第80代 高倉天皇(たかくら)地図

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後白河天皇(第六皇子)
滋子(じし)(平清盛の妻時子(ときこ)の妹)
誕生 …1161年(承暦2年)9.3
御名・異称 憲仁
中宮 徳子(とくこ)(けん)(れい)(もん)(いん)
女院 藤原殖子(しょくし)
立太子 …1166年(仁安元年)10.10
即位 …1168年(仁安3年)2.19
在位年数…12年
崩御 …1181年(治承5年)1.14(年齢21才)
皇居…平安宮    年号…仁安、嘉応、承安、安元、治承
天皇は学問、詩歌などにとりわけ優れ、寛大で温和な性格であったことから末代の賢王と讃えられた。
天皇を悩ませたのは、時の実力者であった後白河法皇と平清盛の確執であり、実父と岳父との衝突は天皇にとって極めて大きな心労の種であった。とりわけ鹿ヶ谷の陰謀が発覚してからは両者の関係は悪化の一途をたどった。
後白河法皇は二条天皇、六条天皇を立て傀儡化し、院政を敷いた。しかし、院政は次第に平氏の台頭により大きな制約を受けることになる。そしてついに清盛は関白を基房から基通にすげ替え、近臣らを解任するとともに、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し、院政は停止された。かかる情勢を受けて、天皇も譲位を迫られ、平氏の権勢を背景として安徳天皇の即位が実現した。高倉天皇は上皇となり新院と呼ばれた。
以仁王の敗死、福原への遷都、平氏の東大寺の焼き討ちなどが続き、上皇の心労が増加するばかりで、譲位の翌年21才で崩御した。
陵墓名 (のちの)(せい)(かん)(じの)(みささぎ)  方形
所在地 京都市東山区清閑寺歌ノ中山町
天皇は清閑寺に必ず埋納するようにと遺詔されている。
御陵は石柵を巡らした土壇があり、紅葉が植栽されている。東側の清閑寺内に宝篋印塔があり、小督塚と呼ばれている。