 (別の
一枚は「右書」 )神亀六年二月九日」と刻される。埋葬地を国郡郷里制で記し
、また副誌からは当時の責族の文化生活の一端か窺われる。なお安万侶
は安万呂にも作り、『続日本紀』などにその名がみえる。 重要文化財に
指定され東京国立博物館蔵である。 



八坂神社本殿

 
 日本三大祭りの一つ、祇園祭を祭礼とし、有数の観光地でもある八坂神社
(京都市東山区 )が、秋の「京都非公開文化財特別公開」に初めて参加する。
通常の参拝では見られない国宝本殿の内部や神宝など「知られざる八坂神社」
を体感できる。
 参拝者が手を合わせる本殿。;檜皮ぶきの大屋根が印象的なその建物は、
「祇園造」という国内唯一の建築様式を伝える。
 最大の特徴は、多くの神社では別々に建つ本殿と拝殿 が、一つの大屋根で
覆われていること。複雑な構造で、大屋根にある庇(ひさし)のさらに外側に
「又庇」が伸び、その下にはいくつもの部屋がある。
 神社の本殿建築として最大規模を誇り、 2 0 2 0年には国宝に指定された。 
 特別公開では、まず本殿内の後ろ側を拝観する。
 かって会議などに使われた「後戸」と呼ばれる部屋には、江戸時代の絵師・
円山応挙2羽の鶏を写実的に的に描いた「番鶏図」の衝立が置かれている。
 外陣に進むと、「感神院」と書かれた大きな扁額が掛かる。神仏習合だった
江戸時代末まで「祇園感神院」とも呼ばれていた名残で、神社正面の石鳥居
に掲げられていた。 1 8 6 8 (明治元 )年の神仏分離で八坂神社に改称された。
 この外陣は、素戔嗚尊をはじめとした 3柱の祭神を祀る内々陣の裏手に位
置する。同神社文教課の安居智美さんは「神様のすぐ近くでお参りして、八神社
のたどった歴史も感じて頂けたら」と話す。
 本殿は創建以来、数度の火災で焼失し、その都度再建された。記録では、
平安後期の 1 1 4 8年には現在と近い形だったとされる。
 現本殿は江戸前期の 1 6 5 4年、徳川 4代将軍・家綱が再建した。幕府は3代
家光の時代までに清水寺の本堂 (舞台 )や東寺五重塔などを次々再建したが、
こうした社寺優遇政策は財政上の理由で減っていく。八坂神社のその後の修理
は、町衆らの寄進によつてなされた。
 特別公開では、江戸箱の再建時に奉納された神宝(市指定文化財 )も、境内
の常磐殿で展示される。
 このうち「冕冠(べんかん)」と「礼冠」は黄金で彩られた豪華な冠だ。本来は天子
や親王らがかぶる冠を指し、祭神のために作られた。
 さらに蒔絵と螺鈿で装飾した「靭(ゆぎ)」 (矢を入れる武具)や祭神の履物として
調えた「草鞋(そうかい)」なども披露される。
 安居さんは「神宝がまとまって展示される機会はなかなかない。再建された
本殿の一体感を感じてもらえたら」と話す。
    2023-11-2  朝日新聞(夕刊)


文祢麻呂(ふみのねまろ)

 
 墓誌 東京国立博物館 飛鳥時代 国宝 
 文祢麻呂の墓は、天保2年(1831)大和国宇陀郡八滝の丘陵斜面で発見され、銅箱
に入れられた墓誌と、金銅製外容器に納められたガラス製骨蔵器が出土している。
 文祢麻呂は、漢の高祖の後裔で、応神朝に来朝したとされる王仁(わに)を祖とする
西文氏(かわちのふみ)出身の飛鳥時代の官人である。死亡時の官位は太安萬侶
同じ従四位下であった。壬申の乱では大海人皇子が挙兵を決断し吉野を発ったときか
ら舎人として付き従い、その功績から死後正四位上を贈位された。慶雲4年(707)年に
卒した文祢麻呂は、本拠地の河内ではなく、大和高原地帯に葬られており、藤原京の
葬地を考える手がかりとなる。


平等院鳳凰堂

 建立から 9 7 0年。悠久の時を経てもなお、平等鳳凰堂 (国宝 )は朝日を浴びて輝い
ている。
 世界遣産「古都京都の文化財」に登録された唯一無二の古建築は、仏教世界の西方
極楽浄土にある阿弥陀如来の宮殿を模したとされる。だから西に位置し、東を向く。鳥
の翼のような翼廊が左右に伸び、青空とともに池に映る姿は、まるで宙に浮いているよ
うだ。
 創建は平安後期の 1 0 5 2年 。鳳凰堂は翌年完成した。紫式部の「源氏物語」執筆か
らおよそ半世紀後のことだ。
 仏法が正しく伝わらなくなるという末法思想の下、関白藤原頼通が、父道長の別荘を
寺院に改めたものだ。都から南に 15km。ほどよい距離に位置する宇治は、貴族たち
に人気の別荘地だった。
 戦が絶えなかった京都では、平安時代から現存する建物は少ない。平等院も源平合
戦激戦地となり、江戸期には町から大火が迫り、北大門が焼けた。それでも鳳凰堂は
生き残った。まさに奇跡といえる。なにしろ模した建物は都や奥州の平泉にも築かれた
が、すべて焼失などで現存しないのだから。
 守られたのは、何度も修理を重ねたからでもある。時に人の手が加わり、様子が少し
変わったこともあったが、いま目の前に立つ鳳凰堂は平安時代の姿に限りなく近い。
平成年間に最新技術で調査、修理、整備をした成果なのだ。その一例が、赤茶色に塗ら
れた柱。東京文化財研究所などがわずかに残る創建時の塗装成分を分析すると、酸化
鉄が検出された。黄土を焼いた赤茶色の丹土で塗られていたことを突き止めたのだ。
 浄土庭園は、発掘調査を経てよみがえった。池のへりは以前、石組みの護岸だったが、
その下層から拳大の石を敷き詰めた平安時代の洲浜が出土した。土を盛ってその上に
当時の洲浜を再現した。
 夕方になると、荘厳さは一層際立つ。平安貴族も息をのんだに違いない。「仏の救済
は平等」という意味を持つ平等院。時代が変わつても、私たちを等しく見届けてくれる。
  2023-11-9 朝日新聞(夕刊)(筒井次郎) 



佐紀古墳群、なぜ奈良盆地北部か

   4世紀から 5世紀にかけて築造された前方後円墳が集中する奈良盆地北部の佐紀古墳群。
それ以前のヤマト王権の墓域は盆の東南部にあったが、なぜ場所が移されたのか。研究者た
ちはさまざまな手がから、中国の史書に記述がない「空白の 4世紀」の解明に挑んでいる。 
    2023-10-11 産経新聞(岩口利一)

 奈良時代の8世紀に宮殿や役所が並んだ平城宮跡から北西へ進み、集落が途切れると森が
現れる。その中に、佐紀古墳群での最古の4世紀中頃築造の佐紀陵山古墳がある。
 全長約 210mの前方後円墳で、宮内庁が第 11代垂仁天皇の皇后、日葉酢媛陵に治定。
日本書紀では、殉死の風習に天皇部心を痛め、人に代わり初めて埴輪を並べたのが日葉酢媛
の墓と伝えられている。 
 北西には 五社神(ごさし)古墳 (神功皇后陵)、東約 1キロに5世紀のヒシャゲ古墳(磐之媛陵 )
その周辺にウワナべ古墳 (陵墓参考.地)などが並ぶ。平城宮跡南側の宝来山古墳 (垂仁天皇陵 )
を含め 2 0 0m超の前方後円墳は 7基を数え、国内有数の古墳群だ。
 奈良市教委員会主務の村瀬陸さんと奈良文化財研究所アソシェイトフローの柴原聡一郎さん
は今年2月航空レーザーで佐紀古墳群の 3次元測量を行った佐紀古墳群の多くは宮内庁が陵墓
などとして立ち入を禁じているため情報は限られていたが、 新たなデータにり各古墳の詳細な構
造が分かった。
 中国の史書は日本について 3世紀は卑弥呼、 5世紀は倭の五王について記すが4世紀は空白
で、考古学的な調査・•研究でしか迫ることができない。 3~4世紀は初期ヤマト王権の領域があっ
たとされる奈良盆地東南部に卑弥呼の墓とも言われる箸墓古墳など纏向・大和・柳本古墳群、
5世紀前後には外交に有利に百舌烏・古市古墳群が築かれた。その間に盆地北端に古墳群が
築かれた理由は何なのか。
 柴原さんは「佐紀古墳群の解明が進めば謎の世紀に迫ることができる」と、データの解析を進
めている。
 「近くに木津川があり、物資が運ばれた川とつながる位置に古填群が営まれた意味は大きい。
佐紀で古墳造営が 1 O O年続いたのはそれを担った勢力が水運による経済基盤に支えられた
為だろう」
 そう指摘するのは今尾文昭・関西大非常勤講師 (考古学 )だ。奈良時代、平城への物資は
伊賀山中から 淀川へと流れる木津川を通じて運ばれた。佐紀がそんな物流の要衝となったのは、
古墳時代にさかのぼると推測。奈良盆地東南部から大和川を通じて河内へとつながる王権中枢
の勢力とともに、佐紀から木津川を介して伊賀や近江へと展開し連携する勢力が存在したーと考
えられるという 。
 さらに奈良市教委の村瀬さんは国内最大の鉄剣「蛇行剣」が出土した奈良市西部の富雄丸山
古墳 (4世紀中頃 )の存在に注目し、「王権は当時、北とともに生駒山を越える西へのル—卜も押
さえた」と話す。
 一方、 橿原考古学研究所付属博物館の青柳泰介・学芸副主幹 (考古学 )は「佐紀古墳群付近
を巡りマト王権と豪族、ワニ氏にせめぎあいがあった」と考える。
 ワニ氏は天皇家と姻戚関係を多く結んだとされる謎の有力氏族で、盆地東部が領域だった。
青柳さんは発掘調査で製材の痕跡を確認したことから、ヒノキなどの木材を生産し、同じく木津川を
通じて運搬したと推測。「木材生産と流通を掌握して勢力を拡大した」とした上で、「ワニ氏は木材
運搬のため木津川から佐紀東側を経て盆地に入るルートを押さえたので、ヤマ卜王権は周辺地
域を独占されないよう、西側から古墳を造って牽制したのではないか」と指摘する。    



