日本人が優秀なわけ

 私たち日本人は、性格的にも知能的にも、世界でもまれなほどすぐれた素質をもっている。も

の語らざる人骨は、研究が進むにつれて、さらにそうした優秀さの秘密まで語ってくれるように

なった。

 帝釈 峡人ばかりでなく、わが国の各地から石器時代に住んでいた人間の骨の断片が、少しずつ

発見された。人類学の習慣で、人骨はその化石が発見された地名をとって名づけられるが、たと

えば栃木県の葛生という町の石灰岩の洞窟から出た葛生人。それからもう少し西へいって、静岡

県の三ヶ日町にある洞窟から発見された三ヶ日人。その隣り、浜北市の洞窟から出た浜北人。愛

知県豊橋市にある牛川町の洞窟から発掘された牛川人。さらに兵庫県明石市の西八木という所か

ら出た明石人。また愛媛県の鹿野川町にある洞窟から見つかった鹿野川人。

 日本では、帝釈峡人を含めて七例ほどそういう化石が発見されているが、それらはすべて現代

の私たちと無縁ではない。つより、日本人以前に住んだ人間ではなく、日本人の祖型というか

元の体を示すような共通した特徴をもっている。それから考えられることは、日本における日本

人の歴史は最低でも二万年以上あるという事実だ。世界の人類史のなかでも、二万年同じ地域に

住んでいる人間の例はない。

 たとえば、ピラミッドで有名なエジプトだが、あの古代エジプト文化を生んだ人間はセム人と

いう。しかし今のエジプトにはセム人はいず、アラブ人が住んでいる。セム人はどこへいったの

かといえば、だいたい現在のエルサレムやベツレヘムのあたりに追い出されてしまった。そして

ユダヤ人を生んで、世界のいろんな問題をつくる。

 それから純粋のインド文明をつくった、インドアーリアン。彼らは今ではドラヴィディアンと

入り交じってしまって、ヒンズー人という。純粋のインド文明を築いた人間はもういない。

 中国文明を生んだのは漢民族だが、これも同じことがいえる。純粋な漢民族は、混合してしま

ってもういない。おそらく、先年台湾で死んだ蔣介石が最後の漢民族だろう。毛沢東とか、今の

中国を支配する中心の人々は、ほとんどが周辺の人間だ。

 アメリカ大陸の古代文明といえば、マヤ文明、インカ文明が有名である。それらを築いたの

は、いうまでもなくアメリカインディアンだ。しかし、彼らはもともとアジア大陸から移動した人間
である。

 また、イタリア人がいくらローマの遺跡を誇っても、あれはローマ人の遺跡であってイタリア人

のものではない。今のイタリア人はサルジニア人だ。西にあったサルジニアという国がローマ

を征服して入りこみ、元来ラテン系の人間が住んでいた土地に建国したのである。ローマ文明を

つくったほんとうのローマ人は、もういない。

 ギリシャはバルカンにあるが、その古代文明を開花させたギリシャ人はアーリアンだった。だ

が今日のギリシャには、すでに純粋アーリアンはいない。ロシアのほうからスラブ系の人間など

がいろいろ入ってきて、すっかり入れ替わってしまった。

 イギリスは、元来ケルト人が住んでいた土地である。そこにアングロとかサクソン、ジュート

という人間が入ってしまった。これは、ゲルマン系の人間だ。

 ゲルマン民族は、ヨーロッパの人種と文明をかきまぜるうえに、大きな影響を与えている。今

から千八百年前、彼らはいわゆる民族大移動を起こしてヨーロッパ全土を征服、歴史を書きかえ

させてしまった。

 人間の移動についていえば、未開人にも例がある。アフリカの黒人に、ホッテントットやブッ

シュマンなどという人々がいる。彼らは文字をもたないから不明の部分も多いが、それでも古代

の人骨の化石などを調べると、やはりたいへん大きな漂流民族で、地上を移動していることがわ

かる。

 そういうぐあいに、世界の人間で昔から、万を超える年数を同じ土地に住みつづけているとい
例はない。
ただ日本だけが例外である。

 ふつう、人間は一定の場所に長く住んで純粋を保っていると老廃する。自然の植物も動物も、

純粋種はみな老廃種だ。日本人は、それにもかかわらず、なぜ老廃しなかったか。

 日本が、アジア大陸から離れて島になったのは、今から約二万年ほど前だといわれる。そのこ

ろ、アジア東部に大きな地殻変動があり、間宮海峡から日本海、朝鮮海峡を通り南シナ海あたり

まで断層線、つまりヒビが入った。その結果、日本は東へ離れだしたのだが、その現象は現在も

なお続いている。わが国が地震国である理由はそこにある。日本という島が動くことによって地

下にエネルギーがたまるが、それを地震という現象で解消しバランスをとっていく。簡単にいえ

ば、汽車が走るとがたがた震動する。その震動の一つがかつての関東大震災であり、またこのご

ろ、起こることが予想され大きな関心を集めている東海大地震だ。だから日本は、地質学的にい

えば未完成の島なのである。

 それはともかく、人間の老廃化を防ぐうえには、島になったことが幸いだった。島になったか

ら海流に洗われはじめた。南からは暖流が来るし、北からは寒流がやってくる。そして季節風も

吹く。北からは冬の北風、南からは貿易風という夏風が吹いて、しかもそれが最後には台風をも

ってくる。これが日本にとって非常によかったのである。

 どうしてよかったかというと、海流や風によって送られてくるエネルギーが、北よりも南から
ほうが強かった。そこで、日本には東南
アジア系の文化がたくさん入ってきて、日本文化の基礎
をつくった。日本文化というのは、明らかに東南アジア型
である。たとえば、私たちは今でも褌、
腰巻きなどの下
着を残しているが、これらは東南アジアにしかないものだ。西洋文明の輸入とと
もに
上に着るものは変わっても肌着、とくに腰肌着は変わらない。これこそ、文化の原点である。

 東南アジアからはまた、米が入ってきた。

そうすると稲作農業が始主る。そして米とともに、東南アジアの稲作信仰もやってくる。信仰の面
では、日本には北方文化も一部残ってい
て、それに交じり合った。あとでも説明するが、シャーマ
ニズムという神がかり信仰がある。こ
れはもともと北のものだ。こうして成立したのが、日本の
神道である。

 結局、日本の文化というのは、このように複雑なものを混合しながら新しい文化をつくったの

である。人間の肉体も同じことがいえる。日本が島になって以来、大陸や東南アジアからいろい

ろな人種がやってきて、その血液が混合したものだから、いわゆる優性転化をしてしまった。人

間は近縁相異婚といって、やや近い人種の違った体型同士が混血するのが理想とされる。黒人と

白人のように極端に違う人種同士の結婚は、その意味で劣性婚だ。

 日本人は、幸い近縁相異婚という優性婚をしたものだから、適度な順応性をもつ優秀な体質を

もつようになった。その証拠に、経済条件や衛生条件が整備されてきた今日では、寿命が世界一

長くなっている。体質ばかりではない、性格からいっても、知能からみても非常にすぐれている

のだ。たとえば日本の数学水準などは世界一である。私たち日本人がこれほどの優秀さを受けつ

ぎ保っているということは、やはり島になったという自然の恵みだと思う。

 以上のような事情がわかりだすのは、最初に書いた、一青年の、崖から石器を一個抜きとった

行為からはじまったものである。地下にはこういう大きな、民族の歴史や文化の特色を説明する

ような、重大な発見を可能とする証拠が残っている。そのことを私たちは、戦争後たいへん大き

な記念品として手に入れることができた。したがって、考古学が新しく見直される理由も、ここに
あるだろうと思う。
   足の下の日本史 ねむれる遺跡への旅  樋口清之




日本人はいつからいたか

 その青年は相沢忠洋さんといって、現在、群馬大学の先生をしている。この人は中学二年まで

しかいかなかった。しかも、今でも納豆屋さんだ。 そのかたわら、学問をいっしょうけんめい

けて、りっぱな業績を残している。後世の歴史に大きく残る偉い人だと思う。

 相沢忠洋さんが一人ではじめた研究は、やがて明治大学が参加して本格的な調査が行われた。

その結果、発見した石器が単なる偶然でそこに埋まっていたものではないことや、土壌は移動した

のではなく、実際の自然堆積であることが確認された。そればかりではない。発掘物の、一見し

て石のかけらのように見えるものが、人工的にある目的をもって、ある技術によって割られた石

器であること、さらにその石器も、下から出るものは古く、なかほどはそのつぎで、いちばん上

がもっとも新しいことも証明された。つまり具体的にいうと、いちばん下が斧の文化で、中央く

らいから出るものが刃物の文化、そして最上層のものは先がとがった槍および矢じりの文化と.

