春日大社地図

   
 世界遺産
奈良・世界遺産⇒⇒⇒
 春日四神⇒⇒⇒
春日神宮は鹿島神宮から迎えた武甕槌命などの神々をまつる四つの神殿を建てた
のが始まりとされる。
 武甕槌命は白鹿に乗ってきたとされることから、「神鹿(しんろく)」とされ、
鹿を神の使いとして大切に保護されてきた。 
天の原 ふりさきめれば春日なる  三笠の山にい出し月かも  
   古今和歌集 遣唐使 阿倍仲麻呂
   百人一首⇒⇒⇒
「三笠山」とは、春日野の東に仰ぐ御蓋山であり、古来、神の宿る山として信仰を
集めてきた。
 春日大社は神護景雲2年(768)、平城京鎮護のため、御蓋山(みかさやま・春日山)
のふもとに創建された。1年を通して1千回以上の祭礼が催される。全国に約3千もの
分社を持っている。 
奈良時代春日大社は栄華を極めた藤原氏の氏寺として創建されたと考えられている。
その本殿は南を向く。だが、境内につくられた多くの摂社・末社のうち、別格とされる
若宮神社は、西の方向を向いている。
 春日大社の本殿は「天子(皇帝)は南面する」という中国思想の影響をうけた。
 若宮神社は中国思想の入る以前の古代信仰を残して西向きに立つ。
御蓋山(みかさ)を背後にすると自然に向くのが西。藤原氏が支配する前の、もともとの
地主神が若宮の神である。
 若宮神社の別格さ⇒ 
 延暦14年(794)の平安遷都により奈良は都でなくなるが、春日大社が発展したのは
むしろそれからであった。藤原氏は故地に立つ神社を大切にし、宝物を奉納するだけで
なく、建物の整備や領地の拡充に努めた。さらに平安中期以降は、神仏習合の思想が
広まる。春日の神々も仏と同一視され、春日の地は浄土であると見なされた。そして
春日信仰は、藤原氏以外へも広まっていった。



