日本人が優秀なわけ

 私たち日本人は、性格的にも知能的にも、世界でもまれなほどすぐれた素質をもっている。も

の語らざる人骨は、研究が進むにつれて、さらにそうした優秀さの秘密まで語ってくれるように

なった。

 帝釈 峡人ばかりでなく、わが国の各地から石器時代に住んでいた人間の骨の断片が、少しずつ

発見された。人類学の習慣で、人骨はその化石が発見された地名をとって名づけられるが、たと

えば栃木県の葛生という町の石灰岩の洞窟から出た葛生人。それからもう少し西へいって、静岡

県の三ヶ日町にある洞窟から発見された三ヶ日人。その隣り、浜北市の洞窟から出た浜北人。愛

知県豊橋市にある牛川町の洞窟から発掘された牛川人。さらに兵庫県明石市の西八木という所か

ら出た明石人。また愛媛県の鹿野川町にある洞窟から見つかった鹿野川人。

 日本では、帝釈峡人を含めて七例ほどそういう化石が発見されているが、それらはすべて現代

の私たちと無縁ではない。つまり、日本人以前に住んだ人間ではなく、日本人の祖型というか

元の体を示すような共通した特徴をもっている。それから考えられることは、日本における日本

人の歴史は最低でも二万年以上あるという事実だ。世界の人類史のなかでも、二万年同じ地域に

住んでいる人間の例はない。

 たとえば、ピラミッドで有名なエジプトだが、あの古代エジプト文化を生んだ人間はセム人と

いう。しかし今のエジプトにはセム人はいず、アラブ人が住んでいる。セム人はどこへいったの

かといえば、だいたい現在のエルサレムやベツレヘムのあたりに追い出されてしまった。そして

ユダヤ人を生んで、世界のいろんな問題をつくる。

 それから純粋のインド文明をつくった、インドアーリアン。彼らは今ではドラヴィディアンと

入り交じってしまって、ヒンズー人という。純粋のインド文明を築いた人間はもういない。

 中国文明を生んだのは漢民族だが、これも同じことがいえる。純粋な漢民族は、混合してしま

ってもういない。おそらく、先年台湾で死んだ蔣介石が最後の漢民族だろう。毛沢東とか、今の

中国を支配する中心の人々は、ほとんどが周辺の人間だ。

 アメリカ大陸の古代文明といえば、マヤ文明、インカ文明が有名である。それらを築いたの

は、いうまでもなくアメリカインディアンだ。しかし、彼らはもともとアジア大陸から移動した人間
である。

 また、イタリア人がいくらローマの遺跡を誇っても、あれはローマ人の遺跡であってイタリア人横穴

のものではない。今のイタリア人はサルジニア人だ。西にあったサルジニアという国がローマ

を征服して入りこみ、元来ラテン系の人間が住んでいた土地に建国したのである。ローマ文明を

つくったほんとうのローマ人は、もういない。

 ギリシャはバルカンにあるが、その古代文明を開花させたギリシャ人はアーリアンだった。だ

が今日のギリシャには、すでに純粋アーリアンはいない。ロシアのほうからスラブ系の人間など

がいろいろ入ってきて、すっかり入れ替わってしまった。

 イギリスは、元来ケルト人が住んでいた土地である。そこにアングロとかサクソン、ジュート

という人間が入ってしまった。これは、ゲルマン系の人間だ。

 ゲルマン民族は、ヨーロッパの人種と文明をかきまぜるうえに、大きな影響を与えている。今

から千八百年前、彼らはいわゆる民族大移動を起こしてヨーロッパ全土を征服、歴史を書きかえ

させてしまった。

 人間の移動についていえば、未開人にも例がある。アフリカの黒人に、ホッテントットやブッ

シュマンなどという人々がいる。彼らは文字をもたないから不明の部分も多いが、それでも古代

の人骨の化石などを調べると、やはりたいへん大きな漂流民族で、地上を移動していることがわ

かる。

 そういうぐあいに、世界の人間で昔から、万を超える年数を同じ土地に住みつづけているとい
例はない。
ただ日本だけが例外である。

 ふつう、人間は一定の場所に長く住んで純粋を保っていると老廃する。自然の植物も動物も、

純粋種はみな老廃種だ。日本人は、それにもかかわらず、なぜ老廃しなかったか。

 日本が、アジア大陸から離れて島になったのは、今から約二万年ほど前だといわれる。そのこ

ろ、アジア東部に大きな地殻変動があり、間宮海峡から日本海、朝鮮海峡を通り南シナ海あたり

まで断層線、つまりヒビが入った。その結果、日本は東へ離れだしたのだが、その現象は現在も

なお続いている。わが国が地震国である理由はそこにある。日本という島が動くことによって地

下にエネルギーがたまるが、それを地震という現象で解消しバランスをとっていく。簡単にいえ

ば、汽車が走るとがたがた震動する。その震動の一つがかつての関東大震災であり、またこのご

ろ、起こることが予想され大きな関心を集めている東海大地震だ。だから日本は、地質学的にい

えば未完成の島なのである。

 それはともかく、人間の老廃化を防ぐうえには、島になったことが幸いだった。島になったか

ら海流に洗われはじめた。南からは暖流が来るし、北からは寒流がやってくる。そして季節風も

吹く。北からは冬の北風、南からは貿易風という夏風が吹いて、しかもそれが最後には台風をも

ってくる。これが日本にとって非常によかったのである。

 どうしてよかったかというと、海流や風によって送られてくるエネルギーが、北よりも南から
ほうが強かった。そこで、日本には東南
アジア系の文化がたくさん入ってきて、日本文化の基礎
をつくった。日本文化というのは、明らかに東南アジア型
である。たとえば、私たちは今でも褌、
腰巻きなどの下
着を残しているが、これらは東南アジアにしかないものだ。西洋文明の輸入とと
もに
上に着るものは変わっても肌着、とくに腰肌着は変わらない。これこそ、文化の原点である。

 東南アジアからはまた、米が入ってきた。

そうすると稲作農業が始主る。そして米とともに、東南アジアの稲作信仰もやってくる。信仰の面
では、日本には北方文化も一部残ってい
て、それに交じり合った。あとでも説明するが、シャーマ
ニズムという神がかり信仰がある。こ
れはもともと北のものだ。こうして成立したのが、日本の
神道である。

 結局、日本の文化というのは、このように複雑なものを混合しながら新しい文化をつくったの

である。人間の肉体も同じことがいえる。日本が島になって以来、大陸や東南アジアからいろい

ろな人種がやってきて、その血液が混合したものだから、いわゆる優性転化をしてしまった。人

間は近縁相異婚といって、やや近い人種の違った体型同士が混血するのが理想とされる。黒人と

白人のように極端に違う人種同士の結婚は、その意味で劣性婚だ。

 日本人は、幸い近縁相異婚という優性婚をしたものだから、適度な順応性をもつ優秀な体質を

もつようになった。その証拠に、経済条件や衛生条件が整備されてきた今日では、寿命が世界一

長くなっている。体質ばかりではない、性格からいっても、知能からみても非常にすぐれている

のだ。たとえば日本の数学水準などは世界一である。私たち日本人がこれほどの優秀さを受けつ

ぎ保っているということは、やはり島になったという自然の恵みだと思う。

 以上のような事情がわかりだすのは、最初に書いた、一青年の、崖から石器を一個抜きとった

行為からはじまったものである。地下にはこういう大きな、民族の歴史や文化の特色を説明する

ような、重大な発見を可能とする証拠が残っている。そのことを私たちは、戦争後たいへん大き

な記念品として手に入れることができた。したがって、考古学が新しく見直される理由も、ここに
あるだろうと思う。
   足の下の日本史 ねむれる遺跡への旅  樋口清之




日本人はいつからいたか

 その青年は相沢忠洋さんといって、現在、群馬大学の先生をしている。この人は中学二年まで

しかいかなかった。しかも、今でも納豆屋さんだ。 そのかたわら、学問をいっしょうけんめい

けて、りっぱな業績を残している。後世の歴史に大きく残る偉い人だと思う。

 相沢忠洋さんが一人ではじめた研究は、やがて明治大学が参加して本格的な調査が行われた。

その結果、発見した石器が単なる偶然でそこに埋まっていたものではないことや、土壌は移動した

のではなく、実際の自然堆積であることが確認された。そればかりではない。発掘物の、一見し

て石のかけらのように見えるものが、人工的にある目的をもって、ある技術によって割られた石

器であること、さらにその石器も、下から出るものは古く、なかほどはそのつぎで、いちばん上

がもっとも新しいことも証明された。つまり具体的にいうと、いちばん下が斧の文化で、中央く

らいから出るものが刃物の文化、そして最上層のものは先がとがった槍および矢じりの文化と.

およそ三つの時代に分けられることなどがわかった。

 しかも、土器は出てこない。発掘されるのは石器と焼け石だけである。それは、ヨーロッパの

旧石器時代と同じ状態だ。ただ、ヨーロッパのばあいは石灰岩のなかから出るので、動物の化石

がいっしょに発見される。日本はローム層なので、動物の肉体は分解しているからいっしょには

ない。だが、それでも土壌のなかにわずかながら炭素が残っている。炭素があれば年代測定がで

きる。私たちは動物だが、動物や植物は地上で生きている間は空気を呼吸し、あるいは水を飲

む。その空気や水のなかには、自然の放射性元素が入っている。放射性元素は私たちの体のなか

に沈積していくが、飽和点を超えて過剰になると肉体は破滅する。それが今日の、いわゆる原子

力の被害問題だ。

 しかし、ふつうの状態でも、原子力が発見される以前から、すべての生物は体のなかに、自然

放射能を死なない程度に堆積している。そして、体のなかにある炭素に沈積した放射性元素で、

年代が測定できるようになっている。炭素にはいくつも種類があるが、なかのカーボン一四を使

うもので、その測定法は一九五〇年に実用化された。それを利用すれば、四万年くらい過去文で

測れる。最近はだんだん精密になって、誤差が減ってきた。その測定によれば、相沢忠洋さんが

発見した石器の出る地層あたりは、だいたい二万年前がいちばんあとだ。

 二万年前ぐらいということは、まずアメリカのミシガン大学が測った。その後,日本の各学校

でも同じような器械をつくって測ってみたが、どの計数値も同じだから信用していいと思う。た

だ、プラス·マイナス二百年くらいの誤差はある。しかし二万年中の二百年などわずか一%で、

考古学ではそのくらいの誤差は誤差ではない。今はそれがもっと減って二十年程度になっている

ので、ほとんど正確だ。しかしその誤差は、古い時代へいくと大きくなる。というのは、カーボ

ンでは四万年までしか測れないからだ。より長い時間の計測にはカリウム·アルゴン法、フッ素

法というのがあって、二百万年近く主で測れる。その方法では、二、三十万年の誤差になる。

 それはともあれ、人間生活を測る範囲においては、カーボン一四の測定法を使えば誤差がほと

んどないに近いほど、正確に知ることができるわけである。それによってわかったように、二万

年前、日本に人がいたことまちがいない 二万年がいちばん新しいのだから、それ以前にもい

たことになる。だが、それ以前のもっとも古いのが何年前かはわからない。ブラック·パンドの

下なので、炭素が見つからないからだ。しかし少なくとも日本には二万年以上、数万年前に人が

住んでいたことは確かめられた。これは日本の民族史のうえにおいても破格の発見である。

 神武天皇が二千六百年前、天孫降臨は三千年前などといっていたが、そんなばかばかしい話は

ない。石器時代の遺跡でもいちばん終わりが三千年ほど前だということは、従来、土地の隆起速

度から想像されていた。けれど隆起速度というのは主観が非常に入って、計測値がまちまちだっ

た。その点、カーボンの測定は、ほとんど絶対に近い客観性をもっている。その年数から、日本

に人が住んだ歴史が天孫降臨どころではなく、もっとけた違いの古さであることが明らかになっ

た。結局、人間が文献によって伝えている歴史などというものは、日本における人類史の実に

一%にも満たないことがわかってきた。

 それを知ることができたのは、終戦後の混乱のなかで地下の探索というものが、いかにだいじ

かを教えてくれた、相沢忠洋さんのおかげである。私は、大きな勇気をもつと同時に、深く反省

させられた。

 以来,旧石器の研究が日本じゅうで進み、現在では計測がもっともっと精密になってさて、北

は北海道から南は琉球地方まで日本に旧石器時代があったということは,まちがいない定説にな

っている。

 ただ、その遺跡が、ローム層などという野外にあるばあいには,火山灰だから風で飛んだりす

る。もし当時の人がほら穴のなかに住んでいたとすれば,その場所を見つければもっと正確にわ

かるだろう。というので今、ほら穴を研究する学会「洞窟学会(ケイブ·ソサエティ)」がつく

られている。その学会が調べているのは日本じゅうの、石灰岩などの洞窟のなかで、そこに旧石

器時代の遺跡あるいは遺物がないかということだ。そうした調査の成果として、岩宿文化の研究

を裏づける事実をどんどん発見している。

 洞窟がいちばん残っていて、調査活動が盛んなのは新潟県、長野県、ちょっと西へ飛んで広島

県、それから佐賀県、長崎県である。鹿児島県にも各地に洞窟があって、私はそこで調査をやっ

た。洞窟内では物が動かないから、掘るとまず上の層から歴史時代のものが出てくる。その下か

らは古墳時代のものが見つかる。さらにその下からは新石器時代のものが現れる。もっと下へい

くと、土器がなくなって石器だけが発見される。それが旧石器時代、石器だけの文化だ。

 洞窟では地層がそのまま残っているので、年数がちゃんと測れる。その方法により、とくに長

崎県あたりの研究がほぼ完成したので、つぎに日本の年代を組み立てる作業になった。年代を組

み立てる学問を編年学というが、今では旧石器時代の編年がほとんどできあがったといっていい。

 その結果、斧文化、刃物文化、槍文化と、日本じゅうが同じ順序を経て進んでいることがわか

った。そこでこんどはこれを大陸のものと比べていくことになる。

日本人と文化のルーツ

 旧石器時代には朝鮮海峡はまだなかったと思う。朝鮮半島と日本が離れたのは、約二万年ほど

前のことだ。 
 両方の陸地がつながっているころ、
日本に人が来ている。人類は本来、泳げない動物である。
船を発明したのはせいぜい一万年ほど前だから、
それ以前に来たとしたらどうしても地続きでな
ければならない。
朝鮮海峡がつながっていれば、自由に渡ることができる。

 そういうことを前提にして大陸の文化と比較してみると、いろいろ興味深い事実がわかった。

たとえば、日本にある旧石器時代と同じような文化は、やはり沿海州から南シベリアを通って、

中央アジアからヨーロッパへつながっているらしいのだ。一方、日本の旧石器時代文化は、一部

そのなかに東南アジア系の文化の影響もあるらしい。東南アジアで出てくる旧石器の技術と同じ

ものが、シベリアを通ってきた技術に重なって、両方とも日本で発見される。

 考えてみると、これは以後の、日本文化の性格の基になっていることだ。アジアの東端にあっ

て、南アジア、北アジア両方の文化を基に、新しい文化の組み立てられたのが、今の日本文化で

ある。そうなるのが宿命であったというか,その源が、すでに旧石器時代の昔にあることがわか

る。

 それでは、当時どういう人間が、日本に渡ってきたのか。南アジアとシベリアと二つの人種の

混血体が発掘されればたいへん都合がいいのだが、これはそううまくいかない。ただ、それを証

拠だてるものは見つかった。

 最近、旧石器時代の終末期,約二万年ほど前の人骨が広島県の帝釈峡の遺跡から出てきた。そ
の人骨はどこの人間に似ているかというと、シベリアでも東南アジアでもない。実に、今の日本

人に似ている。つまり北と南の両人種の混血が、すでに終わったころの体形をもっているのだ。
 ただそのなかで、一つだけ現在の日本人と違うところがあった。それは眉隆起といって、まゆ

毛の下の、目の上の隆起が高いことである。前頭葉の発達が悪いと、この部分が高くなるという

のは人類学の常識だ。そして前頭葉の発達が悪いということは、記憶、推理、判断、言語中枢な

どの発達が遅れていることで、未開人の体質に共通して見られる現象である。したがってこれは

人類の発達途上にあらわれる自然現象といえる。

 帝釈峡から発掘された人骨にはまた,まぎれもなく日本人の祖先であることを示す特徴もあった。
 ヨーロッパ人や黒人は、大腿骨の断面が
まん丸いのがふつうだが、私たち日本人は

丸くない。とくに大腿骨の大関節の下部には,横にちょっと出っぱりがある。要するに、関節にベルト
がついている。というこ
とは、そこについている筋肉層が厚いの だ。これは山岳労働とか重い物を
運搬する
人間によく見られるものだが、日本人には遺伝的にあって、それが特色になっている。
その人種
的特質が、すでに帝釈峡人にあるのだ。そうした事実から推測すると、日本人の体形は
二万年近
い以前に基礎がほぼできていたらしいことがわかる。これを、人類学者は原日本人という。

 このとき以降、第二次的混血がいろいろと起こる。日本が島になってから、マレー人も来るし

朝鮮人も来る、アイヌ人も来て混血するが、そのもとになる体は、すでにもう旧石器時代にでき

あがっていた。いいかえれば日本人成立、日本文化成立の歴史は、従来のように、天孫降臨やあ

る民族の移住の結果などとする論議では解釈できないのである。長い長い歴史の間に、アジア全

体に広がった人間が、日本という東のほうの,まだ島ではない半島のようなところにやってきて

生活をはじめた。長い年数がたつうちには火山活動があり、地震があり、地殻変動がある。それ

らを経験しているうちに、最初にもってきた体形が、環境に順応するようだんだん形を変えてい

った。それが、原日本人の成立である。

 人間は、二世代や三世代、いや十世代くらいでは形は変わらない。だから私たちは気がつかな

いが、人間は三十世代ほどたつと、環境の影響をうけてその変化に順応する体型になってしま

う。一世代を約三十年と計算するから、千年たてばだいたい三十世代になる。

 そのいい例がインド人である。インド人はもともとアーリアンといって、白人系の人種だっ

た。そのアーリアンが、今から二千三百年ほど前のアレキサンダー大王東征時代に移動して、イ

ンドの原住民ドラヴィディアンを征服、インドアーリアンになった。それから千年くらいたつと

インドの環境に順応して色が黒くなり、背こそ高いが、ヨーロッパ人から見ればもう白人ではな

くなっている。しかし、それからさらに千三百年たった現代のインド人でも、それを骨にする

と、人類学的にいえばやはり白人なのだ。このように肉体は、約千年単位くらいで一部変わるか

ら、一万年もたてばもう独特のものができてしまう。

 環境が、肉体を変えるたいへんだいじな要素である。その発見は、最近の人類学の大きな成果

といえよう。従来は、人種分類は先天的なもので、永久に変わることはないと思われていた。し

かし、そうではなかったのだ。私たち日本人のばあいでも、そのことはあてはまる。日本は六百

年ごとに気温が暑くなり、寒くなる。それを気温周期というが、暑い時代になると、日本人の身

長は高くなった。ところがその気温周期を何十世代も経験していると、遺伝因子の働きによっ

て、暑くならなくても背がのびていくようになった。

 そういうように私たちの肉体は、いろいろと複雑な要素をもっていることがわかってきた。そ

して,旧石器時代の帝釈峡人が今の日本人に非常によく似ているという発見は、日本人成立論の

人類学にも、従来の学説に一つの改正と反省を強くうながすことになったのである。

 日本人は、何天皇がどうしたとか、英雄なにがしがこうしたというようなことを歴史と思って

いる。だがほんとうの歴史とは、無名の、多数の日本人がどういう生活をしたか,ということなのである。


 足の下の日本史 ねむれる遺跡への旅  樋口清之




 
太安万侶

茶畑の墓

 奈良県は、第二次大戦後の発展が、非常にめざましいところである。そのために県下の各地で

は町村合併が激しく、よた新しい道路をつけ、宅地を開発したりしている。

 そのなかでも奈良市は、戦前は人口七万くらいだった街が、今はもう二十万近くまでなった。

とくに、興福寺のある旧奈良市からだんだん西へ向かって発展しており、西大寺というところが

中心になろうとしている。そのおかげで、東の山のなかは、すっかり取り残されてしまった。

 たとえば田原の里の田原などというところは、崇道盡敬天皇と贈名された舎人親王の御陵があ

るだけで、昔のま の農村の姿をとどめている。それもここは丘陵地帯だから、大根畑や茶畑が

ひらかれ、その間に、秋は柿が真っ赤に実っていたり、春はレンゲやタンポポがきれいに咲いて

いたりする。だがパスもわずかな回数しか通ってないし、奈良の人といえどもふだんはまずいか
ない、かなり不便な土地だ。

 その田原で偶然に、茶畑から木炭ばかりでつくりあげている古い墓が見つかった。これが、
有名な太安万侶の墓だったのであ
る。 奈良県では以前から、いたるところの地下に、もの語ら
ずしてしかももっとも多弁
な歴史の証人が埋まっていることが、よくわかっていた。そこでとくに、
地面を対象
に絶えず仕事をする農業者と土木業者には、いろいろな機関や機会を通じ文化財に

ついての予備知識の講習が、ずいぶん徹底して行われていたと思う。まず、みんなで地下を守ろ
うということだ。飛鳥村など、
今でも簡単に道路工事などするのを反対するし、建築物を建てること
を許さないのは、そういっ
た心配りからである。

 ところが、問題の太安万侶の墓を発見したのは、地下の文化財とかその保護とかにはふだんは

まったく興味のない、おじいさんだったのだ。おじいさんは、たまたま自分の茶畑の手入れにい

って、崖のところにぽこっと穴があいているのを見つけたので、そっとのぞいてみた。ふつうだ

ったら自分の畑だから、いきなりひっかきまわすところだ。

 おじいさんは、最初はそれを、ただの炭焼き小屋の跡かと思った。炭焼き小屋の窯跡であれ

ば、残っている炭は乾燥すれば使える。そう考えて炭を何片か取り上げたところ、なかから1枚

の金属の板が出てきた。しかもそれには,金のメッキが残っている。おじいさんはびっくりし

た。こういうものがあるようではただの炭焼き小屋ではない、というので、すぐそのことを県庁

へ報告にいった。

 こういう行動をとったおじいさんは偉かったが、報告をうけた県庁のほうには問題がある。な

んとそれを、三日間も放っておいたのだ。地下に埋もれた文化財保護の大先達であるはずの奈良

県庁の態度としては、これはどうも感心しない。しかも発見されたものの重要さを考えれば、な

おさらのことだ。それはともあれ、おじいさんの話にもとづいてその穴を調査したところ、そこ

は火葬した人間の遺骨が葬ってある火葬墳であった。その遺骨はほとんど残っていな かったか

ら、たぶん木でつくった器に入れてあったのだろう。

 日本では、飛鳥時代から遺骨は桶に入れるばあいが多い。その実物は、奈良の元興寺などにた

くさん残っている。奈良時代でも、おそらく同じだったと思う。なかには上等の入れ物としてガ

ラスの壺、ややそうでないものには三彩というきれいな釉薬のかかった壺、あるいは素焼の壺な

どが使われている。それらの入れ物であれば遺骨は完全に保たれているが、田原の火葬墳のばあ

いは分解してしまっていた。

 しかし、わずかに散らばった火葬骨の上に、表を下に向けておかれた、死者の名前や経歴を書

いた墓誌銘が見つかった。

 墓標は、地上に建てて、誰の墓だということを外から知らせるためのものだ。一方、墓誌銘

は、墓のなかに入れておき、死の世界を司る神様に見せるための表札である。それは中国特有の

習慣で、当時のわが国でも他の文化とともに輸入され、まねたものだった。死の神様だから地下

にいる。そこで墓誌銘も下に向けて葬ってあった。

 田原の火葬墳では、そうした埋葬の様子がよくわかったし、しかも墓誌銘の錆を適当に落とし

てみると、意外な人の名前が出てきた。それが、都の左京四条に住んでいた従四位の下、太安万

侶だったのである。

 太安万侶という人は『古事記の序文を書いた人物だから実在を疑う学者はない。序文は、彼
稗田阿礼という、ものをよく知っている
人に聞いたことをここに記録する、といった内容だ。その
古事記の序文は、みごとな
漢文を駆使した実に名文で、当時でも最高のインテリでなければ書け
ないような文章
である。

 太氏は、今の奈良平野の真ん中辺、田原本という町の南のほうに住んでいた豪族だ。そのあた
りを昔は太村といったが、そ
こにある多神社は歴代太氏の正統の子孫が守っていて、現在でも
宮司の名は多さんと
いう。祖先は、神武天皇の皇子の,カムヤイミミノミコト だということになってい

る。神武天皇の皇子だとなると、実在かどうかわからないが、とにかく日本の天皇の血統で、帰化人
でないことを強調している。太というような一字名は、帰化人に多かったのだ。日本人は、一字名の
ばあい、よく下
「野」をつけるが、太氏ものちに「大野」になる。しかし多神社の宮司さんなどは、
今も古いま
まを残している。

