唐招提寺への道 大和路 東山魁夷

 芒の穂の白く揺れる道は、柿と蜜柑畑の段丘を真直ぐに登録っている。行く手には、三輪山

が左右に緩やかに流れる均斉のとれた稜線を秋空に描いて、大和の鎮めの山に相応しい悠然

とした山容を示している。

 道を登りつめると、桧原神社の鳥居の前に出るのだが、私はその手前で、上下の二つの池

に挟まれた堤へと道を外れる。堤の中程に低い自然石に刻まれた歌碑がある。


   大和は

  国のまほろば

  たたなづく

  青かき

  山ごもれる

  大和し

  美し


 倭 建 命東征の帰途、伊勢の能褒野で死を前にしての望郷の歌と、古事記に記されて

いる。日本書紀では、景行天皇の御代になっていて、倭建命の悲劇的な風貌は、かなり薄め

られている。いずれにせよ、遠い古代の深い霧の彼方にある提え難い物語であるが、この歌

には、これ以上、簡明直截に大和の美を歌うことが困難と思われるほどの響きがある。また、

何か心の底からの切実な想いが寵められているようにも感じられる。もともとは、古代の国

讃めの言葉を並べただけの単純なものであるのかもしれないが、古事記の記述のような劇的

な成り立ちを知らないでも、私達を感動させる力を今も持っている。それは、日本人の美意

識の原点とも言えるものに強く触れているからではないだろうか。 緑繁る山々に囲まれた安

らかな自然、温和な気候、稔り豊かな壌土。日本人にとって、永遠に心の故郷としてのイメー

ージを抱かせる呪文でもある。

 「桜井市で、山の辺の道などに、万葉の歌をいろんな人に書いてもらって、歌碑を建てるこ

とになっているのです。 目立たない小さな自然石に刻んで、道端の草叢に、そっと置いてあ

るようにすれば良いと思います。あなたも何か書いて下さい」と、川端康成先生から言われ

たのは、ずいぶん以前のことであった。川端康成 歌碑⇒⇒⇒  東山魁夷 歌碑⇒⇒⇒

 私はいま、三輪山を背に、先生の歌碑に向って立っている。稲田の稔りの明るい大和平野

の彼方に、二上山を正面にして、左に金剛葛城、右に信貴の山並みが、夕暮れ近い光漠と

した色を見せて連っている。まるで小島が浮んでいるかのように、耳成敵傍香具の三山

が並ぶのを見ると、この盆地が太古、湖であったことが偲ばれる。すぐ眼下には、箸墓の黒

黒とした森。

 広潤な眺望を追った眼が、再び足許の歌碑に戻る。先生の揮毫が急逝によって果されなか

ったのは残念であるが、「美しい日本の私」のペン字原稿から文字を集めて刻まれ たもので

ある。歌は勿論、石も場所も、先生自身が選ばれたと聞いている。遠足に来た子供達が、腰

をかけて弁当を食べられるような恰好の石というのが、先生の念願であったらしい。万葉の

歌でなく、この歌を選ばれたことは、先生の心境の何かが語られているように思われてなら
ない。

  香具山は
  畝火ををしと耳梨と
  相争ひき神代より

  かくるらし古昔も
  然なれこそうつせみも
  嬬(つま)を争ふらしき

 この中大兄皇子の歌を反歌(かえしうた)を抜きにして書こう と私は思っている。「かくなるらし」
「かくにあるらし」、「然なれこそ」を「然にあれこそ」と読む人もあるから、原文で書いていたほ
うが無難であろう。丁度、川端先生の書かれた歌碑に近く、池の堤の端に三山を望
見するのに
最も適しい場所があるから、そこへ建ててもらうことになっている。この歌は、

原文では「高山波(かぐやまは) 雲根火雄男志等(うねびおおしと)」となっているが、畝傍雄々
しとするか、畝傍を愛(を)しとするかに問題がある。雄々しとすれば、敵傍は男性であろうし、
愛しとすれば、男女のどち
らとも言えない。三山の性別については、多様な解釈が可能である。
才色兼備の額 田 王
対しての中大兄皇子と大海人皇子の関係が前提となって、どうも、女性
である畝傍山を、男
性である香具山と耳成山が争ったというイメージが湧き易いが、香具山を女
性、畝傍を男性
とする説のほうもかなり多い。

 朝、奈良ホテルを出て、山の辺の道に沿って巡って来た私が、いま、この大和の代表的な

景観を 恣(ほしいまま)にする池のほとりで一休みしているわけであるが、二上山の上へ傾きか
かった太
陽を、時計の針を戻すように、三輪山の頂に帰したとして、爽やかな秋の朝からのこと
を話そう。

 ホテルを出て間もなく、古市の家並みを見下すあたりへさしかかる。この一角に、いつも

私の眼を引く場所がある。白壁の土蔵の前に柿の実る風景である。古市の町中を通る時も、

やはり、黄土色の土塀と倉の好ましい構図に出会うことがある。それは、何処にでもある風

景で、平凡と言ってしまえば、それまでだが、この懐かしさは、私には根深いものがある。

 円照寺を訪れる。雨上りの境内の静けさ、清らかさ、 尼寺の優しさが、庭に咲きこぼれる

萩の風情にも匂う。三島由紀夫氏の「豊鏡の海」に月修寺として出てくる尼寺のモデルであ

ろうと言われている。
 和爾村(わに)。細い坂道に沿う古い村落。南に和爾下神社がある。石段を登ると、小高い
ところ
に桃山期の丹青に彩られた神社がある。小振りではあるが、纏りのよい優れた構えで
ある。
このあたりに住んでいた古代の大氏族である和珥氏の祖を祀る。

 すぐ近くに人麿塚があり、柿本寺がこの辺に在ったと言われている。柿本人麿は和耳氏の

一族の出だという。北葛城郡新庄町にも、人麿の出身地とされている場所があるが、両者は

何か関係があるのだろうか。あれほどの大歌人でありながら、その名が史書に見えないの時
どういうわけか。位が六位以下の身分であったからとの説が長く踏襲されて来たが、近頃、

正史にある柿本臣猨(さる)、あるいは、柿本朝臣佐留が、人麿であるか、または、その近親
者とい
う説が出て来ている。この説を樹てられた梅原猛氏によると、さらに猿丸太夫と人麿が
同一
人物であり、人麿は流罪の果ての刑死、しかも水死というこ とになる。遠い昔の世のこ
とで
はある。


万葉歌碑 東山魁夷

 桜井市から、山の辺の道に建てる歌碑が出来たという通知があった。既定の場所への据え

付けも終ったから、奈良へ来た時に立ち寄ってほしいとのことである。この歌碑については、

ずっと前の章で触れているが、万葉の歌から桜井市に関係の深い場所を詠んだ三十数首を選

び、それをいろんな人に書い貰って、野仏のように、ひっそりと草叢に置きたいとの市の

意図によるものである。川端康成先生からも、生前に話を聞き、承諾はしていながら、

書くことが何より苦手の私は、長い間、出来ないままになっていた。川端先生のは、一つは

「大和は国のまほろばたたなづく青垣山ごもれる大和し美し」の、古事記にある倭建命の歌で、

それは三輪山の麓、檜原神社の下に、上下二つの池に挑まれた堤に在る。ここからは大和盆

地の中央に、三山が程よい間隔で立ち並ぶのが見渡される。桃と蜜柑の畑に囲まれた美しい

場所である。これらのことについては、前に書いたし、その時に、私は中大兄皇子の三山の

歌を書いて、この堤の北端の、三山が最もよく眺められる位置に建てて貰うつもりであると

も記している。また、三山の歌には、読み方に問題になっている箇処が、二、三あるから、

原文で書いたほうが無難であろらうということも触れておいた。

 唐招提寺への用件を兼ねて、歌碑を見に行くことにした。市長の池田氏が案内して下さっ

て、夕暮れ近い光の中で、池の傍の碑の前に立った。以前に訪れた時は、芒の穂が白く揺れ

ていたが、こんどは、檜原神社から下りて来る時に、馨しい香りが漂うのを感じて、ふと、

辺りを見廻すと、蜜柑畑の濃縁の葉の間に、白い小さな花が咲いているのに気付いた。

 二上山金剛葛城の山々が、西の空に薄肯く連っている。日没には、まだ、間があるが、

タべの静寂と崇厳が、すでに広大な天地に訪れていた。ここから見える三山は、畝傍を真中

にして、香久耳成が向い合い、古代人のあの歌の発想が、そのまま、私達に伝って来るの

を感じる。

  高山波雲根火雄男志等耳梨与相静競伎      東山魁夷 歌碑⇒⇒⇒

  神代従如此爾有良之古昔母然爾有許曾

  虚蝉毛嬬乎相格良思吉

  かぐやまはうねびををしとみみなしとあひあらそひき

  かみよよりかくにあるらしいにしへもしかにあれこそ

  うつせみもつまをあらそふらしき


 中大兄皇子の時代でも「古昔(いにしへ)も然にあれこそ」と詠まれた悠久の太古の人の心、
二つの山
が一つの山を恋し争う、自然と人間が何の疑いもなく一体となって呼吸し、喜び悲し
分ち合っていた素朴な感情の流露に、私は人間存在の根源的な宿命を見る。万葉の世は、
して安らかな時代とは言えないが、万葉の数々の歌には、自然と人間との深い結び付きを
おらかな格調で伝えるものが多く、私達が心を惹かれるのも、そのためではないだろうか。

 歌碑の傍には一本の山躑躅(やまつつじ)が、ちらほら花を着けている。上の池は、すぐ眼の
前に仰ぐ三
輪山の鬱蒼と繁った山容を映して、静まりかえっていた。

 永い時を感じさせる風景である。ここから眺めている限りでは、万葉の歌の詠まれた頃と、

あまり変っていないのではないかとさえ感じられる。このささやかな碑は、刻まれた文字が

消滅し去っても、石そのものはかなり長く残ることだろう。しかし、現在は山でも断ち截ら

れ、崩されて、野に変る世の中である。石でさえ、長く残るとは言い切れない。いや、「昨日

の淵ぞ今日 は瀬になる」と、飛鳥川の変転を世の無常になぞらえたのは、万葉の時代からそ

う遠くない古今集の歌人である。

 減びるものは減び、永遠に残ると見えるものも、やがて滅ぶ。 



山の辺の道

 ここから、乙木竹之内萱生と道は統く。大和盆地を見下し、遠く近く古墳の丘を望む。

稲田の畦には芒が靡(たなび)き、緩やかな丘に柿が実り、蜜柑が実る。

 竹之内や萱生は、周囲に濠を続らせていた環濠集落の跡が残っている。村も民家も古び、

水に映って美しい。萱生の村の柿や蜜柑の畑の丘に登る。すぐ眼前に手白香皇女の陵の松の

森が迫り、南方には崇神天皇陵が見える。遠く耳成山と畝傍山が重なって望見され、いかに

も大和の国のただ中に来たのを感じる。鳥の声、虫の声がしきりである。 手白香皇女⇒

 崇神天皇陵景行天皇陵と並ぶ。松、杉、その他常緑樹の恐しい迄の繁り。その逞しさ、

その静けさ。すぐ傍の道路を絶えず車が疾走しているにもわらず、御陵の森は常に深閑

と静まりかえっている。

 崇神天皇陵は山辺 道 勾 岡 上 陵と呼ぶ。三輪山の麓、磯城に都を営まれた四世紀前半

頃の天皇。三輪山の大物主神の祭祀権を獲得し、天皇家の基礎を固められた人に相応しい
雄大な御陵でもある。
 景行天皇陵は山辺道上陵と呼ばれる。三輪山の北、纏向に都を造られた天皇。戦乱を