およそ三つの時代に分けられることなどがわかった。

 しかも、土器は出てこない。発掘されるのは石器と焼け石だけである。それは、ヨーロッパの

旧石器時代と同じ状態だ。ただ、ヨーロッパのばあいは石灰岩のなかから出るので、動物の化石

がいっしょに発見される。日本はローム層なので、動物の肉体は分解しているからいっしょには

ない。だが、それでも土壌のなかにわずかながら炭素が残っている。炭素があれば年代測定がで

きる。私たちは動物だが、動物や植物は地上で生きている間は空気を呼吸し、あるいは水を飲

む。その空気や水のなかには、自然の放射性元素が入っている。放射性元素は私たちの体のなか

に沈積していくが、飽和点を超えて過剰になると肉体は破滅する。それが今日の、いわゆる原子

力の被害問題だ。

 しかし、ふつうの状態でも、原子力が発見される以前から、すべての生物は体のなかに、自然

放射能を死なない程度に堆積している。そして、体のなかにある炭素に沈積した放射性元素で、

年代が測定できるようになっている。炭素にはいくつも種類があるが、なかのカーボン一四を使

うもので、その測定法は一九五〇年に実用化された。それを利用すれば、四万年くらい過去文で

測れる。最近はだんだん精密になって、誤差が減ってきた。その測定によれば、相沢忠洋さんが

発見した石器の出る地層あたりは、だいたい二万年前がいちばんあとだ。

 二万年前ぐらいということは、まずアメリカのミシガン大学が測った。その後,日本の各学校

でも同じような器械をつくって測ってみたが、どの計数値も同じだから信用していいと思う。た

だ、プラス·マイナス二百年くらいの誤差はある。しかし二万年中の二百年などわずか一%で、

考古学ではそのくらいの誤差は誤差ではない。今はそれがもっと減って二十年程度になっている

ので、ほとんど正確だ。しかしその誤差は、古い時代へいくと大きくなる。というのは、カーボ

ンでは四万年までしか測れないからだ。より長い時間の計測にはカリウム·アルゴン法、フッ素

法というのがあって、二百万年近く主で測れる。その方法では、二、三十万年の誤差になる。

 それはともあれ、人間生活を測る範囲においては、カーボン一四の測定法を使えば誤差がほと

んどないに近いほど、正確に知ることができるわけである。それによってわかったように、二万

年前、日本に人がいたことまちがいない 二万年がいちばん新しいのだから、それ以前にもい

たことになる。だが、それ以前のもっとも古いのが何年前かはわからない。ブラック·パンドの

下なので、炭素が見つからないからだ。しかし少なくとも日本には二万年以上、数万年前に人が

住んでいたことは確かめられた。これは日本の民族史のうえにおいても破格の発見である。

 神武天皇が二千六百年前、天孫降臨は三千年前などといっていたが、そんなばかばかしい話は

ない。石器時代の遺跡でもいちばん終わりが三千年ほど前だということは、従来、土地の隆起速

度から想像されていた。けれど隆起速度というのは主観が非常に入って、計測値がまちまちだっ

た。その点、カーボンの測定は、ほとんど絶対に近い客観性をもっている。その年数から、日本

に人が住んだ歴史が天孫降臨どころではなく、もっとけた違いの古さであることが明らかになっ

た。結局、人間が文献によって伝えている歴史などというものは、日本における人類史の実に

一%にも満たないことがわかってきた。

 それを知ることができたのは、終戦後の混乱のなかで地下の探索というものが、いかにだいじ

かを教えてくれた、相沢忠洋さんのおかげである。私は、大きな勇気をもつと同時に、深く反省

させられた。

 以来,旧石器の研究が日本じゅうで進み、現在では計測がもっともっと精密になってさて、北

は北海道から南は琉球地方まで日本に旧石器時代があったということは,まちがいない定説にな

っている。

 ただ、その遺跡が、ローム層などという野外にあるばあいには,火山灰だから風で飛んだりす

る。もし当時の人がほら穴のなかに住んでいたとすれば,その場所を見つければもっと正確にわ

かるだろう。というので今、ほら穴を研究する学会「洞窟学会(ケイブ·ソサエティ)」がつく

られている。その学会が調べているのは日本じゅうの、石灰岩などの洞窟のなかで、そこに旧石

器時代の遺跡あるいは遺物がないかということだ。そうした調査の成果として、岩宿文化の研究

を裏づける事実をどんどん発見している。

 洞窟がいちばん残っていて、調査活動が盛んなのは新潟県、長野県、ちょっと西へ飛んで広島

県、それから佐賀県、長崎県である。鹿児島県にも各地に洞窟があって、私はそこで調査をやっ

た。洞窟内では物が動かないから、掘るとまず上の層から歴史時代のものが出てくる。その下か

らは古墳時代のものが見つかる。さらにその下からは新石器時代のものが現れる。もっと下へい

くと、土器がなくなって石器だけが発見される。それが旧石器時代、石器だけの文化だ。

 洞窟では地層がそのまま残っているので、年数がちゃんと測れる。その方法により、とくに長

崎県あたりの研究がほぼ完成したので、つぎに日本の年代を組み立てる作業になった。年代を組

み立てる学問を編年学というが、今では旧石器時代の編年がほとんどできあがったといっていい。

 その結果、斧文化、刃物文化、槍文化と、日本じゅうが同じ順序を経て進んでいることがわか

った。そこでこんどはこれを大陸のものと比べていくことになる。

日本人と文化のルーツ

 旧石器時代には朝鮮海峡はまだなかったと思う。朝鮮半島と日本が離れたのは、約二万年ほど

前のことだ。 
 両方の陸地がつながっているころ、
日本に人が来ている。人類は本来、泳げない動物である。
船を発明したのはせいぜい一万年ほど前だから、
それ以前に来たとしたらどうしても地続きでな
ければならない。
朝鮮海峡がつながっていれば、自由に渡ることができる。

 そういうことを前提にして大陸の文化と比較してみると、いろいろ興味深い事実がわかった。

たとえば、日本にある旧石器時代と同じような文化は、やはり沿海州から南シベリアを通って、

中央アジアからヨーロッパへつながっているらしいのだ。一方、日本の旧石器時代文化は、一部

そのなかに東南アジア系の文化の影響もあるらしい。東南アジアで出てくる旧石器の技術と同じ

ものが、シベリアを通ってきた技術に重なって、両方とも日本で発見される。

 考えてみると、これは以後の、日本文化の性格の基になっていることだ。アジアの東端にあっ

て、南アジア、北アジア両方の文化を基に、新しい文化の組み立てられたのが、今の日本文化で

ある。そうなるのが宿命であったというか,その源が、すでに旧石器時代の昔にあることがわか

る。

 それでは、当時どういう人間が、日本に渡ってきたのか。南アジアとシベリアと二つの人種の

混血体が発掘されればたいへん都合がいいのだが、これはそううまくいかない。ただ、それを証

拠だてるものは見つかった。

 最近、旧石器時代の終末期,約二万年ほど前の人骨が広島県の帝釈峡の遺跡から出てきた。そ
の人骨はどこの人間に似ているかというと、シベリアでも東南アジアでもない。実に、今の日本

人に似ている。つまり北と南の両人種の混血が、すでに終わったころの体形をもっているのだ。
 ただそのなかで、一つだけ現在の日本人と違うところがあった。それは眉隆起といって、まゆ

毛の下の、目の上の隆起が高いことである。前頭葉の発達が悪いと、この部分が高くなるという

のは人類学の常識だ。そして前頭葉の発達が悪いということは、記憶、推理、判断、言語中枢な

どの発達が遅れていることで、未開人の体質に共通して見られる現象である。したがってこれは

人類の発達途上にあらわれる自然現象といえる。

 帝釈峡から発掘された人骨にはまた,まぎれもなく日本人の祖先であることを示す特徴もあった。
 ヨーロッパ人や黒人は、大腿骨の断面が
まん丸いのがふつうだが、私たち日本人は

丸くない。とくに大腿骨の大関節の下部には,横にちょっと出っぱりがある。要するに、関節にベルト
がついている。というこ
とは、そこについている筋肉層が厚いの だ。これは山岳労働とか重い物を
運搬する
人間によく見られるものだが、日本人には遺伝的にあって、それが特色になっている。
その人種
的特質が、すでに帝釈峡人にあるのだ。そうした事実から推測すると、日本人の体形は
二万年近
い以前に基礎がほぼできていたらしいことがわかる。これを、人類学者は原日本人という。

