金峯神社地図

義経隠塔地図

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金峯神社

   
 金峯神社へは急坂を上らなくてはなりませんが、登り口に木の鳥居が建っています。これが大峯

山上へ参るための四つの門のうちの第二門「修行門」です。

祀られている祭神は金山毘古(かなやまひこ)神、吉野山の地主神であり、金鉱の守り神でもある

と言われています。かつて、金鉱脈のある山と考えられたため、古い書物には「金峯山はみな黄金

なり」などと記されています。「宇治拾遺物語」に、この山から金を取った男がやがて神罰を被った

という話が載るなど、さまざまな「黄金伝説」が伝えられています。近くには、源義経が家来ととも

に身を隠したという簡素な宝形造りの「義経隠れ塔」が建ち、今も修験道の行場となっていほす。

 
 金峯神社は吉野山の最奥 部に鎮まっていた。標高は750mほどか。背後に万

葉集にも登場する吉野山の主峰青根ヶ峰(858 m)がそびえる。社地は桜の吉
山奥千本入り口にあり、
大峯奥駈け道が通る。訪れたのは2月中旬、日陰には

前日の雪が残っていた。

 吉野山から南方の山上ケ岳(1719 m)まで約20キロの連峰を金峯山と総称す

る。平安時代には比良、比叡、伊吹、愛宕、神峰、葛とともに近畿の七高山と崇

められた霊山で、金峯山修験本宗金峯山寺の浄域にもなっている。蔵王堂を

一中心とする北部の吉野山を山下,大峯山寺がある南部の山上ヶ岳を山上と
呼ぶ。

 金峯神社は金峯山の地主神とされ、金精明神とも称された。延喜式神名帳の
神大社で祭神は鉱山を統治する金山毘古神。社殿は急傾斜の尾根を壇状に
整え
て構えられ、拝殿は桧皮ぶきの入り母屋造り、桧皮ぶき流れ造りの神殿は
拝殿奥
の高所に立っている。

 金峯山は金御岳(かねのみたけ)とも呼ばれ、古代には黄金の山と信仰された。
鎌倉初期の宇治
拾遺物語はこの金山伝説を裏付けるように、京の箔打ち師が
金峯山で金を盗んだ
という説話を載せている。

 金峯神社といえば、東大寺二月堂の修 会で読まれる神名帳を思い起こす。こ

の神名帳は毎夜勧請される全国449の神の名を列記したリスト。その筆頭を飾る
のが「金峯大菩薩」。神仏習合によって大菩薩の称号で読ばれるが明らかに

金峯神社を指す。

 この神名帳の記載順にっいては、佐藤道子,東京文化財研究所名誉研究員(仏

教芸能)が論文に著している。それには、冒頭が当国(大和)鎮守の金峯大菩薩、
次が当所(東大寺)
守の八幡三所大菩薩(手向山八幡宮) 、そして境内の結界
神8社へ続くとある。
東大寺にも一部にこれと同じ見解の僧はいるが、寺内全体

の定説にはなっていない。謎の多い修二会らしい神名簿といえよう。

 東大寺と金峯山の間には古くから強い結びつきがあった。そのことを示す伝承

も残っている。

 その一つは、平安後期の今昔物語集や、ほぼ同時期の史料·東大寺要録に収
されている説話である。大仏建立を発願した聖武天皇が大仏鍍金用の黄金を
求め
て金峯山の神に金の拠出を依頼した。ところが、金峯山側は「この山の金は
弥勒
菩薩の出現時に用いるもの」として断り、かわって近江国の神を紹介。
天皇が
それを受けて僧良弁を近江へ遣わすと、間もなく陸奥国から金産出の朗報
がもた
らされたという。

 もう一つは、平安前期に京都·醍醐寺を開いた理源大師聖宝が金峯山の興隆に

尽くしたという物語だ。聖宝は若いころ東大寺など奈良の寺々で修行に励み、東

大寺東南院(現本坊)を興した。一方で奈良の民衆と金峯山に入って大峯修験道

の興隆にも尽くし、後に金峯山の中興の祖と仰がれるようになった。

 これらの説話などがお水取りの神名帳にどう影響したかは、まったく定かでな

い。ただ、東大寺が金峯山に一目置いていたことは確かなようである。

 東大寺の修二会は今年も3月1日から14日間勤修中である。日によって時刻は

異なるが、神名帳は毎夜欠かさず読み上げられる。今夜も音響抜群の二月堂内
「きんぶだいぽさ」の荘重な奉読が響くであろう。
  2009-3-10  朝日新聞
 (岸根一正)




義経隠塔