鎮圧に東奔西走されて、近江で莞去されている。たいへんな子福者でもある。

 もう、三輪山は近い。

 ここにもう一つの巨大な古墳がある。倭迹迹日百襲姫命の陵、俗に箸墓と呼ぶ。三輪の大物

主神と、この姫との恋物語が日本書紀に記されている。夜だけ通ってきて朝になると帰って

しまう大物主神に、昼間、姿を見たいと願う姫に対して、神は翌朝、姫の櫛箱の中に入って

いると告げる。姫が箱を開けて見ると、美しい小さなが入っていた。姫の驚きの叫び声に、

神は己れの姿に恥じて三輪山に姿を隠してしまう。姫は悔いの念に自殺する。

 しかし、この話は、古事記のほうが、より素朴で美しい。活玉依毘売の許に夜な夜な通っ

て来る恋人の素性を知るため、裾に麻糸をつけておき、朝になって、その糸を辿って行くと、

三輪山の神の社に入っていたと言うのである。倭述々日百襲姫のほうは、孝霊天皇の皇女で、

超能力のある巫女であったとみえて、その墓の大きさは驚くべき規模である。「日は人作り、

夜は神作る」と歌われ、遥か大和の西の端の 二上山から、人々が手から手へと石を受け渡し

て造ったと伝えられている。

 巻野内から穴師、車谷と辿る。


  足引の山河の瀬の響るなべに弓月が獄に雲立ち渡る ⇒⇒⇒

  三諸のその山並に児らが手を巻向山は継のよろしき ⇒⇒⇒

  巻向の痛足の川ゆ往く水の絶ゆることなくまた反り見む

  巻向の山辺響みて行く水のみなわの如し世の人吾は ⇒⇒⇒

  ぬばたまの夜さり来れば巻向の川音高しも風かも疾き ⇒⇒⇒

  巻向の槍原もいまだ雲居ねば小松が末ゆ沫雪流る ⇒⇒⇒

 ここで、この章の冒頭の、池の堤へと辿り着くことになる。果樹畑の中の道を、登りつめ

ると、丸太柱に太い注連縄を懸け渡しただけの、朴訥で野趣のある鳥居を潜り、槍原神社

前へ出る。三輪山の深々とした森に向って、三輪鳥居と呼ばれる風変りな鳥居が立っている。

崇神天皇が、宮居の内にあった天照大神の御霊を、ここに移し祀られたと伝えられる。元伊

勢と呼ばれる所以である。

 大神神社へ詣でる。樹々の繁み深い境内は、もう、かなり暗くなってきた。渋い苔の色の

ついた櫓皮葺きの拝殿の屋根は、背後の黒々とした杉の木立ちと、落ち着いた調和を示し、

金色の金具が荘重に光る。この立派な拝殿だけがあって、本殿は無い。三輪山自体が神であ

る。赤松の森の中に辺津磐座、奥津磐座というふうに、岩石の集団が頂上まで数段にわたっ

て祀られていて、その岩に神酒をふり注いで祈るということである。前に円照寺のところで、

三島氏の「豊饒の海」にちょっと触れたが、大神神社や三輪山は、この小説の第二巻「奔

馬」の重要な舞台になっていて、神社の境内や、神の座としての山中の描写は精緻を極めて

いる。第一巻「春の雪」の主人公であった松枝清顕にゆかりのある飯沼勲少年が、神前の剣

道仕合で優勝する。狂言廻しの役の本多が、その仕合で勲少年を見、その後、山の磐座を拝

して、滝に打たれに行く。そこで勲少年に、清顕の転生のしるしである脇腹の三つの黒子が

あるのを見る。勲は勿論、第二巻の主人公であって、割腹して死ぬところでこの巻は終って

いる。

 狭井川辺へ行く。いまは、草葉の繁りの中を僅かに流れる細流となっている。傍に古代の

祭祀の場の趾がある。神武天皇が即位の前に皇妃を決められる時、大久米命の案内で三輪
狭井川のほとりで七人の姫に逢われた。狭井川の名は、山百合が川のほとりにたくさん自
したからという。狭井は山百合の古名佐葦による。天皇は七姫の先頭に立って歩いて来た
伊須気余理比売を選ばれた。
  唐招提寺への道 東山魁夷






海柘榴市(つばいち)

 私は、いま、昔の海柘榴市に辿りついた。今は三輪町のはずれの金屋の部落がそれである。

古い家並みが残っている。灯がともり、うらぶれた淋しい感じである。古代交通の要衝に当

るこの土地の繁栄は、万葉の歌で知ることが出来るのみである。

  紫は灰指すものぞ海石榴市の八十の街にあへる児や誰 ⇒⇒⇒

  海柘榴市の八十の簡に立ち平し結びし紐を解かまく惜しも 

 古い世の歌垣。踊り合い、歌い合った若い人々の姿が偲ばれる。しかし、影媛とその恋人

の鮪臣、太子であった武烈天皇との三角関係の悲しい物語も、海拓榴市が重要な舞台となっ

ている。これも歌垣の中での三人の息づまるような歌の問答が劇的である。恋に破れて激怒

した太子は大伴連に命じて鮪臣を討たせたと、日本書紀に語られている。

 春日野と三輪山を結ぶ山沿いの古道である山の辺の道には、数々の太古の物語が秘めら
ている。それらは、現在の私達にもよく解るものが多い。つまり赤裸な人間性が出ているも

のが少くないからである。煩雑な現代から、悠久の夢の世界へ 誘われもするが、人間性その

ものは昔も今も変らないようである。

 このへんで三輪山に別れを告げることになるが、私は、この山を見るたびに、日本人の美

的感覚の原型を感じる。その形は最も単純で豊かな曲線を持ち、左右の均斉のとれた気品の

ある姿とでも言うべきか。また、山即ち自然が神であり、その神は、エホバのような峻烈な

神ではなく、すこぶる人間的な神である。それでいて、人間を超えた力を持ち穀物の豊饒と、

子孫の繁栄を司る神である。

 私は、この山をスケッチしたいと思って、よく近くまで行くのだが、その度に、どういう

のか雲や霞がかかって、はっきり見えない時が多い。大物主神の御機嫌が悪いのだろうか。

  三輪山をしかも隠すか雲だにも情あらなむ隠さふべしや ⇒⇒⇒

                               額田王

  唐招提寺への道 東山魁夷




今井町

 山の辺の古道を辿って奈良から金屋へと来たが、更に桜井から耳成山のすぐ南を西行し、

飛鳥川の流れのそばにある今井という小さな町について語らねばならない。今井という町の

名は、あまり聞き馴れない名であるかもしれない。奈良から大和路を巡る途中でタクシーの

運転手に、この町の名を言っても、知らない場合が多い。知っていても、

「あすこに、何かあるのですか」と怪訝な顔をする。

「古い民家が揃っているので」と言うと、

「あれは江戸時代ですよ。古いものではありません」と、軽蔑の調子で言葉を返す。ここで

は千年以上経たないと、古いということにはならないらしい。

 今井は日本では珍しい町である。西洋では少しも珍しいことではないが、日本では古い町

の姿は急速に変り、消滅してしまったからである。今井の町も極原市の中に在って、その周

囲は、喧騒の巷である。このような環境の中に、静かな古い町が在るとは、誰にも信じられ

ない。しかし、一歩、この町内に入ると隔絶された世界に在る自分を感じる。

 狭い路地を挟んで古い家並が統いている。中には今西家のような八つ棟造りと言われる白

壁の堂々とした建物や、上品寺屋と言う酒倉を従えた大きな構えの造り酒屋等もあるが、多

くは普通のしもたやで、ひっそりと軒を並べている。昔は幾重にも濠をめぐらした町で、こ

こへ出入りするのには、すべて門を潜らなければならなかったが、今は残っていない。僅か

に内濠の跡が見られる。町全体が防禦のための機構を備えていたわけである。ヨーロッパの

ハンザ都市の性格に似ている。

 約四百年前、今井兵部卿という武士が、一向宗の信徒を集めて寺内町を造った。称念寺は、

今井氏の子孫が今も住職を勤めている。堺と共に自治組織を持つ商業都市として栄えたが、

幕末、諸大名に貸し付けていた金が、時代の変動と共に回収が出来なくなり、町全体が衰微
した。
そのために、今日まで昔の姿を留める結果となったと言われる。

 今西家は慶安三年(一六五○) 創建。江戸初期町家の形式がそのまま残り、外観が雄大で、

屋根の造りが複雑であり、小城郭の観がある。太い格子窓の下に、頑丈な駒繋ぎの環が取り

付けられているのも眼を引く。内部を見せて貰ったが、広い土間があり、いかめしい式台を

踏んで部屋へ入る。土間に面して店、中の間、台所と並び、それぞれの奥が、奥店、納戸、

仏間になっている。土間の上は大きく吹き抜けになっていて、太い梁組を仰ぐ。二階へ上る

と、座敷と厨子と呼ばれる広い部屋になっている。隅のむしこ窓から町の古い家並みを覗く。

この窓は物見の役をも持つものであった。

 豊太閤本陣跡で、御茶屋屋敷と呼ばれる家がある。太閤が吉野遊覧の時の本陣の跡であり、

後に代官松村氏の陣屋になったところ。称念寺で住職の今井氏に逢い、この町の保存に努力

していられる話を聞く。古くから住みついている人は少くなり、町に対しての愛着も薄くな

ってきた現在、かなり多くの家々が国の重要文化財に指定されていても、町のこの雰囲気が

何時まで保たれるかは疑問である。今の外観を残して修理することも益々、困難になってゆ

くことだろう。町の中には廃屋になってしまって、崩れ落ちようとする家もある。

 私は古い町が好きで、日本国中をずいぶん観て歩いたほうだが、これほど一区劃の中に、

纏って古い民家の残っている例は稀有のことと思われる。民族の貴重な文化的遺産であるこ

とは言う迄もない。積極的で実質を伴った保存方法を国家で考えてほしいものである。


  唐招提寺への道 東山魁夷



令和と梅花(ばいか)の宴

梅花歌卅二首 并序

 天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也。于時、初春令月、氣淑風和、梅

 披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。加以、曙嶺移雲、松掛羅而傾蓋、タ岫結霧 鳥封

 穀而迷林。庭舞新蝶空歸故鴈。於是蓋天坐地、促膝飛觴。忘言一室之裏、開衿

 煙霞之外。淡然自放、快然自足。若非翰苑、何以據情。詩紀落梅之篇。古今夫

 何異矣。宜賦園梅聊成短詠。


【読み下し】梅花(うめのはな)の歌三十二首 井せて序

 天,平二年正月土三日に、帥(そち)の 老(おきな)の宅(いえ)に萃(あつ)まりて、宴会を申(ひら)
 く。 時に、初春(しょしゅん)の月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風(やわら)ぎ、梅は鏡前
 (きょうぜん)の粉(こ・よそほ)ひを披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(こう)を 薫(かをら)
 す。
 加之(しかのみにあらず)、曙(あけぼの)の嶺に雲移り、松は 羅(うすもの) を掛けて蓋(きぬがさ)
 を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥は 穀(うすもの)に封(こ)めらえて林に迷(まと)ふ。庭には
 新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故雁(こがん)帰る。ここに天を 蓋(きぬがさ)とし、地を座(しきみ)
 とし、膝(ひざ)を促(ちかずけ)け 觴(さかづき)を飛ばす。言(こと)を一室の裏(うち)に忘れ、衿
 (えり)を煙霞(えんか)の外に開く。淡然(たんぜん)と自(みづか)ら 放(ほしきまま)にし、快然と
 自ら足(た)る。若(もし)し翰苑(かんえん)にあらずは、何を以(も)ちてか 情(こころ)を攄(の)べ
 む。詩に落梅(らくばい)の篇(へん)を紀(しる)す。 古(いにしへ)と今(いま)とそれ何そ異(こと)
 ならむ。宜(よろ)しく園の梅を賦(ふ)して 聊(いささ) かに短詠(たんえい)を成すべし。

【訳】梅 花の歌三十二首 序文

天 平二年正月十三日に、長 官の旅人宅に集まって宴会を開いた。時あたかも新,好き月、空気
は 美 しく風はやわらかに、梅は美女(びじょ)の鏡の前に 装(よそお)う白粉(おしろい)のごとく白