長屋王

1 実権握り律令政治推進
 奈良時代前期、聖武天皇の下で左大臣として政権首班となり、律令政治を推し進めた長屋王
( 6 7 6 ? .〜 7299年 )。天武天皇の孫で皇位継承の有力候補ともみられていたが、謀反の密告を受け、
家族とともに自害した。後に密告は偽りだったことを、正史『続日本紀』は•明らかにしており、陰謀の犠牲
者と位置付けられるようになる。その背景には、政敵とされる藤原氏の存在が見え隠れする。とはいえ、
長屋王は政治家として、貧者の救済や農業振興などの政策を推進。仏教に深く帰依して、その興隆に
貢献するとともに、文化人としても大きな功績を残した。
  2023-9-23 産経新聞 (編集委員上坂徹 )
天武天皇の血筋
 長屋王は天武天皇の長子、高市皇子を父に、天智天皇の娘の御名部:皇女を母として生まれたとされる。
高市皇子は、皇位継承をめぐつて天武天皇と天智天皇の子、大友皇子とで争った壬申の乱 ( 6 7 2年 )の
際、父のもとに走り、軍を率いて活躍。天武天皇の死後、太政大臣となり、後を受けた持統天皇を補佐して、
政務を執った。そんな父を持つ 長屋王だが、•『続日本紀』に初めて登場するのは大宝 4 ( 7 0 4 )年正月の
条。文武天皇が「無位の長屋王に正四位上を授ける」とある。その 5年後、文武天皇に続く、元明天皇治世
下の和銅 2 ( 7 0 9 )年11月の条には「従三位の長屋王を宮内卿に任じる」。宮内卿は律令制の八省の一つ、
宮内省の長官で、皇室の庶務や土木、用土などを取り扱うという。
 この翌年 ( 7 10年 )、都が藤原京から平城京に移る。まもなく宮内卿から式部卿 (式部省の長官 )に任じら
れた長屋王は、朝廷から平城京に宅地を班給 (分け与えること )されていた。
木簡で邸宅特定
 平城京は、天皇の住まいの内裏や政務関係の施設が並ぶ宮域 (平城宮 )を中せ北端に配置。南端の羅城門
から平城宮正門の朱雀門まで、朱雀大路が南北中軸編上を通り、その西側は右京、東側が左京と呼ばれる
街区が広がる。
  5 3 0mおきに南北の大路 (坊 )と東西の大路 (条 )が碁盤目状に通り、それによってできる四角形の区画 (坊 )
を 16分割。そのうちのーマス分が「坪」 (約1.5万平方m )と呼ばれた。都市プランは唐の都・長安城にならっ
たとみられている。
 そんな平城京のどこに長屋王の邸宅があったのか。平城宮南東隅のすぐ外側の所で発掘調査が始まったの
は昭和 61年。平城京では左京三条二坊に該当し、四坪分 (約 6万㎡ )にもわたって宅地として使われていたこ
とが確認された。数々の建物遺構とともに、約 3万 5千点もの木簡が出土。木簡は文字が墨書された短冊の木
片で、荷物につける荷札や帳簿、報告・発注の連絡メモ、歌や文字の練習などに使われていた。
 この出土した木簡の中に「長屋親王宮鮑大贄十編」「雅楽寮移長屋王家令所」と書かれたものがあった。長屋王
にアワビを送った荷札と、宮廷音楽を担当する雅楽寮から長屋王の家令所 (家政機関 )にあてた手紙で、この
場所を長屋王の邸宅とする決定的な証拠となった。

酒を醸造し販売
 発掘調査の結果や出土した膨大な木簡の分析で、長屋王の生活ぶりが明らかになってきた。
 「長屋親王宮ー」の木簡では、本来、天皇の子供か兄弟にしか使われない「親王」の呼称、天皇に献上する食
物をさす「贄(にえ)」が使われていたことから、長屋王は「従三位」という位階以上の扱いを受けていたとみられる。
 しかも、宅地の位置は宮に近いほど位が高いとされるが、長屋王邸は宮のすぐ南東側にあった。
 長屋王邸は敷地の周囲を築地塀などで囲まれる。南側が居住空間で、床張りの正殿 (約 3 6 0㎡ )脇殿が並ぶ。
正殿は内裏に準じる規模とみられ、極めて高い格式だった。北側は長屋王の生活を支える家令所、使用人の住
居や工房、倉庫などがあった。家令所には、政所や主殿司 (殿舎の管理 )、大炊司 (穀物の管理 )、膳司 (食事の
調理 )などのほか、職人を管理する工司もあった。そうした職人らによる工房も銅造所、鋳物所などがあり、邸内で
活動していたらしい。
 その中で、注目されるのは「酒司」「御酒口 (醸 )所」と宣された木簡で、邸内では甕が据えられて、酒造りが行わ
れていたとみられる。甕ごとに米、麹、水の仕込み量が記された木簡
 ここで造られた酒は、邸内で使用するだけでなく、邸外に設けられた「西店」と呼ばれる施設で、米とともに販売さ
れていた、という。

三世一身の法」で新田開発に注力
 長屋王(ながやおう)天武天皇の長子、高市皇子の子で、母は天智天皇の娘、御名部皇女ともいわれる。
藤原不比等の死後に右大臣、聖武天皇の即位とともに左大臣となって政治の実権を握る。「百万町歩開
墾計画」を打ち出して、耕作地の拡大を目指す。•田畑を公のものとする公地公民制が行われる中、期限
付きとはいえ開墾した田の私有を認める
 「三世一身の法」を施行。新田開発に結び付けるなどして律令制の維持を図った。しかし、神亀6 (729)年、
謀反を企てていると密告されて、軍隊が邸宅を包囲。妻子とともに自害した。しかし、密告は偽りだったこと
が後に判明する。詩文に精通し、しばしば自邸で詩宴を開いたといわれる。奈良時代の漢詩集『懐風藻
に詩3編、『万葉集』に5首を残す。 



西大寺

乱鎮で造営
 平城京(平城宮 )のすぐ西側で、西大寺の造営が始まったのは天平神護元 ( 7 6 5 )年とされる。
称徳天皇は、道鏡が権勢を強めていく中で起きた藤原仲麻呂 (恵美押勝の乱 ( 7 6 4年 )の平
定を祈願し、鎮護国家の守籍神とされる四天王像を造立することなど請願。それに勝利したこと
で、西大寺の造営が決まった、という。
 奈良時代の明産目録「西大寺資財流記帳」 (資財帳 )によると、創建時の西大寺は寺域が約 4
8ha。中心伽藍は「院」で区画され、薬師・弥勒両金堂のある「金堂院」、東西の塔が並ぶ「塔院」、
四王院、食堂院、十一面堂院、政所院などで構成されていた。平城京内では興福寺薬師寺
上回る、最大規模だったが、平安時代には若しく衰退。鎌倉時代に戒律復興に尽くした叡尊が入
って、再興した。現在の寺域は、鎌自時代のものがベー|スになっているという。
外国の技術参考                           
 西大寺の境内地や奈良時代の旧境内地では、奈良文化即研(奈文研)などが約百回の発掘調査
を実施。その調査で、東塔跡から八角形の掘込地業 (地盤改良工事 )と方形の基壇跡を検出。基壇
を八角形から方形に変更していたことが確認された。平安時代の仏教説話集「日本霊異記」には
「太政大臣の藤原永手が西大寺の八角の塔を四角に、七層を五層に減らし、その罪で地獄に落ち
た」とあり、その説話が裏付けられた形だ。当時、八角形の七重塔は国内に類例はなく、外国の技
術を参考にしたとみられる。
 また、薬師金堂と弥勒金堂は近年の発掘調査で、その様相が明らかになった。 2つの金堂は
南北に並んで回廊を巡らし、金堂と回廊が軒廊 (こんろう・渡り廊 )によって結ばれていた。「資財帳」
によると、薬師金堂の屋根の中央には 2頭の獅子が火炎付きの宝珠を支えるデザインを施してい
たとされ、壮麗なたたずまいだった。
 僧らが食事をするなどした「食堂院」の遺構は中心伽藍の北東部で見つかっており、院内からは
板材を井籠状(’せいろう)に組んだ井戸を確認。その中から、ウリなど食用植物の種が大量に出
土した。ボラといつた魚の骨やうろこも見つかっており、僧侶らの食生活の一端をのぞかせた。寺
内からはイラク南部が原産地とされる 8世紀後半ごろのイスラム陶器 (つぼと推定 )、唐の楽人と
みられる「皇甫東口 (朝 )」と書かれた墨書土器などが見つかっており、国際性も豊かだった。
  2023-11-16  産経新聞(夕刊)

藤原仲麻呂 (恵美押勝 の乱 ( 7 6 4年 )   
吉備真備年表  護王神社  長岡造営を中止 
西大寺  西隆寺  称徳天皇と道鏡 
仲麻呂の乱  弓削道鏡  栄山寺 
淳仁天皇  白峯神宮  乙女ケ池 



西隆寺 幻の尼寺 称徳天皇ゆかりの

 はなくいどり  奈良市の平城宮跡資料館で「女帝のいのり—発掘された西大寺と西隆寺—」
(来年 2月 12日まで )という特別展が開かれているね。西大寺は知っているけど、西隆寺とい
うお寺は聞いたことないなあ。
 A  ずいぶん昔になくなったお寺なんだ。今の近鉄大和西大寺駅の牝東に奈良時代後期、
称徳天皇 ( 7 1 8〜 70 )が建立したと伝わるけれど、鎌倉時代初めまでに廃寺になったらしい。
 は  どんなお寺だったのかな。 
 A  男性の僧たちの寺である西大寺と、女性の尼僧たちの寺である西隆寺はセットで創建
されたようだ。きっかけは、 7 6 4年に勃発した「恵美押勝の乱」。称徳天皇はかって、孝謙天皇
として皇位についていたんだけど、淳仁天皇に位を譲った後も政治に関与し続けた。その孝謙
上皇と側近の僧・道鏡を排除しようと反乱を起こしたのが、淳仁天皇の側近だった恵美押勝
(藤原仲麻呂 )。孝謙上皇はその平定を仏に祈願し、西大寺の建立を発願したんだ。 
は  西隆寺も同時に建てられたの?
A  反乱を平定して再び即位した称徳天皇は、すぐに西大寺の建設にとりかかった。公式の
歴史書である「続日本紀」には、 7 6 7年に「造西大寺長官」とともに「造西隆寺長官」もいたと書
かれており、同時並行で建設が進んでいたようだね。
 は  どんな建物が立っていたのかな
  A   13世紀末の西大寺の敷地図には西隆寺の位置も記されていて、「金堂」•「塔」「南大門」
の記述がある。でも、そのころには田畑になっているとも書かれており、すでに廃寺になってい
たようだ。建物の詳しい記録がなく、絵図も後世に半ば想像で描かれたものだけ。具体的な姿
がわかってきたのは20世紀、発掘調査の成果なんだ。
 は  どういう経緯で発掘調査されたの ?
 A  西隆寺跡のすぐ南には大正時代、奈良と大阪を結ぶ大阪電気軌道の西大寺駅ができ、
昭和に入って大和西大寺駅として近鉄のタ—ミナル駅に。市街化も進み、 1 9 7 0年代に西隆寺
跡に大型商業施設 (現在のならファミリー )の建設計画が立った。それで奈良国立文化財研究所
(現在の奈良文化財研究所=奈文研 )などが発掘調査を進め、金堂や塔などの跡が確認された
んだよ。
 は  詳しく聞きたいな。
  A  金堂跡は、現・ならファミリー西側の横断歩道のあたりで検出された。基壇 (土台 )の痕跡
だけだったけれど、東西約 38m、南北約 23m。 2 0 1 8年に再建された興福寺中金堂と同規模
の、立派な建物だ。ー方、塔跡は金堂の東南約 90mの所で、やはり基壇の跡が見つかった。
こちらは 1辺が約 6mと、かなり小ぶり。 1 9 9 0荏のならフアミリ—改築の際にも、金堂を取り
巻く回廊や、その北東にあった食堂などが発掘され、お寺の姿がかなり見えてきたよ。
 は  重要な遺構だね。保存されているの ?
 A  いや、地中で保存されているのは、金堂跡など 一部だけだ。塔跡は 70年代の調査後に
土地所有者の協力で保存されていたんだけど、最近になって所有者が変わり、商業施設の建設
で消滅することになった。奈良市教委が再発掘して、詳細な記録を残したんだ。西隆寺跡は駅前
の一等地だけに、史跡に指定するなどして開発を規制することは、かなり難しそうだ。 
 は  なんとかならないのかな。
 A  まずは、この場所に西隆寺という称徳天皇ゆかりのお寺があったことを、少しでも多くの人
たちに知ってもらうことが大切だ。平城宮跡資料館の特別展もそろした狙いで企画されたそうだよ。
それに、西隆寺の遺構が見つかった場所には何カ所か、その成果を紹介する案内板や遺構表
示がある。ならファミリーの中にも、門跡が床に表示された場所があるんだ。奈文研はユーチューブ
の「なぶんーけんチャンネル」で、西隆寺の痕跡をたどる動画も配ー信している。市街地の下に
眠る「幻の尼寺」の存在を、ぜひ歩いて感じてほしいね。
   2023-11-12   朝日新聞(今井邦彦 ) 


