第99代 後亀山天皇(ごかめやま)地図

後村上天皇(第二皇子)
嘉喜門院藤原勝子(しょうし)(近衛経忠の娘)
誕生 不明
御名・異称 (てる)(なり)・金剛心
皇后 … ―――
立太子 …1368年(応安元年・正平23年)
即位 …1383年(えい)(とく)3年・弘和3年)10以降
在位年数 …9年
崩御 …1424年(応永31年)4.12(年齢 不明)
皇居 吉野行宮、栄山寺行宮   年号 (こう)()(げん)(ちゅう)
兄の長慶天皇の譲位を受け即位した。南北朝合一を契機に退位した。従って天皇の在位は南朝が最も衰微した時代であったといえよう。
足利義満は南北朝の合一に際していくつかの条件を提示したが、結局後亀山天皇はこれを受託した。そして天皇は三種の神器を携行して南朝を後にした。
天皇は奈良興福寺に宿泊してのち嵯峨大覚寺を経て入京し、神器は後小松天皇の内裏である土御門殿に渡御した。これをもって南北朝時代に終止符が打たれることになった。合一といっても南朝方は財政的にも破綻して、いわば北朝方に吸収されるに等かった。
両朝の合一によって、北朝の後小松天皇に皇統は一元化され、南朝は滅亡した。明徳の年号の存続が決定され、元中の年号は廃止されることになった。
1410年(応永17年)突如、後亀山上皇は嵯峨を出て吉野に入った。しかし幕府の説得で帰京した。これは上皇が経済的に困窮していたことともいわれたが、南北朝合一の条件を義満が遵守しようとしなかったことへの不満が背景にあるともいわれている。あるいは上皇は南朝の再興を考えていたかも知れない。
陵墓名 嵯峨小倉陵    五輪塔
所在地 京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町
兆域は周囲約300mの方形に区画する。盛土はなく、中央に五輪塔が建つ。高さは約2.4mで、四隅に小さな五輪塔等があり、東側二基は高さ約1.2mの宝篋印塔、西側二基は高さ約1mの五輪塔である。周囲には空隍をめぐらしている。