 このとき以降、第二次的混血がいろいろと起こる。日本が島になってから、マレー人も来るし

朝鮮人も来る、アイヌ人も来て混血するが、そのもとになる体は、すでにもう旧石器時代にでき

あがっていた。いいかえれば日本人成立、日本文化成立の歴史は、従来のように、天孫降臨やあ

る民族の移住の結果などとする論議では解釈できないのである。長い長い歴史の間に、アジア全

体に広がった人間が、日本という東のほうの,まだ島ではない半島のようなところにやってきて

生活をはじめた。長い年数がたつうちには火山活動があり、地震があり、地殻変動がある。それ

らを経験しているうちに、最初にもってきた体形が、環境に順応するようだんだん形を変えてい

った。それが、原日本人の成立である。

 人間は、二世代や三世代、いや十世代くらいでは形は変わらない。だから私たちは気がつかな

いが、人間は三十世代ほどたつと、環境の影響をうけてその変化に順応する体型になってしま

う。一世代を約三十年と計算するから、千年たてばだいたい三十世代になる。

 そのいい例がインド人である。インド人はもともとアーリアンといって、白人系の人種だっ

た。そのアーリアンが、今から二千三百年ほど前のアレキサンダー大王東征時代に移動して、イ

ンドの原住民ドラヴィディアンを征服、インドアーリアンになった。それから千年くらいたつと

インドの環境に順応して色が黒くなり、背こそ高いが、ヨーロッパ人から見ればもう白人ではな

くなっている。しかし、それからさらに千三百年たった現代のインド人でも、それを骨にする

と、人類学的にいえばやはり白人なのだ。このように肉体は、約千年単位くらいで一部変わるか

ら、一万年もたてばもう独特のものができてしまう。

 環境が、肉体を変えるたいへんだいじな要素である。その発見は、最近の人類学の大きな成果

といえよう。従来は、人種分類は先天的なもので、永久に変わることはないと思われていた。し

かし、そうではなかったのだ。私たち日本人のばあいでも、そのことはあてはまる。日本は六百

年ごとに気温が暑くなり、寒くなる。それを気温周期というが、暑い時代になると、日本人の身

長は高くなった。ところがその気温周期を何十世代も経験していると、遺伝因子の働きによっ

て、暑くならなくても背がのびていくようになった。

 そういうように私たちの肉体は、いろいろと複雑な要素をもっていることがわかってきた。そ

して,旧石器時代の帝釈峡人が今の日本人に非常によく似ているという発見は、日本人成立論の

人類学にも、従来の学説に一つの改正と反省を強くうながすことになったのである。

 日本人は、何天皇がどうしたとか、英雄なにがしがこうしたというようなことを歴史と思って

いる。だがほんとうの歴史とは、無名の、多数の日本人がどういう生活をしたか,ということなのである。


 足の下の日本史 ねむれる遺跡への旅  樋口清之




 
太安万侶

茶畑の墓

 奈良県は、第二次大戦後の発展が、非常にめざましいところである。そのために県下の各地で

は町村合併が激しく、よた新しい道路をつけ、宅地を開発したりしている。

 そのなかでも奈良市は、戦前は人口七万くらいだった街が、今はもう二十万近くまでなった。

とくに、興福寺のある旧奈良市からだんだん西へ向かって発展しており、西大寺というところが

中心になろうとしている。そのおかげで、東の山のなかは、すっかり取り残されてしまった。

 たとえば田原の里の田原などというところは、崇道盡敬天皇と贈名された舎人親王の御陵があ

るだけで、昔のま の農村の姿をとどめている。それもここは丘陵地帯だから、大根畑や茶畑が

ひらかれ、その間に、秋は柿が真っ赤に実っていたり、春はレンゲやタンポポがきれいに咲いて

いたりする。だがパスもわずかな回数しか通ってないし、奈良の人といえどもふだんはまずいか
ない、かなり不便な土地だ。

 その田原で偶然に、茶畑から木炭ばかりでつくりあげている古い墓が見つかった。これが、
有名な太安万侶の墓だったのであ
る。 奈良県では以前から、いたるところの地下に、もの語ら
ずしてしかももっとも多弁
な歴史の証人が埋まっていることが、よくわかっていた。そこでとくに、
地面を対象
に絶えず仕事をする農業者と土木業者には、いろいろな機関や機会を通じ文化財に

ついての予備知識の講習が、ずいぶん徹底して行われていたと思う。まず、みんなで地下を守ろ
うということだ。飛鳥村など、
今でも簡単に道路工事などするのを反対するし、建築物を建てること
を許さないのは、そういっ
た心配りからである。

 ところが、問題の太安万侶の墓を発見したのは、地下の文化財とかその保護とかにはふだんは

まったく興味のない、おじいさんだったのだ。おじいさんは、たまたま自分の茶畑の手入れにい

って、崖のところにぽこっと穴があいているのを見つけたので、そっとのぞいてみた。ふつうだ

ったら自分の畑だから、いきなりひっかきまわすところだ。

 おじいさんは、最初はそれを、ただの炭焼き小屋の跡かと思った。炭焼き小屋の窯跡であれ

ば、残っている炭は乾燥すれば使える。そう考えて炭を何片か取り上げたところ、なかから1枚

の金属の板が出てきた。しかもそれには,金のメッキが残っている。おじいさんはびっくりし

た。こういうものがあるようではただの炭焼き小屋ではない、というので、すぐそのことを県庁

へ報告にいった。

 こういう行動をとったおじいさんは偉かったが、報告をうけた県庁のほうには問題がある。な

んとそれを、三日間も放っておいたのだ。地下に埋もれた文化財保護の大先達であるはずの奈良

県庁の態度としては、これはどうも感心しない。しかも発見されたものの重要さを考えれば、な

おさらのことだ。それはともあれ、おじいさんの話にもとづいてその穴を調査したところ、そこ

は火葬した人間の遺骨が葬ってある火葬墳であった。その遺骨はほとんど残っていな かったか

ら、たぶん木でつくった器に入れてあったのだろう。

 日本では、飛鳥時代から遺骨は桶に入れるばあいが多い。その実物は、奈良の元興寺などにた

くさん残っている。奈良時代でも、おそらく同じだったと思う。なかには上等の入れ物としてガ

ラスの壺、ややそうでないものには三彩というきれいな釉薬のかかった壺、あるいは素焼の壺な

どが使われている。それらの入れ物であれば遺骨は完全に保たれているが、田原の火葬墳のばあ

いは分解してしまっていた。

 しかし、わずかに散らばった火葬骨の上に、表を下に向けておかれた、死者の名前や経歴を書

いた墓誌銘が見つかった。

 墓標は、地上に建てて、誰の墓だということを外から知らせるためのものだ。一方、墓誌銘

は、墓のなかに入れておき、死の世界を司る神様に見せるための表札である。それは中国特有の

習慣で、当時のわが国でも他の文化とともに輸入され、まねたものだった。死の神様だから地下

にいる。そこで墓誌銘も下に向けて葬ってあった。

 田原の火葬墳では、そうした埋葬の様子がよくわかったし、しかも墓誌銘の錆を適当に落とし

てみると、意外な人の名前が出てきた。それが、都の左京四条に住んでいた従四位の下、太安万

侶だったのである。

 太安万侶という人は『古事記の序文を書いた人物だから実在を疑う学者はない。序文は、彼
稗田阿礼という、ものをよく知っている
人に聞いたことをここに記録する、といった内容だ。その
古事記の序文は、みごとな
漢文を駆使した実に名文で、当時でも最高のインテリでなければ書け
ないような文章
である。

 太氏は、今の奈良平野の真ん中辺、田原本という町の南のほうに住んでいた豪族だ。そのあた
りを昔は太村といったが、そ
こにある多神社は歴代太氏の正統の子孫が守っていて、現在でも
宮司の名は多さんと
いう。祖先は、神武天皇の皇子の,カムヤイミミノミコト だということになってい

る。神武天皇の皇子だとなると、実在かどうかわからないが、とにかく日本の天皇の血統で、渡来人
でないことを強調している。太というような一字名は、渡来人に多かったのだ。日本人は、一字名の
ばあい、よく下
「野」をつけるが、太氏ものちに「大野」になる。しかし多神社の宮司さんなどは、
今も古いま
まを残している。

