今井町 散策ガイド

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高木家(重要文化財 屋号「大東の四条屋」

間取り⇒⇒⇒
 東側には狭い通り土間をとっているが、東南隅の「しもみせ」はなく、外部のみ、半間張り出している。
 西南に坪庭を設け、特別な時の「げんかん」とするなど、幕末期の形を整えている。
 二階の居室は、一階各部屋上の6間と「どま」南端上の部屋を合わせて7間ある。
 「どま」「かまど」側上方は吹抜きとしているが、「煙出し」はつけられていない。
 二階正面も「むしこまど」を改め、出格子窓としている。
二階の窓は大きく開いて開放的であるが、出格子にする等閉鎖的な要素も残してる。
 西側は上下共、「二列六間取り」の部屋であるが、
この時代になると一般商家でも「ざしき」を取付け、床・棚・書院を付加するようになる。
正面西端部は、幅一間の入口を設け、小さな庭を通り、直接「ざしき」に通じる様な構造になっているが、
この時代の特徴ともいえる。 
 御堂筋に通じる、明治天皇が今井に行幸(称念寺行在所)の際通られた道、中尊坊通り東端に南面してたっている。
 屋号を「大東の四条屋」といい、本家の酒造業を助け、後、醤油業も併せて営んでいた。
当家は、質、保存が良く、今井町の幕末期に発達した妻造本瓦平入で、主屋は発達した二階建である。
十九世紀初期頃の建築であるが、二階部分はやや遅れて整備されたようである。
「みせおく」の外、細い格子。 「みせのま」の外。 「しもみせ」はなく「どま」の外。
 二階正面は、つし二階でなく、
天井がはられ完全な二階として利用できるようになっている。
 「むしこまど」もなく格子となっている。
主屋の脇に塀が続く門、特別な時,武士の玄関口となる。 切妻造、本瓦葺。
 西南隅にあたるところで、
特別な時の「げんかん」となり坪庭がある。「みせおく」の裏に路地が通じ「なかのま」に上がる。
「なかのま」から西方向に撮影。間取り⇒⇒⇒
駒つなぎ、低い位置からみて馬をつないだ。
皇太子殿下が今井町来訪の時ここで休息されています  間仕切りに突き止め溝となっている。
「どま」より玄関をみて、右が「みせのま」であり、左には「しもみせ」がない。 吹き抜け窓はあるが、「煙出し」はついていない。
手前が「うりば」奥が「なかのま」となる。  約二百年前の商家であるが、武家にしか認められなかった書院造りの座敷がある。手前が「だいどころ」奥が「ざしき」。
「みせのま」から「みせおく」をみる。「みせのま」は、一段低くなっている。 「なかのま」から「みせおく」その左に「みせのま」をみる。
箱階段
 当家は四条屋の分家で、屋号は「大東の四条屋」である。四条屋の元祖は孫市で、天正十七年(1589)移住し、十代が分家の初代で、初代直次郎が明治十七年に七十一歳で亡くなっているから分家の時期は文政から天保の頃のようで、この住宅も形式手法からみてこの頃のものと見てよい。家業は酒造・醤油業を営んでいた。旧今井町の東端今町にあり、中尊坊の北側に当る。切妻造、本瓦葺の二階建て、一階は東に土間を取って六間取とするが、主屋の脇に塀が続いて門が開かれ、ここから「みせおく」の裏に路地が通じ、突き当たりに式台があって、「なかのま」に上がるようになっている。昭和五十二・五十三年に解体修理を行った。
 内部は土間沿いに「みせのま」・「うりば」・「だいどころ」上手は「みせおく」・「なかのま」・「ざしき」とし、「ざしき」には長押をつけ、床・棚が付く。「みせのま」の奥に「なかのま」から上がる階段があり、また「ざしき」の縁側突き当たりからも二階へ上がる階段がある。この二階は土間の一部を除き、全体にあって、畳を敷き棹縁天井を張って居室としている。前面の格子は細く、吹き寄せにしており、江戸時代末期の特色を持っている。内部の間仕切りに突止溝が見られるのは、建立年代に比べてかなり古風で、突止溝は古風な手法にもかかわらず、江戸末期のこの家でも採用している。当家は保存も良く、幕末の本二階の好例と認められる。
 解体修理の際に、部分的な発掘調査を実施した。その結果二時期の全身建物跡が見つかった。宝永五年以前では現在の間口を二分するような二棟の建物があり、宝永五年遺構に敷地を併合して、現状に近くなっている。現状とは入口位置の異なる町屋が建っていた。今井町の歴史の一端を知る成果を得ている。