小山廃寺

 明日香村小山の古代寺院跡「小山廃寺」は天武天皇時代の官寺(国立寺

院)である大官大寺(高市大寺)だきだった、との説を森郁夫・帝塚山大教授

(帝塚山考古学研究所長)が近刊の東京国博物館研究誌『MUSEUM 』594号
に発表した。小山廃寺は1973年に発掘され、小字名が「キテラ」だったため、
古代豪族の紀氏の氏寺だったとの説が強いが、明確な裏付けはない。93年
紀寺跡として県指定史跡になっている。

 森所長は東京国立博物館が所蔵する小山廃寺出土の軒瓦20点を調べた。

このうち、直径18 . 7cmの軒丸瓦は鋸歯文(のこぎりの歯形の文様)と複弁
蓮華文(複弁のハスの花の文様)が施され、藤原宮跡から出土した軒丸瓦と
同じ型から作られていた。唐草文の軒平瓦3点も藤原宮跡のと同型だった。

 一方、小山廃寺からは雷文と呼ばれる文様を縁にめぐらせた7世紀後半

の軒瓦も出土。京都府南部の7世紀後半の複数の寺院跡からは、小山廃寺

系の雷文の軒瓦と、官寺である飛鳥の川原寺系の軒瓦が寺ごとに分かれて

出土しており、森所長は「小山廃寺は氏寺ではなく、大きな影響力を持った
官寺の可能性が高い」と主張していた。東京国立博物館の所蔵瓦は、小山
廃寺が藤原宮の製品を使える立場にあったことを物語っており、官寺の可能
性はいっそう高まったと指摘する。

 大官大寺は平城京に移って大安寺となる。奈良時代の大安寺資財帳(縁

起と財産目録)によると、最初の官寺だった舒明天皇発願の百済大寺(桜井
市の吉備池廃寺とされる)が673 (天武2)年に高市郡に移って高市大寺となり、
677(天武6)年に大官大寺(天武朝大官大寺)と号した。さらに7世紀末から
8世紀初めの文武朝時代に壮大な伽藍が整備されたという。

 一方、小山廃寺の南東約800mにある国史跡・大官大寺跡の発掘では、
文武朝時代の遺構しか見つからず、天武朝大官大寺がどこにあったのか
が問題になった。

 森所長が小山廃寺を天武朝大官大寺とする理由は、出土する軒瓦の年代

が7世紀後半で、川原寺や薬師寺など当時の他の官寺の瓦の様式とは異な

っているためだ。

 だが、小山廃寺の伽藍は中門から講堂にとりつく回廊の中に金堂がある

だけ。大官大寺は「おおきつかさのおおでら」と呼ばれ、文武朝大官大寺の
遺構は名前にふさわしい壮大な伽藍だった。小山廃寺は見劣りするため、
藤原京(694~710)の紀寺説も有力だ。

 森所長は 藤原京の紀寺とすると、雷文の瓦の年代が20年も古く、時代が
合わない。小山廃寺は大官大寺と呼ぶには確かに規模が小さいが、まさに
それが理由となって、文武朝に新たに大官大寺を建立したのではないか」と
述べている。2005-3-4  朝日新聞

 





鉄剣

 古代日本におけるこの鉄鋌の流通貨幣としての生命は、そう長くはなかったようである。 

 これらの鉄鋌や鉄片は、すでに五世紀以後、刀剣や甲冑につくり直され、さまざまな鉄製品に形を変えて

流通しはじめたからであった。

 『日本書紀』垂仁天皇紀を見ると、河内国に土師村(茅渟の莵砥川上)という村があって、その河内の土師
に命じて千口(ちふり・千本)の刀をつくらせたという記事がある。

 その刀を,石上の神の神庫(ほくら), つまり石上神宮の蔵にすべて収納したと書いてある。

 石上神宮は、もともと石に宿る神を神体とする神社であった。

  しかし、この石上神社は、物部氏という武技に秀でた名門氏族の氏神になり、剣を主祭神にした。そして

その剣を布都御霊剣とよんだ。

 『日本書紀』神武天皇紀によると、こんな由来がある。神武天皇の大軍が紀州へ向かったとき、熊野浦で
が流行して、
全軍が疲弊してしまった。

 そこに、熊野高倉下という人物があらわれた。

 彼は、神武天皇に次のように告げた。

 夢の中で「かつて天照大神建御雷神に命じて、出雲を合併するために大国主命のところに赴かせたこと

かある。

 その国譲りの談合のときに,建御雷神が携えて行った大切な剣をお前に授ける。この剣は布都御霊剣とい

って好運を開く大切な剣である。

 建御雷神は、この剣を土の上に突き刺して、大国主との国譲りの談判に成功したのである。

 こういう由緒ある剣を、授けるから、それをもって邪気をはらえ」という託宣があった。

 そこで庫を開くと、ひと振りの剣が、確かに底板に突き立っていたという。

 熊野高倉下から、その剣を奉じられた神武天皇の軍は、その後は元気をとりもどし、敵に当たっても連戦

連勝、やがて大和に入ることができた。

 これが古事記』『日本書紀』にも記されている布都御霊剣の由来である。

 後に、やがて物部氏は霊験あらたかなこの布都御霊剣を、自分たちの氏神様の御神体として、 石上神宮
に祀るようになったという。そのため、石上神宮は、武神的な性格をもつことになった。

 『日本書紀』の崇神天皇垂仁天皇景行天皇など各紀の記事を読むと、各地の神社の神宝(かんだから)
を入れてある神
庫(ほくら)を検校する、つまり検査して武器を調べるありさまがくりかえし書かれている。

 なぜ神社の倉庫を調べるのか。それは古い神社はたいてい武器庫をもっていたからである。

 ことに石上神宮は、日本の最大の武器庫であった。桓武天皇の平安遷都のとき、石上神社の神宝を油で
すっかり磨かせたという記録がある。
神宝は刀剣·甲冑,鏡などであるが、そのすべてを磨かせたうえ、それ
京都へ運ばせたという。

 それは、このような武器庫が大和にあっては、平安の王朝に,て危険だからである。ところが運びこんでみる
と、実際は、ほとんどが錆びていて使用不可能なものばかりであった。記録ではふたたび、石上神社
に返した
と記されている。

 またこのときに運搬した人足の数が、延べ数万人とも記されている事実から見ても、当時、石上神社に保

管されていた武器や鉄製品の数は、莫大なものであったことがよくわかる。

 五世紀以後の日本では、鉄鋌は別として、鉄製品は物と物を交換する場合の仲介物、すなわち貨幣的な
のとしてよりも、むしろ実用的な武器として使われる場合が増えてきた。

 しかもこのように、神社が武器を貯え、武器の奉納を受ける性格をもつのは、世界的にみてもきわめて珍

らしい。外国では神は平和の象徴であり、神に武器を奉納するという慣例はすくない。しかし日本では、武

器はかならずしも好戦的な攻撃用具としてよりも、呪術的な意味をもっていて、魔をはらい、鎮魂起神の霊

力をもつものとされていた。

 その呪物である武器を皇室が管理することは、祭祀権の統一、すなわち行政的な支配の成立を意味して
いた。これが各社の神宝検校が行なわれるもとになったと考えられる。

 三世紀以降、古代日本の鉄製品の製造は、河内国を中心にして伝えられている。河内国に千本の刀をつく
らせたとあり、朝鮮から日本に入ってきた鉄は、
主に河内国で製品に仕立てあげられたと考えられる。

 しかし、記録としてではなく、考古学上の資料としては、全国、とくに砂鉄や砂に近い状態の酸化鉄の産地付
近には、精錬用の踏韛(たたら)の跡があり、小型の炉が継続して使われていた証拠があるから、全国に鍛冶
集団
が分布していたことは否定できない。

 日本の古代刀剣は、俵国一氏の分析によると、五十五·六パーセントは岩鉄でつくられているという。したがっ
てマンガンを多く含んでいる。平安時代より後に山陽や山陰地方でつくられた、いわゆる備前刀は、
原材が砂鉄
でつくられているために分析しても、ほとんどマンガンを含んでいない。

 これまで多くの人が、日本の古代刀はすべて砂鉄でできていると述べていることは事実に反しているのである。

 その岩鉄の主要な精錬地として記録に残ったのが,河内国であった。

 仁徳天皇陵がある河内は、表面的には日本史の主要な舞台にならなかったようにみえる。しかし事実はその
反対であった。

 まず河内はなによりも、五世紀頃の国家統治の実際の行動力の象徴である武器、鉄製品の製造地であった。

つまり、鉄を背景にして歴史の大変動をひき起こした武器の生産地であった。応神、仁徳などの巨大な陵墓
ここに築かれたという歴史の背景に河内の鉄があったことを忘れるこ
とはできない。

 七世紀から八世紀にかけても、海運の中心は、長く瀬戸内海であった。朝鮮からやってくる船は瀬戸内海を通
り、
大阪湾に入る。

 そのため、その近くの河内には、船で鉄の原料である岩鉄製の原鉄が運ばれる立地条件が備わっていた。

 しかも、鉄の精錬や製造がさかんになるにつれて、大陸から渡来してそこに住みつく技術者も多くなっていく。
河内には、こうした製鉄技術
者が伝統的にたくさん住みつくようになった。 
 こうした多くの属技術者たちの上に君臨したのが、中臣氏である。
 

 現在河内の一番北に位置している旧中河内郡に東大阪市がある。 この東大阪市には,もと官幣大社であった
枚岡神社があり、御祭神に建御雷
神や、斎主神(いわいぬしのかみ・経津主神)を祀っている。 

 この神社は中臣氏の氏神で、中臣氏が常陸の国から河内の国に移ったときに,その奉仕してきた常陸の香取
下総の鹿島の神を移し、
祭ったのである。

 中臣氏は近在の鉄製造技術者たちの技術を背景にして、大きな勢力を築きあげた。やがて七世紀になると、
この中臣氏は大化改新を可能にする強大な力さえもつようになったと
推定できる。
  樋口清之 金銭 より




和同銭

 八世紀初めには日本でも銭がつくられた。いわゆる和同銭である。

 しかし、ここで注意しなければならないのは、銀銭、銅銭の鋳造が元明天皇の和銅年間以前に行なわれたらしい
という事実である。すでに、和銅元年(七〇八)より十年前の文武天皇二年(六九八)に
因幡、周防から銅が、伊予、
伊勢から錫が献上されているし、対馬では、従来の銀のほかにも精錬されて
いる。翌年には鋳銭司もおかれ、
文武天皇四年(七〇〇)には丹波からも錫がでている。

 従来の学者は、元明元年(七〇八)に武蔵国秩父郡から銅が発見され、それが日本の土地から初めて産出した
銅だから和銅といい、そのために年号もそのように改めたと ている。またその銅でつくられた貨幣だ
から、
「和同開珎」とよんだと主張している。

 しかし、これには問題がある。和同の言葉の意味は、等しく同じくなることである。和同開珎の文字初めから
金偏がなく、「和」と「同」である。「和同」という言葉は中国語の熟語であり、同一文化に同化す
ることを和同といい、
中国文化に同化する大同理想を示す言葉である。

 中国人には、和同になった社会が最も平和で理想の社会であるという社会観(それは政治理想であり、文化理
でもあった)が昔から根強くあった。
和同の完成したものを、大同と表現するくらいである。

 このため中国大陸には、大同という名の地名もある。こうした土地は漢民族に占領され、中国文化に同したからこ
そ、大同と名づけられたのである。

 和同という訁葉は、日本では広く等しくなるという集権国家の成立を意味している。したがって、天智天
大化改新を行なった後に、地方豪族が独立政権でなくなって、天皇中心の国家になったことが大化であ
ったように、
大化、大同,和同は共通に、日本では集権国家の理想を示す用語だった。そしてそのときの貨
幣が、和同銭であっ
たはずである。

 和同という銭文の由来は、本来、金属の銅とは関係なく起こり得るものであり、国産銅の発見(七〇八年)で慶雲
を改めて新年号を立てたのは「和銅」であって、「和同」ではなかった。しかも、それは先に述べたよ
うに日本最初の
銅の発見ではなかった。銅銭は、すでに日本では通用していたことは天武天皇十二年(六八三)
四月、銅銭を用い
銀銭を禁ずる詔が出て、その三日後にそれが解かれているので明らかである。このときの
銅銭はおそらく中国銭
だろう。

 しかし、『続日本紀』によると、まだ藤原京に都があった和銅元年一月、秩父から銅が発見され,同時に年号を和銅
にし、その二月鋳銭司(催鋳銭司)を置き、まず五月、
銀錢の和同開珎をつくり、八月銅銭の和同開珎をつくっている。
翌二年銀銭の私鋳を禁じ、
次いで銀銭を廃した、となっている。

 すると、銀銭のほうが先で、銭文が和同なのは、たまたま銅の発見という慶事と、銅のが同と音が通じるので,
「和同」としたのであって、銭文の和同は銅を意味して起こったものではないと考えられる。

  天智天皇の時代には、無文銭の銀銭が使われていたのではないかと思われる。たとえば、当時の近江国に
崇福寺という寺があった。それは天智天皇の近江の宮の南に建
立されたものである。

 その塔の遺跡を発掘したところ、塔の心礎の下に埋めてあるものの中から,無文の銀銭が数十枚も出てきた。
埋納物には、瑠璃の小壺に舎利
が入り、それを入れる銅、銀の器があって、当時の高い文化を示すが、いずれも
塔建立以前にまず心礎の下に入れられたものである。造塔後、
伽藍工事は進められるから、この銀銭はすくなくと
も崇福寺造営以前
ものである。

 さらに天皇崩御十六年目の、持統天皇元年(六八七)には崇福寺で天智 天皇供養の国忌斎が行なわれているから、
天智天皇のとき崇福寺がまだ
未完成であったと仮定しても、すくなくとも国忌斎には完成していたであろう。このこと
からも和銅より二十年以上前に無文銀銭が使われたこ
とは疑いの余地がない。

 元明天皇の和銅元年(七〇八)の銀銭和同鋳造は、天武十二年(六八三)に銀銭使用は禁じられていたものの、
この従来の慣例を引きついだものと考えられる。このように天智天皇以来、和銅以前の銀銭は、ほとん
どが無文銀銭
であつた。

 元明天皇の頃になると、文字の書いてある銀銭の和同銭がつくられるようになった。そして元明天皇は、同じ和同
という言葉を使った銅貨もつくった。

 日本の貨幣の歴史の上で、元明天皇の和同銭の鋳造は、画期的なことであった。

 しかし歴史の現実は、和同銭に対しても、きわめてきびしかった。和同銭はつくられたが、政府の思惑どおりには
決して通用しなかった。

 その上、翌年には、たちまち私鋳銭が出現するのである。伊賀の国では和同銭を偽造した者が発見されている。

 一般的にいって、貨幣は、少しでも含有する金質をおとして、多くつくれば非常に利益のあがるものである。
そのため、貨幣は発行されるや、すぐさまその偽物があらわれる。見方を変えれば、古代貨幣の歴史は
支配者の
鋳銭と被支配者の私鋳銭との戦いの歴史ともいえる。

 元明天皇の和同元年(七〇八)に貨幣が鋳造されると、翌年の和同二年一月二十五日には、早々と私鋳銭取締りの
詔が出された。
 「ごのごろ奸盗利(かんとう)を追い、私に濫(みだ)りに鋳(い)ることを作して、公銭を紛乱す。今より以後老私(ひそか)
に銀銭を營者は、其の身は官に没し、財は告人に入る。濫に利を逐うことを行う者は、加仗二百、加役は徒に当てん。」

 当時は現物交換の色濃い時代の直後であるのと、中央政府の威令がかならずしも徹底していないので,正貨の流通が、
スムーズにいかなかったことを、よくもの語っている。と同時に、鋳銭司が長門、山城、近江など各地に置かれているので、
各工房ごとに同一質のものができな
かったことも、鋳造後七年(七一四)にして撰剺禁令がでるもとになった。

 政府はこの貨幣流通の停滞を破るために、和銅四年(七一一)に蓄銭叙位令と称して、金銭を貯えたものに位階を授
ける政令をだしたり、納税に金銭を用いることを奨励したりした。
 本来、税は租·庸·調の三税である。庸は労役であるが、貨幣での支払いを許可した。これを徭銭といった。また、調は
調布という布で納めるかわりに、調銭で納められるようにもした。

 しかし、租だけは相変わらず現物の米で納めなければならなかった。

 このように税を貨幣で代納できるようにすることによって、和同銭の流通を極力はかったのであったが、実情は遅々
としたものだった。

 それでも長い努力の結果、ようやく和同銭の流通は相当広い範囲に主で及ぶようになった。その証しとして、奈良時代
の地方の国府からも和同銭が多く出土している。
  樋口清之 金銭 より





大仏に食われた和同銭

 和同元年(七〇八)、和同銭が鋳造されてから、日本では、五十二年後の淳仁天皇の天平宝
字四年(七六〇)に金銭の開基勝宝、銀銭の大平元宝、銅銭の万年通宝が鋳造されるまで新
しい
銭はつくられなかった。この半世紀に余る空白はどうして起こったのだろうか。

 それは、聖武天皇の有名な大仏鋳造の事業がその間にあったからだと考えなければならない。

 天平十二年(七四〇)、藤原広嗣が乱をおこすと,聖武天皇はノイローゼになった。伊賀行幸や
恭仁遷都
計画され、奈良の都を離れようとさえした。

 そのときに、国民の精神的な拠りどころとして、天皇の絶対権の象徴でもある五丈三尺五寸の
大盧舎那仏
をつくろうと企てた。今の滋賀県、信楽(紫香楽)に、大仏の骨組みの立柱式をあげた。
天平十六年十一月十
三日のことである。聖武天皇は、その前年に、全国に金属回収令を発布
している。

 やがて、日本全国から和同銭が大量に都に集められ、鋳直されて大仏の原料になったと思わ
れる。このため日本の経済は、貨幣経済へ一歩足を踏み入れたとたん、三十五年目にして、
その貨幣は大仏鋳造
のために、ふたたび大きく後退させられるのである。 
 後に、徳川家康は豊臣秀頼に、豊臣家の経済力を凝集させる狙いで、京都の方広寺六丈三尺
の銅像を再興させた。

 聖武天皇の大仏鋳造はそれより約九百年前である。政府管理の通貨を非流通の物品に凝集
させて、政府の経済的破綻を招いた。このことからすると、この天皇の偉業の陰にも、
一抹の謀略
の疑いがないでもない
が、これは今日まだ実証することができない。

 ただ、大仏鋳造の大事業がひたすら民衆を疲弊させる一種の暴挙に近いものであることは否定
できなぃ。

 果たしてその結果は奈良時代経済の混乱と国内不安を生んでいった。

 奈良時代から平安時代にかけて、当時の政府は、この自己矛盾におちいりながらも、つぎつぎに
新しく悪い貨幣をつくり変えて、十二種類にも及ぶ通貨をつくっていくのである。貨幣の発行者は政府
である。したがって、権力を背景にすれば、いくらでも貨幣を鋳造す
ることができた。しかし、そのた
めに起こる経済的な破綻は、目にみえて増えていった。

 日本では、貨幣を政府自身がつくるのは、この時代とずっと後の明治時代のことである。これは、
日本の貨幣発行の歴史できわだった特色である。

 豊臣秀吉以後は、いわゆる金座·銀座·銭座という商人の同業組合が、請負い事業として貨幣をつくり、
政府はそれを管理するだけで、みずからは貨幣をつくらなかった。

 これに対し、奈良時代以降の皇朝十二銭は、すべて政府がつくり、発行したものである。これは中国
にならったものであるが、
政府が通貨を鋳造するのだから、政府自身が金質を下げようと思えば、
いくらでも粗
悪な貨幣をつくることができた。

 金質を下げれば下げるほど、利益が生まれる。しかし貨幣価値が下がるので、それにつれて物価
は上って
しまう。

 奈良朝政府のこのような安易な貨幣政策は、やがて政府自身にそのはねかえりがあらわれた。

 単にインフレを起こすだけではなく、その経済的威信をはなはだしく傷つけ、自らの評価を下げる
結果と
なっていった。

    樋口清之 金銭 より






桓武天皇の行政改革

 この経済混乱をなんとかしようというのが桓武天皇の試みであった。桓武天皇は平安京に遷都したが、
宮殿の建設工事がその半ばにきたとき、
経済的な理由で宮殿の造営停止令を出した。

 民衆の労苦を救うという美挙や,人心の動揺をおそれてやらなかったということではなく、平安京は、
済的にこれ以上の造営が不可能となったのである。

 平安京は未完成の都で、ただその理想のプランが残っただけなのである。

 桓武天皇は、平安京に遷都の二年後(七九六年)に隆平永宝を鋳造し、その二年後(延暦十七年、
七九八年)
には蓄銭禁止令を出している。蓄銭によって貨幣流通の滞るのを防ごうとする苦肉の策である。
天皇は徹底
的に経済の立て直しを計って、努力を重ねていた。それは即位の直後に、政令の中で
「簡易の化」を宣言し
ていることでもその基本方針は明らかである。これは節約を旨とした、安上りの政府
の創設である。消費を節約して何とか収入を増やそうと、
いろいろな制度な検討するのである。

 地方長官を四年に一回交替させ、賄賂をとらないようにさせたり、内外の文武の官僚について定員以外の

者を辞めさせたりもした。また造営・勅旨の二省、法花(ほけ)・鋳銭の両司を廃止してしまった。
造宮省までも廃
止させたのであるから、財政立直しの前に宮殿の完成などは念頭になかったのであろう。

 桓武天皇は即位した翌年には、戸籍をつくらせ、浮浪人狩りを徹底させ、脱税を防ごうと努力した。
続いて国司に田籍もつくらせている。こ
れらの貧困克服の作業は、そのあとすぐに実施された班田収授令
の前提
として、律令国家としての諸機能を新しく復興させようとした意図から出ていた。

 それは、先に述べた経済上の混乱により、天皇を頂点とした古代的な支配が、ゆさぶられてしょった
現状からなんとか脱却して、豊かな国力
の復活を強く望んでいたからであった。

 桓武天皇は、政治の基本についての改革策を積極的につぎつぎにうちだして、とどまることがなかった。
調·庸の粗悪なことや納入期の違反
や未納に関しては、前後のどの政府よりも厳格であった。