 それはともあれ、この一族は早くから、大陸文明をよく受けとっていたようだ。というのは太

村のすぐ西、二上山のふもとを越えると大阪平野だから、むしろ大阪の港よりも大陸からの情報

は早く入ったところだろう。

 さてそこから出た安万侶という人は、宮中に仕え、遣唐使にも一度加わっているから、大陸文

明を現地で直接学んでいる。位は四位の下で今の局長くらいだから塗り高くはないが、インテ

リとして文字をもって仕えたとみえ、あの古事記編さんにたずさわる。編さんの長官は、のちの

崇道盡敬天皇の舎人親王だった。だがこれは行政的長官、いわばシンボルであって、実務は全

部、太安万侶がやったと思われる。

 この彼の墓の発見は、学者たちに大きな衝撃を与えることになったのである。

墓誌銘が教えるもの

 『古事記』を残すくらいだから、太安万侶がいたことはまちがいないのだが、昔から古事記その
ものに対して疑い製もつ説があった。

 その論拠の一つは、古事記をつくったということが『続目本紀』に書いてないとする。続日本

紀というのは、奈良朝の元明天皇から, 元正聖武,孝謙淳仁称德光仁天皇まで、七代の

天皇時代の毎日の記録である。古事記は和銅五年にできているが,その和銅四年の章に古事記撰

述の記事がない。古事記携述のことは、その序文に書いてあるだけなのだ。

 そこで、あんなものは後世につくった だ,偽書だというのである。とくに最近、ある大新

聞社から,古事記は平安時代の大同年間につくったもので奈良時代にはなかった、と書いた本が

出版された。

 そうなれば、太安万倡は困ってしまう。古事記は、彼が死んだあとにできたことになるのだ。

 まず、古事記の性格から説明すると、そもそもあれは一般公開の書物ではない。今の私たちが

手にするような、活字で読む本ではないのだ。これほど有名になったのは、本居宣長が『古事記

伝を書いたからで、それ以前は天皇家の秘本であった。天皇が天皇であることの自信をもつた

めの教科書なので、日本書紀』こそ一般に公開された歴史書だった。

 古事記がぜったいに偽晝でないこと 、文章が八十八音で書かれてあるのをみてもわかる。そ

れより少し時 が新しい『万葉集』は八十七音。私たち現代日本人は四十八音しか 音できな

い。最近までは五十音できたが、'もうワ行の発音ができない。

 もし、古事記が平安時代の偽書であるとするならば、平安期に五十音ができるから、たぶん五

十音に近い発音になっているはずである だが、「古事記」は、八十八音の古い発音をそのとお

り、漢字をより分け使い分けて書いてある。その点からしても、まちがいなく奈良時代初期の本

だ。

 では、太安万侶とのかかわりはどうなのか。古事記は、天皇に自信をもたせるための本であ

る。天皇自身も日本国家の独立というものを非常に念願していたはずだから、その気持ちを鼓舞

しなければならない。そのためには、日本にも中国に負けない歴史があるということを、中国の

史書をよく読んだうえで編さんする必要がある。

 そういう内容をもつと同時に、その序文をみると、まことに高級な、程度の高い漢文で書かれ

ている。ということは、古事記の編集者は中国やアジア、つまり当時の世界的知識をもった、相

当なインテリだったといえよう。

 太安万侶が、それにふさわしい知識人だったことはすでに紹介したとおりである。そんな彼と

古事記とのかかわりは、墓から出た墓誌銘が証明していると思う。

 太安万侶の生前の位は、続日本紀に書いてあるが、墓誌銘に記された位はそれより一級あがっ

ている。おそらくそれは古事記編さんの功によって、死んでから位が追贈されたものであろう。

現代では位階や勲章など死ねば簡単に追贈されるが、昔はよほどの功績がないとそういうことは

されなかった。

 また、その墓が発見された土地は田原といい、今の多神社が田原本にある。田原本が田原とい

うところのもとで、たぶん以前は同じ地名だったと思われる。そうすると太安万侶は自分の領地

というか縁故の地に、埋められていたことになるわけだ。

 彼の実在は、これらの点から考えても、もう動かしがたいものだといえ,るだろう。

 太安万侶の墓は、木炭でつくった小さなものである。これは大化改新の薄葬令に従ったまさに
四位という位にぴったりの大きさだ。

 ただ、興味深いのは材料に木炭が使われていることで、こういう例は従来どこにもない。しか

し考えてみれば、これは非常に賢明な方法である。木炭は永久に腐らない。中途半端に木でつく

ればだめだし、石でつくっても、その石をとりあげる者が出てくるだろう。こんどのぱあいも木

炭であったからこそ、遺骨も残れば墓誌銘も発見されたのである。新しい墳墓の例として、この

ような木炭墓が見つかったことも,考古学からみて大きな発見であった。

 一般の人々がなにも興味をもたない、遊覧地でも行楽地でもない畑の一画から,これほどだい

じなものが出てくる。とくに奈良県ではその確率が高い。

 奈良時代の天皇は、奈良の都の北側、いわゆる平城京の丘の上にみな御陵がある。したがって

奈良朝の人々の墓はほとんど、東は田原から西は生駒市辺までの、北側の丘の上に散らばってい

るはずだ。しかし今、誰の墓とわかっているものはほとんどない。しかもその丘陵には、電鉄会

社が新しい住宅地をどんどんつくり、なかにはドリームランドなどというものができたりしてい

る。それを考えると私たちは、せっかくの歴史の証人を闇から闇へ葬っているのかもしれない。

 その意味でも太安万侶の墓と墓誌銘の発見は、大きな教訓になったと思う。これまでにも各地

から、いろいろな人の名前を彫った墓誌銘だけが出ている。そのばあい、十分に注意して掘れ

ば、こんどの太安万侶のように、もっともっと当時の実在の人の墓が見つかるにちがいない。そ

のためにも私たちは、地下というものを、もっとだいじにしたいのである。

  
 足の下の日本史 ねむれる遺跡への旅  樋口清之




稲荷山古墳

古代武蔵の中心さきたま

 日本人は、民族のもっとも古い文献として『古事記』と『日本書紀』をもっている。だがそれ

らは天皇家の歴史を中心としたものだから、権力側に都合のいいことばかりが書かれており、
の真実性を疑う学者が多かった。それはたとえば、古墳のあり方だけを見てもいうことがで
る。

 前方後円墳は、すでに証明されたように古代の権力の象徴である。その権力の成長した後
裔が
今の天皇家だと考えられるから、逆にいうと、今の天皇家の祖先が前方後円墳とよばれる
形をつ
くったことになる。つまり前方後円墳は、天皇家の血族か,あるいは天皇家に接近してその
形の
墳墓をつくることを許された権力者の墓といえるだろう。

 その前方後円墳の分布を見ると、九州に卑弥呼の時代ではそういうものがない。

むしろ六世紀ころに今の宮崎県の南のほう、それから鹿児島県の大隅半島に、前方

後円墳ができる それにやや遅れて、北九州にもできだす。したがって九州には、卑

弥呼の影響がすっかりなくなったのちに、大和朝廷文化の象徴として前方後円墳がの

びていっている。それからすると、神武天皇が日向から大和へ遠征したという古典の

伝承とは、逆になってしまう。むしろ大和から日向へ古墳がいった、といえるくらい

だ。といっても神武天皇が大和から日向まで来た、という考古学上の証拠にはちょっとなりにくいが。

 さて、この前方後円墳は、東北のほうへものびている。仙台市の南、現在、仙台飛行場のある
岩沼付近の前方後円墳が、その北の端だと

いわれていた。最近は岩手県の一部にも少しあるのではないか、という説も出されている。とも

かく東北地方は当時「日高見国」とよばれているが、日高見国の開拓の中心は仙台平野であった。

 古代の伝承は、はじめにも書いたように、おそらく天皇家を中心とした開拓説話が主なものだ

ろう。したがって前方後円墳は、そこに記された天皇家の活躍舞台、つまり、古事記、日本書紀

のなかに地名が出てくるところには、ほとんどある。しかも、それが皇室を象徴する形であるな

らば、古事記や日本書紀の伝承も大きなまちがいではないと思う。

 そのなかで、関東地方の前方後円墳の分布には、一つの大きな特徴がある。北の方の群馬県に

もっとも古い古墳があるのだ。これにはわけがある。

 現在は東京が日本の都だから、私たちも関東地方の開拓は東京からはじまったと、つい思いが

ちだ。が、それは錯覚である。近世のはじめ徳川家康が東京の前身、江戸に入ったことはたいへ

んな冒険で、むしろ関東は鎌倉からひらけたところだった。家康が来るまでの江戸は、わずかに

江戸太郎重長という平氏の一族がいたところにすぎない。当時の武家政権にとっては、地形から

いっても江戸より鎌倉のほうが都合がよかった。なぜかといえば、鎌倉には東海道が通っている

からである。

 東海道は、今の茨城県、常陸が起点で、そこにあるのが鹿島神宮だ。関東の防人は「鹿島立

ち」といって鹿島神宮から出発していく。常陸、下総、上総、安房から海を渡り、三崎を経て鎌

倉、藤沢と相模の国を通って伊豆、駿河、遠江と西へいくから、今の東京を中心とした武蔵は、

この海の道、東海道に入っていない。だから『万葉集』にも、鎌倉などの歌はあるが江戸の歌は

ないのだ。

 江戸は東山道、のちの中山道に属する。木曽から木曽谷を通って信州へ出、信州から上野国

(今の群馬県) へ降りて下野国(今の栃木県)に進み、武蔵国(今の埼玉県) へ入る。その武蔵

の、いちばん南の端にあるのが江戸だ。これは東海道とは反対に、山の道である。したがって関

東平野の文化は、古墳時代になると最初、群馬県からひらけだす。その証拠に、前方後円墳は群

馬県にいちばん多いし、埴輪もほとんどがここから出ている。そのつぎが栃木県で、武蔵はもっ

ともあとだ。考古学では前方後円墳を前期、中期、後期と分けるが、武蔵には第三の、後期の古

墳しかない。

 たとえば多摩川の岸、今の二子玉川のところに丸山古墳がある。また上野公園にあるスリバチ
山公園にある丸山。
それらはいずれも、後期の前方後円墳である。

 昔は埼玉県と東京都が武蔵だが、東京都は実はローム層台地なので耕作がむずかしく、生産性

はいちばん低い。武蔵はむしろ今の埼玉県が主体であったから、古い時代には武蔵政争の舞台に

なった。その中心が今の行田市、かつての埼玉村である。埼玉は、武蔵国の魂、幸せの魂、幸き

魂からきたものだ。そういう地名ができるくらいだから、行田辺がやはり武蔵開拓の中心だった

らしい。東京に残る古墳などは、むしろその周辺地帯のものといっていいくらいだ。

 武蔵古代文化の中心、この行田市に、埼玉県は「さきたま風土記の丘」といって、古墳群を保

存するため、いわゆる史蹟公園をつくった。この風土記の丘は、埼玉ばかりでなく千葉県や宮崎

県などをはじめほうぼうにある。今まで点だった遺跡の保存を、こうした集団の形をとり、面で

保存しようというのだ。

 その一つ、「さきたま風土記の丘」に入っている古墳に、稲荷山という前方後円墳があった。

先年、ここから出土した一振りの鉄剣が、日本の古代史解釈に重大な鍵となったのである。
   足の下の日本史 ねむれる遺跡への旅  樋口清之


 

引っ越し好き文豪

 白樺派を代表する文豪志賀直哉(1883~1971)は無類の引っ越し好きで、生涯に20回以上も転居
を繰り返したと伝わります。風情ある町中が残る奈良市高畑町にある「志賀直哉旧居」では40~50
代の9年を過ごし名作 「暗夜行路」を書き上げました。

 妻子7人らと暮らしたこの家は、直哉自身が設計して1929年に建設。茶庭を中心にコの字型に展開
する木造建築で、数寄屋風の様式を基調にしつつ、食堂やベランダには洋風の要素を大胆に取り入
れました。武者小路実篤や小林秀雄など同時代の文化人らが集い、「高畑サロン」と呼ばれました。

 直哉が奈良を引き払った後は個人宅や米軍高官宅国の保養宿泊所などを経て、学校法人奈良学
園が8年に買い取り、2000年に国の登録有形文化財になりました。現在は一般公開され、同学園の
セミナーハウスに利用されています。

 直哉はこの旧居の前に住んでいた家も含め、奈良で計13年過ごしました。 大原荘司館長は「自
然と古い建物が融合した町並みに美や安らぎを見いだしていた。

自己を探求するには最適な環境だったのでしょう」と話しています。 
  2019-11-8 朝日新聞 (根本晃)



