東大寺地図

 東大寺は、全国国分寺の総本山に位置づけられ、聖武天皇が鎮護国家の象徴として発願した
大仏を本尊とする大寺院である。
 東大寺の別名大華厳寺の扁額。
鎌倉時代の仏教書にあったと記され、数百年以上失われていた。
横4.5m縦1.65mの総檜で、寺を創建した聖武天皇の写経から文字を集めた。
2008−10−13に掲げられた。
華厳宗大本山
金剛力士阿形 国宝 
木造(檜)運慶・快慶作
南大門(国宝)  金剛力士吽形 国宝
 木造(檜)運慶・快慶作
 建仁3年(1203)、像高985.9cm阿形(左・西)、987.8cm吽形(右・東)、が相対して立ち
向き合っている。木造。運慶が統率。快慶、定覚運慶の長男湛慶が加わり製作。像内から見つ
かった資料から、わずか69日間で完成したことがわかっている。小さな木を組み合わせる寄木造
りという手法により、貴重だった部材の無駄を省き、短期間での造像が可能となった。3000にも
及ぶパーツが組み合わせられている。 
運慶⇒⇒⇒
 阿吽の東西位置関係は通常の逆で、向き合う姿も異例である。昭和・平成の解体修理では、
阿吽合わせて4年余りの年月を費やした。
 東大寺は、聖武天皇と光明皇后が1歳に満たない皇太子を失った悲しみから生まれた。
神亀5年(728)に菩提を弔う山房が開かれて、大寺へと変容する。法華寺⇒⇒⇒
 
 東大寺南大門(国宝)五間三戸二重門入母屋造、木造、本瓦葺、鎌倉時代

 東大寺の正門で、東大寺伽藍の大半が治承4年(1180)の平重衝の兵火に罹って焼失した。後に行われた復興造営の一つとして建てられた。
 大勧進の職に就いて復興造営の総指揮を執った俊乗房重源上人が、宋朝建築の特色を採り入れて編み出した大仏様の建物で正治元年(1199)6月に上棟されており、その後数年を経ずして落成したと考えられる。
 門内に安置されている木像金剛力士(仁王)像は運慶・快慶・定覚・湛慶等20名の慶派の仏師たちが建仁3年(1203)に僅か69日間で造り上げたものである。
山門の比較⇒⇒⇒
南大門
鹿は観光客に
煎餅をねだる。
伽藍配置⇒⇒⇒
奈良・世界遺産⇒⇒⇒
南大門を入り、
中門、大仏殿と続く。
多聞天 中門(ちゅうもん) 持国天
 兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)
 大仏殿江戸再興期、享保元年(1716)9月に至って、大仏殿中門と南面の
東西回廊が完成し、京仏師山本順慶が一門を率いて中門安置の持国天・
多聞天 の二天の一丈三尺の像を造立し、同年4年(1719)正月6日に開眼
供養が行われた。
 毘沙門天は、多聞天の原語に相当する音写で、多聞天を独尊として祀るとき
毘沙門天と称するのが一般的。仏教神話では四天王の内で北方を守護する
善神で、福徳の名が遠く聞こえることから多聞天ともいう。
 本像は、西域んの兜抜国(トルファン)に化現したと言われる特殊な異形像で
、金鎖甲(きんさこう)なる鎧を着し、三面立の冠を被り、地天及び二邪鬼の上
に立つ。
 対面の持国天は東方を守護する武神であるが、かって鎌倉期に復興された
大仏殿中門には、現在南大門に安置されている石獅子が奉安されていたことが
、鎌倉時代の「東大寺供養記」にきされている。 
   