 しかし、その政策に対する反発も、また激しかったのである。重い税からのがれるために、有力者に
頼ったり、また名目的に自分の土地を寺
社に寄進して、その保護を受ける者が続出した。

 当時の有力者とは金持ちではなく、物持ちだったので、有力者はますます力が強くなって、かえって中央
の権力を脅かす強い存在に変わっていった。
   樋口清之 金銭 より





太閤分銅金の知恵

 秀吉の銭感覚がいかにすぐれていたかを証明するものに、太閤の分銅金がある。

 これは通貨にならない一万両判である。分銅型に固められた備蓄用のもので、一つだけは今でも日本銀行
に現存している。

 秀吉が死んだときは千六百個あったというが,その中の一つだけが残ったのである。この分銅金をつぶすと、
一両判が一万枚とれた。

 ほぼ一両を基準にして、その一万倍を金塊に固めたものである。これは重くて盗難に遭うこともすくなく、
必要なときには、ただちに貨幣に変えることができたのである。
 もっとも金貨は、どのような場合でも純金ではない。純金だと曲がりやすく、通貨に適しないので合金で
なけれ
ばならなかった。
 この分銅金も、すべて合金でつくられていた。だがそれを坩堝(るつぼ)に溶かして、鋳出せば金に戻るのだから、
すぐ貨幣ができる。秀吉は、経済変動に備えて、

貨幣の予備材をもっていたのである。

 秀吉が、天正年間に奈良を視察したとき、松永久秀(弾正)に焼失させられた東大寺をみた。大仏は本体がなく、
台座が残っているだけの姿であった。

 彼は奈良の大仏以上のものを京都に建立しようと考えた。奈良の大仏は五丈三尺五寸であるが、秀吉は六丈三尺
方広寺大仏を建立するのである。

 聖武天皇は、奈良の大仏をつくるときに、ただ大きければ権威が生まれるものとして、大仏の寸法を決めたのでは
なかった。『大日経』(真言密教の根本経典)の中に書いてある寸法によってつくろうとしたのである。

 五丈三尺五寸という寸法が盧舎那仏の寸法なので、そのとおりにしたのである。

 しかし秀吉は、この事実を知らなかった。ただ、奈良時代の大仏よりも大きいものをといった。子供のような単純な
理由だけで六丈三尺の大
仏をつくったのである。しかも、秀吉の大仏は阿弥陀如来であった。

 ところが、そのような大きいものは、金属だけではとても建立できない。そこで基体を木でつくるのである。そのとき秀吉
は、この大仏建立を刀狩りのうまい口実に利用する。刀狩りをやりたいから、町人、
百姓はその刀を出せ、とは決して命
じない。

 死後極楽浄土にゆきたい者は刀を差し出すように、その刀は大仏建立のための尊い釘になって、大仏の体内に入ると
いうのである。
そういって刀狩りのうまい口実にした。

 しかし,なにしろ刀の釘でとめた寄せ木づくりの仏像なので、基底の動揺にはとても弱かった。慶長元年(一五九六)の地震
で、仏像は大仏殿とともに崩壊してしまった。

 秀吉は、地震でこわれた大仏を復興できず、二年後には彼自身も死んでしまうのである。

 家康は秀頼に、大仏殿復興の計画をすすめた。そのとき、今度は壊れないように、奈良と同じ銅の大仏建立を熱心
にすすめるのである。すべては、
豊臣家の財政を疲弊させるように企んだ家康の遠謀であった。

 秀頼は秀吉の集めた大量の金を相続しているので、その金を使って中国から銅を大量に買い入れることにした。

 大仏建立のために厖大な量の銅が、中国から日本に運ばれてきた。その銅を運ぶために河川工事が必要になるほど
であった。

 秀頼は加茂川のそばに角倉了以に命じて運河をつくらせた。これが高瀬川で、当時の大仏建築用材を運搬するための川で
ある。

 加茂川とは別に専用運河をつくったくらいであるから、大仏建築にかかった費用のすべては、おそらくはたいへんなもの
だっただろう。

 そこが、また家康のつけ目だった。豊臣家の経済力を大仏に固定して、必要なときまでプールさせ、必要が起これば一挙
に消費してしまおうとしたのである。

 しかも、できた鐘に、その銘の「国家安康、君臣豊楽」は、豊臣家が徳川家を呪う呪文で天下に災いをもたらすものであると、
新たな難癖をつけたのであった。

 やがて、この言いがかりは、豊臣家をつぶす口実に使われていくのである。

  元和元年(一六一五)五月、大坂夏の陣で豊臣家は負け、滅亡する。すべては徳川の治世になった。

 しかし徳川の時代になっても、徳川幕府の治世者たちは、すぐにはこの大仏の銅に手をつけない。
 德川三代将軍家光は寛永十二年(一六三五)に諸侯に対して参勤交代制を命じた。その翌年に寛通宝をつく
った。
 徳川幕府の力が最も充実した時である。そして島原の乱(一六三七~一六三八年)が寛永十五年に終わるこ
の乱の直前に、
徳川幕府は大仏をつぶして、その銅を切断して,すべて江戸へ運んできたのである。
 この銅を利用して、昔の永楽通宝とほぼ同じものをつくったのが、寛永通宝である。銭座は当時、まだ伏見にあったが、
それも江戸に引っ越しをさせた。

 江戸時代に、金をたくさん貯えこそしなかったが、金を使わせることがうまかった人々に

家康に仕えた天海僧正や金地院崇伝(以心崇伝)などの僧侶がいる。

 上野の寛永寺を創建した南光坊天海という江戸初期の天台宗の僧侶は,金を仇敵だと思っているようなふしがある。

土地を大名から取り上げることはできないから、金を何とかして取り上げようとするのである。
 二代将軍、秀忠のとき、各大名に金を出させて、家康を久能山から日光山に改葬する名目で東照宮をつくらせる。

これなど も天海僧正の策謀でである。大名たちに金を多く使わせて、彼らの持ち金を少しでもすくなくさせようとした。
 また、夫役として各地の土木工事を大名に請負わせ、人夫たちへの支払いを金や貨幣で行なう。その結果、諸大名たちは、

土地は所有しているが、手もとの現金はすくなくなってしよった。

 表向きは江戸幕府の政策にみえるが、そのきっかけをつくったのは天海であった。そのためか世間の人々は、天海は理財
に明るい明智光秀の化身だと噂したほどであった。光秀の最期を見届けた者がいないこと
も、この噂のもとだった。

 
   樋口清之 金銭 より




金 お金 手形

  ・の加工技術は、薄くして張るだけなら、きわめてたやすい。しかし、鍍金はむずかしい技術である。当時の日本人は,金
の消費がすくなくすみ、しかも広い
面積に使える鍍金技術を大陸から学んだ。鍍金技術はすでに漢の頃、中国では盛んに
精巧な鏡や武器ができ
ている。この技術は相当困難なものだがこれを日本人 は修得していた。

 鍍金(めっき)は、なによりもまず金箔をつくらなければならない。金は直接粉末にならないので,金を延ばして箔をつくる。
それを無数に刻んだものが金粉である。

 その金粉を水銀の中に混ぜて、金と水銀の化合物をつくり、それを銅の上に塗り、熱を加えて、水銀を蒸発させると金が銅
に被膜をつくる。これが鍍金である。

 日本にこの焼付け鍍金技術がたいへん発達したのは、日本人が器用であっただけではなく、金が貴重品で日本にはすくな
かった証明かもしれない。

 貴重ですくない金を、いかに経済的に使うかというところから発達した技術が、鍍金の技術である。

 『阿弥陀経』をみると、のことは書いてないが、仏の世界は黄金だという。仏自身が黄金の体であって、口まで金口(きんく)
といって、
金色の口をしておられたという。

 そこで阿弥陀如来像は、金箔を塗ったり、金鍍金をするのである。

 さらには建物の中にまで、あるいは厨子の中にも金箔を張るが、これも阿弥陀信仰によるものである。

 日本に出土する金属加工物の中には、中国や朝鮮で産出した金が数多く用いられている。たとえば、埼玉県行田市の
稲荷山古墳から出土して話題になった鉄剣の象限の金には、朝鮮の金が用いられている。

 日本で使用された武器や実用品類は、弥生時代は別として、すべて鉄が主体であった。銅は貨幣の鋳造とか、一部の日常
の食器以外には、
ほとんど使用されなかった。

 火にかける食器は、銅が熱に弱いので、すべて鉄でつくられていた。銅鍋ゃ銅釜はほとんどなく、すべて鉄鍋や鉄釜である。

 このような日本の生活様式から、当然、銅は産出しても生産過剰になる。その上、仏像や皇朝十二銭の鋳造が終わってからは、
造仏や鋳貨のための銅の需要もほとんどなくなり、だぶついた銅の輸出先を、もっぱ
ら中国に求めたのである。

 日本でお金が重要になりはじめるのは、鎌倉時代以後のことである。この頃になってくると、貨幣がたいへん重い意味をもって
くるのである。

 鎌倉時代の武士、青砥藤綱(あおとふじつな)の逸話に、銭十文を滑川に落して、それを拾い集めるのに五十文も人に使った
という話が出てくるが、真偽は不明としても、この話はそれほどお金が大切だという教訓であり、ようやく
お金が使用されはじめた
事実を示している。

 しかも、
この時代のこれらの貨幣も、まだ貿易による輸入銭であった。いわゆる宋銭とよばれる宋のお金である。

 ・室町幕府三代将軍の足利義満が集めた金の出所も、いうまでもなく貿易である。初代将の足利尊氏も、天竜寺船を建造して
貿易をし、その利益で京都、嵯峨の天竜寺をつくった。
 興福寺船、妙楽寺船(多武峯)と、奈良の寺院から寺の名前を借りた貿易船も多く活躍した。

 これはお寺の名義をつけて、寺の経営のためだという名目をつけると、出航が許され、しかも、税金が免除されるからである。
船は堺から出航した。

 日本からの輸出品目は、相変わらず高価でない織物や漆器、刀剣、扇であった。中国からは、金と銅貨と薬品,その他いろいろ
な高級な織物、文房具、陶器,美術品を買って帰った。そのときに大量の金が日本に
輸入されている。金閣寺に使用された金も、
この輸入品の金ではないだろうか。

 中国は中華思想の国である。少し品物を買って信用されると、金をくれたのである。中国貿易ではヘりくだって、いつも臣下の礼
さえとっていれば、最高の商品を渡してくれたといわれている。このことを証明す
る公文書も残っている。

 ・京都の公家の家の中は、ほとんど唐紙で仕切られていた。唐紙というのは、本来、中国から輸入した紙のことをいうのであるが、
この頃になると、箔押し模様のある紙をとくに唐紙というようになった。

 日本の貴族は、金が好きであった。この金愛好癖を徹底的に装飾に生かしたのが、足利義満の金閣寺である。

 足利義満は、藤原道長の法成寺(京都御所の東側に跡がある)の話を聞いているし、彼も得度して僧侶になっていたので、

阿弥陀の宝殿に自分が入るつもりで黄金の建物をつくったと考えられる。

 しかし、この金閣寺は一階は禅建築で、金を張った二階,三階は浄土教建築である。

 金を利用した建築で、現在その様式を伝えているのは今の再建された金閣寺だけであるが,当時はこれと同じものが各地に数多
く建設されていた。

 千葉県にも、戦前主では黄金張りの御堂が残っていたように、地方にも散在していたらしい。

 当時の浄土教寺院の仏殿はすべて金ずくめであることが原則だったらしい。

 その影響が、今に残って、浄土真宗の仏壇は全部金箔が張られている。

 ・普通,お金という言葉には、金属貨幣と、紙幣(古くは土符、板符などもあった)が含まれている。

 江戸時代には両替問屋(為替問屋) 、飛脚問屋が発行する切手や手形などの証文も、あった。

 これは資金にも抵当にもなり、通貨に近い扱いを受けた。

 手形には、証文の最後尾に自分の名前を署名するが,そのとき、名前のそばに自分の左の人差し指を紙の上において、筆で指の
長さを線で書き、
それに関節を示す点を打つ。

 つまり、自分の肉体の一部である指の寸法を写し、指関節の距離を仕切る。

 昔はこの指の長さと関節の距離は各人みな異ると思われていたので、今の指紋と同じく、当人の印となった。

 これを書いた証文が切手証文で、これを手形ということになった。画指法と切手は同意語である。

 このようにした古い証文類は、今でも数多く残っている。約束切手、小切手、郵便切手などの切手の語源も、みな画指のある証文
という意味だった。

 ・打出の小槌で金が出る話が、日本の昔話にある。ところが、この打出の小槌からは、金銀が出る前に、まず米が出る。米が出て、
それから隠れ蓑がでて、いろんな宝物が出
て、最後にようやく金銀が出るのである。

 これを見ても、江戸初期の日本人の意識ですら、まだ金や銀が宝物の第一位ではないことがわかる。

 金銀の意識が今のように大切な財宝となるのは江戸の中期、それも元禄になってからのことではないだろらか。

 それ以前の金銀の伝説や、それにまつわる説話は、『竹取物語』にもなかったように、『古今著聞集』や『今昔物語り集』を調べても、
一つもない。

 もしも日本に金があったり、日本人が金に何ものにもかえがたくあこがれていたとすれば、当然、これらの説話集に姿をあらわすは
ずである。

 ・こうした中国の話を、日本人自身は昔から信じてはいなかった。またこのように日本に金があるとも、決して思っていないのである。

 神功皇后の託宣に「たくぶすま新羅の国は黄金白銀花咲く国」とある。古代日本人は、初めから金銀は朝鮮にあるという、強いあこ
がれをもっていた。

 このように、日本には金銀がないということを、神功皇后ははっきりと歌っていたし、多くの古代日本人は日本の国を蓬莱島とも思って
いないし、金銀島ともよんではいない。

・ところで、賽銭を上げるという日本人の発想も、おもしろい。現金を奉納する習慣は、仏教圏には広く行なわれているが、日本の賽銭
もその影響だと考えられる。

 中国人は賽銭をあげても、楮銭(ちょせん)といって、紙でつくったお金型の模型をあげる。

 お盆のときでも、中国では紙にお金を印刷したものを焼くし、墓にも死者のため楮銭を入れた。

 日本では、現金を賽銭として神仏にあげる。

 賽銭の賽というは、奉納という意味で、神仏にお礼や祈りのために奉納することである。このことは見方によると、神や仏のめぐみを
金ですべて計算していくということにもなる。
 日本人のお金についての意識の変化の歴史で特徴的なものをみると、お金に対する精神的な意識が、きわめて低いことがあげられる。

 儒教の立場から、お金を不浄物と考え、金銭な非常に卑しめる風潮があった。それは、土地経済による封建制のもとでは、支配階級の
資力は土地、貨幣は町人階層の資力だったという、階級意識の産物から生まれたのかもしれない。

 しかし,神仏という儒教とはったく関係ない場では、公然と自かの誠意を表現するバロメーターとして、ものにかわる金銭を盛んに奉納
する。

 建て前としては、社会構造の性格上、土地を第一経済物件としながらも、江戸時代以後、実質的には貨幣経済が成長して、貨幣のほう
が力を増してきたことと、貨幣の便利さによって、賽銭習慣が何の抵抗もなく行なわれていたといえる。

 賽銭の実現は、貨幣経済成長の証しだったのである。



     樋口清之 金銭 より




藩札

 藩札の中では、赤穂藩の札が最も信用があった。これは藩札をほとんど回収したからである。赤穂藩がつぶされる直前に、
江戸明石町の下
屋敷では江戸に出ている藩札のすべての銀札を回収してに換えた。
 次に、京都や大阪や堺や赤穂で藩札を回収したので、最後には二枚しか藩札が残らなかった。やがて主家
が断絶して、
榊原采女が赤穂城を受け取りに行くと、現は七十両未満しかなかったのである。
 大石内蔵助は利口な家老である。どうせ幕府にとられるくらいならと早くから覚悟を決めて、藩の負債に

なる藩札を町人にすべて銀と引き換えにして回収した。そのためにも、大石たちは後に義士として好評だったのである。

 豊かな赤穂藩に、現金がどうしてそんなにすくなかったかというと、それは藩札を現銀ですべて回収してしまったからである。

 幕府はそのような事情を知らずに,現金を回収できると思って榊原を行かせたのだが、藩の金はそれ以前に出てしまって
いた。

 しかも赤穂藩は、時の将軍、綱吉が犬好きだというので、犬を大事にして、赤穂城内に犬の特別の小屋までつくって犬の
台帳も完備していた。榊原采女が、犬を大事にしているそのありさまを見て、それを綱吉に
報告すると、綱吉は、何とか赤穂藩
を助けようと思いはじめるのである。

 城受け取りの目当ての現金こそ幕府の手に入らなかったが、犬を大事にしていたことから好意を抱き、大石たちが討入りを
果たした後も、その命だけは助けてやりたいと綱吉は思って、輪王寺宮を動かして助命運
動をしようとしているほどである。

 それを柳沢吉保や荻生徂徠などが、大石たちは秩序を損う罪を犯しており、彼らの義を生かすためにも、当然切腹させる
べきだと盛んに主張したので、とうとう切腹させられることになったのである。このために、
柳沢吉保と荻生徂徠は江戸の庶民
にたいへん嫌われてしぼった。

     樋口清之 金銭 より




忠義も恩賞次第

 武士も領土をたくさんもらえるとわかっていれば、一生懸命に忠義を尽くすのであった。

もらえないとわかると、たちまちに背く。
 後醍醐天皇が、その志を達することができずに敗北してしまうのも、もっている土地を足利尊氏などにやってしまったから
である。
 たとえ天皇でも、もうもらえるものがないとわかったら、だれも後醍醐天皇に寄りつかない。楠木正成など一部の者だけが、
つき従っただけである。
 しかし、これも楠木正成の支配していた摂津·河内·和泉などが後醍醐天皇の領内であり、そこで自分の所領の主君である
天皇に従っていただけの話である。

 もし、摂津·河内·和泉が後醍醐天皇領でなかったとしたら、楠木正成も南朝に忠義を尽くさなかったかもしれない。

 武士は所領の主に対して忠義を尽くしたのである。大義名分などというものは、江戸時代後期に儒学者の

頼山陽などがつくったものである。この当時には大義名分の意識など一般にはなかった場合のほうが多い。
   樋口清之 金銭 より






浮浪者の餓死

  ひとたび飢饉でもあって、都市の食糧が乏しくなると、たちまち無数

の浮浪者がその被害者として、無惨なその死体を道端にさらすことにな

ってしまう。

 奈良時代の平城京にも、同じような飢饉があり、地方から税をもって

きた奴婢たちが、帰りに食糧がなくて数多く飢え死にしている。その死

体がごろごろころがっているありさまを、柿本人麻呂が歌に詠んでいる。

ほどだから、都市の住民は悲惨な状態だった。

 たとえば、平安京にしても、飢饉で死者が路傍に満ちたと記録に残っ

ている。

 平安京には浮浪者がたくさん集まり、飢饉が起こると、かならずみな

路傍に死者となってころがるのである。京都の千本通りというところ

は、いつも死者がごろごろし、それを供養する板塔婆が千本も立ってい

たから、千本通りとよばれたという中村直勝氏の説さえある。
   樋口清之 金銭 より
 







応仁の乱

 日野大納言家に生まれたたいへんなインテリ女性であった。結婚した晩か

ら、夫の義政が無学で教養が低いと知って、馬鹿にしていたという怖い女房であった。

 そのため、義政は家がおもしろくないので、側室を二十数人もおいて乱行三昧で日をすごす。その果てに

妾腹にできた子供の出産費用がなく、将軍のくせに鎧を質屋にもち込んだりしている。

 義政は、将軍職に嫌気がさしていたので、出家していた弟の義視を還俗させて将軍の跡目にすえ、自分は

隠居しようと考えた。

 この義政、富子夫妻の共通の悩みは、跡継ぎがいないことであった。子供は、女の子一人だけしかいなか
ったのである。

 ところが、妻の富子に男の子が生まれた。義尚である。今度は富子のほうが義尚を将軍にすえようと力を
尽くした。そのため、将軍の跡目相続の内紛はやがて、全国を巻き込む応仁の乱(一四六七~一四七七年)

まで発展するのである。

 応仁の乱は延々と続いた。この長期の戦乱の中で、富子の生活力への執念がすさまじい力でくりひろげら
れる。
 まず、関所をつくって関税をとり、そのを一人占めにした。関所は、おもに木津川の周辺につくられた。

 次には米を買い占めて、相場をつりあげて売り、巨額な金を儲けた。

 またこの時期は、戦乱で家を焼かれた浮浪者や、没落した公家、武士などの間に、中国から伝わった樗蒲
(ちょぼ)一
とよばれる博打が流行した。

 富子はそれを見逃さず、そんな連中相手に高利で元手を貸しつけた。高利貸まがいのことまでして金を儲
たのである。

 富子には、戦争を利用してもうける死の商人のおもかげさえあった。いわゆる売官という、位階を金で買える
ようにしたのも富子である。富子は、
金銭で位階を売った最初の人ともいえる。

 富子のこのような行為は、時代がようやく貨幣経済の入口に立ったという証拠でもあった。

 富子は、じつに奔放な女性であった。後土御門天皇との浮名の噂など、真偽は別として数えあげればきりが
ないほど、勝手気儘な振舞いに満ちている。
 日野富子は、
よくいえば近代的な女といえる。今の女性にも、この富子に似ている女が多い。義政にすすめて
明に銅銭を求めさせたりするが、見方によれば、利殖についても、さとい時代の先駆者で、万事金銭の
力にす
がって、
封建社会の殻を破ろうとした女だったともいうことができる。
 応仁の乱で、
山名宗全が南朝天皇の子孫と称する小倉宮の王子を奉じて西に陣どる。それに対して細川勝元、
赤松政則が東陣をはり、後土御門天皇を代表にして戦う。
 日野富子は義視を排して自分の子を将軍にしようと山名宗全側につくが、やがて山名宗全は病気で死んでし
まった。戦さが長びき、両方ともにくたびれ果て、双方とも戦さに益なしと思いたって、戦いをやめてしまった。

 富子にとってさいわいしたことは、足利将軍家がまだ残っていたことである。その後彼女は、義尚が九歳で運
よく将軍職につくことができ,その六年後には明から銅銭を贈られた。しかし、すでに昔日の面影はな
かった。
一方、義政は、義尚十九歳のとき東山山荘(銀閣寺)に入って、茶の湯三昧にふけり、義尚が二十
五歳で死ぬと、
翌年五十六歳で自分も死んだ。

