京都 散策ガイド 追加

高瀬川の桜
インクライン
石清水八幡宮
御門
知恩院
天龍寺
仁和寺
平野神社
錦天満宮
六角堂
相国寺
豊国神社
方広寺
東福寺
青蓮院
住蓮坊母公墓
小野篁
大原野神社
常照皇寺
南座



天龍寺追加

 京福電鉄嵐山駅の北西に天竜寺(霊亀山天竜資聖禅寺,臨済宗天

竜寺派大本山)がある。本尊は釈迦如来である。1339 (暦応2) 年

8月に後醍醐天皇が吉野の行宮で没すると,夢窓疎石の勧めで足利

尊氏は翌年4月亀山殿の旧地に寺院建立の工を起こした。寺号は

暦応の年号から暦応資聖禅寺と定めたが, 延暦寺が暦の字の使用
に反対し,2年後天竜寺とした。また夢窓疎石が臨川寺開山である

ので開山就任を固辞したが,院宣により開山とした。工事は戦乱に

よる財政難などで遅れたので, 対明貿易の利益をあてることにして

派遣したのが天竜寺船で,1船につき銅銭5000貫文を納める義務を

課した。その後工事は順調に進み, 1342(康永元)年10月上棟式,

1345(貞和元)年8月盛大な完成の式典を挙行した。当時は五山の

第2位で, 1386(至徳3)年に第1位の南禅寺を五山の上としたの

で第1位となった。

 幕府の保護が厚く,1387(元中4)年の文書によると寺納米2402

石,銭5721貫文,秀吉のときは1720石であった。足利将軍家と夢窓

門徒は永代師壇契約を結び,僧録司の春屋妙皅が入寺するなどし

て順調に発展,15世紀前半に最盛期を迎えた。しかし,しだいに学

問研究や詩文の述作に流れて禅風振るわず、応仁の乱で全焼,さら

に足利家の没落とともに衰退した。江戸末期には元治の役で長洲藩

の本陣となったため,その報復として薩摩藩の砲撃をうけ主要伽藍

が焼失し,明治維新では廃仏段釈で大きな打撃をうけ, 1877 (明治

10)年25町歩が上地された。この間1869(明治2)年滴水宜牧が, 次

いで峨山 信禎が復興に努め,1900年頃ほぼ現在の規模となった。

 夢窓疎石は伊勢の出身,天性の傑大な布教家で政治手腕も優れ,

足利尊氏·直義兄弟は深く帰依した。夢窓は両人に勧めて,南北朝

対立時代の死者の霊を弔うため,国ごとに安国寺·利生塔を建てさ

図せ,また両人の対立の調停,さらに南北朝講和の幹旋にも活躍した。

 門を入って中門と左方の勅使門は桃山時代の建築。長い参道の右

手に塔頭が並び, 勅使門の先に放生池,三門跡・仏殿跡を経て江

戸時代の旧選仏場を移築した法堂があり,釈迦像と夢窓·尊氏の木

像を安置する。天井の竜は明治の画家鈴木 松年の筆。このとき用

いた2.6mの硯が法堂前の視石碑である。後方の大方丈は明治の大

建築で木造釈迦如来坐像(国重文·平安)を安置する。襖絵は若狭

物外筆の竜。これより庫裏,小方丈と続き,後醍醐天皇像と歴代天

皇の位牌を安置する多宝殿に至る。

 大方丈前の庭園(国史跡·国特別名勝·鎌倉)は曹源池を中心とし

た名園で,方丈からみて左方山すそに2段の滝組,前面の池中に立

石群,亀山·嵐山を借景とする池泉廻遊式である。夢窓の作庭と伝

えるが、旧亀山殿庭園を利用したと思われる。庭園背後の丘に塔頭

松厳寺の旧地の墓地があり,「源氏物語」の注釈書『河海抄』の

著者で歌人の四辻善成の墓,境内北西に後嵯峨·亀山両天皇陵がある。

 天龍寺は、始御門の変(1864)のとき、長州藩兵がこもって、寺域はことごとく焼かれた。

建物は、すべて再建以後のもので古いものはない。しかし、庭園だけは、ほぼ夢想国師疎石が造っ

た当時の姿が残っている。平安時代の初め、このあたりは嵯峨天皇(在位809~23)の皇后·橘嘉智子が

造った旧檀林寺がここにあり、創建以来160年あまり続いたのである。

ややこしいことであるが、天龍寺は、重複遺跡で色々なものがあった。

嵯峨院、植林寺一後嵯峨天皇仙洞御所一亀山天皇仙洞御所-浄金剛院一天龍寺と変わってきた。

天龍寺は、足利尊氏が夢想国師の勧めで、後醍端天皇の契福を祈るため、天皇の幼少のときの祖父

亀山天皇と過ごした緑りの地に、暦応2年(南朝延元4年、1339)に着工し、7年を要して造った。

 天龍寺の創建については、色々な言い伝えがある。(中略)

