会津八一

會津八一 (1881~1956)

大学卒業後は英語教師として早稲田中学校などで教鞭をと

り、後に東洋美術史研究者として早稲田大学で指導した。奈良

や故郷の新潟、草花を詠んだ短歌とともに、個性的な書を多数

残した。号は秋艸道人(しゅうそうどうじん)。 

少年時代から万葉集を読みふけった會津は、東京専門学校(現·早稲田大学)進学

後,坪内逍遙やラフカディオ·ハーン(小泉八雲)と出会い、古典的なギリシャへの価値

観と、憧れの記紀万葉の古代世界とを結びつけていく。

1908(明治41 )年、27歳。初めて訪れた奈良は、廃仏毀釈後の荒廃は著しかった

が、古代の芸術と文化の価値を見いだした。

後に自ら「酷愛」とさえ言った奈良への愛着。なぜそこまで惹かれたのか。新潟市會

津八一記念館の湯浅健次郎学芸員は「ヨーロッパに引けを取らない仏像や彫刻があ

る。ギリシャから続く道の東の終着点としての奈良の価値を見逃さなかった」と話す。
緩やかに膨らんだ唐招提寺金堂の柱(エンタシス)が月光を受け

て地上に落とす影を踏みながら、會津は物思いにふけった。円柱から遠くギリシャの

神殿へと思索を広げ、古代にありながら、世界との結びつきを感じたに違いない。

奈良は會津の作風にも大きな影響を与えた。それまでの俳句か

ら短歌に転向。會津は響きの良い歌を好み、歌は謡うものという考

えから、すべてかな書きにし、耳からも聞き取りやすい言葉のリ

ズムと読みやすい書体にこだわった。

會津の書は一字一字が独立し、1音ずつが明解に響く。また余白

の広さにも配慮。言葉に深い余韻を与え、歌と書を同時に味わって

ほしいとの願いが込められている。それらを通して、奈良を知

り、思い浮かべることができるのも、彼の大きな魅力になっている。 

奈良県内には現在、會津八一の歌碑が20カ所に立ち、奈良を深く愛し

た歌人の世界にふれることができる。

歌や書で見せた徹底した會津のこだわりは歌碑にも反映されてい

る。1942(昭和17 )年、會津にとって一番目となった歌碑が新薬師寺

に建立された際は、文字の刻み方や余白まで細かい注文をつけたとの記

録が残っているほどだ。今では故郷·新潟をはじめ、奈良県以外にも

多くの歌碑が建てられている。