京都 散策ガイド 追加

高瀬川の桜
インクライン
石清水八幡宮
御門
知恩院
天龍寺
仁和寺
平野神社
錦天満宮
六角堂
相国寺
豊国神社
方広寺
東福寺
青蓮院
住蓮坊母公墓
小野篁
大原野神社
常照皇寺
南座



天龍寺追加

由緒















仁和寺

  <御所の風情を味わう>

境内南端の 王門から、木立に囲まれた参道を真っすぐ進むと、国宝の金堂が見えてくる。屋根の傾斜は緩やかで、
左右に羽を広げ
るような姿は柔らかな空気を漂わせる。それもそのはず。
1613 (慶長18 )年に建てられ
た紫宸殿(御所の中心建造物)が、寛永年間の1624〜43年に移築されたものだ。
ひわだぶきの屋根が瓦
ぶきに変わったものの、元はみやびな空間の中心であり、今では紫宸殿の姿を知る最古の
建物としても貴重
な存在になっている。

この寺は光孝天皇(830〜887)が創建し、その皇子・宇多天皇(867〜931)が志を引き継いで伽藍を整えた。
888(仁和4)年に完成させた
ことから仁和寺と呼ばれるようになり、明治まで皇族、貴族の庇護を受けてきた。そのため、
「仁和寺御
殿」という別名までついていた。

そのせいだろうか、極彩色の壁画を背景に金色の阿弥陀三尊などが並ぶ金堂内は華やかだ。

現在の阿弥陀三尊は1644 (寛永21 )年のもので、創建時の三尊像(国宝)は霊宝館に安置されている。
中尊の阿弥陀如来も
脇侍の観音・勢至両菩薩も丸々としていて安心感を与えてくれる。
後継争いも少なくなかったとされる時代に、和歌を好んだという
光孝・宇多両天皇はなにを祈ったのだろうか。

金堂の東隣に立つ経蔵は1640年代に建てられた。花やとんがり帽子に似たスタイルの花頭窓(かとうまど)があって、
ここだけは中国的とい
うか、禅宗的な雰囲気がある。仏道の根幹をなす経典の箱768個を納める建物としては、
優美さよりも厳
格なイメージが求められたのだろうか。

寺の前を通る道は「きぬかけの路」。宇多天皇が夏のある日、寺の北東にある衣笠山、別名きぬかけ山に絹をかけて
雪の風情を味わ
ったことにちなむ。金閣寺、龍安寺、仁和寺を結ぶにふさわしい、歴史のある名前かと思ったら、
近年公
募で決まったのだとか。

かつての名は「観光道路」。金閣寺から仁和寺までの名所を結ぶためらしい。粋も風情も感じさせない名前が、
京都の町中、そ
れも「御殿」と呼ばれるほどのお寺の真ん前にあったとは意外だった。


(編集委員,小滝ちひろ)
2017-4-15 朝日新聞

 
内裏の正殿の面影

 下を見上げると整然と並ぶ垂木が三段。「三軒(みのき)」と呼ばれる珍しい造りは、この建物の由来を示す。

 もとは内裏(天皇の住まい)の正殿、紫宸殿。1613年に造営され、寛永年間の徳川家光による内裏

造替(ぞうたい)の際、天皇とゆかりの深いこの寺に移築された。

現存最古の紫宸殿の遺構である。屋根が檜皮葺きから本瓦葺きへ。阿弥陀三尊像が安置され、浄土図が描かれる

など仏堂へと改修されたが、随所に紫宸殿の面影が残っている。

 
写真は仁和寺金堂の軒下

2017−4−21 朝日新聞
 








平野神社

桓武天皇⇒   円融天皇⇒  花山天皇⇒  石清水八幡宮⇒  上賀茂神社⇒  下鴨神社⇒  松尾大社⇒





錦天満宮地図

錦の天神さん 御祭神 菅原道真 京の名水「錦の御神水」
 錦市場の東の突き当たりにある。
 千年の歴史をもち、秀吉の町改造で現地へ移り今の社名となっている。
 知恵・文学・商売繁盛の神様。
 鳥居の上(笠木)の両端が隣の民家の建物に入り込んでいる。
 この井戸は地下百尺(30m)より湧出昼夜の別なくこんこんと湧き、霊験あらたか、水温年中17・8度を保つ。検査の結果、
無味、無臭、無菌。飲用に適する良質の御神水。
持ち帰り自由。
 食に厳しい客の要望に応える店主らを支えているのは、地下を脈々と流れる錦の水である。