 それはともあれ、この一族は早くから、大陸文明をよく受けとっていたようだ。というのは太

村のすぐ西、二上山のふもとを越えると大阪平野だから、むしろ大阪の港よりも大陸からの情報

は早く入ったところだろう。

 さてそこから出た安万侶という人は、宮中に仕え、遣唐使にも一度加わっているから、大陸文

明を現地で直接学んでいる。位は四位の下で今の局長くらいだから塗り高くはないが、インテ

リとして文字をもって仕えたとみえ、あの古事記編さんにたずさわる。編さんの長官は、のちの

崇道盡敬天皇の舎人親王だった。だがこれは行政的長官、いわばシンボルであって、実務は全

部、太安万侶がやったと思われる。

 この彼の墓の発見は、学者たちに大きな衝撃を与えることになったのである。

墓誌銘が教えるもの

 『古事記』を残すくらいだから、太安万侶がいたことはまちがいないのだが、昔から古事記その
ものに対して疑い製もつ説があった。

 その論拠の一つは、古事記をつくったということが『続目本紀』に書いてないとする。続日本

紀というのは、奈良朝の元明天皇から, 元正聖武,孝謙淳仁称德光仁天皇まで、七代の

天皇時代の毎日の記録である。古事記は和銅五年にできているが,その和銅四年の章に古事記撰

述の記事がない。古事記携述のことは、その序文に書いてあるだけなのだ。

 そこで、あんなものは後世につくった だ,偽書だというのである。とくに最近、ある大新

聞社から,古事記は平安時代の大同年間につくったもので奈良時代にはなかった、と書いた本が

出版された。

 そうなれば、太安万倡は困ってしまう。古事記は、彼が死んだあとにできたことになるのだ。

 まず、古事記の性格から説明すると、そもそもあれは一般公開の書物ではない。今の私たちが

手にするような、活字で読む本ではないのだ。これほど有名になったのは、本居宣長が『古事記

伝を書いたからで、それ以前は天皇家の秘本であった。天皇が天皇であることの自信をもつた

めの教科書なので、日本書紀』こそ一般に公開された歴史書だった。

 古事記がぜったいに偽晝でないこと 、文章が八十八音で書かれてあるのをみてもわかる。そ

れより少し時 が新しい『万葉集』は八十七音。私たち現代日本人は四十八音しか 音できな

い。最近までは五十音できたが、'もうワ行の発音ができない。

 もし、古事記が平安時代の偽書であるとするならば、平安期に五十音ができるから、たぶん五

十音に近い発音になっているはずである だが、「古事記」は、八十八音の古い発音をそのとお

り、漢字をより分け使い分けて書いてある。その点からしても、まちがいなく奈良時代初期の本

だ。

 では、太安万侶とのかかわりはどうなのか。古事記は、天皇に自信をもたせるための本であ

る。天皇自身も日本国家の独立というものを非常に念願していたはずだから、その気持ちを鼓舞

しなければならない。そのためには、日本にも中国に負けない歴史があるということを、中国の

史書をよく読んだうえで編さんする必要がある。

 そういう内容をもつと同時に、その序文をみると、まことに高級な、程度の高い漢文で書かれ

ている。ということは、古事記の編集者は中国やアジア、つまり当時の世界的知識をもった、相

当なインテリだったといえよう。

 太安万侶が、それにふさわしい知識人だったことはすでに紹介したとおりである。そんな彼と

古事記とのかかわりは、墓から出た墓誌銘が証明していると思う。

 太安万侶の生前の位は、続日本紀に書いてあるが、墓誌銘に記された位はそれより一級あがっ

ている。おそらくそれは古事記編さんの功によって、死んでから位が追贈されたものであろう。

現代では位階や勲章など死ねば簡単に追贈されるが、昔はよほどの功績がないとそういうことは

されなかった。

 また、その墓が発見された土地は田原といい、今の多神社が田原本にある。田原本が田原とい

うところのもとで、たぶん以前は同じ地名だったと思われる。そうすると太安万侶は自分の領地

というか縁故の地に、埋められていたことになるわけだ。

 彼の実在は、これらの点から考えても、もう動かしがたいものだといえ,るだろう。

 太安万侶の墓は、木炭でつくった小さなものである。これは大化改新の薄葬令に従ったまさに
四位という位にぴったりの大きさだ。

 ただ、興味深いのは材料に木炭が使われていることで、こういう例は従来どこにもない。しか

し考えてみれば、これは非常に賢明な方法である。木炭は永久に腐らない。中途半端に木でつく

ればだめだし、石でつくっても、その石をとりあげる者が出てくるだろう。こんどのぱあいも木

炭であったからこそ、遺骨も残れば墓誌銘も発見されたのである。新しい墳墓の例として、この

ような木炭墓が見つかったことも,考古学からみて大きな発見であった。

 一般の人々がなにも興味をもたない、遊覧地でも行楽地でもない畑の一画から,これほどだい

じなものが出てくる。とくに奈良県ではその確率が高い。

 奈良時代の天皇は、奈良の都の北側、いわゆる平城京の丘の上にみな御陵がある。したがって

奈良朝の人々の墓はほとんど、東は田原から西は生駒市辺までの、北側の丘の上に散らばってい

るはずだ。しかし今、誰の墓とわかっているものはほとんどない。しかもその丘陵には、電鉄会

社が新しい住宅地をどんどんつくり、なかにはドリームランドなどというものができたりしてい

る。それを考えると私たちは、せっかくの歴史の証人を闇から闇へ葬っているのかもしれない。

 その意味でも太安万侶の墓と墓誌銘の発見は、大きな教訓になったと思う。これまでにも各地

から、いろいろな人の名前を彫った墓誌銘だけが出ている。そのばあい、十分に注意して掘れ

ば、こんどの太安万侶のように、もっともっと当時の実在の人の墓が見つかるにちがいない。そ

のためにも私たちは、地下というものを、もっとだいじにしたいのである。

  
 足の下の日本史 ねむれる遺跡への旅  樋口清之




稲荷山古墳

古代武蔵の中心さきたま

 日本人は、民族のもっとも古い文献として『古事記』と『日本書紀』をもっている。だがそれ

らは天皇家の歴史を中心としたものだから、権力側に都合のいいことばかりが書かれており、
の真実性を疑う学者が多かった。それはたとえば、古墳のあり方だけを見てもいうことがで
る。

 前方後円墳は、すでに証明されたように古代の権力の象徴である。その権力の成長した後
裔が
今の天皇家だと考えられるから、逆にいうと、今の天皇家の祖先が前方後円墳とよばれる
形をつ
くったことになる。つまり前方後円墳は、天皇家の血族か,あるいは天皇家に接近してその
形の
墳墓をつくることを許された権力者の墓といえるだろう。

 その前方後円墳の分布を見ると、九州に卑弥呼の時代ではそういうものがない。

むしろ六世紀ころに今の宮崎県の南のほう、それから鹿児島県の大隅半島に、前方

後円墳ができる それにやや遅れて、北九州にもできだす。したがって九州には、卑

弥呼の影響がすっかりなくなったのちに、大和朝廷文化の象徴として前方後円墳がの

びていっている。それからすると、神武天皇が日向から大和へ遠征したという古典の

伝承とは、逆になってしまう。むしろ大和から日向へ古墳がいった、といえるくらい

だ。といっても神武天皇が大和から日向まで来た、という考古学上の証拠にはちょっとなりにくいが。

 さて、この前方後円墳は、東北のほうへものびている。仙台市の南、現在、仙台飛行場のある
岩沼付近の前方後円墳が、その北の端だと

いわれていた。最近は岩手県の一部にも少しあるのではないか、という説も出されている。とも

かく東北地方は当時「日高見国」とよばれているが、日高見国の開拓の中心は仙台平野であった。

 古代の伝承は、はじめにも書いたように、おそらく天皇家を中心とした開拓説話が主なものだ

ろう。したがって前方後円墳は、そこに記された天皇家の活躍舞台、つまり、古事記、日本書紀

のなかに地名が出てくるところには、ほとんどある。しかも、それが皇室を象徴する形であるな

らば、古事記や日本書紀の伝承も大きなまちがいではないと思う。

 そのなかで、関東地方の前方後円墳の分布には、一つの大きな特徴がある。北の方の群馬県に

もっとも古い古墳があるのだ。これにはわけがある。

 現在は東京が日本の都だから、私たちも関東地方の開拓は東京からはじまったと、つい思いが

ちだ。が、それは錯覚である。近世のはじめ徳川家康が東京の前身、江戸に入ったことはたいへ

んな冒険で、むしろ関東は鎌倉からひらけたところだった。家康が来るまでの江戸は、わずかに

江戸太郎重長という平氏の一族がいたところにすぎない。当時の武家政権にとっては、地形から

いっても江戸より鎌倉のほうが都合がよかった。なぜかといえば、鎌倉には東海道が通っている

からである。

 東海道は、今の茨城県、常陸が起点で、そこにあるのが鹿島神宮だ。関東の防人は「鹿島立

ち」といって鹿島神宮から出発していく。常陸、下総、上総、安房から海を渡り、三崎を経て鎌

倉、藤沢と相模の国を通って伊豆、駿河、遠江と西へいくから、今の東京を中心とした武蔵は、

この海の道、東海道に入っていない。だから『万葉集』にも、鎌倉などの歌はあるが江戸の歌は

ないのだ。

 江戸は東山道、のちの中山道に属する。木曽から木曽谷を通って信州へ出、信州から上野国

(今の群馬県) へ降りて下野国(今の栃木県)に進み、武蔵国(今の埼玉県) へ入る。その武蔵

の、いちばん南の端にあるのが江戸だ。これは東海道とは反対に、山の道である。したがって関

東平野の文化は、古墳時代になると最初、群馬県からひらけだす。その証拠に、前方後円墳は群

馬県にいちばん多いし、埴輪もほとんどがここから出ている。そのつぎが栃木県で、武蔵はもっ

ともあとだ。考古学では前方後円墳を前期、中期、後期と分けるが、武蔵には第三の、後期の古

墳しかない。

 たとえば多摩川の岸、今の二子玉川のところに丸山古墳がある。また上野公園にあるスリバチ
山公園にある丸山。
それらはいずれも、後期の前方後円墳である。

 昔は埼玉県と東京都が武蔵だが、東京都は実はローム層台地なので耕作がむずかしく、生産性

はいちばん低い。武蔵はむしろ今の埼玉県が主体であったから、古い時代には武蔵政争の舞台に

なった。その中心が今の行田市、かつての埼玉村である。埼玉は、武蔵国の魂、幸せの魂、幸き

魂からきたものだ。そういう地名ができるくらいだから、行田辺がやはり武蔵開拓の中心だった

らしい。東京に残る古墳などは、むしろその周辺地帯のものといっていいくらいだ。

 武蔵古代文化の中心、この行田市に、埼玉県は「さきたま風土記の丘」といって、古墳群を保

存するため、いわゆる史蹟公園をつくった。この風土記の丘は、埼玉ばかりでなく千葉県や宮崎

県などをはじめほうぼうにある。今まで点だった遺跡の保存を、こうした集団の形をとり、面で

保存しようというのだ。

 その一つ、「さきたま風土記の丘」に入っている古墳に、稲荷山という前方後円墳があった。

先年、ここから出土した一振りの鉄剣が、日本の古代史解釈に重大な鍵となったのである。
   足の下の日本史 ねむれる遺跡への旅  樋口清之


 

引っ越し好き文豪

 白樺派を代表する文豪志賀直哉(1883~1971)は無類の引っ越し好きで、生涯に20回以上も転居
を繰り返したと伝わります。風情ある町中が残る奈良市高畑町にある「志賀直哉旧居」では40~50
代の9年を過ごし名作 「暗夜行路」を書き上げました。

 妻子7人らと暮らしたこの家は、直哉自身が設計して1929年に建設。茶庭を中心にコの字型に展開
する木造建築で、数寄屋風の様式を基調にしつつ、食堂やベランダには洋風の要素を大胆に取り入
れました。武者小路実篤や小林秀雄など同時代の文化人らが集い、「高畑サロン」と呼ばれました。

 直哉が奈良を引き払った後は個人宅や米軍高官宅国の保養宿泊所などを経て、学校法人奈良学
園が8年に買い取り、2000年に国の登録有形文化財になりました。現在は一般公開され、同学園の
セミナーハウスに利用されています。

 直哉はこの旧居の前に住んでいた家も含め、奈良で計13年過ごしました。 大原荘司館長は「自
然と古い建物が融合した町並みに美や安らぎを見いだしていた。

自己を探求するには最適な環境だったのでしょう」と話しています。 
  2019-11-8 朝日新聞 (根本晃)



海石榴市(つばいち) 和田萃

 古代には三輪山の西南麓を海石榴市の(ちまた)と称していた。

チマタとは、道と道とが交わる所をいう。「チ」は道を意味するから、「チマタ」は「道の股」の

意で、三叉路や四つ辻を指す。中世になると、チマタに替って「ツヂ」という言葉が用いられ

るようになり、日本製の漢字 (国字という) である「辻」を用いた。

 海石榴市のチマタから道が四方に延びていた。先にふれたように三輪山の麓を北へ縫う
道が山辺の道である。三輪山南麓の初瀬谷を東へ進むと、宇陀をへて伊賀·伊勢に至った。
西方へ進めば二上山の麓に至った。この道は推古朝に整備され、中世には「横大路」と称
されるようになり、現在に至るまで利用されている。西南へ進むと、飛鳥、巨勢谷、宇智の
大野、宇智郡 (現在の五修市域) をへて、紀ノ川河口に達した。古代には「紀路」と称され、
中世以降、現代に至るまで「東 高野街道」と称されている道である。 

海石榴市の変遷

 海石榴市は谷口集落で、定期的に市が立ち、盆地部の幸と山間部の幸が交換された。
記紀』には海石榴市での歌垣もみえるから、市日に催されたのだろう。市日とは、市が立
つ日をさす。

中世~近世には、毎月の六斎日(八・十四・十五・二十三・二十九・三十日) に立つ市を、
六斎市と称した。また各地に残る二日市・三日市・四日市などの地名は、二のつく日 (二日・
十二・二十二日)、三・四のつく日に市が立ったところから、生まれたものである。

 市ではまた、見せしめとして刑罰の執行も行なわれた。『日本書紀』によれば、敏達十四年
(五八五) 三月、わが国で最初に出家した尼僧、善信尼 (司馬達止の女、嶋女)、禅蔵尼
(漢人夜菩の女、豊女)、恵善尼 (錦織 壷の女、石女) らは、仏法を信仰するとの理由で拘禁

され、海石榴市の宿駅で鞭打たれたことがみえている。

 三輪山西南麓は日当たりがよく、各種の椿が自生している。三輪 山南麓の桜井市慈恩寺
には、大神神社の摂社である玉列神社が鎮座し、境内では春先に種々様々の椿が花咲く。
その社名も、玉椿が「つらつら」と咲くことに由来するようである。海石榴市の地名も同様に、
「各種の椿が咲く場所に立つ市」に基づく。

 海石榴市にはまた河港があった。初瀬谷から奈良盆地に流れ込む初瀬川 (大和川本流)
は、三輪山の山麓沿いを流れ、磯城郡川西町吐田で佐保川と合流している。海石榴市の
河港では、大和川水運を利用する河舟が発着した。推古十六年 (六〇八) 八月、隋使
裴世清らの一行は海石榴市のチマタで歓迎を受け、飛鳥の小墾田宮に至った。
斑鳩付近から河舟に乗り、海石榴市の河港に至ったと推定される。推古十八年八月の

新羅·任那使らの場合も同様である。

 奈良時代までは、海石榴市は初瀬川の左岸(南岸)の桜井市粟殿(おうどの)付近だったら
しい。桜井市役所を中心とする一帯で、欽明天皇磯城嶋金刺宮の伝承地にも近い。
また近年、粟殿小字式嶋」を中心とする大規模な遺跡、式嶋遺跡では、六世紀代の整然と
配置された建物群が検、出されており、注目されろ。隋使裴世清らは海石榴市のチマタから
飛鳥に向かっているから、初瀬川左岸 (南岸)一帯に海石榴市があったとみるべきだろう。

 海石榴市が現在の海石榴市観音堂付近に移ったのは、私見では一〇世紀前半と想定し
ている。延長四年 (九二六) 七月十九日、大和国の長谷寺山が崩れて椿市に至り、人烟悉
(じんえんことごと) く流されたと伝えている (『日本紀略』))。長谷寺付近の山で土石流が発生
して初瀬川を塞ぎ、ダム化した後に決壊、下流域の海石榴市付近で甚大な被害が生じたの
であろう。この時期、長谷寺の観音に対する信仰が高揚しており、大神神社をへて初瀬川
右岸 (北岸) をとって、参詣する人々が増大していた。そうしたところから、初瀬川左岸にあ
った海石榴市は、右岸の海石榴市観音堂付近に再興されたと推測される。
  飛鳥の古社を歩く  和田萃



薬師寺

山田 三重塔の特徴は裳階(もこし)ですね。裳階をつけることによって、品の良さが出ています。
   あれ があることでもう何倍と違うほど、品がよろしいですな。

小川 あの裳階があるから素晴らしくいいんで、裳階をとってしまうと、か弱い建物なんですよ。
   法隆寺の裳階は少し違います。

山田 あそこは裳階が板葺きですね。

小川 普通の衰階は、仮のものです。しかし薬師寺は構造的に造ってあるんですよ、きちっと。

   だから最初から建物の一部として造られ、意匠も考えられてますな。

山田 その発想というのは薬師寺だけですよ。あとの時代の裳階はそうではないですよね。そ

   れ以外に、仏さんの台座にしても、薬師寺というのはさまざまな文化が集合してきて一つの
   形になった。そこに、国家的意味を持っていたという感じを受けますな。

小川 あの裳階を、修学旅行の生徒を案内されるときに、何と説明していたんですか

山田 高田管主は「スカート」と表現して、すかっと美しいというふうに言ってました。

小川 二重目、三重目の裳階のことは? 

山田 それはリズムだと。フェノロサが「凍れる音楽」と言ったというようにね。ああいうの

   を見ると、黄金率のパターンですよね。

小川 そうですね。ところで、いまの東塔の三重目は屋根の軒を切ってあるわけですね。

山田 いちばん上はね。だからこんど修理するとき、あれを伸ばすのか、伸ばさないのかって

   いうのはものすごく問題でしょ。これから委員会で詰めていきます。

小川 創建当時の長さに伸ばしていいのか。この建物が国宝だから、そのまま行くか、それは

   難しいことですね。自分たちは、西塔を造ったときには、元の長さに伸ばしてあるんです。

山田 あれを見ると伸ばさないほうがきれいに見える気がしますがね。東塔のバランスはあれ

   できれいやし、屋根の反りも美しいですな。

小川 高さは一緒ですから、東塔は軒を短くした分、屋根の勾配も急になっています。

   それが遠くからきれいに見える。創建時の三重目はあと一尺ほど長かったんだけど、
   これは持たないから後の時代に切ったんですな。それをこんどの修理で伸ばすとなると、
   こんどは垂木が持たないんじゃないか。

山田 裳階は樽でいうたらタガだと、西岡棟梁は言っておられました。要するに樽をつくると

   き、タガをちゃんと三段入れますね。そのタガですよ。だから塔ががちっとしている。

小川 裳階のタガがなかったらば、もうだめですよ。どらぐらでしょうね 

山田 それを、美を感じるタガにしたところがすごいということやと思います。

小川 そうですね。東の塔を解体すると、様々なことがわかってきますな。西塔再建では初重

   は壁やなくて格子にしました。調べた上ですが、本当のものはわからない。本数が少し
   違うかもしれません。


   宮大工と歩く奈良の古寺  小川三夫 山田法胤

二つの塔の意味

小川  法隆寺のは、舎利を入れて、ストゥーパそのものだとすれば、まあ一塔でわかる気が

    するんですが、薬師寺の二塔というのは?

山田 お釈迦さんの生涯を八つに分けているんです。「釈迦八相」といいます。塔を二基造る

   と、八面になりますからそれに対応しますね。

   東の塔はお釈迦さまの因縁の因相、西の塔はそれの結果、果相です。これは絵じゃなし
   に彫刻です。お母さんの胎内へ入った「入胎」。それから「受生」というて、分娩のことね。
   それから「受楽」。これがお城の生活。この生活に疑問を感じて出城です。そこからこんど
   「苦行」。

   そこまでが東塔なんです。それでこんど「成道」「転法輪」「涅槃」「分舎利」と。で、薬師寺

   には塔を二つ造るのが原則なんです。



遷都が遺したもの

山田 この近くを流れる秋篠川は堀川といって、七一○年藤原京から平城京平城宮跡へ都が遷るとき、

   運河として使うためにつくったものなんです。それが薬師寺のすぐ近くを通って、秋篠まで行

   っています。だから秋篠川は、藤原京からずいぶんモノを運んどるんですね。平城京から遷す

   ときも、長岡京へずいぶん運んどるわけです。

小川 都を遷すというときは、建物も解体して持って行ったんですね。材料もそんなにたくさ

   んあるわけじゃなかったですから。

山田 それは貴重で、再利用しているんですね

小川 瓦なんかも回して使っています。都を作るんですから建築資材はたくさんいるし、そう

   簡単に加工できませんでしたから、非常に貴重なものだったんです。

山田 七八四年に長岡京へ遷って三年経ったら、平城京はペんぺん草が生えて、十年後には田

   画になっていたというんですよ。

小川 そう、何にもなくなるんです。建物もなくなるし、人もいなくなるんですよね。

山田 それで全部新しい都へ。都へ行かないと、生活できないですから。それで居残ったのが、

    寺と、赤膚焼の一部だったんですね。ほかの陶房は全部京都へ行ったわけです。

小川 寺だけ見ると、話が特殊に思えるけど、文化全部が移動して歩くんですな。

山田 奈良のときは、藤原京から全部移動して来ているんですよ。ところが京都へ行くときに

   は、奈良の文化を受け入れたくないというので、もう足止めしているんですよ。その代わりに

   最澄と空海を前面に出した。だから奈良はずいぶん冷飯を食ったという感じがわかりますよね。

   それで「南都北嶺の争い」になってしまうんです

   だから「南都」という言葉は、僕らはええ言葉やと思っていますけど、京都の人にすると、

   たぶんもう古びた田舎の町という、そういう意味があったんじゃないですか。「南都」という

   のは過去の都。でも、過去の都として残ったから、今日までになっていますけれどもね

小川 それでいい物も残りました。

山田 京都の文化は統一されてるところがあるんですね。彫刻にしても、花鳥風月の絵にして

   も。奈良にはそういう統一性はないです。東大寺は東大寺、法隆寺は法隆寺、薬師寺は薬師寺。

   そのへんは非常に違いますね。

   だから飛鳥文化や、白鳳文化やって言いますけど、京都なんかは、鎌倉か、室町か、平安か

   って、わかりにくいですよ。江戸までずーっと一緒ですから。

   京都と奈良のいちばんの違いは何ですかって言ったら、京都は鎖国してしまったのに対して

   奈良は国際交流が盛んだったということですね。 
  宮大工と歩く奈良の古寺  小川三夫 山田法胤



日本の文化の特性

小川  奈良の文化の基本は、各地から入ってきた文化の合流ですな。

山田 ほんとうにね、日本人というのは、中国やヨーロッパの文化が入ってきても、それを見

    事に消化して、向こうから伝わったものよりずっと良いものをつくるんですよね。

小川  やっぱり日本人の素晴らしさでしょうな。たとえば向こうから建築の文化が来たと。

    しかし法隆寺を造ったときでも、向こうの建物の真似ではないですよね。向こうの建物はどうし

    ても雨が少ないから、軒が短い。しかし日本は雨が多いから、その気候風土に合わせた軒の深

    い建物。基壇を高く上げて、湿気から守ろうとする。そんなことは教えてもらってないんです。

    瓦をつくる技術は向こうの技術を学んだけれども、造り方は、日本の気候風土に合わした建物

    を一気に造ったと思います。

     これは日本人が素晴らしい感覚を持っていて、絶対にサル真似じゃなかったと思います。ち

    ゃんと咀嚼して、造り上げたと思う。それぐらいの人たちだから、奈良の都も出来たんだと思

    うんですよ。そういう匠というか、技術はわからなくても、土や石、草木、といった素材にも 

    のすごく慣れ親しんだ人がいたから、やっているうちにすぐにヒントを得て出来たんでしょう。

    ものを動かすこともできたんだと思うんですな。本当にすごいと思いますよ。あれだけの石

    を動かして。

山田 応用力があったんですね。

小川 創意工夫もありますしね。

山田 正倉院展というものをとってみても、それを感じます。正倉院展というのは終戦直後が

    第一回目なんです。戦争中に、正倉院が爆撃受けたら壊滅するから、奈良国立博物館に疎開さ

    したんですよ。幸い爆撃されずに済んだので、せっかくだから一度公開したいと宮内庁へ相談

    したら、それはいいんじゃないかというので、初めて公開したんですよ。

    そうしたら毎日、七千人以上もの人が遠方からはるばる徒歩で来たんです。

小川 それは文化国家やなあ。

山田 それを見た人たちが、みんな自分たちの先祖の文化に感動したっていうんです。こんな

    すごい技術を持った日本民族が、戦争に負けたぐらいで滅びることはないって、みんな思った

    っていうんですね。これが、戦後の日本を支えるのにものすごく強く働いた。だから精神文化

    というのはやっばり、物質文化を超えますよ。

小川  自分は大きな建物から修業が始まりました。薬師寺でこのでっかい建物を造らしてもら 

    ったことが、ものすごい経験になったんですよね。小さいのを見たら、平気で造れるようになる。
    その未熟なとき、修業のときに、この大きなものをやらしてもらったというのが最高です

    ね。奈良時代の大工たちも、ここで勉強したんでしょうな。

山田  奈良で勉強した人たちが、奈良で止まってないで、半分以上は帰っています。それがこ

    んど地方を発展させていくというかたちで、日本という国は広がったんですね

 

  宮大工と歩く奈良の古寺  小川三夫 山田法胤




転害門(東大寺)

