本隆寺地図

法華宗真門流総本山本隆寺  かって大火に見舞われたが、本堂や祖師堂は
難を免れたことから「不焼寺」の異名を持つ。

法華宗真門流総本山本隆寺

沿革

 当山は慧光山本隆寺といい、長享二年(一四八八)四月二

十八日、開祖常不軽院日真大和尚が京都四条大宮西に

堂宇を建立し、『慧光無量山本妙興隆寺』と公称した

に始まる。天文五年(一五三六)に起こった『天文の法乱』

によって堂宇を失い、泉州堺に避難し留まること六年

天文十一年(一五四二)の春、旧跡は幕府の収るところと

なり、現在地に再建。この間、京都洛中を焼け尽くした

承応三年(天五四)の大火による類焼によって堂宇悉く

焼失。時の住職第十世日遵上人は十二年の歳月を経て

明暦三年(一六五七)堂宇を再建。

その後、享保十五年(一七三0) 、天明八年(一七八八)の

二度にわたる洛中を焼け尽くす大火に見舞われたが

当山に祀る鬼子母神の加護により奇跡的に難を免れ

今日に至っている。爾来、当山の鬼子母神は『火伏せの

鬼子母神』と称され信仰を集めている。この歴史的

背景をもつ本堂.祖師堂の文化的価値は高く昭和六十

一年(一九八六)に京都府文化財に指定された。

 蓮門下の法華宗真門流の本山です。1月に重文指定された本堂や 祖師堂、
長谷川等伯筆「西
王母図」があります。
タカオカエデ
本堂の東に「夜泣き止め松」がある。⇒⇒⇒
 当山は慧光山本隆寺といい、
長享2年(1488)4月28日、
開祖常不軽院日真大和尚が
都四條大宮西に堂宇を建立し、
慧光無量山本妙興隆寺と公称したに始まる。