第6番 万年山 慈尊院
主な年中行事 | 1月1日〜3日初詣(初祈祷) 1月5日初弥勒 2月節分祈祷 3月21日正御影供 旧3月21日旧正御影供 8月9日施餓鬼会 12月31日除夜 毎月21日大師縁日 毎月5日弥勒縁日 |
回忌本尊十八仏 | 弥勒菩薩 六七日 |
開山 | 弘法大師 |
開創年 | 弘仁7年(816) |
御詠歌 | いまもなお にょにんねがう じそんいん みろくぼさつぞ あおぐひとびと |
電話 | 0736-54-2214 |
住所 | 〒648-0151 和歌山県伊都郡九度山町慈尊院832 |
宝物(文化財) | 木造弥勒菩薩坐像(国宝) 弥勒堂(重文) |
縁起 | 慈尊院は、弘仁7年(816)、弘法大師が、高野山開創の時に、高野山参詣の要所に当たるこの地に、表玄関として伽藍を草創し、高野山一山の庶務を司る政所を置き高野山への宿所ならびに冬期避寒修業場所とされた。 大師の御母公が香川県善通寺より、我が子の開いている山を一目見たいとの一念からご高齢にもかかわらず当院へ参られ、ご本尊弥勒菩薩を篤く尊崇せられた。承和2年2月25日に、御母公が入滅された時に大師は、母公が弥勒菩薩になられた霊夢により廟堂を建立して、自作の弥勒仏と御母公の霊を安置された。 慈尊とは、弥勒菩薩の別名でこれより表向きに慈尊院とよばれるようになった。 文明6年(1474)ご廟を現在の場所に移された。 天文9年(1540)紀の川の氾濫により慈氏寺講堂の大半は流れ、残った堂塔を弥勒壇に縮小移転し、天文10年3月、落慶供養がされたが、高野山も政所の事務を山上に移し、宝蔵の什宝をすっかり山上に運びあげてしまった。 天文13年(1544)7月、紀の川にまた大水が出て、残っていた旧慈氏寺はみな流され紀の川床となってしまった。 女人高野について 母公が高野山へ大師を尋ねようとされたが、大師はみずから七里(28キロ)四方を女人禁制としておられたので、山麗の当院へ迎えられた。 大師は、月に九度は必ず高野山より20数キロの山道を下って、母公を尋ねてられたので地名を九度山と称す。 ご母公が、ご本尊弥勒菩薩を崇拝されておられたので、入寂のみぎり、ご本尊に化身されたという信仰となり、女人高野参りは、当院までということも相俟って、子宝、安産、育児、授乳等を願って、乳房型絵馬を奉納して祈願し、また髪の毛をお供えして病気平癒を祈った。これにより女人高野といわれるようになった。 尚、近郷近在の老人は、ご母公はどの長生きをしたいと五日にお参りし、また長生きしても、迷惑のかからぬよう極楽往生できるように、ポックリさんへ、また、智恵、学力の弁財天・財宝の稲生明神・子育の神のカルテンさんや痛む箇所を手でさするビンズリさんや弘法大師が本尊で四国八十八ケ所のご本尊を脇に祀る四国堂があり、女の人が慈尊院にお参りすれば、すべての願いが叶うように、お祀りしてある。 結縁寺 高野山詣りは、まず高野山の玄関である慈尊院弥勒菩薩と縁を結び罪業を流してから山上へ登って頂くのが高野山への本参りとされているところから高野山の結縁寺とされてある。 |