豊国神社(とよくにじんじゃ)地図
豊国廟(ほうこくびょう)地図

唐門(国宝)
 もと伏見城のもので、桃山時代の特色豊かな四脚門で明治初年
南禅寺塔頭の金地院から移して建てられた。
大徳寺唐門(非公開)や西本願寺のそれと形式が同じである。
   
 拝殿と本殿 唐門扉の鯉の滝登り、登竜門。 
 
 扁額「豊国大明神」と左甚五郎の「目無し鶴」
     
 祭祀 豊臣秀吉 もと別格官幣社
 一般に「ホウコクさん」の名で人々に親しまれている。
 秀吉の遺体は慶長3年8月18日(1598)伏見城に没したが、当時喪を秘し遺言によって翌4年2月18日、本社後方の阿弥陀カケ峰に中腹に葬り、 その麓(現在の豊国廟太閤担・ほうこくびょうたいこうだいら)には、広壮豪華な廟社が造営された。後陽成天皇より正一位の神階と豊国大明神の神号を賜り、慶長9年(1604)8月の秀吉の7回忌には特に盛大な臨時祭礼が行われた。その時の様子は豊国臨時祭礼図屏風(重文)に詳しく描かれている。
 豊臣氏滅亡後、その廟社は徳川幕府により廃祀されたが、明治13年(1880)、旧方広寺大仏殿跡にあたる当地に社殿が再建された。
 正面の唐門(国宝)は伏見城の遺構と伝え、二条城から南禅寺の金地院を経て、ここに移築されたもので、西本願寺、大徳寺の唐門とともに国宝唐門の一つとされている。また、その両脇の石燈籠は、秀吉恩願の大名が寄進したものである。 
 豊国山ととなえ、西麓に社殿を建てここにまつった。そのときは豊臣家の恩を受けた諸侯が競って造営に参加したので、社殿は華麗宏壮をきわめ天下第一といわれ、のち日光東照宮建造の模範となったという。
 しかし、豊臣氏が滅亡したとき、徳川氏は神社を破壊し、墳墓は荒廃にまかせてあった。いまの社殿は明治に入ってから再興したものである。
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豊国神社西にある正面通は豊国神社の正面にあることから「正面通」と名付けられている。 


豊国廟
豊国廟 高さ10m(3丈1尺) 489段の階段
 慶長3年(1598)、秀吉は齢63歳を以って伏見城にて薨じた。
遺体は、遺命により、ここ阿弥陀ヶ峰中腹に葬られ、墳上には祠廟、山麓には社殿が建立された。
 翌年4月18日、遷宮式が行われ、後陽成天皇から正一位豊国大明神の神階と神号を賜り、
以後毎年盛大な祭礼(豊国祭)が取り行われた。
 しかし、元和元年(1615)豊臣氏の滅亡と共に廟は破壊され、墳墓に弔する人もなく風雨にさらされていた。
 明治30年(1898)秀吉の300年忌に際し、廟宇が再建され、墳上には巨大な五輪石塔が建てられた。
 なお、社殿には明治13年(1880)旧方広寺大仏殿の地に豊国神社として再建される。
正面橋 豊国廟参道