おくのほそ道の風景地 けいの明神

おくのほそ道の風景地 けいの明神
 平成28年10月、氣比神宮境内地の全域が県内で初めて国の名勝「おくのほそ道の風景地」に
指定される。俳人芭蕉は「おくのほそ道」の旅において、月を詠む事が目的のーつであり、杖置き
の地敦賀での仲秋の名月を心待ちにしていたという。当神宮を初めとする敦賀の地では数多くの
句が残される。本文に「けいの明神に夜参す」とあり、本名称にて指定を受ける。
  「名艮や北国日和定めなき
  「月清し遊行の持てる砂の上
元禄2年(1689)8月14日(陽暦9月27日)夕刻敦賀入りする、快晴。芭蕉は旅籠出雲屋(現敦賀市相
生町)に宿をもつ。「あすの夜もかくあるべきにや(明日も晴れるでしょうか)」芭蕉の問いに出雲屋
主人は「北陸の天気は変わりやすい。明日はわかりません。今夜のうちに(氣比神宮へ)参りませ
んか。」と答える。それならばと夜参りに出かけ月見を堪能する。翌朝 (8月15 0)は主人の言葉通
り雨天、「名月や・・・」と句に残す。また、時宗2代目遊行上人が正安3年(1301)この地を訪れた際、
境内西側が沼地で参詣者が往来に苦労する姿を見、上人自ら海岸より砂を運び水溜りを埋め立
て参道整備した故事を聞く。(現在でも時宗本山の清浄光寺の法主交代の折には当宮でお砂持ち
の儀式が執り行われる)この話に感銘した芭蕉は「月清し・・・」と句を残す。中鳥居正面に芭蕉像
と句碑が立つ。



いろはにほへと人麻呂

 カキノモト、ヒ、トマル 柿のもと、火、止まる-柿本人麻呂のもじりだ。誰が最初にこんなことを言い
出したのか。それで、大真面目に柿の木を植えたなんて…
 不思議だが、滑稽でもある。人麻呂で思い出したが、いろは歌 (いろはにほへと〜 )にまっわる奇
怪な話がある。日本人なら誰でも知っているいろは歌は、誰の作か。いろいろな説がある。仏教説話
であり、作者は空海だという説。「いろはにほへとちりぬるを」はすなわち「諸行無常」、以下ひとまとま
りごとに涅槃経の文言になるから。ほかに、平安期の歌人、小野篁の作という説。いや、かの
菅原道真だという説等々。そしてそこに、人麻呂だという。
真偽については、僕は学者ではないから、正しくないかもしれないが面白いと思うだけ。
 室町期に「近きあいだに必ずまいりまする。この中に隠されている食べ物は ?」という謎々があり、そ
の答えは「ちまき」。「ちかき」のあいだに「か」はならず、「ま」入りまする。だから「ちまき」。
   2023-12-6朝日新聞(夕刊) 渡辺晋一郎

い  ろ  は  に  ほ  へ 








 
ち  り  ぬ  る  を  わ  か 
よ  た  れ  そ  つ  ね  な 
ら  む  う  い  の  お  く 
ま  け  ふ  こ  え  て 
あ  さ  き  ゆ  め  み  し 
ゑ  ひ  も  せ      す 

いろはにほへと漢字かなまじりでは
色は匂へど
散りぬるを
わが世誰ぞ常ならむ
有為の奥山今日越えて
浅き夢見し酔ひもせず。  

『涅槃経(ねはんぎょう)』の偈(げ) (四行詩 )でみると、
諸行無常(しょぎょうむじょう)
是生滅法(ぜしょうめっぽう)
生滅滅已(しょうめつめつい)
寂滅為楽 (じゃくめついらく)

その大意は 一般於に ,
 「この世に、華やかな歓楽な生活があっても、それはやがては散り、滅んでしまうものである。
この世ははかなく、無常なもので、この非情なはかなさを乘り越えて解脱するには、
浅はか栄華を夢みたり、欲に酔ってはならない」 


天部について

 天とは十界・六道のひとつで天上界を意味すると共に、そこに住む神々のことも総称として天といいます。
天上界に住む神々(即ち「天」)は、そのほとんどが元は仏教成立以前の古代インドにおいて人々が信仰し
ていたバラモン教やヒンドウ一教の神々といわれています。
 インドで仏教が、バラモン教やヒンドウ一教に代わって人々に信仰されていく際に、仏教は民衆に信仰さ
れていたこれらの神を排斥することはせず、むしろ仏教の中に包摂することで、これらを信仰する人々を
仏教の信者として取り込んでいきました。
 そして仏教では、これらの神々をすべて天上界に住まわせて、一括して「天」の称号を与えました。ですか
ら天部に属する諸尊は如来•菩薩に比べてはるかに多いといわれます。
天部の役割とは
 如来•菩薩•明王が衆生を悟りの世界に導くことを使命としているのに対し、天部の諸尊は、二つの性格を
持っています。
① 仏法や仏法を信仰する人々を外敵から守る“護法神”
② 現世利益的な“福徳神”
 •護法神としての性格については、本来外道(異教)の神々であったため、仏教の中に再編成されていく際に、
仏教の中心的な尊格として扱うのではなく、むしろその周縁に置かれて、一段低いランク付けがされました.
(胎蔵界曼荼羅の最外院に配置される)
 •福徳神としての性格については、仏教に取り入れられる以前より持っていた性格がそのまま引き継がれ
ました。
天部の形
 天部に属する諸尊の姿は、人間に近いものから鳥獣・鬼神の類まで、実に様々な姿で表現されています。
特にインドから中国を経由し日本に入るまでに、各地で信仰されていた在来の神々を新しく取り込んでいっ
たためで、その容姿にはインド風の面影を残すものや中国風のものまであります。これは受容に際して各地
の人々に違和感を抱かせないよう、当地風に改められたことも多かったとも考えられています。
 このようなことから、その姿かたちは複雑多岐で、例えば光背は頭光のみで身光はなく、台座も岩座・
荷葉座・鳥獣座が主流で、蓮華座を用いることは稀です。
 天部の姿を仏教における役割によって分けると、次の2つに大別できます。
⑴神将形(しんしょうぎょう)
 仏法や仏法を信仰する人々に危害を加えようとするものに対し、これを威圧・撃退する“護法神”としての性
格を担います。その多くは甲冑姿で武器(宝剣・宝棒・戟など)を手にして形相も忽:怒で足下には邪鬼や猛獣を
踏みつけています。
(2)天女形(てんにょぎょう)
 福徳・財宝を人々に授ける“福徳神”の性格を担う諸尊は、菩薩を思わせる柔和な相として表されます。
菩薩同様に条帛・裙・腰布・天衣を身にまとっているか、中国唐風の装束を身にまとう場合が多く見られます。
また、額に白毫はありません。(菩薩との区別)
十界(じっかい)・・・迷いとさとりの世界を10種にわけたもの。
           地獄界・餓鬼界・畜生界・阿修羅界・人間界・天上界(凡夫の迷いの世界)6種声聞界・
縁覚界・菩薩界・仏界(聖者のさとりの世界)4種
           六凡四聖という。


須弥山

 古代インドの世界観。中心にそびえる聖なる山のこと。インドで形成された宗教ラモン教、仏教、ジャイナ教、
ヒンドウー教)ですべて共有されている。その中で、とりわけ仏教が中国や日本に伝播するに伴い、この世界
観も伝播した。
 仏教の世界観では、須弥山をとりまいて7つの金の山と鉄囲山(てっちせん)があり、その間に8つの海がある。
これを九山八海という。
「須弥」とは漢字による音訳で、意訳は「妙高」という。
 玄奘(602〜664)の頃から須弥山がチベット高原、それを取り巻く 4大大陸は、南アジア・西アジア・東アジアと
考えられてきた。須弥山の頂上には帝釈天(インドラ)が住んでおり、その上空には修行を極めた者のみが行け
る世界が広がっているとされたため、インドの行者はガンジス川を遡ってチベツトを目指したといわれている。
 鎌倉時代の僧・日蓮上人によると、「須弥山は上下16万8千由旬の山なり(聖愚問答抄)とあるように、上と下に
分割されるものと認識していることがわかる。
  ※1由旬とは・・・古代インドの長さの単位。1由旬は約10 km〜15 km
 大きさのスケールからも、これは地球の北半球と南半球と考えることが妥当で、仏教の知識人は地球を地球と
してしっかり認識していたことがわかる。
 須弥山の高さは8万由旬といわれ、中腹には日天と月天がまわっており、下から恒悟天、持蔓天、堅手天、そし
て四天王がおり、ここを住みかとしながら四州を守っている。これらの住処は四層状になっていて、山の中腹から
四周にはみ出たヴェランダ構造になっている。四天王の眷属たちは他の山々や太陽や月に植民していて、さらに
その上の山頂の忇利天には、帝釈天とほか三十二天が住むという。



言霊(万葉人と言霊)

神代より 言ひ伝て来らく そらみつ 大和の国は 皇神(すめかみ)の 厳しき国 言霊の 幸はふ国と 語り継ぎ 言ひ
継がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり 人さはに 満ちてはあれども 高光る 日の大朝廷(お
ほみかど) 神ながら 愛での盛りに 天の下 奏(まお)したまひし 家の子と 選ひたまひて 勅旨 <おほみこと・反して、
「大命」と云ふ ) 頂き持ちて 唐(もとこし)の 遠き境に 遣(つか)はされ 罷(まか)りいませ 海原の 辺にも沖にも 
神留(かみづ)まり うしはきいます 諸々の 大御神(おほみかみ)たち 船の紬(へ)に <反して、「ふなのへに」と
云ふ > 導きまをし 天地(あめつち)の 大御神たち 大和の 大国御魂 ひさかたの 天のみ空ゆ天翔(あまか
け)り 見渡したまひ 事終はり 帰らむ日には また更に 大御神たち 船の紬(へ)に み手うち掛けて 墨縄を
延(は)へたるごとく あぢかをし 値嘉(ちか)の崎より 大伴の 三津の浜辺に 直泊(ただは)てに み船は泊(は)
てむ 障(つつ)みなく 幸(さき)くいまして はや帰りませ   ⑤八九四

〔訳』神代以来 言い伝えられたことですが (そらみつ ) 大和の国は 国つ神の威徳のいかめしい国 言霊の 助け
る国だと 語り継ぎ 言い継いできました  そのことは現代の人もことごとく 目のあたりに 見ており知っています。
人がいっぱい 溢れていますが (高光る) 朝廷の中で  大御心のままに格別に重んぜられ  天下の政治も担当
された 名ある家の子として   お選びになり 勅旨を <大命と読む > 捧げ持って 唐国の 遠い境に 遣わされ お出
かけになるので 海原の 岸にも沖にも どっかりと 鎮座まします もろもろの 海神たちは 遣唐船の船舳で <ふな
のへに、と読む > 大使卿らをご案内し  天地の大御神たち中でも大和の 大国御魂の神は (ひさかたの ) 天のみ
空を 飛び翔り 見渡して加護したまい 務めを終え帰朝される日には また更に 海原の神々は  船のへさきに 
御手を掛けてご先導し 墨縄を 張ったように (あぢかをし ) 値嘉の崎を経て 大伴の三津の浜辺に 寄り道もせず  
お船 は着くでしょう  つつがなくお 元気にいらして  早くお帰りなさいませ〕

反歌
 大伴の 三津の松原 かき掃(は)きて 我立ち待たむ はや帰りませ ⑤八九五
 •難波津に み船泊てぬと 聞こえ来ば 紐解(ひもと)き放(さ)けて 立ち走りせむ ⑤八九六 

憶良の「好去好来歌」の冒頭で、七三三年の遣唐使への送別儀礼の歌とされる。共通して遣唐使派遣の機会に
際して、すでに特別な対外意識、つまりは海外である対中国 (唐 )という自国意識の高揚が「首霊』の語をよびおこし、
その旅の困難さも相まって「言霊」の発動が求められている。