海石榴市(つばいち) 和田萃

 古代には三輪山の西南麓を海石榴市の(ちまた)と称していた。

チマタとは、道と道とが交わる所をいう。「チ」は道を意味するから、「チマタ」は「道の股」の

意で、三叉路や四つ辻を指す。中世になると、チマタに替って「ツヂ」という言葉が用いられ

るようになり、日本製の漢字 (国字という) である「辻」を用いた。

 海石榴市のチマタから道が四方に延びていた。先にふれたように三輪山の麓を北へ縫う
道が山辺の道である。三輪山南麓の初瀬谷を東へ進むと、宇陀をへて伊賀·伊勢に至った。
西方へ進めば二上山の麓に至った。この道は推古朝に整備され、中世には「横大路」と称
されるようになり、現在に至るまで利用されている。西南へ進むと、飛鳥、巨勢谷、宇智の
大野、宇智郡 (現在の五修市域) をへて、紀ノ川河口に達した。古代には「紀路」と称され、
中世以降、現代に至るまで「東 高野街道」と称されている道である。 

海石榴市の変遷

 海石榴市は谷口集落で、定期的に市が立ち、盆地部の幸と山間部の幸が交換された。
記紀』には海石榴市での歌垣もみえるから、市日に催されたのだろう。市日とは、市が立
つ日をさす。

中世~近世には、毎月の六斎日(八・十四・十五・二十三・二十九・三十日) に立つ市を、
六斎市と称した。また各地に残る二日市・三日市・四日市などの地名は、二のつく日 (二日・
十二・二十二日)、三・四のつく日に市が立ったところから、生まれたものである。

 市ではまた、見せしめとして刑罰の執行も行なわれた。『日本書紀』によれば、敏達十四年
(五八五) 三月、わが国で最初に出家した尼僧、善信尼 (司馬達止の女、嶋女)、禅蔵尼
(漢人夜菩の女、豊女)、恵善尼 (錦織 壷の女、石女) らは、仏法を信仰するとの理由で拘禁

され、海石榴市の宿駅で鞭打たれたことがみえている。

 三輪山西南麓は日当たりがよく、各種の椿が自生している。三輪 山南麓の桜井市慈恩寺
には、大神神社の摂社である玉列神社が鎮座し、境内では春先に種々様々の椿が花咲く。
その社名も、玉椿が「つらつら」と咲くことに由来するようである。海石榴市の地名も同様に、
「各種の椿が咲く場所に立つ市」に基づく。

 海石榴市にはまた河港があった。初瀬谷から奈良盆地に流れ込む初瀬川 (大和川本流)
は、三輪山の山麓沿いを流れ、磯城郡川西町吐田で佐保川と合流している。海石榴市の
河港では、大和川水運を利用する河舟が発着した。推古十六年 (六〇八) 八月、隋使
裴世清らの一行は海石榴市のチマタで歓迎を受け、飛鳥の小墾田宮に至った。
斑鳩付近から河舟に乗り、海石榴市の河港に至ったと推定される。推古十八年八月の

新羅·任那使らの場合も同様である。

 奈良時代までは、海石榴市は初瀬川の左岸(南岸)の桜井市粟殿(おうどの)付近だったら
しい。桜井市役所を中心とする一帯で、欽明天皇磯城嶋金刺宮の伝承地にも近い。
また近年、粟殿小字式嶋」を中心とする大規模な遺跡、式嶋遺跡では、六世紀代の整然と
配置された建物群が検、出されており、注目されろ。隋使裴世清らは海石榴市のチマタから
飛鳥に向かっているから、初瀬川左岸 (南岸)一帯に海石榴市があったとみるべきだろう。

 海石榴市が現在の海石榴市観音堂付近に移ったのは、私見では一〇世紀前半と想定し
ている。延長四年 (九二六) 七月十九日、大和国の長谷寺山が崩れて椿市に至り、人烟悉
(じんえんことごと) く流されたと伝えている (『日本紀略』))。長谷寺付近の山で土石流が発生
して初瀬川を塞ぎ、ダム化した後に決壊、下流域の海石榴市付近で甚大な被害が生じたの
であろう。この時期、長谷寺の観音に対する信仰が高揚しており、大神神社をへて初瀬川
右岸 (北岸) をとって、参詣する人々が増大していた。そうしたところから、初瀬川左岸にあ
った海石榴市は、右岸の海石榴市観音堂付近に再興されたと推測される。
  飛鳥の古社を歩く  和田萃



薬師寺

山田 三重塔の特徴は裳階(もこし)ですね。裳階をつけることによって、品の良さが出ています。
   あれ があることでもう何倍と違うほど、品がよろしいですな。

小川 あの裳階があるから素晴らしくいいんで、裳階をとってしまうと、か弱い建物なんですよ。
   法隆寺の裳階は少し違います。

山田 あそこは裳階が板葺きですね。

小川 普通の衰階は、仮のものです。しかし薬師寺は構造的に造ってあるんですよ、きちっと。

   だから最初から建物の一部として造られ、意匠も考えられてますな。

山田 その発想というのは薬師寺だけですよ。あとの時代の裳階はそうではないですよね。そ

   れ以外に、仏さんの台座にしても、薬師寺というのはさまざまな文化が集合してきて一つの
   形になった。そこに、国家的意味を持っていたという感じを受けますな。

小川 あの裳階を、修学旅行の生徒を案内されるときに、何と説明していたんですか

山田 高田管主は「スカート」と表現して、すかっと美しいというふうに言ってました。

小川 二重目、三重目の裳階のことは? 

山田 それはリズムだと。フェノロサが「凍れる音楽」と言ったというようにね。ああいうの

   を見ると、黄金率のパターンですよね。

小川 そうですね。ところで、いまの東塔の三重目は屋根の軒を切ってあるわけですね。

山田 いちばん上はね。だからこんど修理するとき、あれを伸ばすのか、伸ばさないのかって

   いうのはものすごく問題でしょ。これから委員会で詰めていきます。

小川 創建当時の長さに伸ばしていいのか。この建物が国宝だから、そのまま行くか、それは

   難しいことですね。自分たちは、西塔を造ったときには、元の長さに伸ばしてあるんです。

山田 あれを見ると伸ばさないほうがきれいに見える気がしますがね。東塔のバランスはあれ

   できれいやし、屋根の反りも美しいですな。

小川 高さは一緒ですから、東塔は軒を短くした分、屋根の勾配も急になっています。

   それが遠くからきれいに見える。創建時の三重目はあと一尺ほど長かったんだけど、
   これは持たないから後の時代に切ったんですな。それをこんどの修理で伸ばすとなると、
   こんどは垂木が持たないんじゃないか。

山田 裳階は樽でいうたらタガだと、西岡棟梁は言っておられました。要するに樽をつくると

   き、タガをちゃんと三段入れますね。そのタガですよ。だから塔ががちっとしている。

小川 裳階のタガがなかったらば、もうだめですよ。どらぐらでしょうね 

山田 それを、美を感じるタガにしたところがすごいということやと思います。

小川 そうですね。東の塔を解体すると、様々なことがわかってきますな。西塔再建では初重

   は壁やなくて格子にしました。調べた上ですが、本当のものはわからない。本数が少し
   違うかもしれません。


   宮大工と歩く奈良の古寺  小川三夫 山田法胤

二つの塔の意味

小川  法隆寺のは、舎利を入れて、ストゥーパそのものだとすれば、まあ一塔でわかる気が

    するんですが、薬師寺の二塔というのは?

山田 お釈迦さんの生涯を八つに分けているんです。「釈迦八相」といいます。塔を二基造る

   と、八面になりますからそれに対応しますね。

   東の塔はお釈迦さまの因縁の因相、西の塔はそれの結果、果相です。これは絵じゃなし
   に彫刻です。お母さんの胎内へ入った「入胎」。それから「受生」というて、分娩のことね。
   それから「受楽」。これがお城の生活。この生活に疑問を感じて出城です。そこからこんど
   「苦行」。