く咲き、蘭は身を飾った香(こう)の如きかおりをただよわせている。のみならずあけ方の山頂には
雲が動き、松は薄絹のような雲をかずいてきぬがさを 傾(かたむ)ける風情を示し、山
のくぼみに
は霧がわだかまって、鳥は薄霧にこめられては 林 にまよい鳴いている。庭
には新たに 蝶の姿を
見かけ、空には年をこした雁が飛び去ろうとしている。ここ
に天をきぬがさとし地を 座(しきい) と
して、人々は膝を近づけて酒杯をくみかわしている。

すでに一座はことばをかけ合う必要もなく睦(むつみ)み、大自然に向かって胸 襟を開きあってい
る。淡々とそれぞれが 心のおもむくままに振舞い、 快(こころよ)くおのおのが
みち足りている。
この心 中を筆にするのでなければ、どうしていいあらわしえよう。中 国で
も多く落梅(らくばい)の
詩篇(しへん)がある。古今異なるはずとてなく、よろしく庭の梅を詠ん で、い
ささかの歌を作ろう
ではないか。
  中西進遍 万葉集 講談社文庫

 新元号である「令和」は、天平二年(七三〇)の梅花の宴で詠まれた歌三十二首(巻五・ 八一五
~八四六番歌)の前に置かれた宴の趣旨を述べる漢文から採られた。梅花の宴
は大宰府の長官
だった大伴旅人が主催したもので、当時まだ珍しい植物だった梅をテ
ーマに掲げ漢詩文になぞら
えて和歌を詠む、和漢折衷 の斬新な宴だった。
  奈良県立万葉文化館 井上さやか

  大伴旅人
新しい年号  長屋王亡きあとの藤原氏  令和と梅花の宴 
万葉賛歌  うめ  令和について 




籠神社(この)

 『丹後国風土記』逸文にあるように、豊受大神は、丹後半島に舞い降りている。その丹後国一宮
籠神社で、『丹後一宮籠神社縁起』によれば、当国籠之大
明 神 (豊受大神)は、日本第一の明
神で、鎮護国家の神であること、その影向
(ようごう・神や仏が人の姿に身をやつして現われること
)は、与謝郡の天 橋立の松の梢の
上で、大きな籠のような形をし、光り輝いていたという。

 また、神代のこと、丹後の粉河という清流に八人の天女が降りてきて、水浴びをしていたという。
塩土老翁という人物がひとりの羽衣を盗み、ひとりの天女
塩土老翁と夫婦となって、酒をつくっ
て暮らすようになったという。天女は常
に光を放ちながら虚空を飛び、それはまるで鳥籠から光を
放つようであったとし
ている。

 このように、丹後国の一宮の籠神社は、豊受大神を祀る神社である。すでに触れたように、豊受
大神は伊勢外宮で配られる神として名高いが、はじめこの地に
降臨し、のちに伊勢に勧 請された
ということになる。したがって、籠神社の別
名は、「元伊勢」とも呼ばれ、その祭神を「豊受大神宮之
本宮籠宮大明神」と呼
ぶのである。

 各種の伝承によれば、第十代崇神天皇の時代、天照 大神がこの地に神幸し、また、雄略 天皇
のとき、天照大神の神託によって、豊受大神が御饌の神(みけ・朝夕
の食事の世話をする神)として、
伊勢に遷された、とする。つまり、豊受大神の問
「トヨ」とは、穀物などの「豊穣」につながる「豊」で
あったことが分かる。
  天孫降臨の謎 関裕二




天孫降臨の最大の問題

 天孫降臨神話の最大の問題は、なぜ皇祖神が、南部九州(日向の襲の高千穂峰・宮崎県と鹿児島
県の県境の霧島、或いは宮崎県西臼杵郡高千穂)に舞い降りたのか、と
いうことである。

 この地は縄文色の強い土地柄であり、ヤマト朝廷、東国の蝦夷と共に、「夷狄」とみなしていた者た
ちである。

 なぜ皇祖神が、自ら「野蛮人」のレッテルを貼った、その隼人の真っ只中に舞い降りたことにしなけ
ればならなかったのだろう。

 だいたい、天孫降臨の直前、天照大神高皇産霊尊たちは、「出雲」に国譲りを強要していたので
あって、その奪った地·出雲には目もくれず、なぜ唐突に日向が登場したのか、まったく理解できない
のである。

 なぜ八世紀の朝廷は、天皇家の祖神たちを、 わぎわざ南部丸州に降臨させたのか、という疑問が
浮かぶのである。

 北部九州に降臨してもよかったのだし、それよりも、ヤマトに真っ先に降臨すべきであった。

 それだけではない。『日本書紀』は、「神武以前」、すでにヤマトには物部氏の祖·饒速日命なる人物
が降臨し、土着の首 長と手を結び、ヤマトを統治してい
たとする。

 この 「饒速日命」 は、天皇家の正統性を述べるうえで邪魔な存在でしかない。それを放置したまま、
なぜ皇祖神は南部九州に舞い降りたのであろう。

 少なくとも、『日本書紀』は、歴史時代の南部九州の熊襲(隼人)を、征討される立場の人々として描
いている。そのもっとも有名な例が日本武尊の熊襲征
伐で、 また神功皇后も、熊襲征伐を目的に北
部九州に陣を張っている。

 「作り話」としては、『日本書紀』の神話はあまりに不自然である。もっとまともなストーリーを展開す
ることもできたはずなのである。


隼人の地に残された不思議な古墳群

 ところで、天孫降臨神話の地日向の国には、不思議な古墳群が存在する。それが、宮崎県西都市
西都原古墳群である。

 ここには約三百三十基におよぶ三世紀半ばから七世紀半ばにかけての古墳(うち、三十一基が前
方後円墳、その他、円墳、方墳、地下式横穴墓、横穴墓といった様々な型式の墳墓が揃っている)が
密集している。

 西都原古墳群の特徴のひとつは、長期にわたって、同じ場所に古墳群がつくられたということ、また
一方で、ヤマトの前方後円墳とそっくりな形をした遺構が揃っている、ということなどである。

 たとえば、西都原古墳群のなかでもっとも古い前方後円墳は、八十一号墳で、これは纏向遺跡の発
生期の前方後円墳として名高い「石塚古墳」と形がよく似ている。また、纏向遺跡でもっとも有名で秀
麗な箸墓古墳とそっくりなもの、それから時代が下がり、天理市の西殿塚古墳、同じく天理市の伝
崇神天皇陵の行燈山古墳、伝景行天皇陵の渋谷 向 山古墳といった、天理市、桜井市を中心とする
ヤマトを代表する前方後円墳とそっくりな前方後円墳が、西都原の一か所に揃っているのである。

 また、木花之開耶姫の墓とも伝えられ(もちろん伝承の域を出ていないが)、宮内 庁の御陵墓参考
地に指定されている墳長一七六メートルの西都原最大の前方後円墳·女狭穂塚(めさほづか)は日本
全国を見渡しても四十八位という大きさであり、九州のなかでは最も大きい。

 最大の問題は、ヤマト建国の象徴である継向の前方後円墳とそっくりな墳墓が日向の地に造営され
たということであろう。

 このことは、ヤマト建国の前後から、ヤマトと日向の間に盛んな交流のあったことを示している。また、
それだけではなく、「夷狄=隼人」の地、「日向 (ここでは九州の東南海岸だが)」が「ヤマト建国」を支持
していた疑いさえ出てくるのである。これはいったい何を意味しているのだろう。 ここに天孫降臨の謎
を見みる思いがするのである。


  天孫降臨の謎 関裕二  

  隼人  
 飛鳥寺 飛鳥資料館  須弥山石  年表539年 
藤原弘嗣の乱  天孫降臨の最大の問題  平城京  周遊紀行文 
雄略天皇  履中天皇  飛鳥京跡苑池   




日本書紀が蘇我氏を隠匿

日本書紀』が蘇我氏の系譜を隠匿した理由

 物部氏や大伴氏、また中臣(藤原)氏といった古代の有力豪族は、みな『日本書紀』によって、出自
が明らかにされた。仮にそれが根拠のない伝承として
も、出自を「保証」「承認」されたことはたしかで
ある。これに対し、蘇我氏
なぜか無視されるのである。

 その『日本書紀』を編纂したのが藤原不比等であり、藤原氏は蘇我本宗家を叩きつぶすことで権
力を手 中にした。そして、『日本書紀』のなかで、蘇我氏を
こき下ろしたのである。

 したがって、もし蘇我氏が渡来系とすれば、『日本書紀』は、これを隠す必要はなかった。むしろ、
蘇我氏を罵倒する材料として、積極的に活用しただろう。

 「日本の王家を乗っ取ろうとしたのが渡来人だった!」

 と叫ぶことができたはずである。

 だが、『日本書紀』が選んだのは、系譜を「無視」することであった。蘇我氏の出自を公にはしなか
ったのだ。それは、蘇我氏の出自が分からなかったからと
考えるよりも、彼らの出自が「思いのほか
正統」だったからと考えると、辻褄(つじつま)が
合ってくる。

 すなわち、蘇我一族は怪しい素 性の人物群 ではなく、由緒正しい家系であり、だからこそ、『日本
書紀』はあえてこれを抹殺せざるを得なかったと考えら
れる。そうしなければ、蘇我氏を倒した藤原氏
の正当性が失われるほどの、正しい家系である。

 三世紀、纏向建設に向けて多くの地域が集まっていた。ところが『日本書紀』は、このヤマト建国前
後の歴史の主役や脇役たちの活躍を無視し、「出雲神話」
と「天孫降臨」そして「神武東征」という説話
にすり替えてしまった可能性が高
い。つまり、ヤマト建国の様相を、『日本書紀』は「天皇家の祖神と
出雲神の相
剋」という単純な構造に焼き直してしまった、ということである。

 たとえば、考古学的には、ヤマト建国にもっとも貢献したのは、瀬戸内海の吉備地方と考えられる
ようになった。それはなぜかというと、纏向に集まった土器
の中で、吉備の物の「質」「レベル」が、他
を圧倒していたからだった。多くの
土器が「生活用品」であったのに対し、吉備のそれは、宗教儀礼に
用いる代物だ
ったのである。

「具体的には特殊器台形と特殊壷形と呼ばれる土器で、前方後円墳に並べ、首長霊祭配を行うため
の儀器である。

 政治が「マッリゴト」といわれていた時代の「吉備の特殊器台形土器」は重大な意味を持っている。
また、前方後円墳の原形は、纏向出現の直前に吉備に生ま
れた楯築弥生墳丘墓であった疑いが強
くなってきている。

 三世紀のヤマトに突出した強大な王が出現したとは考えられないが、継向の中心勢力は吉備だっ
た可能性は高くなるばかりなのである。


『日本書紀』の第一の目的は蘇我氏を悪役に仕立て上げること

 『日本書紀』は藤原氏の政敵·蘇我氏をとことん悪く書いている。藤原不比等の中臣鎌足は蘇我氏
の横暴を憎み、天皇家の行く末を憂い、蘇我入鹿暗殺と
クーデターを起こしたと記している。蘇我氏
は自分勝手に皇室の民を使い、王位
をうかがっていたとするのである。そして、蘇我本宗家を倒すこ
とによっ
天皇を中心とした律 令 国家の整備に着手(大化改新)することができたのだとする。

 しかし近年、このような『日本書紀』の示した勧善懲悪の図式に、いくつも疑問が投げかけられてい
る。

 蘇我入鹿は聖徳太子の子·山 背大兄王の一族を滅亡に追い込んでいるが、この凶行の背後には
黒幕がいて、それが中臣鎌足だったのではないかとか、ある
いは、律令制導入に積極的だったのは
むしろ蘇我氏のほうで、その功績が横取り
されたのではないか…..…などなど。