▼遣唐使という対外的で困建な旅や、辛い恋の場面で、必要とされる時には、より良い方句へのカ (助 )の発動が期
待される、 それが「言霊」であった。また語り継ぎ、 目の当たりこし、今に至るという。

▽「魂」が宿るのは、「言葉」も同様で、万葉集の歌に「ことだま 」という言葉がつかわれている。これは万葉びとが言葉
にも精霊的な力が宿ると考えていたことをさす。
折口信夫 (『日本文学の発生』 )は、言葉に精霊が宿るとし、呪詞の唱えられることによつてそれが目をさまして活動
し、作用すると指摘する。言葉に内在する、あるいは作用するカが、人の奉•不幸も左右すると号えていた。そしてそのよ
うな信仰は、さまざまな習俗となって伝承されている。言葉には霊力が宿り、 その霊威が発揮されると、その言葉通り
の事が実現する、とする観念があった。それが「ことだま」だと考えられている。
▽さらに折口信夫(「伝承文芸論」)はつぎのように述べる。
 つまり、言語精宝が不思議な作用を表すといふことが、言霊のさきはふ といふ意味です。さういう言語が、 古代の
日本の国に伝って居て、それを忘れてはいけないといふので、一•所懸命に失はないやうに伝承して居たのです。そして
それが日本の文学の始りとなったわけ)です。
 言葉の力を信じなくなった人がいるだからこそ「残そう Jとする意思が働き、それが文学となったという。つまりは、
「日本文学の始まり」は「言霊の力を残す」ことにまじまったというのである。

奈良大学 鈴木喬 山の辺文化講座「万葉人と言霊」資料より

言霊
敷城島  万葉賛歌  志紀し間の 


円空

 
 江戸前期に全国各地を旅し、多くの仏像を彫った修験僧、円空 ( 1 6 3 2〜 95 )。素朴だが、
ほほ笑みをたたえた姿で知られる「円空仏」•は、現在 5 4 00体あまりが確認される。大阪市
のあべのハルカス美術館で、 2月 2日から始まる展覧会「円空——旅して、彫って、祈って一」を
前に、そ の魅力に迫った。
 群馬県富岡市の神社で見つかった資料から、円空は 1 6 3 2年、今の岐阜ー県で生まれたこ
とがわかっている。山岳信仰に仏教が結びついた修験道の僧として、各地の霊場で修行した。
 作品が初めて記録に出てくるのは 63年。数えで 32歳のときに岐阜県の神社で像を彫った。
それ以降、東海地方を中心に北海道から近畿地方を旅しながら神仏を彫り、祈りを捧げた。
 48歳のときには、石川県と岐阜県にまたがる霊山、白山の神から「円空の彫る像は仏そのも
の」というお告げを受けた。
 50代だった 85年ごろには岐阜県高山市の千光寺に滞在。晩年は同県関市の弥勒寺を再興
し、 95年に 64歳で亡くなった。
 円空学会の理事長、愛知県岩倉市の小島梯次さん ( 81 )によると、円空は 84年に名古屋市の
熱田神宮で修行した。ちょうど同じときに俳人の松尾芭蕉もお参りした記録があるという 。
 ただ、残っている資料が少なく、いつ出家したのか、どんな最期だったのか、はっきりしない。
 円空が旅し、神仏を彫り続けたのは「趣味やなりわいではなく、布教のため」と小島さん。「豪雪
に埋まる山村にも足を運び、神仏を彫って魂を入れ、仏教を広めた。円空仏のほほ笑みは庶民
の信仰や生活を映し出し、庶民に受け入れられてきた」と話す。
 江戸後期の 1 7 9 0年に出版された「近世畸人伝」に取り上げられるなど円空の存在は知られ
ていたようだが、脚光を浴びるようになったのは戦後のことだ。
  1 9 6 0〜 61年、神奈川県鎌倉市で円空上人彫刻展が開かれた。美術評論家が高く評価し、
美術雑誌が円空仏を取り上げたという。
 71年には円空学会ができ、約 1 5 0人が会員になった。 88年には N H Kで円空の生涯がドラ
マ化された。各地で展覧会が開かれ、今も円空仏の発見が相次いでいる。
 円空仏の特徴の一つは独特な造形だ。シンプルな彫り方にもかかわらず、ほほ笑みも、怒りの
形相も表現されている。
 今回の展覧会に出る千光寺の「両面宿灘坐像」は、一つの体に二つの顔を持つ異形の人物。
人気漫画「呪術廻戦」に登場し、注目を集める。「観音三十三応現身立像」の眉や目は横線で簡
単に表現されるが、その表情は一体一体で異なる。東山白山神社 (岐阜県高山市 )の「思惟菩靖
坐像」、神明神社 (同県関市 )の「護法神立像• 善財童子立像」も可愛らしい姿が目を引く。小島さ
んは「仏像とはこうだという型を破り、現代人の審美眼にマッチした」と語る。
 一方で、高さ 10cmにも満たない小さな像が、今も各地の民家の仏壇などでまつられる。その表
情はやさしさに満ち、見ている人の心に何かを訴える。小島さんは「円空の根にあるのは、たくまし
さとやさしさ。虚心担壊に円空仏を見て、円空の思いをそのまま感じ取ってほしい」と話す。
  2024-1-29 朝日新聞(岡田匠)



i磐井 岩戸山古墳

 
 今城塚古墳の7割を縮めた相似形
といわれる岩戸山古墳、また、
今城塚古墳に九州産の石の石棺と
なっている
 無謀な反逆者か、はたまた希代の英雄か。 6世紀前半、古代大和王権に弓引いた
九州の大豪族、筑紫君磐井の評価は大きく割れる。継体大王の軍に敗れた磐井は
惨殺されたと史料はいうが、実はひそかに逃げ延びたとの伝承も。はたして史実はど
こにあるのだろう。彼が眠る福岡県八女市の岩戸山古墳で、しばし空想をめぐらした。
 「磐井の乱」は古墳時代最大の内戦とされる。首謀者が北部九州に勢力を張る磐井
だった。「日本書紀」 (継体 21年 )によれば、新羅からの賄賂を受けた磐井は、大和王
権が朝鮮半島での失地奪回に差し向けた派兵を遮った。両者の戦闘は 1年余りに及
んだが、大和側の勝利に。磐井は斬られたという。
 磐井の墓とされるのが岩戸山古墳だ。全長 170m余の前方後円墳で、北部九州最大。
まさに筑紫の盟主にふさわしい。
 国内には 16万基もの古墳があるけれど、墓誌などがない限り被葬者はわからない。
岩戸山古墳はまれな例外で、その手がかりが逸文として断片が残る「筑後国風土記」だ。
 風土記は磐井の墓について地理的位置や規模の情報とともに、そこに石人と石盾が
立っていたと伝える。さらには東北隅に「別区」と呼ばれる方形区画があって、盗人が裁
かれる様子が石の造形で再現されていた、というのだ。
 この特徴的な石の造形は石人石馬とか石製表飾と呼ばれ、福岡や熊本地方独特の
葬送文化だ。器財や動物を模した形象埴輪に似るが、ずっと大きい。
 岩戸山古墳は質量ともに飛び抜け、風土記記載の別区も付属するため、諸説あった
磐井の墓のなかでも有力視されてきた。江戸時代の久留米藩士、矢野ー貞はいち早く
ここに着目し、戦後の九州考古学を牽引した森貞次郎が、風土記の記述と矛盾が指摘
されてきた墳丘の長さを鮮やかに読み解くにいたって、「磐井の墓 =岩戸山古墳」がほ・
ぼ定説となった。 "
 別区での石人石馬がなぜ裁判の場面なのかも、裁判権は権力の象徴で、それが磐井
の自治権を表したとみれば、それほど不自然ではないだろう。
 
 さあ、県南の筑後地方へ向かおう。福岡市から高速道路を使えば、車で 1時間ほど。
八女丘陵に点在する八女古墳群の中心に、岩戸山古墳はある。
 ときは初冬。鮮やかな紅葉や黄葉が晩秋の名残を感じさせる墳丘を登り、よく整備され
た外周を歩いた。さすがに大きい。
 墳丘の東北に原っぱが広がっている。ほほう、これが別区か。いまはなにもないけれど、
隅っこに並んだ石人石馬のレプリカが古墳の築造時をわずかにしのばせる。かつては多
種多様な石人たちがひしめき、風土記の記述さながらの光景を見せていたことだろう。
 往時の状況を、もう少し再現できないか。隣接する八女市岩戸山歴史文化交流館「いわ
いの郷」に足を運んだ。
 ほの暗い館内に、出土した石人石馬が静かにたたずむ。甲冑を着込んだもののふ、
盾や武具、動物たち……。みな物言わぬ歴史の証人だ。
 ただ、断片も少なくない。首を打ち落とされた馬もあれば、肩から下を失った武人もいる。
いくら悠久の時月を経たとはいえ、堅牢な石の造形がこうも無残になるものだろうか。
 風土記は「官軍」の兵たちが石人石馬を破壊したとも伝える。ひょっとしてこの痛々しい
姿はそれを物語っているのでは ?妄想が脳裏をかすめた。
 ところで、みなさんは不思議に思わないだろうか。
 そもそも反逆者の末路は悲惨なもの。首が河原にさらされたり、見せしめに遺体が放置
されたりと、無体な扱いを受けるのが普通だ。なのに列島を揺るがす大事件の首謀者が、
敗れたにもかかわらず九州屈指の巨大古墳に手厚く葬られたとは、なんとも不可解では
ないか。磐井は自らの墓を生前に築いていたともいうが、では、彼を惨殺した大和王権側
がねんごろに葬ってあげた、とでもいうのだろうか。
 「う〜ん、謎ですが、大和側は筑紫勢力を磐井の死後も利用しようとしたのではないで
しょうか」
 「いわいの郷」の伊崎俊秋・負長はいう。とすれば磐井の力や人脈は、大和側にとっても
無視できない、あるいは消し去るにはしのびないほどの強大さだったことになる。
 実際、磐井の血脈は彼の死後も途絶えない。息子の葛子は玄界灘近くの領地を差し出
して許されているし、本拠地八女地方での造墓活動も続く。乱からひと世代ほどのちの
鶴見山古墳でも石人が出土し、磐井ゆかりの古墳祭祀はしばらく命脈を保つようなのだ。
 磐井の乱とは、地方の、地方による統治を実現する、避けられない戦いだった——。
 「いわいの郷」の館内スクリ—ンに流れるナレーションが切々と来訪者に訴えるのは、
悪逆非道な人物どころか中央の圧政に敢然と立ち向かい、領民を愛し、海外とも交わ
る英明な国際派、そんなヒロイックな磐井像である。
 対して大和王権側は九州の財を搾取し人々を虐げる、思いっきり悪役の侵略者。
その対照はすがすがしいほどで、千数百年もの間悪玉に甘んじてきた磐井のうっぷんを
晴らすかのよう。
 しかし史実はそう単純ではない。たとえば昊のライバル継体が眠るとされる今城塚古墳
(大阪府高腰 )からはなぜか九州産の雇の石が確認されているし、同古墳を 7割に縮め
た相似形が岩戸山古墳とみる説も。もしそうならば、敵対関係だけでは理解できそうにな
い。もともと信頼関係にあった両者だが外交方針の対立で決別した、との意見もある。
 継体と磐井、 2人の間にいったい何があったのだろう。
 実は、先の風土記逸文には古老の話として、意味深な続きがある。磐井はた単身、
瀬戸内海に面した豊前の地に落ち延びたといい、日本書紀と結末を異にするのだ。「地元
では英雄であってほしいとの思いの表れなので しょうね」と伊崎さん。
 勝てば官軍、負ければ賊軍。勝者の歴史が刻むイメージが真実とは限らない。地元の
判官びいきが生んだ願望なのか、逃亡伝承には悲劇の英雄をあわれむ人々の同情が、
時を超えてにじんでいる気がしてならない。
  2024-1-24 朝日新聞 (編集委員・中慎介 )