六角堂

 六角通を隔て飛地境内にあり、慶長10年(1605)豊太閣の堀尾吉晴の嫡男忠氏が寄進。当時は一向衆による一向一揆、加茂川洪水、水や大火の際にこの鐘をついて、急を市民に知らせたという。
 この鐘は、天明(天明8年・1788)の大火で焼失、天保11年(1840)に再建したが、二次大戦に献納された。
 現存のものは昭和29年に再鋳復元、銘文は天保年間のものによる。

 花外 蒲牢の響き 長安 半夜の天
 撃つ人は盛徳を輝かし 聞く者は名纏(めいてん)を解く
 朝に遠山の砦を渉り 暮に街市の(けむり)にむせぶ
 
 観 音 妙 智 力  寿 幾千年か算えん
  
 慶長拾乙巳の年 春季 如意珠の日

 
  頂法寺化鐘

 六角堂 頂法寺





御門

今出川御門
地図
石薬師御門
地図
清和院御門
地図
寺町御門
地図






相国寺

相国寺勅使門 相国寺天界橋






豊国神社

豊国神社参拝の栞

由緒

 豊国神社は京都市東山区大和大路正面茶屋町(市バス博物館三十三間堂前下車北
三百米余)旧大仏殿遺跡地にある。

祭神は前関白太政大臣贈正一位豊臣秀吉公の御一柱である。

明治八年現在の地を相し、明治十三年造営が成った。当初豊国神社は大阪城外に祀

宇造営の御沙汰(明治天皇)があったが、永年にわたる京都市民挙げての熱願によ

り本社は京都へ御治定になり大阪へは別社を営まれる事になった。

境内摂社貞照神社は大正十四年の創建で秀吉公の夫人従一位北政所、吉子の方を、

お祀りしてある。北政所は世に有名な「おねの方」でいわゆる糟糠の妻として、豊

公の天下統一の大業には内助の功頗る大きく、豊公の薨後は東山の高台寺に隠棲さ

れ寛永元年七十六才で薨ぜられた。

宝物館 
 本社境内には桃山風造りの宝物館があり、豊太閤に由縁り深い宝物が展示されてお

り、豊公の御遺徳を偲ぶことが出来る。

(拝観は年中無休 午前九時S午後四時半)

豊国廟

 京都市東山区今熊野北日吉町・東大路七条東入,(豊国神社飛地境内)

豊太閤は慶長三年六十三才を以て、伏見城に薨去せられ遺命によって阿弥陀ケ峯に

葬られた。翌年勅命により山腹の太閤坦に日本最初の権現造りで結構壮麗、雄大な

社殿の造営が成された旧豊国社の遺跡であり、明治三十一年豊太閤三百年祭に当り

豊国会の手により大改修が行われ諸殿宇が完備された境域七万坪余、古くから桜、

紅葉の名所として知られ、近年更に増植が計られている。

近辺の縁故史蹟

方広寺 (大仏殿)
 京の大仏殿として知られた方広寺は天正十四年豊太閤の創立になり、

時の本尊木造盧舎那仏座像は高さに於ても奈良の大仏より約一丈も高かったと言わ

れ、その荘厳華麗は今に語り伝えられる。その後再三の災禍に遭い、最近迄は天保

十四年建立の木造上半身像(高さ十四米余)であったが、これも昭和四十八年三月

二十七日の出火により焼失した。境内には豊臣、徳川決戦の因を成したと言われる

有名な「国家安康」の大鐘(重要文化財、高さ四.二米、重さ八二・七噸)がある。

豊公大石垣(史蹟)
 豊太閤大仏造営に当り二十一ヶ国に巨石をもとめ俗に石狩りと云われ
た。
諸大名が競って自領の名石を運びその大きさ等も争ったと伝えられ蒲生石、

賀の泣石等の名も残って居る、延長約四百五十米が現存する。

耳塚(史蹟)

 豊国神社正面石段下約三十米の所、

小丘陵上に五輪塔(高さ約五米)がある、

文禄慶長の役に首長の代りに鼻を持ち帰ったものを、異人とは云え国難に斃れ

たる兵士の霊を厚く弔うべしとして葬り御身塚と云われたものが訛り耳塚と云われ

る様に成ったと伝えるが他に異説もある。

馬塚(史蹟)

