耳塚(鼻塚)地図

 この塚は、16世紀末、天下統一した豊臣秀吉がさらに大陸にも支配の手をのばそうとして、朝鮮半島に侵攻したいわゆる文禄・慶長の役(朝鮮史では、壬辰・丁酉の倭乱、1592〜1598)にかかわる遺跡である。
 秀吉配下の武将は、古来一般の戦功のしるしである首級のかわりに、朝鮮軍民男鼻をそぎ、塩漬けにして日本に持ち帰った。それらは秀吉の命によりこの地に埋められ、供養の儀がもたれたという。
これが伝えられる「耳塚(鼻塚)」のはじまりである。
 「耳塚(鼻塚)」は、史跡「御土居」などとともに京都に現存する豊臣秀吉の遺構の一つであり、塚の上に建つ五輪の石塔は、その形状がすでに寛永2年(1643)の古絵図にみちめられ、塚の築成から程ないころの創建と思われる。
 秀吉が惹き起こしたこの戦争は、朝鮮半島における人々の根強い抵抗によって敗退に終わったが、戦役が遺したこの「耳塚(鼻塚)」は、戦乱下に被った朝鮮民衆の受難を、歴史の遺訓として、いまに伝えている。
 豊国神社の西に小高い墳丘が作られ、その頂に五輪塔が立っている。
これが耳塚で、国指定史跡「方広寺石塁および石塔」にお含まれ石塔の一つ。
 当初は鼻塚と呼んでいたが、次第に耳塚の名で知られるようになった。
諸説はあるが、男の首級のかわりに残酷なことではあるが、鼻から髭の生えた上唇を付けて切り取ることになる。
女、子どもの耳を持ち帰っても手柄にはなり得ない。従って鼻塚が正しいと思われる。
 大仏殿や豊国神社や豊国廟とあわせて、東山における秀吉の遺跡の一つ。 
 寛文2年(1662)寛文地震があった。
 耳塚の上に五輪塔が建つ。耳塚は高さ7m、半径12mほどの頂上に4mのもの。地震のとき十間ほど辰巳(東南)の方へ飛んで落ちた。