詳しく

ゴシック様式
ロマネスク
ジョージ
バロック
ウィリアム
ノルマン
ユニオン・ジャック
グリニッジ天文台
U.K
ばら戦争
シティー
ハドリアヌスの長城














ゴシック様式
ゴシックしき 【ゴシック式】
ヨーロッパ中世の美術様式。ロマネスクに次いで一二
世紀中頃北フランスにおこり,各国に広まってそれぞ
れ発展をみた。教会堂建築が主で,リブ-ボールト
(肋骨穹窿ろつこつきゆうりゆう)・バットレス(控
え壁)・尖頭アーチを構成要素とする。広い窓をと
り,高い尖塔や尖頭アーチなどの垂直線から生じる強
い上昇効果を特徴とする。

大辞林 第三版


ロマネスク
ロマネスク 〖Romanesque〗
一一世紀から一二世紀にかけて西欧各地に広まったキ
リスト教美術様式。ゲルマン民族や古代ローマ,古代
オリエントの要素を含み,ゴシックに先行するもの。
重厚な石造り建築や,絵画のミニアチュールに特色が
ある。

ロマネスク建築
一〇世紀から一二世紀にかけて西ヨーロッパで建てら
れた,重厚な石積みの壁と開口部の半円アーチなどが
特徴的な建築。

大辞林 第三版


ジョージ
ジョージ〖George〗人
①(一世)(1660〜1727)イギリス国王(在位1714〜
1727)。ドイツのハノーバー家から王位につきハノー
バー朝を創始。英語を知らず統治にも無関心で,国政
をウォルポールに委任。結果的に責任内閣制の発達を
促した。
②(三世)(1738〜1820)イギリス国王(在位1760〜
1820)。低下した王権の回復に努めたが,植民地アメ
リカの独立にあい国民の不信を買った。

大辞林 第三版


バロック
バロック 21〖フランス baroque〗
〔ポルトガル barroco(歪んだ真珠)からという〕
一六世紀末から一八世紀中頃にかけて,ヨーロッパ全
土に盛行した芸術様式。ルネサンス様式の均整と調和
に対する破格であり,感覚的効果をねらう動的な表現
を特徴とする。本来,劇的な空間表現,軸線の強調,
豊かな装飾などを特色とする建築についていったが,
激しい情緒表現や流動感をもった同時代の美術・文
学・音楽などの傾向,さらには,ひろく時代概念をさ
す。

大辞林 第三版


ウィリアム
ウィリアム〖William〗人
①(一世)(1027〜1087)イギリス(イングランド)国
王(在位1066〜1087)。ノルマンディー公。従兄エド
ワード懺悔王の死後,王位継承権を主張し,イングラ
ンドに侵入しノルマン朝を開く。征服王。
②(三世)(1650〜1702)イギリス国王(在位1689〜
1702)。オランダ総督を務め,ジェームズ二世の長女
メアリ二世と結婚。名誉革命後のイギリス議会に招か
れ,権利宣言を承認してメアリとともにイギリス王位
につき,議会を尊重して立憲君主制の基礎をかため
た。

大辞林 第三版


ノルマン

ユニオン・ジャック

1801年、イギリス国旗が制定された。イギリス国旗は一般にユニオン・ジャックと呼ばれる。「ユニオン」とは一人の国王のもとに統合するという意味で、かっては独立国であったイングランド、スコットランド、アイルランドの国旗が統合されたものが、現在のイギリスの国旗ユニオン・ジャックである。
「ジャック」と呼ばれる理由は、船の国籍を示す船首の旗(ジャック)がその語源といわれている。

1、イングランドの旗 白地に赤の十字。イングランドの守護聖人である聖ジョージを示す。
2、スコットランドの旗 青地に白の斜十字。 スコットランドの守護聖人である聖アンドリュースを示す。
3、アイルランドの旗 白地に赤の斜十字。 アイルランドの守護聖人である聖バトリツクを示す。


グリニッジ天文台
 ロンドンの東の郊外に、グリニッジ元天文台がある。ここは世界の中心になっている。
国際的に、ここを経度0度と決めた。即ち、ここから東側は東半球、西側は西半球となり、東経、西経何度とあらわすことになっている。
 時間も、このグリニッジを標準にして、それぞれの国が時差を計算している。
 グリニッジから見ると兵庫県の明石市は東経135度のところにあって、日本とイギリスの間に9時間の時差が生じる。

 17世紀後半、イギリスは遠洋航海に出た船の位置を、夜の星の位置から測ろうとしていた。そこで、1675年、チャールズ2世は、ロンドン近郊のグリニッジに天文台をつくった。天文台を南北に走る経線を基準子午線と定め、経度の基準(0度)を世界の時間の基準とするこにした。
 