東大寺の七重塔模型。
70mとも100m伝えられる。
手前が東塔、奥が西塔。
2006年9月25日付け朝日新聞(夕刊)より
大安寺⇒⇒⇒
  東塔イメージ図
発掘調査の成果と文献などに基づき、
約100mの姿を想定している。
2016−12−22朝日新聞より
七重塔跡東基壇
 東西両塔は奈良時代に建立されたが、西塔は934年に落雷で、
東塔は1180年戦火で失われた。
東塔は重源上人が再興したが、1362年落雷で再び焼失した。
 奈良時代の塔の高さは推定70〜100m。
 東塔の基壇は30m四方で西塔の24m四方より大きい。
基壇に上る階段の幅は7mある。
この様に大きい基壇から、塔の高さも100mもの
巨大なものであったと思われる。
 かつて七重塔として威容を誇った東塔の創建時(奈良時代)
の基壇が見つかっている。大仏殿の南東と南西に750〜
760年代ごろ、それぞれ東塔と西塔が建立された。
 創建当時の東大寺は、大仏殿の南東と南西に塔が建っていた。
天平宝字8年(764)ごろの創建とされる東塔は七重塔であった。
平重衡(たいらのしげひら)が反平氏だった興福寺や東大寺を攻撃。
東塔も失われた。治承4年(1180)平氏の南都焼き打ち。
 その後鎌倉時代に再建され、再び正平/貞治17/元(1362)再び
雷で失われた。
 この東塔跡に南都焼き打ちで焼け落ちた痕跡が見つかっている。
 創建当初の基壇は、一辺24m四方の規模である。

東大寺東塔 回廊は複廊⇒
 
俊乗堂(しゅんじょうどう)
 この俊乗堂は、大仏殿江戸再興の大勧進公慶上人が、
鎌倉復興の大勧進重源上人の遺徳を讃えて建立された
もので、堂内中央には国宝「重源上人坐像」が安置され
ている。俊乗房重源は、保安2年(1121)京都に生まれ、
13歳で醍醐寺に入って密教を学び、仁安2年(1168)
入宗して翌年帰国。治承4年(1180)平重衡による南都
焼き討ちで伽藍の殆どが焼失したが、60歳で造東大寺司
の大勧進職に任ぜられた。
 再興にあたって、大仏様(だいぶつよう)とよぶ宋風建築
様式を取り入れ、再建の功により大和尚(だいかしょう)の
号を受け、建永元年(1206)86歳でに入滅された。
毎年7月5日の俊乗忌と12月16日の良弁忌に参拝するこ
とが出来ます。 