 この威厳のある門はいいですなあ。奈良時代のものです。

 壇正積みの基壇の上に堂々と建ってます。

 正面三間、側面二間。天平尺で、正面が二十尺、脇間が十八尺、ですから正面は五十六尺。

側面も十四尺あります。メートルに換算して正面が約十七メートル、奥行き八·五メートル。

 太く立派な柱が表に四本、裏側に四本。八脚門(やつあし)として最大です。

 柱間が広い分だけ、がっしりした柱と貫で支えていますね。その柱がいいんです。宮大工の

口伝に『木は生育の方位のままに使え』というのがあります。

 木を使うときに、南向きに生えていた木は南向きに、山に生えていた方向のまま据えなさい

という意味です。一本の立木をよく見ますと南側には太陽の光を求めてたくさんの枝が出ます。

北側は少ないものです。枝の根元は長く伸びる枝を支えるためにがっしりとしています。それ

は材になったときに節になります。ですから南側をそのまま柱に据えますと節がたくさんある

方が表に出てきます。

 転害門の表の一番右(門に向かって)の柱を一度見てみてください。

 長い年月と風に曝されて枯れた木の肌をしています。風雪に耐えた木の味というのはそのま

までも心をうつものがありますが、そこに浮かび出ている節が幾つもありますね。その節を取

り巻く、木の繊維が急流の渦のようにも見えます。そうした節が幾つも飛び出しているのがこ

の柱です。木の意志が伝わってくるような柱です。

 何でこんな無骨な節のある柱をと思いますが、口伝のとおりに使っていたのだと思うのと同

時に、穿った見方をすれば、腕の立つ工人がこの暴れん坊な木をうまく納めたその腕を「どう 

だ」と見せたかったのかなとも考えました。

 現代の電動工具がたくさんある時代でも節の処理は大変です。当時の未熟な道具で、節を
処理するのは並大抵なことではなかったのだと思います。

そんな木に挑む工人の気持ちも思い浮かばせる柱なのです。

 この門の良さは側面の妻飾りにもあります。

 天辺をまるく削った柱の上に頭貫(かしらぬき)が通っていますね。柱の上には枯れた大斗
(だいと)が乗り、底に桁の尻が三本ずつ伸びて重なっています。その尻は木鼻になっていて
上ほど長い。頭貫の上に一本の梁が通り、その上を二つに分けて二個の斗で虹梁(こうりょう)
が。

虹梁の上に面白い形の板慕股が乗り更に虹梁を重ね、その虹梁の上に板慕股が来て棟木を
持ち上げてます。

 年月に曝された虹梁の枯れ味、老いながら筋を張った力。慕股の巧妙さ、剽軽(ひょうきん)
さと相まっていい味です。

 突き出た木鼻、どれも簡素ながら時代の美を表しています。

 無骨に感ずるほどの木組みなのに、どこかその気負いをかわす洗練されたものを感じます。

私の好きな門です。
  宮大工と歩く奈良の古寺  小川三夫 山田法胤



伎芸天像(秋篠寺)

 火災のときに大きい仏像は救出できなくて、頭部だけ救出したものもあるそうです。伎芸天

像もそうでした。頭部は天平時代のままで、首から下は鎌倉時代に入ってから改めて補われた

んだそうですが、まったく一体の仏像として、違和感がないですな。とってもいいですな。

 創建当時の感じを残した建物を再建した大工の技。仏像もそうです。天平の仏像の頭部に鎌

倉の体ですが、素晴らしい技術で補ってくれていますね。鎌倉の人がすばらしかったんでしょ

うな。この頭部を見てこの形を思い浮かべることが出来て、それを造り上げる力があったんで

す。

 文化財の仕事をするときでも、私たちは復元修理するなら、当時のものと同じものを造れる

能力がなかったら、やってはいけないと思っているんです。そうでなければ、失礼です。それ

ほど後の時代の修理というのは難しいものです。

 ここを見ると、鎌倉の工人も仏師も相当な力のある人たちだったと思います。伎芸天像の胴

をつくった人は、この頭部を同じようにつくる力の持ち主です。ほんとに凄い。いいですなあ。

 技だけでなく、すぐれた感受性がないとこうはいかない。 

 良い建築は、みな後の補強が上手いんです。古建築を見るときには、解説に書かれた年代を

そのまま鵜呑みにせず、創立時の感覚を感じ取り、それを受け継ぎ補修·建て直しした後の時

代の仕事というのを見分けながら、その合作としての建物を素直に感じとられるといいですな。

  宮大工と歩く奈良の古寺  小川三夫 山田法胤




六御県ー古代天皇家の基盤ー 奈良県内各地

 今から二千七百年余り昔、大和平野の南、畝傍山の麓に、小さな国が誕生した。その国の王は「神 倭伊波礼毘

古」という。後に「神武天皇」と諡名される日本の初代天皇その人である。

 南九州の日向の地を出発して東を目指したイワレビコは、瀬戸内海を東進し、大阪湾に入ったが、生駒山の土着勢

力であった那賀須泥毘古に行手を遮られた。やむなく、紀伊水道を南下、熊野へ迂回し、熊野の山中より吉野を抜け

て宇陀より、大和平原へ出る。何度も生き死にの目に遭いながら、苦労の末に、大和の橿原の地において。初代天皇

として即位した。

 イワレビコが大和平原に入った頃、この地には、六つの御県 があり、それぞれ「御県坐神」がいて、それぞれ

に奉斎する豪族(県主)がいた。それは、高市·師木(磯城)·葛木(葛城)·十市·山辺·曽布(添)の六つの県 で

あった。この六つの御県の最大勢力こそ、大和なす大神大物 主 大神を斎き記る師木県主(磯城) 一族であった。今も

神体山三輪山の麓に、日本最古の神社とされる大神神社が鎮座する。その師木(磯城)県主一族がイワレビコに最初

に服属し、イワレビコを強力に援助し支えたのである。

 『古事記』によれば、この師木(磯城)県主一族が奉斎する大物主神は、この新参者であるイワレビコに自らの娘を

妃として与えた。これが初代皇后伊須気余理比売である。イスケヨリヒメは、「神の子」と呼ばれた神聖な女性であ

る。この女性を皇后に迎えることによって、イワレビコは、大和の天皇として不動の地位を得たのである。

 以後、第二代緩靖天皇、第三代安寧天皇、第四代懿徳天皇の皇后は、いずれも師木(磯城)県主家の女性が立って

いる。このことは、師木(磯城)県主家の服属を意味する。

 初代天皇が宮を置いた橿原の地は、高市御 県と言う地であった。初代は、この地を本拠として、東に隣接する師

木(磯城)御県を押さえたのである。

 次の第五代孝昭天皇の皇后は、西の 葛 城御 県 を本拠とする尾張

連の 女 余曽多本毘売 命 である。これは、葛城御県の服属を意味す

る。

 次の第六代孝安天皇の皇后は、天皇の姪である忍鹿比売 命 で、

天皇の同族から選ばれた。

 第七代孝霊天皇の皇后は、六御県のうちの十市御県の県主の女

細 比売である。

 次の第八代孝元天皇の皇后は、穂積氏の女内色許売 命 である。

穂積氏は、物部氏と同祖であり、この両氏の本拠地は、今の石上神

宮の鎮座する地、すなわち、山辺御県にあった。

 第九代開化天皇の皇后は、やはり穂積氏の女、先帝孝元天皇の妃

である伊迦賀色許売 命 で、第九代崇神天皇を生む。また、この天

皇には、遠く北の丹波国より竹野比売が妃として上っている。 

 以上、天皇家の創業の時代、初代から第九代の皇后や妃の出身地は、ほとんどが大和平原のうち、とりわけ、六御

県出身の女性に限られているのである。この御代の天皇の都(宮)もまた、大和平野を出ることはない。

 古代大和平原に誕生した天皇家は、御県を一つ一つ掌握しながら、南から北へその地盤を拡げていった。その方法

は、武力によるのではなく、その御県の神を祀る女性を皇后や妃に迎える、すなわち結婚という方法をとったのである。

 この御県の神こそ平安朝の延喜式神名帳に特筆される「六御県に坐す皇神(すめがみ)」である。それは、

  高市御縣神社

  志貴御懸坐神社(志貴は、師木·磯城とも記す)

  葛木御懸坐神社(葛木は、葛城とも記す)

  十市御縣坐神社

  山辺御縣坐神社

  添御縣坐神社(添は、曽布とも記す)

 の六つの神社であり、いずれも「大社」に列せられている。

 「延喜式」祈年祭祝詞(としどいのまつりのりと)には、

  「御 縣に坐す皇神等の前に白さく、高市,

  葛 木·十市志貴·山辺曾布·と御名は

  白して、この六つの御賑に生り出づる、甘

  菜·辛菜を持ち参ゐ来て、皇御孫の命の長御

  膳の遠御膳と聞しめすが故に、皇御孫の命の

  うづの幣吊(みてぐら)をたたへごとおへまつらく」と宣る。

とあって、平安時代には天皇家の内廷直轄領と

なっていた。

 倭国六御県は、古代の大和大王達が、聖なる御

県の女性祭祁者達を結婚という方法で同族化し、

大和平原を掌握した経緯を物語る舞台となった地である。

 なお、この第二代から第八代の天皇の名前には、国作り神話が凝縮されているという説がある(高崎正秀「文学以

前」)。第二代から第九代の天皇の名は、次の通りである。

  神沼河 耳 命 (二代)          ヌナカワのヌは、翡翠(玉)

  師木津日子玉手見 命 (三代)     玉

  大倭日子鉏友 命(四代)       鉏(すき)

  御真津日子詞恵志泥 命 (五代)   香稲(カエシネ)= 聖なる稲

  大倭 帯日子國押 人 命 (六代)   国を押す(開拓する)

   大倭根子日子賦斗邇命 (七代)   フトニは、立派な玉の意

  大倭根子日子国玖琉 命(八代)    国をたぐり寄せる= 国引き= 国を広くする

  若倭根子日子大毘々命(九代)    偉大な太陽(日々)

 この天皇の名前のうち、「大倭日子」「大倭帯日子」「大倭根子日子」「若倭根子日子」という称号は、後に付けられ

たもので、それらを取り除くと、沼河(二代)、玉手見(三代)、鉏友(四代)、詞恵志泥(五代)、國押人(六代)、賦斗邇

(七代)、 國玖琉(八代)、大毘々(九代)となる。こうした名前は、聖なる玉や鉏、稲を持って営々と国土を開発してき

た神話を内包しているのである。

 『古事記』に記された初代神倭伊波礼毘古からこれに続く八代の天皇と皇妃の系譜は、初期の大和の天皇家が、大

和盆地の土着豪族の女性達との結婚によって大和盆地を内廷化していった経緯を物語っている。その女性達の本貫地

は、後に、「大和の六御県」となり、天皇家の内廷直轄領となって延喜式神名帳に特記される。

 この六御県 (高市·葛木·十市·志貴·山漫·曾布)こそ、大和天皇家が、大和の皇権を確立する基盤(初国)となった。

この基盤作りを経て、即位した第十代崇神天皇を「初国知らす天皇」と称える由縁は、ここにあるのであって、この

八代の大和盆地の六御県の掌握こそが、天皇家が、全国を統一するための足がかりとなったのである。
  大和の歴史と伝説を訪ねて 丸山顕徳



聖徳太子と達磨寺

   
 片岡山と号する臨済宗南禅寺派の寺院。 

 聖徳太子の愛犬·雪丸の像。寺の記録によれば、雪丸は人の言葉

が理解でき、お経が読め、達磨の墓(本堂下の達磨寺3号墳)を守

るために、自分を本堂の北東に葬るよう遺言したという。雪丸像は、

もとは本堂の北東にある達磨寺 1号墳の石室近くに記られていた。

 北葛城郡王寺町にある達磨寺(臨済宗南禅寺派)は、聖德太子達磨大師による片岡飢人(きじん)伝說から建立された
寺院です。

 『日本書紀』推古21(613)年に記されるその話は、聖徳太子が片岡で道に臥せっている飢人を見つけ、食べ物と飲み物、
それに自分の衣を与えて助けたところから始まります。助けた飢人は亡くなり、太子が墓をつ くって埋葬し、後日、太子が
「あの飢人は聖なる人だ」と言うので見てみると、埋葬したはずの遺体が消え、太子が与えた衣が棺の上に畳んて置かれ
ていました。

 その後、太子信仰によって、この伝説にする飢人が、実は達磨大師の化身であると考えられるようになりました。今も本堂
の下には達磨3号墳といわれる円墳が残っています。これが太子が助けた飢人(達磨)の墓であるとされ、鎌倉時代の初めこ

ろ、達磨の墓の古墳上に堂塔が建てられ、聖徳太子像と達磨像が安置されて、達磨寺が誕生しました。

 ほかにも王寺町には、聖徳太子の愛犬とされる雪丸の石造物や、太子築造という芦田池、太子の送りの使いと迎えの

使いが昼飯時に落ち合ったという「送迎(ひるめ)」の地名など、太子伝承がたくさんあります。

360度のパノラマが広がる明神山から聖徳太子に思いをはせてみるのもおすすめてす。

達磨寺

 境内の石造雪丸像は、王寺町指定有形民俗文化財。聖徳太子の愛犬とされ、人の言葉が理解でき、お経も読め、遺言し
て亡くなったといい、この石像が元旦に吠えると、その年は豊作に恵まれるといわれています。

 王寺町のマスコットキャラクターの雪丸は、この石像がモデルです。
  県民だより 奈良 2021-7月号より

  太子信仰の聖地,斑鳩の法隆寺から南西に約4km。 北に大和川と竜田路があ り、聖徳太子の時代から大

阪との交通の要衝だった寺に不思議な伝承が残る。 JR王寺駅から歩いて10分ほど、国道沿いに建つ達暦寺

(奈良県王寺町)だ。

 創建の由来について「613(推古21) 年、この地で太子と達磨大師が出会ったとされます」と日野周圭住職。
達暦大師はインド出身で中国に渡り、禅宗の始祖になった高僧である。

 なぜ、達磨大師が太子と出会ったのか。日本書紀はこう記す。

 〈太子が片岡(達磨寺の所在地付近)の路傍で伏せっていた飢人(飢えた人)をあわれみ、飲食物や自ら

の衣服を与えた。翌日、死んだと聞いて太子は悲しみその地に葬る。数日後、太子は側近に「飢人は真人

(聖)であろう」といい墓を見に行かせたところ、はたして遺体は消え、太子が与えた衣服がたたまれて棺

の上に置かれていた。 太子はその服をまた着用する。

人々は不思議がり「聖が聖を知るというのはまことだなあ」とさらに太子を敬った>

 達暦寺略記には、推古天皇の命で太子が大師を葬り、自ら彫った達暦像を安置したという。現在、本堂の下
に大師の墓とされる円 墳がある。

 太子の聖人ぶりを伝え、日本に仏教を広めた宗教者としての一面も強調する物語だろう。「片岡山飢人説

話」と呼ばれ、平安時代には仏教説話集「日本霊異記」などにも登場。やがて太子の神秘性を語る奇謂と

して全国に広がる。

 日野住職は「書紀の記述は等身大の太子の慈悲深さ を表したのでしょう。 仏教 が広がる過程で功績を
たたえられた太子は、中国の高僧・慧思の生まれ変わりだという話が流布されていきます。説話は、慧思と
関わりが深い達暦大師と太子の出会いの話に発展したのでしょう」とみる。

 達磨寺には、鎌倉時代に聖徳太子像、室町時代には足利将軍によって達磨大師像が奉納された。
平成14年の発掘調査では、本堂下の墳墓から仏舎利(釈迦の遺骨)が納められた石塔が出土している。

 王寺町の岡島永昌・文化財学芸員は「仏舎利が納められた水晶製容器は鎌倉時代の製作とみられます。
寺の改修に伴い、達磨大師の追慕の念もこめて奉納された可能性も」と推測する。

 大師の墓をめぐっては、人の言葉を理解する太子の愛大,雪丸の伝承も残り、大師を慕って墓を守ったと

伝えられる。江戸時代の「大和名所図会」(寛政3年1791年)には大師ゆかりの地として達磨寺が紹介され、
阿部泰郎,龍谷大教授は「聖徳太子という存在は古代日本の国家像を体現した偶像です。なかでも飢人
説話は、天皇の存在も超えた聖人として太子の脱世俗的な偉大さを示しています」と話す。

 聖地を彩る伝承は太子信仰あってのもの。1400年を経てなお人々が太子に寄せる敬意と親愛が息づい

ている。

  2021-10ー29  産経新聞 ごの連載は岩口利一、北村理、坂本英彰、安本寿久、山上直子が担
当しました。

 

達磨寺と雪丸伝承
 達暦寺略記に太子の愛犬「雪丸」が登場する。「日本最初のペットで、太子の愛馬黒駒と白黒

のペア」 (日野住職)という雪丸は人の言葉を話し、お経を唱え、臨終に際しては、達暦大師の墓
のそばに葬られることを望んだといい、本堂の下の達磨大師の墓のそばの墳墓が雪丸の墓
伝わる。江戸時代には雪丸石像が奉納され、同時代の大和名所図会にはその姿が描かれてい
る。現代では、絵本聖徳太子と愛大雪丸のものがたり」が中学生の課題図書となっており、町

のキャラクターとしても人気を集めている。

 
   
   
   
 境内には、達磨寺古墳群と呼ばれる6世
紀末ごろの古墳が3基ある。

 『日本書紀』の推古天皇 21年(613)条に、

聖徳太子が飢人を助け、厚く葬ったとい

う片岡飢人伝説が記され、のちの太子信

仰によって、その飢人が実は達磨大師の

化身であると考えられるようになった。

そして、今も本堂の下にある達磨寺 3 号

墳が達磨大師の墓であるという伝承が成

り立ち、鎌倉時代の初めごろに墓の上に

堂を建て、寺院として開基された。開基

には、解脱房貞慶や勝月房慶政が関わっ
たとされる。

  達磨大師が携えていた竹の杖を

ここに挿したところ、一夜にして

芽が出たという。

 竹の種類は蓬莱竹。蓬莱竹の原

産地は熱帯アジアであるが、日本

の暖地でもよく育つ。強い再生カ

があることから達磨竹とも呼ばれ

る竹である。




山邊御縣坐神社

  飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば

     君があたりは 見えずかもあらむ

              元明天皇巻一(七八番歌)

  飛ぶ鳥の明日香の里を後にして去ってしまったら、

  あなたのいる辺りは見えなくなってしまうだろうか。

 

長屋の原にて

 『万葉集』のこの歌の題詞によると、和銅三(七一〇)年二月、藤原宮から寧楽宮(平城宮)へ遷った時、御輿
を長屋の原に停め、古郷の方を振り返り遠望しながら作ったのがこの歌で、作者については「太上天皇の御

製」と記す書物がある、とあります。和銅三年は平城遷都の年で、当時の天皇は元明天皇です。『続日本紀
によると、元明天皇は同年正月に大極殿で年頭の儀式に臨み、三月に平城宮へ遷都しました。最近の発

掘調査により、同年には平城宮の大極殿が未完成であったことが分かっていますので、元明天皇は藤原宮
の大極殿で正月の儀式を行い、題詞にあるように二月に藤原から平城へ行幸し、三月に平城宮で遷都を宣言
したということになります。なお、題詞には太上天皇の御製とありますが、和銅三年当時には太上天皇は存在

しませんので、元明天皇が和銅八(七一五)年に退位して太上天皇となった後に題詞が付けられたことが

分かります。

 藤原から平城へ向かう元明天皇 の御輿が停まった「長屋の原」は、当 時の行政地名で言うと大倭国山邊

郡長屋里、現在の天理市西井戸堂町·東井戸堂町付近にあたります。

同地には古代の幹線道路である中ツ道が南北に走っており、元明天皇の行幸は中ツ道を利用したとみられ

ます。ここは藤原と平城のちょうど中間に当たり、中ツ道の休憩地点であったと考えられます。この付近か

ら南の方角を望むと、飛鳥·藤原の一帯は遠くに見える山並みの麓辺りとしか分からず、はっきりとは見え

ません。この地で御興を停めた元明天皇は、夫の草壁皇子、子の文武天皇が共に眠る飛鳥の里がまもなく

見えなくなってしまうであろう当地でこの歌を詠み、古京の飛鳥·藤原に別れを告げ、新京の平城で始まる

新たな時代へと気持ちを切り替えようとしたのでしょう。
  県民だより 奈良 2021-6月号より  (本文万葉文化館 竹内 亮)


山邊御縣坐神社(やまのべのみあがた にいます)

(天理市)

元明天皇が御輿を停めた長屋の原付近には、中ツ道(現在の県道五一号線)沿いに山邊御縣坐神社がありま

す。山邊御縣は古くからの皇室直轄領である倭六御縣の一つで、この辺りは古くから天皇と縁の深い土地でした。


岩松寺 地図

 
   


放光寺 地図
片岡神社 地図

放光 寺

 現在は王寺小学校の後方にありますが、王寺小学校の敷地はその遺跡であったよ

うです。

 古くは片岡王寺と称せられ、聖徳太子が建立したと伝えられる古刹であり、百

済王から帰化した大原博士の建立とも考えられています。

 西暦一0四六年雷火で堂門の多くを焼失し、一三八四年には金堂の再建落慶供

養が行われていますが、一五七二年松永久秀の乱により再度炎上したそうです。

 正安四年(西暦一三0二年〉に僧審盛が著した「放光寺古今縁起」が伝わって

います。,寺門には当寺第二世瑞鳳西暦一七二四年寂)の書になる「片岡山」の額

を掲げ、「放光寺」の額は隠元の書です。

 本尊は十一面観音坐像で、開山鉄牛西暦一七〇〇年寂〉の奇像がまつられてい

ます。  

   
   
 不動明王石造  

片岡神社
 祭神五柱

 豊受皇大神(とようけ すめおおかみ)

 清滝大神(きょたき おおかみ)

 住吉大神 (すみよし おおかみ)

 八幡大神 (は ちまん おおかみ)

 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ) 

摂社

 稲荷神社  祭神・吉岡大明神 所在.本殿北側

 大原神社 祭神.・門部王命 所在.本殿南側

 金計神社  祭神・天児屋根命 所在.本殿南側 

由籍

 本社は、平安時代の延喜五年(九〇五)に編纂が始まった「延喜式」に「片岡坐神社」として登載さ

れる延喜式内社で、明神大社の格をもち、月次祭,新嘗祭の奉幣に預かっていました。さらに古く、

大同元年(八○六)『新抄格勅符抄』には片岡神に三十戸の封戸を置く記事が見え、『三代実録』の貞観

元年(八五九)正月二十七日条には片岡神に正五位上を授ける記事が、同年九月八日条には片岡神

が風雨祈願の奉幣を受けた記事が見えます。また拝殿には、江戸時代の安永七年 (一七七八) に

王寺村の人々が「雨願成就」のために捧げた大絵馬が残されています。

 往古は葛下郡片岡郷の総社であったと伝えられ、室町時代や江戸時代には「五社大明神」と呼

ばれていました。明治六年(一八七三)に郷社に列せられ、同四十二年(一九○九)には王寺村内に

あった金計神社、大原神社、住吉神社の三社を合しています。本社背後の丘陵上にある大峯では一

地区内の旧鎮座地に小而を肥り、宮座を組織して本社祭礼を担っています。現在の拝殿は平成二十年

(二〇〇八)に元の建物にならって建て替えたものです。  

   
   
   

朝倉宮はいずこ?