 今日のグリニッジ天文台は別の場所に移転し、元の天文台は博物館になっている。


U.K(United Kingdom 連合王国) 
スコットランド、北アイルランド、ウェールズ、イングランドの4つの地方をあわせて「グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国」と呼ぶ。連合王国(United Kingdom)は省略して、よくU.Kと表記される。


ばら戦争
百年戦争が終わると、国内では王位をめぐり、ランカスター家とヨーク家のあいだで戦争が起った。両家の紋章が赤ばらと白ばらだったことから「ばら戦争」と呼ばれている。ランカスター軍のヘンリー・チューダーはヨーク軍を破り、1485年チューダー朝を開き内乱をおさめ、王権を強化した。


シティー
 シティはロンドンの一部わずか1.6km四方の地区である。銀行・保険・証券などの会社、商品取引所・株式市場・外国為替市場・保険市場・金市場などの取引所が、シティーと呼ばれる地区に集中している。
 シティーはテムズ川のほとりにあり、2000年前のローマ支配のときから、商業と交易で栄えていた。17世紀に、国王ウィリアム3世が圧政をしたので、経済力をもつシティーの商人たちは王に対抗し、自治権を獲得した。
その後は、エリザベス女王といえどもシティーに入るには、市長の許可が必要で、伝統にのっとった儀式が行われて入る。


ハドリアヌスの長城

 この防衛上の壁は、イングランド北部の東海岸から西海岸に至る120kmの距離におよぶ。
イングランドのタイン・アンド・ウェア県、ノーサンバーランド県、カンブリア県を跨ぐ。
 この壁はハドリアヌス帝によって築かれた。
 戦闘的なケルト族であるピクト人をローマ帝国の領域外に押しとどめ、境界をはっきり示す目的であった。
 ハドリアヌスの長城は、レギオン軍撤退後17世紀初頭まで、スコットランドに対する防壁として使われた。

中世ヨーロッパの王侯貴族は、宮殿だけでなく、都市全体を壁で囲みました。ユーラシア全体の歴史をみても、都市は大きく囲われているものです。城の周りに堀がある程度の日本は特殊。民を含めた生活や秩序を守るために壁を造るという発想は、日本で思うほど奇異ではありません。さかのぼると、古代ローマの「ハドリアヌスの長城」があります。2世紀前半、現在のイギリス北部に島を東西に走る石の壁が造られ、ローマ帝国の内と外を分けました。ハドリアヌス帝は、前の皇帝が最大にした領土を引き継ぎました。20年の治世の半分は、属州を視察して回りました。帝国の内部を安定させようという強い意識から命じたのが、長城の建造です。当時はローマの軍事力が圧倒的でした。北の異民族も分かっていたはずです。長城は、実際の侵攻を防ぐことより、国境を分からせるというシンボリックな存在でした。そうは言っても、造りっぱ帝国の内と外を分けました。ハドリアヌス帝は、前の皇帝が最大にした領土を引き継ぎました。20年の治世の半分は、属州を視察して回りました。帝国の内部を安定させようという強い意識から命じたのが、長城の建造です。当時はローマの軍事力が圧倒的でした。北の異民族も分かっていたはずです。長城は、実際の侵攻を防ぐことより、国境を分からせるというシンボリックな存在でした。そうは言っても、造りっぱなしでは意味がありません。1キロほどの間隔で監視所を置きました。これが平和な時代にあって軍人の仕事になる。だらけがちな規律を保つことにもなりました。建設作業と秩序の維持という帝国内部に向けた役割が、むしろ長城には重要でした。トランプ大統領がメキシコ国境沿いに壁を造ろうとするのも、同じような狙いがあるのではないでしょうか。何兆円という経済効果もあってある程度は成功するでしょうが、アメリカが大国のたくましさを取り戻すまでに至るかは分かりません。ローマは、もともと寛容さが特長でした。征服した相手でも、租税や軍事力の提供といった最低限の義務さえ果たせば、宗教や言語の違いは問わず取り込んできました。それを活力に先進的な文明を担ったのです。たとえば、ハドリアヌスの一族は、属州のヒスパニア、現在のイベリア半島の出身です。しかし、4世紀になってゲルマン民族の大移動が起きたときは違いました。もし帝国に侵入してきた彼らを体制に吸収できたら、帝国内に西ゴート王国といった独自勢力をつくる動きはなく、滅亡は遠のいたかもしれません。うがった見方をすれば、寬容さをなくしていくことが口ーマの本当の危機でした。その始まりに壁がありました。現代の移民の国、アメリカについて古代の歴史から言えることは、壁によって指導者層と富裕層の意識がどう変質していくのかが大きな意味を持つということです。いまは壁を支持しない人が多数派ですが、一時的にせよ効果が出たら、労働者層に続いて彼らも排除の論理に傾くのか。ローマを反面教師として、アメリカらしさを失わない道を模索するべきではないでしょうか。 (聞き手·村上研志)

2017-4-7 朝日新聞 本村凌二(西洋史学者)より





























































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