鏡池 この池にワタカが棲息する。⇒⇒⇒ 鏡池(八幡池)
大仏殿 大仏殿内 大仏殿(国宝)
 大仏殿中央前にある八角灯籠は、伽藍の中軸を示すシンボルとされる。
 8月15日には、お盆の法要「万燈供養会」が営まれる。この日大仏殿正面の観相窓(桟唐戸)も開かれ、
大仏(蘆舎那仏坐像)のお顔が暗闇の照らし出される。
また、除夜の鐘が鳴り終わると明りが灯され、お顔が拝める。
 高さ47.5m、東西57m、南北50.5m創建時の3分の2になったが、世界最大の木造建築。
 雲太→出雲大社
 和二→東大寺
 京三→平安神宮
 八角灯籠(国宝) 高さ約4.6m、重さ3.3トン天平勝宝4年(752)大仏開眼とほぼ同時期に造られたとされる国内最古の金銅製の灯籠。
ろうそくを灯す「火袋(ひぶくろ)」の羽目板に楽器を手にした音声菩薩像などが浮き彫りにされ、天平の雰囲気を醸し出している。
 大仏様の斜め後ろ、北西の柱に、高さ30cm、幅37cm、長さ120cmの四角い穴がある。
この穴をくぐると、無病息災になる、賢く育つ、思っていることを一つだけ叶えてくれるなど云われる。
鬼門除け、湿気よけ(何本もの木材を組み合わせた柱の湿気を抜く)、柱の構造を見せる、大仏の背中側に仕切り板を取り付けたなごり、長い柱は立ててからゆがみがでて、上の方に別の部材をつなぐのが難しくなる。そこで、この穴に棒を通して位置を微調整した。などと云われる。
八角灯籠
蘆舎那仏(大仏)大仏殿(金堂)
銅造 国宝 天平時代
虚空蔵菩薩 広目天 多聞天
 匂うがごとく天平文化の華、東大寺大仏の鋳造を指揮したのは国公麻呂(くにのきみまろ)で、彼の
祖父は、663年に渡来した国骨富(こくこつぷ)という百済の官人であった。 
 高さ16mの巨大な大仏鋳造のために使用された銅は500トンに及んだとされる。
 現在の大仏は、江戸時代に開眼供養されたものである。戦乱により、二度の焼失を経て、なお存在
する大仏は、人々の信仰が作り上げたものといえる。
鐘楼(国宝)  梵鐘(国宝) 二月堂
 この鐘楼は、鎌倉時代の東大寺復興に大きな足跡を残した重源上人(ちょうげん)を継ぎ、
大勧進となった栄西禅師(ようさい)が承元年間(1207〜1210)に再建したもので、
大仏様(だいぶつよう)にやや禅宗様(よう)的要素を加味した建物。
 重さ26,3トンもある梵鐘(奈良時代)は東大寺創建当初のもので、鐘声の振幅は非常に長く、
重い音を響かせ時を告げる。毎日午後8時に18回。高さ3.86m、口径2.71m。
日本三名鐘の一つに数えられている。
二月堂と良弁杉 四月堂(三昧堂) 三月堂(法華堂、国宝)
 良弁(689〜773近江か相模の出身)は幼い頃鷲にさらわれ、
奈良で大きな杉の枝に掛っているところを僧義淵(ぎえん)に助けられ、行基ら7人の高弟に成長し、東大寺初代別当に就いた。
良弁を捜し歩いていた老母と杉の下で再会する。良弁は孝行の限りを尽くした。この物語の舞台が良弁杉である。
馬道(めどう) 
 中央の1間が馬道(めどう)と呼ばれる土間の通路で、これは建物の中間に通り抜けるために馬道をもうけると、使い勝手が格段によくなる。寺院建築では古い遺構として、法隆寺東院舎利殿及び絵殿(えでん)、唐招提寺礼堂(とうしょうだいじらいどう)、東大寺二月堂参籠所(さんろうじょ)、石上神宮出雲建雄神社拝殿などに馬道がある。 
 聖武天皇が大仏の造営に民衆の参加を呼び掛け、行基は弟子たちを率いて大仏造営の勧進に尽力した。
この業績に、行基は大僧正に任じられた。749年、行基は大仏の完成を待たず菅原寺(喜光寺)で亡くなり、遺言で生駒山の麓に葬られた。
 三月堂は、東大寺に現存する最古の建物とされる。
 三月堂の本尊 不空羂索観音立像(ふくうけんじゃく・国宝) 奈良時代の最高傑作の一つとされる。
   「水晶・翡翠・真珠・琥珀などの彩は2万数千を数えるという。
   額には縦に目があり、腕は8本で、縄のようなものを持つ。獲物をからめ取る羂索と呼ばれる古代の狩猟具という。
   三つの目で広く見通し、悩める人々には羂索をかけ救い出し、平和を守ると信じられた。
   写実的な造形から8世紀半ばころの創作といわれる。」
 本尊を安置する八角須弥壇(しゅみだん・幅6.9m)は、天平元年(729)に伐採された檜材が使われている。聖武天皇と光明皇后の皇太子が、1歳目前の幼くして亡くなった翌年にあたる。
内陣配置図⇒⇒⇒
法華寺⇒⇒⇒
また、お堂の部材も731年の檜が使われており、建物本体は730年前半に建立されたとみられる。 

 三月堂には作例の少ない執金剛神(しゆこんごうしん・国宝)が安置されている。執金剛神とは、金剛力士の独尊の形をとり、金剛杵(こんごうしょ)を持ち仏法を守護するものである。塑像、像高174cm、奈良時代。その他に日光月光両菩薩が祀られている。塑像の6体は免震構造の備わった東大寺ミュージアムに移された。
 