一の鳥居(重文)地図
 平安時代創建と伝えられる。
現在の形式は明神杉で
桶側式檜厚板16枚を張り
立てて円柱としている。
 高さ10m
   
 本殿南門  
  藤原氏は、平城遷都後、政治権力を強め、興福寺大伽藍を造って氏寺とし、
その境内の東端、春日山(御笠山)を拝む自然信仰の聖地に、春日明神を創始して、鎮守とする。
 (平城京を守るために、御蓋山(みかさ)に降りて来られた神様にお仕えしやすいよう、
奈良時代後半に社殿が建てられた。)
 関東の鹿島神宮建武雷之男神と、利根川を挟んだ対岸の香取神宮経津主命が白い鹿に
乗って奈良まで来られた。(春日さんの鹿島立ちという)
  この二神に河内の枚岡神社の祭神天児屋命・姫大神(比売神)とが加わり、合計四神を祭ってある。
 姫大神は、春日に仕える斎女の霊を祭ったもので、平安時代のはじめにできた。
宅春日神社⇒⇒⇒ 
 本殿は「本朱」を塗る。「本朱」は天然の水銀から精製された非常に濃い赤色。それをニカワで溶いた
もの。本朱100%で塗っているのは春日大社だけと云われている。
 本殿以外の建物は「丹塗り(にぬり)」を塗る。「丹塗り」はオレンジ色がかかった赤色。鉛丹(えんたん)
が7割、本朱が3割。それをニカワで溶いて塗る。
本社回廊 砂ずりの藤
砂ずりの藤
 花の穂が地面の砂にすれるほど長いところからこの名がある。
樹齢800年ともいわれ、鎌倉時代後期(1309)に描かれた絵巻物
「春日権現験記(かすがごんげんけんき)」のここにフジがあったことが記されている。
 春日大社では神紋にもフジの紋様を用い、奈良朝以来境内のフジは大切にされている。
 大社を氏神とする藤原氏にちなんで、境内には藤の花が多い。 
日供始式(にっくはじめ)
 1月2日今年初めて神に食事を供える行事。
また、同時に興福寺の僧侶が神職と一緒にお参りする社参式があり、
藤原氏の氏神・氏寺としてのゆかりの深い両社寺の伝統行事である。
 神職に続いて興福寺の貫主達が春日大社本殿に向かうため、
僧侶が神社の参道を歩く珍しい光景となる。
本殿で神職が神に食事を供え、宮司が祝詞(のりと)を読み上げた後、僧侶が読経する。
春日大社末社⇒⇒⇒
車舎(くるまやどり)重文 灯籠
貞観元年(859)創建
 天皇の行幸や勅使、藤原氏高官の参詣の折りに牛車を入れた車庫である。
両側面を除いてすべて吹放しとし、素木造(しらき)りの簡素な建物である。
灯籠(とうろう)がある。
 平安時代に始まったとされ、貴族や武士が奉納してきた。江戸時代末ごろまでは常夜灯として毎夜ともされたが、
人手や油料が不足した明治以降は節分と盆の2回に、回廊の釣灯籠と参道脇の石灯籠に点火される。
 境内にある石灯籠の数は1800基あるともいわれ、四角・六角・円形などの形のものがある。
 本殿前の大杉は高さ25m、幹周り8.7mで、樹齢800年を超すとされている。
本殿を清める御煤祓式(おすすはらい)が行われる28日に、崇敬者らが梯子に上って長さ8.5mの
新しいしめ縄にかけ替えられる。
ムクロジ
 樹高 15.5m 幹周 4.58m
 日本では中部以西の山野に自生し、春日山にも多く生えてている。
果皮には大量のサポニンが含まれるため、かって石鹸としても利用されていた、
種子は正月の羽根突きの球や数珠に使われた。
春日若宮おん祭
 春日大社の摂社、若宮の祭神である天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)
同大社参道のお旅所にうつし、
五穀豊穣や天下泰平を祈って芸能をささげる。
 かって大和一国を挙げての祭礼と言われた。
 神を一日だけお住まいから外へお連れし、古来からの芸能を楽しんでいただくもの。 
 関白の名代である「日使(ひのつかい)を先頭に、巫女、細男、猿楽、
田楽といった芸能奉仕の一群が大名行列を従えて奈良の中心街をねり、
お旅所に向かう。」
更に⇒⇒⇒ 
春日若宮御旅所
 「ここは毎年12月17日執り行われる春日若宮おん祭りの祭場です。
当祭礼は関白藤原忠道が五穀豊穣と国民の安楽を祈念して保延2年(1136)より
始行され大和一国を挙げて執行された大祭です。12月になるとこの広場に黒木の松の
御殿をはじめ幄舎が立ち並び、当日は神楽・東遊・細男・田楽・猿楽・和舞・舞楽等が夜
の更けるまで薪を焚いて奉奏されます。
これらの神事芸能は国の重要無形民俗文化財に指定されている。
 15日 大宿所祭(おおしゅくしょさい)
 17日 正午 お渡り式
 17日 午後1時半 御旅所祭
 17日 深夜 遷幸(せんこう)の儀・暁祭」
 春日大社の摂社、若宮の祭神を一日だけ住まいからお連れし、御旅所に移って
芸能をささげて五穀豊穣や天下太平を祈る「春日若宮おん祭」が15日、始まる。
1136年以来、絶え間なく続いたとされ、時の関白・藤原忠道(ただみち)が、春日大社若宮の
御神霊を春日野のお旅所に迎え、五穀豊穣を祈ったのが起源とされる。
 15日午後5時から祭りの無事を祈る大宿所詣(おおしゅくしょもうで)がある。同大社と縁深い
奈良市内地域から選ばれた「渡神子(わたりみこ)」の女性4人が、
輿に乗って市内中心部を練り歩いて大宿所に入り、祭りの無事を祈る神事に臨む。
 4人はそれぞれ、「辰市神子(たついちみこ)」「郷御子(ごうの)」「八嶋神子(やしまの)」
「奈良神子」と呼ばれる。
 一行が到着すると「御湯立(みゆたて)」の神事がある。湯立巫女が直径1m大釜にひたした
笹の葉を参列者の前で振り、神子や奉仕者が頭や肩に清めのしずくを受ける。
16日には主催者役の大和士らが若宮の祭神に拝礼し、おん祭りの始まりを告げる。
17日午前0時、神を御旅所へと移す「遷幸の義」では、一切の灯りを消した暗闇の中で
榊を持った神人が御神霊のまわりを取り囲み、不思議な声を発しながら渡る神々神事。
正午から祭礼の参加者らが御旅所へと向かう「お渡り式」がある。
これは、平安時代から鎌倉、室町、江戸と各時代に渡る衣裳をまとった人々による1kmに
渡る豪華なパレードで大和一国を挙げた行事として一度も絶えることなく続いている。
 若宮神社本殿⇒⇒⇒
 二の鳥居地図
   
竃殿(へついどの)重文  酒殿(さかどの)重文  桂昌殿(けいしょうでん)
 