寺域はかっては、いまの何十倍も大きかったのであるが、いまも堂々たる広い寺である。夢想国師が

造ったといわれる庭のなかで、どれが本当のものなのか、まだよくわからない。寺の方は8回も焼

けたといわれるが、庭園は原型に近いものと思われる。

 鯉は霊魚で、池中千年をへれば天に昇って竜になるといわれる。その登る口を登竜門という。

この庭の滝口が登竜門といわれ今もある。この寺には、他に法堂の天井に、有名な龍の日本一の墨

絵がある。元来、天龍とは天皇のことでその縁で龍天井があり、竜門があるのだろう。
 京都の旅 樋口清之 松本清張

由緒





仁和寺

  <御所の風情を味わう>

境内南端の 王門から、木立に囲まれた参道を真っすぐ進むと、国宝の金堂が見えてくる。屋根の傾斜は緩やかで、
左右に羽を広げ
るような姿は柔らかな空気を漂わせる。それもそのはず。
1613 (慶長18 )年に建てられ
た紫宸殿(御所の中心建造物)が、寛永年間の1624~43年に移築されたものだ。
ひわだぶきの屋根が瓦
ぶきに変わったものの、元はみやびな空間の中心であり、今では紫宸殿の姿を知る最古の
建物としても貴重
な存在になっている。

この寺は光孝天皇(830~887)が創建し、その皇子・宇多天皇(867~931)が志を引き継いで伽藍を整えた。
888(仁和4)年に完成させた
ことから仁和寺と呼ばれるようになり、明治まで皇族、貴族の庇護を受けてきた。そのため、
「仁和寺御
殿」という別名までついていた。

そのせいだろうか、極彩色の壁画を背景に金色の阿弥陀三尊などが並ぶ金堂内は華やかだ。

現在の阿弥陀三尊は1644 (寛永21 )年のもので、創建時の三尊像(国宝)は霊宝館に安置されている。
中尊の阿弥陀如来
脇侍の観音勢至両菩薩も丸々としていて安心感を与えてくれる。
後継争いも少なくなかったとされる時代に、和歌を好んだという
光孝・宇多両天皇はなにを祈ったのだろうか。

金堂の東隣に立つ経蔵は1640年代に建てられた。花やとんがり帽子に似たスタイルの花頭窓(かとうまど)があって、
ここだけは中国的とい
うか、禅宗的な雰囲気がある。仏道の根幹をなす経典の箱768個を納める建物としては、
優美さよりも厳
格なイメージが求められたのだろうか。

寺の前を通る道は「きぬかけの路」。宇多天皇が夏のある日、寺の北東にある衣笠山、別名きぬかけ山に絹をかけて
雪の風情を味わ
ったことにちなむ。金閣龍安寺仁和寺を結ぶにふさわしい、歴史のある名前かと思ったら、
近年公
募で決まったのだとか。

かつての名は「観光道路」。金閣寺から仁和寺までの名所を結ぶためらしい。粋も風情も感じさせない名前が、
京都の町中、そ
れも「御殿」と呼ばれるほどのお寺の真ん前にあったとは意外だった。


(編集委員,小滝ちひろ)
2017-4-15 朝日新聞

 
内裏の正殿の面影

 下を見上げると整然と並ぶ垂木が三段。「三軒(みのき)」と呼ばれる珍しい造りは、この建物の由来を示す。

 もとは内裏(天皇の住まい)の正殿、紫宸殿。1613年に造営され、寛永年間の徳川家光による内裏

造替(ぞうたい)の際、天皇とゆかりの深いこの寺に移築された。

現存最古の紫宸殿の遺構である。屋根が檜皮葺きから本瓦葺きへ。阿弥陀三尊像が安置され、浄土図が描かれる

など仏堂へと改修されたが、随所に紫宸殿の面影が残っている。

 
写真は仁和寺金堂の軒下

2017-4-21 朝日新聞
 








平野神社

 平野神社は都が京都に遷都した時から この平野の地

に御鎮座し、千二百年もの歴史を有します。平安時代

の書物「延喜式」によると全国で唯一、皇太子御親祭が

定められていました。また、国家の重大事など、皇城鎮

護の神社を定めた二十二社の五位に列せられました。

中世には応仁の乱により荒廃し、江戸時代初期に平氏

の嫡流の西洞院時慶卿の尽力によって社殿や境内が再

興しました。近代社格制度では明治四年に官幣大社に

列格されました。  

 
 桓武天皇⇒   円融天皇⇒  花山天皇⇒  石清水八幡宮⇒  上賀茂神社⇒  下鴨神社⇒  松尾大社⇒









錦天満宮地図

錦の天神さん 御祭神 菅原道真 京の名水「錦の御神水」
 錦市場の東の突き当たりにある。
 千年の歴史をもち、秀吉の町改造で現地へ移り今の社名となっている。
 知恵・文学・商売繁盛の神様。
 鳥居の上(笠木)の両端が隣の民家の建物に入り込んでいる。
 この井戸は地下百尺(30m)より湧出昼夜の別なくこんこんと湧き、霊験あらたか、水温年中17・8度を保つ。検査の結果、
無味、無臭、無菌。飲用に適する良質の御神水。
持ち帰り自由。
 食に厳しい客の要望に応える店主らを支えているのは、地下を脈々と流れる錦の水である。



