第92代 伏見天皇(ふしみ)地図


後深草天皇(第二皇子) 
藤原愔子(いんし)(藤原(さね)()の娘)
誕生 …1265年(文永2年)4.23
異称
(ひろ)(ひと)・素融・持明院殿
中宮 西園寺(しょう)() 
女院 五辻経子、洞院(どういん)季子(きし)
立太子 …1275年((けん)()元年)11.
即位 …1287年(弘安10年)10.21
在位年数 …11年
崩御 …1317年(文保元年)9.3(年齢53才)
皇居 平安宮  年号 弘安(こうあん)正応(しょうおう)(えい)(にん)

大覚寺統(亀山天皇の系統)である後宇多天皇の皇太子となり、ついで即位した。伏見天皇以降、互いに対立する持明院統(後深草天皇の系統)と大覚寺統とが幕府に働きかけを行いながら交互に皇位を継承することになる。伏見天皇が即位まもなく、皇子の胤仁親王が立太子したため、持明院統は隆盛を極めた。これにより両統間の溝は深まり、次第に激化していった。

伏見天皇の治世が開始されてまもなく、甲斐源氏小笠原一族の浅原為頼らが突然宮廷に乱入して、天皇の命を狙ったが失敗し自殺した。その後この事件は、亀山上皇が操っていたという噂が伝わり、亀山上皇は幕府に関係がないとする告文を送り、身の潔白を証明した。

事件は皇位交代制の大覚寺統と持明院統との対立が極まったことを表しており、持明院統の伏見天皇に幕府は傾く結果となった。

天皇は治世中、政治に力を注ぎ、13箇条の新制を発布し、政道刷新や門閥打破に腐心した。記録所を宮廷に置き、勤務交代制を敷き、月の上旬は神事、中旬は仏事、下旬は雑訴の仕事をさせ、政治機構の刷新を図られた。しかし、幕府の干渉が強まると、子の後伏見天皇に譲位し、院政を行った。3年後、後伏見天皇も大覚寺統の後二条天皇に皇位を譲った。その後、持明院統の幕府に対する働きかけが功を奏して花園天皇が即位すると再び伏見上皇の院政が開始された。

陵墓名 (ふか)(くさの)(きたの)(みささぎ)   法華堂   後深草天皇以下十三方合葬
所在地 京都市伏見区深草坊町
   深草の地で火葬に付されたが、火葬地は未詳である。御骨は深草法華堂に納骨され、12帝陵の一つである。