第74代 鳥羽天皇(とば)地図
父 … 母 … 贈皇太后藤原苡子(藤原実季の娘)誕生 …1103年(康和5年)1.16 御名・異称 … 宗仁(ムネヒト)・空覚 中宮 … 藤原璋子(待賢門院) 皇后 … 藤原泰子、藤原得子(美福門院) 立太子 …1103年(康和5年)8.17 即位 …1107年(嘉承2年)7.19 在位年数 …17年 崩御 …1156年(保元元年)(年齢54才) 皇居 … 平安宮 年号 … 嘉承、天仁、天永、永久、元禄、保安 ○ 5才で即位したため、祖父の白河法皇の院政が続いていた。法皇在世中は、政治的表舞台に出ることはなかった。 ○1123年(保安4年)顕仁親王(後の崇徳天皇・崇徳天皇は表向きは鳥羽天皇の第一皇子となっているが、実際には入内前の璋子との関係から白河法皇のご落胤であるといわれている。)を皇太子に立て譲位した。これは白河法皇の意志で行われ、白河法皇崩御後も鳥羽上皇と崇徳天皇の間に不和が続く結果となった。 ○1129年(大治4年)白河法皇が崩御、27才で政治を行い、崇徳・近衛・後白河の三天皇の院政を行った。白河法皇を本院、鳥羽上皇を新院と呼ばれた。 ○ 鳥羽上皇は待賢門院を退けて、藤原長実の娘得子(後の美福門院)を入内させ女御とし皇后にした。これに先立ち藤原勲子を泰子と改名させ立后させた。鳥羽上皇は三人の后を迎えたことになる。 ○ 崇徳天皇に迫って強行に譲位させ、近衛天皇の即位となったが、近衛天皇が病没すると後白河天皇を即位させた。 |
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陵墓名 … 所在地 … 京都市伏見区竹田内畑町 ○ 崩御後入棺、安楽寿院内の塔下に奉葬した。 ○ 鳥羽離宮内に安楽寿院内を建立し、同時に二基の塔を造営されていたが、一つは東面する約9m四方の三重塔で、塔内に無量寿像を奉安され、塔内地下に石枢を設け、仮御陵と定め本御塔と称した。しかし、焼失したため、法華堂をその後に建てた。他の一塔は東面二重の多宝塔で新御塔といわれる。後に近衛天皇陵にした。 |
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南北朝時代 | 鳥羽上皇の出家 | ||||
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仏道に心を寄せられていた上皇は永治元年3月10日、離宮で剃髪になり、39歳の若さで出家された。 |