修学院離宮
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後水尾法王
によって1659年造られた。
天皇在位の間、幕府によって天皇や公家を統制する禁中並公家諸法度の制定、
2代目将軍・秀忠の娘和子の入内の受け入れ、
幕府に届けを出さず高僧に紫衣を与えたことが問題視された紫衣事件等、徳川幕府から様々な圧力を受ける。
山腹にダムともいえる人造池を持ち、周囲の田園風景を借景として取り込んだ山荘。
修学院離宮と呼ばれるようになったのは明治になってから。
造営当時の山荘をベースに、上・中・下の三つの離宮で構成されている。