今井町 散策ガイド

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今井寺町(武装宗教都市)が整う。
 この今井町に一向宗門徒が集まって集落を作り、町が作られたのは室町時代末期の天文ごろ(1532〜1554)らしい。一向宗(浄土真宗)は鎌倉時代に親鸞上人によって開かれて全国に広まったが、大和では興福寺の強い勢力のために進出が難しかった。しかし室町時代十五世紀には大和にも進出を始め、奈良でも一向宗狩が行われたりした。十五世紀末には吉野の上市、下市に御坊が開かれ、天文元年(1532)には興福寺が一向一揆によって焼討ちされるような事態になった。南大和でも天文二年(1533)今井四条辺に一向宗門徒が小屋を建てたのを越智氏が成敗したり、吉野本膳時が一時退散し、筒井氏が吉野を焼いたりした。このように今井町あたりに天文年間初めに一向宗が進出していたことは明らかである。今井町に一向宗道場が設けられ、これを中心として一向宗門徒や、在郷武士・牢人等が集まって寺内町を造った。
 今井兵部は天文十三年(1544)証如上人の元旦の祝いに集まった一家衆のなかに今井兵部卿豊寿とみえる人物にあたる。今井兵部の後裔で代々今井兵部を名のったのは称念寺住職今井氏である。天文年間に今井に今井兵部の寺があったことは、本願寺一門が大坂と吉野を往復する場合、今井に宿泊することがしばしばあり、天文二十二年(1553)、永禄三年(1560)に連枝の往来のあったことが明らかである。



本願寺に呼応し今井も武装都市化する。
 本願寺は戦国大名などに各地で抵抗し、元亀元年(1570)織田信長に攻撃を開始する。その後、多年にわたり激しく戦った。今井では今井兵部のもと、町を武装化し参戦した。越前や伊勢の門徒は信長を幾度か苦戦に追込んだが、信長は天正二年(1574)石山本願寺を攻め、今井は織田家の明智光秀および筒井順慶に攻められた。

今井卿民、信長軍に降伏する。
 永禄十一年(1568)織田信長が、足利義昭を擁して上洛以来、本願寺も反信長の旗を立て、寺を中心とした城塞都市の形態を整え、抵抗したが、天正三年(1575)今井氏は、明智光秀を通じて信長に降服し、今井卿は信長から赦免状を与えられ、矢倉をこわして武力を放棄し、事なきを得た。かくして、大坂や堺などとも交流がさかんになり、商業都市として栄えることになった。



銀札(今井札)発行を許される。
 今井には、近在から多くの商人が移り住み、あらゆる商売が行われ、なかでも繰綿・古手・木綿を中心に多いに栄えた。その中から豊かな財力を貯えたものも出て、両替商を営み、大名にも金銀を貸すものもあらわれた。寛永十一年(1634)には「今井札」の発行が幕府から許可されたほどであった。
























































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