六角堂

 六角通を隔て飛地境内にあり、慶長10年(1605)豊太閣の堀尾吉晴の嫡男忠氏が寄進。当時は一向衆による一向一揆、加茂川洪水、水や大火の際にこの鐘をついて、急を市民に知らせたという。
 この鐘は、天明(天明8年・1788)の大火で焼失、天保11年(1840)に再建したが、二次大戦に献納された。
 現存のものは昭和29年に再鋳復元、銘文は天保年間のものによる。

 花外 蒲牢の響き 長安 半夜の天
 撃つ人は盛徳を輝かし 聞く者は名纏(めいてん)を解く
 朝に遠山の砦を渉り 暮に街市の(けむり)にむせぶ
 
 観 音 妙 智 力  寿 幾千年か算えん
  
 慶長拾乙巳の年 春季 如意珠の日

 
  頂法寺化鐘

 六角堂 頂法寺





御門

今出川御門
地図
石薬師御門
地図
清和院御門
地図
寺町御門
地図






相国寺

 
 
 法堂
相国寺勅使門 相国寺天界橋
 
 天界橋 池の水が抜かれている





豊国神社

豊国神社参拝の栞

由緒

 豊国神社は京都市東山区大和大路正面茶屋町(市バス博物館三十三間堂前下車北
三百米余)旧大仏殿遺跡地にある。

祭神は前関白太政大臣贈正一位豊臣秀吉公の御一柱である。

明治八年現在の地を相し、明治十三年造営が成った。当初豊国神社は大阪城外に祀

宇造営の御沙汰(明治天皇)があったが、永年にわたる京都市民挙げての熱願によ

り本社は京都へ御治定になり大阪へは別社を営まれる事になった。

境内摂社貞照神社は大正十四年の創建で秀吉公の夫人従一位北政所、吉子の方を、

お祀りしてある。北政所は世に有名な「おねの方」でいわゆる糟糠の妻として、豊

公の天下統一の大業には内助の功頗る大きく、豊公の薨後は東山の高台寺に隠棲さ

れ寛永元年七十六才で薨ぜられた。

宝物館 
 本社境内には桃山風造りの宝物館があり、豊太閤に由縁り深い宝物が展示されてお

り、豊公の御遺徳を偲ぶことが出来る。

(拝観は年中無休 午前九時S午後四時半)

豊国廟

 京都市東山区今熊野北日吉町・東大路七条東入,(豊国神社飛地境内)

豊太閤は慶長三年六十三才を以て、伏見城に薨去せられ遺命によって阿弥陀ケ峯に

葬られた。翌年勅命により山腹の太閤坦に日本最初の権現造りで結構壮麗、雄大な

社殿の造営が成された旧豊国社の遺跡であり、明治三十一年豊太閤三百年祭に当り

豊国会の手により大改修が行われ諸殿宇が完備された境域七万坪余、古くから桜、

紅葉の名所として知られ、近年更に増植が計られている。

近辺の縁故史蹟

方広寺 (大仏殿)
 京の大仏殿として知られた方広寺は天正十四年豊太閤の創立になり、

時の本尊木造盧舎那仏座像は高さに於ても奈良の大仏より約一丈も高かったと言わ

れ、その荘厳華麗は今に語り伝えられる。その後再三の災禍に遭い、最近迄は天保

十四年建立の木造上半身像(高さ十四米余)であったが、これも昭和四十八年三月

二十七日の出火により焼失した。境内には豊臣、徳川決戦の因を成したと言われる

有名な「国家安康」の大鐘(重要文化財、高さ四.二米、重さ八二・七噸)がある。

豊公大石垣(史蹟)
 豊太閤大仏造営に当り二十一ヶ国に巨石をもとめ俗に石狩りと云われ
た。
諸大名が競って自領の名石を運びその大きさ等も争ったと伝えられ蒲生石、

賀の泣石等の名も残って居る、延長約四百五十米が現存する。

耳塚(史蹟)

 豊国神社正面石段下約三十米の所、

小丘陵上に五輪塔(高さ約五米)がある、

文禄慶長の役に首長の代りに鼻を持ち帰ったものを、異人とは云え国難に斃れ

たる兵士の霊を厚く弔うべしとして葬り御身塚と云われたものが訛り耳塚と云われ

る様に成ったと伝えるが他に異説もある。

馬塚(史蹟)