 問題は、その藤原氏が潰した飛鳥の蘇我の政権のことである。

 藤原氏が心血を注いだのは、いかに蘇我氏の正止体を抹殺するかにあったはずで、そのいい例
が、蘇我氏の祖の名を『日本書紀』が無視している点である。

 『古事記』には、蘇我氏の系譜が明記されている。それによれば、第八代孝元天の皇子·比古布
都押之信 命が木 国 造(紀伊の国造)の祖,宇豆比古の妹,
山下影日売を要って産んだ子が建 内 宿
禰(武内宿禰)
さらに建内宿禰の子·蘇賀石 河宿禰は蘇我臣等の祖であったという。 したがって、『古
事記』にし
たがえば、建内宿禰が蘇我氏の遠祖であったことになる。

 ところが、『日本書紀』を開いてみると、次のように記されている。

 第八代孝元天皇と物部氏出身の伊香色謎命との間に彦太 忍 信命がいて、武内宿禰の祖父にあ
たる、とある。しかし、武内宿禰が蘇我氏の祖であるとは、ど
こも書いていない。

  
  天孫降臨の謎 関裕二




朝廷が神話構築した不純な動機

 これまで通説は、『日本書紀』の神話が「天皇家の正統性」を証明し、また「王権獲得の正当性」を、
誇張をもって説き明かしたものと考えてきた。
しかし、そう決めつけることは早計であろう。

 少なくとも、『日本書紀』編纂の中心に藤原不比等が座っていたとするならば、『日本書紀』が単純
な「天皇家のための歴史書」だったかどうか、じつに怪
しいといわざるを得ない。

 藤原氏は天皇の妃に自家の女人を送り込み、その腹から生まれた皇子を即位させることで、権力
を掌握していた。しかも、藤原氏のいうことを聞かない皇
族は、有無をいわさず抹殺したのである。

 藤原氏にとって天皇とは、権力を維持するための「道具」であり、彼らにとって、天皇の正統性とは、
要するに藤原氏の天下を保証するためのフィクションに
すぎなかったわけである。

 したがって、『日本書紀』の神話とは、「天皇の正統性」を主張するのが最大の目的ではなく、「藤
原氏の正統性·正当性」を主張する、という 「裏」の動機
目的こそが大切だったことに気づかされる。
そういう視点で神話を読み直せば、
新たなヒントを得られるのではあるまいか。

   天孫降臨の謎 関裕二





実際の神武東征

 『日本書紀』のなかで「神武東征」と華々しく描かれたヤマト建国も、実際には征服劇ではなかった
ことは、老考古学的にほぼ立証されている。

 ヤマトは、ひとりの独裁者の征服劇によって成立したのではなく、いくつもの首長層の緩やかな連
合体であった可能性は高くなる一方なのだ。

三世紀のヤマトには、前代未聞の政治と宗教の都市·纏向が建設され、また、新たな宗教観を示す
前方後円墳が造営されるに至る。しかも、纏向も前方後円墳も、どちらも吉備、出雲、北部九州、
ヤマトという当時の巨大化した勢力のそれぞれの文化をもち寄った代物だった可能性が高く、その
なかで吉備が優位性を保っていたようだが、唯一突出した存在というものがなかった。したがって、
三世紀のヤマトの 「大王」は、征服者でも独裁王でもなかったと考えられるうになったのである。


 考古学の証言によれば、はじめヤマトには吉備 · 出雲·東海· 北陸の土器と理関葬文化が集まり、
最後の最後に北部九州勢がやってきたという。とするならば、
まず「出雲神 ·大物主神」がヤマトに舞
い降り、さらに饒速日命がこれにつづ
いてヤマトの基礎を築き、最後の最後に「九州の大王」神武が
迎えられたという
話の骨格は、「纏向と前方後円増墳の完成」の考古学と奇妙に重なってくるわけで
ある。

   『日本書紀』にしたがえば、神武がヤマトに君臨するはるか以前、出雲神·大物主神
   は 、ヤマトに住みたいといいだし、遷し祀られたといい、またヤマトを造
成した神
   と讃えられたという。また、その後、神武天皇がまだ九州にいたころ、
ヤマトの地
   にはすでにいずこからともなく饒速日命なる人物が舞い降りてい
て、土着の首長
   ·長髄彦の恭順を得て、この地域を統治していたとする。神武天
皇はこの話を聞き、
   「ヤマトこそ都にふさわしい」と確信し、東征を決意する。

   ちなみに饒速日命はヤマト最大の名門豪族物 部氏の始祖に当たる。

    神武天皇は長髄彦の抵抗にてこずるも、饒速日命の子の可美真手命 (宇摩志
   麻
遅命)の王権禅譲によって、ヤマトの王位を獲得するに至るのである。

 
   天孫降臨の謎 関裕二
 



隼人

 天皇家の祖と隼人(熊襲)の祖は繋がっていたと『日本書紀』はいう。だがその一方で八世紀の朝
廷は、隼人を蔑視し、まつろわぬものという路印を押して
いるのである。この矛盾をどう考えればい
いのだろう。

 たとえば『日本書紀』は、太古以来、隼人は造反を繰り返し、ヤマト朝廷は盛んに征伐を繰り返し
てきたと、記録している。

    海幸山幸神話(二人は天津日高日子番能邇邇芸命の子)のなかで、隼人の祖·
    海幸彦(火蘭降 命)
は山幸彦に対し、これからは「俳優の民」になりましょう、とい
    っている。
また、一書第二では、隼人たちは天皇のもとを離れず、代々「吹ゆる狗
    (いぬ)して奉
る者」になったという。狗吠のはじまりである。


   呪術に長けた隼人を重用したャマト朝廷

    隼人は大嘗 祭でも特別な役割を担っている。

    大嘗祭式の開始は、隼人の吠声からはじまり、また、大嘗祭では隼人のつくっ
    竹製品が使われる。たとえば、「竹製の目籠」が神座(かみくら)に置かれ、死と
    復活の重
要な役割を果たしている。

    「目籠といえば、山幸彦が塩土老翁の用意した無目籠(まなしたま)に乗せられて
    海神(わたつみ)の宮に
連れて行かれたことを思い出す。宮島正人氏は、『海神
    宮訪問神話の研究』(和泉
書院)のなかで、この無目篭について、次のように指摘
    している。

    無日堅間の小船を造り、火遠理命(彦火火出見尊)を海 神 営に導いたのは塩椎
    神(塩土老翁)であり、同時にこの神は、紀一書によれば、川雁に変じ
た航海神で
    あった。(中略)一種の儀礼的死であるとすれば、ここにこそ、死
者の霊魂を「鳥船」
    が冥界に運ぶとされる鳥船信仰、及びこの信仰と密接に結
びつく舟葬の観念が、
    この物語の背後に存する、と断じてよいかもしれない。

    このように、隼人は、生と死の境界における呪能力を期待されていたことがは
    する。

    それだけではない。六世紀末、敏達天皇十四年八月の条には、敏達天皇が崩御

    され、残 宮が営まれ、隼人が警護にあたったと記されている。

    さらに、隼人は天皇の死と祭配 にも深く関わっている。
  天孫降臨の謎 関裕二





本薬師寺跡

 奈良市の薬師寺の前身寺院が建てられたとされる本薬師寺跡(7世紀末、特別史跡)で、南門跡が
つかった。橿原市教育委員会が5日発表した。薬師寺の伽藍建設をめぐっては、飛鳥時代の
原京
(694~710)
に築かれた本薬師寺からの「移築説」と、平城京遷都後の奈良時代の現在地での
「新
築説」があった。 南門の規模や構造が異なる可能性が高いとみられ、新築説をさらに補強する
成果となりそうだ。

 薬師寺は680年、天武天が皇后(後の持統天皇)の病気快復を願って藤原京内に創建され、710
年の平城遷都
に伴って奈良,西ノ京の現在地に移されたとされる。近年の奈良の薬師寺東塔に対す
年輪年代測定で奈良時代前半の建立が明らかとなり、東塔新築説が確定的となった。

 市教委は今年2~3月、中門跡の南の約118平方mを発掘調査。中門の約20m南から柱の礎石
が設置されたとみ
られる穴三つがみつかった。

伽藍中央を軸に対称に並んでいることなどから、南門跡の可能性が高いとみている。


異なる規模·構造

 南門の規模は東西約15m、南北約10mとみられる。中門より大型だった。一方、奈良薬師寺の
創建時の南門は東
西約10m、南北約9.5m 。

 小澤毅,三重大学教授(考古学)は「新築説をさらに裏付ける成果だ。 飛鳥時代の主要寺院は南
門より別の門の方
が大きいが、奈良時代は南門が大きくなる。本薬師寺はその最初の事例ではな
いか」と
話す。 (田中祐也)


 奈良·西ノ京の薬師寺のルーツとされる本薬師寺跡で、大きな南門が存在していた痕跡が初めて
確認された。薬師寺
は約1300年前の飛鳥時代末期、日本初の本格的な都だった藤原京内に創建
、平城京遷都に伴って現在地に移されたとされる。

南門跡の発見は「移築説」と「新築説」とで対立してきた論争をほぼ決定づけ、古代都城と寺院の
歴史を考
える上でも注目される。

 発掘調査した橿原市教育委員会によれば、南門跡では東西に柱が4本並んでいたとみられ、その
柱の問隔
は奈良時代と同じV尺(約5げ)だった。一方、 奈良の薬師寺の当初の南門は柱が6本で、
規模も構造も異
なっていた。

 かつて本薬師寺跡を発掘調査したことのある花谷浩·出雲弥生の森博物館長(考古学)は「考古資
料と
しての新築説の新たな裏付けがみつかった。 都城制での寺院構造を考える貴重な成果だろう
」と話す。

 南門跡は藤原京の主要な東西道路に面し、長さは約15m。長さ13m余りの中門より大きいこと
が分かっ
た。大脇潔·元近畿大教授(歴史考古学)によれば、飛鳥時代の寺院は、国内初の本格的
寺院とされる飛鳥
寺(奈良県明日香村)で西門が大きいように必ずしも南門は重視されなかった。

 一方、奈良時代は、都が中国の都城にならって碁盤目状に区画された都市計画(条坊制)に基づ
いて造ら
れ、寺院の立地も大通りに面するようになると、正面となる南門が重視された。

「本薬師寺は都の条坊を意識した最古の事例になるのではないか」とみる。
  2019-9-26  朝日新聞



本薬師寺跡に南門

 奈良市の薬師寺の前身寺院が建てられたとされる奈良県橿原市の本薬師寺跡(7世紀末、特別史
跡)で、南門跡がみ
つかった。 橿原市教育委員会が5日発表した。薬師寺の伽藍建設をめぐっては、
飛鳥時
代の藤原京(694~710)に築かれた本薬師寺からの「移築説」と、平城京遷都後の奈良時代
の現在地での「新
築説」があった。南門の規模や構造が異なる可能性が高いとみられ、新築説をさら
に補
強する成果となりそうだ。

南門重視、最古例か

 薬師寺は680年、天武天が皇后(後の持統天皇)の病気快復を願って藤原京内に創建され、710年
平城遷都に伴って奈良·西ノ京の現在地に移されたとされる。 近年の奈良の薬師寺東塔に対する

年輪年代測定で奈良時代前半の建立が明らかとなり、東塔の新築説が確定的となった。

 市教委は今年2~3月、中門跡の南の約118平方mを発掘調査。中門の約20m南から柱の礎石が
設置されたとみ
られる穴三つがみつかった。伽藍中央を軸に対称に並んでいることなどから、南門跡
可能性が高いとみている。

異なる規模·構造

 南門の規模は東西約15m、南北約 10mとみられる。 中門より大型だった。一方、奈良· 薬師寺の
創建時の南門は東
西約26m、、 南北約9. 5m.。
 小澤毅·三重大学教授(考古学)は「新築説をさらに裏付ける成果だ。 飛鳥時代の主要寺院は南門
より別の門の方
が大きいが、奈良時代は南門が大きくなる。 本薬師寺はその最初の事例ではない
か」と
話す。
   2019-9-26  朝日新聞(田中祐也)



日本書紀の神話



神話は政治的目的で書かれた?