 661年、百済救援のため、筑紫にやってきた斉明天皇は新しく築かれた

朝倉宮に入った。しかし、天皇は、突然崩御したため、官はわずか3ヶ月

でその幕を閉じた。その朝倉官の所在地はどこか?これまで、宮の伝承

を根拠に、福岡県朝倉市域内が定説とされてきた。この頃、水城・大野

城によって護られたた地域が造られた。後に大宰府政庁が設け

うれた太宰府市域である。実は太宰帝に朝倉官の記憶が伝承され

ていたことがわかってきた。ここも候補地の一つとなる可能性が高い。



明治時代における石上神宮の変容ー「七支刀」ー

2018-12-1 山の辺文化講座  大阪大谷大学·天理大学非常勤講師 藤井 稔

1 はじめに
  石上神宮 奈良県天理市布留町に鎮座。記紀などで伊勢神宮とともに神宮と称される。
         石上振神宮・石上布都御魂神社·石上布都大神社。岩上大明神·布留大明神・布留社·
         石上社とも称す。

         古代→大和王権と関係(武器庫)・神庫·刀剣祭記· 正殿·伴佐伯殿

  「七支刀」 国宝。石上神官の神庫に伝来し、6月30日の神事で神体として渡御

         左右に剣身が3枝技ずつある特異な形状·金象眼された61字乃至62字の銘文

         の『日本書紀』神功皇后52年条記載の「七枝刀」と推定。

         「七支刀」の銘文は、 剥落等によりすべてが明確に判読できるわけではない。

         平成18年(2006) 復元実験に基づく、鋳造による製作説

  菅政友   水戸の彰考館出身の修史事業に関わった学者。 明治6年(1873) から同9年ま

         で、石上神宮大宮司。在任中に「七支刀」の銘文を発見し、「七支刀」 という

         名称を最初に用いた。禁足地も発掘。

         文久元年(1861) に、彰考館所蔵の石上神宮と大和神社に関する実地調査報告

         書である『石和見聞志』を書写

2 嘉永3年(1850) の石上神宮における盗難事件

① 大和で「帝陵」を盗掘していた盗賊たちが、嘉永3年に石上神宮の禁足地を盗掘し、神庫か

   ら刀身や甲などを盗み出しただけでなく、小狐丸を偽物と入れ替えるという事件があった。

② 神庫からの盗難事件に関して石上神宮から奈良奉行所へ提出した文書の控から、 例年六月晦

   日に神田や布留川の川上に出御する十握御剣すなわち「七支刀」を、石上神宮では神体とし

   て崇めて、社人も平生は手を触れなかったことや六月晦日の出御にあたって守護する社人は、

   三目前より別火で身分清浄にしたことなどがわかる。

③  石上神宮の記録などから、菅政友自らが石上神宮在任中に小刀で「七支刀」 の錆を落として、

   銘文を発見した時期は禁足地発掘より前の、明治6年(1873) 11月から同年12月までの間と推

   定できる。この発見は、 禁足地を盗掘した盗賊たちが、神庫から刀身や甲などを盗み出した

   だけでなく、小狐丸を偽物と入れ替えるという小細工まで行い、 石上神宮側がしばらくその

   小細工に気が付かなかったことが影響を与え、「七支刀」 などの刀剣の点検を菅政友が特に

   念入りにした結果と考えることもできる。

3 明治維新による石上神宮の変容

   明治維新による神仏分離、 国家神道化により、 神仏習合を示す建物や宝物並びに行事が明治

   変容しただけでなく、石上神宮では神社組織も大きく変容した。

① 石上神宮は人事的に在地と断ち切られ、在地の伝統的な信仰を無視しうるようになっていた。

② 禰宜、年預、還俗人の三者の対立や明治四年の教部省達で、 六月晦日の神事が行われなくな

   り、「七支刀」が神体として渡御していなかった。

4  菅政友による銘文研究

① 政友は、銘文を発見した時に、「七支刀」と釈読したのではない。

②  星野恒の「七枝刀考」 (明治25年 1892)によって、『日本書紀』の「七枝刀」との関係に

   注目することによって、政友は銘文模写から「七支」と釈読した。

③  日本の勢力が朝鮮に及んでいたことや任那の考証のために、「七支刀」の銘文模写から予断

   に基づく恋意的な釈読を行っていたことも推定できる。

④  「六又刀」という名称も政友が初めて用いたことがわかる。

5  従来の「七支刀」研究の問題点

①  『日本書紀』神功皇后52年条記載の「七枝刀」と「七支刀」(「六叉鉾」)とを初めて結

   びつけたのは、星野恒の「七枝刀考」である。この論考では「六叉鉾」の形が「左右各三枝

   アリ、中鉾ト共ニ七箇ニシテ、七枝ノ称ト相合ス」ることから、「疑ラクハ或ハ即チコノセ

   枝刀ナラン」という推定をしている。つまり銘文ではなく形状から「七枝刀」と結びつけた

   のである。しかし、「中鉾」を「左右各三枝」と同様に「枝」とすることには問題がある。

②  銘文からは明確に判読できないのにもかかわらず、「泰和」.「七支刀」 「百済王」

  「倭王」などの釈読がなされた背景には「七枝刀」と「七支刀」と結びつけていたことがあ

  ったと推定できる。

③ 銘文の釈読とその解釈に注目するあまり、伝世品である「七支刀」が明治以前の石上神宮に

   おいてどのように扱われてきたかについてはあまり検討されなかった。

6 明治初期以前の「七支刀」

① 「七支刀」は、石上神宮の信仰と結びついた神剣であった。

② 「七支刀」は、「布留神剣」とも称され、木枠に柄とともに差し込まれ、その上から「布留

  社御剣袋」という錦袋で覆われ、さらに、しでと鏡とをつけられた、鉾のような姿で神庫

  の中にあり、六月三〇日の神事にも出御していた。

③ 「七支刀」は布に留まった剣の伝承並びに若宮出雲建雄神社の縁起と関係があり、布留神剣、

   若宮出雲建雄神、草薙剣、日の谷にあるハツ岩という磐座、 神宮寺などとも結びつく。

④  『石上布留神宮略抄』によれば、「七支刀」は貞観5年(863) 以降に神主の邑常が夢で見た

   草薙剣を新たに模して作られたことになる。

7 石上神宮の「七支刀」 や禁足地を調査することを菅政友に可能ならしめた二つの要因

①  「帝陵」盗掘を行った盗賊たちが嘉永3年(1850) に石上神宮の禁足地を盗掘し、神庫から

   刀身や甲などを盗み、小狐丸を偽物と入れ替えるという小細工をしていたこと。

②   明治維新により、 石上神宮において神社組織の変容があり、人事的に在地と断ち切られ、在

   地の伝統的な信仰を無視しうるようになっていたこと

8  まとめ

① 明治維新による石上神宮の変容が、菅政友による「七支刀」 銘文の発見につながった。

②  明治時代になされた、菅政友の銘文釈読に間題があり、通説の釈読にも検討付の余地があるの

   であるから、もう一度、政友の釈読以前に戻って検討することも意味があるといえる。

③ 『石上布留神宮略抄』によれば、「七支刀」は直観5年(863) 以降に神主の邑常が夢で見た

   草雑剣を新たに模して作られたことになることも、銘文の釈読の際には考慮すべきである。

   ただし、江戸時代の文献に草薙剣や布に留まった創などとの関係が記されていても、それは

   「七支刀」本来の記録や伝承が失われた後に作られた。新たな伝承にすぎない可能能性か残って

   いる。六月三○日の神事に出御していたのは 本来は別の剣であったのが、何かの事情で、

   「七支刀」に変えられた可能性もある。このような可能性は留意しなければならないが、『日

   本書紀』の神功皇后52年条に記された「七技刀」の束縛や先入観から離れた、「七支刀」研

   究並びに、その銘文の釈読をするためにも、先の視点は重要と考える。



自害峰(じがいみね)

「不破関資料館」より徒歩で中山道を西へ約10分ほど進むと、小高い丘の中腹

に「自害峰(じがいみね)」があります。 壬申の乱にて大友皇子は、大海人皇子
に追い詰められ、 大津の長等山で自害しました。大海人皇子方の将、村国男依
は、その首を持って大海人皇子本営の 「不破の野上行宮」に凱旋したといわ

れています。大友皇子の御首は首実検の後、 地元の人々が貰い受けこの丘に葬

られたそうです。そのしるしにこの場所に三本杉を植え、 ここを「自害峯」と

しました。その後、 明治時代に宮内庁などが調査を行い 「弘文天皇御陵候補

地」と認定されました。杉の大木が立っている様は、 実に荘厳な雰囲気です。  




原石

桜井市立埋蔵文化センター 平成22年度 企画展資料より

サヌカイトさめかいと 英: sanukite 》

 讃岐石の名でも知られる火成岩の一つで、灰黒~黒色の緻密な硬い岩石

です。カンカン石とも呼ばれ、叩くと金属音を発することに由来しています。

 サヌカイトはガラス質の岩石で、打ち欠くとに割れて鋭い刃ができるた

め、旧石器~弥生時代にはナイフ形石器·石鏃(せきぞく)·石斧(せきふ)·右剣
などの打製石器が作られ、生活に欠かせない石材でした。

 主な産地は香川県五色台と金山周辺、大阪と奈良の府県境の二上山周辺

などであり、二上山産のものは、近畿を中心に東海地方まで流通しています。

二上山  竹ノ内街道  竹ノ内街道 


流紋岩リゅうもんがん 英:ryolite 》

 火成岩の一種ですが、サヌカイトよりもガラス質で、色は灰~白色に近

くなります。表面に溶岩が流れた痕跡が縞模様になって表れるものがある

ことから流紋岩と呼ばれます。

 流紋岩は層状に割れる性質があり、板状の石材から石庖丁や石斧などが

作られました。特に石庖丁は大和の弥生時代前期を代表する磨製石器です。

 近畿では耳成畝傍山のほか信貴山などで産出します。また耳成山のも

のは縞模様が多く見られますが、畝傍山ではあまり見られないようです。

小谷古墳 加守廃寺   


結晶片岩けっしょうへんがん 英: crystalline scbist》

 変成岩には、薄い板を何層も重ねたような構造で、それに沿って割れや

すい性質の片岩があります。この中で、含まれる鉱物粒の大きさが肉眼で

見られる程度のものを結晶片岩といい、和歌山県紀の川流域や徳島県吉野

川流域で産出することが知られています。

 石庖丁や石斧などの原材料として近畿一円で広範囲に使われますが、産

出地から遠く離れた場所でも使われているのは、この石材へのこだわりが

あったものと考えられます。

小山田古墳     


粘板岩ねんばんがん 英: clay slate )

 堆積岩である泥岩や頁岩がさらに弱い変成作用をうけたものを粘板岩と

呼びます。一般的に暗灰色~黒色の緻密で硬い石材で板状に薄く剥がれる

性質があります。また、割れた表面の凹凸が少なく、石庖丁や磨製石剣な

どに用いられていました。

 近畿では丹波山地などで産出し、特に良質のものとして高島石が挙げら

れます。この石は琵琶湖の西、滋賀県高島市にある阿弥陀山で採れ、硯石

の材料として現在も使われます。


砂岩さがん 英:sandstone )

 砂粒などが堆積して固まった岩石で、2~1/16 mmの砂が堆積したものを

砂岩と呼び、それ以上の大きさでは礫岩、それ以下では泥岩と呼びます。

薄く割れにくい性質のため、鋭利な剥片石器には適さず、旧石器~弥生時

代を通じて石斧や砥石などのほか、青銅器の鋳型にも用いられています。

 すべての地層に存在するため、具体的な産地を絞り込むことは難しい岩

石です。

天理砂岩  不退寺  酒船石 
峯塚古墳  石の女帝  石位寺 
石上神宮と飛鳥  鬼となった天皇  飛鳥東垣内遺跡 
般若寺  牽午子塚古墳  鞍馬寺 
酒船石 石位寺  飛鳥京跡苑池 
絵島  亀形石造物   


滑石かっせき英: talc >

 輝石·角閃右(かくせんせき)·カンラン石などの鉱石が熱水による影響を受
けてできた変成岩の一つで、白~灰白色をした岩石です。近畿では和歌山県
紀の川流域が主な産地として有名で、その他に北部九州などで産出するよう
です。

 滑石は保温性に優れており、平安~室町時代には石鍋が多く作られまし

た。製作地は長崎·福岡·山口県で見つかっていて、そこから日本各地に

流通していました。

東大寺山古墳  赤土山古墳  宮址と三輪祭祀 
金橋神社     


琥珀こはく 英: amber )

 有機物である木の樹脂が地中に長期間埋没し固まってできたもので、生

成過程の中で昆虫などが取り込まれている例もあり、宝石だけでなく化石

としても知られています。 主な産出地として岩手県久慈市や福島県いわき

市、千葉県銚子市があげられます。玉の材料として縄文時代から使われ始め、

勾玉や管玉、棗玉などが作られていますが、そのほとんどが久慈·いわき

産であるとの分析結果が得られています。

天武天皇  兜塚古墳  東大寺 
野口大塚古墳  千本ゑんま堂  不空羂索観音 
飛鳥~奈良時代衣装  高松塚古墳  金橋神社 
キトラ古墳     


翡翠ひすい 英:jade )

 火成岩·変成岩中に生成する希少な鉱物の一種で、 これらが高圧低温と

いう特殊な状態で変成した地質から産出されます。混入する鉱物により緑·

灰白·白などに発色します。

 産出地としては新潟県糸魚川市周辺やその西隣の富山県朝日町宮崎海岸

が知られています。 この地域では糸魚川市長者ヶ原遺跡や朝日町境A遺跡

など多くの縄文~奈良時代の玉作遺跡が確認されており、全国の遺跡で出

土する翡翠製品のほとんどがここからもたらされたと考えられています。

東大寺  えべっさんになった神々  建御名方が築いた新王国 
不空羂索観音     


緑色凝灰岩りょくしょくぎょうかいがん 英: green tuff )

 火山の噴出物が温度や圧力により変質し、冷やされる過程の中で多量の

輝石·角閃石が結晶化したもので、それら鉱物の影響により緑に発色して

います。日本海側一帯~北海道東部にかけて広範囲に分布していますが、

遺物に使用される限定された石材採掘地はなかったようです。

 玉の材料としての利用は弥生時代前期の鳥取県長瀬高浜遺跡での管玉製

作に始まりますが、それ以降、北近畿~北陸にかけて次々に拡がっていき

ます。このことは日本海沿岸に玉作遺跡を拡大させるきっかけになったと

考えられます。

島の山古墳  金橋神社   

 

碧玉へきぎょく 英: jasper )

 微細な石英の結晶が集まってできた鉱物で、火成岩などの岩の裂け目に

塊状や筋状に生成されます。多量の不純物を含むために不透明なのが特徴

ですが、その種類により緑·赤などに色が変化します。 主な産出地は松江

市玉湯町に所在する花仙山で、通称出雲石と呼ばれています。この他に新

潟県佐渡島、石川県小松市などでも見られます。

 特に花仙山周辺では、弥生~奈良時代の長期間にわたり中心的な玉生産

地域であったと考えられています。

東大寺山古墳  兜塚古墳  桜井茶臼山古墳 
オオヤマトの古墳・宮址  古代石上神宮  割塚古墳 
金橋神社  佐紀瓢箪山古墳   


瑪瑙めのう 英: agate )

 碧玉·水晶とも組成は同じで、不純物が混じる量に違いがあります。火

山岩層内の空洞に石英などが層状に溜まり生成される鉱物で、山陰~北陸

に多く産出し、色は白~透明や茶色などが見られます。玉作遺跡の分布と

しては、碧玉·水晶と同じく花仙山周辺が多く、特に古墳時代後期になる

と生産される玉の半数以上が瑪瑙製になることがわかっています。

天武天皇  持統天皇  川原寺跡 


水晶すいしょう 英: crystal )

 石英の中でも不純物がほとんど混じらない無色透明なもので、比較的時

間をかけ冷え固まってできた火成岩中の空洞や岩の裂け目に成分が沈澱し

結晶化することで生成されます。産出地は全国に点在するため、遺物に使

われる原石を採掘した明確な地域はわかっていません。 しかし、京都府京

丹後市奈具岡遺跡や島根県松江市玉湯町周辺の玉作遺跡ではそれぞれ弥生

時代·古墳時代の水晶を加工した工房跡が確認されており、遺跡の近くに

当時の採掘地があると予想されます。

豊田狐塚古墳  運慶  国譲り出雲をのぞく 
太子道  長岳寺阿弥陀如来  天之御中主神 
東大寺  元興寺・南無仏太子像  飛鳥池工房遺跡 
オオヤマトの古墳・宮址  市尾宮塚古墳  割塚古墳 
金橋神社 願成就院・大御堂  岩村城址 
衿羪羅童子    


滑石かっせき英:talc》

 勾玉や臼玉などの玉類に利用され始めたのは古墳時代前期からで中期に

最盛期を迎えます。その産出地として和歌山県紀の川流域が候補の一つに

挙げられますが、近畿の遺跡で出士する石材には2~3種類の質の違いが

認められるため、主要な玉作遺跡が所在する兵庫県北部や滋賀県南部、ま

たは遠く関東からもたらされた可能性も考えられています。

東大寺山古墳  赤土山古墳  オオヤマトの古墳 
金橋神社     

 

辰砂しんしゃ英:cinnabar》

 水銀朱の原料で、ベンガラや鉛丹とともに利用された赤色顔料です。石

臼と石杵ですりつぶしたもの古墳の石室などに塗っていました。辰砂

が採掘できる場所は断層である中央構造線に沿って多く見られ、中でも宇

陀市周辺は近畿でも古くからの採掘場だと考えられています。それは万葉

集の歌で「宇陀の真赤土(まはに)」と詠まれていること、天理市天神山古墳
や桜井市桜井茶臼山古墳に使われた水銀朱の成分分析で、この地域のも
のと同じ特徴を持つとの結果が出たことからもうかがえます。

酒船石     


二上山凝灰岩にじょうざんぎょうかいがん》

 二上山付近で産出されるほとんどの凝灰岩は溶結疑灰岩(ようけつ)で、色
が白いことから二上山白石と呼ばれています。古墳時代後期に近畿で家形石棺
が作られるとその材料として利用され、奈良県内では斑鳩町藤ノ木古墳、明日
香村高松塚古墳などで、桜井市内では、赤坂天王山1号墳の刳抜式家形石棺
などに使われています。

酒船石  金橋神社  市尾宮塚古墳 
野口大墓古墳  車木天皇山古墳  栗原塚穴古墳 
高松塚とキトラ  飛鳥の古墳  森王墓古墳 
牽午子塚古墳  八角形の大王墓なぜ  大伯皇女 
天武天皇  弁天社古墳  塚穴山古墳 
峯塚古墳  小奈辺古墳  谷首古墳 
牽午子塚古墳 豊田トンド山古墳  石上大塚古墳 
ウワナリ塚古墳  比売久波神社  キトラ古墳 
高松塚古墳  亀形石造物  牽午子塚古墳 
石舞台  加守廃寺  小谷古墳 
藤ノ木古墳  首子塚古墳  マルコ山古墳 
植山古墳  ツボリ山古墳  新木山古墳 
亀形石造物  悲劇の皇子たち  鳥谷口古墳 
薬師寺  叡福寺  法隆寺 
西大寺  岡寺  南渕清安 
倉橋  石切り場跡  朝日観音 
権現堂古墳  新宮山古墳  今城塚古墳 
當麻寺  法起寺  檜隈寺跡 
栄山寺  平野塚穴山古墳  ハミ塚古墳 
双ヶ丘  橿原考古学研究所付属博物館  鳥土塚古墳 
市尾塚古墳  都塚古墳  屯鶴峯 
佐田束明神古墳  梶山古墳  東乗鞍古墳 
寺の前古墳  牽牛子塚古墳   



阿蘇ピンク石あそびんくいし》

 阿蘇山麓で産出される溶結凝灰岩のことで、 乾燥した状態でピンク色を

しているためこう呼ばれます。また、熊本県宇土市の馬門付近で採掘され

るため馬門石(まかどいし)とも呼ばれています。

 当初は産出地周辺だけで使われた石材ですが、古墳時代中期末~後期前

半には、近畿,瀬戸内地域のみで石棺材として利用され、再び地元でも使

われるのは古墳時代後期からと言われています。桜井市内では、兜塚古墳

の石棺、慶運寺境内にある石棺仏、ミロク谷の石棺の蓋に使用されています。

 
今城塚古代歴史館より 
金屋の石仏  今城塚古墳  兜塚古墳 
慶運寺 継体天皇  



竜山石たつやまいし》

 兵庫県の加古川下流右岸に産する流紋岩質溶結凝灰岩の石材上の呼称で

あり、現在は宝殿石と呼ばれています。古墳時代中期には大阪府藤井寺市

津堂城山古墳、堺市大仙古墳などをはじめとする大王墓や地域首長墓の長

持形石棺に限り利用されていました。桜井市内では古墳時代終末期の
艸墓古墳の刳抜式家形石棺に使われています。

 
竜山石  今城塚古代歴史館より 
狐井塚古墳  室宮古墳  烏土塚古墳 
小谷古墳  艸墓古墳  佐紀石塚古墳 
丸山古墳  和邇下神社  比売久波神社 
亀形石造物  新木山古墳  西宮古墳 
石の宝殿  植山古墳  蘇我4代
今城塚古墳      



榛原石はいばらいし》

 正式には室生火山岩(流紋岩質溶結凝灰岩)ですが、室生石などと呼ば

れるように主に宇陀市内(旧榛原町大宇陀町·室生村)で採掘されています。

 古墳時代終末期には板状に割れる性質を利用してレンガ状に加工したも

の(石+専)を積み上げた石室が作られます。これは主に産出地周辺で特徴的

に見られるもので宇陀地域の丹切古墳群などの多数の古墳や、隣接する桜

井地域の舞谷古墳群花山西塚·東塚古墳、忍坂8.9号墳などに使われます。

帯解黄金塚古墳  花山西塚古墳  舞谷古墳 
舒明天皇  舒明天皇  菖蒲池古墳 
小山田古墳  蘇我蝦夷   

黒曜石こくようせき英:: obsidian 》

 マグマの急速な冷却によってできた天然ガラスの一つで、一般的には透

明または不透明な黒色をしていますが、大分県姫島産のものは全体的に灰

白色をしています。 北海道や長野県、大分県などの特定の場所でしか取る

ことができない石です。 打ち欠くと鋭い刃ができるため、旧石器時代以降、

打製石器の材料として北海道や関東、九州などで使われました。


頁岩けつがん 英:sbale 》

 堆積岩の一つで、泥が水平に堆積して固まった岩石を指します。「頁」と

いう字は本のページを意味し、薄く層状に割れる性質から命名されました。

褐色~黒色をしているものが多く、硬くて級密なものが石器に使われまし

た。主に北海道西南部、東北~北陸地方で使われています。


石英閃緑岩
貝吹山周辺で採れる。通称飛鳥石。

牽牛子塚古墳  田道間守と天日槍  真弓鑵子塚古墳 
亀形石造物  都塚古墳  与楽キタヤマ1号墳 
越塚御門古墳  岩屋山古墳  飛鳥の古墳 


平城宮大極殿

 平城宮の研究には文献史料と発掘の膨大な蓄積があります。大極

殿の復元はその成果を生かしてい ますが、推定の部分が多いのも確

かです。

 例えば、屋根の形。法隆寺金堂のような入り母屋造り(上部は合掌

形の切り妻で下部は四方に棟が降りる)に復元しましたが、格式の高

さからいうと、唐招提寺金堂のような寄せ棟造り (大棟の両端から

四隅に降(くだ)り棟が降りる)も捨てきれません。確定できる史料はな

く、入り母屋にしたのは「苦渋の選 択」(奈良文化財研究所)でした。

 建物の平面(正面44m、奥行き19.5m)や柱位置、基壇の大き

さ、 階段などは発掘の結果からの復元で、元の姿に近いでしょう。

でも、両端を壁、内側を連子(れんじ)窓にした二階の外装や建物
内部の天井など、史料になく、発掘でもわからないところは大極殿よ
り半世紀古い法隆寺金堂(7世紀後半)などにならっています。このため、

同金堂と似た部分があちこちにあります。

 大極殿の研究は明治時代、地元で「大黒の芝」と呼ばれていた土

壇を大極殿跡とする説を建築史学者の関野貞が唱えてから始まりま

した。1955年に初めて奈良国立文化財研究所(現奈良文化財研

究所)が発掘した結果、土壇の大極殿跡は奈良時代後半の遺構とわ

かりました。

 平城遷都当初の大極殿跡は土壇 より西に当たる宮跡中央部を発掘

して、見つけました。これを第一次大極殿、奈良時代後半の方を第

二次大極殿と呼んでいます。建物を復元したのは第一次で、第二次

の方は基壇と礎石が復元されています。第一次では具体的に、第二

次では想像をめぐらせて奈良の都をしのべます。 


 大極殿は東西約180m、南北約320mの回廊で区画され、全 

体を大極殿院と呼びます。今回、回廊は復元されませんでしたが、

簡単な塀で代替され、大極殿院の広大な様子がわかります。南門か

ら入ると玉砂利が敷かれ、前方に正面44m、奥行き19.5m、高さ

27mの巨大な大極殿がそびえ立っています。

 大極殿院の北約3分の1は創建時、南の玉砂利の広場より約2.4m
高い壇になっていました。臣下らは一段低い南の広場に整列し 

たので、大極殿は復元した今よりいっそう高く見え、仰ぎ見るほど

だったでしょう。

 壇の東西の端には広場から壇に上がる斜路が付いていました。壇

と斜路は側面に塼(せん・れんが)が積まれ、塼積み擁壁と呼ばれて

います。斜路は屈曲する奇妙な形でした。屈曲点と大極殿の位

置関係を詳しく調べた文化庁の内田和伸·文化財調査官は「擁壁

の平面形を決めるのに、キトラ古墳の天文図と同じような同心

円三つと偏心円の交点などが用いられていました。大極殿院の設計 

には古代中国の宇宙観を示す思想が反映している」と述べています。°

 「大極殿のモデルは唐·長安城の大明宮含元殿(西安市)」と

いう説もあります。含元殿の遺構からも塼積みの壇が見つかり、

壇に上がる通路が広場の両端から屈曲して上がる特異な構造が

平城宮の大極殿と同じだからです。

 大極殿は中国では「太極殿」と書きます。「太極」は古代中国の

思想では万物の根源をいい、天帝の住む北極星を意味します。天帝

の子(天子)である皇帝が住む宮域の中心施設なので太極殿と呼ん

だとされます。含元殿は7世紀後半から太極殿に替わって長安城の

中心的宮殿となり、遣唐使も招かれています。

 大極殿は奈良時代の様式で復元されました。しかし、建築基準法 

をクリアするため、現代の材料や技術を採用した部分もあります。

高さ約3.5mの基壇は創建時は土をつき固めて、外周を凝灰岩の

切り石で化粧していました。復元基壇では箱形の鉄筋コンクリート

にして、中に54基の免震装置を入れました。表面は凝灰岩をはり付

けたので、古代の装いはしています。

 壁に合板や筋交いを入れるなどの構造補強も見えない部分に施し 

ています。だが、復元設計に加わった奈良文化財研究所の清水重敦

·景観研究室長は「現代的な補強のお陰で、強度に不安がある古代

の意匠が実現した面がある」と、その効果を指摘します。

 屋根の傾斜がそうです。法隆寺金堂(7世紀後半)のように屋根

裏を簡素な古い構造にしたため、大極殿の屋根は傾斜が緩く、壮大

な建築のわりに軽快な印象を与え形す。

 緩やかだった屋根が後世の修理の際、雨漏り対策で急な傾斜に変

えられた奈良時代の建築の例に唐提寺金堂などがあり、軽快さが

失われたとされています。清水室長は「大極殿の屋根こそ天平の

甍(いらか)」と胸をはります。

 日本の伝統建築の特徴であり、美意識でもある深い軒も実現しま

した。大極殿は外側の柱から屋根の下端までの水平距離(軒の出)