 富子はさらに六年も生きて五十七歳で死んだが(明応五年、一四九六年)、その晩年は戦乱の中で、一路衰微

の道をたどる斜陽の足利家を支えて寂しく死んでいったのである。
 富子は土地よりも、
もっぱら金銭をもとうとしたのだから、この時代のあり方よりもすこし前に進みすぎていた。
 この点では富子は後醍醐天皇と同じである。
後醍醐天皇も乾坤通宝をつくろうと、土地経済を放棄して、自分
の大覚寺統の土地を武士たちに与えた。そして自
分は貨幣を鋳造して,金の所有者になろうとするのである。

 経済理論としては正しくとも,金銭が通用しない足利時代以前に貨幣をもっていても、権力の座にすわれないし、
武士団も土地のない主人のところには集まらない。時代に先がけて、貨幣をあえて集め、それを使う政策を考え
だしたのだから、後醍醐天皇は理想主義で失敗した経済家といえなくもない。

 後醍醐天皇が京都から大和へ行った理由も、大和の吉野の蔵王堂が熊野水軍は中国との貿易を行なって金
をもっていたから、吉野に行けば、熊野水軍のお金の力が手に入ると思ったのである。
 後醍醐天皇は確かに金を手に入れたが、物や土地の保証のない金だけでは誰も物を売ってくれないのである。
物と交換できない貨幣など、単なる地金にすぎないのである。
 南朝失脚の原因の一つは、交換できない貨幣に執着したことである。後醍醐天皇が、土地経済の次は貨幣経
済だ、と予想したのは正しかったが、その予測は三百年以上も早く、彼は自分の予測に敗れ去ったといえるので
ある。
   樋口清之 金銭 より





石上布留よもやま話

 神社は全国に約8万社で、奈良県内には約1300社ある。天理·旧山辺郡内に約130社あって、うち46社を石上神宮が兼務している。

 石上神宮については、記紀·万葉集·古語拾遺などに多く語られている。そのひとつ「物部氏」について、102氏族をもち巨大で武門
の棟梁として天皇家の祭祀を携わ
る一族であって、その総氏神として崇神天皇7年に石上布留の高庭に祀られたのが石上神宮で
ある。

 「布留」について、『日本書紀』には、明天皇は工事を好み水工に命じて渠を掘らせた。その渠は香久山西から石上山まであり、
舟200艘で石上山の石を積み、流れに
沿って運び宮殿の石垣を作った。これを揶揄して「狂心(たぶれごころ)の渠」と言われたとある。
世には、布留川を挟み南北二郷からなる布留郷が54カ村から成り立っており、その信仰·文化・生活圏の中心に布留社があった。
また、世阿弥の能「布留」は、九州彦
山の山伏が諸国巡礼の途次に石上明神に立ち寄り、傍らを流れる川で布を洗う女に尋ねると、
ご神体の剱の由緒と布留川にまつ
わる鎮座伝説を聞かせる。山伏の夢中に女が神の姿で剱を捧げて現れ、舞を舞い大蛇退治の
有様を再現するという夢幻能である。

 石上神宮のご祭神について、主祭神は国土平定に偉功をたてられた神剣「韴霊(ふつのみたま)」の御霊威を称える「布都蓹魂大神」
である。

天璽十種瑞宝(あめのしるしとくさのみづのたから)の御霊威を称える「布留蓹魂大神」、そして素戔嗚尊が八岐大蛇を退治されるの
に用いられた天十握剣(あめのとつかのつるぎ)の御霊威
を称える「布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)」がある。

 11月22日夜に「鎮魂祭」が斎行される。これは饒速日尊(にぎはやひのみこと)の子、宇摩志麻治命(うましまじのみこと)が神武天皇·
皇后の聖寿の長久を祈られる時に天
璽十種瑞宝を用いたことにより始まったと先代旧事本記』に記されている。今もパワーアップする
と多く参詣に来られる。

 『日本書紀』に忍壁皇子(あさかべのみこ)を遣わし御神宝を膏油で磨かせたとあり、古代王権を象徴する神宝類が天神庫(あまのほくら)
に保管されていた。後
にそれを諸家の子孫に返し、残った「七支刀」(国宝) をはじめ鉄楯、禁足地の発掘より出土した勾玉·管玉·環頭大刀
柄頭(重
文)等は神庫に収蔵されている。禁足地は、明治7年菅政友大宮司により発掘され、大正2年に御本殿が造営された。『延喜式』に

正殿(本殿)の鍵を保管するとの記載があることから、実は本殿はあったのではないかという謎が今に残る。


平成30年度 山の辺文化会議総会 記念講演(概要)

演題 「石上布留よもやま話」

講師 石上神宮宮司 森正光氏 より





座は技術者の集団

 中世になると技術者が神社仏閣の拘束から飛び出してしまうようになる。そして、
「座」とよぶ組合をつくるようになった。

 神社仏閣に属しているときは、その単なる構成員であるが、独立した技術者たちの
集団になると座となった。

 しかし、座は、かならず神社仏閣に対して営業税を払った。自分たちの身分を保証し、
保護してもらう礼すなわち一種の税を出すわけである。それが座である。

 およそ六十あまりの座をもった奈良の興福寺は、この座金で経営していた。後には、
遊芸人である能楽士集団までも座とよんでいる。観世座や金春座(こんぱる)などは、
みなこの同業組合なのである。初めは興福寺のための芸人が、独立して組合をつくっ
たのであった。

 奈良に油座があった跡を、いまでも油坂という。近鉄奈良駅を降りたところに油座が
あった。その大和の油座は、近畿の油の専売権をもっていたから、それが後に戦国時代
になって、斎藤道三が淀川沿いの油座を背景に強大な力を手中に収め、美濃国を奪う
ことになる。

 座がこのように大きな政治力さえもつようになるのは、座が強力になると、その専売権
によって、その地方の経済を動かす力をももつことができるからである。
    樋口清之 金銭 より
 





五行な

かいき しょうほう

たいへいげんぼう

まんねんつうほう

和同銭 字四年(七六0)に金銭の開基勝宝銀銭の大平元宝、銅銭の万年通宝が鋳造されるまで新

しい銭はつくられなかった。この半世紀に余る空白はどうして起こったのだろうか。

しょうむ

それは、聖武天皇の有名な大仏鋳造の事業がその間にあったからだと考えなければならない。

天平十11年(七四0)、藤原広嗣が乱をおこすと,聖武天皇はノイローゼになった。伊賀行幸や恭仁磊が

てんぴょう

ise ters、ひろつぐ

詐画され、

奈良の都を離れようとさえした。

そのときに、

国民の精神的な拠りどころとして、天皇の絶対権の象徴でもある五丈三尺五寸の大盧舎那仏

るしゃなぶつ


しがらき

をつくろうと企てた。今の滋賀県、信楽(紫香楽)に、

大仏の骨組みの立柱式をあげた。天平十六年十一月十

三日のことである。聖武天皇は、その前年に、全国に

金属回収令を発布している。


鋳直されて大仏の原料になったと思われる

やがて、

日本全国から和同銭が大量に都に集められ、

のために、ふたたび大きく後退させられるのである。

させた。

経済的破綻を招いた。このことからすると、この天皇の偉業の陰にも、

このため日本の経済は、貨幣経済へ一歩足を踏み入れたとたん、三十五年目にして、その貨幣は大仏鋳造

後に、徳川家康は豊臣秀頼に、豊臣家の経済力を凝集させる狙いで、京都の方広寺六丈三尺の銅像を再興

聖武天皇の大仏鋳造はそれより約九百年前である。政府管理の通貨を非流通の物品に凝集させて、政府の

一抹の謀略の疑いがないでもない

が、

これは今日まだ実証することができない。

ただ、大仏鋳造の大事業がひたすら民衆を疲弊させる一種の暴挙に近いものであることは否定できなぃ。

果たしてその結果は奈良時代経済の混乱と国内不安を生んでいった。


政府の貨幣 奈良時代から平安時代にかけて、当時の政府は、この自己矛盾におちいりながらも、つぎ

発行は

奈良朝と

明治以降のみることができた。しかし、そのために起こる経済的な破綻は、目にみえて増えていった。

つぎに新しく悪い貨幣をつくり変えて、十二種類にも及ぶ通貨をつくっていくのである。

貨幣の発行者は政府である。したがって、権力を背景にすれば、いくらでも貨幣を鋳造す

日本では、貨幣を政府自身がつくるのは、この時代とずっと後の明治時代のことである。これは、日本の

豊臣秀吉以後は、いわゆる金座·銀座·銭座という商人の同業組合が、請負い事業として貨幣をつくり、

これに対し、奈良時代以降の皇朝十二銭は、すべて政府がつくり、発行したものである。これは中国にな

貨幣発行の歴史できわだった特色である。

政府はそれを管理するだけで、

みずからは貨幣をつくらなかった。

政府が通貨を鋳造するのだから、

政府自身が金質を下げようと思えば、

いくらでも粗

らったものであるが、

悪な貨幣をつくることができた。

金質を下げれば下げるほど、

利益が生まれる。

しかし貨幣価値が下がるので、

それにつれて物価は上って


しまう。

奈良朝政府のこのような安易な貨幣政策は、やがて政府自身にそのはねかえりがあらわれた。

単にインフレを起こすだけではなく、その経済的威信をはなはだしく傷つけ、自らの評価を下げる結果と

なっていった。




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カッパドキア

 ●トルコ(一九六六年六~十月)

カッパドキアの窟院壁画の模写

 昭和四十一年 (一九六六) 六月、 東京芸術大学中世オリエント遺跡学術調査団は、トルコのカッパドキア
地方を訪
れた。このあたりには、五~十五世紀に造られた何千という洞窟寺院が残る。

洞窟内部はビザンチン時代の壁画の宝庫でもあり、それを調査し模写する目的で、東京芸大が調査団を派
遣したも
のである。

 調査団に参加した私は、四ヵ月間にわたって壁画模写の日々を送った。洞窟修道院は断崖の岩に掘られ、
断崖は
高い所では百メートル、低い所でも五十メートルはある。そこに四畳半くらいの小部屋から、学校の講
堂ほどの規
模のものまで、大小さまざまな窟院がうがたれている。

 残された絵の大半は、十字架のキリストや聖人物語など、キリスト教にまつわる宗教画である。多くは画僧
が描
いたものと思われるが、これだけおびただしい数の窟院と絵を残したエネルギーを考えるとき、彼らの信
仰の力に
圧倒される思いであった。

 この地方は、十五世紀ごろからビザンチン帝国とオスマン軍のイスラム勢力が争奪を繰り広げた舞台でもあ

た。キリスト教とイスラム教という異なる宗教の衝突である。その痕跡が至るところで見られた。破壊された修
院や散らばったままの人骨、また 地下壕のような通路に落とし穴が仕掛けてあったり、入口に巨大な石を
置いて敵を防いだ所もあった。
  平山郁夫  世界の文化遺跡と日本を考える  より




高松塚古墳壁画現状模写

 昭和四十二年に、私は「卑弥

呼壙壁幻想(ひみここうへきげんそう)」という作品を制作した。邪馬台国の女王卑弥の墓が大和にあると
想定
し、墳墓を飾る壁画を想像して描いたものである。当時は墳墓壁画は発見されていなかったが、そうした
常識にとら
われずに描いた。

 その後、昭和四十七年に奈良県明日香村で高松塚古墳が発見された。墳墓壁画が存在しただけでなく、
そこで見つ
かった女性群像図は、「卑弥呼壙壁幻想」で描いたのと同じような格好をしていた。創造と史実の
不思議な暗合に、非
常に驚いた経験がある。


高松塚古墳壁画現状

 昭和四十七年 (一九七二) 三月、奈良県明日香村で高松塚古墳の発掘調査が行われ、石室内部に描かれ
た極彩色の壁画が
発見された。古墳の築造年代は七世紀末~八世紀初めと推定されている。壁画は、東·西·
北の三壁面と天井にあり、
青竜白虎,玄武や星宿・日月、さらに男女の群像などが描かれている。とくに男女
群像
は、服装など当時の人物風俗を知るうえで、非常に貴重な資料になった。

 この壁画についても、縁あって壁画を調査し、模写する機会を得た。昭和四十八年九月から約半年間、作
業に従事したが、
千三百年の眠りから覚まされた壁画は、赤や黄や緑の色彩がみずみずしく、うぶな印象だ
った。おそらく当初は、乾いた白
壁の漆喰の上に描かれたのだろう。イタリアのアッシジで見たジオットの壁画
も、乾いた
壁に描いており、高松塚と共通の技法である。しかし、古墳内は湿度九十八%という状態で自然に
保存されてい
たため、長時間にわたる湿度で壁画は濡れたようになっていた。このような効果は、漆喰が乾か
ないうちに顔料
をしみ込ませて描くフレスコという技法の特質である。高松塚古墳の場合、乾いたところに描い
たもの
が、二次的にフレスコ技法的な処理を加えられ、透明感のある新鮮な色彩感となっていた。

 これらは相当の腕を持つ人物が描いたのだろう。古墳の被葬者が亡くなって限られた時間内で仕上げるに
は、よほどの
力量がなければできないからだ。

  平山郁夫  世界の文化遺跡と日本を考える  より



法隆寺金堂壁画再現模写

 昭和四十二年(一九六七) 三月から約一年間、法隆寺金堂壁画の再現模写作業に携わった。この壁画は
奈良時代前期の制
作といわれるが、昭和二十四年に火災で大半を焼失した。残っている資料を参考に、焼
失前の姿に再現するのが今回の事
業の目的である。金堂壁画は四つの大画面と八枚の小画面からなり、
私は単独で
第三号壁の「観音菩薩像」を担当することになった。

 こうした作業で大切なのは、残された線や絵の具をもとに、失われた部分を想定し、描かれた当初の様子を
思い描くこ
とだ。特に、第三号壁については戦前の写真しか資料がなく、細かいところまでよくわからなかった。
しかし限られた情報
で判断し、その線が単なる傷か絵の線なのかを考える。あるいは経過時間と退色、変色
の関係を見て、元の色を割り出して
いく。職人的な修復技術だけではこうした判断はできないから、古画の勉
強を積
んでおく必要があるのだ。

 とはいえ、三号壁「観音菩薩像」の針でつっいたような絵の具のはげ落ちを再現するには、たいへんな集中
力が要った。大
きくはげ落ちているところもあれば、ちりめん状になっているところ、それに傷や汚れの付着
などもからんでくるから、
なおさらやっかいである。どうかすると、一日かかって十センチ四方を仕上げるの
やっとであった。

 この時期に夢中で模写し、体で覚えた線や色彩が、のちに敦埠·莫高窟の第二二○窟で法隆寺壁画と瓜二
つの菩薩像を発見する布石になった。

法隆寺

 奈良県生駒郡斑鳩町にある法隆寺は、六0七年(推古十五)に聖徳太子により創建された。

 聖徳太子が父.用明天皇の病気平癒を願って発願したといわれ、仏法興隆の願いをこめて法隆寺と名づけ

られたという。金堂·五重塔は世界最古の木造建築物である。

 インドで前五○○年ごろにおこった仏教は、約千年の時をかけて日本に伝えられ、法隆寺が創建されるに

至った。さらに、法隆寺の柱に見えるわずかなふくらみは、ギリシアのパルテノン神殿の堂々たるエンタシ
の柱にも共通する。

 はるか遠い西方から、長い年月をかけて、日本の奈良に文化が東漸したことをしのばせる例である。

法隆寺夢殿

 法隆寺夢殿は、東院伽藍中心建築である。ここは聖徳太子の斑鳩宮があったところで、僧行信らによっ
て、七三九
年(天平十一)に建てられたといわれる

 東院伽藍は夢殿を中心に、舎利殿,絵殿、 礼堂、鐘楼、 伝法堂などからなる。夢殿は、礼堂と舎利殿.絵殿
を結ぶ回廊
の中央にあり、二重基壇上の一辺が二間の八角堂。この形式は、鎮魂の堂の役割をもつ阿が多
いという。

 現在の夢殿は、鎌倉時代の一三三〇年(寛喜二)に大改造を受けている。

  平山郁夫  世界の文化遺跡と日本を考える  より


法隆寺金堂

 金堂は法隆寺で最も中心的な建物

で、裳階を除き正面約14m、奥行き約11mの広さがある。中央に10本の柱で

区切られた内陣、須弥壇 (正面約8.6m、奥行き約5 .4m)があり、聖徳太子
の病気平癒を願ってつくられた本尊の釈迦三尊像を中心に、東には光背に
隆寺創建の由来を記した銘文のある根本本尊の薬師如来像、西に阿弥陀如来像、
四隅に四天王像が安置されている。本尊がなぜ薬師如来像ではなく釈迦三尊像
なのか。建立にまつわる経緯も謎に包まれたところがある。

 法隆寺金堂は現存する木造建築で世界最古と言われながら、いつ建築され

日 たのかが今なおはっきりしない。法隆寺より古い木造建築は世界中に数多く

あったが、現存では中国最古の南禅寺大殿(782年)より古い。日本書紀

に創建時の金堂が670年に炎上したという記述があり、 「再建·非再建論

争」や創建法隆寺(若章伽藍))跡の発掘調査を経て、再建論でほぼ落ち着いた。

 そんな折、建築年代をめぐる議論に一石を投じる発表が年にあった。奈

良文化財研究所が金堂に使われていた天井板2点にわずかに樹皮が残ってい

るのを見つけ、年輪年代法でスギの伐採時期を667~668年、ヒノキを

668~669年と絞り込んだ。現在、総合地球環境学研究所で客員教授

を務める光谷拓実さん(60)が奈文研時代にこの手法を確立させた。

 この結果から金堂が660年代に建てられ、炎上したとされる670年に

はすでに完成していた可能性を指摘する専門家の分析もあったが、一方で6

69年以降に完成したとは言えるが、いつ組み立てられた部材かを特定でき

ないと着工や完成年代に結びつけられないという専門家の見方もあり、議論

は続きそうだ

 調査に使われた金堂の天井板は1949 (昭和24)年1月26日早朝に起き

た火災で焼けた後、収蔵軍に保管されていた。焼けた木材が捨てられず残さ

れていたことに光谷さんは「文化財保存の原点を見た思いだった」と驚い

た。「火災から半世紀がたち、年輪年代法の学問が確立した。焼損した木材 

が保存されていたおかげで金堂建立の謎を解く情報を導き出せた」

 火災当時、金堂は昭和大修理の解体中で仏像はほかの過所に移され無事だ

った。建物の上部も外されており、主に仏教壁画や扉が焼けた。7世紀に描

かれ、剥落の進んだ壁画は現状を記録するため、1940 (昭和15)年から

模写が行われていた。火災は模写をする画家たちが使っていた電気座布団が

出火原因とされたが、永還の謎として封印されたままだ。その後、法隆寺と

文化財保護委員会(文化庁の前身)に朝日新聞社が協力し、1年がかりで68

年に再現壁画を完成させた。この壁画12面が展覧会で披露される。

 「最後の宮大工棟梁」と言われた故・西岡常一さん(95年死去)の一番弟

子だった宮大工の小川三夫さん(60)は加工道具がなかった時代に不ぞろい

の木をうまく組んでいる。腕がよく美的感覚の優れた職人が多くいたのだろ

う」とみる。「技術で補ってもスギだと800年程度しか持たない。古代の

工人たちはヒノキの強さを知っていた」。金堂のほとんどの部材には雨水

や湿気にも強いヒノキが使われている。飛鳥建築の威容を誇る法隆寺金堂

が1300年もの間、斑鳩の里に立ち続けられた理由はここにあった

 もう一つ忘れてはならないのが仏教に心を寄せた聖徳太子の教えを伝えた

いという人々のあつい「太子信仰」だろう。奈良国立博物館の湯山賢一館長

(62)はいう。「金堂をまもってきた先人たちの思いも展覧会の空間から感じ

とってもらえればうれしい」
 2008ー5ー29 朝日新聞(夕刊)

 
 釈迦三尊(法隆寺)

再建·非再建論争
 670年に法隆寺が全焼し

たとする日本書

紀の記述を否定する非再建論

を1905(明治38)年、建築史

学者の関野貞と美術史家の平

子鐸嶺(ひらこ·たくれい)

が発表し、歴史学者の喜田貞

吉が反論した。39(昭和14)

年、現金堂から南東約200mの

若草伽藍で金堂と塔の遺構が

発掘され、以降は若草伽藍が

創建法隆寺、現在の法隆寺が

再建法隆寺という考え方が定

着した。

年輪年代法
 同じような気

候条件下で育った木は同じよ

うな年輪のパターンを刻む。

あらかじめ、伐採年代の明ら

かな木材や古い建築部材など

から多量の年輪データを収集

し、その年輪幅の変化を調

べ、数百年、数千年分の平均

的な変動パターンの折れ線グ

ラフをつくる。そのデータと

対象となる部材を比較して木

材の生育年代を割り出す。測

定対象の木材に樹皮が付いて

いれば詳細な伐採の年代も分

かる。

 
 49年の火災で金堂は全焼を免れた。当時「昭和大修理」のため、仏像は別の場所に移されて

おり、主に壁画や柱が焼けた。修理は54年に完成したが、10年以上絵のない白壁のままだっ

た。66年に朝日新聞が寄付を募って壁画を再現することを法隆寺に提案、文化財保護委員会

(現在の文化庁)の許可を得た。参加したのは当時の日本画壇のリーダー安田靫彦、前田青邨

両氏ら14人。1年で完成した。現在、日本画壇の重鎮として活躍する平山郁夫さんは最年少メ

ンパーとして参加している。

 壁画の焼損前の姿を記録した資料としては、35年撮影の実物大のモノクロ写真と色分解によ

るカラー写真、そして40年から文部省の事業として日本画家らが作り、火災で未完成となった

旧模写があった。旧模写は8面分しかなく、ほとんどが未完成。模写を指揮した荒井寛方、入

江波光両氏が亡くなっているため、再現壁画はすべて新たに描かれた。

 実物大写真は374枚の乾板に分割して撮影されており、それを「コロタイプ」という手法

で和紙に印刷。写真乾板から直接焼き付けて印刷版を作るため、細部まで精密に再現できる技

術だ。その和紙をつなぎ合わせ、カラー写真や旧模写を参照して、日本画の手法で彩色した。

 焼損した壁画はほとんど色彩が失われたため、通常の模写のように、実物で確かめながら

描線や色合いを正確に再現することはできない。そごで模写という表現を避け、「再現壁

画」の呼称が使われることになった。和紙に描かれた再現壁画は完成後、東京、名古屋、京

都、福岡の4会場で一般公開されて約0万人を集めた後、法隆寺金堂の壁に固定された。
  2008-6-13 朝日新聞


仏教がもたらした「写実」

 銅鐸や、九州などの装飾古墳に描かれたような抽象的な絵ではなく、写実的な絵画が日本
に入っ てきたのは6世紀半ばの仏教伝来時とされる。下地に漆喰を塗って描きあげており、
それまでとは 技法も異なる。仏教を伝える僧とともに、仏像を作る仏師や寺を造る大工、
仏画を描く絵師たちも 朝鮮半島などから渡来した。