 神話は純粋に、「歴史を残たい」から書かれたものではないという一事である。『日本書紀』の神話
は、
あくまで八世紀の朝廷の正統性·正当性を述べるために書かれたのであって、ここを見落とすと、
分かることも分からなくなる。

 津田史学の申し子を自称する直木孝次郎氏は、

 神話といえば、民衆の思想、民族の信仰をあらわすものと思われやす いが、

また神話とは本来そうしたものであるが、「記紀」にまとめられている日本神
はそうではないのである。天皇家による日本統一の確立という政治目的に奉

するように改作された政治的物語なのである。(『日本神話と古代国家』講談

学術文庫)

 と語り、天皇家が神話を提造したと考えるが、じつはこれは間違いで、もっと別の者たちの思惑を想
定しなければならない。上山春平氏は、『日本書紀』編纂
の中心に八世紀の権臣·藤原不比等がいて、
「自らの手でつくり上げた律令制
をたくみに利用しながら、旧来の氏姓制度のもとでは、とうてい太刀
打ちできそ
うにない名門の豪族たちを圧倒する地位に藤原家をおし上げるための素地をつくった」
(『神々の体系』中公新書)として、その不比等が、藤原氏の正当性を証明
するために、神話を記したの
ではないかと推理し、以下のように論を進める。

 まず、神話(『古事記』)には、明確な図式というものがあって、アメノミナカヌシを頂点に、二つに分か
れた「高天原系」と「根国系」の神々が対置され、最
後にイワレヒコ(神倭伊波礼毘古命=神武天皇)でつ
ながり、ヤマト朝廷誕生
に結びつけられている、とする。

 では、なぜこのような図式が描かれたかというと、八世紀、藤原不比等の時代に出現した「律令制の
原理と氏姓制の原理の矛盾葛藤とその解決の筋書き」
( 「続·神々の体系』中公新書)にほかならないと
するのである。

 つまり、旧態依然とした氏姓制に安住するヤマトの豪族層を、藤原不比等や藤原氏が律令制をもっ
て駆逐したのであり、このような経緯が、神話における出雲国譲り大国主神建御雷命や高皇産霊
尊 (高御産巣日神)の姿に投影されている、とするのである。

 さらに、権力を握った藤原氏の野望は、自家の女人の産んだはじめての皇子·首皇子(第四十五代
·聖武天皇)の即位であり、しかし一方で、首皇子の即位
が父子相 承の皇位継承という慣習を打ち破る
ことにつながるから、「女帝」から孫への皇位継承という図式を、天照大神から孫の天津彦彦火瓊瓊
杵尊
への統治権の禅譲という新たな神話を構築することによって、正当化しようと図った、というので
ある。

日本書紀と古事記と違い
 『日本書紀』には、たしかに天照 大神が女性であったと記されているが、『古事記』では性別が逆に
なっていて、『古事記』のいうところの天照大御神は、「女帝」なのではなく、乙巳の変蘇我入鹿を殺し
天智天皇(中大兄皇子)にほかならない、とするのである。八世紀の朝廷が記したのは『日本書紀』で
あって、かたや『「古事記』は、『日本書紀」を編纂した朝廷とは相反する勢力が記した文書であったと
考えられる。たとえば、『日本書紀』は朝鮮半島の百済を重視し、百済寄りの文書であるのに対し、
『古事記』はむしろ新羅を尊重しているが、この差の意味するところは大きい。.

 
 天孫降臨の謎 関裕二




  
西明寺 隠れ菩薩

 滋賀県甲良町にある西明寺の国宝本堂の柱2本に、8体の仏像「八大菩薩立像」が描かれていること
がわかったと、調査した広島大の研究者らが発表した。 

柱は媒で黒くなり、肉眼ではほとんど見えなかったが、赤外線撮影したところ、像が浮かびあがった。

 本堂中央の須弥壇の左右端にある2本の柱から見つかり、4体ずつが上下2段に描かれていた。
いずれも腰高の細身で、顔は小さな目、垂直の鼻筋、太いあごなどの特徴がある。

 調査した安嶋紀昭·広島大教授(美術史学)と高間由香里。大阪教育大講師(同)によると、江戸時代 

ごろに補筆された跡があるが、原画はそれよりも古い時期に描かれたらしい。 

 寺は、「湖東三山」の古寺として知られる。本堂は鎌倉時代初期(世紀初め)に創建、南北朝時代 (14
世紀中ごろ)に現在の形に改築されたとされる。柱の像の一部は見えていたが、須弥壇には多くの仏像
が安置され、撮影機材を置く場所がなく、長い間調査できなかった。東京で開催中の「古典×現代2020」(
朝日新聞社など主催)に仏像を出展したことなどで調査が可能となり、昨年6月に実施された。 
   2020-8-12 朝日新聞(筒井次郎、渡義人)

 

 「八大菩薩立像」が確認されたのは、本堂(国宝) の須弥壇脇にある2本の 柱。広島大と大阪教育大の
合同調査チームが赤外線撮影したところ、すすで覆わ れた表面に4体ずつ菩薩像が浮かびあがった。

 安嶋紀昭·広島大教授によるとその姿 は長身で奥行きが薄く、背筋をそって若千腹部が出ている姿勢
など古式の様相が見て取れ、7世紀中ごろの法隆寺の百済管をほうふつさせるという。

 たとえば耳の表現。法隆寺の玉虫厨子扉絵にみられるシンプルな表現に似るといい、手のひらも中国
隋代の描き方で法隆寺金堂壁画より古い特徴を備えるとみる。「解明の鍵は小さな部分に宿っているも
の。柱絵を描いたのは、金堂壁画以前の描き方を踏襲している絵師集団ではなかったか」と安嶋さん。

 西明寺本堂の創建は鎌倉時代初期で、南北朝期に拡張されたというのが通説だが、それを証明する明
確な文献資料はないらしい。むしろ工具の加工痕や梁などの機造から、「母体となった建物が鎌倉以前
にあったのではないか」(安嶋さん)というのだ。

 西明寺のある犬上郡付近は奈良時代に東大寺建立にかかわる絵師集団が輩出した地だけに、7世紀
に渡来系絵師がいてもおかしくない。本堂は飛鳥時代に創建された犬上氏の氏寺ではなかったか。調査
チームは、そう推測する。ならば、柱絵は知られざる先行建物の存在を物語っているのだろうか。

 白鳳美術の白眉とされる法魔寺金堂壁画に年代的に並ぶとなれば、日本美術史上の大きな発見だ。
それだけに慎重論は少なくない。

 描線や容貌の表現から見ても飛鳥時代までのぼるのは無理で中世以降にくだるとか、古い様式を意識
して描いたのでは、などの見解も。通説より古い創建を建築史的に証明できるのか、といった声もあるよ
うだ。

 食い違う様式論の限界を超えるには年輪年代など科学的な分析も期待されるが、国宝の建物だけに難
しく、議論は平行線をたどりそう。しかし今回の発見 が、今もなお未知の絵画資料が眠っている可能性を
示唆した事実は大きい。仏教絵画に詳しい有賀祥隆・東京芸術大客員教授は「柱の下から仏画が出てき
たのは貴重な発見。制作年代や描かれた背景はこれからの検討課題だろう」と話す。
   2020-10-8 朝日新聞 夕刊 (井次郎、渡義人、編集委員·中村俊介)




竹之内街道

 613年に整備され、日本最古の官道とされる竹内街道。その東の起点近くにあるのが、街道名の由来と
もなった竹内集落(奈良県葛城市)だ。縄文時代から人々が住み始めたとされ、いまも草ぶきの大和棟が
残る古い町並みがみられる。

 「集落周辺からは、縄文時代から奈良時代までの遺跡が見つかっています」。暮城市歴史博館館長補佐
の神庭滋さん(47)は、集落の東の入口で辺りを指しながら説明する。周辺の開発に合わせた調査では、
縄文時代の墓や、弥生時代の石器が見つかった

 集落に近い二上山は、石器の材料となるサヌカイトの産地。縄文時代には竹内峠を越えて各地に石器が
運ばれた。石器の工房跡のような遺跡も見つかっている。石器作りの職人らが、この地に移り住んだことが
竹内集落の始まりとされる。

 同じ場所に代々暮らせば、古い建物を壊して建て直すのが一般的だ。では、なぜ複数の遺跡が残ってい
るのか。神庭さんは「背面の山が土砂崩れをおこし、埋まった場所が遺跡となった可能性がある」という。

 集落を西に進むと、江戸時代の面影を残す町並みが現れる。当時は、伊勢 (三重県伊勢市)や長谷寺
(奈良県桜井市)、修験道の聖地。大峰山 (同県天川村)へ向かう観光客でにぎわう宿場町だった。松尾芭蕉
も旅の疲れを癒やして、いくつか俳句を残した。集落には行き先を示す石の道標が今も残る。

庭さんは豊富な水を挙げる。集落は、葛城山系の山水を水路に引き込んでおり、いまも食器などの洗い場
が残る。行き交う旅人や、連れ歩く牛馬の飲み水の心配もいらなかった。

 現在も集落を通る竹内街道が613年に整備された道かは分からないが、江戸時代にあった道だという。
道標の横に立って古い町並みを見渡すと、はたごや茶屋の呼び込みでにぎわう様子が見えてきそうだ 。
  2020-8-14 朝日新聞 (渡辺元史)


竹之内集落

 近鉄南大阪線磐城駅から徒歩約20分。 竹内街道沿いには、松尾芭蕉が滞在中に詠んだ綿弓の句の
石碑のほか、無料の休憩所がある。休憩所には江戸時代の集落を再現した地図などが展示されている。
母方の実家がある 竹内で、幼少期を過ごした作家司馬遼太郎は、竹内峠と大和側の山麓(さんろく)を
「故郷のようなもの」と評した。著書「街道をゆく」 では、竹内街道を「国宝に指定されるべき道」と記した。
集落周辺に街道の東の起点・長尾神社がある。



朝風の棚田と飛び石 和田萃

 石舞台古墳や島庄遺跡のある明日香村島庄から、飛鳥川沿いの道をたどって飛鳥川上流を訪

ねるのは、まことに心楽しい。稲淵集落を抜けた川沿いに飛鳥川上 坐 宇須多伎比賣命 神社

柏 森集落の中に加夜奈留美命 神社があって、ともに飛鳥川の水神を祀る式内社である。

 明日香村島庄から稲淵に至る飛鳥川沿いの道の対岸に、見事な棚田が広がっている。日本棚

田百選にも選ばれている「朝風千軒」。昔は千軒もの家があって、栄えた所だったという。「朝

風千軒」では以前には休耕田を見かけたが、近年、棚田オーナー制度がすっかり定着し、かつ

ての景観がよみがえった。嬉しいことである。

田植えの済んだ後や、稲穂が赤らんで棚田の畔(くろ)が彼岸花で覆い尽くされる頃の景観は素晴
らしい。稲刈りが終わると、棚田のオーナーらによる案山子フェスティバルも開催され、大勢の人

たちでにぎわう。

 稲淵の龍 福寺に残る「竹野王碑」に「朝風」の地名がみえ、古代から「朝風」と称されてい

たことがわかる。竹野王碑は三重の小さな石塔四面に銘文を彫んでいるが、風化していてほと

んど読み取れない。銘文の文末は、かろうじて「天平勝寶三年 (七五一)歳次辛卯」と読めるので、

奈良時代中期の石碑である。稲淵から明日香村上平田に通じる峠道があり、かつて竹野王碑は

朝風峠 (現在では平田峠と称する) 付近にあったと伝えている。朝風の地名は、陽が上ると、川下

から上流に向けてさわやかな風が吹き上げてくることに由来するらしい。「アスカ」という地

名の由来とともに、小著「飛鳥」でふれたから、参照されたい。

 稲淵集落の入り口にある勧請橋の近くに、「勧請縄」が飛鳥川に架け渡されている。その

中央に稲藁で作った男性のシンボルが吊り下げられているので、「男綱」と呼び慣わす。日本

の各地に、疫病神や悪霊などが道を伝ってムラの中に侵入するのを防ぐため、勧請縄をムラの

入り口や出口に架け渡す民俗がある。「道切り」とも言う。「道切り」は、中世の『一遍上人絵伝』

にもみえるから、稲淵の勧請縄を架け渡す習俗は確実に中世にまで遡る。

 勧請橋から少し上流に「飛び石」がある。表面の平らな、八つの自然石が川中に据えられて

いて、歩いて川を渡ることができる。「飛び石」に立って上流を見ると、山峡が迫り飛鳥川に沿

って風が流れる。まことに心地よい。皇極三年(六四四) 正月、中大兄皇子中臣鎌足
蘇我入鹿打倒の秘策を練りながら、稲淵 (当時は南淵)