 旧暦三月に法華会を行う。天平時代の本堂と鎌倉時代の礼堂を合わせた建築である。
四月堂(三昧堂・さんまい・重文)
 本尊十一観音立像(本尊の交代、長年、収蔵庫で人目に触れなかった。今迄の本尊千手観音立像は東大寺ミュージアムの本尊になった。2013-5) 
 新たに本尊として迎えられた十一面観音立像は、高さ1.75mで、明治時代以降に東大寺に移された仏像。二月堂に安置されていたが、毎年修二会の度に
他の場所に移されていたため、破損の心配から、戦後からは収蔵庫に据えられていた。
 本尊交代のきっかけは、お堂の白壁の塗り直し工事。合わせて千手観音も修理、調査するため、よりふさわしいお堂としてミュージアムに移すことになった。
 前の本尊千手観音は、檜の一本造り。江戸時代に現在の念仏堂から法華堂に移され、1903年に三昧堂に安置された。ただ、高さが2.67mの千手観音に
とって三昧堂は手狭だった。顔が天井と同じ高さだったため、天井の一部を切り取ってようやく安置されていた。 
毎年四月に法華三昧会を行う。千手観音阿弥陀如来を祀る。
二月堂 二月堂
 二月堂は、旧暦2月に厳修(ごんしゅ)する法会(ほうえ)「修二会」の場となることからその名
がついた。
 古都奈良に春を告げるお水取り、正しくは修二会(しゅにえ)という。
 毎年3月1〜14日の本行には多くの参拝者が訪れる。天平勝宝4年(752)以来欠かさず
続けられてきたという「不退の行法」である。
 お水取りの創始者は良弁の弟子実忠(じっちゅう)である。
修二会の法要は、十一面悔過(けか)といい、
十一面観世音菩薩を本尊とし、11人の練行衆が人々に代わり本尊に罪過を懺悔し、
罪障の消滅とともに仏の加護をねがうもの。
 お水取りの名は、3月12日の深夜(正確には13日の1:30頃)に閼伽井屋の中にある
若狭井から本尊に供える。若狭神宮寺⇒⇒⇒
香水(こうずい)を汲みあげることから、そう呼ばれている。
 また、12日夜、11本の籠松明が登場する。籠松明は練行衆(こもりの僧)の足元をてらすもので
長さ8m、重さ60kg〜70kgである。
1〜14日の本行中にともされる松明の中(他の日に上がる「間(あい)松明」)で最も大きい。
 お水取りは、天平勝宝4年(752)に始まり、戦争の混乱期でも絶えることなく続けられている。
(今年の西暦ー752+1)回目
 新入僧は修二会のまえに僧がこもる(2/15夜)試別火(ころべっか)という前行がある。
俗世間と離れて寝起きしながら、先輩の僧より早く3月1日からの本行に備える。
 
 大仏殿の西の戒壇院にこもりの僧の合宿所別火坊が設けられる。
 2/20日以降は別火坊から一歩も出られないなど、より厳しい制約のもとで精進潔斎する
総別火に入る。ほかの10人の僧は、20日から試別火、26日に総別火に入る。 
練行衆⇒⇒⇒
松明について⇒⇒⇒ 
仏生会について⇒⇒⇒ 
 二月堂、三月堂、四月堂とあるが、正月堂はない。
笠置寺にある正月堂で、第一回目のお水取りが営まれたことによる。
お水取りはその後、東大寺の二月堂で第二回目(天平勝宝4年・752)から
現在に至るまで営まれる。
 笠置寺⇒⇒⇒
二月堂 二月堂から大仏殿を望む 二月堂
鬼子母神(訶梨帝母)
重文 木造 藤原時代
戒壇院 転害門(国宝)
 戒壇院
 僧が試験を受ける場所で重要なところ。重層四注造りの端正な建物となっている。
 戒律の師、鑑真が来朝したのを機に天平勝宝7年(755)に建立された。
 江戸時代に戒壇院」が再建された時に別の堂から移された四天王像がある。
転害門(てがいもん)
 もと平城左京一条大路に西面して建立され、佐保路門とも呼ばれた。
 中世の修理を受けているが、東大寺伽藍における天平時代の唯一の遺構である。
 京街道に面していたために、平安時代末期から民家が建ち並び、中世以降には東大寺郷のひとつである転害郷(手貝郷)が生まれ、