 初期には百済からの絵師が多かったが、聖徳太子が摂政を務めていたころ、朝鮮半島北部
~中国東北部にあった高句麗系の黄文(きぶみ)
と山背(やましろ)という絵師 集団が渡来していた。聖徳太子は高句麗出身の僧 ・慧慈(えじ)
に仏教を学ぶなど、中国と地理的に近い高句麗の情報を重視していたことがうかがわれる。
  2008-4-12 朝日新聞


唐招提寺金堂

 唐招提寺は、奈良市五条町にある律宗の総本山。七五九年(天平宝字三)に唐僧鑑真建立した。

 金堂は宝亀年間(七七○~七八○) の造営説が有力で鑑真の弟子如宝により建立された。桁行七間、梁間
四間、寄
棟造本瓦葺き屋根で、屋頂両端にある鴟尾は、奈良時代建立唯一残る例。

 金堂内部の柱頭部から天井にかけて、極彩色の仏画と文様が施されている。この彩色には、唐の影響が非
常に強く
みられる。


  平山郁夫  世界の文化遺跡と日本を考える  より




藤原京

 藤原京は、奈良県の畝傍耳成天香具山の大和三山に囲まれた地に、持統天皇の六九四年に造営宮さ
れた都
である。京内は条坊制によって東西、南北に大路、小路が走り、薬師寺大官大などの寺院が営
まれてい
た。私は藤原京のおもかげをしのぶため、たびたび遺跡を訪れている。

 しかし、当時の姿を伝えるのは、わずかに残る石舞のみである。画家には、描きたいものを自由に想像

して描ける自由があり、私はそれを「幻想画」と呼んでいるが、これもそうした作品の一つである。

 俯瞰的に見て、大和三山や飛鳥川を描き込み、実際に都の跡を歩き回ってスケッチを重ねた。画面の中
古墳群や寺院を描き、今まさに都造りが行われているさまを想定していった。

 まるで、色鮮やかな衣服に身を包み、朱雀大路を行く貴族たちの姿が浮かんでくるようである。

  平山郁夫  世界の文化遺跡と日本を考える  より



光明皇后施浴の伝説

力ラ風呂―光明后施浴の伝説―蒸し風呂の伝統

 法華寺の境内に光明皇后施浴の伝説を負うた浴室がある。いわゆるカラ風呂である。わたくし

はこれまでこの「カラ風呂」なるものの存在をさえ知らなかったが、先日奈良坂の途中で車夫か

ら初めて教わったのである。谷を距てて大仏殿が大きく見えている坂の中腹に歩廊のような細長

い建物のあるのがそれだった。大仏鋳造や大仏殿建立の大工事の時に、病を得た工匠·人夫の類

がそこで湯治をしたと言われている。 その「カラ風呂」に今日突然法華寺で出逢ったのである。

 浴室は本堂の東方に当たる庭園のなかにあって、三間四方(?)ぐらいの小さなるのであるが

内部の構造は全然わたくしの予期しないものであった。床は瓦を敷きつめ、中央にはさらに三尺

ほどの高さの板の床を作り、その上に屋根もあり板壁るある小さい家形が構えられている。言わ

ば入れごにした箱のように、浴室のなかにさらに浴室があるわけである。その側面は西洋建築の

窓扉と同じゃり方のもので、全体の格好が測候所などの寒暖計を入れる箱に似ている。だから中

は暗い。それへはいるには、三四段の梯子をのぼり、身をかがめて、狭い入り口から這い込んで

行くのである。中には五六人ぐらいなら、さほど窮屈でるなくしゃがんでいられるらしい。これ

がつまり浴槽であって、そのなかへ、床板の下から湧出する蒸気が、充満する仕掛けになってい

る。純然たる蒸し風呂である。

 この構造が天平時代のものをそのまま伝えているのかどうかはわからない。東側のたき口は西

洋寵風に煉瓦を積んで造ってあったし、北側の隅には現在の尼僧が常用する コンクリート造りの

長州風呂が設けてあった。この種の改良が千年にわたって少しずつ試みられたとすれば、これに

よって原形を想像するのは危険な話である。しかしこの「蒸し風呂としての構造」だけは昔の面

影を伝えていはしまいか。少なくともこれに似寄った蒸し風呂が光明皇后の時代に存在したとい

うことは確かではなかろうか。

 この浴室の楣間に光明皇后施浴の図が額にして掲げてある。現在の銭湯と同じ構造の浴室に偏

体疥癩(へんたいかいらい)の病人がうずくまり、十二ひとえに身を装うた皇后がその側に佇立(ち
ょ)している図である。光
明皇后の十二ひとえ時代錯誤でおかしいが、この蒸し風呂の設備と相面
して銭湯風の浴室が画
いてあるのは、愛矯を通り越してむしろ皮肉に感ぜられた。しかし実のと
ころわれわれは光明皇
后施浴の伝説を、漠然とこの図のように想像していたのである。施浴が蒸
し風呂であるとすると
われわれも考えなおさなくてはならない。

 蒸し風呂が医療に役立つことは古くから知られていた。今でも一種の物理的療法として存在の

意義を持っている。天平時代に著しいヒステリイ風の病気や、その他全身の衰弱を起こすさまざ

まの病気が、蒸し風呂によって幾分治療せられたろうことは想像するに難くない。とすると、蒸

し風呂を民衆に施すことは、慈善病院を経営するのと同じ意味の仕事になる。慈悲を理想とした

皇后がこのような蒸し風呂の「施浴」を行なわれたということは、きわめてありそうなことであ

る。その際皇后が周囲の人々に諌止(かんし)せられる程度の熱意を示して、自らこの浴場に臨ん
で何事か
をされたということもあり得ぬことではない。しかし伝説は単にそういう「施浴」を語るだけ
とどまってはいないのである。『元亨釈書』などの伝える所によると、―東大寺が完成してよ

うやく慢心の生じかけていた光明后は、ある夜閤裏(こうり)空中に「施浴」をすすむる声を聞いて、
恠喜(かいき)
して温室を建てられた。しかしそればかりでなく同時に「我親(みずか)ら千人の垢を
去らん」という誓い
を立てられた。もちろん周囲からはそれを諌止したが、后の志をはばむことは
できなかった。か
くて九百九十九人の垢を流して、ついに最後の一人となった。それが体のくずれか
かった芥類で、
臭気充室というありさまであった。さすがの后も躊躇せられたが、千人目ということ
にひかさ
れてついに辛抱して玉手(ぎょくしゅ)をのべて背をこすりにかかられた。すると病人が言う
に、わたくしは悪
病を患って永い間この瘡(かさ)に苦しんでぉります。ある良い医者の話では、誰か
人に膿を吸わせさえ
すればきっと癒(なお)るのだそうでございます。が、世間にはそんな慈悲深い
人もございませんので、
だんだんひどくなってこのようになりました。お后様は慈悲の心で人間を平
等にお救いなされま
す。このわたくしもお救い下されませぬか。后は天平の美的精神を代表する。
その官能は腹
郁(ふくいく)たる熱国の香料と滑らかな玉の肌ざわりと釣り合いよき物の形とに慣れ
ている。いかに慈悲の
ためとはいっても癩痛病人の肌に唇をつけることは堪えられない。しかしそれ
ができなければ、今
までの行はごまかしに過ぎなくなる。きたないから救ってやれないというほどなら、
最初からこ
んな企てはしないがいい。信仰を捨てるか、美的趣味をふみにじるか。この二者択一に
押しつけ
られた后は、不得巳、癩病の体の頂の瘡に、天平随一の朱唇を押しつけた。そうして膿を
吸っ
て、それを美しい歯の間から吐き出した。かくて瘡のあるところは、肩から胸、胸から腰、つい

に踊にまでも及んだ。偏体の賎人の土足が女のなかの女である人の唇をうけた。さあ、これでみ

な吸ってあげた。このことは誰にもおいいでないよ。― |病人の体は、突然、端厳な形に変わっ

て、明るく輝き出した。あなたは阿閦仏の垢を流してくれたのだ。誰にもいわないでおいでなさい。 
  古寺巡礼  和辻哲郎



法華寺十一面観音

 法華寺の本尊十一面観音は二尺何寸かのあまり大きくない木彫である。幽(かす)かな燈明に照ら
され
た暗い厨子のなかをおずおずとのぞき込むと、香の煙で黒くすすけた像の中から、まずその光っ

た眼と朱の唇とがわれわれに飛びついて来る。豊艶な顔ではあるが、何となく物すごい。この最

初の印象のためか、この観音は何となく「秘密」めいた雰囲気に包まれているように感ぜられた。

胸にるり上がった女らしい乳房。胴体の豊満な肉づけ。その柔らかさ、しなやかさ。さらにまた

奇妙に長い右腕の円さ。腕の先の腕環をはめたあたりから天衣をつまんだふくよかな指に移って

行く間の特殊なふくらみ。それらは実に鮮やかに、また鋭く刻み出されているのであるが、しか

しその美しさは、天平の観音のいずれにも見られないような一種隠徴な蠱惑力(こわくりょく)を印象
するのである。


 それについてはこの像に関する伝説がわれわれの興味をひく。『興福寺濫觴記(らんしょうき)』とい
う本は信
用のできるものではあるまいが、その中に次のようなことを伝えている。

 北天竺乾陀羅国(がんだーら)の

見生王は生身の観世音を拝みたくて発願 入 定 三七日に及んだ。その時に、生身の観音を拝

くば「大日本国聖武王の正后光明女の形」を拝めという告げがあった。大王夢さめて思うに、万

里蒼波(ばんりそうは)を渡って遠国に行くということは到底実現しがたい。そこで再び一七日入定して
祈った。

今度は、巧匠をやって彼女の形像を模写させて拝むがいいとあった。王は歓喜して、エ巧師を派

遣した。それが天竺国毗首羯磨(びlしゅかつま)二十五世末孫文答師であった。文答師は難波津に
着いてこの由を
官を経て奏上した。
皇后が仰せlられるに、妾(わたし)は大臣の少女(むすめ)、皇帝の后宮である。どうして異国大

王の賢使などに逢えよう。しかしわたくしの願いをかなえてくれるならば逢ってるいい。文答師

は答えて何でもいたしましょうといった。ちょうどそのころ皇后は亡き母 橘 夫人のために
興福西金堂を建てておられたので、文答師にその本尊阿弥陀如来の製作を依頼せられた。
文答師は、
母公御報恩のためならば釈迦像がよろしゅうございましょう、昔忉利天(とうりてん)で
摩耶夫人(まやぶじん)に恩を報ぜら
れた例がございます、と奏上した。
そこで釈迦像にきまった。本朝小仏師三十人が助手になった。

脇士(わきじ)も彼によって造られた。皇后は彼の製作場へ行かれたことるある。文答師が見ると、
后のか
らだは女体の肉身ではなくして十一面観音の像に現われている。でそれをモデルにして三躯
の観
音をつくり、一つは本国へ持ち帰った。 あとの一つは内裡に安置したが今は法華滅罪寺にある。

もう一つは施眼寺(せがんじ)に安置せられている。

 この伝説が事実を伝えるるのでないことはいうまでもなかろうが、われわれにとって問題とな

るのは、なぜ光明后をモデルとしたというごとき伝説が生じたか、またその作家がなぜ文答師と

されたか、というごとき点である。

 が、以上にのべたのは光明后をモデルにしたということに対する興味であって、法華寺の観音

に光明后の面影を認めるというのではない。われわれは光明后の顔に精練せられた感情のひらめ

きを期待する。その目には怜悧(れいり)な光を、その口には敏感な心の徴(かす)かな慄動を、その
頬には消ゆる
ことなき情熱のこまやかな陰影を。しかしこの十一面観音の面相はそういう期待に応
ずるもので
はない。それは豊かではあるが、洗練せられた感じがない。情熱的ではあるが、柔らか
みがなく、
あらっぽい。間答師作の竜王像がわれわれに期待させる光明后の面影は、るっと醇美
(じゅんび)なものでな
くてはならない。だからこの十一面観音が貞観時代の作であって光明后をモデ
ルとしたものでは
ないという説の方がわたくしには望ましいのである。
  古寺巡礼  和辻哲郎



大唐文化

 ちょうど天平の初めは大唐文化に対する憧憬が

絶頂に達したころで、この文化を深く体現した者ほど時代の英雄であることができた。 阿倍仲麿

が玄宗の春顧を得、王維·李白等と親しかったのに見ても唐の文化を阻嚼する能力は、少なくと

も優秀な少数者においては、さほど幼稚であったとは思えない。仲麿と同道した吉備真備や僧玄昉

が、十九年の留学の後、多量の芸術品や学問芸術宗教の書籍を携えて帰って来たときには、彼

らに対する宮廷の歓迎はすさまじかった。宮廷の人々の心的生活はたちまち彼らの影響に服した。

帝の生母宮子大夫人の幽鬱症さえも彼らの手によって癒された。未来に帝位をつぐべき阿閉皇女

の教育は真備の手に委ねられた。かくのごとき現象はただ外形的な唐風模倣欲のみから説明する

ことはできない。恐らく宮廷の人々はこれらの新人物と接する ことによって心情の要求を満足さ

せたのであろう。それほど人々の心は広い活き活きとした世界に対する憧憬に充たされていたの

である。

  古寺巡礼  和辻哲郎 



薬師寺東塔

 金堂から東院堂への途中には、白鳳時代大建築の唯一の遺品である東塔が鋒えている。

これがどんなに急ぐ足をもとどめずにはいないすぐれた建築なのである。三重の屋根の一々に短

い裳層をつけて、あたかる大小伸縮した六層の屋根が重なっているように、輪郭の線の変化を異

様に複雑にしている。何となく異国的な感じがあるのはそのためであろう。大胆に破調を加えた

あの力強い統一は、確かに我が国の塔婆の一般形式に見られない珍奇な美しさを印象する。もし

この裳層が、専門家のいうごとく、養老年間移建の際に付加せられたものであるならば、われわ

れを驚嘆せしめるこの建築家は、奈良京造営の際の工匠のうちに混在していたわけである。 この

寺の縁起によると裳層のついていたのは塔のみではなく、金堂の二重の屋根もまたそうであった

らしい。大小伸縮した四層の大金堂は、東塔の印象から推しても、かなり特殊な美しさのもので

あったろう。後に上重閣のみが大風に吹き落とされたと伝えられているのから考えると、その構

造も大胆な思い切ったものであったに相違ない。このような建築が薬師寺にのみあったのかどう

かは知らないが、とにかく奈良遷都時代の薬師寺に一種風変わりな建築家のいたことは確かであ

る。しかもそのころにこの寺は熱狂的伝道者行基を出している。もしそこに必然の関係があるな

らば、この寺の持つ特殊な意義は非常に大きい。

 わたくしたちは金堂と東院堂との間の草原に立って、双眼鏡でこの塔の相輪を見上げた。塔の

高さと実によく釣り合ったこの相輪の頂上には、美しい水煙が、塔全体の調和をここに集めたか

のように、かろゃかに、しかる千鈞の重味をもって掛かっている。その水煙に透かし彫られてい

る天人がまた言語に絶して美しい。真逆様に身を翻した半裸の女体の、微妙なふくよかな肉づけ

美しい柔らかなうねり方。その円々とした、しかも細やかな腰や大腿にまとう薄い衣の、柔艶(じゅ
うえん)を
きわめたなびき方。しかしそれは双眼鏡をもってしてる幽(かす)かにしかわからない高い
ところに
掛かっている。だから詳しい観察を求めるるのはどうしても塔の一階に置かれた石膏の模
作に引
きつけられざるを得ない。模作でながめても、天人の体が水煙と融け合った微妙な装飾
文様はこれほどのことまでわれわれの祖先にはできたのかと思うほど美しい。
  古寺巡礼  和辻哲郎
 




挽歌と古代日本人

 大伴家持は、過ぎ去った古墳時代をなつかしむ武将であった。古墳時代こそ、大伴家持が属す

る大伴家が、まさに日本の覇者だった時代であった。古墳時代において、日本第一の名家であっ

た大伴家も、家持の時代において、あきらかに衰退の道をたどっていた。新しい律令国家建設の

時代、そういう時代を背景にしてすでに藤原氏の専制が はじまろうとしていた。家持は、慌れの

眼を古墳時代に向けたが、もはや、彼の中には真正面から、強大な権力をもつ藤原氏に挑戦する

勇気はなかった。そこで、彼は文学の上で、古墳時代のルネッサンスを試みたのである。

 ひとは万葉集の歌をバラバラにして作者別にならべ、一首一首を鑑賞する。それは近代的詩歌

艦賞法であるが、それによって、家持が万葉集をつくった精神が、完全に無視されることに、人

は気がついていない。万葉集は源氏物語のように、一つのドラマなのである。もとより家持の撰

は、完成してはいないが、彼は、一定の世界像にもとづいて、歌を排列したのである。

 私は、万葉巻一を、一つの歴史の回顧詩と見るのである。それでは「泊瀬朝倉の宮に天の下知

らしめしし天皇の代」というふうに、各歌に、当時の都が示されている。そして日本書紀が、多

く引用されている。家持は、彼の立場で、歌による歴史批判をこころみたのである。そして熱烈

なる大和讃美の歌をのせ(一・二など)、都の移動や(一七・一八など)新しい神の宮の建設に た い し

て (四四など)、批判的な歌を多くのせているのである。
    古典の発見  梅原猛
 




立派な「歌塚」の文字

 現在「歌塚」という石の硬碑が建っておりますが)、これがなかなか立派な文字です。この間私も
お参りしてきましたが、こんな立派な歌塚の碑が建っているのに、あのあ
たりはちょっと荒れたよう
な感じで、もう少しきれいにできないものかと思っているのですが。

 あの歌塚の文字は、第百代天皇の後西院天皇の皇女賓鏡尼という方のものです。裏の銘文は、
山城
の佛国寺の百拙元養の書いたものです。そして建てたのは、田原本町の大木の医者であり
歌人
であった、森本宗範です。これは今から二七四年前、享保七年に建てたものです。しかしなか

なか立派な文字で、そしてこういう記念碑を建てるというんですから、森本宗範も実に立派な人であ
りました。

 一昔前、女高師(奈良女子大学の前身)で先生をしていらっしゃった水木要太郎先生の書かれた
ものによりますと、昔、郡山藩士の崇禅寺
馬場の敵討ちという有名な事件があります。生田伝八郎
という敵役がおりまして、遠城治左衛
建てたのは、田原本町の大木の医者であり歌人であった、
森本宗範です。これは今から二七四
年前、享保七年に建てたものです。しかしなかなか立派な文
字で、そしてこういう記念碑を建
てるというんですから、森本宗範も実に立派な人でありました。

 一昔前、女高師(奈良女子大学の前身)で先生をしていらっしゃった水木要太郎先生の書かれた
ものによりますと、昔、郡山藩士の崇揮寺
馬場の敵討ちという有名な事件があります。生田伝八郎
という敵役がおりまして、遠城治左衛門兄弟が仇をとるために、この生田伝八郎を襲います。しか
しこれは悲しいことには返り討ちに逢っ
てしまいます。しかし生田伝八郎もその時になにがしかの
傷を負って、それを治療したのが森本宗範
である、と。そして完全に傷を癒した後、宗範は伝八郎
を座敷に請じ、九寸五分の短刀をさしつけて、
「これで切腹しろ」と詰腹を切らした義人だと、この話
は法隆寺の北畠男爵の話として、紹介してお
られます。

 こういう偉い人ですから、ああいう立派な記念碑ができたのだと思います。今日では少し欠けてあ

るところもありまして非常に残念な感じもします。あれは立派に保存しておきたいものです。
   山の辺の歴史と文化を探る  パネリスト 中田太造




歌の伝統 (影媛の悲恋物語 より)

 これには次から次と地名が出てまいります。こうした歌の伝統というのは、いわゆるこの事件があ

った後に、その伝承に基づいて、つくられた歌です。『武烈紀』には影媛が泣きながら詠んだように

書かれていますが、実は後の人、柿本人麻呂のような歌の巧い人が、地名を詠み込んだ歌をつく
った。

この地名を詠み込む歌の伝統は、平家物語や近松の曾根崎心中等にもあります。道行と言われ
ています。

 その伝統は、現在の盆踊り歌にもあります。これは天理市内でごく最近まで歌われた唄で、ちょっ

と紹介しますと、「ほっそり出たのが柳本 腰は細そり柳腰 市場で恋しや蓮の池 蓮やれんげの花

盛り 岸田の岸にと腰かけて 中山寺を右に見て 寺でなうても成願寺 通うて通はぬ萱生の村 萱

生は良いとこ蜜柑どこ……」という、こうやって地名を盛り込んだ盆踊り歌です。そういうものにな

ってきたのではないかと思います。

   山の辺の歴史と文化を探る  パネリスト 中田太造




ちゃんちゃん祭り

早い「ちゃんちゃん祭り」

 お祭りにあたって、鰐口という鐘を叩きます。現在のお渡りは、まず大和神社から出てずっと上街
道を
南に行き、岸田と柳本の境を東に上り、県道桜井天理線を横切り、そして中山へ行きます。
途中にちゃんち
ゃん川という川があります。このちゃんちゃん川で、神輿がここまで進行してきたぞ、
という合図の鐘を鳴
らしたというようなこと。そうした神仏習合時代の名残を持っているお祭りです。