聖武天皇 重ねた遷都

 奈良時代前期、わずか 5年の間に、平城京 (奈良市 )から 3カ所もの遷都を繰返した
聖武天皇 ( 7 0 1〜 56年 )。多数の死者を出した天然痘の猛威が吹き荒れ、内乱も発生。
そうした中での度重なる遷都は、「聖武天皇の彷徨 5年」と呼ばれるが、その理由について、
「中国・唐に習って、首都と陪都 (首都機能を持つ都城 )からなる福都制を構想したことに
あり、感染症への対処など複雑に影響した」とする論考を小笠原好彦•滋賀大名誉教授
(考古学 )が、文化財保存全国協議会の「明日への文化財 85号」に発表、注目されている。
3つの都城が有効に交流ることで国家の発展を目指したが、感染症の蔓延などにより、
計画は思わぬ方向に動いたのかもしれない。
  2021-10-7 産経新聞 夕刊 (編集委員 上坂徹)               

 「続日本紀」によると、大和朝廷により九州地方を統括していた大宰府 (福岡県太宰府
市 )の管内で天平 7 ( 7 3 5 )年、天然痘の感染が拡大、死者が続出した。大陸や朝鮮半
島との交流が活発化していた時代。天然痘ウィルスは外国から持ち込まれたとみられる。
朝廷は長門 (山口県 )より東の諸国に対応を命じ、平城京 (奈良市 )への感染拡大の防止
に努めた。が、同 9 ( 7 3 7 )年になつて、平城京をはじめとした東海以西の各地にも
天然痘が拡大。政治を主導した右大臣の藤原武智麻呂宇合不比等の 4人の子が
全員、感染により死亡した。
 藤原四子の死後、政権を掌握したのは右大臣の橘諸兄。唐から帰国した吉福真傭
僧・玄昉を政治顧問にしたが、反発した宇合の長男で大宰少弐 (大宰府次官 )の広嗣
同 12 ( 7 4 0 )年 9月、九州で乱をおこした。すると、聖武天皇は翌月、「しばらくの間、
東国に行こうと思う。事態が重大でやむを得ない」と言い残し、平城京から東国行幸の旅
に出た。行幸は聖武天皇の曽祖父の天武天皇壬申の乱 ( 6 7 2年 )のさいにとった、
近江朝廷への進撃ルートだった。
風評封じのため
 聖武天皇は同年末、平城京からわずか 5キロ余りしか離れていない山背国の恭仁京(
京都府木津川市 )に到着すると、ここへの憲都を定め、恭仁宮・京の造営を開始した。
同 14 ( 7 4 2 )年には紫香楽 (滋賀県甲賀市 )に離宮の造営を命じた。翌年には紫香楽宮
で、「大仏 (盧舎那仏 )造顕の詔」を発し、甲賀寺で巨大な金銅仏像 の造営を始めている。
 大仏造営は大流行した天然痘禍を長屋王の怨霊とみなす風評への対処のため、とみる
向きもある。長屋王は不比等死後の養老 5 ( 7 2 1 )年、若大臣となって政治の実権を握っ
たが、謀叛の密告がなされ、妻子とともに自害に追い込まれた。これは藤原氏が企てた
陰謀とみられ、藤原四子の感染死を長屋王の怨霊によるものという風評が起きたようだ。 
 そうした中で、天平 16 ( 7 4 4 )年 2月には、まだ工事途中だった恭仁宮・京から
難波宮・京
(大阪市 )への遷都が宣言された。
家発展目指し
 難波宮をめぐっては、天武天皇が天武 12 ( 6 8 3 )年「都城・宮室はーカ所でなく、必ず
二、三カ所作るべき。そこで難波を都にしようと思う」と「複部.制の詔」を出して、難波宮の
造営を図ったが、火事で大半を焼失。聖武天皇は即位から 2年後の神亀 3 ( 7 2 6 )年、
その地を再興•整備しようと、宇合を知造難波宮事 (造営責任者 )に任じて工事に着手。
天平 4 (7 3 2 )年には、宮域が完成したとみられている。
 難波宮遷都から 1年後には、紫香書へ遷都。しかし、美濃 (岐阜県 )を震源とする
巨大地震が発生。工事中の大仏も大被害を受けて、わずか半年で平城京に還都した。
 小笠原名誉教授は「難波宮・京造営は、天武天皇が行いながら挫折したもので、 三都制
をとっていた唐の政治体制を模したものだった」。唐の三都のひとつ洛陽城は中央に河川
が貫流しており、水運で物資が集まり、経済発展していた。「水運に使える泉川 (木津川 )が
貫流する恭仁宮•京の造営は首都と陪都の関連強化のためと推測され、平城京、難波宮・
京と相互に交流し、国家発展につながると考えたのだろう」という 。
 しかし、天然痘の流行、藤原四子の死亡、藤馬嗣の乱などへの対処に迫られた聖武天皇。
小笠原名誉教授は「大仏造立は長屋王の怨念による疫病が再び広まらないように対処した
施策であるのは疑いない。その造立のために、紫香楽宮を造ったことで、 (遷都の動きに )
複雑さを加えることになった。大仏は恭仁郷で造立し、恭仁宮・京に遷都すべきだったと思
える」としている。
聖武天皇
 神亀元 ( 7 2 4 )年、第 45代天皇として罷。文武天皇の第 1皇子で、母は藤原不比等の
娘の宮子。夫人は不比等の娘、光明子遣唐使を派遣し、唐の文物・制度を導入。在位中
は国内で天然痘が流行し、政権を支えた貴族らが次々と感染死。内乱が起きて、鎮圧した
ものの、聖武天皇は遷都を繰り返した。恭仁宮・京—難波宮 ・京ー紫香楽宮と遷して、
5年後に平城京に戻った。光明皇后とともに仏教政策を遂行。全国に国分寺・国分尼寺を置
く制度を整え、盧遮那大仏造立を発願した。天平 15 ( 7 4 3 )年には、「墾田永世私財法」を
発令、墾田の私有を認めた。律令制の根幹をなした公地主義の変革で、律令体制崩壊
を某める原因になったとされる。


富雄丸山古墳 奇跡の木棺

 
 
   2024-2-7 朝日新聞
 類例のない盾の形をした銅鏡と、東アジア最大の鉄剣が出土した奈良市の富雄丸山古墳
( 4世紀後半 )で、銅鏡と鉄剣の下で見つかっていた木棺が 6日、報道陣に公開された。
調査する市教育委員会によると、円筒状の木棺は保存状態も「類例のない」良好さという。
 富雄丸山古墳は直径約 109mと全国最大級の円墳。昨年度、古墳北東部にある造り出し
(突出部 )を発掘調査し、「鼉龍文盾形銅鏡(だりゅうもん)」(長さ 64cm )と、全長 2 3 7cの
蛇行剣が出土した。木棺は未調査で、昨年 12月から再び調べていた。
 「割竹形木棺」と呼ばれるコウヤマキの丸太をくりぬいた形で、長さ 5・ 3m以上、直径
64〜 70cm。造り出しに掘られた方形の穴 (長さ約 7・ 4m、幅約 3m)の底に、両端を北西と
南東に向けて置かれていた。棺の周りにブ口ック状の粘土を積み、さらに粘土をかぶせて
仕上げた「粘土郭」が構築されており 、その築造過程も明らかになった。
 蓋は約 3分の 1が残存し、運搬時に使われたとみられる「縄掛け突起」の•一つも残っていた。
棺の内側にはめ込み、端をふさぐ「小口板」 ,などもあった。
 木棺は 1千年以上の間に土中で腐り、消失することが多く、これだけ残るのは非常に珍しい。 •
市教委は今後、木棺の内部も調査する。土が流入しているが、金属探知機に反応があり、
武器や農耕具などの鉄製品が副葬されているとみられる。 3月中旬ごろに成果を発表する
という。 (今井邦彦 )  
  昨年度、全長 2mを超える蛇行鉄剣と、過去に類例のない盾形銅鏡の発見に沸いた
富雄丸山古墳 (奈良市 )。同市教育委員会が 6日に報道陣に公開した木棺も、ベテランの
古究者が驚くほど良好な保存状態だった。「これだけの好条件なら、副葬品も状態良く残っ
ているのでは」と関係者の期待も膨らむ。
(壽邦彦、清水謙司 )

 長さ 5m超。姿を現した木棺は、運搬や密閉などの際に使われたとみられる突起 (縄掛け
突起 )や、遺体と副葬品を区切る板 (仕切板 )などが残っていた。「奇跡といってもいいぐら
いまれ」。奈良市教 委の担当者はそう驚く。
 古墳時代の棺や埋葬施設に詳しい岡林孝作•県立 S原考古学研究所学芸アドバイザーは、
「残っていること自体が非常に貴重。古墳時代前期の埋葬施設の構造の研究に資する実物
資料」 と評価する。
 土中で腐って残らないケ—スが一般的な木棺。なぜ奇跡的に残ったのか。同市教委の担
当者は、木の腐敗から守る効果があるとされる「金属イオン」の存在に目を向ける。
 •そしてそれは、世の中を驚かせた同古墳の出土品に由来する可能性がある。岡林氏は、
類例のない盾形銅鏡に注目。「銅鏡から溶け出した銅イオンが強い『殺菌効果』を生んだの
では」と指摘する。
 •木棺の内部調査はこれから。一部に金属探知機による反応があるという。岡林氏は刀剣
類、鏡、農耕具など、「基礎的な副葬品のセット」が入っていた可能性もあるとみている 。


乙巳の変の飛鳥

 飛烏時代に大臣(おおおみ)として権勢を振るった大豪族、蘇我蝦夷入鹿父子の邸宅があっ
たとされる奈良県明日香村の丘陵地、甘樫丘の遺跡から、7世紀後半の建物跡が出土し、注目
されている。蝦夷、入鹿が’中大兄皇子(後の天智天皇)らによって倒された「乙巳の変」(645年)
の後に造成、建設されたことが確認されており、変後の甘樫丘の活発な土地利用をうかがわせ
る。調査地近くの遺跡からも同時期に建てられた管衛 (役所)とも指摘される建物跡が出土して
いる。蘇我氏の支配下にあった甘樫丘だが、討滅されたことで没官地(朝廷に没収された所領)
となり、官簡や住宅などが建てられるようになったとみられる。「乙巳の変」は、都のあった飛烏
の都市域の拡大を促したのかもしれない。
  2023-9-7産経新聞  (編集委員 上坂徹) 

高床倉庫か望楼 ?

