久野裕康 詩集   



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やる気


まえら いったいやる気あるんか         
鬼軍曹の課長補佐がドンを机をたたく 
ほんとだ どこにあるんだろう    
机の引き出しをかき回してみる     
メモ用紙にティッシュ バー白樺のマッチ   
社内旅行で秘書課の女の子と撮ったスナップ
でも見つからない ロッカーにもない
おかしなあ いらいらしてくる
今日は赤提灯の前も素通り
帰って ゴルフバッグをひっくり返す
本棚も捜す やっぱり出てこない
あきらめて飯を食って寝てしまう

夜中に赤ん坊が泣きだした
小さなこぶしをしっかり握って
ぎゃあぎゃあ泣く
片っぽの手をそっと開けてみた

 こんなところにあった



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残業


夜も遅くなった
もう少しでケリがつきおそうだったが
仕事を打ち切って帰る気になった

会社を出て数歩も行かないうちに
大きなダンプカーがすぐそばで止まった
見上げるような高い運転席から
丁寧に道を訊かれた
教えるとにっこりして礼を言い
次ぎの信号で鮮やかにカーブを切って
見えなくなった
若い女性だった

しばらくぼうっとしていた
気がついたら 会社へ引っ返していた

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経験


一、そうする
二、そうしたいと思う
三、そうしたいと思わない
四、そうしない
五、わからない

一か二にマルをつけたら
頭をどやされた
三か四をチェックすると
尻を蹴飛ばされた

 それで今 五専門

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ごま


ごまは からだによい

今日は 役員会で
社長に ごまをすった
きのうは 男性料理教室の分担で
八人分のごまをすった
おとついは 碁会所で
長年の碁がたきに ごまをすった
その前の日は 妻の機嫌が悪くて
夕食のおかずに
わしが ごまよごしを作った
今週は疲れた
 
ごまをするのは からだによくない

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棒切れ


浜辺から遠い沖で
上を向いて波に浮かんでいる
ときたま
五、六掻きバタフライ
二十秒ほど潜ったりしている
全身の力を抜いてふんわり浮かんでいると
一本の棒切れになる
ゆっくりとみんなから離れて
どこかへ運ばれて行く
波のつぶやきだけが静かに聞こえて

役員会で
棒切れになってふんわりと浮いてみる
眠ってしまってはいけない
ゆっくりと周りの世界が動いて行く
たまに手足をひらひら動かして
水難監視塔にいる社長の双眼鏡に
生きていることをわからせる

むかし
泳ぎの達者な小泉八雲は
夜の焼津の海へよく泳いで出た
はるか遠い沖で
ひとり浮かんでいるのが好きだった
岸辺から
遠い暗闇の中に小さく煙草の火が見えて
所在が判ったそうな

私は煙草を吸わないし夜の海は怖い
照りつける昼の遠い波の上で
(ええかげんにせえ ド阿呆ッ)
ひとり悪態をついて苦い水を吐き出す
夏と仕事と一本の棒切れが
どんどん沖へ流れて行く

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走る


就職した
きっちりベルトを締めて
真っ直ぐ前を見て
走ってきたのだが
やたらと赤信号で止められた

定年間際になって
脇道へ入った
やっと少し青が増えた
長い距離を走ってきたので
くたびれた

この辺でちょっとひと息入れたい
やれやれ赤だな
止まろうとしたところで青に変わった
途端に後ろからクラクションが鳴る
もう勘弁してください
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バランス


毎朝 梅田から地下鉄に乗った
淀屋橋の直前でアナウンス
「カーブを通過しますからご注意ください」
進行方向と直角に足を開く
左右どちらにふられても踏ん張れるように
注意を集中して バランスをとった

定年まで四十年
出世し過ぎず 疎まれず
転ばないように 踏ん張って勤めた

もういいだろう
どっちかに倒れても
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朝食


「ウィーン」とモーター音がする
海辺の明け方
まだ真っ暗
宿の小舟が沖へ
朝食の一品をみつくろいに

方々破けて穴だらけ
もうお役ご免の定年凧が
糸プッツンしてふらふら旅行
勝手が違う寝床で 暗闇に眼を据えて
考えている
働きに行く人のこと
もう働くところがない人のこと