 もう一つ、大和の祭りで早いのはちゃんちゃん祭りだということです。遅いのは奈良のおん祭
す。そしてこのちゃんちゃん祭りは、おん祭りに
匹敵するような大きな祭りであると言われています。

普通、神社のお祭りは秋の収穫祭がお祭りになっています。石上神宮のお祭りも十月十五日、
収穫祭です。

それから奈良のおん祭りは十二月十七日ですから、大和の最終の祭りですね。かつて春日大社
は大和一国のお祭りでしたから、全ての大和のお祭りが終わ
ってから、最後にお祭りをした。それ
で遅いのは奈良のおん祭りになっている。早いのは、このちゃ
んちゃん祭りです。

 時期的に考えますと、ちゃんちゃん祭りは四月一日におこなわれます。旧暦でも、同じく四月一日

におこなわれていました。したがってこの祭りは、春の祭りではなくて、夏、初夏の祭りです。

 この時期大和では、大和というか古代ですけれども、麦の収穫期、これからやがて苗代を作って
植えが始まろうという、そういう時期です。ですからこれは収穫の感謝祭ではなく、これから農耕生

活が始まろうという祭りです。祭りの性格も、これから田植えをし、豊作を願うという内容を持って
ります。お祭りを逐一詳しく見ていきますと、収穫の前祝いのお祭りという要素が多分にあります。

祭りの原 型

 次に、このお祭りの内容を少し分析して考えてみたいと思います。

 お祭りは四月一日ですが、そこに十二時過ぎに、これらの郷の人たち、お祭りに参加する人たち
ぼちぼち集まって参ります。

 そして人数が整いますと、中山のお旅所へ向かいますが、途中で岸田の尻掛というところで中休
をいたします。「しりかけ」あるいは「しっかけ」とも言います。その時に兵庫の子ども二人が、龍

の口という、木製の龍で口をパクパクさせて、「龍の口舞」をおこないます。これは水神の象徴です。
田植えをするためには雨が必要ですから、龍の口舞を舞うことによって順調に雨が降るよ
うにとい
願いを込めているわけです

それが終わりましてから、中山へと進みます。この場所は非常に神秘的です。山大塚の前方部
です。前方部の一部を切
り取って、中山の氏神であります歯定神、そしてお旅所があります。

日本の非常に古い古墳と密接につながっているということです。ちゃんちゃん祭りについての記述
は『大乗院寺社雑事記』、『多門院
日記』に書かれておりますから、その頃からもう現在のような形
であったろう
と思います。

 それから平安初期の延喜式の神名帳にも記述があり、そこまで遡ることができます。そして
日本書紀』によりますと、「崇神紀」、「垂仁紀」に祀られたという非常に古い記録が
あります。また、
大変古い古墳と結びついているということです。そこで、中山大塚の前方部、元は
小高い丘であっ
たと言われる前方部へ行きます。現在もある、一段下がったところです。

 そして向こうに着きますと、中山のほうからチマキをお供えになります。そしてそれを各大字に下
げ渡される。このチマキというのは、元々祇園の八坂神社の祭りの時に出てくるお供え物です。
チマ
キは、人の伝染病を防ぐ効果がある。牛馬の病気を防ぐ効果がある。いわゆる豊穣、豊作を
祈る呪物
です。そうした呪物をお供えになり、下げ渡される。それから、そこでも同じく龍の口舞も
あります。

そうしてそれから、お祭りに参加した人たちが全員で、その御旅所で遅い昼食を取ります。これは
常に古い、かつての宮座の原型を考えるに相応しいお祭りです。まだ、神様と人間が同じものを
食べ、お酒を飲んで、祭りごとをする。そうした古い祭りの姿を考えることができます。

 元々これらは宮座と言いまして、祭りに参加する人、家は決まっていましたが、しかし大正、戦後

と町全体に開放して、現在は町全体で維持をしております。非常に宮座の古いお祭りの姿を伝えて
ると思います。

 そうやって中山でチマキをお供えをするのですが、非常に面白いことには、中山の人たちが神人
食をする場合に、中山の人は歯定神社の拝殿に上がってそこで酒盛りをします。

 サカナは昔から決まっておりまして、素麺を二把といて、素麺をサカナに酒を酌み交わします。素

麺は長いものですから、命を延ばすとか、健康増進させるとか、不老長生の呪物、薬になったわけ
す。これは奈良朝時代からそうです。中国でもそう言われております。その素麺をサカナに、
青磁の
徳利から酒を移して、酒を敵み交わす。こういう古いお祭りの形態を現在も持っております。

 それから中山町の人たちは、ちゃんちゃん祭りというのは中山に祀る若宮社に、大和神社の神さ
が里帰りに帰ってくる日だと、こう言うておるわけです。母の元に行くわけですから、行きしなはち

ゃんちゃん祭りも早く進む。だけれども帰りはのろのろと進むのは、そういうわけだ、と。

 また岸田町の若宮さんは、大和神社のお父さんや、と。岸田町のお休み場には、実はお母さんの
淳名城入姫命をっておると。だから、母に乳をもらいに来る日だと。こういうておるわけですね。
こういう
伝承は、何というか、渟名城入姫命、崇神天皇の頃とつながるようなそんな古い時代のも
のではないだ
ろうと思います。途中でこうなったと思いますが、しかし不思議な話です。

 また、淳名城入姫命は、大和さんの乳母さんやったという伝えもございます。

 しかもちゃんちゃん祭りでお渡りをするその先は、今申しましたように中山大塚です。実は私は、
ひょ
っとしたら、と思っていることがありますが、今日は言います。淳名城入姫命の墳墓が中山大塚
だと。

女性を葬っておると。また、「箸墓」に比べて少し小さいこと。そんなことを想像を逞しくすれば、考

えることができるということでございます。

 今もお話がござざいましたように、三世紀の中頃まで遡る可能性がある。そういう古い古墳のとこ
へ行くということ。そして大和神社が非常に古いお宮としての歴史を持っておること。こういうこと

を色々考えますと、非常に興味深いものであると思います。
   山の辺の歴史と文化を探る  パネリスト 中田太造



卯と卯杖

 大神神社の境内では、絵馬のウサギ、参集殿総合案内所の玄関の「なでうさぎ」などが目に入る。

 『日本書紀』崇神天皇の条に、「疫病が大流行し、国の情勢が不安定になったので、崇神天皇
神意を伺って、卯の年、卯の
日に大物主神を祀ったところ、大難が治まり、国が安定し、富み栄え
た」ことが記されている。それ以来、「卯の日」は、大
物主神の神威が最も高まる日とされ、毎月「卯
の日祭」が催さ
れる。とくに、卯の年、卯の月、卯の日の三つの卯が重なる年は、大吉年とされ、
十二年に一度、「三卯の大祭」が催される。

この大祭では、黒木の案上に、特別に調進された卯杖(うずえ)が置かれ、神前に奉献される。
卯杖は、木瓜(ぼけ)、柊(ひいらぎ)、桃、梅、椿、榊の六種
で、古式に則って整えられる。


参集殿の玄関のなでウサギ
 

 卯 十二支の第四。方角では東にあたる。大神神社と「卯」の関わりは、拝殿から見て「卯の方」、
つまり東
方に神体の三輪山が鎮座するためとも考えられる。

 卵杖 邪鬼をはらう呪具で、ふつうは桃や梅の枝を切って五尺三寸(約一六〇センチメートル)の
長さ
の束にして奉献する。平安時代には個人間でも贈答された。





長屋王の変

 神亀六年(七二九) 二月一〇日、平城京左京に住する漆部君足と中臣宮處東人の二人が、
長屋王はひそかに左道を学び、国家をかたむけようとしている、と密告した。

その夜のうちに三関がかためられ、また六衛府(にのときまでに令制の五衛府のほかに天皇親衛軍
として中衛府ができていた)
の兵によって長屋王宅が包囲された。包囲の兵をひきいたのは
藤原宇合(うまかい)であった。翌一一日午前一○時、知太政官事一品
舎人親らは、長屋王宅に
おもむいて、罪状を糺問(きゅうもん)した。翌日、長屋王は自
尽。その室、草壁皇子の娘二品
吉備內親王も自殺。王の子息膳夫王、
桑田王、葛木王、鉤取王(かぎとり)も自殺した。王の家の
人々もみな 捕 えられ
て、衛府の獄に監禁された。

 一三日、長屋王と吉備内親王の遺骸は生駒山に葬られた。吉備内親王には罪なしとの勅がださ
れた。獄につながれていた家令(けりょう)・·帳内らは
解き放たれた。上毛野宿奈麻呂(かみつけぬ
のすくなまろ)ら七人だけが流罪に処せられた。一八
日、長屋王の弟従四位上鈴鹿王宅に勅使がお
もむき、長屋王の同母の
弟·姉·妹とその子孫および姿には、縁坐の罪はおよばないと宣告した。
この妾とは不比等の娘であった。それの産んだ安宿王(あすかべ)·黄文王(きぶみ)·
山背王·娘 教勝
らはこれによって罪をまぬがれた。二一日、密告者
従七位下漆部君足と無位中臣宮處東人に外従
五位下 が さずけられ、食封と田が賞としてあたえられた。

 長屋王を失脚させた陰謀と、光明子の立后とには、相互に密接な連関がある。

光明子の産んだ皇太子が幼くして亡くなった年に、聖武天皇のもう一人の夫人県犬養広刀自
(ひろとじ)に、別の皇子が生まれた。安積親王(あさか)とよばれる人がそれで、光
明子の腹になる
皇太子が夭死したうえは、将来この皇子が皇位をつぐ可能性が生じた。これは、天皇と
の私的な関
係を通じて自己の政治的勢力をのばそうとする藤原氏にとって一大脅威であった。この脅威
からの
がれるためには、なんらかの方策を講じなければならぬ。そこで着目されたのが皇后という地位

あった。皇后ならば、いざというばあいに、天皇の分身としてなかつぎの天皇となることができる。

 しかし、その計画に対して予測される最大の障害は長屋王であった。宮子夫人を大夫人と称する
こと
にさえ、令の定めを楯にしてこれを拒否した王である。皇族でない光明子を皇后にすることなど、
長屋
王はけっして黙認するはずがない。

 長屋王の悲劇は、このようにして、しくまれたのであった。





藤原氏のうごき

 不比等には四人の男子と、何人かの娘がのこされていた。男子は、長男が武智麻呂(むちまろ・
南家祖)、二
男が房前ふささき・北家祖)、三男宇合 (うまかい・馬養・式家祖))、四男麻呂(まろ・
京家祖)である。娘には
文武天皇夫人宮子首皇子光明子がいる。天皇家とは娘二人を通じて、
二代にわたり密接な関係をむすんでいる。加え
て不比等の未亡人、そして光明子の母
県犬養橘三千代
は後宮で隠然たる力を保っている。それらの関係がフルに利用されたのであろう、
長屋王が右大臣 と なったその日
に、武智麻呂が中納言となった。もっともそれはかれが不比等の
跡目をおそったものと考えてよいであ
ろうが、その直前に、武智麻呂は正四位下から従三位に、
房前は従四位上から従三位に、馬養は正五位
上から正四位上に、麻呂は従五位下から従四位上
に、それぞれ二階から五階の特進をしている。政界は
にわかに緊張した空気につつまれはじめてい
た。

 その空気を敏感に察知したのは、病床にあった元明太上天皇であった。養老五年10月の半ば、
枕辺
に右大臣長屋王と参議房前を呼び寄せ、自分の葬儀は簡略にするよう命じたうえで、近侍の者
や五衛府
の武官は警戒をきびしくして不慮の事態に備えるよう遺詔している。かつて持統太上天皇
が亡くなった
ときも、同じような遺詔があったが、元明太上天皇の「不慮の事態に備えよ」というのは
いささか無気
味である。太上天皇は、自分の死後におこるであろう何事かに対して不安を感じていた
のであろう。

 その直後に、元正天皇はとくに詔をだして房前を内臣に任命した。内臣とは、祖父鎌足の内臣の
先例
にならったものといわれるが、要するに天皇の側近にあって、外、つまり太政官の審議にはか
るまえに
政務を処理する役割をもった、いわばのちの蔵人の前身のようなものである。しかもその
判断は天皇の
勅命に準ずるというのだから、たいへん大きな権限をもっている。

 長屋王や皇親たちが、この異例の人事をどのようにうけとめたかはわからない。しかし、藤原氏の
出を快く思わない氏族も多かったと思われる。そして太上天皇の不安は、ある程度事実となって
あらわ
れた。




天然痘の流行

 武智麻呂ら四人による藤原氏の政権は、安定した力をほこっていた。武智麻呂は、天平六年に
右大臣に
昇っていた。世の人々はこれら四人を、それぞれ家の名でよんでいた。武智麻呂は南家、
房前は北家、
ながらく式部卿に任じた宇合が式家、京職大夫を兼任していた麻呂が京家というよう
に。
 しかし運命は
突如逆転した。豌豆瘡(えんどうそう)、またの名裳瘡(もがさ・天然痘) の大流行であ
る。

 天然痘は九州からはいり、天平七年(七三五)には多数の死者がでていた。それが一年おいて、
天平九
年には都におよんだのである。

 四月一七日、公卿のなかでもっとも早く北家の参議藤原房前が死亡した。七月にはいって、その
一三
日、今度は陸奥から帰京したばかりの京家の参議藤原麻呂が死去。この末弟を追って二五日
南家の右大
臣藤原武智麻呂死亡。そして八月五日、藤原氏四人の兄弟ののころ一人、式家の参
議式部卿兼大宰帥宇
合も死んだ。

 都での天然痘の猛威が峠をこしかけた八月のなかばには、公卿としてのこされた者は、鈴鹿王
諸兄の、二人の参議だけになってしまった。鈴鹿王は長屋王の弟で高市皇子子、橘諸兄はも
との葛城王である。葛城王は弟佐為王とともに、この前年、生母県犬養橘宿禰三千
代の姓にちなん
で橘宿禰の姓をゆるされ、臣籍に降下し、名も諸兄と改めていた。

 八月のなかばすぎ、まず多治比広成が参議に補充されて、廟堂再建の手がうたれた。広成はや
はり天
然痘で死んだ中納言県守の弟である。九月にはいり、鈴鹿王は知太政官事に、橘諸兄は大
納言に、参議
になったばかりの広成は中納言になった。一二月、南家藤原武智麻呂の長子豊成が
参議に補充された。

翌年正月に諸兄は右大臣にすすんだ。こうして政権は、労せずして諸兄の手にころがりこんできた
ので
ある。

 天平一○年はほとんど人事の補充についやされた。それほどに天然痘は人材を失わせていた。
そのな
かに、ひとつのかわった人事異動があった。四月に大養徳守(前年大倭国は大養徳国と改
められていた)に任ぜられた式家藤原
合の長子広嗣が、一二月に大宰少弐に遷したのがそれで
ある。従五位上相当の官から従五位下相当の官
にうつったのだから、左遷であった。

 翌一一年、中納言多治比広成が死去すると、あらたに大野東人以下の参議四人が補充された。
東人の
ほかは、巨勢・大伴・県犬養の各氏である。これで、廟堂の陣容はととのったが、同時に公卿
は一氏族
から一人という古くからの慣行も復活したのであった。



最後の遣唐使

 承和元年(八三四)正月、事実上最後の派遣となる遺唐使が任命された。 大使は、「少(おさな)く
して大学に遊び、史漢を渉猟して、文選を諳誦(あんじゅ)す」
という、この時代の貴族を代表するよ
うな藤原常嗣、副使は『凌雲 (新)集』
の撰者小野岑守の子篁(たかむら) であった。

 じつはこれは、九世紀にはいってからの、二度目の遣唐使である。一度目のは、桓武天皇のとき、
延暦二〇年(八〇一)に大使・副使らが任命された。

そのときの大使は常嗣の父藤原葛野麻呂(かどのまろ)、そして、これには最澄
が随伴して、
かれらは帰朝後仏教界に新風をおくりこむことになる。ま
た例の菅原清公(きよただ)も同行して
紀伝道を修め、帰朝後嵯峨天皇に大きな影響を
あたえた。

 常嗣は、親子二代つづいての大使任命である。だが出発にあたり、副使小野纂とのあいだに悶着
がおきた。このときの遣唐使は、大使·副使が任
命されてから、承和三年・四年と二度出航をこころ
みながら、そのつど難
船してひきかえさざるをえなかったのだが、承和五年に三度目の出航をこ
ろみたときのことである。副使小野篁がふいに病気と称して下船してし
まった。やむなく大使らは
副使をのこして出航する。事情をしらべてみると、墓の言いぶんは、こうい
うものだった。

 遣唐使船は四隻で編成されるが、大使や副使がどの船に乗るかは、はじめから、とくにきまって
いる
わけではない。だから篁らは適宜船をえらび、大使の乗る船を第一船、副使篁のを第二船とし
て出航し
た。ところが二度の遭難で、大使の第一船はがたがたになってしまった。そのため大使
常嗣は、船を副
使の第二船とかえるように命令したのだという。それで篁は腹をたて、仮病をつかっ
て下船したわけで
ある。

 遣唐使として乗船を拒否することだけでも勅命違反で「絞刑に処すべき」重罪だが、硬骨漢の篁は、

よせばいいのに、遺唐使は労役だという風刺の詩「西道謡」というのをつくった。日ごろ篁の才能を

していた嵯峨上皇もこれをみて怒り、ついに隠岐国への流罪に処することになる。

    おきのくににながされける時に、ふねにのりていでたつとて、京なる人のもとに

    つかはしける              小野たかむら朝臣

  わたの原 やそしまかけて  こぎいでぬと 人にはつげよ あまのつり舟

 こんなハプニングはあったが、大使藤原常嗣らは無事使命をはたして、翌承和六年八月に帰朝
した。
そしてこれが、七世紀はじめからつづけられた遣唐使の最後のものであった。なぜなら、この
六〇年後
にもういちど遣唐使派遣の議がおこり、大使に菅原道真、副使に紀長谷雄が任命された
が、道真の建言
により、この派遣は中止されてしまったからである。もっとも、国と国との正式な交
流はこれでとだえ
たが、大陸との交渉がなくなってしまったわけではない。唐の商船などを通じての
人的·物的交流は、
これ以後さかんにおこなわれるようになる。




みそぎ池

 宮崎市の市街地北側の沿岸部にある阿波岐原森林公園の中にある。湧水をたた

えた池で、夏場は黄色い水仙の花が咲く。江田神社神域として守っている。

 古跡を紹介した 『日向見聞録』(江戸時代中期)は「檍原三瀬」の項で、日向灘に面
した一ツ葉海岸の入
り江に上瀬、中瀬、下瀬と呼ばれる場所があるとし、江田神社
のあたりを中瀬と
している。『日本書紀』は、ザナギノミコトを行った際、流れが
速い上瀬、 流
れのゆるい下瀬を避け、ほどよい中瀬を選んだとしており、
『日向見聞録』の記
述と一致している。
  令和2年5月1日  産経新聞

  国生みを終えたイザナギノミコトイザナミノミコは神生みもした後、黄泉で別れ、イザナギ
が最後
の神生みをする。 その様子を『日本書紀』はこう記す。

 <左の眼を洗ひたまふ因(よ)りて神を生みたまひ、号(なづ)けて天照大神と日(まを)す。
復(また)右
の眼を洗ひたまふ。因りて神を生みたまひ、号けて読尊と日す。復鼻を洗ひた

まふ。因りて神を生みたまひ、号けて素戔嗚尊と日す>

 いわゆる三貴子の誕生だが、その舞台を記紀は次の様に記す。

 <筑紫の日向の小戸の橘の檍原〉(日本書紀)

 <竺紫の日向の橘の小門(をど)の阿波岐原〉 (古事記)

 日向(現宮崎県)の「アハキハラ」という地名は共通している。イザナギはここで禊をしているので、
辺のはずだ。

 ここの現在の地名は宮崎市阿波岐原町。 黄泉の国から帰ったイザナギノミコトが身を清め、
神々を生ん
だ槍原、阿波岐原はここです」

 宮崎市神話,観光ガイドボランティア協議会の矢野義典会長は、同市北部にある小さな池
「みそぎ池」が天
照大神の誕生の地と話す。

 みそぎ池は、江戸時代に築かれた防潮林に囲まれているが、古代は日向灘に面した一ツ葉海岸
の砂丘の入
り江だった場所にある。

 「イザナギノミコトが禊をしたのは池というよりーツ葉海岸だったと考えています」

 みそぎ池を神域として守る江田神社の金丸孝史禰宜はそう話す。同神社にはの神生み

「浜くだり」という神事がかつてあった。 氏子らが、わらを舟底形に編んだ「しおつと」を2つ持ち、
海岸
で海水にさらされた砂「塩華」を入れ、1つを神社に供え、1つを持ち帰って家の各所にまいて
清める。

 金丸禰宜は、この風習をイザナギのを継承するものと考え、 「塩でお清めをする習慣の原形
でしょう」

 浜くだりの様子は、昭和39年に宮崎市がまとめた民俗調查報告 (平成2年『檍郷土史』所収)に
詳述され
ている。

 <日の出の刻、しおつとをかいばさんで波打際に進み、波端に素足を浅く踏み入れ潮水を妙いと
り、嗽(うがい)
をはじめる。(中略)次にしおつとが用意され、祝詞が唱えられる。

 報告は、祈りは日本の安全と繁栄、世界の安全へと広がると解説し、神事を終えた人々の姿を
こう書き残す。

 〈人生へのあせりもわだかまりもなく、無欲、幸せの中に今日の日のいとなみを迎へるかの如く>

 黄泉国で穢れた身体から最高神の天照大神を生んだ

イザナギの禊は、日本神話が説く「再生」の価値観を伝えるものだ。

 みそぎ池にまつわる伝承、神事は、その場所を抱える誇りを醸し出している。宮崎県記紀編さん
記念
事業推進室の瀬尾隆太主幹はこう話す。

 「みそ池るら始まる日向神話は、200に上る神楽として現代に生きています。自然と共に生きる
日本
人の精神性を示すものとして世界に発信することを目指したいと思います」
  令和2年5月1日  産経新聞




