第78代 二條天皇(にじょう)地図

 山の辺の道 散策ガイド 飛鳥 散策ガイド  京都 散策ガイド 
()(しら)(かわ)天皇(第一皇子)
源懿子(イシ)(藤原径実の娘)
誕生 …1143年(康治2年)6.17
御名・異称 守仁(モリヒト)
中宮 妹子内親王・藤原育子(いくし)
立太子 1155年(久寿2年)9.23
即位 …1158年(保元3年)
在位年数 …7年
崩御 …1165年(永万元年)7.29(年齢23才)
皇居 平安宮 
年号 保元(ほげん)平治(へいじ)永暦(えいりゃく)(おう)(ほう)長寛(ちょうかん)(えい)(まん)
生後まもなく母を失い、()福門院(ふくもんいん)得子(とくし)(鳥羽天皇の皇后)の養子となった。
後白河天皇の弟覚性法親王のいた仁和寺に入り仏道を修行され、父の即位とともに還俗、1155年(久寿2年)皇太子となった。
1159年(平治元年)、平清盛の熊野詣のすきに、源義朝・藤原信頼は兵を挙げ、後白河上皇と二条天皇を皇居に幽閉した。しかし、上皇・天皇ともに脱出し、清盛が義朝・信頼を破り、平家一族が実権を得た。(平治の乱)
平治の乱後、後白河院政派と二条天皇親政派の父子対立が激しく、親政は困難を極めた。以後平氏(清盛)に実権を握られることになる。
天皇は音楽を好み、琵琶に精通され、和歌に秀でられた。
陵墓名 (こう)(りゅう)(じの)(みささぎ)   円墳
所在地 京都市北区平野八丁柳町
香隆寺の東北の野で火葬され、遺骨が香隆寺の本堂に奉安された。後、境内に三昧堂が建てられ、1236年(嘉禎2年)5.17、遺骨が本堂から三昧堂に移された。
その後御陵所在が不明になったが、1889年(明治22年)6月現陵に考定された。
香隆寺は今はなく「今昔物語」に仁和寺の東にあることが見え、現在の御陵でほぼ間違いないとされている。
御陵は、南面する小円墳で、周囲に生垣をめぐらしている。1165年(永万元年)の二条天皇の葬儀において、興福寺と延暦寺がその席次で争っている。

円照寺⇒⇒⇒