裏若狭街道

 比良山系の西にそって若狭から京都へぬける街道がある。朽木谷を南へすすみ、花折峠、途中越えをして大原にでて、八瀬を経由して京都にいたる道である。交通が現在のように発達していないむかし、若狭で陸揚げされた魚は塩をし、人の背にかつがれて、この街道をはしるようにして京都にはこばれた。京都では「若狭のひと塩もの」として珍重されていた。
 ところで、この街道が八瀬から京都盆地へぬける道は、現在の国道筋ではない。八瀬から南にあるひくい横山の東の鞍部をこえ、修学院にでていたのだ。そしてここにある峠に関所をもうけ、私的な蓄財をはかったのが室町幕府の八代将軍足利義政の夫人、日野富子であった。彼女はみずからの子を将軍後継者にすえようとして、応仁の乱の端緒をもつくった女性でもある。
  

  京都の精神  梅棹忠夫  より