長屋王亡きあとの藤原氏

 長屋王亡きあとの藤原氏は、まさに順風満帆であった。四人の兄弟のうちののこる宇合麻呂も、
天平三年には、このときから正式の官職となった参議に列し、藤原
氏の四兄弟はそろって廟堂にな
らびたつこととなった。この時期の太政官の筆頭は、知太政官事
舎人親。左大臣·右大臣はとも
になく、大納言に大伴旅人藤原武智麻呂の二人がいたが、旅人はこの年七
月に死去した。
中納言は阿倍広庭一人。そして参議に藤原房前(ふささき)・宇合・麻呂の兄弟と、多治比県守・
鹿王・.葛城王・.大伴道足の七人。県守は前年死去した多治比池守のあとを、道足は旅人のあと
をそれぞ
れおそったもの。鈴鹿王は高市皇子の第二子で長屋王の弟、葛城王は 県犬養三千代が
不比等に嫁する
以前に美努王(みぬ)とのあいだに産んだ王で、光明子とは異父同母兄妹である。
そしてこれが、天平期の政局
の中心となる 橘諸兄その人であった。




藤原広嗣の乱

 諸兄を首班とする政権に重用された人物が二人いた。二人とも養老元年(七一七)に発遣した
遺唐使にしたがって入唐し、唐で研鎖を深めて天平六年(七三四) に帰朝した、
当時最高のインテリ
であった。僧玄昉と 下道真備 (しもつみちのまきび・のちの吉備真備)がそれである。

 玄昉は阿刀氏(あど)の出身。唐で智周大師に法相の教学を学び、ときの玄宗皇帝から三品に準
じて紫の袈裟
を賜わったほどの俊秀であった。帰朝にさいしては、経論五千余巻と種々の仏像を持
ち帰っている。
武天皇はこれを厚遇して紫の袈装の着用をゆるし、天平九年には僧正に任命し
て、宮廷内の仏殿に招い
た。その年の末、かれは、久しく憂鬱病に苦しんでいた皇太夫人藤原宮子
を、独特の呪術によって平癒
させ、天皇·皇后·皇太夫人のあつい信任を得たという。この時期の
聖武天皇による仏教政治は、この
玄昉の力によってまず発展したのであった。

 同じ船で帰朝した真備は、玄昉と提携していたらしい。吉備地方の豪族の出身で、帰朝したときに
従八位下という低い位階であったが、すぐに破格の一二階級特進で外従五位下となった。
地方豪族出身
者にあたえられる「外位(げい)」も、またすぐ改められて従五位下となる。中央豪族
なみの待遇をうけたわけ
である。玄防が宮子皇太夫人の病気をまじないでなおしたとき、真備は
皇太夫人づきの中宮亮(ちゅうぐうのすけ)であっ
た。聖武天皇はこの者の才能を愛した。天皇の催
す詩賦(しふ)の宴に、真備はかならずつらなっていた。

 天平一二年(七四○) 八月二九日、九州大宰府から一通の上表文(じょうひょうぶん)が朝廷にとど
いた。差出人は左遷さ
れて大宰少弐となっていた藤原広嗣、内容は近年の政治の乱れを指摘し、
君側の奸玄昉と真備を除け、
というものであった。その四日後の九月三日、また九州から飛駅が到
来し
た。広嗣が兵をおこし、反乱をくわだてたという報告をたずさえて。藤原広嗣の乱の勃発であっ
た。

 広嗣は式家宇合の長子である。左遷の理由は、京中にあるとき親族を「讒(ざん)し乱した」、つま
り一族を誹謗したからだと『統
紀』は述べているが、参議になっている南家の豊成があまりに温厚な
人物
であるために、無能よばわりでもしたのだろうか。そしてまた、左遷のうきめをみ、遠く九州に
あって都での風聞をきくにつけ、なりあがり者の玄昉
·真備などがはぶりをきかせているのに、憤懣
やるかたなかったことも
たしかであろう。

 朝廷ではただちに大野東人(おおののあずまびと)を大将軍とし、東海・東山・.山陰,・山陽・南海の
五道の兵一万七千人の大軍を動員して、鎮定にあたらせた。しかし広
嗣の勢力にはあなどりがたい
ものがあった。だいいち大宰府は、九州諸国の上に位置する行政府であっ
て、九州全土に対する
事実上の独立した政治的、軍事的支配権を朝狂廷から承認されていた。都府楼(とふろう)は九

の平城宮であった。広嗣はそこの事実上の長官である。なぜなら、広嗣は官職こそ少弐という次官

の第二席であったが、長官の帥(そつ)は欠員、次官第一席の大弐高橋安麻呂は右中弁を兼任し、
赴任していな
かったらしいからである。つまり広嗣は九州全土に対する統帥権を手中にしていた。
そしてこれにものをいわせて、全土の軍団の兵のみでなく隼人をも召集し、兵を三方にわけて、九
州上陸をはかる官軍を板櫃川(いたぴつ)で包囲しようとはかっていた。

 官軍はまず間諜を放ち、広嗣軍の動静をさぐるとともに、多数の勅符をばらまいて宣伝工作をおこ
った。広嗣は逆臣である。与同する者は悔い改めよ。広嗣を斬殺した者には、白丁でも五位以上
の位
をあたえよう、と。

 一〇月九日、官軍六千余騎と広嗣軍一万余騎は板櫃川をはさんで対峰した。
緒戦の箭合(やあわせ)せがはげしさ
を増したころ、官軍は、反抗する者の罪は妻子親族にもおよ
ぶぞ、と威嚇した。勅使は広嗣に対し、大
宰府の官人を勅命によって召喚しただけなのに、なぜ軍
勢をもっておしよせたのか、と詰問した。
広嗣
は答えられなかった。これをみた広嗣軍はにわかに動揺し、離反者が統出した。広嗣は兵を
引き、この
場を退却した。

 博多湾から船でのがれた広嗣が、五島列島の一つ、肥前国松浦郡値嘉島で捕えられたのは、
一〇月
二三日であった。大将軍大野東人は、朝廷の許可を得るまえに、一一月一日、広嗣とその
弟綱手を斬っ
た。あっけない幕ぎれであった。広嗣は船でのがれる途中、部下に「自分は大忠臣
だ」といった とい
う。乱の与同者に対する処分は死罪二六人、没官五人、流罪四七人、徒罪三二人、
杖罪一七七
人であった。




安積親王の急死

 聖武天皇のただ一人の皇子、安積親王の急死である。それは天平一六年閏正月、天皇が難波
行幸したときのことで
あった。天皇につきしたがっていた安積親王は、突然脚病をやみ、恭仁京へ帰
った。その二日後、親王は一七歳で命を絶ったのである。ときに恭仁京の留守官は、南家武智麻呂
の第二子藤原仲麻呂であった。安積親王の母は、夫人県犬養広刀自で、この皇子の誕生が

光明立后を実現させる直接のひきがねとなったのであった。横田健一氏は、この親王の急死を、
藤原仲麻呂による暗殺だとみておられる。というのは、これよりさき天平一○年に、光明皇后の一人
娘阿倍内
親王(のちの孝謙·称徳天皇)が皇太子に立てられたが、内親王の立太子など前後にその
例がない。だから
周囲の豪族たちもその処置を歓迎していない。橘奈良麻呂のことばにあるように

皇嗣はまだ決定していない、とひそかに言いふらす者さえあった。つまり阿倍内親王の皇位継承者と
ての地位は、たしかなものではなかったのである。もし阿倍内親王以外の者が皇位をつぐとしたら、
れはだれか。もっとも有力な人物は、天皇のただ一人の皇子安積親王である。そのために藤原氏
一流の
自己防衛策として、仲麻呂は親王を暗殺したのだという。



平城天皇

 藤原緒嗣と菅野真道との徳政論争によって、軍事と造作が停止されてから三か月をへた延
二五年(八〇六)三月一七日、桓武天皇は七〇歳の長寿をまっとうして、その生涯を閉じた。

 死に直面した天皇は、在位中の疑獄事件でみずからが処断した氷上川継·大伴家持らの名誉を
回復
し、天皇の半生を苦しめつづけた崇道天皇すなわち早良親王の霊をなぐさめるために、諸国
の国分寺
は、毎年春と秋の二回、七日間にわたって金剛般若経を読誦(どくじゅ)せよとの命令を
下した。
死後の平安をみず
から祈願しつつ、天皇は逝ったのである。しかし、軍事と造作で荒廃した公民に
生気をよみがえらせ
財政をたてなおし、国家の威信を回復するための有効な手だては、ほとんどほ
どこされないままにおわ
った。その課題の解決は、みなつぎの天皇にちこされたのである。

 新しく天皇になったのは、聡明ながら、やや情緒の安定を欠く、皇太子安殿親王(あて)であった。
平城天皇
である。即位とともに元号は大同と改められ、皇太子には天皇と同母弟の神野親王 (のち
嵯峨天皇)が
立てられた。父桓武天皇治世の晩年には、左大臣はおかれず、右大臣に神王(みわ
)、ただ一人任命された大納言には壱志濃王(いちしの)というように、太政
官の最高首脳は皇族が
占めていたのであったが、この二人の王があい
ついで亡くなったこともあって、新帝は受禅のあと、
藤原内麻呂(北
家) を抜擢して右大臣に任命した。上席の藤原雄友 (かつとも・南家)を追い越しての
右大臣任命だから、新帝はかれを厚く信任していたことになる。

 ちなみに内麻呂は、「徳量温雅、士庶悦び服す」とたたえられた徳望の士であったが、同時にまた、
長男真夏(またつ)を平城天皇の側近としなが
ら、次男冬嗣を皇太弟神野親王すなわち嵯峨天皇の
腹心に配するとい
う抜け目のないところがあって、このヨミの深さがのちの北家繁栄の基礎をきずく
のである。 この右
大臣內麻呂のもとに、藤原氏出身の公卿として、大納言雄友 (南家).中納言乙叡
(おとえ・南家).参議縄主 (たたぬし・式
家).同緒嗣 (おつぐ・式家).同葛野麻呂(かどのまろ・北家).
同園人(そのひと・北家) があり、他氏の公卿には中納言紀勝長・同
坂上田村麻呂·参議菅野真道
·同秋篠安人があった。そして、すくなくとも表面的には、これら公卿のあい
だに対立はないようにみ
うけられた。しかし翌大同二年一○月、伊予親王の謀反事件をきっかけとし
て、藤原氏南家の雄友·
乙叡らが排斥されることになる。



伊予親王事件

 平城天皇の異母弟に、南家藤原是公の娘吉子を母とする伊予親王があった。大納言雄友と吉子
は兄妹
である。その伊予親王が謀反をたくらんでいると密告する者があり、これを聞いた雄友は身
にふりかか
る危険をさけるため、このことを右大臣内麻呂に通報したのだが、結果的に、
伊予親王母子は大和国の
川原寺に幽閉されて数日後に毒をあおいで自殺し、通報した外舅(おじ)
雄友ばかりでなく、やはり南家の
や参議秋篠安人までが処断されることになった。

 数年後にだされた政府の公式見解では、のちの薬子の変の主役、式家の藤原仲成薬子がたく
らんだ
ことだとされているが、北家が関係しなかったかどうか、それはわからない。目崎徳衛氏は、
昇進を追
い越された雄友と右大臣内麻呂との対抗意識が伏線としてあって、精疑心の強い
平城天皇自身が伊予親
王のはでな性格を日ごろにがにがしく思っていたために生じた事件であろ
うといわれる。いずれにせ
よ、この事件を契機として、不比等嫡流の南家は勢力を失ってしまった。



文字 紀元前から?

 弥生時代から古墳時代にかけての石製品のうち、これまで砥石などとされてきた150例以上は筆
記用具
のすずりでは? 柳田康雄.国学院大客員教授 (考古学)が最新論文でそう指摘している。
日本での本格的
文字文化の広がりは5世紀ごろともされるが、石製品がすすりなら、文字の使
が紀元前にさかのぼる可
能性を示唆する。

 奈良県桜井市の纏向学研究センターの研究紀要で公表した。

 「魏志倭人伝」に登場する「伊都国」の都とされる三雲・井原遺跡(福岡県糸島市)で2016年、弥生

時代後期(1~2世紀ごろ)のすずりが見つかったことに注目。邪馬台国の有力候補地とされる
纏向遺跡
(奈良県桜井市、3世紀初め~4世紀初め)の出土例も合め、中国,近畿地方も含めた西日
本一帯で、弥生
時代などの石製品の実測や探索を進めた。

 その結果、これまでは大半が砥石とされてきた石製品をすずりと判断した。石製品がすり減って
できたく
ぼみや、墨のような黒色の付着物が観察できることなどが特徴という。

 日本が倭国と呼ばれた弥生時代中期中ごろ(紀元前100年ごろ)から古墳時代中期ごろ(5世紀ご
ろ)ま
でのものが中心で、当時の拠点集落からの出土物が多い。すずりが見つかった三雲・
井原遺跡では、中国・前
漢が紀元前108年に朝鮮半島に設けた楽浪郡(らくろうぐん)の土器も多
数出土している。柳田
氏は、倭国の文字文化が楽浪郡設置の頃までさかのぼる可能性も指摘して
いる。

 西谷正・九州大名誉教授(東アジア考古学)は「楽浪郡との接触が始まり、当時の日本に流入した
漢文化
の一つに、文字文化も位置づけることができる。今回の石製品の全てがすすりかどうかにつ
いては慎重な検
討が必要だが、西日本一帯に文字が広がったことを、すずりから推測できる点で

支持したい」と話す。 
   2020-5-4  朝日新聞
 (清水謙司)



大鳥大社(神社)

 大阪府堺市西区鳳 北町にある大鳥神社は、全国の大鳥神社の本社である。

 現在の正式社名は大鳥神社であるが、大鳥大社、大鳥大明神、大鳥大神宮などとも

呼ばれる。一般には大鳥大社の社名のほうが広く使用されている。

 祭神は、日本武尊·大鳥連祖神(むらじのおやかみ)と表記されている。

 もともとの祭神は大鳥連祖神であったらしいが、その後、ヤマトタケルが祭神と考

えられるようになり、定着したという。これは、大鳥神社の「大鳥」という名称とヤ

マトタケルの御魂が「白鳥」となって飛び立ったという神話が結び付けられて起こっ

たことらしい。

 以来、当社では長いあいだヤマトタケルを祭神としてきたが、一八九六(明治二十

九)年、明治政府の祭神考証の結果を受け、その指示により祭神を大鳥連祖神に変更

した。その後、一九六一(昭和三十六)年に、大鳥連祖神に加えて、ヤマトタケルを

祭ったという。




欠史八代

 俗にいう欠史八代という天皇(大王)が います。実際には歴史上に存在しなかったとされている
天皇のことで、『日本書紀』や『古事記』に書かれている、綏靖
懿徳孝昭孝安孝霊
孝元開化までの八人です。

 欠史八代というのは、明らかに八世紀に入って『日本書紀』や『古事記』が編纂されている最終
段階において、創作されたのであろうと考えられていますが、その天皇たちの中
に、葛城氏
領域内に宮を構えた天皇がかなりいるのです

 二代目の綏靖天皇が、葛城の高丘宮。三代の安寧は、片塩の浮孔宮。片塩は大和高田市だけ
ど葛城に入る。四代の懿徳の、軽の曲峡宮。これは橿原ですが、その当時はまだ
応神仁徳王朝
が進出していないので葛城に入ります。五代の孝昭は、掖上の池心宮
いって御所市三室。
六代の孝安も、室の秋津島宮で御所市、室といずれも葛城です。七代
の孝霊は、黒田の廬戸宮
でこれは違います。八代孝元は軽の境原宮で橿原市以西。九代
開化は、春日(奈良市油坂町か?)
率川宮

 はっきり葛城氏の領内に宮があったと言えるのは、綏靖、孝昭、孝安の三人。あとの橿原市、
大和高田市はそれに準ずるという感じです。


 『古事記」や、また後に『日本書紀』となる『日本紀』を天武が創らせた目的は、天皇の現人神化と、
万世一系による天皇家の絶対化です。そこで天武がもっとも嫌ったのは、氏
族が違う大王家(天皇
家)が並列することであり、大王家を凌駕しかねない勢力の存在だ
った。こういう天武の思想の下、
四世紀の一時期、大王家と婚姻を重ね崇神王朝と並立し
ていた葛城氏の首長たちの名は容赦な
く改竄され、彼らに代わって創作された大王たちが
登場したのです。  


 問題になるのは、なぜ後世に創作され、実在しないであろうと言われている天皇
の宮が、葛城に
相当数、集まっているのかということなのです。鳥越憲三郎さんは、崇神
の前に実際にこういう
欠史八代の天皇がいたのだという説を唱えているようです。葛城王
朝説にはこういったことが背景
にあるわけなのですが、崇神の前というと、三世紀前半か
ら四世紀前半にかけてこれだけの天皇
がいなければならなくなる。

 しかし、三世紀前半から四世紀前半にかけては葛城地方に巨大古墳がないのです。古墳上の
考察からいえば、葛城に天皇が宮を持っていて、王朝を構成していたとは考えられな
いのです。
文献だけではどうしようもない。

 では、なぜ欠史八代の天皇が創作されたかというと、蘇我氏の隆盛期に「天皇記」「国記」が編纂
されていたからです。

「天皇記」は高句麗の鋭利な頭脳を得て、蘇我氏が初めて国家には「天皇記」が必要であるという
思想に立脚し、聖徳太子らが編んだとされています。

 その時代の最高権力者は、いうまでもなく蘇我氏です。ときの大王は推古で、蘇我氏の血が入っ
ている。敏達用明崇峻、推古の各大王に聖徳太子も含めて蘇我氏の血が入
っています。
彼らは自分たちの祖先が出た葛城に、大王家の祖先の宮を創作したのです。

神武橿原に居を定めたとされるのも、橿原が蘇我氏の勢力範囲である高市郡に属しており、
蘇我氏をはじめとする渡来人が住んでいたからでしょう
 「天皇記」は、推古朝に完成しています。
『日本書紀』によると、六四五年の乙巳のクー
デター(大化改新)で蘇我蝦夷が自殺したさい、
「天皇記」は惜しいことに焼亡しました。

しかし、完成から焼亡するまでの約二十年間、蘇我氏は各氏族の了承のもとに、倭国の大王の
系譜とか国の成り立ちなどを書物にした。 だから、大化改新の際焼かれても、簡単にその内容は
消えるものではなかった。
 

  古代史の真相  黒岩重吾
 



秀吉の橋琵琶湖に移築



 琵琶湖に浮かぶ竹生島(滋賀県長浜市)の宝厳寺唐門 (国宝)など4棟と隣接する都久夫須麻神社
(竹生島神社)の本殿 (国宝)の計5棟が、豊臣秀吉が建
てた大坂城の極楽橋を移築した可能性が高い
ことがわかった。滋賀県によると、
1615年の大坂夏の陣で焼失した大坂城の建物はほかに現存せず、
派手好みの
秀吉らしさが伝わる貴重な遺構という。

 寺の唐門などは1603年秀吉の子秀頼の命で整備された。竹生島は秀吉が初めて城主となった
長浜の沖にあり、豊臣家と宝厳寺は縁が深かった。 
 極楽橋は、秀吉をまつる
京都の豊国廟に移築され、さらに竹生島に移されて唐門に使われた、と当
時の文
献に記述があるが、建物の調査で移築の可能性に迫ったのは今回初めて。

 唐門、観音堂(重要文化財)、2棟の渡廊(渡り廊下、重文)、神社本殿の5棟は連なって建つ。滋賀県
2013~20年、寺の4
棟を修理した際に神社も含めて調べ、屋根の軒を支える「組物」という柱上部の
雑な構造について共通点
を発見した。

 唐門と観音堂の組物の部材はすべて同じ寸法で、曲面の仕上げ具合も一致。本殿と渡廊の組物も
形は同じ
だった。「同じ棟梁の下、同じ設計でつくられたとしか考えられない」 (県文化財保護課)という。
色あせ
ていた各組物の影色も、 すべて同じ図柄。配色とわかった。同じ形の金箔の透かし彫り飾り金
具を付けたと
みられる釘穴もあった。

 県は「5棟は元は一体の建物だった可能性が極めて高い」と判断。「絢爛豪華な桃山時代の様式の
建物
で、秀吉が関わっていたと推測される」という。移築の際に島の地形に合わせて分割、改変された
とみる。

 寺の4棟は彩色などが復旧され、移築当時の鮮やかな姿を取り戻した。竹生島へは、県内の長浜港
(長浜
市)や彦根港(彦根市)から船で渡る。 筒井次郎)

技術を総動員 天下人のシンボル

 千田嘉博・奈良大教授(城郭考古学)の話 築城名人だった豊臣秀吉の城の建物遺構はほかに残っ

ておらず、非常に貴重だ。秀吉は税金を惜しみなく使って、当時の最高の技術を総動員し、素晴らし

いものをつくった。京都に通じる極楽橋は天下人・秀吉のシンボルでもあり、この橋がどのような姿

だったかを想像する上でも大きな成果といえる。

大坂城の極楽橋

 1596年、城の北部(京都側)の内堀に架けられた。長さ約40mで、イエズス会宣教師ルイス・フロイス
の記録によると、鍍金を施し
た屋根や太陽を浴びると輝きを放つ小櫓などがある豪華な橋だったという。 

   2020-6-2  朝日新聞

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家康が「寄進」忠誠心か見逃しか
 琵琶湖に浮かぶ竹生島。岸壁にへばりつくように宝厳寺がたつ。その一角を占めるのが国宝の
唐門と重要文化財
の観音堂や二つの渡り廊下である。

 巨大な扉を真っ赤な牡丹の花が埋 め、極彩色の鳥や動物が唐破風を飾る。黒漆に映える飾り
金具はまばゆい
ばかり。孤島の寺にしてはあまりに絢燭豪華な桃山様式の門を見上げ、訪れ

る人は一様に驚く。それもそのはず、 徹底的に破壊されたはずの豊臣大坂城の面影を残す唯一の
遺構なのだから。

 唐門は、かつて内堀にかかっていた 「極楽橋」の一部だ。橋と言っても屋 根をかけて望楼を設け
る豪壮な建築
で、『日本史』で知られる宣教師ルイ ス·フロイスは「黄金で輝く高貴な橋」(『一五九六年
度年報補遺』)と
書き残す。京街道の整備にともなう表玄関として、その威容は当時の絵図からもうか
がえる。秀吉の死後、京都東
山の秀吉の墓所、豊国廟に移築され、さらに徳川家康が竹生島に
「寄進」
(『舜旧記』)したことが記録を通し て知られていた。