にあった南淵請安の家に通ったという(『日本書紀』)。二人がこの「飛び石」を渡った可能性も

あるだろう。「飛び石」を踏んで飛鳥川を渡る時、私はいつも我が身が奥飛鳥の景観に溶け込み、

時空を超えて古代にいるような思いにとらわれる。

 稲淵集落の中ほど、やや小高い丘の上に南淵請安の墓がある。近世になって作られたもので

あるが、かつて朝風峠近くにあった「セイサン塚」を遷したと伝える。「セイサン」は「セイアン
(請安)」が訛ったものだろう。

 稲淵では、吉野の上市に至る芋ヶ峠越えの道に沿って集落が形成されている。山の麓に連な

る見事な石垣をもつ民家群や、山麓の飛鳥川沿いの低地に広がる水田や畠地の形成する景観は、
中世的なものと言ってよい。そうした景観には、古代に遡るものも含まれているだろう。
万葉集』に歌われた飛鳥の景観は、飛鳥川上流の奥飛鳥に色濃く残っている。
  飛鳥の古社を歩く 和田萃



飛鳥川上坐宇須多岐比賣命神社 和田萃

 稲淵集落を抜け、飛鳥川沿いの道を上ってゆくと、「宮山」と称する円錐形の小山に、式内

社の飛鳥川上坐宇須多伎比責命神社が鎮座する。

道沿いに神社名を示す石標があり、百九十段もの長く険しい石段を上ると、山の中腹に拝殿が

ある。当社は拝殿のみで本殿がない。大和の青垣の山々の一つ、三輪山と同じように、「宮山」

は神体山であり、神の龍りいます神奈備山として信仰されてきた。飛鳥の中心部からは南淵山

に隠れて見えないが、朝風峠 (明日香村稲淵と上平田を結ぶ旧道の峠) から望むと、まことに
秀麗な山であることがよくわかる。

 近世には「宇佐宮」と称されていたが、式内社の飛鳥川上坐宇須多伎比責命神社であること

に間違いない。石標のすぐ下を飛鳥川が流れている。付近の河床は露岩で、永年にわたる速い

水の流れで大きく削られて曲流しており、そのためいつも大きく渦巻いている。そして滝つ瀬

となって流れ下る。そうしたところから、神体山である「宮山」に、ウスタキヒメ命 (渦滝媛命)

という水の女神が祀られたのである。

 皇極元年 (六四二) 七月の大早 (大ひでり) に際して、皇極女帝は南淵の河上に行幸し、跪(ひ
ざまず)いて四方を拝し天を仰いで祈ったところ、たちどころに雷鳴して大雨が降り出した。雨は
五日間にも及び、普(あまね)く天下を潤した。それで人々は「至徳(いきおいまします) 天皇」と誉
め讃えたという。南淵河は飛鳥川の上流を指す。皇極女帝が雨請いをした場所は、「宮山」の中
腹であった可能性が大きい。

 さらに飛鳥川沿いの道を上ってゆくと、道際に小さな磐座がある。「福石」と言う。その場

所から対岸に勧請縄が架け渡されている。「女綱」と称す。「男綱」と同様、中央に藁で作った

女性のシンボルを吊るしている。稲淵の集落を抜けた辺りから「福石」付近までは、山峡が迫

って見上げる空も狭い。時折、車とすれ違うものの、雨の日などは心細くさえ思う。ところが

「福石」を過ぎると、川辺に水田や畠が広がり、空も広やかになって、心が晴れる。明日香村

栢森地区である。栢森の地名は、かつて栢の木が多数あったことに由来するのだろうか。
芋ヶ峠に至る旧道に沿って、栢森の集落が広がる。
  飛鳥の古社を歩く 和田萃



加夜奈留美命神社 和田萃

 栢森地区では、飛鳥川の川床は露岩となっており、各所で小さな流れが注ぎ込む。それで村

なかを歩いていると、いつも川の瀬音が響いて心地よい。集落の中ほど、旧道に沿って見事な

百日紅のある龍福寺があり、すぐ東に隣り合って式内社の加夜奈留美命神社が鎮座している。

鎮座地は尾根筋のやや小高い所で、北側の崖下には男淵·女淵から流れ下ってくる川がある。

龍福寺の前にも東南からの細い川の流れがあるので、二筋の川に挟まれた社地では絶えず川の

瀬音が響いている。そうした川の瀬音「ナルミ」を、水の神として肥ったのが加夜奈留美命神社

である。

 式内社の加夜奈留美命神社の鎮座地は、近世末頃には不明となっていた。それを復興したの

が、後に南画の大家として著聞するようになった富岡鉄斎 (一八三六~一九二四)である。鉄斎は

若い頃、大田垣蓮月尼 (一七九一~一八七五) の薫陶を受け、幕末には勤王の志士と交わって国
事に奔走した人である。その功績が認められ、明治初年に石 上神宮 (奈良県天理市に鎮座)の
宮司に任命された。その在任中、鉄斎は加夜奈留美命神社の復興を志し、何度も岡 (明日香村岡)
に宿泊して調査を重ねた。そして栢森の小字「堂の後」にある「葛神」と称されていた小祠を式内社
の加夜奈留美命神社と考証した。

 鉄斎はまた、同社復興 の資金を捻出するため、村人に書画を書き与え、その代価を貯えた。
岡の旧家に富岡百 錬 (当時、鉄びやくれん斎は百錬·白錬と号した) の署名のある書画を見かける

のは、そうした経緯による。

鉄斎の「公私事歴録」によれば、明治十一年(一八七八)に堺県に書類を提出し、また金五円を地元
に奉納して、同社を復興した。

書類の提出先が堺県であるのは、明治九年に奈良県が堺県に合併されたことによる。明治十四年
に至り大阪府に編入されたが、明治二十年に分離独立して、再び奈良県となった。

 なお地元の方にうかがうと、富岡鉄斎が復興した社殿は、昭和八年 (一九三三) 十一月に近隣
の火事で延焼し、その後に再建されたものである。  

飛鳥の古社を歩く 和田萃


飛鳥・藤原の宮都

 宮都が飛鳥·藤原にあった6世紀末から8世紀初め、古代東アジアはひとつの文化圏を形成していた。

人思想文化技術の豊かな交流のあったグローバルな世界/時代のなかで、我が国は新たな国づくりを行い、自らの国を
「日本」と呼んだ。「飛鳥·藤原の宮都とその関連資産群」は東アジアにおける交流と「日本」誕生の記録が刻まれた遺跡群
である。

我が国の歴史上、飛鳥時代と呼ばれる6世紀末から8世紀初め、我が国はじめての本格的な宮都が飛鳥·藤原

の地に築かれた。この時代、我が国を含めた東アジア諸国は中国を中心とした東アジア文化圏と呼ばれる

世界を形成し、そこでは人·思想·文化·技術の豊かな交流があった。このなかで我が国は中国に遣隋使·遣唐使
を派遣し、朝鮮半島からは僧、技術者等を積極的に招来し、律令という政治制度の導入や世界宗教であった

仏教の受容など様々な思想·文化·技術を摂取し自己のものとして発展させた。「日本」という国号、「天皇」

という称号は飛鳥時代に生まれたとされる。古代東アジアがひとつの文化圏にあったグローバルな世界のな

かで、我が国は律令制による天皇を中心とした中央集権国家に生まれ変わり、自らの国を「日本」と呼んだ。

「飛鳥·藤原の宮都とその関連資産群」は、東アジアにおける歴史上重要な交流と「日本」誕生の記録が刻ま

れた、累代の天皇,皇族の宮殿をはじめ、それに附属する漏刻(水時計)、祭記、苑池などの諸施設、はじめての仏

教寺院である飛鳥寺などの諸寺院、当時の有力者の墳墓などの遺跡群で構成された資産である。
 

 「飛鳥·藤原の宮都とその関連資産群」は地下に重要な遺構·遺物が遺存する我が国の考古学的遺跡を代表する遺跡群
である。

これらは、現在日本の政治社会·文化の基層となり、時代を越えて現代に生きる我々にも大きな影響を与えている。

飛鳥·藤原の遺跡群は、木造建築の遺跡を主体とすることから地上に可視的な痕跡を残すことが稀な、地下に重要な遺構。

遺物が残る我が国の考古学的遺跡の価値特質を代表する。これらは、飛鳥·藤原がその後再び日本の政治、経済の中心

地となることがなかったことから、歴史的変容を受けることなく今なお地下に良好な状態で残されている。遺構及び土器

や瓦、文字資料としでの木簡などの豊富な出土遺物は精緻な調査が行われ、「日本書紀」などの文献史料の研究も併せ、

新たな国家形成期における政治、社会、文化、宗教等のあり方を生々しく伝えている。

飛鳥,藤原の資産群は現代に生きる我々にとっても大きな価値を持っている。構成資産のひとつ、大和三山は我が国古来

の神々が鎮まる山であり、さらに神仙思想の影響から宮を鎮護する神山として藤原宮の選地にも大きな影響を与えたが、

宮を正しく三方に囲む三山の情景は時代を越えて残存する優秀な風致景観として現在に残っている。また、宮跡、寺院跡

等の遺跡群は、現代日本政治の基層をなす官僚制等の政治機構 理念の成り立ち及び現代日本人の精神文化、生活様
式の基盤となる仏教等の宗教·思想の受容のあり方等を遺構のなかに体現している。

現在、日本、中国、韓国等東アジア諸国の間ではメディア文化等新たな文化の交流が展開されている。東アジアの現在と未

来を考えるために、我が国古代史上最も豊かな交流のあった飛鳥時代を振り返り、その歴史的意味を認識することは重要

であり、飛鳥·藤原の地下に眠る遺跡群は我々にその意味を語りかけている。
  世界遺産{飛鳥・藤原」登録推進協議会 明日香村・桜井市・橿原市・奈良県



六角堂頂法寺

 京都の東西に六角通が走る。由来は六角堂 頂法寺。その名の通り、
本堂は六角形だ。

 「わが思う心のうちは六(むつ)の角(かど) ただ円(まろ)かれ

と祈るなりけり」

 これは六角堂の御詠歌。心にひそむ六つの角をすて、心を丸くしようと
説く。 六つの角とは目、耳、鼻、舌、身、意、つまり五感と意識によって生
じる欲だ。「心や体が正しく作用していると思っていても、だれしも先入

観があり、色眼鏡でみては、 うそをつく。六つの角を、 あえてお堂に作り、
人びとに教えているのです」 と僧侶の田中良宣執事。

 今年、 没後1400年にあたる聖徳太子が創建したと伝わる。 587年、
大阪の四天王寺をつくるため、材木を求めてこの地を訪れた。四天王寺
法隆寺よりも早く建てられた寺という。はじまりを意味する「頂」と、仏法
の「法」の字から頂法寺になった。

 初代住職は小野妹子遣隔使のあとに出家し、法名は尊務。それ以来 
六角堂の住職は「専」の字をつける。次の住職は、いけばな池坊の次期
家元の専好さんだ。
 2022-5-16 朝日新聞(岡田匠)