      
        謡曲「大仏供養」と転害門は、平家の遺臣悪七兵衛

      景清が源頼朝を襲撃しようとしたことを

      描いた曲である。

      景清が京都清水寺に参籠している時、頼朝

      が東大寺大仏供養に参列することを聞き、ひそ

      かに奈良に来て、母に会ってそれとなく別れを

      告げた後、白張浄衣の姿に身をやつして転害

      門に隠れていたが、頼朝の臣に見破られたため

      時節を待つことにして、若武者たちを切り払って

      立退いた。というのがその粗筋である。

      転害門は、東大寺の西大垣の北寄りに

      佐保路に面して開けられた門で、天平の

      雄渾な様式をいまに伝える三間一戸、本瓦

      葺、切妻造八脚門である。

      東大寺の鎮守手向山八幡宮の転害会がここを

      お旅所としたところから転害門と呼ばれ、また、

      佐保路門あるいは景清門とも呼ばれる。
      
謡曲⇒


  奈良市の一条通の東端に位置する東大寺転害門(国宝)は、寺の創建当初の姿を残す

  貴重な伽藍だ。神仏習合の名残で、寺の門でありながら、しめ縄が張られている。

  749 (天平勝宝元)大仏造立を守護するため宇佐八幡宮(大分県宇佐市)から

  勧請された八幡神は、この門から寺に入り、手向山八幡宮に鎮座したという。神様を迎

  える様子を再現したという転害会(手掻会?がいえ)が、今も毎年10月5日に営まれる。

  門のしめ縄は4年に1度、この祭礼の前に新調される。

  9月23日午前7時過ぎ、転害門前にわらなどを積んだ軽トラックが着いた。雑司町と

  川上町の農家組合の40人余りが手分けして作業に入る。

  門を4年間守ってきた長さ約12mのしめ縄を高所作業車で取り外す。足踏み式の脱

  穀機でわらから余分な葉を落とし、古い縄を置いて手本にしながら新しい縄をなう。直

  径15mほどのしめ縄3本をより合わせ、正午前に完成した。

  東大寺二月堂や法華堂の近くにある手向山八幡宮は元東大寺八幡宮などとも呼

  ばれ、寺と一体の存在だった。明治の神仏分離で両者は切り離された。ご神体だった

  快慶作の国宝・僧形八幡神坐は寺に移されたが、今も転害会と同じ日に特別公開され

  かつての転害会には東大寺の僧も参加し、最盛期は馬だけでも200頭以上の大行列

  が練り歩いたという。祭礼はに縮小され、50年ほど前に行列も途絶えた。

  10月5日、手向山八幡宮本殿での神事に続き、転害門で神事があった。まだ色鮮やか

  なしめ縄がかかる門前で、昨年復活した雅楽の奉納を、参拝者らが見守った。

  お渡り行列があったころに使われていた神輿は、重厚な黒漆塗りで、天盤に金色の鳳

  凰をいただき、鮮やかな錦をまとっている。現在は国重要文化財となっており、出番が

  ない。八幡宮は精巧に写した神輿を新調中で、来年の転害会には登場する予定だ。

  上司延禮宮司( 53 )は「昔の華やかさは無理でも、新しい神輿でお渡り行列を復活さ

  せ、伝統を受け継いでいきたい」と話す。
  2017−11−12 朝日新聞 (古沢範英)

  神輿悲願の新潮⇒⇒⇒


  