 滋賀県は2013年から、唐門や観 音堂など4棟で屋根のふき替えと、漆や彩色の塗り直しに着手。
観音堂や渡
廊も極楽橋の一部だったことが判明し た。宝厳寺の峰覚雄管主は「日光で白くなって
いた漆もきれいになった。一
体で残されていたのですね」と目を細 める。

 それにしてもなぜ、大坂城の遺構が 琵琶湖の小島に残ったのか。豊臣の記 憶を抹殺したかったは
ずの家康は、どうしてここだけ見逃したのか。

 ちまたには、徳川方が秀頼に全国の寺社復興をけしかけ、竹生島でも大規 模移築で豊臣の財力
をそごうともくろ
んだなど諸説ある。が、大阪城天守閣の北川央館長(織豊期政治史)は「このころ
家康は、まだ牙をむいていな
い。むしろ忠誠心の表れではなかったか」。淀君や浅井氏めかりの
竹生島へ
の「寄進」に、豊臣路線を継承した家 康の誠意をみるのだ。

 もはや真実は闇の中だけれど、よみ がえった唐門などに、時代に翻弄され た数奇な運命を感じる
のはそう難しくはない。

 極楽橋をはじめ、幻の京都新城や、 秀吉の可能性がある木像と、秀吉関連 の発見が続く。「信長
や家康に比べて
秀吉の書状や命令書は多い。支配領域が広がり、新たな施策を次々に打ち出 した
からでしょう。歴史の見方を変え
る資料はまだまだ眠っていると思う」と北川さん

 新知見とともに歴史の闇も深まるば かり。天下人の「遺産」は現代に何を 訴えているのだろうか。 
   朝日新聞 2020-8-5
 (編集委員・中村俊介)



ホケノ山古墳

 ホケノ山古墳は全長約80mの前方後円墳。近くの墓古墳纏向石塚古墳とともに3世紀後半に造ら
れた
国内最古級の古墳と考えられていた。

 2000年3月、大和古噴群調査委員会がホケノ山古墳を発掘調査し、築造時期を3世紀中ごろと断定し、
分かっている範囲で最
古の古墳と発表した。女王卑弥呼がおさめた邪馬台国の有力候補地とされる
纏向遺跡内であることから、 多くの専門家が邪馬台国とのつながりを指摘。現地説明会には約7千人が
訪れた。

 当時、調査担当だった橿原考古学研究所の岡林孝作調査部長は「古墳がいつから造られるようになっ
たの
かを考える上で貴重な成果だった」と振り返る。

 埋葬施設は竪穴式石室より古い「石囲い木槨」という特殊な構造をしていた。

墳丘に掘った穴の内壁に石を積み上げ、天井には木が組み上げられていた。破砕された中国鏡も一緒に
見つ
かった。どちらも弥生時代の墳墓にみられる特徴だ。

 墳丘も後円部に比べて前方部が小さく、初期の古墳である前方後円墳の中でも古い形をしていた。
岡林さ
んは「弥生時代末期の墳墓と古墳時代前期の古墳の特徴を併せもつ古墳だった」と語す。

 ホケノ山古墳の調査成果が、墳丘と埋葬施設、副葬品から古墳の築造時期を検討する基礎資料になっ
てい
るという。

 現在のホケノ山古墳は石囲い木郷や葺石が復元されている。境丘の上から纏向遺跡を一望できるとあ
って
歴史ファンが訪れる。 14年には地元の住民らが「ホケノ山古墳景観保全を語る会」を作り、歴史教室
を開
催している。代表の杉本義衛さん(72)は「地域の誇りの古墳をこれからも大切に守っていきたい」と
話す。

    2020-2-6  朝日新聞




上黒岩岩陰遺跡(かみくろいわいわかげ)



 愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡で出土した1万4500年前(縄文時代草創期)の石偶に、これま
で知られていなかったノコギリ状の文様が多数あることが、中園聡·鹿児島国際大教授らの研究チーム
の3次元計測でわかった。1万年以上前の人類の精神世界に迫る発見だ。 


 石偶は石でできた人形の人工物。この遺跡は1960年代に発掘調査され、下半身にすだれ状の微細
な線を縦に何本も彫り込むなど、国内でも類例のない線刻石偶13点が出土したことで知られる。
いずれも長さ数cmで、一部には髪や乳房らしい表現もあり、出産時のお守りともいわれる。

 その線は浅く肉眼で確認しにくいため、中園さんらは昨年までに石偶の過半数を高解像度で撮影し、
デジタル画像で3Dモデルを作製して観察した。その結果、複数で鋸歯文(きょしもん)と呼ばれるギザ
ギザ文様がいくつも横方向に刻まれ、腹部などを覆っていることが判明した。これまで鋸歯文を想定

する指摘はあったが、より多くの模様を精巧な画像で初めてとらえた。

 中園さんは「彫り込みの痕跡やタッチから人工的な線と考えざるを得ない。まじない的な模様の可能
性もある」。先史時代の文化に詳しい春成秀爾。国立歴史民俗博物館名誉教授は「世界の原始絵画
と比較して、横描きされた女性器の表現ではないか」 と話す。

研究成果は『季刊考古学・別冊32』(雄山閣) 報告されている。 
   2020-6-9 朝日新聞 (編集委員,中村俊介)


上黒岩岩陰遺跡

 愛媛県の山あいに位置する縄文時代草創期から続く

遺跡で、1960年代から70年代にかけて発掘調査さ れ
た。屋根のひさしのように突き出た岩の下から、土器や
石偶、石器、骨製のヘラが腰に刺さった人骨や埋葬さ
れた犬の骨も見つかった。墓地ともいわれる。 




天然痘平城京に猛威

 天平文化と呼ばれる貴族・仏教文化が花開いた奈良時代。天平9 (737)年に大流行した天然痘では、
人口の
約3割が命を落としたとされる。

 奈良時代の基本史料『日本紀』によると、天平7(735年に九州で発生した疫病は、その後全国で流

行。一度は下火になったが、737年の春になると再び九州から流行が始まり、夏から秋にかけて都の
平城京をはじ
め、全国で猛威を振るった。

 「古代に疫病は何度も流行していますが、この時は中世ヨーロッパ社会を変えたペストの大流行のよ
うな、空前の
大惨事だったと言えます」京大大学院の吉川真司教授(日本古代史)は話す。

全国で死者0万人超

 奈良時代前半の全国の総人口は約450万人。正倉院文書に残る諸国の正税帳(財政報告書)から死
亡者の比率が
推計できるといい、和泉国(現在の大阪府南部)で人口の45%が亡くなるなど、全国
100万~150万人が死
亡したとされる。

 国は全国の国司に向け、症状を説明し、生魚や生野菜を食べることを避けたり体を温めたりなど、
対処の仕方を細
かく記した指令書を出している。渡辺晃宏・奈良大教授(日本古代史)は「このほか
も租税の免除や、8度にわ
たる食糧の無料配布、大敵など、当時としては考えうる限りの手厚い施策を
とっている
ことがわかる」と指摘する。

 だが、被害は都の貴族たちにもおよび、政権中枢にいた藤原氏の四兄弟(武智麻呂房前宇合
麻呂)ら、33人
いたとみられる四位政上の貴族のうち、11人が死去。朝廷は機能不全に陥った。

 流行の原因は、朝鮮半島の新羅から訪れた使節が運んだとも、遣唐使が持ち帰ったともいわれる。
だが、ウイルス
への知識はなく、医療体制も脆弱な時代。当時の人々は、疫病を疫病神や鬼神のしわ
と考え、鎮めようとした。

 平城京では、道路の側溝や運河の跡などから、疫病神や鬼神の顔を土器に描いた「人面墨書土器」
が数多く出土す
る。まつりをして水に流し疫病を都から追い払おうとしたらしい。

 一方で、疫病の原因の一つは、神亀6 (729)年に無実の罪で藤原四兄弟に陥れられ、自殺に追い込
まれた皇族
の有力政治家、長屋王の怨霊によるたたりとも考えられていたようだ

 平城京で出土した木簡に、藤原麻呂の邸宅から捨てられたとみられる天平8(736)年ごろの油の利用
帳簿があ
る。その裏に天地を逆さまにして記された文字があり、正確には解読不能だが、麻呂の家来
が「疫病がご主人様を襲
わず、山陽道を退きますように」との願いを記したともとれる。馬場基·奈良文
化財研
究所史料研究室長は「長屋王の怨霊に狙われているご主人様の安泰を祈る、家来たちの切な
い思いに見えてなりません」と話す。

 願いはかなわず、麻呂は737年に亡くなる。「藤原四兄弟は兄弟なので行き来が多く、見舞い合ってい
た可能性もあるし、必死の
対策を密に練っていたのかもしれない。これが運命の分かれ道だった」と、
馬場さんは推測する。

政治の中心が皇族へ

 疫病がおさまった後、聖武天皇は、藤原四兄弟を中心とした政治から、皇族中心の政治へと転換。
荒廃した土地を
再開発するべく、開墾地の永久私有を認めた「墾田永年私財法」を発布するなどの社
復興策を手がけていく。仏教への傾倒も強め、疫病や飢饉などに苦しむ人々が救われることを願い、
東大寺に大仏が
建立される。

 吉川さんは言う。「疫病を経験した後には、社会の仕組みは大きく変わってきた。疫病はただの歴史
の一コマでは
なく、政治や文化などに大きな影響を与えてきたことを、今の私たちも知っておく必要
ある」    2020-6-10  朝日新聞(夕刊)
(渡義人)



平安神宮

 東京奠都(てんと)の延暦十三年(七九四)より千百年にあたる明治二十八年(一八九五)、

桓武天皇を祭神として創建された。紀元二千六百年にあたる昭和十五年(一九四〇)

には、平安京有終の天皇である孝明天皇も合紀された。

 社殿は、平安宮の中心施設である朝堂院をおよそ八分の五に縮小して復元されて

いる。二層の神門は鷹天門、中央正面一層入母屋造の拝殿は大極殿、そこから連なる

左右の回廊から東に蒼龍楼、西には白虎楼がある。 いずれも平安京のものを厳密に

考証して復元された国指定重要文化財である。なお、昭和四年に建立された大鳥居

及び昭和十五年に増築された社殿群は国の登録有形文化財である。

 本殿の背後一帯には、約三万平方メートルからなる神苑が広がる。四つの池を中心

に、各時代の庭園形式を取りいれた池泉回遊式の近代を代表する広大な日本庭園で

国の名勝に指定されている

 例祭は四月十五日。東京奠都の日にあたる十月二十二日には、本神宮の祭札として、

京都三大祭の一つである時代祭 (京都市無形民俗文化財)が行われ、千年にも及ぶ

各時代の歴史風俗絵巻が錦秋の都大路にくりひろげられる。

  京都市

 



四天王寺創建の由来

 四天王寺は、聖徳太子が推古天皇元年(五九三) 摂政皇太子として最初に建立

された寺であります。 父帝用明天皇が崩御された後、 皇位の継承をめぐって、

崇仏派の蘇我馬子等と排仏派の物部守屋等が相争った時、当時十四歳の少年

でありましたが、後の聖徳太子、厩戸豊聴耳皇子は、 馬子等の崇仏派のため

に、仏法守護神である四天王に戦勝を祈願されたのです。 幸い戦いは崇仏派の

勝利に終わりました。 聖徳太子は二十歳の時、摂政皇太子となられるに及んで、

荒陵(あらばか)の地に日本最初の官寺を建立して、ここに四天王を祀り、また
四箇院の制に則って、各種の社会事業の施設を設けられました。

四天王寺が、特に思想的に重要な意味を持つのは、ここに四箇院が建設された

ことによってであり、四箇院とは、敬田、悲田、施薬、 療病の四つの施設のこ

とであります。敬田院とは仏の智慧を悟るところ、つまりは仏教精神を基本に

健全な教育を育み、悲田院は老人や孤児を救済する施設であり、施薬、 療病の

二院は今日の病院にあたります。仏教には古くから福田思想があり、 太子もこ

の精神に則ってこれらの福祉施設をつくられたのでありましょう。この福祉施設

は日本最初のものであり、 後世に深い影響を与えたものであります。 

四天王寺伽藍は、 日本でもっとも古い様式に配置され、 一般に四天王寺式と呼

ばれています。伽藍の中枢部は、中門(仁王門)を入ると五重塔があり、 金堂、

講堂の順に南面して一直線上に建てられています。 中門と講堂とを結んで左右

に回廊があり、塔はもと仏の舎利をおさめたものであって仏をあらわし、 金堂は

法を、講堂は僧をあらわして、そこに仏法僧の三宝が象徴されているのです。 な

お今次の再建にあたっては、基壇にあたる地域から飛鳥を始め各時代の古瓦が

発掘され、この寺の歴史を物語るものがありました。

今日においても聖徳太子ゆかりの霊場として、広く一般市民の信仰を集め、

毎年春秋二季のお彼岸には百数十方の参拝者が参詣致します。毎月二十一日の

大師会にも常に数万の参拝者があり、境内には露天が軒を並べて賑わっていま

す。今もなお「大阪市民のお仏壇」 の名で、 各宗各派を超えて信者を集めてい

るのであります。



平安期にステイホーム

 平安時代の都、平安京(京都市)は、その名の通りの平安な場所ではなかった。頻発する
疫病をおさめるため、国が始めたまつりは、やがて民衆主導へと変わり、その願い
ととも
に現代まで受け継がれている。

 正史『日本三代実録』は9世紀後半、都でたびたび疫病が流行したことを記す。貞観3
(861)年に赤痢で多くの
子どもが亡くなり、その後もインフルエンザとみられる「咳逆(がい
ぎゃく)」で多数の死者が出た。

 疫病の原因は、かつて暗殺事件の嫌疑をかけられた早良親王 (750~85) ら、非業
死を遂げた6人の怨念にあ
るとされ、期廷は貞献5(863)年、大内裏の南にある神泉苑
初めて「御霊会(ごりょうえ)」を
開き、疫病の終息を願った。

西本昌弘・ 関西大教授(日本古代史)は「無実の罪で謀反などのに問われた人々の霊
慰め、読経や供物,芸能で
もてなし、疫病にならないようにするためだったと話す。

 御霊会は、その後しばらく記録に登場しないが、10世紀末になると民衆主導で開かれ
ようになる。この時もま
た、人々は投病に苦しめられていた。

都から人が消えた

 歴史書『本朝世紀』などによると、正暦5(994)年に天然痘が大流行し、都の道沿いは病人
であふれ、亡くなっ
た人々の骸骨が並んだ。 疫神が街を歩き回るとのうわさも広がり、
貴族だけでなく、庶
民に至るまで門戸を閉ざし、街路から往来する人の影が消える現象も
起きている。

 八木透・佛教大教授 (民俗学)は「まさに現代のステイホームの原型。知識がなかっ
平安時代の人も、直感的に
感染防止策がわかっていたのかも」と話す。

 この時、京都の船岡山で御霊会が開かれたが、まつる対象は特定の人物ではなく疫神。
「民衆にとって、昔のよく
知らない人の霊ではわかりづらかったのかもしれません」

 朝廷の財政が困窮したこともあり、民衆主導の御霊会はその後も継続して開かれる。

869年の御霊会が起源との伝承がある祇園祭のほか、春の花が散る頃、花びらに乗っ
疫病を引き起こす要神を鎮
める「鎮花祭」など、疫病封じのまつりは都市祭礼として定着し、
現代まで続いてきた。

今年も形変え実施

 新型コロナウイルスの流行が拡大していた4月12日、今宮神社では京都三大奇祭の一

つ「やすらい祭」が開かれた。鎮花祭の流れをくむまつりで、疫神を花傘で集める行列で
知られるが、今年は中止
に。おはやしの代わりに琴を演奏するなど、一部形を変えて神事
だけは実施された。

 佐々木従久宮司は話す。「まつりの形は変わっても、疫病を鎮めたいという願いは変
らない。こういう時こそ何
が出来るか考えることが、長年人々がつないできた思いを残すこ
とにつながる」
   2020-6-17 朝日新聞(夕刊) (渡義人)


アヤソフィア、モスクに

 トルコの最大都市イスタンブールの世界遺産アヤソフィアをめぐり、トルコの行政裁判所は
10日、「イスラム教礼拝所(モスク)から博物館に変えた1934年の政府決定は無効」との判断
を出した。エルドアン大統領は直後にアヤソフィアをモスクに戻す大統領令に署名した 
アヤソフィアはピザンツ帝国時代の537年にキリスト教会として建てられた。ギリシャ正教の
総本山だったが、1453年にイスラム教のオスマン帝国がモスクに改修。 トルコ共和国の
「建国の父」アタチュルクは政治と宗教を分ける世俗主義を導入し、アヤソフィアを無宗教の
博物館とした。イスラム系団体がこの政府決定の無効を訴えていた。アタチュルクの決定を

覆したことでイスラム勢力は勢いを増すとみられる。
 国連教育科学文化機関(ユネスコ)は10日、「事前協議なしの決定で非常に遺憾」との声明
を出し、トルコ政府の決定が世界遺産登録の前提となっているアヤソフィアの「普遍的価値」
に影響する可能性に言及。ギリシャのミツォタキス首相は同日、「世界の文化的な財産と認
識してきた人を怒らせるものだ」とトルコを非難した。

 エルドアン氏は10日夜の演説で「アヤソフィアは国内問題であり、司法判断へのいかなる
反論も主権侵害とみなす」と述べた。 24日にアヤソフィアで最初の金躍礼拝をすると宣言し
た。

 政府決定を受け、アヤソフィア前には数百人が集まり、「アラー・アクバル(神は偉大なり)」
と連呼。年金生活者のオルハンアイベキさん(53)は「トルコのイスラム教徒にとってアヤソフ
ィアはかけがえのないもの。モスクになってうれしい」と話した。

 国民の大部分がイスラム教徒のトルコだが、アタチュルクは西洋的近代国家をつくる上で、
前身のオスマ ン帝国の根幹だったイスラムを障害と捉え、世俗主義を導入した。トルコの歴
史に詳しいボアジチ大学のエデム。エルデム教授は「アヤソフィアをモスクから博物館にする
ことで、国内外に世俗主義国家としてのメッセージを送る狙いがあった」と説明する。

 一方、イスラム勢力は世俗主義を盾にした軍などに抑圧されてきた。エルドアン氏はイスラ
ム側の代表的存在だ。世俗主義の象徴だったアヤソフィアのモスク化を実現したことで、エル

ドアン氏は支持基盤のイスラム保守層に強くアピールすることになった。
2020-7-12  朝日新聞(イスタンブール=其山史晃、ローマ=河原田慎一)

トルコ

 トルコの世界遺産、アヤソフィアの「モスク化」決定について、エルドアン政権寄りのトルコ
英字紙デーリー・サバハ(電子版)は13日付の論評記事で「国家主権と名誉の問題」

だと位置付け、「トルコは主権ある国民国家として、ついに国際的圧力を無視し得る十分な
自信をつけた」と主張した。

 アヤソフィアは6世紀にビザンツ帝国がギリシャ正教の聖堂として建設したが、1453年に
イスタンブールを征服したオスマン帝国のメフメト2世がモスクに改造。世俗主義を国是に
掲げたトルコの初代大統領アタチュルクの下で、1935年に「無宗教の博物館」となった。

 モスク化の根拠となった10日の判決で、トルコ最高行政裁判所はアヤソフィアは「メフメト
2世の個人財産」だと」し、彼がモスクとして使用することを認めたと指摘。アタチュルク政権
が博物館への変更を決定した34年の閣議決定は無効だと判断した。

 エルドアン政権は2016年に起きたクーデター未遂事件の後、司法や報道機関、警察や軍
の関係者ら少なくとも16万人を一時拘束し、ほぼ同数が失職したとされる。政権批判を許
さぬ雰囲気の下、判決前からモスク化は容認されるとの見方が大勢だった。

 イスラムの価値観を重視するエルドアン大統領は、過去の世俗主義政権の下で冷遇さ

れたイスラム保守層に光を当て、支持を得てきた。 中東や東欧、北アフリカまで支配した
オスマン帝国の再興を標榜し、「現代のスルタン (支配者)」と称されることもある。

モスク化は「建国の父」であるアタチュルクを超えようとする試みとも解釈できる。

 ただ、敵を見定めて激しく攻撃するエルドアン氏の政治

手法で国内の分断は深刻化

し、支持にも陰りが出てき

た。 アタチュルクの精神を受

け継ぐ最大野党、共和人民党

(CHP) は昨年の地方選で

エルドアン氏の与党、公正発

展党(AKP) からイスタン

ブールと首都アンカラの市長

の座を奪った。エルドアン氏

支えできと著名な關僚経驗

者が相次いでAKPから去っ

たほか、新型コロナウイルス

感染拡大による経済低迷の長

期化も確実だ。

 こうした情勢をふまえ、ト

ルコ英字紙ヒュリエト・デー

リー・ニューズ (電子版)は

13日付の論評記事で、「アヤ

ソフィアのモスク化だけでエ

ルドアン氏が次期選挙での当

選を確実にできるとは考えづ

らい」との見方を示した。 ま

た、モスク化はバルカン半島

などにあるオスマン帝国時代

の遺跡の扱いをめぐる議論に

悪影響を与えかねないとし、

キリスト教世界からの '反

撃,に懸念を示した。
  2020-7-27 産経新聞

(カイロ佐藤貴生)