竃殿(へついどの)重文
 貞観元年(859)創建
 中には竈(かまど)が設けられており、当社例祭春日祭の神饌(しんせん・塾饌じゅくせんといい煮炊きしたお供え)を調理するところで、隣の酒殿と共に重要な役割をする建物である。 
酒殿(さかどの)重文
 伝貞観元年(859)創建
天平勝宝2年(750)の記録に初見し、春日祭にお供えする神酒を醸造するところで、内部には大甕(おおがめ)がすえてあり、現在もここで濁り酒を醸造してお供えする。 
桂昌殿(けいしょうでん) 
 元禄12年(1699)創建
元禄年間に時の将軍綱吉の母である桂昌院の寄進によることから、桂昌殿と呼ばれているが、祈祷殿といい、天下泰平の祈願を修する建物である。東方の一間、二間分が祭壇となり、両脇の控間に分かれている。  
式年造替(しきねんぞうたい)
 春日大社の式年造替は、20年に一度、傷んだ社殿の修理や調度品の造り替えを行う神事。
 今回(2015)で60回目。本殿改修の間、神様は西隣の「移殿(うつしどの)」へ一時的に遷る。2007年から一の鳥居や神楽殿の造替を順次終えた。
 本殿修理は3月に始まり、約1年半かけて屋根の葺き替えや柱・壁の塗り替えを行う。

春日大社式年造替とは

 式年造替とは、定めた年数ごとに定期的に社殿の建て替えや補修をする神社特有の制度。社殿が新しくなることにより、神威が若々しく更に力を増

すと考えられている。ほぼ20年ごとに行われる春日大社では、社殿などの建造物は大修理され、調度品や祭具などは新調される。また、これにより、伝統技

術の継承が途切れずに続いてきたという側面も大切なこと。平成27~28年はちょうど節目の第60回目に当たりる。


春日大社社家

 
 周囲を土塀に囲まれた藤間家住宅

春日大社神職の家保存へ

奈良市高畑町はかつて、春日大社神職の家百数十戸
が軒を連ねる社家町だった。
明治以
降、社家住宅が姿を消してゆく中、今も残るのが
「藤間家住宅」だ。その家も老朽化が進み
崩壊の危険性
が生じている。保存に向けて所有者や大社、
行政が動き出した。


春日大社によると、藤間家住宅はほぼ唯一残った社

家住宅だという。大社南側の旧柳生街道沿いにある。

ひび割れて所々傾いた土塀に囲まれ、屋根は防水シ

トに覆われている。

床の間のある部屋は拭き漆の柱に囲まれ、狩野派の

絵師のふすま絵や透かし彫りの欄間がある立派な造り

だ。だが、壁は崩れかけ、床は抜け落ちる寸前まで傷

んでいる。

藤間家は祖先が室町時代に大社の神職になった時か

らこの地に住んでいたと伝わる。佐久間公美子さん

( 69 )の祖父の代まで大社に勤めていた。独り暮らしだ

った佐久間さんの母が数年前に体調を崩して以後、無

人になった。佐久間さんは「 一気に劣化してしまいま

した」とため息をつく。

2年前に奈良市に相談したが、文化財指定のない町

家改修への補助は難しかった。7千万S8千万円に及

ぷ費用すべてを負担するととはできない。売却してほ

しいという業者もいたが、貴重な社家住宅が撤去され

ることは避けたかった。

昨秋、屋根にシートが掛かっているのを花山院弘匡

宮司が見かけ、大社が協力を申し出た。中野和正権禰

宜は「この家がなくなれば、春日の神官の歴史が消

えてしまう。大社も保存に協力を惜しまない」と話

す。県にも相談し、助成制度の活用に向けて助言を受

けられるめどが立った。保存に向けた計画が軌道に乗!

り始めた。

4月下旬、東京理科大の伊藤裕久教授(建築史)ら

が調査。母屋は18世紀初めごろの建築で、必要に応じ

て建て増した痕跡が残っていた。伊藤教授は「宮司ク

ラスでない一般の神官の住宅は全国的に見ても貴重。

調査と修復を通じて、昔の神官の暮らしぶりや変化が

掘り起こせるだろう」と期待をかける。

今後、行政の補助も活用して主要部分を修復·保存

する計画だ。展示スペースと資料館、ゲストハウスを

整備し、受け皿団体をつくって運営する方針という。

室内には未整理の文書も大量にあり、天下太平を願っ

た江戸時代の祈願文などが含まれる。専門家の協力を

得て、記録の整理や修復作業にとりかかる。

佐久間さんは「感激してます。社家町だったことの

象徴となるような形で家を残していきたい」と話す。

(古沢範英) 2017-5-25 朝日新聞


春日四神

建武雷之男神 ⇒⇒⇒

径津主命(ふつぬしのみこと)
 建武雷之男神と同じで(古事記)、伊邪那岐神が十拳(とつか)剣を抜いて迦具土神の首を切った御刀(みはかし)鐔際(つばぎわ)についた血から生まれた三神の内の 一神といわれるので、甕速日神または樋速日神になる。

天児屋根命⇒⇒⇒

比売神(ひめかみ)
 天児屋根命の后。

伎楽飛鳥時代の芸能⇒⇒⇒


































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