が約4.7mあり、法隆寺金堂を上回ります。同金堂は当時の技法

では限界と言われるほど軒を深くしています。

 清水室長は「装飾的な部材と思われていた法隆寺金堂の天井の支

輪が構造材的な強度をもつことを確かめて、大極殿に利用しまし

た」とも言います。復元によって古代建築の研究が進んだことも今

回の成果でした。

   2010-4-27~5-2 朝日新聞 沖真治


牽牛子塚古墳(けん ご し づか)

1.はじめに

 牽牛子塚古墳は「真弓崗·越智崗」と呼ばれる一角に所在する終末期古墳です。周辺には岩屋山

古墳をはじめ真弓鑵子塚古墳マルコ山古墳カヅマヤマ古墳など多くの後·終末期古墳が点在し

ています。牽牛子塚古墳については北浦定政の「松のおちば」(1856) の中で「越村ニケンゴウシと

申亦朝顔と申由」と記されており、江戸時代には「ケンゴウシ」と呼ばれていたことがわかります。

大正元年には佐藤小吉によって調査が行われ、更に大正3年には阪合村役場が保存工事を行って

います。この際、七宝飾金具をはじめ玉類·夾紵棺片人骨などが出土しています。昭和52年には環

境整備事業に伴って石槨前面が調査され、コロレールや版築土が確認されています。今回の調査は

牽牛子塚古墳の構造解明に向けた範囲確認調査を平成21年度より実施しています。

2.検出遺構と出土遺物

【墳丘と外部施設)

 墳丘は越峠から東西に続く丘陵から更に舌状にのびた丘陵上に位置しています。墳丘は版築で

築かれた対辺約22m、高さ4.5m以上を測る八角形墳です。墳丘基底部は花岡岩風化土の地山面を

八角形に削り出し、裾部には二上山の凝灰岩切石を敷き詰めた犬走り状の石敷があります。この石

敷の更に外側には川原石を敷き詰めた二重のバラス敷があり、仕切り石を境にして外側は一段低く

なっています。凝灰岩石敷と墳丘背後の花崗岩風化土の地山面の間には花崗岩の抜き取り痕があ

ることから、地山面の法面処理に花岡岩が使用されていたものと考えられます。

【埋葬施設】

 埋葬施設は二上山の凝灰岩を使用した南に開口する刳り貫き式横口式石柳です。石槨内の中央

には間仕切りがあり、それを境に二つの埋葬施設があります。床面には長さ約1.9m、幅約80cm、高

さ約10cmの二つの棺台が設けられており、天井部はドーム状を呈しています。開口部には凝灰岩の

閉塞石(内扉)と更に外側には石英安山岩の閉塞石(外扉)があり、二重の閉塞を行っています。こ

の外扉の閉塞石と前面を揃えるように左右にニ段に積まれた石英安山岩の切石があり、石槨を構

成する凝灰岩の周囲を直方体の切石が取り囲んでいます。この石材は高さを調節するために、一石

から数石の切石を積み重ねて構成されています。また石槨の凝灰岩と石英安山岩の切石が接する箇

所には漆喰が充填されています。

【出土遺物)

 夾紵棺·黒色土器·瓦器·羽釜·凝灰岩など少量出土しています。

3.まとめ

 今回の調査では牽牛子塚古墳がハ角形墳であることが明らかとなりました。以下、今回の調査成

果をまとめると、①牽牛子塚古墳は舌状にのびた丘陵上に版築で築かれた対辺約22mの八角形墳

で、二重のバラス敷きの範囲を含めると32m以上の規模を測ります。②墳丘裾部にはニ上山の凝灰

岩切石やバラスを敷き詰め、墳丘部も凝灰岩で表面を装飾していたものと考えられます。③埋葬施

設については、石槨を構成する凝灰岩の周囲を石英安山岩の直方体の切石を数石積み上げており、

石槨凝灰岩と石英安山石の接する箇所には漆喰が充墳されています。 ④築造年代については石槨

構造などから7世紀後半頃と考えられます。

 このように、今回の成果は牽牛子塚古墳を解明する上で多くのデータを提供しており、今後飛鳥

地域の終末期古墳を考える上で重要な資料となるでしょう。
  2010年9月 明日香村教育委員会資料より



大神神社案内図

 



藤原麻呂と坂上郎女

 をとめ等(ら)が  珠匣(たまくしげ)なる  玉櫛の

 神さびけむも 妹に逢はずあれば

      藤原麻呂 巻四(五ニニ番歌)

 少女らが美しい箱に大切にしているりっぱな櫛のように、

 私は古ほけてしまったのだろうか。あなたにお逢いしないので。

 

 この歌は、藤原麻呂が大伴坂上郎女に贈った歌三首のうちの一首目

に当たります。麻呂は藤原不比等の四人の息子の一人で、養老元(七一

七)年には美濃国(現在の岐阜県南部)の介(次官)という地方官でしな

が、まもなく都へ戻りました。当時の都である平城京は、朱雀大路を

堺として東を左京職、西を右京職という役所が管轄していました。麻

呂は帰京した後に左右両京職の長官を兼任し、「京職大夫」と呼ばれ

ました。

 『万葉集』に収められたこの歌から始まる七首の歌は、藤原麻呂と大

伴坂上郎女との間の相聞歌です。その左注によると、坂上郎女は大伴安

麻呂(大伴旅人の父)の娘で、穂積皇子(天武天皇の子)の寵愛を得ま

したが、皇子が和銅八(七一五)年に亡くなった後に麻呂と交際したと

あります。養老六(七二二)年頃に坂上郎女は異母兄の大伴宿奈麻呂

に嫁いだとみられますので、麻呂との間で交わされた一連の歌は、麻呂

が養老二(七一八)年頃に美濃から帰京した後、養老五(七二一)年に

京職大夫へ就任する頃までに詠まれたものと考えられます。二人が交

際できた期間はごく短く、またこの歌や坂上郎女からの返歌がいずれ

も互いにあまり会っていないことを前提とした内容であるため、二人の

関係はまもなく解消へ向かったと推察されます。

 なお、麻呂の邸宅は左京二条二坊五坪に所在したことが、平城京跡か

ら出土した木簡の内容から判明しています。ここは長屋王邸から二条

大路を挟んで北隣の位置に当たります。一方の坂上郎女は坂上里に居

住したと左注にあり、父の安麻呂が居を構えていた佐保の近く、平城京

北郊の平城山(ならやま)南麓あたりに住んでいたとみられます。双方
の距離は二~三キロメートル程度ですが、男女の仲はあまり長続きしな
かったようです。
  県民だより 奈良 2021 9月 (本文 万葉文化館 竹内 亮)i 


釈迦三尊像

法隆寺釈迦三尊
 釈迦三尊像は、千三百年の歴史をもつ法隆寺の金堂の本尊です。日本で最初に造られた仏

像は、釈迦の姿を写した釈迦如来像でした。この釈迦三尊像は仏教がもたらされ、広まって

いく頃に造られた、わが国で最も古い仏像のうちの一つです。当時まだ仏像を知らなかった

日本人に代わり、朝鮮半島からの帰化人やその子孫の手で造られているため、かすかに微笑

んでいるような顔や目鼻だちは少し異国的です。

 この釈迦三尊像には、仏の世界がわかりやすく表わされています。釈迦の座っている台座

須弥山を表わし、その下に広がる大海原から生え出しているのは蓮の花です。その花弁か

ら左右二体の菩薩が出現しています。右の像は薬上菩薩、左の像は薬王菩薩と呼ばれます。

釈迦如来のはたらきを助ける脇侍です。宇宙や自然全体を象徴する宝珠をもっています。そ

して、須弥山の上に座っている釈迦如来は仏界を象徴しています。

 光背には、須弥山の浮かぶ大海の水が蒸気となり、陽炎のように上空に立ちのぼっていく

さまが表現されています。光背の上部にある七つの仏像は、釈迦が前世で七回生まれ変わっ

たという過去七仏の姿を表わしています。

 台座の天井には天空を表わす天蓋があり、その周囲には、清く透き通った空気を表わし汚

れの世界と隔てる幕である羅網がついています。また、天蓋には、天女が音楽を奏でるさま

や、鳳風が飛び舞う様子が表わされています。このように、台座から天蓋にいたる釈迦三尊

像全体で、仏の世界をわかりやすく表現しているのです。

 光背の裏側には、この像が六二三年(推古三一年)三月に、前年に亡くなった聖徳太子

ために止利仏師によって造られたと記されています。悠久の時の流れを経て、今も釈迦三尊

像は人びとに仏の教えを伝えつづけているのです。




室生寺の釈迦如来

 室生寺には、二体の釈迦如来像が記られています。

 金堂の本尊は平安時代の初めに造られた釈迦如来立像で、三十二相八十種好という、釈迦

の特徴が表わされています。眉間に生えていた白い巻き毛を表わしている白毫からは、慈悲

の光が出ています。頭の盛り上がりは肉馨(にっけい)といい、釈迦の並外れた智慧を象徴して
います。

この肉馨から釈迦の身代わりである化仏が放たれます。指の間の漫網相は水掻きの形をして

いて、一滴の水も漏らさぬように、人びとをすくい上げて救うためのものです。身につけた

衲衣は糞掃衣ともいい、人びとを救うために一枚の衣がボロボロになるまで六年間の苦行を

した、釈迦の慈悲の象徴となっています。

 右手の施無畏印は人びとの悩みや恐れを取り去る印、左手の与願印は望むものを与えよう

としている印です。みぞおちの二本の線はアナパーナサチという、インドに伝わる呼吸法を

表わしています。お腹に力を入れて、法力をゆっくりと衆生に吹きつけているのです。

 立像は、今すぐ人びとを救いに行こうとする心を表わしています。

 金堂の西にある弥勒堂にはもう一体、坐像の釈迦如来が安置されています。この釈迦如来

は「まず、座って考えなさい」と、私たちの心を鎮めてくれています。

 叡智に満ちたカ強い顔は、厳しい眼とやわらかな口元をしています。私たちの願いを聞き

入れてくれるおおらかさと、赤ん坊のような汚れのない相が組み合わされています。

 手相の十字は釈迦の象徴で、横の線は智慧を、縦の線は運命を表わしています。拝むこと

によって釈迦の運をもらうことができ、その人の運勢が強くなるとされています。

 座り方は吉祥坐といい、右は仏、左は私を意味します。つまり、仏の上に私が乗り、次に私

が仏の心になって、他の人を救いに行くという考えで、大乗仏教の精神を表現しているのです 。



清凉寺の釈迦如来

 清涼寺は、地元では「嵯峨の釈迦堂」として親しまれてきました。京都·嵯峨は、平安

時代の貴族たちの別荘地でもありました。本堂の中央、豪壮華麗な厨子の中にたたずむ異国

的な面立ちの釈迦如来は、東大寺の僧、ちょう然がインドから中国に伝わっていた像を模刻させ、

日本にもたらした三国伝来の仏です。

 釈迦の三十七歳の頃の容姿を写したとされており、ロ元にはひげをたくわえ、長い髪は編

み上げられて頭頂で渦巻き状にまとめられています。今まさに水の中から立ち現われたかの

ように衣が身体にまとわりつき、首元は両肩からかけられた袈裟できっちりと覆われていま

す。日本で造られた仏像には見られない、このエキゾチックな容姿は、生前の釈迦の姿を彷
彿させます。心臓、胃、肺、肝臓などの五臓六勝が絹で造られて、胎内に納められています。

尊い教えを説いた釈迦の生身の姿を拝みたいという純粋な願いが、この像には込められてい

るのです。九八六年(寛和二年)に日本にもたらされたこの像は、釈迦を信奉する人びとに

よって熱烈に模刻されて全国に広まりました。清涼寺式釈迦如来と呼ばれる仏像は、現在で

は百体近くにも及んでいます。

 日本にかつてなかった姿の仏、生きているようなその姿は、貴賤の別を超えて多くの人び

とから愛されました。貴族のものとされていた仏教が、一般庶民へと広まり、新しい仏教の

幕開けとなったのです。念仏で名高い法然上人も、この釈迦如来を一心に拝む人びとを見て

新しい境地を得、民衆の中に入っていったといわれています。

 眼差しは私たちに向けられ、その手で私たちに降りかかる災いを取り除き、一人ひとり、

れぞれの願いを叶えようとしています。体中いたるところにある傷は、祈る者が投げた賽

錢によるものです。人びとの無数の祈りと願いを、しっかりと受けとめてきた仏です。

釈迦如来立像 (清凉寺式)   重要文化財 木造 漆塗

    像高77.9cm  鎌倉時代 文永10年 (1273)

    玄海作

 奈良国立博物館だより 第122号 令和4年7・8・9月 より


 京都・清凉寺の本尊釈迦如来像の模像。 清涼寺像は
寛和2年(986) に東大寺奝僧然(ちょうねん)が中国・宋より請来
した像で、 釈迦在世中の姿を写した霊像として信仰を集め、
鎌倉時代に入ると盛んに模像が造られた。 本像は縄目状の
頭髪や衣を通肩(つうけん)にまとう点など原像の形式を写す

ものの、 明快な彫り口に同時代の特色がある。
台座上框(うわかまち)上面の墨書により、文永10年2月15日に
開眼供養が行われたこ

とがわかる。 作者は玄海で、開眼導師は「良観上人」であった。
玄海はほかに事績が知られないが、良観は西大寺 叡尊の高
忍性の房号 (僧侶としての別名)であり、ここで指すのは忍性
とみられる。

 頭部内に舎利容器を納めることが知 られていたが、近年の
X線CTスキャン調査により、 容器は金属製の蓋と底部をともな
う水晶製と考えられ、内部には舎利に擬えた粒状の品があるこ
とも確認された。 叡尊の自伝 『感身学正記』 文永8年条には、
同年2月に西大寺中の仏舎利と法華寺で涌出した仏舎利二千
粒を叡尊が供養したところ増加し、 最終的に五千粒を数えたが、
うち一千粒が忍性に与えられたとある。 この2年後に造立され
た本像との関連は、今後より注目されてよいだろう。

    内藤 航(当館学芸部研究員 )

 


巨大古墳の謎

古墳の大きさベスト30 全長

1 大山古墳(仁德陵古墳)486m

2誉田御廟山古墳(伝応神陵)425m

3石津ケ丘古墳(伝履中陵)360m

4 造山古墳《岡山市》350m

5 河内大塚山古墳(大阪松原、羽曳野市》330m

6 見瀬丸山古墳《奈良橿原市》310m

7渋谷向山古墳(伝景行陵)300m

8 ニサンザイ古墳290m

9 仲津山古墳(伝仲津姬陵)286m

10作山古墳(岡山総社市》286m

11 著墓古墳278m

12 五社神古墳(伝神功陵)275m

13 ウワナベ古墳255m

14 市庭古墳(伝平城陵)250m

  メスリ山古墳(奈良桜井市》250m

16 岡ミサンザイ古墳(伝仲哀陵)242m

  行燈山古墳(伝崇神陵)242m

18 室大墓古墳(室宮山) 《奈良御所市》238m

19市野山古墳(伝允恭陵)230m

20 宝来山古墳(伝垂仁陵)227m

21 太田茶白山古墳(伝继体陵) 《大阪茨木市) 226m

22 古市墓山古墳225m

23 ヒシアゲ古墳(伝盤之媛陵)219m

  西殿塚古墳(伝手白香皇女陵) 219m

25 佐紀石塚山古墳(伝成務陵)218m

26 河合大塚山古墳215m

27 築山古墳210m

  西陵古墳《大阪岬町》210m

  太田天神山古墳《群馬太田市》 210m

30津堂城山古墳208m


 国内最大の大山古墳 (仁徳陵古墳)をはじめ、天皇陵を多く含む大阪府の「百舌鳥·古市古墳群」

が世界文化遺産の暫定リストに入った。宮内庁は近年、陵墓への立ち入り調査や情報公開に前向きの

姿勢を見せている。巨大古墳は市民に身近な存在となるのか。白石太一郎·大阪府立近つ飛鳥博物館

長、菅谷文則。奈良県立橿原考古学研究所長、一瀬和,京都橘大学教授の考古学者3人が、その謎

や魅力について語り合った。

 円墳や方墳、前方後円墳など時期や地域で形が異なる古墳。墳丘の長さが200周を超す大型古墳

はすべて前方後円墳だ。これらが3世紀中ごろに突如、奈良盆地に出現する。なぜか。

 邪馬合国の所在地論争が再燃するきっかけになった縄向遺跡 (奈良県桜井市)。その一角に位置

し、女王卑弥呼か後継者を葬った可能性が指摘される箸墓古墳こそ 古墳の始まり、と白石氏は唱え

る。「箸墓の前と後では古墳の形状に大きな飛躍がある。卑弥呼の死が契機となって生み出されたも

のが巨大な前方後円墳であり、ヤマト政権そのものだ」

 菅谷氏の見解は異なる。「前方後円墳の最初の例は箸墓より前。同じ継向遺跡にある石塚勝山

矢塚ホケノ山の4古墳あたりからだ。仏像も釣り鐘も一定の形ができると巨大化する。大は善な

り、という思想が根底にあるのだろう」との持説を展開した。

 200mの前方後円墳は全国で37基。うち34基が近畿(奈良県19基、大阪府14基、京都府1基)にあ

り、5大古墳群を形成する。大王(歴代天皇)だけでなく、有力豪族も競って造営したとみられ、一瀬

氏は「前方後円墳を造ることに意義があるというほどの建設ラッシュ。世界的にも特徴的な文化だ

エジプトでは王しかピラミッドを造らない」と異様さを強調する。 

 4世紀末になると、大型古墳は河内地方にも登場する。 古市·百舌鳥古墳群の誕生だ。「古墳は政

治勢力の本拠地に営まれるのが原則」と考える白石氏は「大阪平野の勢力が王権を掌握したからだろ

う」と指摘。ただ、研究者の間では、本拠地は大和のままで墓域が移動しただけとする説や、九州の

勢力が大阪を支配したとする説など意見は分かれる。

 ではなぜ、奈良県に三つの古墳群が存在するのか。3人に共通するのは、大和朝廷の墓域が大和

柳本古墳群から佐紀古墳群に移ったのに加え、地元の有力豪族が馬見古墳群を形成したとの見方だ。

 権力の象徴だった前方後円墳は、7世紀に入ると姿を消し、円墳、方墳、八角墳へと小規模化し

ていく。 菅谷氏は「大型古墳には前·後期の2段階があるが、後期には1ヵ所に集中して造る群集墳

が増え、これが大王墓の規模縮小を招いた」と分析する。

 白石氏は「前方後円墳は畿内では6世紀末、それ以外でも7世紀初めに造営が止まる。推古朝に中

央集権的な国家形成をめざし、首 長連合体制のシンポたった前方後円墳システムと決別したのでは

ないか」。一瀬氏も 大山古墳以降はほぼ大王のみが大型古墳を造る。東アジアの中で特異な存在だ

った墳形を改め、同質な支配形態を取った」とみる。

 世界遺産をめぐって熱い議論が続いた。 世界遺産登録には国内法で文化財として保護れている

ことが前提になるが、百舌鳥・古市古墳群には、未調査の陵墓・陵墓参考地が多く含まれる。暫定リ

スト入りを機に陵墓の公開が進むのだろうか。

 「大山古墳や誉田御廟山古墳(伝応神陵)はピラミッドや秦始皇帝陵と並ぶ貴重な化遺産。一

日も早い登録が望まれる。公開については時間をかけて国民的合意」を形成していけばいい」と白石

氏。一瀬氏は「地元で『ご陵さん』と親しまれる天皇陵を心地よい文化遺産ととらえ、市民生活に

浴け込んだ風景として存在感を高めていけるかが重要」と説く。

 中国·朝鮮の古墳は地下に築くのが主流。菅谷氏は日本の古墳文化を世界史的にどう位置づける

かが課題だ。今回の暫定リスト入りは、奈良の古墳群の世界遺産入りにもはずみになる」と期待を寄
せた。 
   2010ー9-24 朝日新聞(夕刊) 


飛鳥の諸宮うつりかわり

 




恭仁京朝堂院

 

 奈良時代に聖武天皇が740年から3年ほど都を置

いた恭仁京の宮殿「恭仁宮跡」(京都府木津川市加茂

町、国史跡)で、役人が集まって政務や儀式を行った

朝堂院」の北東隅が確認され、掘立柱塀で四周を囲

まれた構造だったことが確定した。府文化財保護課が

15日、発表した。

 2021年度の調査で、朝堂院の四隅すべてが確認

され、東西約116.9、南北約98.8mの規模

が確定した。天皇が重要儀式を行う「大極殿院」を囲

む築地回廊が、朝堂院北側 の掘立柱塀に接続する
構造だった可能性が高まったという。大極殿院の北東
隅では、回廊を造る際の「足場穴」も確認された。

 1974年から続く発掘調査で、恭仁宮内の区画施

設の規模が全て判明したことになる。発掘担当の桐井

理揮主任は「宮内の主要区画の構造、規模がおおむ
ね確定したことで、他の宮都と比較検討する素地が整
った」と話す。
  2021-9-21 朝日新聞 (甲斐俊作)



万福寺ふすま絵

 フランスを拠点に活躍する画家、松井守男さん(79)が黄檗宗本山万福寺(京

都府宇治市)でふすま絵を描いている。11月13日に奉納する予定。

 宗祖・隠元禅師が隠居した「松隠堂」で、ふすまの大半である約40面に描く。

絵筆のほかに、僧が境内を掃き清める竹ぼうきでも描く。竜や僧などがモチーフ

の抽象画になるという。

 松井さんが今春、寺を訪ねて制作を依頼された。「ここは自然に溶け込んだ最高

のアトリエ」と張り切る。

 万福寺は江戸時代に中国から渡日した隠元が1661年に創建。木魚や煎茶、

料理、インゲン豆など多くの中国文化をもたらした。

 松井さんの求めで6日に絵のモデルも務めた荒木将旭·宗務総長は「宗祖の35

0年遠忌を来年に控え、絵の公開も考えたい」と話す。

 松井さんは細筆で描く繊細な抽象画で知られ、「光の画家」と呼ばれる。拠点の
仏コルシカ島から昨年に一時帰国した後、コロナ禍の影響で日本にとどまり、制作

を続けている。
  2021-9-22 朝日新聞(小西良昭)



国引き

 高志(こし・越、古志)と呼ばれた北陸地方は出雲と縁が深かった。一見遠く隔たるが、日本海

をたどれば、それほどでもない。神々もまた、海を介して活発に交流した。

 海原に突き出た島根半島の突端に、美保神社(松江市)はある。汀と社叢は目と鼻の先だ。

神話上、ここはかつて北陸の一部だった。

 『出雲国風土記』の国引き神話によれば、ヤツカミズオミツヌノミコトという神様がその

昔、石川県能登半島の珠洲地方」とされる「高志の都都の三埼」を、海の向こうから引っ張って

きたという。オオクニヌシによる本格的な国づくりは、これを引き継いでのことらしい。ここ 

に鎮座する彼の子ミホススミの名を冠して、風土記はこの地を美保の郷」と記す。

 むろん美保神社もオオクニヌシとゆかりが深く、ご祭神は妻のミホツヒメと息子のコトシロ

ヌシ。「国譲り」がモチーフの神事も毎年催されている。

 ちなみに、ここでコトシロヌシは七福神のえびす様と同一視されている。 えびすは戎、 海か

ら寄り来る漂着神でもあるから、「国引き」とオーバーラップするようでおもしろい。

 それにしても、海のかなたから土地をたぐり寄せるという奇想天外な発想は、どこから生ま

れたか。

 「地域統合の神話化や、湖が埋まるなど自然地形や環境の変化を反映したのでは」と島根県

古代文化センターの平石充さんはいう。 とはいえ、それがはるか北陸とはなんとも不思議に思

えるが、実は両地域の縁は先史時代にさかのぼる。

墓や地名に共通点

 たとえば、ヒトデのような奇妙な形の「四隅突出型墳丘墓」。弥生時代に山陰で発生し、北陸

に伝わった。 代表的な西谷3号 墓(島根県出雲市)では地元産の土器に交じって北陸の土器が

出土する一方、逆にここで使われた土器類が丹後(京都北部)や越前(福井)でも確認されて

おり、日本海地域のリーダーたちの広範な連携をしのばせる。

 7世紀の能登半島には出雲地域と構造が似る横穴墓が分布」し、先のミホススミも須須神社

(石川県珠洲市)に鎮座する。

他方、松江市美保関町の伊屋谷遺跡では能登由来の製塩土器が見つかっている。

 共通の古地名も少なくない。出雲にあった神門郡古志郷について、風土記はその由来を、北

陸からの移民が堤を築いたから、と紹介する。交通施設の狭結の駅も、古志出身の佐与布とい

う人物の名から取ったと説く。

ヒスイ求め交易か

 北陸地方に魅せられたのは神々も同じだったらしい。オオクニヌシ(ヤチホコ)なんて美女

の誉れ高い越のヌナカワヒメに恋し、求婚してしまう (『古事記』)。古代文学が専門の三浦

伯之,千葉大名誉教授はこのエーピソードに史実をかぎ取った。

出雲勢力が北陸のヒスイの富を手に入れようとしたことの擬人化ではないか、というのだ。

 三浦さんによれば、ヌナカワのヌは玉、カワは川だから、ヌナカワヒメとは玉の川の女神

で、 彼女がおわす地こそ新潟県糸魚川地域の姫川・青海川流域だという。ここは縄文時代から

国内屈指のヒスイ産地として知られ、その製品は山陰にも運ばれた。

 「両地域は海を介した交易や宗教的なネットワークでつながっていたのでしょう」と三浦さ

ん。古くから垂涎の的だった糸魚川のヒスイの記憶が、この求婚譚を生んだのかもしれない。

 国引きと国譲りが交わる神代の出雲。瀧音能之,駒沢大学教授はここに、異なる世界観の併

存を読み取る。

 海が舞台の国引き神話は、あの世を水平線の果てにおく沖縄のニライカナイ信仰と同様、南

方世界に多い水平的な構図を持つ。オオクニヌシの国づくりをサポートしたスクナピコナとい

う小指ほどの神も海からやって来た。

 一方、北方世界に多い垂直志向の系譜は、記紀神話の骨格をなす天孫降臨に象徴的。
タケミカツチら国護りに登場する高天原の神々も、天から出雲に降ってくる。

 「北方的な神話は日本海を挟んで朝鮮半島やシベリアに分布するし、南方系は対馬海流に乗

って入ってきたのではないか。出雲は北と南の交錯点だった」

と瀧音さん。古代出雲とは、まさに日本海を介して南北両系統の神話が出会い、溶け合う地で

あった。 
 2021-9-22 朝日新聞(夕刊)(編集委員·中村俊介)