   そこまでが東塔なんです。それでこんど「成道」「転法輪」「涅槃」「分舎利」と。で、薬師寺

   には塔を二つ造るのが原則なんです。



遷都が遺したもの

山田 この近くを流れる秋篠川は堀川といって、七一○年藤原京から平城京平城宮跡へ都が遷るとき、

   運河として使うためにつくったものなんです。それが薬師寺のすぐ近くを通って、秋篠まで行

   っています。だから秋篠川は、藤原京からずいぶんモノを運んどるんですね。平城京から遷す

   ときも、長岡京へずいぶん運んどるわけです。

小川 都を遷すというときは、建物も解体して持って行ったんですね。材料もそんなにたくさ

   んあるわけじゃなかったですから。

山田 それは貴重で、再利用しているんですね

小川 瓦なんかも回して使っています。都を作るんですから建築資材はたくさんいるし、そう

   簡単に加工できませんでしたから、非常に貴重なものだったんです。

山田 七八四年に長岡京へ遷って三年経ったら、平城京はペんぺん草が生えて、十年後には田

   画になっていたというんですよ。

小川 そう、何にもなくなるんです。建物もなくなるし、人もいなくなるんですよね。

山田 それで全部新しい都へ。都へ行かないと、生活できないですから。それで居残ったのが、

    寺と、赤膚焼の一部だったんですね。ほかの陶房は全部京都へ行ったわけです。

小川 寺だけ見ると、話が特殊に思えるけど、文化全部が移動して歩くんですな。

山田 奈良のときは、藤原京から全部移動して来ているんですよ。ところが京都へ行くときに

   は、奈良の文化を受け入れたくないというので、もう足止めしているんですよ。その代わりに

   最澄と空海を前面に出した。だから奈良はずいぶん冷飯を食ったという感じがわかりますよね。

   それで「南都北嶺の争い」になってしまうんです

   だから「南都」という言葉は、僕らはええ言葉やと思っていますけど、京都の人にすると、

   たぶんもう古びた田舎の町という、そういう意味があったんじゃないですか。「南都」という

   のは過去の都。でも、過去の都として残ったから、今日までになっていますけれどもね

小川 それでいい物も残りました。

山田 京都の文化は統一されてるところがあるんですね。彫刻にしても、花鳥風月の絵にして

   も。奈良にはそういう統一性はないです。東大寺は東大寺、法隆寺は法隆寺、薬師寺は薬師寺。

   そのへんは非常に違いますね。

   だから飛鳥文化や、白鳳文化やって言いますけど、京都なんかは、鎌倉か、室町か、平安か

   って、わかりにくいですよ。江戸までずーっと一緒ですから。

   京都と奈良のいちばんの違いは何ですかって言ったら、京都は鎖国してしまったのに対して

   奈良は国際交流が盛んだったということですね。 
  宮大工と歩く奈良の古寺  小川三夫 山田法胤



日本の文化の特性

小川  奈良の文化の基本は、各地から入ってきた文化の合流ですな。

山田 ほんとうにね、日本人というのは、中国やヨーロッパの文化が入ってきても、それを見

    事に消化して、向こうから伝わったものよりずっと良いものをつくるんですよね。

小川  やっぱり日本人の素晴らしさでしょうな。たとえば向こうから建築の文化が来たと。

    しかし法隆寺を造ったときでも、向こうの建物の真似ではないですよね。向こうの建物はどうし

    ても雨が少ないから、軒が短い。しかし日本は雨が多いから、その気候風土に合わせた軒の深

    い建物。基壇を高く上げて、湿気から守ろうとする。そんなことは教えてもらってないんです。

    瓦をつくる技術は向こうの技術を学んだけれども、造り方は、日本の気候風土に合わした建物

    を一気に造ったと思います。

     これは日本人が素晴らしい感覚を持っていて、絶対にサル真似じゃなかったと思います。ち

    ゃんと咀嚼して、造り上げたと思う。それぐらいの人たちだから、奈良の都も出来たんだと思

    うんですよ。そういう匠というか、技術はわからなくても、土や石、草木、といった素材にも 

    のすごく慣れ親しんだ人がいたから、やっているうちにすぐにヒントを得て出来たんでしょう。

    ものを動かすこともできたんだと思うんですな。本当にすごいと思いますよ。あれだけの石

    を動かして。

山田 応用力があったんですね。

小川 創意工夫もありますしね。

山田 正倉院展というものをとってみても、それを感じます。正倉院展というのは終戦直後が

    第一回目なんです。戦争中に、正倉院が爆撃受けたら壊滅するから、奈良国立博物館に疎開さ

    したんですよ。幸い爆撃されずに済んだので、せっかくだから一度公開したいと宮内庁へ相談

    したら、それはいいんじゃないかというので、初めて公開したんですよ。

    そうしたら毎日、七千人以上もの人が遠方からはるばる徒歩で来たんです。

小川 それは文化国家やなあ。

山田 それを見た人たちが、みんな自分たちの先祖の文化に感動したっていうんです。こんな

    すごい技術を持った日本民族が、戦争に負けたぐらいで滅びることはないって、みんな思った

    っていうんですね。これが、戦後の日本を支えるのにものすごく強く働いた。だから精神文化

    というのはやっばり、物質文化を超えますよ。

小川  自分は大きな建物から修業が始まりました。薬師寺でこのでっかい建物を造らしてもら 

    ったことが、ものすごい経験になったんですよね。小さいのを見たら、平気で造れるようになる。
    その未熟なとき、修業のときに、この大きなものをやらしてもらったというのが最高です

    ね。奈良時代の大工たちも、ここで勉強したんでしょうな。

山田  奈良で勉強した人たちが、奈良で止まってないで、半分以上は帰っています。それがこ

    んど地方を発展させていくというかたちで、日本という国は広がったんですね

 

  宮大工と歩く奈良の古寺  小川三夫 山田法胤




転害門(東大寺)

 この威厳のある門はいいですなあ。奈良時代のものです。

 壇正積みの基壇の上に堂々と建ってます。

 正面三間、側面二間。天平尺で、正面が二十尺、脇間が十八尺、ですから正面は五十六尺。

側面も十四尺あります。メートルに換算して正面が約十七メートル、奥行き八·五メートル。

 太く立派な柱が表に四本、裏側に四本。八脚門(やつあし)として最大です。

 柱間が広い分だけ、がっしりした柱と貫で支えていますね。その柱がいいんです。宮大工の

口伝に『木は生育の方位のままに使え』というのがあります。

 木を使うときに、南向きに生えていた木は南向きに、山に生えていた方向のまま据えなさい

という意味です。一本の立木をよく見ますと南側には太陽の光を求めてたくさんの枝が出ます。

北側は少ないものです。枝の根元は長く伸びる枝を支えるためにがっしりとしています。それ

は材になったときに節になります。ですから南側をそのまま柱に据えますと節がたくさんある

方が表に出てきます。

 転害門の表の一番右(門に向かって)の柱を一度見てみてください。

 長い年月と風に曝されて枯れた木の肌をしています。風雪に耐えた木の味というのはそのま

までも心をうつものがありますが、そこに浮かび出ている節が幾つもありますね。その節を取

り巻く、木の繊維が急流の渦のようにも見えます。そうした節が幾つも飛び出しているのがこ

の柱です。木の意志が伝わってくるような柱です。

 何でこんな無骨な節のある柱をと思いますが、口伝のとおりに使っていたのだと思うのと同

時に、穿った見方をすれば、腕の立つ工人がこの暴れん坊な木をうまく納めたその腕を「どう 

だ」と見せたかったのかなとも考えました。

 現代の電動工具がたくさんある時代でも節の処理は大変です。当時の未熟な道具で、節を
処理するのは並大抵なことではなかったのだと思います。

そんな木に挑む工人の気持ちも思い浮かばせる柱なのです。

 この門の良さは側面の妻飾りにもあります。

 天辺をまるく削った柱の上に頭貫(かしらぬき)が通っていますね。柱の上には枯れた大斗
(だいと)が乗り、底に桁の尻が三本ずつ伸びて重なっています。その尻は木鼻になっていて
上ほど長い。頭貫の上に一本の梁が通り、その上を二つに分けて二個の斗で虹梁(こうりょう)
が。

虹梁の上に面白い形の板慕股が乗り更に虹梁を重ね、その虹梁の上に板慕股が来て棟木を
持ち上げてます。

 年月に曝された虹梁の枯れ味、老いながら筋を張った力。慕股の巧妙さ、剽軽(ひょうきん)
さと相まっていい味です。

 突き出た木鼻、どれも簡素ながら時代の美を表しています。

 無骨に感ずるほどの木組みなのに、どこかその気負いをかわす洗練されたものを感じます。

私の好きな門です。
  宮大工と歩く奈良の古寺  小川三夫 山田法胤



伎芸天像(秋篠寺)