 今回確認されたのは南北 5。4mは東西 4 。2m以上の建物跡。柱が格子状に配置された
総柱建物で、柱の抜き取り穴から出土した須恵器の年代観から、建物遺構は 7世紀後半と推定。
谷を埋め立てて大規模に造成したうえで、建設されており、高床倉庫とみられるという。ただ、
1棟だけの出土のため、倉庫群とは確認できず、望楼 (物見やぐら )だった可能性も篇される。 
 また、建物跡の北側と南側からは 2つの石列を確認。北側はクランク状に折れ曲がり、石列
の一部を壊す形で総柱建物が建っていた。

父子邸宅並び建つ

 甘樫丘は、飛鳥地域を貫流する飛鳥川の西岸に位置する標高 1 4 8mの丘陵。『日本書紀』の
皇極 3 ( 6 4 4 )年 11月の条に「蘇我大臣蝦夷と子の入鹿臣は、家を甘樫丘に並べて建てた。
大臣の家を『上の宮門』と呼び、入鹿の家を『谷は・ざまの・宮門』といつた。・・・家の外に城柵を
作り、門の脇に
兵 (器 )庫を設けた。家ごとに果桶を配置し、木の鉤数十を置いて火災に備えた。力のある者に武
器持たせて家を守った」とあり、父子それぞれが厳重に警戒する要塞のような邸宅を、甘樫丘に
建てたことを記している。
 この翌年に起きたのが「乙巳の変」。『日本書紀』によると、入鹿は皇極天皇の飛鳥板蓋宮
行われれた三韓 (百済、新羅、高句麗 )の使節に対する儀式最中、中大兄皇子らによって切殺
された。蝦夷邸では従ってきた豪族らが武器持って集まり、軍陣を設置しようとし
たが、中大兄皇子側からの説得で、立去った。そして、翌日になって蝦夷は自殺した。『日本書紀』
は「 (蝦夷は )殺される前にすべての天皇記・国記・珍宝を焼いた」としているものの、邸宅を焼い
たかどうかを明確にしていない。が、藤原鎌足を祭る談山神社の縁起『多武峰縁起』などでは、
入鹿の遺体を見た蝦夷が自宅に火を放って自殺した、としていることから、この変によつて蝦夷、
入鹿の邸宅は焼失したとみられている。

見晴らしいい丘陵
 蝦夷と入鹿の邸宅は、甘樫丘のどこにあったのか。今回の調査地のすぐ南側にある甘樫丘東麓
遺跡からは、 7世紀中頃に廃絶する建物遺構が出土している。谷間に石垣を積んで平坦にしたう
えで建てられていた。大規模な建物はみつかっていないが、ここからは焼土層も確認されており、
『谷の宮門』という入鹿の邸宅に関連する可能性が鶴されている。同遺跡では 7世紀後半の建物
遺構も確認されている。掘つ立て柱塀で区画されており、官衛など公的な要素の
強い施設とみられている。 
 発掘調査を担当した明日香教育委文化財課の長谷川透係長は「今回の調査地では、 7世紀前半
つまり蘇我氏の邸宅があった時期の遺物は少なく、 7世紀後半になって開発されたものばかりで
す。見晴らしがよい場所で、建物の構造を考えると、高床倉庫か楼閣のようなもので、公が管理
する施設と思われます。蘇我氏の滅亡後は、甘樫丘の土地利用が変わり、官衛的な建物が建つよう
になったのでしよう」と話す。
 また、相原嘉之・奈良大学准教授 (日本考古学 )は「甘樫丘は周辺濠を含めて蘇我氏と密接な
関係のある遺跡で、すくなくとも 640年代までは丘陵そのものが蘇我杏ホ家の支配下にあったと考
えて間違いない。蘇我氏のテリトリ—だった甘樫丘がヾ蘇我氏滅亡後、没官地となり、朝廷によって
利活用されるようになった。そして、飛鳥の都のエリアを広げていった。今回の調査地で見つかった
建物遺構は、その表れだと思います」としている。


本殿とは

 神社で、祭神が宿っているとされる神体を安置する建物を本殿といい。古くは正殿・宝殿などともいった。
奈良県桜井市三輪の三輪山に鎮座する大神神社は、三輪山を神体山とし、古来この本殿がなかったと
いうことが流布している。しかし、伝説などからは、大神神社に神体として八咫鏡つまり巨大な鏡があり、
本殿も存在したとすることもできる。
 2024-2-10  山の辺文化講座資料より



蘆山寺紫式部邸

 「源氏物語」は、どんな場所で書かれたのか。その思いに浸れるのが廬山寺 (京都市上京区 )だ。
千年前の紫式部の邸宅跡とされる地に立つ。雅な雰囲気の本堂。それに対し、元三大師堂は薄暗く
厳かだ。二つの異なる世界が隣り合う。
 「紫式部が執筆した部屋はどこで汐か」。そんな質問を、寺執事長の町田亨宣さん ( 45 )はよく受
けるという。答えはこうだ。「江戸時代の再建なので、残念ながら現存しません」
 とはいえ、寺の歴史を振り返ると、気品を感じるのは無理もなさそうだ。
 創建は 10世紀。•紫式部が活躍する数十年前だ。当時の境内は 3キロ北西にあった。現在の地に
移ったのは豊臣秀吉の時代。京都の大改造で洛中の寺院が現在の寺町通沿いに集められた。江戸
時代に相次いだ大火でお堂は全焼し、現在の本堂は 1 7 9 4 (寛政 6 )年、光格天皇の仙洞御所の
一部が移築された。皇室の仏事を行うなど縁が深かったそうだ。
 そんな廬山寺だが、実は紫式部と結びついたのは戦後のこと。古代史の大家、角田文衛による考証
で判明した。紫式部の曽祖父・藤原兼輔邸があった)をや室町時代の源氏物語の注釈書「河海抄」の
記述が根拠となった。
 1 9 6 5年に顕彰碑が建てられ、源氏物語の世界観を表した「源氏庭」が築かれた。緑の苔と白い砂。
祇園祭の時期になると、紫色の桔梗が彩りを添える。町田さんは「紫式部も同じ空を見たでしょう。
そんなことを感じてもらえたら」。
 廊下伝いに隣の元三大師堂に入ると、空気は一変する。堂内に入る光は少なく、厳粛さが漂う。寺を
創建した良源 (元三大師 )の月命日である毎月 3日には、護摩を焚く法券営まれている。流木で作ら
れた厨子の中に、小さな 3体の仏像がある。戦国武将•明智光秀の念持仏 (身辺に置く仏像 )と伝わる。
織田信長は比叡山焼き打ちの後、盧山寺もその対象としたが、天皇が光秀に書状を送ったことで救わ
れたという。
 伝承では、戦になると光秀は 3体のうち地蔵菩薩像を陣中に持っていった。「地蔵菩薩は民を救う仏
さま。人柄が感じられます」と町田さん。元三大師堂は、 1、 2、 9月の 3日と特別公開の時のみ拝観で
きる。
 盧山寺は「春の京都非公開文化財特別公開」 (京都古文貨存協会主催、多くは 4月 27日〜 5月 12
日 )に参加る。
  2024-2-24 朝日新聞 (筒井次郎 )  


あをによし

 あをによし 奈良の都は
 味く花の 董ふがごとく 今盛りなり
 
               小野老 巻三 (三二八番歌 ) 

 奈良の都は、咲きほこる花が照り輝くように今ちょうど真つ盛りだ。
 
あをによし奈良の都
  都に咲く花を譬喩(ひゆ)に用いて平城京の繁栄を高らかに歌ったこの歌は、九州の大宰府にて詠
まれました。都を遠く離れた大宰府で、なぜこのような歌が作られたのでしょうか。
 作者の小野老(おゆ)は、大宰府の次官である大宰少弐の官職にありました。老は大宰府の政務を報
告する朝集使として神亀五 (七二八 )年十月頃に上京、翌年四月頃に大宰府へ戻り、この歌を詠んだと
考えられています (直木孝次郎『万葉集と古代史』 )。老が都に滞在していた神亀六年三月、平城宮で
叙位があり、老は従五下から従五位上へと昇進しました。
 叙位の直前の二月、都では左大臣長屋王が国家を傾けようとした罪を着せられて自殺に追い込まれ、
これに連坐して多くの人々が処罰されるという大事件が起こりました。事件の後始末が一段落した直後
に行われた三月の叙位では、長屋王亡き後の新たな体制下で活躍が期待された人々が名を連ねてい
ます。老もその一員であったとみられます。
 こうして大宰府へ戻った老は、大宰帥 (長官 )大伴旅人が主宰する宴席に招かれ、出張の労をねぎら
われました。長屋王の変という大事件の一報を耳にしていた旅人以下の大宰府官人達は、事件の推移
を都で実際に見聞きして戻ってきた老を迎えた席上において、今後の不安や懸念などを含むさまなこと
を老に尋ねたに違いありません。これに対して老は「都は花の盛りを迎え、今まさに繁栄の真つただ中
ですよ」と、都における新体制への期待をことさらに明るく歌い上げ、宴席に淀む重い空気を払拭しよう
と努めたのではないでしょうか。
 県民だより 奈良 2024 3月号 (本文万葉文化館竹内亮 ) 



本薬師寺とは

 本薬師寺 (薬師寺)は、天武九 (680)年に天武天皇カヾ皇后 (後の持統天皇)の病気平癒を祈念して
発願されたことが 『日本書紀』に記されています。天武天皇の崩御後は持統天皇が寺院の造営を継承し
、持統二 (688)年に仏事が行われた際には少なくとも堂塔の一部が完成していたと考えられ、以後も寺の
完成に向けて造営工事が進められました。本薬師寺の寺域は藤原京の右京三条八坊を占めています。
藤原宮にほど近い位置に築かれた国家寺院です。
 薬師寺と言えば奈良市西ノ京にある薬師寺が有名ですが、これは平城京遷都に伴い藤原京から移転し
た寺院です。そのため、藤原京の薬師寺は平城京の薬師寺 (平城薬師寺)に対して、もとの薬師寺という
ことて、、本薬師寺と呼ばれています。
 現在、本薬師寺には金堂・東塔・西塔の基壇と礎石が地上に残されています。金堂の前面(南)に東・西ふ
たつの塔を配置する薬師寺式伽藍配置で、平城薬師寺においてもこれを踏襲しています。 
  令和6年3月2日発掘調査現地説明会資料より



律令国家 中央集権国家の誕生

 6世紀後半以降、東アジアにおいて強大な国家が生まれました。隋 ( 5 8 1〜 6 1 8年 )と唐 ( 6 1 8〜
9 0 7年 )です。古代中国の統一を果たした隋は、すでに「律令」という法体系によって皇帝が中心となり
国を統治する進んだ制度を持つていました。同じ頃、高句麗•百済・新羅といった朝鮮半島諸国は隋・唐
の勢力拡大により、
 緊張が高まるなか、隋・唐への朝貢を通して各国で体制強化を進めていました。緊迫する国際情勢を
受け、当時の日本 (倭 )も、約 1 2 0年ぶりとなる遣隋使派遣 ( 6 0 0年 )を決断し、東アジア情勢に対応
できる新たな国づくりを始めました。その後もたびたび派遣された遣隋使・遣唐使により、最先端の知識
や制度が取り入れられ、国の仕組みが整備されました。また、隋や唐、高句麗百済新羅からの渡来人
によりもたらされた仏教思想や土木・建築をはじめとした最新技術などが大きな原動力となり、新たな
文化も摩れていきました。
 「飛鳥•藤原」で進められた新たな国ずくりには、激動の東アジア情勢、それに伴う活発な国際文化交流
が大きく関係していたのです。
 「律令」による国家統治体制が整備されつつある中、天皇を中心とした強力な国家であることを、国内外
に向け形で示す必要がありました。それを成し遂げたのが、7世紀後半に行われた藤原の地における新
たな都の造営であり、これが現在の日本へと続く中央集権国家の誕生となります。
  県民だより 奈良 2024 4月号


富雄丸山古墳の蛇行剣

 
 
 
 