ワニ氏の実像に迫る

 

 反乱軍を鎮圧する軍事的活躍の一方、皇后を多数輩

出したことで知られる古代氏族の実像に迫る秋季特別

展「帯解の古墳時代とワニ氏」が、奈良市埋蔵文化財

調査センター(同市大安寺西)で開かれている。 奈良

盆地北東部のワニ氏の勢力域のほぼぼ中央に位置す
る「ベンショ塚古墳」の出土品を初めて一括公開。名族

の背景を見るような発掘成果が紹介されている。

 

 ベンショ塚古墳 (全長70m)は、5世紀前半のワニ

氏勢力域で唯一の前方後円墳。平成2年の発掘調査で

埋葬施設が3ヵ所見つか り、展示の目玉となってい

る鉄製甲冑をはじめ豊富な副葬品が出土した。

 展示を担当する同センターの村瀬陸主事によると、 

甲冑は革綴(かわとじ)から鋲留に進化する過渡期を示
し学術価値が高い。鉄製馬具は国内に同型式のものが
なく、馬が普及して間もない時期の馬具の受容を考える
上で重要という。矢じりや斧などの鉄製品も目を引く。

 ワニは日本書紀が「和珥」、古事記が「丸邇」と表記。
春日、小野、大宅、柿本などの古代氏族の祖と伝える。

 日本書紀によると、10代崇神天皇の時代(3世紀後

半頃)に、和珥臣の彦国葺(ひこくにぶく)らが崇神天皇
の叔父·武埴安彦(たけはに)の反乱を京都府南部の木
津川付近で鎮圧。14代仲哀天皇の子の忍熊王(おしく
まのみこ)の反乱(4世紀後半)では、和珥臣の武振熊ら
神功皇后の命で出兵し、宇治川などの戦いで忍態王
を倒したとさ れる。

 ワニ氏勢力域南部の和爾地域(天理市) で4世紀に

出現した東大寺山古墳(全長140m)などの古墳群

は、こうした活躍を反映しているとみられる。

 神功皇后の子の15代応神天皇や孫の16代仁德天
皇の世代と重なるのがベンショ塚古墳だ。両天皇の皇
后は5世紀に勃興した葛城氏とともにワニ氏が輩出し
ており、王権を支えた被葬者像が推察される。

 その居館だった可能性があるのが、ベンショ塚古墳 

と同じ帯解地域にある美濃庄遺跡だ。幅2~3mの堀

に囲まれた平城のような首長居館で、村瀬さんは「調

査地の字名が猿女の読みと同じサルメというのも興味

深い」と話す。

 猿女とは、宮廷の鎮魂の儀で舞楽を奉仕する女性。

宮中祭祀を担う皇后の役割と重なり、古代文献から

は、ワニ氏が猿女の輩出氏族と考えられている。

 勢力域北部の春日地域で石積みの井泉遺構が出
土した南紀寺遺跡(4~6世紀)の祭祀土器や写真パネ

ルも展示され、猿女による水の祭祀が想像される。

 特別展は11月5日までワニ氏の関連遺跡を初め

て網羅的に扱った展示で、3古墳、11遺跡の調査成
果を約300点の資料で紹介。大安寺の旧境内にある

ワニ氏勢力域最大の杉山古墳(全長154m、5世紀

中頃)の大型埴輪や、ベン ショ塚古墳に近い柴屋丸山

古墳(円墳、5世紀中頃)出土の濃紺のガラス製勾玉

も見ごたえがある。

 入場無料。土日祝休館)。問い合わせは同センター
0742• 33 • 1821) 
 2021-9-24  産経新聞




藤原宇合

 わが背子を 何時そ今かと 待つなへに

  面(おも)やは見えむ秋の風吹く

藤原宇合(ふじわらのうまかい・巻八・一五三五番歌)

 恋する人を、いつだろう、今来るかと待つままに、

はたしてお顔を見ることなどあるのだろうか。いたずらに秋の風が吹くことよ。

 

秋の風吹く

 この歌は、藤原不比等の三男である藤原宇合が詠んだ歌です。宇合は

遣唐副使や常陸守、式部卿、知造難波宮事、参議、西海道節度使などを

歴任した律令官人で、式家の祖としても知られています。一方で、『万葉集』に
短歌六首、日本最古の漢詩集『懐風藻』に漢詩六首を残す歌人·詩人でもあり
ました。

 今回の歌は『万葉集』巻八、秋の雑歌に収められています。巻八は季

節ごとに雑歌·相聞に分けられており、雑歌は風物を詠むもの、相聞は

恋情を詠むものです。今回の歌は一見、雑歌ではなく相聞に思えます。

「わが背子」は男性同士で用いることもありますが、女性から男性へ親

愛の情をもって用いる例が大半です。「面やは見えむ」の「やは」に不安

が示されており、秋の夜、男性の訪れを待つ女性の姿が想像できます。

 改めて考えると、藤原宇合は男性なのに、この歌は女性の立場で詠ま

れています。宇合の歌には、他にも女性の立場で詠んだもの(一七三〇番

歌)があり、いずれも宇合が虚構として創作した歌と考えられます。

また、宇合は漢詩文に素養がありました。秋風が吹く中、女性が男性の

訪れがないことを閨房(けいぼう・寝室)で嘆く詩が「玉台新詠』など中国の
宮廷詩にいくつも見られます。宇合はそのような知識を利用して、「秋の風」
にふさわしい和歌を創作したのではないでしょうか。

 また、「秋の風吹く」歌は、相聞にもあります。巻八、秋の相聞は、額田王
天智天皇を思って詠んだ「君待つとわが恋ひをればわが屋戸の簾動(す
だれ)かし秋の風吹く」(一六〇六番歌)から始まります。相聞ばかりを収めた

巻四にも同じ歌(四八八番歌)があり、秋の相聞の代表といえる歌

です。額田王の歌の「秋の風」は訪れの前兆とも解され、恋情に中心があ

ります。一方、雑歌に収められた宇合の歌では、むなしく吹く「秋の風」

そのものに中心があると言えそうです。
  県民だより 奈良 2021-10(本文万葉文化館 阪口由佳)



聖徳太子の名脇役

 聖徳太子には、名脇役というべき頼れる臣下たちがいました。太子前半生の一大事件

である、物部守屋の討伐において活躍した

合人·跡見赤梼(とみのいちい)もその一人です。

日本書紀』にみえる赤梼は、仏教受容を

進める蘇我馬子の意を受けて、排仏派の豪

族·中臣勝海を手にかけるなど、懐刀のよう

な役回りて描かれています。

 河内国における守屋との最終決戦て、大

木の上から矢を射かけてくる守屋に太子軍

は苦戦します。このとき、樹上の守屋を射落

とす起死回生の一矢を放ったのが赤梼でし

た。戦後、赤梼は論功行賞として田地一万代

(約十四町)を賜っています。

 そんな赤梼ゆかりの寺が、平群町椿井の

椿井春日神社周辺にありました。椿井寺(つばい)と呼ばれ、江戸時代の地誌『大和名勝志』には、

守屋討伐の折、戦勝の暁に十一面観音の造立

と伽藍の建立を誓った赤梼によって、推古天

皇2(594)年に創建されたとあリます。

 明治時代の神仏分離の際に廃寺とな

り、建物は残っていませんが、江戸時代の

絵図には、春日神社の境内に観音堂、境

内南方に南之坊が描かれており、往時の

姿を偲ぶことがてきます。また、椿井寺て

まつられていた仏像は、現在も地元で大

切に守り伝えられています(非公開)。さ

らに、南之坊跡近くにある棒井井戸は、江

戸時代に大和国三十三所観音巡礼寺院

となった椿井寺の 御詠歌(「いさぎよきつはひの水をむすびてハ五よくのあかをすすぐ成けり」)に詠み:こまれ、今でもこんこんと水が湧き出しています。 県民だより 奈良 2021-10


椿井春日神社 地図

 椿井春日神社は大字椿井の鎮守社です。境

内には、江戸時代の絵図に「観音山」としてみ

える宮山塚古墳(県指定史跡、五世紀後半)が

あります。

 また、境内南方の椿井井戸脇にある「椿井」

の石碑は、文政4(1821)年、椿井村周辺

に領地があった楽人(雅楽演奏者)たちによっ

て建てられたものです。
 県民だより 奈良 2021-10

聖徳太子の名脇役     




長岳寺

長岳 寺 真言宗 柳本 釜口

 本尊 阿弥陀如来坐像

 柳本の東方釜ロ山にある。寺地に接して上下長岡の村里があることによつてこの寺名がおこる。釜ロ山長岳寺

と称し、俗に釜口大師という。釜口の名は日本武尊の十男釜見王が釜ロ氏の祖と伝えられることに因んだものであ
ろう。当寺は阿弥陀如来坐像を本尊とし、真言宗にして高野山金蔵院末に属する。

 当寺は淳和天皇の勅願によつて天長元年(824)六月に空海の開基と伝える真言道場である。上代すで に
大和神社が寺地に鎮座し、当寺はその神宮寺であつた。大和神社は永久六年(128)二月九日焼亡してから竜王山
の麓高槻山へ遷座したという。往昔は本堂の外に五重塔·十羅刹堂·真言堂·経蔵·宝蔵·宿堂及び寺中坊舎四二

坊,外客坊,浴室などがあつたが、数回の炎焼に羅り焼亡し、或は破壊した。

(天理市史編纂委員会『天理市史』) 



南部焼き射ち

 平安末期の1180年、

後白河法皇の皇子以仁王(もちひとおう)が興福寺など奈良の寺社勢

力を頼りに平家打倒を呼びかけ、反平家の挙兵が相次いだ。
これに対し、平家は平重衡(しげひら)が父。清盛の命で南都に攻め入
り、興福寺のほか東大寺も焼け、大仏も焼け落ちた。一連の出来事は

平家物語でも描かれている。 


推古大道

 
難波宮  四天王寺  仁徳陵  応神陵 
竹之内街道  横大路  海石榴  法隆寺 
生駒山  信貴山  二上山   

 今年が1400年遠忌で、改めて注目されている飛鳥時代の
聖徳太子(厩戸皇子)を皇太子·摂政にして、政治の表舞台
に立たせたのは、わが国で初めての女性天皇·推古天皇(5
54~628年)だった。 おじの大臣,蘇我馬子とともに、緊迫する

国際情勢の中で、内政·外交とも困難なかじ取りを担ってき
た。一方で、6世紀末から7世紀前半の治世下(推古朝)では、
道路整備や農業振興のための池溝開発が大展開されてい
たことが分かってきた。

そうした動きは、豪族連合という国家体制から脱却し、中央
集権国家を目指す推古天皇の強い意志を示していると、み
られている。
  産経新聞 2021-9-7(編集委員 上坂徹)

 

わが国初の国道

 日本書紀の推古2 (613)年1月の条に、「また難波より京に至る大道(だいどう)を
置く」とある。 それは推古天皇の宮殿がある飛鳥の小墾田宮(奈良県明日香村)か

ら、国際港である難波津,難波宮(大阪市)とを結ぶ幹線道路が整備されたことを表す。
わが国最初の官道(国道)の完成である。

 この大道に関わるとされるのは現在も一部が残る竹内街道や、奈良盆地を南北

に平行して通っていた3本の道(下ツ道·中ツ道·上ツ道) などだ。その遺構からは、
7世紀初頭の土器が出土し、推古朝で畿内を中心として、道路整備を一気に進めた
ことが推測できる。 では、その背景には何があったのか。

 推古天皇が即位したのは崇峻5 (592) 年。おじである大臣の蘇我馬子が、先代の
崇峻天皇を殺害したのを受け、馬子らに推されて皇位についた。

 「日本書紀」によると、推古天皇は翌年、「厩戸皇子を立てて、皇太子とされ、国政
を任された」「上宮聖徳法王帝説」には「厩戸皇子、嶋大臣(蘇我 馬子)と共に政を輔
(たす)け」と」 ある。

 おいの厩戸皇子とおじの馬子による共同政治が行われたが、そこには推古天皇

の意思も働いていたとの見方が強い。

使節来朝が契機

 そうした中、推古朝は120年以上途絶えていた中国統一王朝(隋)への外交使節と
して、遣隋使の派遣を決める。推古(607)年の遺隋使の際は、その翌年、帰国する
小野妹子とともに、答礼使として隋から裴世清(はいせいせい)が来朝した。

 裴世清一行は、船で難波津に着き、水路大和川、上流の初瀬川を遡上して古

代の市、海石榴市(つばいち、奈良県桜井市)に降り立ち、ここで盛大な歓迎を受け
た後、陸路で小墾田宮に向かい、隋の煬帝(ようだい)からの親書を推古天皇に伝
えたという。大道完成の5年前のことだ。

 「大道などの整備は中国や朝鮮半島諸国の使節の来朝が契機となっているのは
疑いないと思われます」と話すのは白石太一郎国立歴史民俗博物館名誉教授(考
古学)。「推古朝で畿内の道路が一斉に整備されたのは間違いない。前身の道路は
あったのだろうが、計画道路網として整備されている」と指摘する。

太子ゆかりの地

 では、大道のルートはどうだったのか。日本書紀の検討や考古学的な知見などを
もとに、これまで諸説が出されてきた。その中で、故岸俊男,京都大学名誉教授の
説が有力視されてる。

 岸説は難波宮の中心線を真南に下り、大和川を越えて大仙古墳 (仁徳天皇星陵
古墳、堺市)付近まで延びる道 (難波大道)を想定。そこから、河内と大和を結び、
大王墓が集まる磯長谷(しながだに)古墳群(大阪府太子町)脇を通る「竹内街道」
などを経由。奈良盆地南部を東西に横切る「横大路」などを通ってから飛鳥に入る、
としている。

 難波大道の想定ルート上で、大和川近くの「大和川今池遺跡」では、約17mの
飛鳥時代の道路遺構(堺市、大阪府松原市)が検出されており、難波宮から南方向
に一直線の適路があることは確認された。

 こうした通説には、異論もあり、近年は安村俊史,柏原市立歴史資科館館長の

説が注目されている。安村説では、難波宮を南に下り、四天王寺から南東に進み、
飛鳥時代前期に創建されたという渋川廃寺(大阪府八尾市)のあたりから大和川沿
いに東進。府県境を越えて、聖徳太子創建の法隆寺、斑鳩宮(奈良県斑鳩町)に出
る。ここからは「太子道」を南東に進み、飛鳥に入る。

 安村館長は「大道のルート設定には、聖徳子が深く関わっていたと思います。
このルートでは四天王寺、法隆寺など太子関係の場所を通過します。沿道にある
寺院も7世紀初めから前半のものが多く、道の要所に配置されたのでしょう」と指
摘する。



丁未の変(ていびのへん)

丁未の変 物部氏と蘇我氏との戦い

 物部氏は、軍事的な側面が強調されますが、神事についても重要な役割を果たしてい
ました。そのため、538年に日本に伝来した仏教に対して反対の立場をとっていましたが、
585年、当時流行した疫病は蕃神(仏教)を信仰したため禁止すべきと中臣氏とともに天皇
に奏上し、仏像を難波の堀江に投げ込むなど蘇我氏との対立を深めていきます。また、
587年、病になった用明天皇は、仏法を信奉したいので、群臣に議論するよう詔しました。
守屋と中臣勝海は「国神を差し置いて他神を敬うことはおかしい。」と反対しましたが、群臣
の多くが蘇我馬子の側についてしまいます。守屋が席を立つと押坂部史毛屎が、群臣たち
が守屋の帰路を断とうとしていると告げたため、守屋は別業のある阿都に向かい、戦いの
体制を整えます。

 このように仏教の容認を巡って対立していましたが、一方では朝廷での勢力争いも背景
にあり、用明天皇崩御後の皇位継承では、穴穂部皇子を推す守屋に対し、馬子は炊屋姫
を皇位につけようと図り、穴穂部皇子と宅部皇子を殺害、ついに守屋を滅ぼすことを決め
ます。厩戸皇子(聖徳太子)、竹田皇子等の皇族や大伴氏、巨勢氏、平群氏等の諸豪族とと
もに攻め込む馬子の軍に対し、守屋は一族を集めて稲城を築き、榎木に登り矢を射ました。
馬子の軍は退却を余儀なくされますが、厩戸皇子は白膠の木で四天王の像をつくり、勝利
すれば仏塔を造り、仏法の弘通に努めると戦勝を祈願したところ、迹見首赤梼が守屋を射
落として勝利しました。守屋軍の人々は葦原に逃げ、物部の名を捨て隠れ住み、蘇我氏を
中心とした時代が到来します。しかし、『日本書紀』は、この争いの最後に、守屋方の捕鳥部
方が戦死した後、飼っていた犬が遺体を守り、飢え死にしたという話を伝え、蘇我氏の専横
に対する疑問を投げかけています。

 八尾市教育委員会 文化財課

物部氏 古代豪族   大聖勝軍寺 年表587年 
倉梯宮     



物部氏 古代豪族

 『古事記』によれば、物部氏は、神武東征においてイワレヒコと戦う長脛彦が奉じる神である
饒速日命を祖先と伝えられる氏族です。(『日本書紀』では、瓊瓊杵尊によ る天孫降臨に先立
ち 河内国の哮峰(たけるのみね)に降り立った神として描かれています。)河内国渋川郡(八尾
市、東大阪市、大阪市の一部)が本拠地で、「ハ十物部」と云われるほど多くの同系氏族がいま
した。穂積氏、采女氏がそうです。物部氏の名前が初めて歴史書に現れるのは
第11代垂仁天皇の時代の物部十千根(とおちね)で、出雲の神宝を調査し、石上の神宝を管
理するなど、物部氏が神事と深くかかわっていたことがうかがえます。
その後6世紀初頭の継体天皇の時代には物部麁鹿火(あらかひ)が、九州北部で起こった
磐井の乱の鎮圧を命じられるなど、軍事を掌る氏族としても成長していきました。

 6世紀中頃の欽明天皇の時代には物部尾輿(おこし)が、朝廷で大きな力をもつようになります。
百済の聖明王から仏像、経論がもたらされ、仏数の受容をめぐって蘇我稲目と対立し、仏像を
難波の堀江に廃棄しますが、これ以降、蘇我氏との確執が広がっていきます。次代の守屋は、
蘇我馬子と皇位継承を含めた朝廷内の主導権争いをしていました。

ついに587年に丁末の変が起こり、守屋は馬子と諸皇子に討伐されて物部氏は政治の中枢から
姿を消します。所領地や隷属民は分割され、四天王寺等にも施入されました。

しかし、蘇我氏が減んだ大化元年(645) 以降、物部氏は再び史上に登場し、672年の王申の乱
天武天皇の側につき功をあげた物部朴井雄君(えのいおのきみ)に連なる朴井氏(榎井氏)

と、天武十三年(684)に朝臣の姓を賜っだ右上氏が、物部氏の流れを受け継いでいくことになりま
す。八尾には、跡部(阿刀)、弓削、栗栖神社、都夫久美神社(つぶくみ)など地名や神社に物部の
一族と関連した名称が残っています。
 八尾市教育委員会 文化財課



弓削道鏡

 弓削道鏡は、河内国若江郡、現在の八尾市域の出身と考えられています。若い頃より葛木山
にこもって、如意輪法、宿曜秘法(占星術の一種)を修めたと伝えられていますが、梵語にも詳しく、
禅行で知られていたようです。また、法相宗の僧侶であった義淵の弟子とも言われ、天平十九年
(747)に東大寺写経所の請経使として、同じく義淵の弟子であった良弁の元に赴いたことが、道鏡
の名前が史料に記載された初見です。

 看病禅師として名声を博し、天平宝字五年(761)に聖武天皇の娘であった孝謙上皇(のちの
称徳天皇)の病気を癒したことから信任を得て、兄弟や親戚も貴族に取り立てられます。天平宝字
八年(764)当時の実力者であっだ恵美押勝の失脚後、孝謙上皇は、再祚して称徳天皇となり、政治
に実権を握ったことにより、天平神護二年(766)に道鏡は、ついに法王に上り詰めました。

 西大寺などを建立、八尾の弓削の地に「西京」を誘致するなど政事を司り、神護景雲三年(769)
には宇佐八幡営(大分県宇佐市)より、道鏡を皇位につけると天下が治まるとの神託がもたらされて
大きな混乱になりました。和気清麻呂が宇佐に赴き、改めて神託を得た結果、道鏡は皇位につくこ
とはありませんでしたが、誰がこの事件を引き起こしたのかは歴史の大きな謎となっています。そして、
翌神護景雲四年(770)、称徳天皇崩御とともに失脚し、下野葉師寺別当を命じられ、宝亀三年(772)
に没しました。

 もう少し長く、道鏡が実力者であり続けていれば、八尾が都となり、大きな建物が幾つも作られた
かもしれません。けれども、神託事件が縁で、現在、八尾市は大分県の宇佐市と岡山県の和気町と
交流を行っています。
 八尾市教育委員会 文化財課


平等寺

 三輪山平等寺は、その開基を聖徳太子と伝え、永遠の平和を祈頼する霊場

として創建されました。鎌倉時代の初期、中興の祖、慶円上人(三輪上人一一

四〇~一二二三)を迎えるに及び、東西500m、南北330mの境内に、本堂、

護摩堂、御影堂、一切経堂、開山堂、赤門、鐘楼堂のほか、十二坊舎の大伽藍
を有し三輪社奥の院として、由緒ある名刹でありました。

 平等寺は三輪別所とも呼ばれ、高徳の上人を中心に、仏法の奥義をきわめん

とする行学一如の根本道場として栄えました。 東大寺の宗性は嘉禎元年(一二

三五年)八月二十日に平等寺において法華、唯識、般若三観抄を写し、幾度も

当山を訪れたことや、建長二年(一二五〇年)正月、西大寺叡尊も三輪別所

一乗上人の禅室に参詣した史実も明らかで、鎌倉時代の平等寺には、仏法、
学問の奥義を求めて多くの人々が参詣しました。

 室町、江戸時代には醍醐寺三宝院、南部興福寺とも深く関係し、八十石の

朱印地を持ち修験道の霊地でもありました。また、慶長五年(一六〇〇年)九月

十五日関ヶ原の合戦で敗れた薩摩の領主、島津義弘主従がこの寺に逃げ込み

十一月二十八日まで七十日間滞在し無事帰国されました。しかし残念なこ

とに、明治維新になって、政府の廃仏設釈(仏 を廃し神を敬する)の令きびし

く、大神神社の神宮寺であった平等寺は、ことさらにそのあらしを強く愛け

有名な金屋の石仏をはじめ六十一体にのぼる仏像が他所に達び出され、堂塔
ことごとく整理を迫られましたが、幸いにその直後小西氏より現境内地の寄進を

受け再興の道が開かれ、覚信和尚や町内有志の方々の努力により塔頭の一部

を境内に移し、本尊秘仏十一面観世音著薩、三輪不動尊、慶円上人像、仏足

石等が守られ、梁天和尚が翠松庵の寺号を移し禅曹洞宗に改宗し法灯を護

持しました。聖徳太子はじめ歴住諸大和尚の慈恩に報いるへく平等寺の再興の

ために微力ながら勧進托鉢行を統けてきましたが、廃仏設釈より100年目

を迎えた昭和五十二年六月四日付で平等寺と寺号が復興され、幾十万の

人々よりご喜捨を賜わり、ありがたくも本堂、鐘楼堂、鎮守堂、翠松閣、釈迦

堂(二重塔)の復興をはじめ前立本尊十一面観世音菩薩のご造立をみることが

できました。

   七十四代 丸子孝法 合掌


法隆寺阿弥陀三尊(伝・橘夫人念持仏)

 法隆寺は、607年に聖徳太子が父·用明天皇のために創建されたものである。
聖徳太子は、日本仏法の開祖とよばれていて、今年(2021)がちょうど聖徳太子
1400年の御聖忌となっている。宗派は元法相宗で現在は独立し、聖徳宗の本山
である。

 法隆寺の阿弥陀三尊は、橘夫人の念持仏と伝わっていて、高さ263 cmの厨子
の中に像高 60 cmほどの銅造の仏さま入っている。この橘夫人とは、 聖武天皇
の后·光明皇后の生母である。聖徳太子や法隆寺に対する篤い信仰心を持って

おられたといわれ、それが娘や孫にまで引き継がれている。

後に光明皇后の貧窮者救済活動は有名である。

 また、念持仏とは、常日頃から身近において拝む仏像のことである。この念持仏
の特徴は、何といっても阿弥陀三尊を支える蓮台が蓮池から咲き出ていることで
ある。
 そこで仏さまと蓮の関係を見てみてみると、