 豊国神社境内東南隅に(旧大仏殿遺跡)ある高さ約二・五米程の小五輪塔で、
旧豊国社取壊し後、豊太閤崇敬者の代拝所として阿弥陀ケ峯より移霊した御塚

であったが、時の徳川氏の権威を憚り名を近辺の地名馬町に因み馬塚と呼ばれる様

に成ったとるる説が多い。





方広寺

 
 巨大な石塁(国史跡)で囲まれた伽藍は西向きに作られ、
規模は南北260m、東西約210mと推定される。
 大仏殿は回廊で囲まれ、西側正面に仁王門、三十三間堂に向かう
南側には南門が開いていた。
 仁王門跡から西へのびる道が正面通りと呼ばれることも方広寺に
由来している。
 なお、「方広寺」の名称は、東大寺の重用な法会(ほうえ)である方広会
(ほごえ)にちなむといわれている。
  かつてこの壇には、 豊臣秀吉が奈良東大寺にならって創建し、その

後秀額が再建した方広寺の大仏殿が、 偉容を誇って建っていた。

 現在の緑地はその中心部分にあたり、 2000年に遺構の状態を確認

するための部分的な発掘調査が実施された。調査の結果大仏殿

の正確な位置が判明し、 その規模も南北約90m東西約55mという。

 現在の東大寺大仏殿をしのぐ仕大さであったことがあらためて確

認された。発見された遺構は地下に埋め戻して大切に保存し、

小舗石や板石などで位置を地表に明示している。 

 

 豊臣秀吉、秀頼親子が建立した方広寺(京都市東山区)の大仏殿跡を調査して

いた京都市埋蔵文化財研究所は十日、大仏殿の柱や台座などの遺構を初めて
確認した、と発表した。大仏殿の規模は南北約九十、東西約五十五mと推定でき、

世界最大の木造建築物とされる現在の奈良・東大寺の大仏殿を超える大きさだっ

たことがわかった。

 調査は公園整備をするにあたって七月から始まった。大仏殿の基壇部分に敷

き詰められていた石敷きや柱、大仏の台座、階段などが発掘された。柱跡は計四

ヶ所見つかり、約八m問隔で南北に三ヶ所、別に東側に一ヶ所あった。一方、大

仏殿の中心にあったとされる八角形の台座の一部や南端部分にあたる階段遺構

も出士した。

 方広寺の大仏殿をめぐっては、「方広寺伽藍図」や「大仏殿絵図」が伝わり、

南北は四十五間二尺七寸(約八十八·二m)、東西は二十七間六尺三寸 (約五十

三.九m)などと記されていた。高さは大仏殿絵図によると五十.五mとされている。
今回の調査でこれとほぼ同じ大きさであるととが確認されたことになる。 

秀吉の権威を象徴

 方広寺は、秀吉が一五八六年 (天正十四年)、東大寺にならって大仏建立を思

い立ち、造営を始めた。いったんほぼ完成したが、地震で大仏が大破。秀吉の死

後、秀頼が復興を目指し、火災で大仏殿を焼失したものの、一六一三年(慶長十

七年)に完成。一七九八年(寛政十年)に落雷で焼失した。

 大仏殿の南にあった大鐘楼の焚鐘にあった銘文が、「徳川家に不吉」として、

大坂冬,夏の陣が起きたことでも知られる。

 

村井康彦・国際日本文化研究センター名誉教授 (日本変化史)の話
 大仏殿の大きさはすでに資料などで知られていたが、実際の調査により数字
で裏付けられたのは意義がある。秀吉はこの時期、京都で聚楽第や寺町などを
つくり、都市改造に大きくかかわった。方広寺はその事業の一環。

「大きさ」が力の尺度になった時代で、大仏殿は当時の秀吉の権威を象徴してい

たとみていいだろう。

 正面北側に連なる巨大な石垣は、天正14年(1586)に建てられた方広寺の遺構で、「方広寺石塁」として史跡に指定されている。
  方広寺石塁の厚さが1m内外しか無い。これは、石材を立て使いにし