 
富雄丸山古墳蛇行剣と応急的な保存科学的処置について
 富雄丸山古墳から出土した鉄剣は、刃部(じんぶ)が6回屈曲して蛇行する、蛇行剣と呼ば
れる特殊な剣です。全長が237cmもあり、世界的にみても最大級の巨大な鉄剣です。
 奈良県立檀原考古学研究所と奈良市教育委員会では、蛇行剣および同時に出土した
鼉龍紋(だりゅうもん)盾形銅鏡の重要性に鑑み、「富雄丸山古墳共同調査研究に関する協定」
にもとづいて、梱原考古学研究所において応急的な保存科学的処置を実施してきました。
 今回、室内での慎重なクリーニングと分析により、この蛇行剣に取り付けられていた木製
装具 (把と鞘'の部分・つかとさや)の全容を明らかにすることができました。把と鞘を装善し
た状態での総長は285cm !こもなります。
 把は全長38cm前後に復元でき、手で握る部分 (把問)以外は全面に黒漆が塗られていま
す。黒漆が塗られていた面には直線や曲線で構成されている文様があります。大きな
楔形把頭(くさびがたつかがしら)が目立ちますが、このタイプの把頭は4世紀末以降、剣では
なく刀に特有の形態として採用されていくものです。富雄丸山古墳蛇行剣の楔形把頭は最古
の事例になりますが、それが刀ではなく剣で確認されたことになります。
 把は全長38cm前後に復元でき、手で握る部分 (砲簡)以外は全面に黒漆が塗られています。
黒漆が塗られていた面には直線や曲線で構成されている文様があります。大きな模形把頭
が目立ちますが、このタイプの把頭は4世紀末以降、剣ではなく刀に特有の形態として採用
されていくものです。富雄丸山古墳蛇行剣の模形把頭は最古の事例になりますが、それが刀
ではなく剣で確認されたことになります。
 鞘は全長248cmに復元でき、鞘口と鞘尻は黒漆が塗られ、鞘口には文様があります。鞘尻
には先端が広がった長さ18. 5cmの細長い突起がついています。剣を立てて置いた時に鞘尻
が直接地面に触れないようにするためのものと考えられ、機能面の共通性から「石突鐓(とん)」
と呼んでいます。このような突起が古代日本の刀剣の鞘で確認できたのは今回が初めてです。
 木製装具は木の部分がほぼ腐って消滅し、その表面に塗られていた黒漆の薄い膜のみが粘
土の中にバックされて残った状態でした。今回ほぼ完全なかたちで検出に成功したのは、この
黒漆の薄い膜です。発掘現場から室内での応急処置まで、考古学と文化財保存科学が連携し
て取り組むことで、屋外での発掘調査だけではほぼ検出不可能な重要情報が得られました。
今後の発掘朋査のモデルケースとなる成果といえます。
 奈良県立橿原考古学研究所 特別公開資料より



富雄丸山古墳 女性を埋葬か

 国内初の盾形銅鏡と、東アジア最大の鉄剣が出土した奈良市の富雄丸山古墳(4世
紀後半)で、木棺の中から3枚の銅鏡や髪に挿す竪櫛などが見っかった。市教育委員
会が13日、発表した。副葬されることが多い刀剣や甲冑などの武器が木棺内にはなく、
女性が葬られていた可能性があるという。
 同古墳は全国最大級の円墳。古墳北東部にある造り出し(突出部)で木棺を粘土で
覆った粘土櫛が見つかり、 2022年からの発掘調査で、「鼉龍文(だりゅもん)盾形銅鏡」
と全長237cmの蛇行剣が木棺 の上で重なるように出土した。昨年12月からは木棺を
覆う粘土を取り除き、調査を進めていた。
 木棺(全長約5・6m)の内部は3分割され、中央の「主室」(長さ2.4m)に被葬者が納め
られたとみられる。頭と推定される場所は水銀朱で真つ赤に染まっていた。足側には、
竹製とみられる長さ14cmほどの竪櫛が9点あった。
 3枚の鏡は、足側の「副室」(同1.3m)で重なって見つかった。上の1枚は三角縁神獣鏡
の可能性が高い。
 同古墳は頂上に一回り大きな粘土郭があり、明治時代の盗掘や1972年の発掘調査
で、鉄製武器や石製品が見つかり、三角縁神獣鏡も出土したとされる。今回の木棺に
は武器類がなく、市教委埋蔵文化財調査センターの鐘方正樹所長は「被葬者は女性
では。墳頂部に葬られた男性が軍事や政治を担当したのに対し、祭祀を分担していた
のかもしれない」と話した。
  2024-3-14朝日新聞 (今井邦彦)




富雄丸山古墳 蛇行剣制作困難

 長さ 2mを超える長大な蛇行剣に盾形の銅鏡、保存状態が非常に良好な木棺……。
奈良市•富雄丸山古墳で続く「類例のない発見」はまだまだ終わらない。蛇行剣を飾って
いた柄や鞘の痕跡が、塗られていた漆の膜の形で姿を現した。剣装具をつけ、鞘に収
めた状態の全長は 2 • 85mにも及び、まさに武威のシンボルと呼ぶにふさわしい威容だ。
 「作業の 9割は顕微鏡が必須だった。発掘現場で掘り出すのは難しかったでしょう」。
蛇行剣のクリーニングを担当した県立檀原考古学研究所 ( 橿考研 )の奥山誠義•総括
研究員は 26日、そう振り返った。
 蛇行剣の出土時に見えていた面のクリーニングが終わり、報道陣に公開されたのは
昨年 6月。その後、 2カ月をかけてもろくなった剣を薬剤で強化し、裏表を反転。土に
覆われた裏面を「室内発掘」していった。
 発掘と言っても、大半は顕微鏡で表面を拡大し、柄の付いた針や竹串で少しずつ漆
膜から土をはがしていく繊細な作業。終了まで半年近くを費やした。見守った檀考研の
岡林孝作・学芸アドバイザーは「取り上げの段階から考古学と文化財保存科学の専門
家が協力した、全国のモデルケースにもなる作業」と評価した。会見に同席した刀匠の
河内國平さんは、この大きさの蛇行剣を作ることは現代でも難しいと指摘。「それを作ら
せた王の力は大変なもの。もし今、私が設計図だけもらって『やってくれ』と頼まれても
断るでしょうね」と、刀鍛冶ならではの視点で語った。
 振るようにして相手を切る片刃の「刀」に対して、両刃の「剣」は相手を突き刺す武器だ。
漆膜の形から、蛇行剣の柄は 5世紀の剣と刀の柄の特徴を兼ね備えていることが分か
った。刀と剣の装具がはっきり分化する以前のものとみられる。
 鞘は木材の痕跡からホオノキ製と判明。先端には棒状の突起があった。現代の傘の
先にあるのと同様の「石突・いしつき」 とみられるが、それがついた鞘の発見は初めて
という。刀剣を研究する豊島直博•奈良大学教授は「当時、実用サイズの剣にも石突が
あり、それを模した可能性もある。今後、古墳で刀剣が出土した際には注意しなけれ
ば」と話す。 
 世界的にも出土例がないといわれる「キングサイズ」で世の中を驚かせた蛇行剣。
「極めて巨大な蛇行剣自体も重要だが、それについていた装具まで明確にすること
ができた。重要性はより増した」と岡林さんは言う。
   2024-3-27 朝日新聞 (今井邦彦、清水謙司  )


翁舞の面

 
 高野山麓の細川八坂神社 (和歌山鷺野町 )に伝わった翁舞などの面 8点が、奈良市の
奈良大学博物館で開催中の企画展で初公開されている。吉野町出身の仏像研究家、
太田古朴 ( 1 9 1 4〜 2 0 00年 )が約 50年前に著書で報告しながら所在不明だった面で、
令和 4年に実物が確認された。うち室町時代前期にさかのぼる作とみられる翁系面 4点
は一組がそろうものとしては最古級で、芸能史上貴重な品という。
 4点は翁と三番叟、父尉(ちちいじょう)、延命冠者(えんめいかじゃ)で、古式翁舞の式三番
(しきさんば)で用いられたそろいの面。このうち父尉と延命冠者の面は、次第に使われなく
なり、残存例が少ない。
 大河内智之•奈良大准教授 (彫刻史 )が細川八坂神社に所在不明の面があることを宮司
から聞き、古朴の著作に、神社に隣接する阿弥陀堂の仏像修理に際し行った調査成果とし
て存在が記されていることを確認。令和 4年に和歌山県教育委員会の調査により神社の
土蔵内から見っかった。大河内准教授は「高野山麓で室町時代前期に古式の翁舞が行わ
れていたことを示す貴重な事例」と話している。
 7月 27日まで開催の企画展「太田古朴が見た山里の文化財」で公開。

 在野にありながら埋もれた文化財を見いだし、その価値を多くの人々と共有してきた太田
古朴。企画展では、そうした古朴の取り組みをつぶさに見ることができる。
 古朴は「奈良美術院」で仏像修理を学んだ後、独力で各地の仏像や石造物を調査。大学
や行政機関に所属せずに活動し、地域の文化財の修理や研究に取り組むとともに、その価
値を発信し続けた。現在は奈良大が古朴の図面などを整理しており、今回の企画展開催に
つながった。仏像修理の際などに古朴が作成した資料は、今日高く評価されている。特に図
面は X線 C Tスキャン調査を思わせるような書き込みで注目され、奈良市の伝香寺・地蔵菩
薩立像 (はだか地蔵、重文 )の図面は舎利や十一面観音像といった納入品の状況がよく分
かる。 企画展では、高野山麓の細川地区で昭和 50年ごろに行った仏像修理についても記
した著書 「美仏参籠」なども展示。 各地で文化財の修理に情熱を傾け、地域の人や愛好家
に価値を伝云たことを紹介している。
 奈良大の大河内智之准教授は「高齢化、過疎化によって地域で文化財を守ることが難しく
なりつつある。そんな中、太田古朴のような活動により多くの人が価値を知ることが文化財
を守る原動力となる」と話している。
  2024-6-17 産経新聞 (岩口利一  )




能の最奥の三曲

 に「三老女」といわれる最奥の三曲がある。「檜垣(ひがき)」「姨捨(おばすて)」「関寺小町
(せきでらこまち)」で、文字通り年老いた女 (あるいは老女の霊 )が主人公の曲である。これが
最奥といわれるゆえんは、能楽師自身も、最高の技芸に加え、品格、人間性、舞台経験、人生
経験を重ねた名人のみが勤めることができるとされる曲だからである。
 この 三曲を生涯のうちに全て勤められる能楽師は多くはない。
 先日、シテ方金剛流宗家、金剛永謹さんをインタビュー取材した際、心に留まる話をうかがった。
永鷲さんは昨年、人間国宝に認定、顧賜賞、日本芸術院賞を受けた現代の名人のひとり。
その重厚感との精神性の感じられる舞台は多くの人を魅了している。 
 いわく、「私は『三老女』のうち、まだ『関寺小町』を勤めておりません」。もしかしたら、勤めなく
てもいいかなとも思っております」と。
 驚いた。金剛流は、能楽シテ方五流のひとつ。 宗家としても、また、能の名手としても、「三老女」
完演はされるものと思っていたからだ。
 けげんな顔をする私に、「うちの流儀の口伝かもしれませんが」と断りながら、永謹さんは続け
てこう語った。
 「『三老女』のうちの一曲は生きているうちは勤めずに残しておけと。死んでから、あの世で舞い
なさいということです。つまりそれは、死んでからもまだ修行を続けなさいということではないでしょ
うか」
 静かな口調の中に芸に生きる人のすさまじい覚悟を聞いた思いがした。
 この取材の少し前、永謹さんの「檜垣」をテレビの映像で見ていた。昨年 10月東京の国立能楽
堂の開場40周年記念先て開催された特別な公演の舞台であつた。
 「檜垣」の主人公は、かつて美貌と栄華を誇った白拍子の年老いた霊。
 水むすぶ、つるべの縄の野繰り返し、昔に帰れ、白川の波—。
 生前、その美しさで男たちをたぶらかした罪によって、永遠に因果の水をくみ続けなければならな
い地獄。余分なものがそぎ落とされた舞台から、老い衰えた悲しみ、そして、人間の本質的な業が
浮き彫りにされたものである。
 これほどの能を舞う人だからこそ、「最後の一曲は舞わないかもしれない」‘との言葉は重く響いた。
  2024-6-20  産経新聞 特別客員記者亀岡典子



鑵子山古墳

天理市守目堂字鑵子山にあった古墳と古墳群に関する従来の説
 1913年の「奈良県山辺郡誌」中巻 (山辺郡教育会以下 「郡誌」と紀す)の大字守目堂の古墳墓の
項にある、次のような記述である。

 鑵子山 東方ニアリ。東西百二十間、南北四十間アリテ、民有畑ナリ。明治維新前八椚雑木等茂生
セシガ、漸次開墾セラレテ畑地トナレリ。現今八天理救ノ養徳院及天理教校建築セラレ、大二昔時ノ
観ヲ亡失スルニ至ル。三十四五年前二東部ヲ開塑セシ時、勾玉、管玉、古鏡、金環、古刀、土器、鎧
ノ片々等多ク出デ、十年許前二西部ヲ発掘セシ時、壺アリテ巻物ノ如キモノアリシト云フ。按スルニ新
漢擬本南丘墓二アラザルカ、大和志ニ守目堂二荒墳二トアル其ーニシテ、口碑二眉輪王ノ墳墓卜云
ヘルモノ故ナキニハアラザルベシ