昔から蓮には三つの徳があるといわれている。

①汚泥不染の徳

蓮は泥の中で育つ。しかし、決して泥に染まることなく、清らかな花を咲かせる。
同じように私たち人間も「どんな汚れた世界に生まれようとも心は清らかさを保つ。
迷い悩むことがあっても本来心は清浄なものだ」ということを表している。

②種子不失の徳

蓮の種はたいへん長生きで、どれだけ長い年月を経ても条件さえそろえば芽を
出す。大賀蓮いうのがあるが、これは2000年以上前の種が遺跡から発見され、
発芽した。このことから「なくなることのない強い意志」を表す。

③花果同時の徳

花が散ってから実をつける植物とは違い、蓮は花が咲くと同時に花の中に種を
持っている。種は私たちの「仏性(ぶっしょう)」のことで、この世に生まれたすべて
のものは仏性を持っているということを表している。仏さまは遠い存在ではなく、
私たちの心の中に宿っているということ。



みかえり阿弥陀

京都市禅林寺の本尊は「みかえり阿弥陀」と呼ばれる。
 この寺は、平安時代半ばに禅林寺を復興した永観の名にちなんで永観堂と呼ばれます。
一日に六万回も念仏を称えたといわれる永観ですが、ある日いつものように読経しながら阿弥

陀如来の周りを歩きつづける行をしていると、いつのまにかその阿弥陀如来が永観の前に立

って歩いていました。あまりの畏れ多さに永観が立ちすくんでいると、阿弥陀如来が振り返

り、肩ごしに「永観遅し」と声をかけて一緒に行をしたと伝えられています。そのときの阿

弥陀如来の姿を伝えたものが、この「みかえり阿弥陀」なのです。

 みかえり阿弥陀は正面からは顔を拝むことができません。後ろを振り返っているのは、す

べての衆生を救おうとする慈悲の深さを表わしています。印象深い大きな耳は、私たちの

日々のさまざまな悩みごとを聞き取ろうとしているようです。注意深い瞳と冷静な面立ちに

は、衆生のすべてを救済しようとするひたむきな心が表われ、来迎印である上品下生印を結

んだしなやかな指先には、私たちを極楽へと迎え導いてくれるやさしさが込められています。

 台座から踏み出しそうな足は、歩みを止めて振り返る刹那の表現です。美しい三日月形の

眉と切れ長の眼、ほころびかけたやさしい口元をしています。舟形の光背には化仏や天女が

飾りつけられています。光背にある宝冠を戴く化仏は法蔵菩薩といい、苦行して四十八の大

願を成就した後に阿弥陀如来となる仏です。蓮華を手にしたり、音楽を奏でたりして周辺に

舞う天女は、阿弥陀如来を荘厳して西方極楽浄土の美しい光景を繰りひろげています。

 後ろを振り向く姿のみかえり阿弥陀は、その姿ゆえに私たちの心をひきつけます。そして、

阿弥陀につき従う多くの衆生、中でも落伍しそうな人びとにも、等しく慈悲の眼差しを降り

注ぎながら、今日も明日も私たちの平安を祈ってくれているのです。


九体阿弥陀

 横一列に九体の阿弥陀仏が並ぶ、九体阿弥陀仏。京都府加茂町の浄瑠璃寺の九体の阿弥陀

仏は、九百年の歳月の間、多くの人々の祈りの声に耳を傾けてきました。

 この寺では、池を挟んで二つの浄土世界が東西に向かい合っています。中央にある池の西

側には、西方極楽浄土を表わす九体阿弥陀堂があります。池の東側には三重塔が建てられ、

中に東方浄瑠璃浄土を司る薬師如来が安置されています。

 九体の阿弥陀は、中尊阿弥陀如来を中心に、左右に四体ずつ並んでいます。中尊阿弥陀如

来は、右足を外にして組む降魔坐という座り方をしています。これは、阿弥陀仏が私たちに

代わって苦行をしてくれている姿なのです。中尊は上品下生印(来迎印)を結び、左右八体

の阿弥陀像は上品上生印を結んでいます。

 阿弥陀如来の九通りの印相は、生前の信仰の深さと善行の積み方によって極楽での行き場

所が九通り、すなわち九品の浄土に分かれていることを示しています。九体阿弥陀仏は、中

尊と左右の八体を合わせた九体によって、極楽浄土のすべて、九品の浄土を表わしているの

です。平安時代、藤原道長ら有力貴族は極楽往生を願い、九体阿弥陀を信仰しました。左右

の八体の印相が中尊の来迎印よりも高い上品上生印を示しているのは、中尊に導かれて極楽

にいたったならば、是が非でも極楽の最上位に生まれたいという、強い願いが込められてい

るからなのかもしれません。

 極楽浄土へいたる方法を教える『観無量寿経』では、西方浄土に生まれたいと願うならば、

池の水に浮かぶ阿弥陀仏と同じ姿を天空いっぱいに思い描きなさい、と説いています。


 

 西暦 和暦   寇名
811 弘仁2  弘仁の入寇
869  貞観11  貞観の入寇 
893  寛平5  寛平の韓寇 
906  延喜6  延喜新羅の賊 
997  長徳3  長徳の入寇 
1019  寛仁3  刀伊の入寇
1274  文永11  文永の役 
1281  弘安4  弘安の役 



弘仁の入寇

 時代は遡るが、交易のために日本に来航する新羅海商(しんらかいしょう)の他、飢餓や
疫病に苦しむ新羅の民衆のなかには、日本に漂着する者も現われた。海商や漂流民たちは、
自らの身を守るために武装していた者も多かったであろうから、彼らが前触れなしに日本の
沿岸に現われた場合、日本側からは「海賊」とみなされる事件も起こった。

 弘仁二年(八一一)十二月六日、新羅船三艘が対馬の西海 に現われ、その内の一艘が下

県郡 の佐須浦(現長崎県対馬市厳原町小茂田浜)に着岸した。船には十人ほどが乗っていた

が、言語が通じず、事情は知りがたかった。他の二艘は闇夜に流れ去り、行方がわからな

くなった。七日、燭火を灯して連なった二十余艘の船が島の西の海中に姿を現わし、これ

らの船が賊船であることが判明した。そとで前日に着岸した者のうち五人を殺害したが、

五人は逃走し、後日、四人を捕捉した。対馬島では兵庫を衛り、軍士を動員した。新羅

方面を望見すると、毎夜、数ヵ所で火光が見えるので疑いや懼(おそ)れが止まなかった
(『日本後紀』)。

 というととで、対馬島は大宰府に言上してきた。大宰府は、事の真偽を問うために新羅

語 の通訳と軍毅(ぐんき)を対馬島に派遣し、さらに要害の警固を大宰府管内(九州)と出雲·
石見·長門国に告知した。そして十二月二十八日付で中央に奏上した。朝廷では、弘仁三年

(八一二)正月五日付で大宰府に勅を下した。「事の虚実についてつづけて言上するよう命

じたが、今まで申すととろはなかった。要害の国では動員した人兵が警備に疲れるであろ

うから、いつ解除できるのか言上せよ。賊の動向を検討すると、虞(おそ)れとするには足りな

い」ということで、出雲·石見·長門国での要害守衛は停止させている (『日本後紀』)。こ

の時は何の被害もなかったので、この程度の措置で済んだのであろう。

 弘仁四年(八一三)二月二十九日には、新羅人百十人が五艘の船に乗って、五島列島の

北端にある小近島(小値賀島。現長崎県北松浦郡小値賀町)に上陸した。小近島の「土民」
がこれと戦い、新羅人九人を殺し、百一人を捕獲した。この報せは三月十八日付で大宰府
が中央に言上し、朝廷では新羅人を訊問し、帰国を願う者は放還し、帰化を願う者は、先例
によって処置せよという指示を下した(『日本後紀』)。「土民」に殺されたり捕獲されたりした

のであるから、この新羅人は武装勢力ではなく、単なる難民だったのであろう。

 それでも朝廷では、弘仁六年(八一五)に対馬島に新羅語の通訳を置き(『日本後紀』)、承

和二年(八三五)に壱岐島に三百三十人の防人を配置し、怒師(どし)を復活させて、承和五
年(八三八)に壱岐島に、嘉祥二年(八四九)に対馬島に配備するなどの措置を講じている
(『続日本後紀』)。
  戦争の日本古代史  倉本一宏




貞観の入寇

 貞観十一年(八六九)五月二十二日、新羅の海賊が船二艘に乗って博多津(現福岡

市中央区那の津)に来着して豊前国の貢調船(こうちょうせん)を襲撃し、年貢の絹綿を掠奪し
て逃げ去った。

兵を発して追ったものの、兵を発して追ったものの遂に賊を獲ることはできなかった(『日本三
代実録』)。この事件は大宰府からの使者が六月十五日に入京して告げたものである。
 律令の原則では、「境外消息」は馳駅 (飛駅とも。駅馬を乗り継いで使う緊急連絡の使者)に
よって言上しなければならないとされており (養老公式令・国有瑞条)、事件から二十日以上も
要して中央に報告してきたのは、まさに怠慢としか言いようがない 。

 もっとも朝廷の方も、この事件に対して大宰府を譴責したのは、七月二日のことであっ

た。「新羅の寇盗が侵掠をおとなったのは、ただ官物を亡失しただけにとどまらず、国威の

損辱である。往古に前例がなく、後代に面目を失った」というものである (『日本三代実録』)。

 朝廷が大きな衝撃をもってとの事件を受けとめたことを示しているが、結局、執った措

置は、十二月以降、伊勢神宮·石清水八幡宮·宇佐八幡宮·香椎廟·宗像大社などの諸社

や山陵に事件を奉告することであった。その宣命のなかで、庁楼や兵庫の上に大鳥の怪異

があるのは隣国(新羅)に兵革があるからであるというト占が出たと言っている他、肥後

国や陸奥国で大きな地震 (いわゆる貞観大地震)があったことも、これに関連づけている。

 また、新羅に対して、「日本の国と久しい世から相戦ってきた」としたうえで、「日本は

久しく軍旅(戦争)がなかったので警備を忘れていた。しかし日本の朝は神明の国である

から、神明が護助するので兵寇が近づくことはできない」と言っている (『日本三代実録』)。

とれが神国思想の端緒であるとされている。

 この事件は、当該期の大宰府管内の辺境防備や交通管理が弛緩していたことを如実に示

す事例であったが、同時に朝廷の中央貴族層と大宰府などの地方官とのあいだの認識が乖

離していたことを示す結果にもなった(村上史郎「九世紀における日本律令国家の対外意識
と対外交通」)。

 そしてまた、この事件は新羅に対する敵視、賊視を決定的にし、九世紀中葉までの比較  

的開放的な対外諸交流を閉鎖的な方向へと導くととになった。新羅海賊が日本側の内情を

熱知しているととで、帰化新羅人や留 住新羅商客に対する精疑心を増大させたのも、そ

の一環 である(石上英一「古代国家と対外関係」)。さらには、国内における新羅と関係する不

穏な情勢と、平安時代に拡まった穢れ意識の肥大化による境外の穢れた空間への恐怖とが
あいまって、支配層のなかに新羅に対する強烈な排外意識が生まれてきたなかで、このよう

な思想状況に火をつけたと いう指摘もある(村井章介「王土王民思想と九世紀の転換」)。

 元慶(がんぎょう)元年(八七七)までに編纂された『貞観儀式』(『儀式』)追雛儀(ついな)では、
陸奥国以東、五島列島以西、土佐国以南、佐渡国以北は穢れた疫鬼(えきき)の住処(すみ
か)と規定された。対新羅関係の悪化と並行して、天皇の支配する領域の外は穢の場所とす
る王土王民思想が、神国思想とともに形成されていったのである。
  戦争の日本古代史  倉本一宏


寛平の韓寇

 九世紀も末になり、末期となった新羅からの来寇も増加した。
寛平五年(八九三)五月十一日、「新羅の賊」が肥前国松浦郡(現佐賀県唐津市から長崎県佐世
保市にかけての玄界灘沿岸) に来たった。朝廷では、大宰帥是忠親王と大弐安倍興行に追討を
命じている。

 閏五月三日には肥後国飽田郡(現熊本県熊本市から宇土市にかけて)において人宅を焼亡し、
肥前国松浦郡に逃げ去った。

 翌寛平六年(八九四)の二月二十八日、三月十三日、四月十四日、侵寇。三月は辺島、四月は
対馬島に来寇した。朝廷ではその追討と北陸·山陰·山陽道諸国の警固を命じたが、五月七日に
至って、賊が逃げ去った。

 九月にはさらに大規模な来寇に見舞われることとなった。九月五日、船四十五が対馬島に到った。

九月五日の朝、対馬守文室善友は郡司·士卒を前に檄を飛ばし(「矢を背に立てたら軍法によって
罪を科し、額に立てたら賞すように言上してやる」とか)、郡司·士卒、それに島分寺の上座僧まで動
員して要害に配置した。善友たちは 弩(おおゆみ・クロスボウ)を配備し、「賊徒」を雨のように射た。
「賊徒」は海に入ったり山に登ったりしたが、結局、大将軍三人、副将軍十一人を含む三百二人を
射殺し、船十一艘、太刀五十柄、桙一千基、弓百十張、盾三百十二枚のものぼる兵器を奪い

「賊一人」を生虜とした。

 その生虜を尋問したととろ、新羅は不作で人民は餓えに苦しみ、倉庫は空になって王城も不安と
なったにもかかわらず、新羅王が穀物や絹の徴収を命じたため、やむなく日本にやって来たという
ことであった。対馬から逃げ帰ったなかに「最敏の将軍」が三人いて、そのうちの一人は「唐人」

である、というととであった。

 これはもう、単なる海賊(海商·海民·農民を含む)の範疇を超えた、後世の倭冠に通じる専門的な
武装集団、しかも体系的な軍事組織と専門的な武器武具を大量に装備した、新羅の公的権力に
連なっているととが想定できそうな集団であった。

 対馬には毎年、多くの兵力維持用物資が集積されており、それが新羅海賊にとっ てもっとも魅力
的に感じられたと推測されている。

 十九日に至り、「賊徒」討伐が飛駅言上されたので、諸国に命じて軍士の警固を停止させている。
『日本紀略』では、打ち殺した「新羅の賊」は二百余人とされている。

 それにしても、総勢二千五百人のうちの二百余人から三百二人を射殺し、百艘のうちの十一艘
を奪ったと いう段階で、警固を解除するという危機感覚は、あまりにも甘いと言うべきであろう。
逃げ去った船がつぎには日本海沿岸のどこかを襲うかもしれないという可能性や、新羅からさらに
大規模な戦闘集団が来襲するとは考えなかったのであろうか。

 この「賊徒」の撃退に力があったのは、弩であった。九世紀前半の承和から嘉祥年間に配備され
た新型の弩は、十世紀にはその使命を終えていたとされるが、この寛平年間には依然として戦闘
に果たす役割は大きかったのであろう。

 このように、新羅の入寇は、対外戦争にまで発展するととはなかったとはいえ、九世紀 の日本の
国防問題に、つねにのしかかってきていたのである。

  戦争の日本古代史  倉本一宏

長徳の入元寇

 事件は長徳三年(九九七)に起こった。時代は移り、日本では藤原道長政権が誕生した二年後、
藤原伊周·隆家が失脚した翌年にあたる。
南蛮来冠の飛駅到来

 十月一日旬政の饗宴の最中、大宰府が海賊の九州乱入を飛駅言上してきた。

その際、近衛官人が高声に叫んだ。「大宰府の飛駅が到来して云ったとことには、『高麗国の人が
対馬·壱岐島を虜掠しました。また、肥前国に着いて、虜領(りようりよう)しようとしています』と云うと
とです」と。

 上下の者は驚愕し、三大臣(道長·藤原顕光·藤原公季)は度を失って紫底殿の 階(きざはし)降り、
人宰大弐の書状を読んだ。

公卿連中は大臣の所に進み向かい、はなはだ狼狽した。実資は、「非常の事であるとはいっても、
階下に於いて三大臣が都督(有国)の書状を開き読むなどとは、言うに足りない。下官(実資)は座を
起たなかった」と、この対応を非難している。

 書状に記されていた内容は、「奄美島の者が海夫の宅を焼亡し、財物を奪い取った。また、男女
を舟に執り載せて、連れ去った。なおも海上に浮かび、犯行をおこなっている」というもの、「南蛮の
賊徒が、肥前·肥後·薩摩国に到り、人や物を劫奪(ごうだつ)して侵犯してきた」というものであった。
なお、『百 練抄』では、「高麗国が鎮西を虜掠した」と、高麗の仕業としている。

 やり残した儀式の音楽や庭立奏を即座に停止し、対策を議す陣定が開かれた。

高麗来冠の噂

大宰府の言上した解文(げぶみ)の詳細は、

 奄美島の者が、船に乗って兵具を帯び、国島の海夫を掠奪した。筑前,筑後,薩摩:壱岐·対馬で、
或い は殺害し、或い は放火した。人や物を奪い取り、多く海上に浮かべた。また、当国の人と
処々に於いて合戦した際、奄美の人が矢に当たったことも、また何人もいた。但し当国の人が多
く奪い取られたととは、すでに三百人に及んでいる。 

というものであった。また、との解文には、

 「先年、奄美島の人が来て、大隅国の人民四百人を奪 い取り、同じく連れ去りました。その時、
言上しませんでした。今、あの例に慣れて、自らとの犯を致したのでしょうか。そこで人兵を徴発し、
要害を警固し、追捕させたのです。もしその勤公が有ったならば、勧賞を加えられますように」

 という情報も語られている。「先年」にも事件が起きているのに、大宰府はそれを中央に報告せ
ず、中央でもそれを不問に付していることがうかがえる。さらに流言として、

 「また、『高麗が同じく兵船五百艘を準備し、日本国に向かって、奸を致そうとしている』というの
は、誠に浮言とは いっても、あれこれ云っているので、言上するところです」と語って い る。高麗が、
つねに日本に来寇する主体として念頭に置かれているのである。高麗からの報復を恐れていたと
とろに、北九州に賊徒襲撃の報が伝わり、「すわ、高麗の来襲か」となったのであろう。

 議定 の結果、要所 の警固や賊の追討、神仏への祈祈、奉幣使の発遣、仁王会、太元帥法、
戦功者の褒賞などが定められた。また、事は頗(すこぶ)る軽事のようであるから、勅符ではなく

官符を下すべきであるという結論にも達した。

王朝貴族の対応

 五ヵ国の沿岸が襲われて三百人の住民が拉致され、さらには高麗国の兵船五百般が日本に向
かっているという風聞を伝える解文の内容を考えれば、彼らの対応における危機感の欠如は驚く
べきほどである。七世紀の白村江以来、長く外国と戦争をした経験のない彼らにとってみれば、
「平和ボケ」も致し方ないととろではあるが。なお、十一月二日に至って、四十余人を捕獲したとの
飛駅使が到来している。

 この後も南蛮人による九州襲撃はつづく。それらは夜光貝などの交易をめぐるトラブルであった
と考えられているが数百人の粒致した人びとを乗せる組織力と武器·船を所有していること、また
正確な地理認識と交通知識などから、高麗系交易者たちとの連携、ないしは協力者として奄美島
人と接触がある南九州に活動の場を持ち、対馬までの海上交通と船を熟知する交易者たちの存
在を想定する考えもある。

 実際にはこの襲撃事件に高麗人が荷担していたことがじゅうぶんに想定できるにもかかわらず、
大宰府ではそれを噂に過ぎな い と認識し、朝廷もきわめて低い危機意識しか持とうとしていない。
このような感覚の国に対して、さらに大規模な侵攻がおとなわれたらどうなるか。二十二年後の
「刀伊の入窓」で証明されることになる。


刀伊の入寇

 寛仁三年(一○一九)三月末、賊船五○余隻がとつぜん対馬に来寇し、 住宅四五宇や銀坑を焼き、人々
を殺傷したりつれ去るなど島を荒らしまわり、さらに壱岐を襲った。

 刀伊が九州に来寇したのである。

 刀伊と いうのは高麗語で高麗以東の夷狭つまり東夷に日本文字を当てたもので、もっぱ

ら北方に境を接する東女真の ことを指していた。女真族はこの頃、しばしば高麗を奪していて、この時も
高麗 の後で北部九州に向かったのであった。

 壱岐守藤原理忠は戦死し、壱岐島民三八〇余人が殺害あるいは連行され、のこった者は国府の官人や
郡司をふくめてわずかに三五人というありさまであった。壱岐島講師常覚は僧の身でありながら奮戦して
来寇した敵を三度撃退したが、数百の敵に抗することができず、単身島を脱して四月七日大宰府にたどり
ついた。
 大宰府が賊の来寇を知った七日にはすでに賊船が筑前国(福岡県)の恰土郡·志摩郡·早良郡に来寇し、
民家を焼き人々を連行した。

 賊船は長さが八、九尋から一二尋(尋とは両手をひろげた長さ、約一·五メートル)、一船に櫂が三、四十
ばかりあり、五、六十人乗っている。かれらの陸上戦闘形態は、 まず二、三十人が刀をふりかざし、つぎ
に弓矢と楯を持つ七、八十人がつづき、このような集団を一○から二〇組織している。そして山野をかけ
めぐり、牛馬や犬を殺して食い、老人·子供は皆殺しにし、壮年の男女を捕えて四、五百人も船につれこみ、
所々にたくわえてある米毅を奪取する。以上のことは大宰府から早船で都に上ってきた使者の敵状報告
であるが、実際に来寇後大宰府がまとめて中央政府に報告した被害状況をみても、賊の主目的が働きざ
かりの男女とこれから成長する児童の獲得にあったことがわかる。

 これに対して志摩郡の住人文室忠光は派遣されてきた兵士とともに防戦し、数十人の敵を射殺してこ

れを撃退したが、賊船は翌八日には博多湾内の能古島(残島)に来寇し、多くの島民が捕えられた。

 大宰府ではただちに警固所の軍を増強し、権帥隆家はみずから軍を率いて戦いに臨むと都に報告した。

 九日朝、賊軍は博多に上陸して警固所を焼こうとし、激戦が展開された。

 この戦闘のあいだ壱岐·対馬から捕えられてきた人々が脱出して博多に逃げ帰ってきた者が多かったと
いう。賊軍の矢は長さ一尺余であるがひじょ うに強力で楯を貫通した。わが方では馬上から騎射して対戦
したが、わが方の鏑矢のうなりが敵に恐怖をあたえ、ついに賊は上陸を断念して船に退 き、岸沿いに移動
して営崎宮に上陸してこれを焼こうとした。ここでも撃退された賊は、一〇・一一日は強い北風のため能古島
にとどまり、船も停泊したままだった。

 この間わが方では急いで兵船三八隻をあつめた。賊は一一日志摩郡船越津にあらわれ、一二日に上陸
してきたが、すでにこの方面にもわが方の精兵が派遣されており、賊は四○余人がたおされて退いた。わが
方は兵船による追撃をおこなったが、このとき権帥隆家は、追撃の限界は壱岐·対馬 までで、けっして「新羅」
(国としての新羅はすでに一○世紀初頭に減亡していたが)の境に はいってはならぬと厳命している。一三日
に賊船は肥前国松 浦郡にあらわれて村落を荒らしたが、同国の前介源知は郡内の兵士を率いて戦い、これ
を撃退した。こうして賊船は日本から去っていったのである。

刀伊の来寇による被害

  殺された者  とらえられた者  牛馬 
筑前国志摩郡  112  435 74
早良郡 19  44   
怡土郡 49  216 男     38
女・童  178
33
能古島    9 すべて女・童 68
壱岐嶋 148  239  
対馬嶋 18  116
(資料
のまま)
男   33
童   28
女   56
199 
上縣群  132 男   39
女・童 93 
下縣群  98 男   30
女・童 68
合計 364   1289    380 



元寇

亀山天皇  西大寺  多賀大社  石清水八幡宮 
忍性生誕地碑  天龍寺  風日祈宮  風宮 
年表 1274年1281年  一遍    

文永の役 
 いよいよ文永十一年(一二七四)正月、クビライは高麗に艦船の製造を命じ、五月には大

小九百を建造し終えた。兵力は蒙古族·漢族·契丹族·女真族の混成軍が二万五千人、
高麗軍が八千人。もちろん、誇張を含む数である。

 彼らは十月三日に合浦(がつぽ)を進発し、五日、対馬の佐須浦(地図)に着岸した。八十騎で応
戦した地頭の宗助国は討死した。

 モンゴル軍は二手に分かれ、壱岐と松浦(地図)をめざした。壱岐では浦海海岸·天ヶ原·湯ノ本と
いった西岸から上陸して守護代 平景隆や平内経隆たちを倒し、松浦では松浦党の武士を
蹂躙した。

 そして十月十九日、モンゴル軍は博多湾で合流し、二十に今津(地図)・麁原・百道原(地図
・筥崎(地図)から続々と上陸をはじめ、九州各地から馳せ参じた御家人と激戦を展開した。

 この段階ではまだ石築地 は構築されておらず、モンゴル軍の上陸は、後に起こる弘安の役
にくらべると容易なことであった。また、モンゴル軍の使用した鉄砲や短弓から放たれた毒矢
は鎌倉武士の見たことのないもので、 日本軍の戦意を喪失させた。

 日本軍は内陸の水城をめざして撤退をはじめ、筥崎宮は焼失した。なお、モンゴル軍が攻
撃目標としたのは海岸堡としての赤坂山、元の大宰府警固所(地図)であった。 かつて「刀伊の
入寇」の際に藤原隆家が本陣とした場所である。