 火災のときに大きい仏像は救出できなくて、頭部だけ救出したものもあるそうです。伎芸天

像もそうでした。頭部は天平時代のままで、首から下は鎌倉時代に入ってから改めて補われた

んだそうですが、まったく一体の仏像として、違和感がないですな。とってもいいですな。

 創建当時の感じを残した建物を再建した大工の技。仏像もそうです。天平の仏像の頭部に鎌

倉の体ですが、素晴らしい技術で補ってくれていますね。鎌倉の人がすばらしかったんでしょ

うな。この頭部を見てこの形を思い浮かべることが出来て、それを造り上げる力があったんで

す。

 文化財の仕事をするときでも、私たちは復元修理するなら、当時のものと同じものを造れる

能力がなかったら、やってはいけないと思っているんです。そうでなければ、失礼です。それ

ほど後の時代の修理というのは難しいものです。

 ここを見ると、鎌倉の工人も仏師も相当な力のある人たちだったと思います。伎芸天像の胴

をつくった人は、この頭部を同じようにつくる力の持ち主です。ほんとに凄い。いいですなあ。

 技だけでなく、すぐれた感受性がないとこうはいかない。 

 良い建築は、みな後の補強が上手いんです。古建築を見るときには、解説に書かれた年代を

そのまま鵜呑みにせず、創立時の感覚を感じ取り、それを受け継ぎ補修·建て直しした後の時

代の仕事というのを見分けながら、その合作としての建物を素直に感じとられるといいですな。

  宮大工と歩く奈良の古寺  小川三夫 山田法胤




六御県ー古代天皇家の基盤ー 奈良県内各地

 今から二千七百年余り昔、大和平野の南、畝傍山の麓に、小さな国が誕生した。その国の王は「神 倭伊波礼毘

古」という。後に「神武天皇」と諡名される日本の初代天皇その人である。

 南九州の日向の地を出発して東を目指したイワレビコは、瀬戸内海を東進し、大阪湾に入ったが、生駒山の土着勢

力であった那賀須泥毘古に行手を遮られた。やむなく、紀伊水道を南下、熊野へ迂回し、熊野の山中より吉野を抜け

て宇陀より、大和平原へ出る。何度も生き死にの目に遭いながら、苦労の末に、大和の橿原の地において。初代天皇

として即位した。

 イワレビコが大和平原に入った頃、この地には、六つの御県 があり、それぞれ「御県坐神」がいて、それぞれ

に奉斎する豪族(県主)がいた。それは、高市·師木(磯城)·葛木(葛城)·十市·山辺·曽布(添)の六つの県 で

あった。この六つの御県の最大勢力こそ、大和なす大神大物 主 大神を斎き記る師木県主(磯城) 一族であった。今も

神体山三輪山の麓に、日本最古の神社とされる大神神社が鎮座する。その師木(磯城)県主一族がイワレビコに最初

に服属し、イワレビコを強力に援助し支えたのである。

 『古事記』によれば、この師木(磯城)県主一族が奉斎する大物主神は、この新参者であるイワレビコに自らの娘を

妃として与えた。これが初代皇后伊須気余理比売である。イスケヨリヒメは、「神の子」と呼ばれた神聖な女性であ

る。この女性を皇后に迎えることによって、イワレビコは、大和の天皇として不動の地位を得たのである。

 以後、第二代緩靖天皇、第三代安寧天皇、第四代懿徳天皇の皇后は、いずれも師木(磯城)県主家の女性が立って

いる。このことは、師木(磯城)県主家の服属を意味する。

 初代天皇が宮を置いた橿原の地は、高市御 県と言う地であった。初代は、この地を本拠として、東に隣接する師

木(磯城)御県を押さえたのである。

 次の第五代孝昭天皇の皇后は、西の 葛 城御 県 を本拠とする尾張

連の 女 余曽多本毘売 命 である。これは、葛城御県の服属を意味す

る。

 次の第六代孝安天皇の皇后は、天皇の姪である忍鹿比売 命 で、

天皇の同族から選ばれた。

 第七代孝霊天皇の皇后は、六御県のうちの十市御県の県主の女

細 比売である。

 次の第八代孝元天皇の皇后は、穂積氏の女内色許売 命 である。

穂積氏は、物部氏と同祖であり、この両氏の本拠地は、今の石上神

宮の鎮座する地、すなわち、山辺御県にあった。

 第九代開化天皇の皇后は、やはり穂積氏の女、先帝孝元天皇の妃

である伊迦賀色許売 命 で、第九代崇神天皇を生む。また、この天

皇には、遠く北の丹波国より竹野比売が妃として上っている。 

 以上、天皇家の創業の時代、初代から第九代の皇后や妃の出身地は、ほとんどが大和平原のうち、とりわけ、六御

県出身の女性に限られているのである。この御代の天皇の都(宮)もまた、大和平野を出ることはない。

 古代大和平原に誕生した天皇家は、御県を一つ一つ掌握しながら、南から北へその地盤を拡げていった。その方法

は、武力によるのではなく、その御県の神を祀る女性を皇后や妃に迎える、すなわち結婚という方法をとったのである。

 この御県の神こそ平安朝の延喜式神名帳に特筆される「六御県に坐す皇神(すめがみ)」である。それは、

  高市御縣神社

  志貴御懸坐神社(志貴は、師木·磯城とも記す)

  葛木御懸坐神社(葛木は、葛城とも記す)

  十市御縣坐神社

  山辺御縣坐神社

  添御縣坐神社(添は、曽布とも記す)

 の六つの神社であり、いずれも「大社」に列せられている。

 「延喜式」祈年祭祝詞(としどいのまつりのりと)には、

  「御 縣に坐す皇神等の前に白さく、高市,

  葛 木·十市志貴·山辺曾布·と御名は

  白して、この六つの御賑に生り出づる、甘

  菜·辛菜を持ち参ゐ来て、皇御孫の命の長御

  膳の遠御膳と聞しめすが故に、皇御孫の命の

  うづの幣吊(みてぐら)をたたへごとおへまつらく」と宣る。

とあって、平安時代には天皇家の内廷直轄領と

なっていた。

 倭国六御県は、古代の大和大王達が、聖なる御

県の女性祭祁者達を結婚という方法で同族化し、

大和平原を掌握した経緯を物語る舞台となった地である。

 なお、この第二代から第八代の天皇の名前には、国作り神話が凝縮されているという説がある(高崎正秀「文学以

前」)。第二代から第九代の天皇の名は、次の通りである。

  神沼河 耳 命 (二代)          ヌナカワのヌは、翡翠(玉)

  師木津日子玉手見 命 (三代)     玉

  大倭日子鉏友 命(四代)       鉏(すき)

  御真津日子詞恵志泥 命 (五代)   香稲(カエシネ)= 聖なる稲

  大倭 帯日子國押 人 命 (六代)   国を押す(開拓する)

   大倭根子日子賦斗邇命 (七代)   フトニは、立派な玉の意

  大倭根子日子国玖琉 命(八代)    国をたぐり寄せる= 国引き= 国を広くする

  若倭根子日子大毘々命(九代)    偉大な太陽(日々)

 この天皇の名前のうち、「大倭日子」「大倭帯日子」「大倭根子日子」「若倭根子日子」という称号は、後に付けられ

たもので、それらを取り除くと、沼河(二代)、玉手見(三代)、鉏友(四代)、詞恵志泥(五代)、國押人(六代)、賦斗邇

(七代)、 國玖琉(八代)、大毘々(九代)となる。こうした名前は、聖なる玉や鉏、稲を持って営々と国土を開発してき

た神話を内包しているのである。

 『古事記に記された初代神倭伊波礼毘古からこれに続く八代の天皇と皇妃の系譜は、初期の大和の天皇家が、大

和盆地の土着豪族の女性達との結婚によって大和盆地を内廷化していった経緯を物語っている。その女性達の本貫地

は、後に、「大和の六御県」となり、天皇家の内廷直轄領となって延喜式神名帳に特記される。

 この六御県 (高市·葛木·十市·志貴·山漫·曾布)こそ、大和天皇家が、大和の皇権を確立する基盤(初国)となった。

この基盤作りを経て、即位した第十代崇神天皇を「初国知らす天皇」と称える由縁は、ここにあるのであって、この

八代の大和盆地の六御県の掌握こそが、天皇家が、全国を統一するための足がかりとなったのである。
  大和の歴史と伝説を訪ねて 丸山顕徳



聖徳太子と達磨寺

 北葛城郡王寺町にある達磨寺(臨済宗南禅寺派)は、聖德太子達磨大師による片岡飢人(きじん)伝說から建立された
寺院です。

 『日本書紀』推古21(613)年に記されるその話は、聖徳太子が片岡で道に臥せっている飢人を見つけ、食べ物と飲み物、
それに自分の衣を与えて助けたところから始まります。助けた飢人は亡くなり、太子が墓をつ くって埋葬し、後日、太子が
「あの飢人は聖なる人だ」と言うので見てみると、埋葬したはずの遺体が消え、太子が与えた衣が棺の上に畳んて置かれ
ていました。

 その後、太子信仰によって、この伝説にする飢人が、実は達磨大師の化身であると考えられるようになりました。今も本堂
の下には達磨3号墳といわれる円墳が残っています。これが太子が助けた飢人(達磨)の墓であるとされ、鎌倉時代の初めこ

ろ、達磨の墓の古墳上に堂塔が建てられ、聖徳太子像と達磨像が安置されて、達磨寺が誕生しました。

 ほかにも王寺町には、聖徳太子の愛犬とされる雪丸の石造物や、太子築造という芦田池、太子の送りの使いと迎えの

使いが昼飯時に落ち合ったという「送迎(ひるめ)」の地名など、太子伝承がたくさんあります。

360度のパノラマが広がる明神山から聖徳太子に思いをはせてみるのもおすすめてす。

達磨寺

 境内の石造雪丸像は、王寺町指定有形民俗文化財。聖徳太子の愛犬とされ、人の言葉が理解でき、お経も読め、遺言し
て亡くなったといい、この石像が元旦に吠えると、その年は豊作に恵まれるといわれています。

 王寺町のマスコットキャラクターの雪丸は、この石像がモデルです。
  県民だより 奈良 2021-7月号より




山邊御縣坐神社

  飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば

     君があたりは 見えずかもあらむ

              元明天皇巻一(七八番歌)

  飛ぶ鳥の明日香の里を後にして去ってしまったら、

  あなたのいる辺りは見えなくなってしまうだろうか。

 

長屋の原にて

 『万葉集』のこの歌の題詞によると、和銅三(七一〇)年二月、藤原宮から寧楽宮(平城宮)へ遷った時、御輿
を長屋の原に停め、古郷の方を振り返り遠望しながら作ったのがこの歌で、作者については「太上天皇の御

製」と記す書物がある、とあります。和銅三年は平城遷都の年で、当時の天皇は元明天皇です。『続日本紀
によると、元明天皇は同年正月に大極殿で年頭の儀式に臨み、三月に平城宮へ遷都しました。最近の発

掘調査により、同年には平城宮の大極殿が未完成であったことが分かっていますので、元明天皇は藤原宮
の大極殿で正月の儀式を行い、題詞にあるように二月に藤原から平城へ行幸し、三月に平城宮で遷都を宣言
したということになります。なお、題詞には太上天皇の御製とありますが、和銅三年当時には太上天皇は存在

しませんので、元明天皇が和銅八(七一五)年に退位して太上天皇となった後に題詞が付けられたことが

分かります。

 藤原から平城へ向かう元明天皇 の御輿が停まった「長屋の原」は、当 時の行政地名で言うと大倭国山邊

郡長屋里、現在の天理市西井戸堂町·東井戸堂町付近にあたります。

同地には古代の幹線道路である中ツ道が南北に走っており、元明天皇の行幸は中ツ道を利用したとみられ

ます。ここは藤原と平城のちょうど中間に当たり、中ツ道の休憩地点であったと考えられます。この付近か

ら南の方角を望むと、飛鳥·藤原の一帯は遠くに見える山並みの麓辺りとしか分からず、はっきりとは見え

ません。この地で御興を停めた元明天皇は、夫の草壁皇子、子の文武天皇が共に眠る飛鳥の里がまもなく

見えなくなってしまうであろう当地でこの歌を詠み、古京の飛鳥·藤原に別れを告げ、新京の平城で始まる

新たな時代へと気持ちを切り替えようとしたのでしょう。
  県民だより 奈良 2021-6月号より  (本文万葉文化館 竹内 亮)


山邊御縣坐神社(やまのべのみあがた にいます)

(天理市)

元明天皇が御輿を停めた長屋の原付近には、中ツ道(現在の県道五一号線)沿いに山邊御縣坐神社がありま

す。山邊御縣は古くからの皇室直轄領である倭六御縣の一つで、この辺りは古くから天皇と縁の深い土地でした。


朝倉宮はいずこ?

