銀閣寺(慈照寺)地図

銀閣(観音殿)東面と錦鏡池(きんきょういけ)
東山文化を今に残す楼閣庭園建築
 
  東山(とうざん)慈照寺と号する臨済宗相国寺派の寺で、
足利第8代義政公(1436~90)の隠居生活に過ごすため営むために山荘「東山殿」を文明14年(1482)
建てたことに始まる。観音殿は延徳元年(1489)上棟、翌年義政は翌年没した。
 義政公は、祖父にあたる三代将軍足利義満公の北山殿金閣(鹿苑寺・ろくおんじ)にならった。
 遺命によって寺院としたもので、当寺は東山殿全体を指しており、義政の法号にちなんで慈照寺と名づけられた。 
この東山殿内に建てられた二層楼閣(観音殿)を銀閣と称し、それが寺全体の象徴的な建物となったことから、
慈照寺は銀閣寺と通称されるようになった。  
平成6年(1994)にお世界文化遺産に登録された。 
 向月台と銀沙灘と銀閣
 向月台(こうげつ)と銀沙灘(ぎんしゃだん)は、
中国の西湖の風景を模倣したと云われている。
銀閣寺の「銀」について⇒⇒⇒
被差別の民とともに土を運ぶ⇒⇒⇒
京都・世界遺産⇒⇒⇒
銀閣 向月台 銀沙織
東求堂(とうぐ)と錦池
東求堂仏間には阿弥陀如来像と足利義正像を安置。
中門、背景は月待山 銀沙灘・方丈(本堂)・東求堂
銀閣寺(観音殿・国宝)
 こけらぶきの屋根も二層の楼閣を囲む壁板も黒々とくすんで、樹林の間にほどよく収まっている。
 延徳元年(1489)建立の宝形造(ほうぎょう)、杮葺(こけらぶき)二層建てで、屋根には鳳凰が飾られている。
下層は心空殿(しんくうでん)と呼ばれる書院造の住宅、上層は観音像を安置する潮音閣(ちょうおんかく)と呼ばれる禅宗様仏殿(唐様)
となっている。実際には銀箔は貼られなかったが、祖父の義満造営の北山鹿苑寺(ろくおんじ)の金閣に対し、一般に銀閣と呼ばれている。
金閣に比べて枯淡幽雅な特色が見られ、東山文化を代表する名建築である。 
東求堂(とうぐうどう・国宝)
 屋根も壁もわずかな白い肌をみせるだけで、観音殿と同様に黒ずんでいる。 
 東求堂は、一層の入母屋造り、檜皮葺きで南向きとなっている。現存する最古の書院造り。
 同仁斎と呼ばれ、初期の書院造り。四畳半、付書院、違い棚三間半四方の正方形。床の間。草庵茶室の源流。四畳半の間取りの始まり。
     
  銀閣寺(観音殿)屋根に飾られている鳳凰
 東山殿は、文明14年(1482)から建設が始まり、東山文化の粋を尽くした数々の仏殿、住宅や庭園が造られた。
しかし、永禄元年(1558)の兵火により観音殿(銀閣)と東求堂(とうぐどう)を残して建物が焼失し、
元和元年(1639)に現在の寺観が整えられた。
 東求堂は、文明18年(1486)建立の義政公のものといわれ、内部には仏閣や同仁斎(どうじんさい)などがある。
同仁斎は茶室の原型・源流ともいわれるが、元来は書斎である。
 方丈(本堂)は、慈照寺の本堂となる建物で、江戸時代初期、寛永年間(1624~44)の建物と云われている。
本尊釈迦牟尼物(しゃかむにぶつ)を安置している。  
すべてから逃げだした将軍の「絶望の王国
 義政が東山に移り住む22年前の寛正2年(1461)には、慢性化した凶作がピークにたっしている。
そのうえ疫病が大流行していた。
 餓えた人びとは家をすてて都になだれこみ、食べ物を求めてさまよう。
天下の人口の三分の二が餓死したとまでいわれる惨状だった。
毎日棄てられる骸を葬っても、まだ残っていたという。
 その数は、正月から二月にかけての二ヶ月間だけで八万二千人にのぼったという記録もある。
 義政は寛正5年(1464)、僧侶として浄土寺に暮らしていた弟の義尋を呼び戻して還俗させ、
新たに義視(よしみ)と名乗らせて養子とした。自分は引退して、弟を後継者にしようというのである。
 ところが、皮肉にもその翌年に、長いあいだ子のできなかった妻の富子が男子を産む。義尚(よしひさ)である。
歴史上、悪妻として名高い富子だがその真偽はともかく、ある時期から義政との仲がうまくいっていなかったことは確からしい。
 是が非でもわが子を将軍の座につかせようとする富子は、有力な武将である山名持豊を頼った。
一方、義政は一度決めた後継者を立てて、同じく力のある武将、細川勝元に後見を命じた。
 こうして、富子母子を推す山名方と、義視を推す細川方とが、積年の私憤をまじえて武力衝突した。応仁の乱である。
困窮をきわめる世情に追い討ちをかけるように勃発した戦いであった。
 応仁の乱は、諸大名の領土問題なども絡み、応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで、じつに
11年の長きにわたってつづく。
その結果、中世の巨大都市・京都は完璧なまでに焼き尽くされ、焦土と化した。
 ・・・義政はすべてを放り出して逃げるしかなかったのかもしれない。
 義政は、人里はなれた東山に引きこもり、山荘造営に没頭して、死ぬまで美的生活の追求をやめなかった。
 美術評論家の吉村貞司氏は、東山別荘を「銀閣という名の絶望の王国」と呼んだ。
 ・・・義政が名づけた「同仁斎(どうじんさい)」という四畳半の部屋がある。義政は晩年をこの小さな部屋で、
ひとり瞑想にふけりながらすごしたという。
茶会で利用される四畳半の小間(こま)は、ここから始まったらしい。