て、最も広い面を石塁の表に出すように構築していることになる。 また、「史跡方広寺

石塁修復工事報告書」では23の石材のうち約3割にあたる7石が、長径を高さ方向に取っている

ことが示されている。 まるで大きなタイルを貼り付けて積んでいるようなもので、とても不安

定な石塁に思われるが、 この石使いが方広寺石塁の構築方法の大きな特徴である。

 通常の石垣は、石材の長径を奥向きか横向きにとり、最も広い面が上か下を向くように積み上

げていくために、2番目に広い面か最も狭い面が表に出ることになる。 堅固な石垣を築くに

はこの方法が最も合理的で、現に桃山時代の城郭はこのようにして積まれている。 

 ただ、慶長元年の大地震に際して、同じ時期に造営されていた伏見城が石垣まで崩壊

し再建を余儀なくされたのに、なぜ不安定なはずの方広寺石塁が無事で残ったか不思議

である。

  大仏殿の屋根に葺かれた瓦は、当時の邸宅や城郭に葺かれた通常のものよりも
大きなもので「太閣瓦」とか「大仏瓦」と呼ばれている。今回の調査でも、 桐文の

軒丸瓦(径25.4cm)や軒平瓦(幅35.5cm)が出上している。また、石垣の裏込めには、

供養のための石仏や五輪塔などの石造物が数多く使われていて、100個体あまりが見つ

かっている。桃山時代に築かれた城郭の石垣にも数多くの石造物が石材のつとして

使われているが、仏殿でも同様に使われた往時の様子がうかがえる。 

仁王門跡(現豊国神社)から西へのびる道が正面通 方広寺本堂
大仏殿跡緑地 
 この地は豊国神社の東隣にある。 大仏殿跡の遺構は地下に保存されている。






東福寺 重森三玲作庭

南庭 東庭
西庭 北庭

東福寺方丈と八相の庭


 広大な方丈には東西南北に四庭が配され「八相の庭」がる。禅宗の方丈には、古くから多くの名園が残されててきたが、方丈の四周に庭園を巡らせたものは東福寺の方丈のみである。
 作庭家・重盛三玲(みれい・1896~1975)によって昭和14年に完成されたもので、当時の創建時代にふさわしい鎌倉時代庭園の質実剛健な風格を基調に、現代芸術の抽象的構成を取り入れた近代禅宗庭園として、世界各国に紹介されている。

松尾大社⇒
瑞峯院⇒



知恩院

知恩院大方丈(重要文化財)

 寛永十八年徳川家光の建立。桁行三四・五m,梁間二五

m単層檜皮葺入母屋造、正面軒唐破風、玄関、歩廊の付随

した大方丈。中央仏間には阿弥陀如来像を奉安する。東側の

室を「上段」「中段」「下段」とし、「上段」には床・棚・付書院

帳台構を設ける。狩野派絵師による金碧障壁画が室を飾る。


小方丈(重要文化財)
 大方丈と
廊下でつながれた建物で、大方丈と同じく寛永十八年の建立。
桁行
二二・七m、梁間十八・ 七m、単層入母屋造、檜皮葺、六室三列中央南室
(室中)
は雪中山水の間と呼ばれ、正面には大床が設けられている。
東奥室には
床・棚・付書院・頂帳台構を設けた上段の間がある。

襖絵は主として水墨画を以て装飾されている。





青蓮院

青趣院門跡の由緒

  史蹟青  蓮院旧仮御 所

 青蓮院は天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡の一つとして古くより知られ、現在は天台宗の京都にある五つ

の門跡寺院を五ヶ室と呼んでいるその一つである。日本天台宗の祖最澄(伝教大師)が比叡山を開くにあたっ
は、山上に僧侶の住坊を幾つも造ったが、その一つの青蓮坊が青蓮院の起源である。比叡山の東塔の南谷即

ち現在大講堂の南の崖下に駐車場用に整地された所がその故地である。伝教大師から円仁(慈覚大師)、 安恵、

相応等延暦寺の法燈を継いだ著名な僧侶の住居となり、東塔の主流をなす坊であったと思われる。その第十二,

代行玄大僧正(藤原師実の子)に鳥羽法皇が御帰依になって第七皇子をその弟子とされ、院の御所に準じて京
に殿舎を造営して青蓮院と改称せしめられたのが門跡寺院としての青蓮院の始まりで、即ち行玄は門跡寺と
して
の青蓮院の第一世、その皇子が第二世門主覚快法親王である。山上の青蓮坊はそのまま青蓮院の山上御本

坊と称されて室町時代迄は確実に維持されて居り、門主が山上の勤めの時の住坊となっていた。行玄以後明治

に至る迄、門主は皇族であるか五摂家の子弟に限られた。

 当院は平安時代の末から鎌倉時代に及ぶ第三世門主慈圓(慈鎮和尚、藤原兼実の弟)の時に最も栄えた。慈

圓は天台座主を四度つとめてその宗風は日本仏教界を風靡し、皇室の尊信極めて篤く勅旨による修法を始め仏

事に尽した功績は数限りないが、又日本人始めての歴史哲学者として不朽の名著「愚管抄」を残し、新古今時
の国民的歌人として『拾玉集』を我々に示している。台密の巨匠である反面、浄土宗の祖法然·真宗の祖