 661年、百済救援のため、筑紫にやってきた斉明天皇は新しく築かれた

朝倉宮に入った。しかし、天皇は、突然崩御したため、官はわずか3ヶ月

でその幕を閉じた。その朝倉官の所在地はどこか?これまで、宮の伝承

を根拠に、福岡県朝倉市域内が定説とされてきた。この頃、水城・大野

城によって護られたた地域が造られた。後に大宰府政庁が設け

うれた太宰府市域である。実は太宰帝に朝倉官の記憶が伝承され

ていたことがわかってきた。ここも候補地の一つとなる可能性が高い。



明治時代における石上神宮の変容ー「七支刀」ー

2018-12-1 山の辺文化講座  大阪大谷大学·天理大学非常勤講師 藤井 稔

1 はじめに
  石上神宮 奈良県天理市布留町に鎮座。記紀などで伊勢神宮とともに神宮と称される。
         石上振神宮・石上布都御魂神社·石上布都大神社。岩上大明神·布留大明神・布留社·
         石上社とも称す。

         古代→大和王権と関係(武器庫)・神庫·刀剣祭記· 正殿·伴佐伯殿

  「七支刀」 国宝。石上神官の神庫に伝来し、6月30日の神事で神体として渡御

         左右に剣身が3枝技ずつある特異な形状·金象眼された61字乃至62字の銘文

         の『日本書紀』神功皇后52年条記載の「七枝刀」と推定。

         「七支刀」の銘文は、 剥落等によりすべてが明確に判読できるわけではない。

         平成18年(2006) 復元実験に基づく、鋳造による製作説

  菅政友   水戸の彰考館出身の修史事業に関わった学者。 明治6年(1873) から同9年ま

         で、石上神宮大宮司。在任中に「七支刀」の銘文を発見し、「七支刀」 という

         名称を最初に用いた。禁足地も発掘。

         文久元年(1861) に、彰考館所蔵の石上神宮と大和神社に関する実地調査報告

         書である『石和見聞志』を書写

2 嘉永3年(1850) の石上神宮における盗難事件

① 大和で「帝陵」を盗掘していた盗賊たちが、嘉永3年に石上神宮の禁足地を盗掘し、神庫か

   ら刀身や甲などを盗み出しただけでなく、小狐丸を偽物と入れ替えるという事件があった。

② 神庫からの盗難事件に関して石上神宮から奈良奉行所へ提出した文書の控から、 例年六月晦

   日に神田や布留川の川上に出御する十握御剣すなわち「七支刀」を、石上神宮では神体とし

   て崇めて、社人も平生は手を触れなかったことや六月晦日の出御にあたって守護する社人は、

   三目前より別火で身分清浄にしたことなどがわかる。

③  石上神宮の記録などから、菅政友自らが石上神宮在任中に小刀で「七支刀」 の錆を落として、

   銘文を発見した時期は禁足地発掘より前の、明治6年(1873) 11月から同年12月までの間と推

   定できる。この発見は、 禁足地を盗掘した盗賊たちが、神庫から刀身や甲などを盗み出した

   だけでなく、小狐丸を偽物と入れ替えるという小細工まで行い、 石上神宮側がしばらくその

   小細工に気が付かなかったことが影響を与え、「七支刀」 などの刀剣の点検を菅政友が特に

   念入りにした結果と考えることもできる。

3 明治維新による石上神宮の変容

   明治維新による神仏分離、 国家神道化により、 神仏習合を示す建物や宝物並びに行事が明治

   変容しただけでなく、石上神宮では神社組織も大きく変容した。

① 石上神宮は人事的に在地と断ち切られ、在地の伝統的な信仰を無視しうるようになっていた。

② 禰宜、年預、還俗人の三者の対立や明治四年の教部省達で、 六月晦日の神事が行われなくな

   り、「七支刀」が神体として渡御していなかった。

4  菅政友による銘文研究

① 政友は、銘文を発見した時に、「七支刀」と釈読したのではない。

②  星野恒の「七枝刀考」 (明治25年 1892)によって、『日本書紀』の「七枝刀」との関係に

   注目することによって、政友は銘文模写から「七支」と釈読した。

③  日本の勢力が朝鮮に及んでいたことや任那の考証のために、「七支刀」の銘文模写から予断

   に基づく恋意的な釈読を行っていたことも推定できる。

④  「六又刀」という名称も政友が初めて用いたことがわかる。

5  従来の「七支刀」研究の問題点

①  『日本書紀』神功皇后52年条記載の「七枝刀」と「七支刀」(「六叉鉾」)とを初めて結

   びつけたのは、星野恒の「七枝刀考」である。この論考では「六叉鉾」の形が「左右各三枝

   アリ、中鉾ト共ニ七箇ニシテ、七枝ノ称ト相合ス」ることから、「疑ラクハ或ハ即チコノセ

   枝刀ナラン」という推定をしている。つまり銘文ではなく形状から「七枝刀」と結びつけた

   のである。しかし、「中鉾」を「左右各三枝」と同様に「枝」とすることには問題がある。

②  銘文からは明確に判読できないのにもかかわらず、「泰和」.「七支刀」 「百済王」

  「倭王」などの釈読がなされた背景には「七枝刀」と「七支刀」と結びつけていたことがあ

  ったと推定できる。

③ 銘文の釈読とその解釈に注目するあまり、伝世品である「七支刀」が明治以前の石上神宮に

   おいてどのように扱われてきたかについてはあまり検討されなかった。

6 明治初期以前の「七支刀」

① 「七支刀」は、石上神宮の信仰と結びついた神剣であった。

② 「七支刀」は、「布留神剣」とも称され、木枠に柄とともに差し込まれ、その上から「布留

  社御剣袋」という錦袋で覆われ、さらに、しでと鏡とをつけられた、鉾のような姿で神庫

  の中にあり、六月三〇日の神事にも出御していた。

③ 「七支刀」は布に留まった剣の伝承並びに若宮出雲建雄神社の縁起と関係があり、布留神剣、

   若宮出雲建雄神、草薙剣、日の谷にあるハツ岩という磐座、 神宮寺などとも結びつく。

④  『石上布留神宮略抄』によれば、「七支刀」は貞観5年(863) 以降に神主の邑常が夢で見た

   草薙剣を新たに模して作られたことになる。

7 石上神宮の「七支刀」 や禁足地を調査することを菅政友に可能ならしめた二つの要因

①  「帝陵」盗掘を行った盗賊たちが嘉永3年(1850) に石上神宮の禁足地を盗掘し、神庫から

   刀身や甲などを盗み、小狐丸を偽物と入れ替えるという小細工をしていたこと。

②   明治維新により、 石上神宮において神社組織の変容があり、人事的に在地と断ち切られ、在

   地の伝統的な信仰を無視しうるようになっていたこと

8  まとめ

① 明治維新による石上神宮の変容が、菅政友による「七支刀」 銘文の発見につながった。

②  明治時代になされた、菅政友の銘文釈読に間題があり、通説の釈読にも検討付の余地があるの

   であるから、もう一度、政友の釈読以前に戻って検討することも意味があるといえる。

③ 『石上布留神宮略抄』によれば、「七支刀」は直観5年(863) 以降に神主の邑常が夢で見た

   草雑剣を新たに模して作られたことになることも、銘文の釈読の際には考慮すべきである。

   ただし、江戸時代の文献に草薙剣や布に留まった創などとの関係が記されていても、それは

   「七支刀」本来の記録や伝承が失われた後に作られた。新たな伝承にすぎない可能能性か残って

   いる。六月三○日の神事に出御していたのは 本来は別の剣であったのが、何かの事情で、

   「七支刀」に変えられた可能性もある。このような可能性は留意しなければならないが、『日

   本書紀』の神功皇后52年条に記された「七技刀」の束縛や先入観から離れた、「七支刀」研

   究並びに、その銘文の釈読をするためにも、先の視点は重要と考える。



自害峰(じがいみね)

「不破関資料館」より徒歩で中山道を西へ約10分ほど進むと、小高い丘の中腹

に「自害峰(じがいみね)」があります。 壬申の乱にて大友皇子は、大海人皇子
に追い詰められ、 大津の長等山で自害しました。大海人皇子方の将、村国男依
は、その首を持って大海人皇子本営の 「不破の野上行宮」に凱旋したといわ

れています。大友皇子の御首は首実検の後、 地元の人々が貰い受けこの丘に葬

られたそうです。そのしるしにこの場所に三本杉を植え、 ここを「自害峯」と

しました。その後、 明治時代に宮内庁などが調査を行い 「弘文天皇御陵候補

地」と認定されました。杉の大木が立っている様は、 実に荘厳な雰囲気です。