        
江戸時代には旅宿として発展した。
 三間一戸八脚門  切妻造  本瓦葺  
 柱には今も鏃(やじり)穴が残る。いくたびもの戦禍をくぐり抜け、約1250年間建つ。
佐保・佐紀路はこの転害門から西へ一条通りを、平城宮跡西大寺に至る北辺の丘陵沿いの道となり、聖武天皇陵、興福院(こんぶ)、不退寺宇和奈辺(うわなべ)古墳、小奈辺(こなべ)古墳、磐之媛命坂上陵(いわのひめ・武内宿祢の孫娘・仁徳天皇の皇后))、海龍王寺、光明皇后発願の尼寺法華寺、伎芸天で有名な秋篠寺などがある。

伎楽飛鳥時代の芸能⇒⇒⇒
手貝町バス停 地図

 この閼伽井屋は、修二会(しゅにえ)に際し毎年3月12日(13日午前1時過ぎ)に練行衆(こもりの僧)らがこの屋内にある井戸より本尊十一面観世音菩薩にお供えする御香水(おこうずい・閼伽水・あかみず)を汲む儀式を行うところである。
 水取り⇒⇒⇒
 天平勝宝4年(752)実忠和尚が二月堂で初めて修二会を行い諸神を勧請した際、若狭国の遠敷明神(おにう)が献じたものであるところから「若狭井(わかさい)」とも呼ばれる。
 かって修二会に呼ばれた全国の神様のうち若狭の遠敷明神(おにゅう)だけが釣りをしていて遅刻し、おわびに清らかな水を送ったという伝説にちなむ行事。
 10日前にあたる2日夜、福井県小浜市では「お水送り」が営まれる。この水が地下水脈を通って10日後に二月堂に届くと言い伝えられている。
 現在の建物は、13世紀初期に再建されたものであろう。  東大寺
若狭井  閼伽井屋(あかいや・重文、鎌倉時代初期)
若狭神宮寺⇒⇒⇒  惣神所⇒⇒⇒
 天平14年(743)、聖武天皇は蘆舎那仏建立の詔を発した。その後、天平勝宝元年(749)に大仏の鋳造が完成し、ついで大仏殿も完成した。開眼供養の挙行後も境内の整備は続けられた。総国分寺として隆盛を極めたが、平重衡の焼き討ちによって伽藍のほとんどを焼失した。のべ260万人を動員して建立された高さ16mの金銅蘆舎那仏も大仏殿とともに灰燼に帰した。翌年、後白河天皇の命を受けた重源は再興のため全国を奔走し、ついに建久6年(1195)、新しい大仏と大仏殿の完成をみた。戦国期、松永久秀らによって大仏殿は焼失したが、元禄時代に公慶らの努力で、雨ざらしだった大仏は再び大仏殿に安置された。現在の建物はこのときのものであるが、木造建築物として世界最大である。
 重源上人(1121〜1206)は平安〜鎌倉時代の高僧で、13歳で出家・修行を醍醐寺で行った。
上人は法華経を信仰し、最晩年に大仏殿と東塔の前で法華経1千部の転読を実現したいと願った。
 重源上人坐像(国宝) (東大寺・俊乗堂、像高82cm、檜寄せ木造り、秘仏) 
 重源⇒⇒⇒
 東大寺公慶道⇒
 東大寺指図堂⇒
 東大寺阿弥陀堂⇒
   
 1180年、東大寺は平重衡(しげひら)の焼き打ちに遭い、大仏殿は焼け、大仏の頭が落ち、手が折れた。重源が東大寺復興に必要な資金集めから再建までの一切を任された「大勧進」になったのは61歳の時だった。多賀大社で延命長寿を祈願し、「筵(えん)」の字の虫食いのある柏の葉を授かった。この字を分解すると「十が二つと延」となり、20年の長寿を暗示。重言は寿命を得て東大寺を再興した。
「筵」の字は多賀大社の神紋(虫くい折れ柏)に使われている。
南大門の木組み 重源座象(狭山池博物館
 日本の寺院建築では、長押(なげし)という木材を柱の前後から打ちつけ、柱と柱を水平につないで固定していた。地震対策として太くて頑丈な木材を使うことで強度を維持していた。
 鎌倉時代に入り、巨大な太い木材を確保することが難しくなってきた。
それを救ったのが「貫(ぬき)」であった。これは、柱と柱の間を通過させて、水平方向にがっちり固定させるというもの。柱と柱を強固に連結出来るようになり、以前ほど太い木材を使わなくても建物の強度を高めることが出来るようになった。
  重源は、柱を固くつなぎとめるという、
中国から持ち帰った建築技術を使った。
 重源再興建の大仏殿は16世紀の兵火
で焼失したが、建築様式は南大門が残っている。
 