庇護し、法然の寂後時を経てその門弟源智(平重盛の孫)が創建した勢至堂は慈圓が法然に与えた院内の
一房
の跡で、之が知恩院の起源となった。親鷲は九歳の時に慈圓について当院で得度し、寂後院内の大谷(現
在の
知恩院の北門の傍の崇泰院の地)に墓と影堂が営まれたのが本願寺の起りである。それ故本願寺の法主は

治までは当院で得度しなければ公に認められず、又当院の脇門跡として門跡を号することが許された。

 慈圓は後鳥羽上皇から托された朝仁親王(入道道覚親王)を所謂寫瓶の弟子としてすべてを譲る考えであっ
が承久の変が起って鎌倉幕府に阻まれ、寂後二十数年して漸く道覚親王は衆望を担って第六世門主となり天

座主となられた。爾来青蓮院は入道親王入寺の寺であることを誇りとして明治に至った。中でも第十七世
道尊国親王は伏見天皇の皇子のこととて書道に秀でられ、和風唐風を融合した日本独特の書風を樹立され、
の後の歴代門主も皆尊圓親王の書風をよくして永く日本書道界に君臨した御家流の家元となった。応仁の乱の

兵火を免れず、徳川氏には豊臣氏滅亡後今の知恩院の全域を取上げられたが、相阿弥の作と伝える龍心池を中

心とする室町時代以来の庭園から粟田山将軍塚にわたる境内は今日まで保有され、徳川幕府も殿舎の造営には

力を致して東福門院の旧殿を移して宸殿を造った。後桜町上皇は天明の皇居炎上後青蓮院を仮御所と定められ、

庭内の好文亭は御学問所として御用いになった。平成五年四月おしくも焼失したが平成七年十一月に完全復元

修理された。多くの国宝重要文化財中、国宝青不動明王画像は日本三不動の一つとして特に知られ、御宸翰、
文書、奈良時代より室町時代にわたる台密を主とする聖教を蔵している。

不動明王は密教のほとけであるので、五色(青·黄·赤·白·黒)に配せられることがある。赤不動.黄不動.目黒不動
.目白不動等はその例であ
る。その中にあって青色は方位に配せられ、ば中央、五大に配せられると大日如来の
三昧耶形であ
る五輪塔婆の頂上の宝珠形となる様に、青不動は五色の不動明王の中では最上位にあり、中心
にあ
るのである。即ち不動明王の中の不動明王という地位を占める。

 当院の青不動明王画像は誠にこの青不動明王の性格にふさわしい威厳と荘厳さを持ち、三不動の他の二作と
比べても典型的な体裁を具備している。

青不動明王の性格から云っても、亦本画像の優秀さから見ても、当院の青不動明王を如法に供養し奉る時の功
徳の甚大なことは云はずして、明らか
なことであるが、国宝中でも特に保存の為に厳しい条件がつけられている。

 維新史上著名な青蓮院宮入道尊融親王は、孝明天皇の勅によって中川宮と称せられ、維新後久邇宮の称号を

賜り神宮祭主となられた朝彦親王で、香淳皇后、東本願寺故大谷智子裏方、東伏見慈洽当院名誉門主等の兄弟

の祖父である。東伏見慈晃現門主は慈治名誉門主の次男である。


 龍心池の南、本堂の東の小高い所にある社は日吉社と稲荷社·秋葉社である。この日吉社は慈円が信仰し勅請
した十禅師社で、応仁の
乱後は慶長十年に再興され、度々の修理を経て今日に至って居る。もと鞘堂のあったこ
とが礎石によって察せられる。日吉山王の神は
天台宗の宗護神として古い天台の寺のある所には必ず祀られて
いるが、青蓮院の場合、慈鎮和尚の信仰と関連して特にゆかしく思われ
る。粟田口は京都から東海道の出口にあ
たって居り、昔東国へ旅立った人はこの十禅師宮に賽して、旅の平安を祈ったとのことである。

 車寄の前に親鸞童形像が立っているのは大阪の信徒某氏の願によって昭和の始め頃造立されたものである。
親鷲得度の時、馬をつない
だと伝えられる古松がこのあたりにあったので、像はその前に建てられたのである。

 境内北側一段低い所にある植髪堂(うえがみどう)は、親鸞得度の時に剃り落した髪を、親鷺童形の像に植え
たものを記って居る。猶
その髪の一部は植髪堂横の遺髪塔に納められている。現在この植髪堂の地階には立派
な納骨御仏壇を設置している。


青蓮院庭園

 青蓮院庭園は粟田山の山裾を擁して造られ幽遂雅趣深く、室町時代に相阿弥の作るところと伝えている。ま

た叢華殿の東面の庭は霧島の庭と称して、好文亭裏側の山裾斜面から一面に霧島つつじを植え、その間に梔子
(くちなし),
馬酔木(あせび)等を点植して色どりを添えている。この庭を小堀遠州の作と伝える。又好文亭の一廓
は自ら別の雰囲気
を作っているが、之を大森有斐の作という。大森有斐については年代も経歴も、亦他に作品が
あるかないかも
知られていない。いづれも確証はないが、粟田山の美しい山麓の環境を巧に利用して作られた
名園の名にふさ
わしい庭園である。

