岩船寺縁起

 創立は天平元年(七二九)、聖武天皇が出雲の国不老山大社に行幸の時、霊夢によって、この

地に阿弥陀堂の建立を発願、大和国善根寺に龍居しておられた行基に命じて建てられたの

に始まる。その後、弘法大師と智泉大徳が阿弥陀堂において伝法灌頂を修せられたため、灌頂

堂となる。

 大同元年(八○六)智泉大徳、新たに報恩院を建立される。更に嵯峨天皇が智泉大徳に勅命し

て皇孫の誕生を祈願され、皇子が誕生された。

後の仁明天皇である。皇后ご叡信が特に深く、皇孫誕生のこともあって弘仁四年(八一三)に堂

塔伽藍が整備され、寺号、岩船寺となる。

 最盛期には四域十六町の広大な境内に三十九の坊舎があり、その偉容を誇っていたが、承久

の変(承久三年·三二一)によって大半が焼失した。その後、再興された堂塔も再度の兵火に

よって次第に衰え、江戸時代初期の寛永の頃(一六二四~六四三)には本堂、塔、坊舎、鎮守社

等、十棟程度になる。当時の住僧文了律師はこの荒廃ぶりを痛くなげき、自ら世上に出て訴え

続け、ご勧進と徳川氏の寄進とによって、本堂や本尊の修復を成し遂げられた。

 そして、江戸時代の本堂も老朽化のため五ヵ年計画で本堂再建事業を進め、昭和六十三年(一

九八八)四月二日落慶し、現在に至る。

 三重塔は天長二年(八二五)智泉大徳入滅の後、十年を過ぎて承和年間(八三四~八四七)に、仁

明天皇が智徳大徳の遺徳を偲んで宝塔を建立されたものであると伝えられる。

 十三重石塔は正和三年(一三一四)に、妙空僧正の造立と伝えられる。

 石室不動明王立像は応長二年(一三一二)二月、塔頭湯屋坊の住僧盛現が眼病に苦しみ、不動明

王に一七日間の断食修法をされ、成満日には不思議にも眼病平癒された。そして報恩のために

自ら不動明王を彫刻安置し、入滅の時「我が後生の凡俗にて眼病に苦しむ者あれば、必ず岩船

寺の不動明王を祈念せよ。一七日間に祈願成就する」と遺言され、今日に至るまで霊験にあや

かろうと多くの参拝がある。

三重石塔
 初重の4面に、刻まれた梵字は、金剛界四仏(阿しゅく・宝生・阿弥陀・不空成就)をあらわしている。
左には、前面左右に2本の角石柱を立て、その上に寄棟造りの一枚屋根が乗っている。中は地面より低く
してあり、清水をたたえ、奥壁には不動明王立像が彫ってあり、像の両側に「応長第二初夏六日」
「願主盛現」の名がある石室不動明王がある。ちなみに応長2年は1312年である。その左横には地蔵堂、
そして左には、寺伝では東大寺別当平智僧都の墓といわれ、もと岩船村の北谷墓地にあったものを移した
五輪塔(火輪の隅が反っていること、台座の下に基礎石を一段二段とめぐらすのが、近畿地方における鎌倉
時代の五輪塔の特色といわれている。)