 4月8日仏生会(ぶつしょうえ)(花まつり)がある。大仏殿の前に杉の木に椿や馬酔木(あせび)を飾った「花御堂」が立つ。
中に釈迦が生まれた姿を表した誕生仏が置かれる。ひしゃくで誕生仏に甘茶をかける。
 八角灯籠の周囲にも花が飾られる。
5月2日聖武天皇祭
 聖武天皇の命日、聖武天皇をまつる天皇殿で論議法要が開かれた後、楽人や稚児、僧侶らが県新公会堂から
大仏殿練り歩く。
 大仏殿では、別当が聖武天皇の徳をたたえる表白を読み上げ御忌法要(ぎょき)が行なわれる。
3日に僧侶たちが、聖武天皇陵に参拝。大仏殿では午前11時から献茶式があり、参拝者に抹茶が振舞われる。
 東大寺の境内には、手向山(たむけやま)八幡宮が鎮守として九州の宇佐八幡宮から迎えられた。
八幡さんは、その後、都が移動するたびにその地に造られていく。京都に平安京が造営されると、
その鎮守として石清水八幡宮が造られる。源頼朝が鎌倉幕府を開くと、鶴岡八幡宮が造られる。
 八幡さんは、お宮さんに祭られる神様だった。

8月15日夜、奈良市の東大寺で万灯供養会が行われる。

万灯供養会では、大仏殿の周辺に約2500基の灯籠が並べられ、灯がともされる。
籠には「家内安全」など、それぞれの願いが書かれる。
大仏殿の正面の観相窓が開かれ
大仏殿の外からも大仏の顔を拝むことができる。

 動画   佐紀・佐保路⇒⇒⇒ 
 全動画⇒⇒⇒

























八坂神社 地図

東大寺に近い奈良市押上町の八坂神社でも7月半ばに祇園祭がある。
室町時代、京都
と同様に山鉾が町を巡る一大行事だった。
時代を経て派手
な出し物が消えた今も、地域の人々の手で続いている。

八坂神社は、東大寺戒壇院のすぐ西側、旧京街道の国道369号沿いにある。
日ごろ
人影の少ない境内に7月13日午後、浴衣姿の人々が集まってきた。
この日は宵宮で、境
内に露店が出る。

記録によると、神社は1338 (建武5)年に京都祇園を勧請してつくられた。
暦6月14日の南都祇園会は、15世紀には京都と同様に山鉾が出て、にぎわった。
順番
を巡って町と町の争いが起き、見物客にけが人が出るほどの熱気だった。
1567
(永禄10 )年に松永久秀と三好氏の合戦で社殿が焼け、
園会は次第に衰微したとい山鉾は消えたが、祭りは続いた。
50年ほど前にはみこし
が街に練り出し、てんぐの面をつけた大人が子どもを追い

回すのが夏の風物詩だった。

8年ほど前から宵宮の日に 拝殿で子ども狂言を披露している。
今年は花谷周君( 13 )と
文さん(9)の兄妹が演じた。

親が子に口まねで「いろは」の手習いを教えるうちに争いになる様子が会場の
笑いを誘
った。
にぎわいを取り戻すため、
最近は地域の飲食店が境内に露店を広げている。
今年もか
き氷やスーパーボールすくいに、子どもの列ができた。
元さんは「何百年前と同じようにずっとできればええのやろうけど。
時代に合わせてお
祭りを残すのも大事やと思います」と話した。
2017-9-3朝日新聞
  (古沢範英)

 


























































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