豊国神社(とよくにじんじゃ)地図
豊国廟(ほうこくびょう)地図

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豊国神社

 
 妙法院と道を挟んだ西側,京都国立博物館 北の旧大仏殿の南半に,
1880 (明治13)年豊国神社が復興した。本殿正面の唐門(国宝・桃山)
は旧伏見城から南禅寺金地院に移したものをさらに移したというが,
二条城のものであった可能性も強いと いう。西本願寺の国宝の唐門に
似て蟇股がみごとである。その両 わきの六角灯龍は秀吉恩顧の大名の
奉献,本殿左右の鉄灯籠(左は 国重文)は釜座(かまんざ)の与二郎の
鋳造銘がある。宝物館には狩野内膳筆紙 本著色豊国祭図(桃山) や,
薙刀直シ刀 (鎌倉),桐唐草 桐鳳凰・桐 薄の蒔絵の唐櫃(とうひつ)3合
(桃山),黄地菊桐紋付沙綾胴服(桃山)などを陳列する(いずれも国重文)。
 
 唐門(国宝)
 もと伏見城のもので、桃山時代の特色豊かな四脚門で明治13年
方広寺大仏殿の跡地に、南禅寺塔頭の金地院から移して建てられた。
大徳寺唐門(非公開)や西本願寺のそれと形式が同じである。
 
 豊臣秀吉像
   
唐門から拝殿に向かって  境内から正面通りに向かって 
   
 拝殿と本殿 唐門扉の鯉の滝登り、登竜門。 
   
   
   
   
 
 扁額「豊国大明神」と左甚五郎の「目無し鶴」
   
 
 祭祀 豊臣秀吉 もと別格官幣社
 一般に「ホウコクさん」の名で人々に親しまれている。
 秀吉の遺体は慶長3年8月18日(1598)伏見城に没したが、当時喪を秘し遺言によって
翌4年2月18日、本社後方の阿弥陀カケ峰に中腹に葬り、 その麓(現在の豊国廟太閤担・
ほうこくびょうたいこうだいら)には、広壮豪華な廟社が造営された。後陽成天皇より正一位
の神階と豊国大明神の神号を賜り、慶長9年(1604)8月の秀吉の7回忌には特に盛大な
時祭礼が行われた。その時の様子は豊国臨時祭礼図屏風(重文)に詳しく描かれている。
 豊臣氏滅亡後、その廟社は徳川幕府により廃祀されたが、明治13年(1880)、
旧方広寺大仏殿跡にあたる当地に社殿が再建された。
 正面の唐門(国宝)は伏見城の遺構と伝え、二条城から南禅寺の金地院を経て、ここに移築
されたもので、西本願寺、大徳寺の唐門とともに国宝唐門の一つとされている。また、その両脇
の石燈籠は、秀吉恩願の大名が寄進したものである。 
 豊国山ととなえ、西麓に社殿を建てここにまつった。そのときは豊臣家の恩を受けた諸侯が
競って造営に参加したので、社殿は華麗宏壮をきわめ天下第一といわれ、のち日光東照宮
造の模範となったという。
 しかし、豊臣氏が滅亡したとき、徳川氏は神社を破壊し、墳墓は荒廃にまかせてあった。
いまの社殿は明治に入ってから再興したものである。
方広寺追加  説明文追加 
豊国神社西にある正面通は豊国神社の正面にあることから「正面通」と名付けられている。 
 
月の内8のつく日(8・18・28日)に露店が出店される。
     
摂社 貞照神社 
祭神 従一位准后 北政所豊臣吉子方 


豊国廟
豊国廟 高さ10m(3丈1尺) 489段の階段
 慶長3年(1598)、秀吉は齢63歳を以って伏見城にて薨じた。
遺体は、遺命により、ここ阿弥陀ヶ峰中腹に葬られ、墳上には祠廟、山麓には社殿が建立された。
 翌年4月18日、遷宮式が行われ、後陽成天皇から正一位豊国大明神の神階と神号を賜り、
以後毎年盛大な祭礼(豊国祭)が取り行われた。
 しかし、元和元年(1615)豊臣氏の滅亡と共に廟は破壊され、墳墓に弔する人もなく風雨にさらされていた。
 明治30年(1898)秀吉の300年忌に際し、廟宇が再建され、墳上には巨大な五輪石塔が建てられた。
 なお、社殿には明治13年(1880)旧方広寺大仏殿の地に豊国神社として再建される。

 豊国廟は豊臣秀吉の墓所で,もとの豊国社である。神社は秀吉の遺命により秀頼が半年をかけて石段上
り口の太閤坦(たいこうだいら)に80余りの社殿や僧坊を築き,やがて豊国大明神の神号が下された。1604 (
慶長9)年8月の7回忌の臨時祭は有名で,豊国踊りや風流踊がはなやかに行われた。
 豊臣氏滅亡後は朽ちるにまかされたが,明治になって整備された。  

正面橋 豊国廟参道
秀吉の橋琵琶湖に移築  豊国廟