フランス

 仏紙フィガロは11日付の紙

面で「アヤソフィアは遺恨の

はけ口になった」と論評した。

トルコの欧州連合 (EU) 加

盟という悲願がかなわず、エ

ルドアン大統領が挑発的行為

に出たという見方を示した。

 同紙は「EU加盟の見込み

があったとき、エルドアン氏

は決して危険を冒そうとしな

かった。 だが、トルコはシリ

アやリビアでの行動で欧米の

批判を浴び、EU加盟の夢は

沈没した。今回の決定は、ト

ルコが誰にも尻込みせず、独

立した存在だと認めさせるた

めの宣伝だ」と批判した。

 2003年の首相就任以

来、17年間国権を握るエルド

アン氏が突然、アヤソフィア

をモスク化したのは、「23年

予定の総選挙で勝利を確実に

するためだ」とも論じた。

 昨年の地方選で与党、公正

発展党(AKP)は大都市で

低迷した。エルドアン氏が今

回、支持基盤であるイスラム

保守層のてこ入れをしようと

したのは明らかだ。

 今回の決定は「米欧キリス

ト教圏に対抗するイスラム圏

の大国」という演出が注目さ

れたが、歴史はもっと複雑だ。

 16日発行の仏週刊誌ルポワ

ンは、フランスとトルコの愛

憎の関係を振り返った。

 16世紀、仏王フランソワ1

世はキリスト教徒でありなが

ら、宿敵だったハプスプルク

帝国に対抗するため、オスマ

ン帝国と同盟を結んだ。17世

紀、ルイ14世は、オスマン帝

国によるウィーン包囲を大い

に祝福したという。

 18世紀末、蜜月関係は一変

した。ナポレオンはオスマン

帝国下のエジプトに遠征。第

一次世界大戦後、フランスは

オスマン帝国領だったシリア

を委任統治し、領内から亡命

したアルメニア人を大勢受け

購入れた。

 現在のフランスは、政教分

離が国是。宗教を使って権力

固めをしようとするエルドア

ン氏への視線は厳しい。

 週刊誌ルポワンは、キリス

ト教圏でも「宗教による力の

誇示」が行われていた例とし

て、スペインの世界遺産、コ

ルドパのメスキータ(モス

ク)に言及した。

 メスキータは13世紀、キリ

スト教徒がイスラム教徒を放

逐した後、大聖堂に改造され

た。同誌は、エルドアン氏が

宗教組織を利用して、フラン

スやドイツのイスラム移民社

会に影響力を行使し、西欧へ

の同化を阻んでいると批判し

た。

 17日付仏紙ルモンドは、ド

イツに亡命したトルコ人作家

の寄稿を掲載。「アヤソフィ

アのモスク化は、政教分離を

信奉するトルコ人に平手打ち

を食わせた。エルドアン氏

は、法と民主主義を重んじる

西欧の価値にとらわれなくな

った」という嘆きを伝えた。
  2020-7-27 産経新聞

(パリ 三井美奈)



興福寺

 興福寺は平城京遷都にともなって造営された。その際、工事の無事と

建物の安泰を願って、金、銀、真珠、水晶などで作られた無数の工芸

品が地中に埋められた。展覧会のプロローグでは、焼失した中金堂跡か

ら発掘されたこれらの鎮壇具を紹介し、見る人を1300年前へのタイ

ムトラベルにいざなう。 

 銅製の阿弥陀三尊像は、阿修羅像を発願した光明皇后の母、橘三千代

が日ごろ拝んでいたと伝えられる。

光明皇后は734 (天平6) 年、母の供養のため興福寺に西金堂を建て

た。お堂の本尊(焼失し鎌倉時代に復興)を取り囲んだのが、阿修羅な

八部衆像と十大弟子像だ。本展では、興福寺に伝存する1体すべてが

一堂にそろう (4月19日まで。2日以降は1体を展示)

 八部衆像は仏に仕える神だが、人間の姿でリアルに表現されている。

内面の微妙な心の動きまでを描写する阿修羅像は、単独で展示室に安置

し、360度全方向から拝観できるようにステージをしつらえた。

 再建工事が進む中金堂をテーマにした展示では、薬王・薬上菩薩の2体

の巨像が目にとまる。四天王像などとともに、新しい中金堂に安置され

る鎌倉時代の作品。釈迦如来像の頭部は、最近見つかった史料から、大仏

運慶の作であることがわかった

 

  2009-3-30  朝日新聞 





万葉を旅する

 
 甘樫丘の頂上で昭和天皇に説明する犬養孝(左)
1979年12月4日 2021-6-8  朝日新聞 

  采女の袖吹きかへす明日香風

   都を遠みいたづらに吹く

 (宮中の采女たちの柚をはためかしていた明日香の風
   都が藤原に移った今、むなしく吹いている)

 大和三山や田んぼの中に点在する宮跡を見渡せる甘樫丘(奈良県

明日香村)の遊歩道脇に、犬養が初めて揮毫した志貴皇子の万葉歌碑

がある。建立は67年。「具体的なものがないと甘樫丘の景観の大切さ

が人々に伝わらない、とみんなで先生を説得した」。学生時代から犬

養に師事した兵庫歴史教育者協議会長の山内英正(72)は振り返る。

 明日香村では、60年代半ばから古都ブームで観光客が増える一

方、住宅建設の波が押し寄せ、遺跡や景観の保全が課題となった。

犬養は地元の人や者古学者らと国に保存を働きかけ、歴史的風土の

保存と住民生活の両立をめざす「明日香法」が80年に成立した。

 「面としての景観は、破壊したら元には戻らない。 そこに住む人

々が誇りを持って、自分たちの土地を守りたい、という気持ちにな

れるように、という点を先生は強 調していた」と山内は話す。工場

廃液で海が汚染された島根·江律、石灰石の採掘で削られた和歌山

白崎、ゴルフ場が計画された奈良,吉野など、万葉故地が危機に陥る

たびに犬養は企業や地元に足を運び、脆年まで保存を訴え続けた。
  2021-6-8  朝日新聞 =敬称略(岡本直也) 




狭井神社 和田萃

 大神神社から山辺の道を二〇○メートルほど北へたどると、摂社の狭井神社がある。本殿の

東北隅に「狭井」(「神聖な泉」の意) と称する泉 (井戸)があって、古来、信仰を集めてきた。
近年、施設が整備され、いつでも自由に「御神水」をいただくことが出来る。軟らかでおいしい水。

眼病に霊験あらたかな御神水としても知られ、近年、とりわけ人気がある。狭井神社を訪ねら

れたら、ぜひとも味わってほしい。

 『延喜式』」の神名帳には、城上郡に狭井坐大神荒魂 神社五座とみえる。その社名は、「狭井

川の辺りの狭井の地におられる大神の神の荒御魂を祀る神社」の意で、大神荒魂神をはじめ
五柱の神を祀ることを示す。現在では、大神荒魂神を主祭神とし、大物主神·姫踏鞴五十鈴姫命
·勢夜多々良姫·事代主神が配祀されている。

 「荒魂(あらみたま)」という概念はわかりにくい。少し説明を加えよう。日本の基層信仰 (神祇
信仰)では、肉体と霊魂(タマ)は本来別のものとされ、肉体が滅んでもタマ は永遠に生き続ける
とされていた。タマが肉体に篭っていると正常に活動できるが、その活動が弱まると病気になり、
また驚いたり (「魂消・たまげる」という)、気を失ったりすると、タマは一時的に肉体から離れると
観念されていたので、タマを再び肉体へ込める必要があった。沖縄では、今でも「マブイゴメ
(霊込め)」が行なわれている。

そしてタマが肉体から完全に離れてしまうと、人は死ぬと考えられていた。

 神々にも夕マがあるとされ、神霊の親和·平安·調和などをもたらす顕著な力を和 魂(にぎたま)、
積極的·活動的な力を荒魂と讃えた。したがって『延喜式』が成立した一〇世紀前半段階には、
狭井神社では大物主神の荒魂を、大神神社では大物主神の和魂を配るとされていたのである。
しかしこうした和魂·荒魂の観念は、古代でもやや新しい段階のものと思われる。『記紀』にみえ

る大物主神に関わる伝承では、心やさしい神としての側面と、荒々しい崇り神としての側面を

併せ持つ神であった。

 元来、狭井神社では滾々と湧き出る神聖な泉を、「狭井の神」として祀っていたのだろう。

湧水は「井」とも称された。後に大神神社に近接するところから、その摂社とされ、さらには

狭井坐大神荒魂神社と称されるに至ったと考えられる。
  古社を旅する  和田萃



桧原神社 和田萃

 狭井川の辺りから玄賓庵をへて、桧原神社に至る道筋を歩いていると、神の山である三輪山

の神韻神韻縹緲(しんいんひょうびょう)たる趣きが感じられ、私の好む所でしある。

 桧原神社は大神神社の摂社ではあるが、延喜式神名帳にはみえない。祭神は天照 若御魂神
伊弉諾尊·伊弉冉尊。社地の一帯は、崇神朝天照大神を王宮内から移し祀った笠縫邑の伝承

地である。「元伊勢」とも称されるのは、天照大神を伊勢神宮に移し祀る以前の鎮座地だった

ことに基づく。室町時代の「三輪山古図」には、拝殿、その奥に三ッ鳥居と瑞垣が描かれており、

大神神社と同様に本殿がなく、三輪山を拝する形をとっていた。同図にはまた、拝殿前の左右

に天照大神と春日明神の小詞を描き、当時すでに「元伊勢」の伝承のあったことを示している。

 拝殿は享保十九年 (一七三四)に倒壊し、その後再建されていない。近年、三ツ鳥居が復原さ

れた。境内の整備も進み、二上山をほぼ真西に望む景勝の地でもあることから、山辺の道を歩

く人たちの、しばしの憩いの場となっている。

なお桧原神社から西へ下り、井寺池の辺りをへて箸墓古墳に至る道も私の好む散策の

道。別の機会に歩かれることを勧めたい。

 桧原神社から車谷へ向かう道すがら、西北に大和国原が望まれる。晩秋から初冬になると、
付近一帯のミカンが色づき、緑と黄の対比が美しい。三輪山の山麓を縫う山辺の道で、大和国原
の眺望が開けるのは、狭井神社西方の大神の杜とこの辺りぐらいだろうか。ずいぶん以前のこと
であるが、この道の途中でヒメユリの花を眼にしたことがあり、歌を詠んだことを思い出す。
しかし近年、見かけることはなくなった。

  古社を旅する  和田萃



相撲神社 と穴師神社

 車谷で巻 (纏) 向川を渡ると、穴師集落に入る。巻向川に沿って西北へ延びる道に家並みが続く。

巻向川から分水した溝川の響きを耳にしつつ、家々の見事な庭木や庭先に咲く季節の花を見な

がら歩くのは心楽しい。振り返ると、三輪山の頂上を間近に仰ぎ見ることが出来る。

 果樹園の間を縫いながら山辺の道を進むと三叉路に突き当たる。三叉路の近くに、第十二

景行天皇纏向 日代宮伝承地の碑が立つ。

山辺の道は三叉路を西に少し下って、さらに北に転じ渋谷向 山古墳 (現在、景行天皇陵に治定)へ

向かう。

 ここでは三叉路を右に折れ、穴師神社 (穴師坐 兵主神社) に向かうことにする。途中の参道

脇に、相撲の起源伝承にちなむ旧跡「カタヤケシ」があって、野見宿禰を記る小詞がある。
第十一代の垂仁天皇の時代に、土師氏の祖である野見宿禰と、当麻邑 (奈良県葛城市当麻町
当麻付近)の力 人であった当麻蹶速が相撲を取った所と伝えている (垂仁紀七年七月条)。
すこし以前のことになるが、土俵も設けられた。土俵開きの折、横綱大鵬·柏戸が土俵入りをした
新聞記事を読 んだように思う。

「カタヤケシ」を過ぎてしばらく行くと、延喜式内社の穴師坐兵主神社に至る。一般的には穴師神社
あるいは穴師明神と称して いる。当社の歴史はまことに複雑である。延喜式神名帳には、
穴師大兵主神社のほかに、穴師坐兵主神社と巻向坐若御魂神社がみえていて、相互の関係が
難しい。穴師坐兵主神社はかつて巻向山の山中にあったが、応仁の乱で焼失し、穴師大兵主神社
に合祀された。巻向坐若御魂神社の旧社地は未詳で、いつの頃からか、これまた穴師大兵主神社
に合祀された。ところがその後に主客転倒して、穴師坐兵主神が主祭神、穴師大兵主神と
巻向坐若御魂神は相殿神となっている。

兵主神については、かつて内藤湖南が『日本文化史研究』において、中国·山東省で祀られていた
神とする説を述べていて、注目される。

 記憶は朧になっているが、私は小学生の頃に穴師神社に連れていってもらったことがある。
義理の伯母 の郷里が穴師だったからだろう。境内に小川が流れ、沢蟹が沢山いたことを覚えている。
数年前に訪ねると小川はコンクリートで固められていて、沢蟹の姿は見えなかった。

  古社を旅する  和田萃


大和神社社地の変遷 和田萃

 上ツ道に面した一の鳥居から、本殿までの参道は三〇〇メートルほどもある。祭神は
大和大国魂神·八千戈大神·御年大神。神社の由来からすれば、もともとは大和大国魂神のみを
祀っていたのだろう。九世紀初めに編纂された『令義解』(養老令の公式注釈書)では、代表的な

国つ神 (地祇) として大倭神社をあげている。

『令集解』に引く「釈説」では、大倭忌寸が祀るとする。『令集解』は、九世紀半ばに惟宗直

本が『令義解』を始めとする諸注釈を集大成して編纂したもの。

 大和神社の鎮座地については問題が多い。史料を検討すると、現在の鎮座地は三度目のよう

である。『延喜式』の神名帳には、山辺郡に大和坐大国魂神社三座がみえ、平安時代には現社

地に鎮座していたとみてよい。

 崇神朝に、それまで王宮内で祀っていた天照大神と大国魂神の神威を畏れはばかり、天照大

神を豊鍬入姫命に託して倭の笠縫邑に、大国魂神を淳名城入姫命に託して祀らせた、しかし

淳名城入姫命は髪が抜け落ち病み衰えて、祭祀に与かることが不可能となったので、市磯長尾

市に和らせたと伝える (崇神紀六年、七年八月:十一月条)。また別の伝承では、大倭大神の神地
を穴磯邑に定め、淳名城入姫命に命じて大神を大市の長岡の岬に祀らせたが、淳名城入姫命
は衰弱して祀ることが出来なくなった。それで大倭直の祖である長尾市宿禰に命じて祀らせたとい

う (垂仁紀二十五年三月条に引く「一云」の説)。

 神威のために淳名城入姫命が病み衰え、大国魂神 (大倭大神) を祀ることが出来なくなったの

で、市磯長尾市 (長尾市宿禰)に祀らせたという点は共通している。しかしその場所については

「一云」だけにみえ、神地を穴磯邑に定め、大市の長岡に祀らせたという。

 神地をどのように理解すべきか、成案をもたない。ただ、穴磯邑は桜井市穴師の地とみて間

違いない。大市の長岡岬については、ヤマトトトヒモモソヒメを大市の墓 (箸墓古墳)に葬った

とみえるので (崇神紀十年九月条)、箸墓古墳付近に想定することも可能だろう。その場合、長岡

に相当するのは、桧原神社から西方に下る丘陵である蓋然性が大きい。しかし豊鍬入姫命が天

照大神を記った倭の笠縫邑は、桧原神社の地とする説が有力だから、両者があまりにも近接す

ることになり、問題が多い。 

 注目されるのは、長岳寺から西方へ延びる尾根筋に、天理市上長岡の集落が広がり、「長岡」

の地名が残っていることだろう。また同地には、室町時代に興福寺大乗院の大市庄があった。大

市の長岡の岬とは、この地だろうと思う。すぐ北方が天理市中山町。中山大塚古墳の南端部に

大和稚宮神社があって、大和神社のお旅所となっている。

 大和神社の最初の鎮座地は、山辺郡の上長岡の地であり、天平二年 (七三0) の「大倭国正税

帳」に、「大倭神戸」が山辺郡にみえるのは、それを裏づけている。『続日本紀』の天平宝字二

年 (七五八)二月二十七日条に、城下郡の「大和神山」がみえ、それをどのように解釈するのか、

問題を残す。旧城下郡は、磯城郡田原本町の北部から天理市海知町にかけての一帯。盆地部で

あり、山はない。あるいはかつての城下郡大和郷は、右にみた上長岡や現在の大和神社の地を

も含む広大な範囲であったとすれば、解釈できなくはない。ここでは、大和神社の社地は、上

長岡⇒中山大塚古墳付近⇒現社地へと変遷したと想定しておきたい。

  古社を旅する  和田萃

夜都伎神社 和田萃

 天理市竹之内の集落がある。標高一00メートルほどの所。奈良盆地には、中世後期に防禦のた
めに作られた環濠を巡らす集落が多い。なかでも最も高い所に営まれた環濠集落が竹之内。展望
が開け、盆地部を 一望できる。ただし現在では、集落の西北部に、 環濠と土塁が一部残るのみ。

 竹之内から北へたどると、ほどなく天理市乙木の集落。集落から北へ少し離れた所に、式内社
夜都伎神社が鎮座する。茅葺きの社殿が珍しい。もと春日神社·乙木社と称されていた。

「夜都伎」は「於都岐 (乙木)」の誤写とされるが、そうだろうか。『延喜式』の諸写本のいずれも、

「夜都伎」とするからである。また「夜」の崩し字は、「乙」とは明らかに相違する。夜都伎神社と類似
する神社として、大和国十市郡の式内社に屋就神命神社(やつきのかみのみこと)がみえるから、
夜都伎神社であってよい。

 社名はともかく、注目すべきは、乙木集落を中心とした一帯は、中世後期には興福寺大乗院

および春日社領の乙木庄だったことである。それで春日神社と所縁が深かった。当社がもとも

と春日神社と称されていたのは、そうした謂れがある。また「乙木荘図」(猪熊伸男旧蔵文書)に、 

上ッ道に面して一の鳥居、その東方に二の鳥居を描く。今も夜都伎神社の西方、道路に跨がって
二の鳥居が残る。幼い頃、母に連れられて何度か乙木へ行ったことがある。当時、参道は細い
野道で、水田の中に大きな朱の鳥居が見え、印象的だった。六十年近い昔のことである。
  古社を旅する  和田萃 



伊射奈岐神社 和田萃

 行燈山古墳の西側、国道を渡って直ぐの所に、式内社の伊射奈岐神社が鎮座している。正確に

は行燈山古墳の陪家、天神山古墳の西側に接して神社があると言ったほうが正しい。

 伊射奈岐神社は、延喜式神名帳の城上郡三五座のうちにみえる。天理市柳本町小字天神山に

鎮座し、祭神は伊射奈岐神 (以下、イザナキ神とする) と菅原道真である。当社は、近世には柳

本天神·楊本天満宮と称されていた。境内にある常夜燈や、上ツ道に面する鳥居にも「天満宮」

と刻んでいる。明治になって、城上郡所在の式内社である伊射奈岐神社とされた。その結果、

祭神は伊射奈岐神と菅原道真とされるようになったのである。

 『延喜式』巻九・十の神名帳には、イザナキ神を祀る神社として、以下の事例がある。

  大和国添下郡 伊射奈岐神社 (大。月次・新嘗)

  大和国葛下郡 伊射奈岐神社

  大和国城上郡 伊射奈岐神社

  摂津国嶋下郡 伊射奈岐神社二座 (並大。月次・新嘗)

  伊勢国度會郡 伊佐奈岐宮二座(伊佐奈弥命一座。並大。月次・新嘗)

  若狭国大飯郡 伊射奈伎神社

  淡路国津名郡 淡路伊佐奈伎神社 (名神大)

 このうち、伊勢国度曾郡の伊佐奈岐宮二座(内宮の別宮でもある) について、分註に「伊佐奈

弥命一座。並大」とみえるから、イザナキ·イザナミの両神を祀り、ともに大社とされていた

ことがわかる。伊勢神宮成立後に、アマテラス大神の父神であるイザナキ神をるようになり、

さらには後にイザナミ神が配されたのだろう。

摂津国嶋下郡の伊射奈岐神社二座は、右の事例を踏まえると、他の一座はイザナミ神とみてよ

い。なお阿波国美馬郡に伊射奈美神社がみえ、注目される。これらのイザナキイザナミ神を

祭神とする神社の分布をみると、伊勢·若狭国の事例を除けば、いずれも瀬戸内海東部から大

和にかけた地域に集中している。

 とりわけ淡路島を中心として分布しているとの感が強い。大社とされるなかでも、淡路国津

名郡の淡路伊佐奈伎神社は名神大社であり、イザナキ神信仰の中心とみてよいだろう。黄泉国

から逃げ帰った後、イザナキ神は日向の橘の小門の阿波岐原でミソギし、神々を生む。その後

にイザナキ神が鎮まった場所について、真福寺本『古事記』では「淡海之多賀」とするのに対し

伊勢本系統の『古事記』では「淡海」を「淡路」とする。また『日本書紀』の本文では「幽 宮
(かくれのみや)を淡路之洲(くに)に構ふ」とし、淡路島と伝えられていた可能性が大きい。

 『万葉集』には、「御原の海人」や「野島の海人」など、淡路島の海人を詠んだ歌が多くある。
岡田精司氏の著名な論文「国生み神話について」(同氏著『古代王権の祭龍と神話』所収。

塙書房、一九七○年) によれば、淡路島の海人集団が語り伝えた「島造り」の伝承が、後に政治

的な意図のもとに「国生み」伝承とされ、日本神話の冒頭に置かれるに至ったものと推定され

ている。

 大和国に伊射奈岐神社が三座もみえることは注目される。その理由については判然としない

が、倭 国 造であった大倭直との関連が考えられるように思う。

神武東征伝承に、神武の一行を案内した槁根津日子(さおねつひこ)がみえ、後国造等の祖とさ

れる(『古事記』)。大倭直は大和神社の祭祀に与かっているが、もともと瀬戸内海治岸、とりわ

け摂津国菟原郡から明石海峡付近、さらには淡路島にかけての一帯を本拠とし、海人を支配し

ていたらしい。

 『延喜式』の神名帳によれば、播磨国明石郡に海神社三座 (名神大社)、同宍粟郡に
大倭物代主神社、淡路国三原郡に大和大国魂神社 (名神大社)、阿波国美馬郡に
倭大国魂神大国敷神社二座が鎮座し、また「新撰姓氏録」には、大和国神別に大和宿禰、
摂津国に大和連がみえている。神護景雲三年 (七六九) 六月七日には、摂津国菟原郡

の人である正八位下倉人水守ら十八人に大和連、播磨国明石郡の人、外従八位下海直溝長
ら十九人に大和赤石連の姓を賜った。

 以上のことから、倭直が瀬戸内海の東端部すなわち摂津国菟原郡から明石海峡、淡路島沿

岸、さらには阿波の吉野川流域に至る広範囲の海人集団を支配していた状況が浮かび上がって

くる。大和国に伊射奈岐神社が三社も鎮座する背景として、倭直との関わりを想定しておきた

い。もっとも天理市柳本町の伊射奈岐神社が、延喜式神名帳にみえる城上郡の伊射奈岐神社で

あるか否かは、今後の検討課題となるだろう。

  古社を旅する  和田萃