「ウィーン」と同じ音がする
蚊が一匹
同じ時刻に
同じ目的で
働きに

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先客


マンションの一階で
エレベーターに乗り込むと
先客がいた
カナブンが一匹

ご機嫌で からんでくる

六階で一緒に降りた
勤め帰りに
一杯引っかけてきた顔で

ぼくの肩をツンとたたいて

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ご馳走


ドナーカード持ってるよ
と自慢しましたら
友人の医者が冷たく言いました
六十過ぎたら
大抵の臓器は使い物にならんぜ

解剖用の献体登録に変更しました
毎年一回 ホテルで豪華なフルコースを
ご馳走になります
大学の先生や学生さんが
サービスに努めてくださいます

有り難くいただくんですが
ちょっとあなた
ビールを飲まされている松坂牛みたいで・・・

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ねじ


ねじが緩んでいたからだね
脚の関節がぐらぐらしていて
いつも
前に歩き出すのが怖かった

しっかり締めておくんだったな
もう遅いけど
おれね 考えてたんだよ
ずっと

はずすとき
楽なようにって

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濁っている


茶碗蒸しを作っている
中火で十五分くらい経った
蒸し器の蓋をとって箸で突いてみる
澄んだ水がブクッと出てきた
もういいみたい

頭の中にも
二、三ヶ所箸を入れてみる
こちらは まだなかなか
六十何年も経ってるのに
どろんと濁ったまま

ヌード写真なんか見て
にんまりしていて
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大きな病院の会計で待たされている
長椅子で隣り合わせたおばあさん
不自由な脚で二度 窓口に問い合わせに立つ
もう正午をかなり回っていて
交代の昼食で 事務の人の数が少ない
まだ少しかかりそうだ

おばあさんは小さなハンドバッグを
席にお残して ふらふらとどこかへ
診察が終った外来患者が次々にやってきて
会計前の長椅子は空くひまがない
でも ぼくの隣に
おばあさんのバッグがちんまり
みんな バッグとぼくの方をちらっと見て
ほかの席を探す

おばあさんが
ふらふらとどこからか戻ってきた
また窓口で訊いている
呼び出しを聞き損ねたらしく
いない間に計算ができていて
ふところのがま口から支払った
席にもどるかと思っていると
またふらふらと行ってしまった
席がいよいよなくなって
向こうから患者のお尻がにじりよってくる
バッグの幅だけの小さなスペースが残るだけ

ぼくは立ち上がって
遠い薬局やトイレの方を目で探す
あっ廊下の電話の辺りでうろうろしている
席はなくなるが 気懸かりで立っていった
「あのう バッグあちらに忘れてるよ」
「ああ あっちの席に置いてあります」
と澄ましている

おばあさんのバッグからは
他人に対する疑念や不信を
きれいに洗い落として
代わりに身勝手をちょっぴり縫い込んだ
ながーい紐が伸びている
おばあさんは紐の端を握って
ふらふら うろうろ ゆうゆう
老いを生きている

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スフレスープ


人気のシェフが指導する小人数の料理教室に
初めて来た七十代のおじいさん
この歳になるまで卵ひとつ割ったことがない
コツンと軽くぶつけて割り 半分ずつ持って
黄身を交互に移して白身を容器に落とす
うまくいかない
シェフがやってみせる
「あんたうまいねえ」とシンから感心して褒める
どっと笑いが弾けるホテルの厨房で
五十代のシェフが頭をかいて
「はあ、四十年ほどこれで飯を食ってます」

熟練の技と子供の好奇心が
狭い厨房の宇宙でぶつかり
火花が散って
一つの惑星が誕生した
うまいスフレ仕立てのスープ

おじいさんは
奥さん手作りのピカピカのエプロンと
生まれて初めてのピカピカの体験を
丁寧にナップザックに畳んで入れて
雨上がりの午後の街に出て行った
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近況


撫で肩である
ショルダーバッグのベルトが
肩からずり落ちるので
中学生みたいに
左肩から右脇にたすきがけにして
左でもない 右とも言えない
曖昧な意見を言って

お腹が出っ張ってきた
ゴムの伸びたパンツが
下にずりおちるので
なけなしの意欲と闘争心を
無理矢理 胸元まで
サスペンダーで
吊り上げて

寝相が悪くなり
夜具ごとベッドから床にずり落ちて
目が醒めるので
反対側の
ほんのちょっぴりの戦時体験を
塗り込んである壁に
しっかり背中をくっつけて
寝るようにして

恰好悪く
まだ生きていて


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祈り


冬のヒマラヤの峻峰を
決死の飛行で撮った山岳写真家は
朝日が彩る荘厳な風景を前にして
こんな景色を毎日見ている人々には
「祈ること」以外に何ができるんだろうと
思った

生きるものの誕生
生きるものの死
生きる他者を思うこと
生きるものには
「祈る」しかないことが
たくさんある

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