海龍王寺

 奈良時代以前、野見宿称を祖とする土師氏の氏寺を、平城

遷都の際に藤原不比等が譲り受け、邸宅を構えます。

 不比等の没後、これを受け継いだ娘の光明皇后は、遣唐

留学僧·玄助が新しい仏法を無事に持ち帰ることを願い、

寺院の伽藍を整備しました。帰国後、玄肪は内裏に近い

この寺院の住持に任じられます。旅の途中、嵐に襲われた

玄防が海龍王経を唱え難を逃れたことから、寺号も海龍王寺

と改められました。このエピソードにちなみ、 いまでも

旅行や留学の安全を祈願するお寺として知られています。

 見どころは、創建当初からの建物である西金堂(重要文化財)

と、堂内に安置されている天平時代建造の五重小塔(国宝)。

 また江戸時代に建てられた本堂には、鎌倉時代造立でご本尊

の十一面観音立像(重要文化財)(※)が安置されています。

 春先には雪柳が境内一円に咲き乱れ、「花の寺」としても

有名です。

※通常は戸帳越しの公開。毎年3月下旬~4月上旬、5月上旬、
10月下旬~11月上旬の特別開帳等でのみ開帳。


玉体杉

 テレビで、マラソンをよく見る。4㌔を走り通す選手の姿を追っているうちに

夢中になっている。

 そんなとき、千日回峰行者の酒井雄哉さんのことを思い出す。行者は日に40㌔

近くを歩き、それが断続的に千日間つづく。マラソンランナーは1日仕事である 

が、回峰行者は千日仕事だ。

 1対1000、これは凄い、と思わないわけにはいかない。もっともマラソンランナー
は走るのが専門。だが、回峰行者は歩きに歩く。そういう違いはある。

舞台はもちろん比叡山の鬱蒼と茂る山中での話である。 

 その酒井さんがまだご存命のころ、私は一夜だけそのあとを追いかけたことが

ある。ちょうど酒井・大阿闍梨が二度目の回峰行に挑んでおられるときだった。

飯室谷の御坊でご挨拶し、あらかじめお許しを得ていた。深夜に起き、白装束で

山道にあらわれる行者のシルエットを拝んであとをつけた。

 むろん飛猿のように峰々に分け入る行者にそのままついていくことなどできる

わけがない。自動車道をタクシーで先回りし、行者の出現を待つのである。ほん

のわずかだけ山歩きをしただけだったが、それでも全身から汗がにじみ出た。

 峰々をかけめぐる行者のルートはきちんと定められており、立ち寄って礼拝す

る場所も決められている。その一つに「玉体杉」と称する巨木がすっくと立って

いるところがある。奥比叡ドライブウェイ沿いに、横川に向かって行ったところ

だ。

 行者を追って車を捨てて山道に入り、しばらく歩くと峰の林が切れたあたりで

急に視界が開け、一本の杉の巨木が天を摩して伸びている。下方に目を移すと京

都の洛中洛外がかすかな灯りの海を浮かび上がらせ、闇の底に沈んでいた。

 見ると、その巨木の足元に、平らな石でつくられた座席が設けられている。 そ

こに行者が座り、はるか御所を望んで玉体(天皇のからだ)の安穏を祈る。 玉体

加持のことだが、その作法が今日まで伝えられているのである。酒井さんがお経

を唱えているあいだ、 その足元に2匹の犬がうずくまり、じっと耳を垂らしてい

た。その光景が今でも眼前に浮かぶ。
  2016-11-12  朝日新聞
山折哲雄やまおり・てつお 1931年生まれ。宗教学者、
国際本文化研究センター元所長。


唐招提寺のうちわまき

 鎌倉時代、唐招提寺の中興の祖・大悲菩薩覚盛上人が「自分の血

を与えるのも菩薩行」と、蚊にく われるまま修行していたことを偲

び、法華寺の尼僧がせめて蚊を払 ってさしあげようと団扇を作って

亡き上人に供えたのが由来だ。 舎利殿(鼓楼)からまかれる団扇を

授かると、病魔退散、厄除けのご利益があるといわれ、例年5月19

日には多くの人で賑わう。 団扇は授与所でも求めることができる。



高市皇子の挽歌

 この歌は、天武天皇の長子の高市皇子が持統天皇十 (六九六)年に亡

くなった時の挽歌で、『万葉集』中で最長の長歌として知られています。

前半は、父の意を受けて壬申の乱を最前線で戦い、軍衆を率いて勝利に

導いた高市皇子の勇壮な姿が、長歌の名手である柿本人麻呂によって見

事に描写され、「歌による壬申紀」とでも言うべき雄大な叙事詩となって

います。後半では、主人を失った高市皇子宮に仕える人々の悲しみや葬

送のさまが描かれます。歌中の「埴安の御門」、「香具山の宮」、「百済の

原」、「城上の宮」といった地名は、高市皇子宮の比定地を探す手がかり

としても重視されています。
  県民だより 奈良 2022ー6月号 (本文万葉文化館 竹内亮)

 

かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏(かしこ)き 明日香の 真神(まがみ)が原に 
ひさかたの 天つ御門(みかど)を 畏くも定めたまひて 神さぶと 磐隠(いわがく)ります

やすみしし わご大君の きこしめす 背面(そとも)の国の 真木(まき)立つ 不破山越えて

高麗剣 (こまつるぎ) 和蹔(わざみ)が原の行宮(かりみや)に 天降り 座(いま)して 
天の下 治め給ひ 食(を)す国を 定めたまふと 鶏が鳴く吾妻の国の御軍士(みいくさ)を 
召し給ひて ちはやぶる 人を和(やは)せと 服従(まつろ)はぬ 国を治めと 皇子ながら 
任し給へば 大御身(おほみて)に 大刀取り佩かし 大御手(おほみて)に 弓取り持たし
御軍士を あどもひたまひ 斉(ととの)ふる 鼓(つづみ)の音は 雷(いかづち)の 声と聞くまで

吹きせる 小角(くだ)の音も 敵(あた)見たる虎か吼(ほ)ゆると 諸人の おびゆるまでに 
捧げたる 幡(はた)の靡(なびき)は冬ごもり  春さり来れば 野ごとに 着(つき)きてある火の 
風の共(むた) 靡(なび)くがごとく 取り持てる 弓弭(ゆはず)の騒(さわき) み雪降る 
冬の林に 飃風(つむじ)かも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの恐(かしこ)く 引き放つ 
矢の繁(しげ)けく  大雪の 乱れて来れ  服従はず 立ち向ひしも露霜の 消なば消ぬべく 
行く鳥の あらそふ間に 渡会(わたらひ)の 斎(いつき)の宮ゆ  神風に  い吹き感はし 
天雲(あまくも)を 日の目も見せず 常闇に 覆ひ給ひて 定めてし 瑞穂(みずほ)の国を 
神ながら 太敷(ふとし)きましてやすみしし わご大君の 天の下  申し給へば 万代に 
然しもあらむと 木綿花(ゆふはな)の 栄ゆる時に わご大君 皇子の御門を 神宮(かむみや)に

装(よそ)ひまつりて 使はしし 御門の人も 白栲(しろたへ)の 麻衣着(あさころもき)

埴安(はにやす)の 御門の原に 茜さす 日のことごと 鹿(しし)じもの い匍(は)ひ伏しつつ 
ぬばたまの 夕(ゆふへ)になれば 大殿を ふり抜(さ)け見つつ うづらなす い匍ひもとほり 
侍へど 侍ひ得(え)ねば 春鳥(はるとり)の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 憶(おも)ひも 
いまだ尽きねば 言(こと)さへく 百済の原ゆ 神葬(かむはふ)り 葬りいませて 麻裳(あさも)よし
城上(きのへ)の宮を 常宮(とこみや)と 高くしまつりて 神ながら 鎮まりましぬ 然れども 
わご大君の 万代と 思ぼしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや 天の如 
ふり放け 見つつ玉襷(たまだすき) かけて偲はむ 恐くありとも

 柿本人麻呂 巻二 (一九九番歌)

訳 (大意)