 豊国神社境内東南隅に(旧大仏殿遺跡)ある高さ約二・五米程の小五輪塔で、
旧豊国社取壊し後、豊太閤崇敬者の代拝所として阿弥陀ケ峯より移霊した御塚

であったが、時の徳川氏の権威を憚り名を近辺の地名馬町に因み馬塚と呼ばれる様

に成ったとるる説が多い。





方広寺

 巨大な石塁(国史跡)で囲まれた伽藍は西向きに作られ、
規模は南北260m、東西約210mと推定される、
 大仏殿は回廊で囲まれ、西側正面に仁王門、
三十三間堂に向かう南側には南門が開いていた。
仁王門跡から西へのびる道が正面通りと呼ばれることも
方広寺に由来している。
 なお、「方広寺」の名称は、
東大寺の重用な法会(ほうえ)である方広会
(ほごえ)にちなむといわれている。
 正面北側に連なる巨大な石垣は、天正14年(1586)に建てられた方広寺の遺構で、「方広寺石塁」として史跡に指定されている。
仁王門跡(現豊国神社)から西へのびる道が正面通 方広寺本堂
大仏殿跡緑地 
 この地は豊国神社の東隣にある。 大仏殿跡の遺構は地下に保存されている。

方広寺






東福寺

南庭 東庭
西庭 北庭

東福寺方丈と八相の庭


 広大な方丈には東西南北に四庭が配され「八相の庭」がる。禅宗の方丈には、古くから多くの名園が残されててきたが、方丈の四周に庭園を巡らせたものは東福寺の方丈のみである。
 作庭家・重盛三玲(みれい・1896〜1975)によって昭和14年に完成されたもので、当時の創建時代にふさわしい鎌倉時代庭園の質実剛健な風格を基調に、現代芸術の抽象的構成を取り入れた近代禅宗庭園として、世界各国に紹介されている。

松尾大社⇒
瑞峯院⇒



知恩院

知恩院大方丈(重要文化財)

 寛永十八年徳川家光の建立。桁行三四・五m,梁間二五

m単層檜皮葺入母屋造、正面軒唐破風、玄関、歩廊の付随

した大方丈。中央仏間には阿弥陀如来像を奉安する。東側の

室を「上段」「中段」「下段」とし、「上段」には床・棚・付書院

帳台構を設ける。狩野派絵師による金碧障壁画が室を飾る。


小方丈(重要文化財)
 大方丈と
廊下でつながれた建物で、大方丈と同じく寛永十八年の建立。
桁行
二二・七m、梁間十八・ 七m、単層入母屋造、檜皮葺、六室三列中央南室
(室中)
は雪中山水の間と呼ばれ、正面には大床が設けられている。
東奥室には
床・棚・付書院・頂帳台構を設けた上段の間がある。

襖絵は主として水墨画を以て装飾されている。





青蓮院







石清水八幡宮

謡曲⇒⇒⇒  男山ケーブルの中間点にある鉄橋の高さは、JR山陰線の餘部鉄橋を上回り、ケーブルカーでは日本一とされる。 長さは111m。







インクライン

疎水トンネル出口 蹴上インクラインの台車と船 インクライン運転の仕組み
琵琶湖と京都を結ぶ琵琶湖疏水も、舟で移動できない急勾配の傾斜が部分的にあり、そこで役目を果たしたのがインクラインであった。
南禅寺方面の水路さらに、哲学の道の横を流れる。 水力発電所
蹴上浄水場の東、日向大神宮参道に面している。ここで第一と第二疎水の水が合流し、水は浄水用と発電用に分けられ、一部は閘門によって分線にながされている。最初は疎水運河を上下する船を留め、水運調整を計った所であった。京都市によって復元整備され、一帯は公園になっている。
ねじりまんぽ⇒⇒⇒





住蓮坊母公墓      地図



住蓮坊首洗い池⇒⇒⇒ 安楽寺⇒⇒⇒ 後鳥羽天皇⇒⇒⇒




小野篁  地図

百人一首11⇒⇒⇒ 五道山十王寺





大原野神社






常照皇寺






高瀬川の桜





南座・阿国像・阿国の墓

 慶長8年(1603)、出雲の阿国はこの四条河原で先鋭的な伊達男風の扮装で「かぶきをどり」を披露、関ヶ原合戦後のすさんだ世に都人を驚かせ絶大な喝采を浴びた。
 歌舞伎の元祖といわれている阿国の出生は不詳であるが、出雲大社の巫女で一座を率いて勧進のため入洛、北野天満宮の定舞台名声を得て各地を巡業しその人気が広まった。
 江戸時代に入り、風紀を乱すと女歌舞伎禁止令が出て、男が女形を演じるようになり今日の歌舞伎に発展した。
 阿国は晩年出雲に帰り、尼僧となって生涯を終えたと伝えられ、その墓は島根県大社町と京都の大徳寺高桐院にも存在するが、伝説の域を出ない。
阿国歌舞伎⇒⇒⇒
時代祭について⇒⇒⇒
鴨川四条大橋の北にある出雲の阿国像(地図
 
島根県大社町の阿国の墓(地図 阿国の墓の近く薗の長浜(地図