  百寺巡礼  五木寛之  より
 最終的に義政が晩年に至り、将軍職を実子義尚(よしひさ)に譲り、ほっとして今度は自分のための楽園作りに没頭した。
政治から妻から逃避し、優雅で静かな鑑賞用の自然環境を望んで作り上げた。
嫡子問題⇒⇒⇒
 
 総門をくぐると、銀閣寺垣の高い垣根の参道
に入る。最下段の石垣の上に組まれた竹垣が
銀閣寺垣で、その上に椿を刈り込んだ生垣が
組み合わされている。
   
  庭園は、西芳寺(苔寺)夢窓国師作の庭園を模して義政が作ったものといわれ、義政は、西芳寺や金閣寺に何度も行った。
 上段石組み、下段池泉回遊式の二段から成り、銀閣とよく調和した名園である。庭は、政義が晩年に精魂込めて造営した。
 義政の時にどれ程苔があったか分からないが、銀閣寺の苔は100種類はあるといわれており、庭園を囲む斜面に見事な苔で覆われている。
想夢礎石の影響⇒⇒⇒
作庭の新たな担い手⇒⇒⇒
 錦鏡池には、いくつかの岩島があり大内石、座禅石などの名が付けられている。西芳寺や金閣寺にある「夜泊石」が見られない。それらの石は、錦鏡池が改造
により縮小されたとき、他に持ち去られた可能性があるといわれている。この池には評判の九仙八海石が組まれていた。織田信長が最後の将軍
足利義昭のために、二条城(現在の二条城ではなく、後の二条第)を築くとき九仙八海石を城に移してしまったこともあったからである。
動画  銀閣寺の苔⇒⇒⇒ 
   
 庭の中心部を占めるのは錦鏡池で、池の北側には方丈・玄関・庫裏などの建物があり、前庭には砂を盛った銀沙灘・向月台がある。
 庭園設計の中心となるには月であった。そのために観音殿の建物のみ東に向いている。観音坐像も屋根の鳳凰も東に向いている。
 義政は観音殿の1階の心空殿からは東の月待山からのぼる月を楽しむ。そして、月が屋根に隠れると2階に上がり、
2階の潮音閣から観音殿の前にある池に映る月を楽しんだ。
池に映る月が途切れると渡り廊下を通って隣接する建物から、月が銀閣を照らすのを楽しんだ。
こうして、夕方から真夜中まで月見を楽しんだ。  
 この庭園は、本来、現在の庭園より一段高い場所にあったと推定される庭と、現在の境内中心部からなる上下二段の形式を取っている。
     
向月台   銀沙灘 と花頭窓(かとうまど)
   向月台の高さは180cm、銀沙灘は大海を意味するものとされ高さは65cm。砂は、白川砂を使用し、石英ガラスを含んだ花崗岩である。
そのため、昼は太陽の光で輝き、夜は月の下で輝く。この光が観音殿の天井にも届くといわれている。 
 向月台は月に一度直す。直すときは梯子をかけて上に登る。5~6人がかりで修理する。 
向月台と銀沙灘⇒⇒⇒
 銀沙灘は、江戸中期の「都林泉名勝図会」という本の挿絵に出てくるが、それ以前の古い銀閣の絵図には出てこない。
 池の泥をさらって庭に上げて干していたのが、このような価値のあるものに変えたとも云われている。
 義政がそこを隠棲地に選んだ時、庭には余計なものはなかった。義政の美意識であった。
 やがて徳川の世になり、三代将軍家光の時代になって、庭園に修復の手が入った。その時白砂を盛る銀沙灘と向月台が新たに作られた。 
 
 室町時代の銀閣(観音殿)2階の一部分彩色の再現
   
  義政公 お茶用の湧水