二条城 年表
年号 | 西暦 | 歴 史 | 摘 要 |
慶長6年 | 1601 | 12月徳川家康が西日本の諸大名に二条城の築城を課す | 1600関が原の合戦 |
慶長8年 | 1603 | 二条城完成(現在の二の丸部分) 徳川家康が御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所として築城 |
1603家康将軍となる |
3月家康始めて入城、このあと11年4月ごろまで城内整備を続行 | 1605秀忠将軍となる | ||
16年 | 1611 | 3月豊臣秀頼は加藤清正らをともない家康と会見 | |
19年 | 1614 | 12月城内で大阪冬の陣の軍議を開き当城より出陣 | |
元和元年 | 1615 | 5月城内で大阪夏の陣の軍議を開き当城より出陣 | 1615豊臣家亡ぶ |
7月禁中並公家諸法度を城中にて発布 | 1616家康死去 | ||
寛永元年 | 1624 | 後水尾天皇行幸を迎えるため城の拡張 天守完成現在の規模となる |
1623家光将軍となる |
3年 | 1626 | 3代将軍家光が本丸・二の丸・天守閣を完成させ現在の規模になった。 9月後水尾天皇二条城行幸(5日間) |
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4年 | 1627 | 行幸御殿など殿舎の一部を城外他所に移転 | |
10年 | 1633 | 7月小堀遠州城内に茶室をつくる 翌年6月完成 |
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11年 | 1634 | 家光30万人と称する大軍を率いて入城 このあと二条城には二条在番を置き留守居をさせる |
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万治3年 | 1660 | 4月大風雨のため被害をうける | 1651家綱将軍となる |
寛文2年 | 1662 | 5月大地震城内各所の施設被災する 11月修理に着手 |
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5年 | 1665 | 5月地震により石垣や二の丸殿舎の一部破損 | |
延宝5年 | 1677 | 本丸・二の丸施設破損修理、8年(1680)まで続く | |
貞享3年 | 1686 | 二の丸殿舎の破損調べ、続いて27年ヵ年かけて修理 | 1680綱吉将軍となる |
他方二の丸現在の殿舎を除く他の施設をとりこわす | |||
この頃各所の修理、天守の修理 | |||
寛延3年 | 1750 | 8月雷火により五層の天守消失する | |
天明8年 | 1788 | 1月天明の大火により本丸殿舎、同櫓焼失する | |
天保元年 | 1830 | 7月大地震により被災する | |
3年 | 1832 | 7月地震による破損を修理する | |
文久2年 | 1862 | 将軍家茂の上洛を迎えるため二の丸殿舎の整備及び仮設建物の造営に着手 | |
3年 | 1863 | 3月家茂入城(1634家光が入城して以来229年目) | |
慶応2年 | 1866 | 12月二条城内において慶喜15代目の将軍職を継ぐ | |
3年 | 1867 | 10月二条城に40藩の重役参集し大政奉還の意思を表明する | |
二の丸御殿大広間において慶喜が大政奉還を発表 二条城ではじまった徳川将軍家は同城で終わりを告げ、 鎌倉期から続く武家政治が終幕となる。 |
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明治元年 | 1868 | 1月城内に太政官代が置かれる(現在の内閣にあたる) | |
4年 | 1871 | 二の丸御殿内に府庁を置く のち一時陸軍省になる |
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17年 | 1844 | 7月二条離宮となる(宮内省所有) | |
18年 | 1885 | 大修理が実施される | |
26年 | 1893 | 京都御所北東部にあった桂宮御殿を本丸に移築し本丸御殿とする | |
翌年完了、本丸庭園造成 | |||
30年 | 1897 | 二の丸殿舎の破風、金具、入側小屋、廊下廻り格天井の張付絵を新装する | |
大正4年 | 1915 | 大正天皇即位の大典があり、大宴会場をつくる 宮内省より二条離宮すべてを京都市に賜る、文化財指定をうける |
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昭和14年 | 1939 | 宮内省が二条離宮を京都市に下賜。 翌年、恩賜元離宮二条城として一般公開を始める |
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15年 | 1940 | 2月11日恩賜元離宮として一般公開をはじめる | |
平成6年 | 1994 | 世界文化遺産に登録 |