 この記述によると、鑵子山にあった古墳は守目堂の東方にあり、その規模は東西120間 (約218.4m)、
南北40間」(約72.8m)で、「勾玉、管玉、古鏡、金環、古刀、土器、鎧ノ片々等」が出土したこと、「大和志」
が記す守目堂 の「荒墳二」のーで、眉輪王の墳墓とする伝承もあったことになる。
 この「郡誌」の記述などから、「布留遺跡範囲確認報告書」(天理市教育委員会 1979)が記すように、、
字鑵子山にあった、消滅した古墳を鑵子山古墳と称し、古墳時代中期の 200m以上の大型前方後円墳
とする推定があった。しかし、埋蔵文化財天理教調査団による1982年9月から1983年2月の布留遺跡守
目堂(ツルクビ)地区や1988年5月から6月の布留遺跡守目堂(鑵子山)地区発掘調査で、前方後円墳の
存在を示す痕跡が確認されなかった。このことにより、現在では、字鑵子山に大型前方後円墳の鑵子
山古墳が存在したことは否定され、鑵子山には複数の小古墳があり、ツルクビ古墳群から東の鑵子山
にかけての地域には群集墳が造営されていたと指摘(日野2021)されるようになっている。
 なお、奈良県遺跡地図Webでは、現在も消滅した鑵子山古墳を破線で前方後円墳として描いている。
その図の後円部に接して、天理小学校や天理教教庁が使用している、おやさとやかたが現在ある。この
やかたの建設に伴う造成で、埴輪列が発見され、石棺も出土したということを、複数の人から筆者は1970
年代後半の大学生の頃などに、聞いたことがあった。それぞれがどのような形式のものであったかや、出
土した詳しい場所と出土年月日を聞いた記憶はない。しかし、このおやさとやかたの天理小学校つまり
南左第2棟の起工は1967 (昭和42)年であり、天理教教庁つまり南左第1棟の起工は1973 (昭和48)年であ
るので、その頃に埴輪列や石棺が出土したことになる。ただし、その時に出土した埴輪や石棺とされるも
のが現存せず、文書による記録もない。それでも、複数の人から聞いたので、この埴輪列や石棺の出土
は実際にあったことと考え、それらと、近くにあるとされていた鑵子山古墳との関係を、筆者は漠然と推定
していた。
 また、鑵子山古墳については、!929 (昭和4)年6月に天理教教会本部が発掘を申請したが、奈良県から
発掘従事者並びに考古資料研究者の住所•氏名・学歴、発掘の具体的方法、発掘後の古墳管理方法を
照会されて、同本部が同年9月に発掘を断念している。
 
図「大和国古墳墓取調書」

鑵子山古墳は中規模以上の円墳
 字鑵子山にあった古墳については、『郡誌』よりも先に、鑵子山古墳と明記していないが、1893 (明治26)
年の『大和国古墳墓取調書』(野淵 1893)が記している。本書には古墳の見取図と取調書があり、その見
取図から、所在地の番地が241番であり、古墳は円墳と推定できる。また、同書の取調書は短く、次のよう
に記している。鎚子山にあった古墳については、『郡誌』よりも先に、鏡子山古墳と明記していないが、1893
(明治26)年の『大和国古墳墓取調書』(野淵 1893)が記している。本書には古墳の見取図と取調書があり、
その見取図から、所在地の番地が241番であり、古墳は円墳と推定できる。また、同書の取調書は短く、
次のように記している。

 第百四〇号山辺郡山辺村大字守目堂字鑵子山卜云フ。其形ヲ以テ名クト唱フ。塚上蜜柑ヲ栽培セリ。
築造ハニ段ニシテ、其形二由レバ上代墳墓ナラント考フレトモ、其字ニ憑、拠スベキ材料ヲ欠ク。

 この取調書には円墳という記述はないが、この古墳を二段築造と認識していたことはわかる。また、同書
の見取図には、「高サ 三間 根回 五十間」とある。この数値からすると、円墳である、鑵子山古墳の規模を、
高さが3間すなわち約4.8mで、根回つまり周囲が50間すなわち約91mとすることができる。さらに根回を円墳
の裾の外周と解釈すると、直径約28.9mの円墳ということになる。また、見取図には反別つまり面積が7畝で
あることも記されている。円墳の面積が7畝すなわち約700㎡とすると、直径約29.9mの円墳ということになる。
見取図の数値は学術的な実測や発掘によるものではない概数ではあるが、その概数をもとに計算した、
28.9mや29.9mという数値から、本稿では、円墳である、この鎌子山古墳の直径を約30mと推定する。同古
墳が直径約30mの円墳であるとすると、この古墳は、群集墳の中の小古墳ではなく、中規使以上の円墳と
推定できる。 
 なお、1891(明治24)年の地籍図によれば、見取図が鑵子山古墳の所在地としている、 241番は守目堂町
の東部にあり、円形に近い形していたことがわかる。この241番は現在の守目堂町にはない。奈良法務局
所蔵の旧土地台帳からは、この241番が畑で7畝であっただけでなく、1912 (大正元)年12月21日に232番と
合併したこともわかる。この241番の位置からすると、先の埋蔵文化財天理教調査団によるツルクビ地区や
鑵子山地区の発掘調査範囲外にあったことになる。したがって、この二つの地区の発掘調査では、200m以
上の大型前方後円墳である鑵子山古墳を否定できるが、字鎌子山の241番にあり、直径約 30mの円墳であ
った鑵子山古墳までは否定できないといえる。さらに、奈良県遺跡地図 Webが記す消滅した前方後円墳であ
る鑵子山古墳の図の後円部に接して、天理小学校や天理教教庁が使用している、おやさとやかたがある。
その天理小学校グランド西側の番地が守目堂町232-4で、天理教教)Tの番地が守目堂町232-1であり鑵子
山古墳の所在地の241が1912 (大正元)年に合併した232を分割したものである。このことから、直径約30m
の円墳である鑵子山古墳は、奈良県遺跡地図Webが記す、消滅した前方後円墳である鑵子山古墳の推定
地よりもやや東に所在していたと推定できる。

字鑵子山にあった東鑵子山古墳群・西鑵子山古墳群
 1770 (明和7)年2月 の「大和国山辺郡守目堂村絵図」からは、布留川南岸の丘陵上に「環子山」.「ドングリ
山」という二つの山があったとすることができる。また、この絵図の二つの山の部分には,大きな欠損があるが、
東には三つ以上、西には六つ以上の高まりが描かれていたと推定できる。さらに、管見の範囲では、1825
(文政8)年の守目堂の絵図にも、この二つの山に複数の丘状の高まりがあり、東の山にある丘状の高まりは
数は少ないがやや大きく、西の山にある丘状の高まりは数はやや多いが小さく描かれている。
 1770 (明和7)年の絵図と1891(明治24)年の地籍図から、241番つまり鑵子山古墳の所在地は、 東の山
「環子山」の一部分と推定できる。したがって 、東の山「環子山」に描かれた丘状の高まりのどれかが鑵子
山古墳に該当する可能性がある。丘状の高まりのどれかが、鑵子山古墳だとしたら、複数描かれている、
他の丘状の高まりも古墳である可能性がある。
 この絵図に描かれている丘状の高まりが古墳であることは、1882 (明治15)年の『大阪府大和国山辺郡守
目堂村誌』に記された 「西大塚」•「東大塚」や現在も字鑵子山付近にある「大塚 (ノ)前」という字名からも
推定できる。
 この1770年の絵図の丘状の高まりが古墳であるとして、字鑵子山の東に。鑵子山古墳を含む中規模以上
の少数の古墳からなる古墳群を東鑵子山古墳群、字鑵子山の西に、複数の小古墳からなる古墳群を西鑵
子山古墳群と称することを提唱したい。なお、『郡誌』はこれら二つの古墳群を一つの古墳として記していた
といえる。

字鑵子山における古墳群消滅の経緯についての推定
 字鑵子山にあった、鑵子山古墳を含む、中規模以上の少数の古墳からなる東鑵子山古墳群は、明治維新
以降の畑地への開墾•1909 (明治42)年の天理養徳院や1911(明治44)年の天理教校の建設•1932 (昭和7)の
御幸道路建設•1933 (昭和8)年に始まる天理教校の新校舎建設などで、一部が消滅した。その後も、御幸道路
の東西の丘陵に、鑵子山古墳を含めた東鑵子山古城群の古墳が、外見上は古墳とは認識できない状態だっ
た可能性があるが、一部が残存していた。それらの古墳も、1967 (昭和42)年の南左第2棟(天理小学校)と1973
(昭和43)年の南 左第1棟(天理教教/T)の起工により消滅した。このおやさとやかた建設の際に出土したとされ
る、埴輪列や石棺は鑵子山古墳を含めた東鑵子山古墳詳の中規模以上の古墳から出土したものである。なお
、現在の天理小学校グランド西側附近などに、鑵子山古墳を含む東鑵子山古墳群の古墳の痕跡が残存してい
る可能性がある。
 字鑵子山の西部、西の山にあった、西鑵子山古墳群を形成する、多くの小古墳も、明治維新以降の畑地への
開墾と、1909 (明治42)年の天理養徳院や1911(明治44)年の天理教校の建設に伴う造成により消滅した。この
消滅した西鑵子山古墳群の小古墳の年代は、埋蔵文化財天理教調査団による鑵子山地区の発掘調査で出土
した円筒埴輪や須恵器から、 5世紀末から6世紀後半頃とすることができる。


長岳寺弥勒菩薩石棺仏

  長岳寺本堂の東南に弥勒菩薩石棺仏があります。高さ約 240cm高さ約180cm厚さ約30cmの組合わせ
石棺蓋石の凝灰岩製石材を利用し、その蓋裏面に二重光背形を彫り凹め、蓮華上(れんげ)に弥勒菩薩立
像を厚肉彫りとし、像高約194cmを測ります。特有の印相ですが、しなやかな指が印象的な右手五指を伸
ばし、掌を外に肩の高さに上げる施無畏印、左手は垂れて前にする与願印ではなく、掌を伏せる触地印です。
左右の手が対照的な印相を結ぶという、•この地の弥勒菩薩石仏によく見かけられる印相です。
 美しく雄大でおおらかな表現によって、衆生に仏の慈悲が感じられ、施無畏印の徳を与える形です。左手
の人さし指が地面に触れるような形をとり、悟りを得た釈迦が悪魔を退けた姿をあらわしています。触地印を
結ぶ仏は少なく、地に触触れることで大地の神を呼び起こし、悪魔を退散させる目的で結ばれた印相です。
降魔印とも称し、悟りを開いた決意を見てとることができます。銘文はありませんが鎌倉時代の造作です。
 弥勒丘にも弥勒菩薩石龕仏(せきがん)があります。花崗岩製の高さ約118cmを測り、像高は約 95cmです。
石龕の屋根上部は前方に崩れています。奥壁は三石材からなり、中央の板石に舟形光背を彫り凹めた
弥勒菩薩立像が厚肉彫りされています。石工の善教作とみられ、左側板右下部には、
上端月輪内に金剛界大日の種子「バン」、下端に「大工僧善教 /大勧進沙弥渓乗 /□□施主卅ニ人」銘が
あり、奥壁左右板石上部には、上端月輪内に胎蔵界大日の種子「ア」、下端に永和四( 1 3 7 8 )年銘「人夫
八十人 /永和ニニ年戊午一月八日奉入 /結縁衆二百人」と刻まれる南北朝時代後期の石仏です。

2024-6ー27  産経新聞 (地域歴史民俗考古研究所 辻尾栄市)