中橋家(重要文化財 屋号「米彦」)
間取り⇒⇒⇒ | 煙出し屋根 | 撮影角度は異なるが、 内側からみた煙出し屋根 |
すのこ天井 | 「しもみせ」・「みせのま」の上にある二階 |
かまど |
「なかのま」 | 「みせのま」にある「あげ戸」 |
板戸三枚が取付き「だいどころ」前の戸袋に納める形式になっており、戸締りが完全である。江戸時代には、外回りのみでなく、 通り庭と部屋の境をも厳重に戸締りするのがみられる。 |
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17世紀に建てられた今西家や豊田家では板戸を引き込む形式になっているが、18世紀以降の家には、 板戸を上にすり上げる形式のものがよく使われた。これは戸を上下二枚に分けて、柱の溝に沿って上げる手法で、 間口が狭い場合でも巾いっぱいの開口にすることができ、上戸を横猿でとめれば厳重な戸締りが可能である。 中央に撤去可能な方立柱をっ立てて、すりあげ戸をはめ、一枚の戸にくくり戸がついている。 |
「なかのま」おくが「「ぶつま」 | 「だいどころ」 |
「なかのま」から「みせのま」 | 「みせのま」から「なかのま」・「ぶつま」・ 「ざしき」まで見通す。 |
むしこ窓 | むしこ窓 |
正面玄関 | |
しもみせ | |
みせのま | |
みせおく |
称念寺斜め筋向いの御堂筋北側に面して建つ中規模な町屋である。十八世紀以降の文書を比較的多く所蔵し、天保から嘉永にかけて、称念寺に経料を納めた記録もあり、幕末には繁栄していたことが知られる。旧南町に属し、西側も道となる。屋号を「米彦」と言い、江戸時代には米屋を営んでいた。建設年代は明らかでないが、江戸時代中頃の宝暦から天明頃と考えられる。切妻造、本瓦葺、平入りで、路に面した側面は白壁、下坂か壁となる。 内部は西を土間、東側に六室を取る。現在上手を八畳の座敷とし、とこと平書院を設けているが、ここは後に半間分を北に広げていて、もとは六畳であったことが知られる。もとは綴葺に近い屋根形であったが、北に半間拡大した改造の際に棟を前に移して高くし、正面のみ、つし二階を増設した切妻造本瓦葺の商家で、修理の際一口のカマド跡も発見された。 今井町においては古くから角座敷を取る例もあるが、書院風の座敷の一般化したのはかなり遅いと考えられる。当家はかなり発展が進んだ時期の一般的持屋層の好例であり、また称念寺をはさんで豊田家と相対し、町並を残している点も見逃せない。 昭和五十三・五十四年に解体修理を行った。発掘調査で全身建物を発見している。全身建物は、桁行長さは現存建物とほぼ同じだが、梁間は三分二ほどで、規模は小さい。土間を建物の西半分とし、居室部は、小室が三つあった。 |