 現況からは室町時代の作庭手法を見ることはできないが、江戸時代の特に遠州作と称されている庭園の作風

に好みが共通した点は認められる。青蓮院が皇室に関係の深い由緒ある寺院であるだけに、庭園全体の構成は

格調の高い優雅さで包まれている。

 この庭園の主庭は小御所と客殿並びに好文亭の三建物で囲まれた池を中心としたのびやかな庭である。
池の対岸南に粟
田山の山裾を利用して高く石組した滝口を中心とし、池の東側には土佐派の絵画或は宗達の
絵に見られるような、やわら
かな曲線を画いた築山が設けられて、その北側には好文亭が建っている。

 池の南は池汀が小御所の高欄の下に入り込むように接して南へ山裾と建物の間を細長く延びている。小御所
に近く池の
やや狭まった部分に花岡岩の切石二枚で作られた半円形の反りの美しい石橋が架けられている。こ
の石橋を跨龍橋と呼び、
池を龍心池と名付け、滝を洗心滝といふこれらの配置は誠に妙を得、意をこらしたもの
である。

 瀧心池の中央には二千貫に近い大石を池水に浮ぶが如くに据えてある。極めて名石であって、あたかも沐浴

する龍の背の水面にみゆるが如き感じである。滝口に相対して池の西岸には一枚の大きな青石の拝礼石が据
られている。

 こうしたこの庭の形態を観察すると、平安時代から日本庭園の形態の主流をなして来たところの築山泉水庭

の形式を踏襲しているが、滝口の作られる山裾を利用した築山の他に、池の岬となる部分がそのま、高くいま

一つの築山となっており、池の中央に中島に代って大きな庭石を据えているのは、これまでの定石を破った形

態の庭となって面白い趣向である。しかしこれらのことが少しも奇をねらった嫌味をともなっておらず、品格ある
調和を保っていることは、この庭の作者が優れた手腕の持ち主であることをよく物語っている。

 滝口上から樹木は山裾斜面を一面に覆うが如く繁った多数の山紅葉を交ぜ、四季を通じて見事な景観を見せ

ている。

 池汀および山に組まれた庭石は、京都近郊の山石と紀州の青石を主として用い、美しい皺と色彩感のある比

較的華やかな石が選ばれ、石組の手法もやわらかで絵画的である。

 小御所の建物近く渡廊下に面して巨大な一文字の自然石の手水鉢が置かれて、力強い見事な役石と景石が
まれて雄渾な気風がみなぎっている。この手水鉢は伝えによれば豊臣秀吉の寄進になる「一文字手水鉢」と
われ著名である。霧島の庭には同じく秀吉の寄進と伝える「御輿形燈燈」があるが、この方は少し時代の下
るものの様である。

 小御所と池を隔てた所にある「立田山の楓」、華頂殿の東南角に植えられた「宮城野の萩」は、共に西行法

師が門主慈聞大僧正に携へ来って贈ったものと伝えられる。鎌倉時代の古図にも特に図示されて、古来有名で

あった。勿論幾度となく植え継がれたであろうが、四十年程前萩が枯れた時に、仙台市の方が現在の宮城野の

萩を送られ、又数代前の門主が信州の伊那の光前寺へ株分けされたものがあることを知って、その一株を譲り

受けて植栽したところ全く同一種であった。年々夏から秋にかけて二回可憐な花を咲かせている。普通の萩と

は違ふ種類のものである。又道沿い四本、境内の一本、計五本の大楠は京都市の登録天然記念物に指定され
ている。







石清水八幡宮追加

 

京都·石清水八幡宮

 京都府八幡市の神社・石清水八幡宮は、江戸時代に斜面から空

中にせり出すように敷地内に建てられた茶室「閑雲軒」とみられ

る建物が、初めて絵図で確認されたと発表した。存在を示す歴史

資料はあったが、外観の絵は見つかっていなかった。 専門家は神

仏霊場の景観が実態に近く描かれていると評価する。八幡宮は詳

しく調べて、秋に一般公開する予定だ。 

 閑雲軒は、江戸初期の僧松花堂昭乗 (1584~1639)が、大名茶人の
小堀遠州(1579~1647)と造った。 安永2(1773)年の火災で焼失し、再
建されなかった。

 立っていた場所は、平安時代創建の八幡宮本殿がある男山の
斜面上。 江戸時代まで神仏習合だった八幡宮の敷地にはかつて
多くの寺が存在しており、その一つ、松花堂が住職を務めた寺「瀧
本坊」の一角にあった。