 このままでは大宰府、ひいては日本の運命も い かなるものかと思われた二十七日頃、モン
ゴ ル軍は突如として撤退をはじめ、帰還の途中で突風に吹かれた。この突風は季節的に考え
て、従来説かれていたような台風ではなく、寒冷前線の通過にともなうものと思われ、撤退も
予定どおりの行動だったようである。日本の支配層を交渉のテーブルに引きずり出すための
軍事的衝撃·恐怖を与えるための戦争であったと考えるならば、あらかじめ予定していた自主的
な撤収と考えるべきであろう。

 なお、この突風によって、多くのモンゴル軍の軍船が座礁したり漂流したりしたが、助命を乞う
た兵士の多くは日本軍によって斬られた。『高麗史』によれば、帰還できなかった兵の数は一万
三千五百人とある。

 
 弘安の役

 文永役とほぼ同時期の一二七四年、モンゴルは南宋遠征軍を南下させ、一三七六年三月、
臨安府の南宋政権を降伏に追い込んだ。南走して交戦をつづけた勢力も一二七九年に全滅
し、ここに南宋は滅亡した。中国が再統一されたのである。

 フビライとしては、つぎの敵は日本に絞られたことになる。外交上の問題以上に、大量のモ
ンゴル の失業兵士や南宋の帰順軍隊の処置は、重くのしかかっていた。この連中をそのまま
存続させるのは経費がかかり、軍隊から解放すれば盗賊になったり、下手をすれば革命勢力
となるかもしれな い。この「裁兵問題」を名目を持たせつつ一挙に解決できるのが、旧南宋の
江南軍を中心とする日本再征だったのである。

 しかも、旧南宋の降将のみならず、今度は高麗までもが、フビライの歓心を買うために、一二
七八年、日本再征を進言した。

 翌一二七九年、モンゴル から使者が遣わされたが、幕府はこれを博多で斬首し、幕府は臨
戦態勢に入った。この使者は、旧南宋の立場から日本危うしと告げ知らせ、親交を通わせるも
のであったと いうが、幕府は外交よりも戦争を選んだのである。

 こして一二八一年(弘安四)正月、フビライは再度の日本遠征を宣言した。東路軍(蒙 古·漢軍
)三万、高麗軍一万が軍船九百競で合浦を出帆し、蛮子軍(江南軍とも。旧南宋軍) 十万が軍船
三千五百で江南を出帆し、壱岐沖で合流、九州を攻撃することになった。

 五月三日、東路軍·高麗軍が合浦を進発した。彼らは六月十五日までに、慶元府を出航する江
南軍と壱岐島で合流し、両軍で大宰府を攻める計画を立てていた。

 高麗軍は、江南軍と合流するための時間調整をおこなった後、対馬 の大明神浦(現対馬市峰
町佐賀か)に上陸し、激戦を演じた。一方、東路軍の本隊は二十六日に壱岐に襲来した。一部は
長門にも襲来して いる。

 そして東路軍·高麗軍は六月五日に博多湾の志賀島·能古島に達し、江南軍を待たずに、単独
で大宰府西方面から上陸するととに決した。しかし、博多湾沿岸には強固な石築地が築かれて
おり、これを騎馬で突破するととは不可能であった。   志賀島の戦い⇒

 戦端が開かれたのは、六月六日、東路軍·高麗軍が占拠していた志賀島であった。陸海からの
日本軍の攻撃を東路軍·高麗軍が迎撃するという攻防が、十八日頃まで連日つづいた。十八日に
志賀島を離れた東路軍·高麗軍は、合流予定地である壱岐島に現われた。これに対し、日本軍は
二十九日から七月二日にかけて壱岐島に攻勢をかけた。

 一方、江南軍は進発が六月十八日と遅れたのみならず、行き先を肥前国の平戸島に変更して
いた。いったい軍略というものを何だと考えているのであろうか。この江南軍の実態は軍人ではな
く農民であり、遠征の目的も、戦闘よりも移住·植民であった可能性が、古くから提示されている。

 東路軍·高麗軍の方は、江南軍が平戸島に到着したととを聞いて、七月初旬、壱岐島を発って
平戸島に向かった。長期間に及ぶ海上生活と戦闘によって、かなり疲弊していたことは想像に難く
ないが、ともあれことに、総勢十四万の巨大軍が集結したのである。   東路軍の行動⇒

 七月中旬から下旬、モンゴル軍は東の鷹島に向かって移動した。いよいよ大宰府をめざし て
上陸作戦を展開しようとしていた矢先、七月三十日から翌閏七月一日にかけて、今度は本物の
台風が日本列島を縦断した。  七月三十日から風が吹き出した⇒ 

 暴風雨自体で艦船同士が衝突して沈没した艦船も多かったが、東路軍·高麗軍の艦船に

は被害が少なく、江南軍の艦船は損害が大きかったとされる。高麗で造船された艦船にくらべて、
江南船は脆弱であったことになる。実際、鷹島沖海底で見つかったモンゴル軍の遺物は、ほとん
どが江南地方で作られたもので、高麗産の遺物は発見されていない。フビライの「裁兵問題」は、
見事に成功を収めたことになる。

 モンゴル軍の「貴族」(軍将)は、閏七月五日以降、難を免れた数百の船に乗り込み(ということは、
兵士を船から降ろして敵地に置き去りにしたことになる)、モンゴルに向かって敗走した。その結果、
取り残された兵士に対して、七日まで日本軍の掃討作戦が展開され、多くの残留兵が殺された。
 降伏した者(史料により千人前後から三万人と幅がある)も、南宋人は殺されずに奴隷とされたが、
モンゴル人と高麗人は博多の那珂川で殺された。

 結局、帰還できなかったモンゴル軍は、『元史』では八万から十三万、『高麗史節要』では、帰還
できなかったのは江南軍が十万、高麗軍は七千人とある。 元軍敗退の原因⇒

 フビライは、 一二八二年、一二八三年、一二八四年、一二九二年と、何次にもわたって日本侵
攻の準備を進めた。その一方で、使節を一二八三年、一二八四年、一二九二年、一二九九年と
日本に派遣し、和平の道も模索している。  三度目の遠征計画⇒

 この日本侵攻計画は一二九四年のフビライの死去によって中止となり、結局はモンゴル が日本
に攻め寄せたのは二度に留まった(日本の執権北条時宗は、すでに弘安七年〈一二八四〉に死去
していた 時宗の死⇒)。御家人の窮乏と幕府の内紛に疲弊していた日本に三度目の蒙古襲来が
なかったのは、まととに幸いなことであったと言えよう。

 じつはこの間、一三八八年にベトナムに侵攻したモンゴル軍が、陳朝ベトナム(大越国)に大敗を
喫していた。すでに一二五八年と一二八三年にベトナム遠征に失敗していたフビライは、九万の
兵力でベトナムに侵攻したのであるが、陳興道の率いるべトナム軍は、首都の昇龍(現ベトナムハ
ノイ市)を焦土化させて撤退したうえで、白藤江の川底に杭を打ち伏兵を配すという巧みな作戦と
ゲリラ戦によって、元軍の水兵を全滅させた。

 じつは朝鮮諸国の歴史は、外国から侵略を受ける経験ばかりで、国外に侵攻した経験は、歴史
上、この例しかない。その故なのかどうなのか、日本からの高麗に対する敵愾心というものが、より
増幅されてしまったことになる。

 やがて日本の異国観は民衆のなかに浸透し、ムクリ(蒙古),コクリ(高句麗=高麗)とう鬼を生み出
す。





弁慶の引き摺り鐘

 金堂西側の霊鐘堂に重要文化財「弁慶の引き擦り鐘」が安置されている。奈良時代の作で、高さ199cm、口径123cmず、重さ約2.3t。

平安中期、俵藤太という武将が三上山の大ムカデを退治したお礼に琵琶湖の竜神からもらった鐘を三井寺に寄進したものと伝わる。

 その後、三井寺と比叡山が争ったとき、弁慶がこの鐘を奪い比叡山へ引き摺り上げてついたところ、「イノー(帰りたい)、イノー」と響いた
ので、怒った弁慶は鐘を谷に投げ捨てたという伝説が残る。鐘にはあちこちに傷やヒビがあり、今はつくことはできない。

 この鐘には、寺に変事があるときは、その前兆として汗をかき、ついても鳴らず、良いことがあるときは自然に鳴るとの言い伝えもある。
小林慶吾執事(46)は「様々な伝説に彩られているように、鐘に対するあつい信仰があったので、寺に戻ってきたのでしよう」。近江八景

「三井の晩鐘」で有名な鐘は、この弁慶鐘を模して桃山時代に作られた。
  2021-11-29  朝日新聞  


日本刀

 鎌倉時代の承久3 (1221)年、天下を二分する戦いに敗れた貴人が京の都から現在の島根県の沖に浮

かぶ隠岐の島に配流の身となった。

 執権、北条氏の追討に兵を挙げた後鳥羽上皇 (1180~1239年)である。その遷幸から800年に当たる今
秋、上皇を祀る隠岐諸島·中ノ島の隠岐神社で日本刀の神前鍛錬が行われた。

 現代、日本刀は海外で至高の鋼の美術品として絶賛される存在だ。武器としての日本刀に、人々を魅了
する芸術性を吹き込んだ天才こそが文武に秀でた後鳥羽上皇であったのだ。

配流後800年

 2月16日の日没後、海士町の隠岐神社境内の仮設鍛冶場。灼熱の玉鋼を打つ鎚音が響き、赤い火花が
闇に飛ぶ様子を丸山達拒島根県知事をはじめ、多くの人々が凝視した。

 この日は隠岐神社で遷幸800年の奉納行事が催され、神前鍛錬で締めくくられた。 烏帽子の装束で打ち

初めを披露したのは奈良県指定無形文化財保持者の月山貞利刀匠とその一門。

 記念事業に合わせた「新御番鍛冶プロジェクト」に賛同しての来島だった。

日本刀の黄金期

 御番鍛冶とは、承久の変の10年ほど前に上皇が備前 福岡一文字派の祖,則宗をはじめ、各流派の名人
を諸国から毎月、御前に招いて作刀させた制度である。

 名人は持てる技に一層の磨きをかける。こうして日本刀の機能と美はさらなる高みへ達した。 刀剣史上、

鎌倉期に名刀が多いのは後鳥羽上皇が刀剣を好み、優れた鑑識眼を持ち合わせていたことによるもの
だ。上皇は『新古今和歌集』の編纂者でもある。

英国人が発案者

 「私は時を超え、海を越えて後鳥羽上皇に呼ばれたような気がします」

 日本刀研究家のポールマーティンさんは、そう話す。 大英博物館の学芸員などを経て2012年から日本
に拠点を定めて活躍中の人物だ。 日本刀文化振興協会の評議員も務めている。

 彼が初めて隠岐の島を訪れたのは、7年の初冬。

 上皇ゆかりの史跡を訪ねるうちに21世紀の御番鍛冶再現のアイデアが突如ひらめいた。隠岐神社禰
宜の村 尾茂樹さんに提案して賛同を得たそうだ。

奈良の月山刀匠

 知人で映像作家の杉本さつきさんの協力も得て、マーティンさん発案のプロジェクトは始動。10月の神
前鍛錬が実現した。

 実は隠岐神社での刀剣鍛錬は1939年にも行われている。 後鳥羽上皇の島での崩御700年を記念した 

「昭和の御番鍛冶」だ。 海士町後鳥羽院資料館には戦前の刀匠たちが鍛えた作品が展示されている。

 そのうちの一人が月山貞一刀匠。今回の新御番鍛冶となった月山貞利刀匠の父親なのだ。

 マーティンさんらは、後鳥羽上皇の御番鍛冶の故事にならって計12人の現代刀匠に1振りずつ作刀し
てもらう計画だ。無鑑査認定の刀匠の方々に依頼する。完成した刀剣は隠岐神社に奉納される。

憂うべき事態が

 英国人のマーティンさんが新御番鍛冶プロジェクトを立ち上げたのはなぜか。

 「日本刀を取り巻く環境が楽観を許さない状況にあるからです」

 海外ではインターネットで独習し、作刀する人が増えている。 似て非なる日本刀もどきが生まれているの

だ。中国や韓国製の居合刀が海外に輸出されているようだ。

 また、本物の日本刀が海外でネット研師の手にかかると姿が崩れて取り返しのつかないことになる。

 日本人の知らない所で仰天の事態が進んでいる。

 一方、国内では多くの刀匠の暮らしが楽でない。後継者育成もままならないのが現状だ。 刀剣女子の出
現で刀への偏見は薄らいだが、 現代刀匠の真新しい刀は、 なかなか売れない。日本刀の存続には刀匠
だけでなく、研師、鞘師、柄巻師など多くの職人の熟練が必要だ。どの技が欠けても支障を来す。日本刀

は本邦の伝統文化と深く結びついている。 伊勢神宮の式年遷宮にも必須だ。

 新御番鍛冶プロジェクトの目的は、当代最高峰の日本刀を後鳥羽上皇の眠る隠岐神社に奉納することで、

正確な作刀の技と文化を将来の世代にしっかり伝えていくことにある。

12振りの奉納を

 奉納刀の制作資金はインターネット上のクラウドファンディング(CF)で募る。 月山刀匠が作刀を開始 した
1振り目のための目標額は400万円。これまでに100万円強が寄せられているが、苦戦気味だ杉本さんは
「日本刀に関してイギリス人とイタリア人が動いているプロジェクトなので、世界規模で伝統工芸の生存戦
略を組み立てたい」と話す。彼女の母堂はイタリア人なのだちなみに10月16日の隠岐は雨だった。後羽上
皇の行事日は昔から雨になるという。伝説は生きていた。
   2021-11-24  産経新聞



吉野への道

 吉野は、飛鳥の宮人たちにとって特別の意味をもった。あの山背大兄王を死にいた

らしめた事件の非難をうけた舒明の皇子古人皇子は即位を辞退して吉野に出家する。

六七一年大海人皇子大津宮から吉野に向かう。翌年六月近江朝打倒の決意を固める

のは、吉野宮である。天武六年(六七九)には、皇后草壁皇子ら六人の皇子ととも

に吉野へ行幸し異腹の皇子に対して一族の団結の盟をしたのも吉野の宮においてであ

る。持統天皇は、三一回も吉野におもむいている。なぜそれほどまでも吉野なのか。

 飛鳥から吉野へは、ふつう、明日香村の島之庄から稲淵栢森を経て芋ヶ峠をこえ

て吉野川に出るルートが想定されている。私もこの説をとるが、ほかに竜在峠や、壷

阪峠、あるいは、芦原峠をこえるルート、さらに西の、巨勢道から大淀町の今木を経

由し車坂から同町の下淵にいたるコースも考えられる。芋ヶ峠越えにのみ固執するつ

もりはない。吉野は飛鳥人にとって山と水の国である。桜をめでる言葉を聞かない 。
   飛鳥への古道  千田稔



太子の死と一族の悲劇

 

 聖徳太子が眠る聖徳太子御廟は、拠点とした奈良,斑鳩から少し離れ、父の31

用明天皇陵や叔母の33代推古天皇陵と同じ大阪府太子町にある。 近鉄南大
阪線上ノ太子駅(大阪府羽曳|野市飛鳥)から南へ約2km。 直径約50mの円墳で、
この 地は太子が生前、自分の墓 所と決めていたという。

「太子が27歳の時、甲斐(山梨県) から献上された黒駒に乗って全国を巡視した。
富士山頂に至ったときに五色に輝く光が見え、その地がここだったので、自分の墓
所と定めたと伝承されています」

 太子町教委の木谷智史文化財技師はそう話す。この伝承に基づいて、山裾に

御廟のある山は五学ケ峯と名付けられている。

 御廟は「三骨一廟」とも呼ばれる。 太子と母親の穴穂部間人皇女、そして妃の

一人の膳部菩岐々美郎女が合葬されているからだ。 伝承では母親が崩じた翌月、

太子が病になり、看病に努めた妃が先に病没、その翌日に太子も亡くなった。

本書紀によると推古29(621) 年だが、法隆寺系の史料では翌30(622) 年と異な
る。 太子の御廟も死も神秘に満ちている。

〈老人は愛児を失ったように悲しみ、塩や酢の味が口に入れてもわからず、幼児
は慈父母を亡くしたように悲しみ、泣き叫ぶ声が往来に満ちた。 田を耕す男は

鋤を取ることをやめ、米をつく女は杵の音をさせなくなった〉

太子の薨去(こうきょ)の様子を日本 書紀はそう書く。以降、蘇我氏の専横が強ま
った。馬子は32(624)年には大和·葛城県を自分の生地、本居(うぶすな)だとして、
下賜を申し出た。天皇の直轄領を私領にしたいというのである。

天皇は許さなかったが、その崩御後、馬子の後を継いだ蝦夷入鹿父子の専横に

拍車がかかったと日本書紀は伝えている。

 蝦夷は、推古天皇の後に30代敏達天皇の孫で蘇我氏系ではないが妹婿にあ
たる田村皇子を推した。34代舒明 天皇である。天皇が崩御すると、皇后の宝皇
女が35代皇極天皇となった。いずれも太子の長子·山背大兄王が有力な皇位継
承者だったにもかかわらずだ。

 「山背大兄王にとっては、父の後ろ盾がなくなったことは痛手でした。蝦夷が蘇我
氏系でもある山背大兄王ではなく、非蘇我氏系の田村皇子を選んだのは御しや
すいと考えたからかもしれません。 山背大兄王には、いちずで融通の利かないと
ころがあったようですから」

 皇学館大の荊木美行教授はそう話す。皇極2(643)年、入鹿はついに、斑鳩宮
の山背大兄王を急襲する。 蘇我氏系の古人大兄皇子を皇位に就けるため、
上宮王家と呼ばれた太子の一族を滅ぼそうとしたのである。 山背大兄王は、生
駒山に難を避けたが、側近の反撃の勧めを断って斑鳩寺(法隆寺)で自害した。

「兵を起こせば勝つことは必定だが、私一人のために万民を苦しめ、煩わすこと

ができようか」という最後の言葉を、日本書紀は書き残している。

 「なぜ、という疑問はあ りますが、この非業の死は太子一族への同情を呼び、

後世の太子信仰の元になったのではないでしょうか」 聖地。法隆寺に1400年続く
信仰の灯がともったのである。

 

梅鉢御陵 大阪府太子町にある磯長谷古墳群の別名。
聖徳太子御廟のほか30代敏達天皇陵、31代用明天皇陵
33代推古天皇陵、36代孝徳天皇陵が梅の花びらのようにつくら
れていることが名前の由来。敏達天皇陵は全長113層の前方後
円墳で、生母の石姫皇后との合葬陵とされる。 用明天皇陵は天
皇陵としては最初の方形墳で、飛鳥の石舞台古墳と似ている。
推古天皇陵は1辺約60mの方形墳。御子の竹田皇子との合葬と
みられる。孝徳天皇陵は直30m余りの円墳。「うぐいすの陵」の
名で枕章子で紹介されている。
  2021-10-27 産経新聞


今城塚古墳 埴輪

 

 真の継体大王の墓といわれる今城塚古墳(大阪府高槻市)

で、全国2例目となる太鼓形埴輪が見つかった。バラエティーに富む埴輪群で知ら
れるこの古墳ならではの発見。古代の太鼓が奏でた音の役割とは。

 6世紀前半築造の今城塚古墳 は1997年から10ヵ年にわたって調査が実施され
た。墳丘に隣接する祭祀場から人や動物、器財など230点以上もの形象埴輪が出
土し、現在も整理中だ。 その過程で、これまで謎だ った複数の破片をつなぐと3個

体分の太鼓の埴輪が現れた。宮崎県の百足塚古墳の出土例に次ぐ太鼓形埴輪だ
という。

 樽みたいな胴に革をかぶせそれを鋲で留めた表現が施されている。大刀や盾な
どと同様、祭祀儀礼で重視された器物だったようだ。

 さて、太鼓の音色は当時の古代社会で、どんな役割を担っていたのだろうか 
歌舞飲酒の祭りに色を添えただろうことは容易に想像できる し、埴輪の対象にな
ったことを考えれば、埋葬までの一定期間、遺体を仮安置するもがりなどの葬送儀
礼や権威の継承イベントに使われたのかもしれない。それに加えて意外な機能

を、前今城塚古代歴史館特別館長で高槻市文化財アドバイザーの森田克行さんは
考えている。進軍のリズムをとる軍楽に使われたのでは、というのだ。

 「軍楽は太鼓と角笛が基本の組み合わせ。6世紀に戦争での戦い方や軍隊の編成
が整備され、兵馬一体の大軍勢の遠征を 可能にした。その際に使われた可能性も
考えていいのではないでしょうか」

 興味深い見解だけに賛否ありそうだけれど、なるほど兵士の一糸乱れぬ動きに
は、この手の鳴り物がなければ難しそうだ。

有名なオスマントルコ帝国の軍楽隊に太鼓は欠かせなかったし、ギリシャやローマ
の重装歩兵が太鼓のリズムに乗って行進するシーンを映画で見かけた気もする。

 継体朝下の大事件といえば九州で反旗を翻した大豪族、筑紫君磐井との戦争が
思い浮かぶ。『日本書紀』によれば、はるか西へ派遣された大和王権軍は磐井の
軍勢を圧倒したようだ。勇ましい太鼓の音はその行軍を大いに鼓舞したのかもしれ
ない。

 素朴で構造も単純な打楽器は、人類が発明した最も古い楽器ともいう。それだけ
に、きっと様々な機会に活躍したはず。古代社会の一端が、太鼓形埴輪からのぞく。
  2021-12-2  朝日新聞(編集委員·中村俊介)


秦河勝

広隆寺  八角円堂  大聖勝軍寺 
秦楽寺  広隆寺弥勒菩薩半迦思惟像  年表603年 


 室町時代に世阿弥が書いた能の書「風姿花伝」に、聖徳太子が能の前身、申楽

について筆を執った書を平安時代62代村上天皇が見たとする記述がある。書の

名前は「申楽延年の記」。直訳すれば、申楽つまりは能を見れば、寿命が延びる

という書である。

 〈申楽舞を演奏すれば、国は穏やかに、民は静かに寿命も長くなると太子の筆

で書かれ、その通りだったので、村上天皇は申楽を天下の祈祷の芸能にしようと

された。その頃、かの河勝がこの申楽の芸を伝えた子孫、秦氏安という者がいて

六十六番の申楽を築辰殿で舞った>

 太子が、申楽が天下泰平と民衆の長寿を保証すると書き残しているので、天

皇は太子の頃から申楽を伝承する秦氏安に66曲を舞わせたというのである。
かの河勝とは太子の側近、渡来系氏族の秦河勝のことだ。

 「66は、大和や摂津など当時の国の数です。太子はそれぞれの国が安泰であ
るように国の数だけの申楽を河勝につくらせた。河勝は大陸の進んだ文化も取り入

れて曲を完成させた。 そう読み取れば太子は能にとっての恩人かもしれません」

 能のシテ方、金剛流の二十六世宗家、金剛永謹氏は そう話す。

 日本書紀では、百済から帰化した味摩之(みまし)という人物が呉(けれ)の国で
伎楽の舞を学んだというので、当時摂政だ った太子が桜井(現奈良県)

に住まわせ、少年たちに教えさせたと書く。伎楽は古代チベット、インドの仮面劇
で、中国に伝わって散楽(さんがく)と呼ばれ、後世の日本では 形式を変えながら
朝廷の雅楽寮で学ぶ芸能である。

 「伎楽は雅楽の前身で、太子が日本に取り入れたのは仏教の普及に不可欠だと

考えたからでしょう。 日本 にはアメノウズメの神話もあり、神への奉仕に歌舞は

付きものだった。 外来の神ともいえる仏には、外来の音楽が必要と判断したのだ

と思います」

 関西大客員教授で天王寺楽所雅亮会副理事長の小野真龍氏はそう言う。同会
は太子が四天王寺に置いた雅楽師たちの伝承組織だ。

 「太子が着目したのは外来音楽の先進性だと思います。楽器の数だけでも笛と

歌が主流の日本とは段違いに多い。その壮麗さで仏教の定着を狙ったのでしょう

が、この文化は大きく開花し、752年の東大寺大仏開眼供養では芸能尽くしの

ような華やかさになる。 その意味では太子は芸能の祖でしょうね」

 奈良·斑鳩にルーツを持つ金剛流は聖徳太子1400年御遠忌の今秋、法隆寺

中門前で観能会を行った。

同流の前身、坂戸座は法隆 寺を発祥の地とする。 坂戸は法隆寺周辺の古代
郷名で、郷民たちで芸能に長じた者が法隆寺に属し、専門の猿楽集団へと成長し

た。

 観能会では宗家の金剛永謹氏と若宗家 (二十七世宗家)の龍識氏が競演、宗家

が名曲の多い三番目ものの「井筒」を、若宗家が奈良にゆかりの「春日龍神」を

舞った。

 「太子には幾重にも縁がありますので力が入った舞台でした」

 歴史を踏まえて、永謹氏はそう振り返った。

太子ゆかりの文化
 聖徳太子が生んだともいえる雅楽は律令制の雅楽寮から楽所へと所管を変え
継承されたが、応仁の乱で楽人が四散。江戸時代初期に三方楽所と呼ばれる
伝承組織ができて息を吹き返した。三方とは宮中方(京都)、南都方(奈良)、
天王寺方(大阪) のことで、天王寺方は太子が建立した四天王寺に奉仕した歴史
を持つ。能のシテ方(主役)の宗家は観世、宝生、金春(こんぱる)、金剛、喜多と5

家あり、喜多家を除く4家は現在の奈良県の発祥。金剛流は斑鳩町発祥、金春流
の流祖は秦河勝とされるなど太子とゆかりが深い。
  2021-12-11  産経新聞

 
秦河勝が聖徳太子から
贈られた
弥勒菩薩半迦思惟像 
広隆寺
























































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