 飛鳥の真神原で天下をお治めになった (天武)天皇が、荒々しい従わぬ者

を鎮めよと高市皇子に任されたので、皇子は勇ましく軍衆を率い、伊勢

の神宮から吹く神風で敵を惑わせて平定なさった。そうして栄えていた

折、皇子はお隠れになり、宮人たちはさまよい嘆いた。皇子がおられた香

具山の宮はいつまでも荒れることがないだろう。深くお偲びしていこう。


黒死病

 中世ヨーロッパの人口の3分の1が犠牲になったともされる「黒死病」。その原因と

なるペスト菌は14世紀前半に、中央アジアからもたらされた――。そんな研究成果を

ドイツや英国のチームが発表した。いまのキルギス北部で発掘された人骨から、古いペ

スト菌のDNAの復元に成功した。

 ペスト菌は、ネズミ類の体内に潜む細菌で、ノミを介し て人に感染することが知られ

ている。

 14世紀の大流行は欧州で「黒死病」と呼ばれて恐れられた。1346年春に、クリミ

ア半島の黒海沿岸で発生したのが最初の記録で、その後、欧州や中東、北アフリカにも

広がった。その起源については、西ユーラシアから東アジアまで、いくつか説がある。

考古学的な証拠の一つが、 現キルギス北部で発掘された、複数の中世の人骨。墓石

に刻まれた文字から、多くが1338~39年に、「疫病」 で亡くなって埋葬されたこと

がわかっていた。ただし、欧州の黒死病と生物学的な関連があるのかは不明だった。

 独マックス・プランク進化人類学研究所や英スターリング大などの研究チームは、こ

の人骨の歯から古いDNA断片を採取して配列を解読。 す ると、うち3体から、ペスト

菌のDNA断片が見つかった。 断片をつなぎ、当時のペスト菌のDNAを復元するこ

とに成功した。

 さらに、これまで特定され黒死病の古いペスト菌などと比較。その結果、黒死病の

ペスト菌は、今回復元されたペスト菌から11世紀前半に直接分岐したことがわかった。

 キルギスと中国にまたがる天山山脈の周辺は、中国と地中海を結ぶシルクロードの交

易が盛んだった。この地域に生息するネズミの仲間からはペスト菌が見つかっている。

 チームは、この地域で当動物から人へのペスト菌の感染が起こり、その後の黒

死病につながったと考えられるとした。

 成果は15日付の科学誌ネイチャー電子版に掲載された。 
  2022ー6ー16 朝日新聞(夕刊)野口憲太


大峰山参拝禊ぎ場

 赤根天神社東側の天神池の前、石段を降りると、禊ぎ場の跡が残って

います。ここは今里地区の若衆が、奈良県吉野郡にある修験道の根本霊

場である大峰山へ参拝の折に、道中の安全と修行の成就を願って身を清

めた禊ぎ場でした。

 この場所には、かって絶え間なく清らかな水が湧き出ており、古来か

ら神聖な地として大切に守られてきました。 昭和40(1965)年ごろま

では、女人禁制で実際に使用されていたと言われています。

 今里では、毎年9月ころ成人に達する前の若衆が、 先達 (大峰山山入

の回数で格付け) の引率により大峰山の行場で修行しました。

 これは、大人の男に仲間入りする節目の一つとされ、 「行者さん」 ・

「行者講」と呼ばれていました。 「行者講」というのは、大峰山信仰に基

づく集団で、地元各地区に存在していました。 最近では、 代参者が交代

で大峰山 参拝し、 お札を講員に配っているそうです。

 昔はほかに、 伊勢講 大師講、観音講などの信仰的な集団が各地で組

織されており、信仰が生活と密着し、住民同志のつながりも密接であった
ことをうかがい知ることができます。

 なお、禊ぎ場脇の祠堂の中には修験道の開祖とされる“役行者”の

石像が安置されています。 高さ89cmほどの浮彫りの像で、 刻銘による

大峰山参拝禊ぎ場弘化3(1846)年、大峰山へ38回も参詣した俗名惣七衛
門の建立と刻まれています。
 長岡京市の史跡を訪ねて」長岡京市ふるさとガイドの会 より


赤根天神社

 祭神は伊弉諾尊伊弉冉尊ですが、 現在は赤根天神社と呼ばれてい

ます。 鳥居に「天満天神宮」とあり、 菅原道真公も祀っていると思われ

ます。

| 昔、この地には井ノ内の旧家石田家の屋敷があり、 この神社は屋敷

内に建つ石田家の氏神であったそうです。 その後、応仁の乱で焼失し、

元和2 (1616) 年、 石田瀬兵衛が再建したと伝えられ、現在も境内には

石田瀬兵衛寄進の石灯籠や石鳥居などが残っています。

 石田家は井ノ内の有力な旧家で、 角宮神社や、 光明寺などの寺社にも

石田家寄進の石灯籠 鳥居が今も数多く残っています。

 江戸時代中期以降は、 ここ今里地区の鎮守社として、 住民らが家内安

全、五穀豊穣を祈り、境内の灯籠などにも寄進した今里住民の名前が

刻まれています。

 本殿は一間社流造、 こけら葺で、 奥行一間の前廂をつけて拝所とし、

身舎内部は二室から成り、 内陣の正面には板扉、外陣の正面には格子戸

4枚を立てています。 かなり大きな社殿で、木割も大きく、全体に堅実

な造りとなっています。

 蟇股の彫刻や、虹梁の絵模様など、細部の意匠は比較的おとなしく

造られていて保守的な傾向が見られます。

 造営は正徳3(1713)年と伝えられ、蟇股や虹梁などの意匠の特徴も、

18世紀前期のものとして間違いないようです。

 かつては、天神社所有の田があり、その収入で供物などを賄ってきた

といわれていますが、現在は今里の七つの町内が1年交替で宮当番を務

め、毎月1日と15日に社域を清掃し、御神酒を供え、区民の安全を祈

願しています。

 この七つの町は「チョウ」と呼ばれていたころからの古い町だけで構

成されています。

 このようなことから昔の地区住民と赤根天神社とは深いつながりが

あったことがわかります。 このほか、毎年、元旦祭、 お節会祭、お千度

参りなどの年間行事も行っており、 また、 この神社は、 向日市の向日神

社の御旅所としての役割も務めており、 向日神社還幸祭には向日神社の

御輿(御鳳輦と呼ばれる)も巡行し、 今里自治会と子供会の二対の子供

神輿 (男神輿女 (花) 神輿) が町内を練り歩きます。

 今里自治会館に保管してある古文書にはこの神社の事がいろいろ記録

されています。

 平成4(1992)年に修復が行われ、その時「寶永二歳酉三月日 深草

瓦町 久右衛門」の刻銘がある、 瓦製の狛犬一対が見つかり、その歴史

的価値が認められ、 平成6 (1994) 年市指定文化財となりました。 同時

に、本殿とその覆屋も文化財指定されました。
 長岡京市の史跡を訪ねて」長岡京市ふるさとガイドの会 より



奈良豆比古神社の翁舞(県民だより 奈良 2022 9月号)

翁舞の起源

 翁舞の歴史は古く、奈良時代に春日王の病気を治すため、2人の皇子が舞を奉

納したことが始まりとされています。翁舞は猿楽(能)のルーツといわれており、春日

大社をはじめ、各地の祭礼行事で奉納されてきました。中でも奈良豆比古神社に

は特に古い形態が残っており、国の重要無形民俗文化財にも指定されています。

 また、神社には現在使用されているものを含め多数の能面や装束が伝えられ

ています。室町時代に作られたものもあり、翁舞での使用時を除き普段は奈良国

立博物館に保存されています。

 

古式ゆかしい伝統の舞

 翁舞は毎年10月8日の夜、秋祭り宵宮 (本祭の前日)で氏神である奈良豆比古神

社に奉納されます。9月2日に年齢と経験によって配役が決定します。小学3~6年
生が演じる千歳・青年が担う小鼓 三番叟(そう)、そして地謡・大 鼓・脇の翁を経て
60歳代太夫の翁を演じま 地謡のリーダーである地頭は太夫の経験者が演じる重要
な役で、笛は熟練者が担当します。また、輪番で選ば れる3軒の当家は翁舞には
出演せず、1年間の祭事の世話をします。

 9月22日から1週間は毎夜練習を行い、10月4日には神社の拝殿で「勢揃え」と呼

ばれる予行練習を行います。宵宮当日の20時ごろ、演者は神社の衣装部屋で着替え、

渡り床(橋掛かり)を通り、拝殿に着座します。笛と小鼓の音とともに太夫と地謡が

掛け合う前謡から舞が始まり、千歳が長寿を祝う千歳舞、太夫が天下泰平を祈願

する太夫舞、脇2人の翁が太夫の舞に加わる翁三人舞、千歳と三番叟が問答を行う

三番叟舞の順に1時間ほど演じられます。


後世につなぐため

 古くは「翁講」に所属する人々が翁舞を継承していましたが、少子高齢化の影

響で後継者が減少傾向になっています。

そこで平成15年に「翁舞保存会」を結成し、氏子から後継者を広く募っています。

また、従来は9月27日であった配役決定の時期を最近は4月中旬に早め、練習期

間を長く確保するなどの取り組みも行っています。


高穴穂宮(たかあなほのみや)地図

 
 高穴穂宮跡碑
日本書紀 景行天皇 
 五十八年の春二月の辛丑の朔辛亥(11日)に、近江国に幸して、志賀に居しますこと
三歳。 是を高穴穂宮と謂す。

 六十年の冬十一月の乙酉の朔辛卯(7日)に、天皇、高穴穂宮に崩りましぬ。
時に年一百六歳。

  幸して     いでまして
  居します    まします
  三歳      みとせ
  謂す      まうす
  崩りましぬ  かむあがりましぬ

 延喜兵部式に穴多駅がみえる。今、大津市穴太。

なお古事記には景行天皇の近江遷幸のことは見えず、次の成務天皇について
「坐近淡海之志賀高穴穂宮、治三天下也」とある 。

 崩御の年百六歳とすると、即位時四十七歳となり、立太子した垂仁三十七年
にはまだ生れていないことになる。一方、即位前日本書紀によって立太子の時
二 十一歳とすると即位時八十四歳、崩御の年百四十三歳となる。記に「御年壱
佰参拾漆歳」とあり、後代の年代記類にも諸説あり一定しない。

宮の跡
   
   
穴太(あのう)駅 地図 
   
近江神宮3.3km 東海自然歩道 日吉大社2.5km→ 



弓削の皇子への挽歌

 やすみしし わご大君(おおきみ)

 高光(たかひか)る  日の皇子

 ひさかたの  天(あま)つ宮に

 神(かむ)ながら  神(かみ)と座(いま)せば

 其(そこ)をしも  あやにかしこみ

 昼はも  日のことごと

 夜(よる)はも はも夜(よ)のことごと

 臥(ふ)し居嘆(ゐなげ)けど

 飽(あ)き足らぬかも

  置始東人 (おきそめのあづまひと) 巻二(二〇四番歌)

あまねき支配者のわが大君、高く輝

く日の御子、遥かな天の宮殿に神々し

く神としておいでになったので、そのこ

とを不思議なほど恐れ、昼は一日中、

夜は一夜中、身をふせ、座り、嘆くの

だが、心の満たされないことよ。

 

 この歌は、天武天皇の皇子のひとりである弓削皇子が亡くなった時

に、置始東人が詠んだ歌です。

「やすみししわご大君」とは天皇への讃美表現ですが、天武天皇の皇

子たちにも用いられました。

 弓削皇子は天武天皇と大江皇女との間に生まれた皇子で、大江皇
女は天智天皇の娘であることから、天智天皇の孫にもあたります。

 『懐風藻』には、持統天皇十(六九六)年に高市皇子が亡くなった際、
皇位を継ぐ人物を選定する場で弓削皇子が発言しようとして葛野王に
叱責されたとあります。このとき弓削皇子は、同母の兄である長皇子
を推薦しようとしたと考えられています。長皇子と弓削皇子は父母とも
に皇族であり、皇位を継承するに足る身分であったといえます。しかし、
天武天皇と持続天皇の子である草壁皇子の子・軽皇子が皇位を継ぐ
ことは、すでに内定していたといわれます。翌年には即位し、文武天皇
となりました。

 弓削皇子が亡くなったのは、文武天皇三(六九九)年のことでした。こ

の歌の作者である置始東人は生没年未詳ですが、同年の難波行幸に

も同行して歌を詠んでいます。
 県民だより奈良 2022-11月号 (本文 万葉文化館 井上さやか)


粟原寺跡(おお ばらでらあと・桜井市)地図

 弓削皇子の異母兄弟である草壁皇子を追善するために発願された

寺院で、持統天皇八(六九四)年には金堂と丈六の釈迦像が造られまし

た。談山神社所蔵の当寺院の三重の塔の伏鉢(国宝)には寺院創建の由

緒を記した銘文が彫られており、現在は奈良国立博物館に寄託されて

います。当地には礎石だけが残り、「粟原寺跡」として国の史跡に指定

されています。
 県民だより奈良 2022-11月号


国栖奏(くずそう)

国栖奏 (奈良県指定無形民俗文化財)

 旧暦の1月14日に浄見原神社で奉奏されている国柄奏。その歴史は古く、288年、
応神天皇吉野に行幸された時に、国栖人が歌舞を奏したのが始まりとされる。

 672年にも大友皇子の追っ手から大海人皇子を助け、腹赤の魚(ウグイ)、醴酒
(こざけ・一夜酒)、毛彌(もみ・アカカエル)などを献上し、国栖舞を奏した。天武天皇
は即位後、国栖舞を「翁の舞」と名付け、大嘗祭などで奉奏することを定めた。
 その後、平安末期の争乱で奉奏ができなくなると、国栖人は天武天皇をご祭神

とする浄見原神社を造営し、今日まで絶えず国栖奏を奉奏している。

 県民だより 奈良2022年11月号 吉野村産業観光課
川舟に隠れた皇子 山崎しげ子 県民だより 奈良2022年11月号

 四季折々、美しく彩られる吉野の山々と山裾を縫う清流、吉野川。今回は、その
吉野郡吉野町の国が舞台のお話。『国栖』で語られるハラハラドキドキの物語を
辿ってみたい。

 昔、昔、日本の主都が琵琶湖に近い近江大津宮にあった時代、時の天皇である
天智天皇が病床に伏し、皇位継承の話がささやかれた。天皇の本心は実子の
大友皇子に。それを察した天皇の弟で皇太子の大海人皇子は危険を感じ、吉野に
身を隠した。

 能『国栖』はここから始まる。

***

 釣り竿を持ち、川舟に乗って国栖に住む老夫婦が帰ってくる。と、わが家の上に
紫雲がたなびいている。 紫雲は高貴なしるし。不思議に思い家に入ると、何とそこ
には冠に直衣(のうし)姿の大海人皇子がおられた。

 実は、この皇子の役は、子方の少年が演じている。その可憐さに客席の緊張感
はにわかに和む。

 聞けば、皇子は二、三日、食事をされていないとか。夫婦は根芹(ねぜり)と国栖

魚(鮎) の焼物を差し上げた。

 皇子は二人を労い、鮎の片身をに与えた。それを翁が吉凶を占うため吉野川に
放つと、不思議や、鮎は生き返り、泳ぎ去った。皇子が天皇になる瑞兆だった。

 さて、舞台は一転、クライマックスへ。弓矢を持った敵方の追っ手が登場する。
翁は皇子を急ぎ、伏せた川舟の中に隠した。 そして気迫の応戦で追っ手を追い

払う。この場面は痛快。

 舟から救い出された皇子。少しぐったりしている。客席は、幼い子方が暗い舟の中
で耐えていた健気さにグッと胸を熱くする。皇子は、「都に帰った時は、この恩に報
いよう」と申され、老夫婦は感涙。

続いて、舞台はにわかに華やぐ。

天女が舞い、蔵王権現が出現、来るべき天皇の御代を寿ぎ終演となる。
***

 大海人皇子は吉野で挙兵、大友皇子軍との激戦(壬申の乱)に勝利し、天武天皇
として飛鳥浄御原宮で即位した。英明な天皇の、日本の新しい国造りはここから始
まる。

 今年は、その壬申の乱 (672年)から1350年の年でもある。