 八幡市教委が2010年度に実施した発掘調査で、瀧本坊跡の東の
斜面から、建物の柱を支えた礎石の列が30m以上見つかった。
柱が支えてい たのが閑雲軒。清水寺の舞台のように、斜面から
水平にせり出した床を最大高約7mの柱で支えた「懸け造り」だっ

たとされる。

 ただ、閑雲軒は存在は知られていたものの、その外観を描いた
絵はこれまで見つかっておらず、分かっていない部分も多い。

 今回確認されたのは「八幡山分見絵図」。縦112cm、横110cmで、
江戸後期の天明3 (1783) 年に写したと記されている。八幡宮一帯

が北東からの視点で丁寧に描かれ、18世紀に幕府の機関・

京都所司代か淀城主などへ上納した原本の写しだとみられ

る。八幡宮が今年1月、京都市の古書店から購入した。

 この絵図の瀧本坊の一角に、斜面沿いに描かれた建物

があった。懸け造りまでは確認できないが、八幡市文化財

保護課の八十島豊成課長は「建物が斜面にせり出した様

子がうかがえる。閑雲軒とみられる。外観の確認は初めて

だ」と話す。

 八幡宮を描いた絵図は、ほかにも1866年に作られた

「城州八幡山案内絵図」などが知られる。東側からの視点 

で描いたこの絵図にも瀧本坊は載っているが、八十島さん

によると閑雲軒は描かれていない。

 石清水八幡宮研究所の西中道禰宜は「ドローンで見たか

のように詳細に描いてあって驚いた。初めて見る宿坊名も

あり、新たな発見がありそうだ。修復して、秋にも文化財

として一般に公開したい」と話す。

 八幡宮を描いた絵図のほとんどは、信仰や参拝に大事な

施設がある東側から描かれており、北東側からの絵図が確

離さにたのはじめて。 鍛代敏雄,東北福祉大教授 (日本中

世史)は「上納先の都からの視点を意識したのだろう。神

仏霊場の景観を描いた絵図と発掘成果、文献史料が符合し

ていけば、さらに研究が期待できる」と指摘する。

 八幡市はこの「空中茶室」をVR (仮想現実)で体感で

きる動画を3月末まで特別サイトで公開している。その後は
八幡市立松花堂庭園,美術館の公式ユーチーューブで公開
するという。
2021-3-25 朝日新聞 夕刊 (小西良昭)

   
  男山ケーブルの中間点にある鉄橋の高さは、
JR山陰線の餘部鉄橋を上回り、ケーブルカー
では日本一とされる。 長さは111m。
 
 
 
 
 謡曲⇒⇒⇒







インクライン

疎水トンネル出口 蹴上インクラインの台車と船 インクライン運転の仕組み
琵琶湖と京都を結ぶ琵琶湖疏水も、舟で移動できない急勾配の傾斜が部分的にあり、そこで役目を果たしたのがインクラインであった。
南禅寺方面の水路さらに、哲学の道の横を流れる。 水力発電所
蹴上浄水場の東、日向大神宮参道に面している。ここで第一と第二疎水の水が合流し、水は浄水用と発電用に分けられ、一部は閘門によって分線にながされている。最初は疎水運河を上下する船を留め、水運調整を計った所であった。京都市によって復元整備され、一帯は公園になっている。
ねじりまんぽ⇒⇒⇒





住蓮坊母公墓   地図



住蓮坊首洗い池⇒⇒⇒ 安楽寺⇒⇒⇒ 後鳥羽天皇⇒⇒⇒




小野篁  地図

百人一首11⇒⇒⇒ 五道山十王寺





大原野神社






常照皇寺






高瀬川の桜



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南座・阿国像・阿国の墓

 
   
   
 鴨川四条大橋の北にある
出雲の阿国像(地図) 
 慶長8年(1603)、出雲の阿国はこの四条河原で先鋭的な伊達男風の扮装で「かぶきをどり」を披露、関ヶ原合戦後のすさんだ世に都人を驚かせ絶大な喝采を浴びた。
 歌舞伎の元祖といわれている阿国の出生は不詳であるが、出雲大社の巫女で一座を率いて勧進のため入洛、北野天満宮の定舞台名声を得て各地を巡業しその人気が広まった。
 江戸時代に入り、風紀を乱すと女歌舞伎禁止令が出て、男が女形を演じるようになり今日の歌舞伎に発展した。
 阿国は晩年出雲に帰り、尼僧となって生涯を終えたと伝えられ、その墓は島根県大社町と京都の大徳寺高桐院にも存在するが、伝説の域を出ない。
阿国歌舞伎 時代祭について  車折神社 
   
 島根県大社町の阿国の墓(地図) 
   
 阿国の墓の近く薗の長浜(地図) 


出雲阿国

南座阿国像・阿国に墓  阿国歌舞伎  年表1603 
伝統芸能  車折神社  高桐院(大徳寺塔頭) 
南座  鴨川   

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