ボスフォラス海峡地図
マルマラ海に向かっての眺め | 黒海に向かっての眺め |
1452年3月。メフメット2世はボスフォラス海峡に面した丘の上に砦の建設を始めた。 全長32kmのボスフォラス海峡は、広いところでも幅が2.5km、狭いところでは1000m以下となる。 その中でも幅660mと最も狭いアジア側の岸辺にバヤズイット1世が1396年に築いた 砦アナドル・ヒサールがある。 メフメット2世は黒海と地中海との要衝であるボスフォラス海峡を支配するために、 この最も狭まった地点にルメリ・ヒサールの建設を企てた。 資金も豊富なオスマン帝国はやがてヨーロッパから高度な大砲をも手に入れる。両岸に砦を築くことで、 すべての船を射程内に抑えることができるようになった。こうしてヨーロッパとアジアを結ぶ通商路を抑え、 ビザンチン帝国の生命線を牛耳ってしまったのである。 ヒサールは砦を意味する。ルメリはビザンチンの土地という意味であり、それはヨーロッパを示していた。 異例の早さで工事が進められ、ルメリ・ヒサール(第二ボスフォラス大橋にヨーロッパ側)はわずか 6カ月後の9月に完成した。 これを機にメフット2世は、コンスタンチノーブル南方にある小さな町を次々と占領する。 こうしてコンスタンチチノーブル攻略の準備は整っていった。 |
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メフメット2世はファティヒと呼ばれファティヒとは征服者を意味する。 この征服者という通称を持つ人物はこの人一人といわれる。 彼はコンスタンチノーブルを征服したオスマントルコの皇帝である。 コンスタンチノーブルの陥落は、単なる一都市をめぐる攻防戦ではなかった。 一千年以上続いたビザンチン帝国が消え去り、キリスト教の首都がイスラム教の首都に変わった 瞬間であった。 コンスタンチンノーブルの陥落は西ヨーロッパ諸国を震撼させ、オスマン帝国の力をあらためて 認識させるきっかけとなった。 ビザンチン帝国の崩壊は、西欧のキリスト教国にとって恐るべき事態であった。 |