詳しく
仏頭について
大燈国師
三大
葵祭
池坊
江戸の栄華と、明治の反動
閻魔法王
お精霊迎え
唐破風
桂川
上賀茂神社について
鎌倉時代
銀閣寺の「銀」
京都三大門
金閣炎上
車折神社
五山の送り火
北野の天神さんの梅
浄土宗
真言系
西陣五水
禅系
竹内
時代祭
天台宗
天皇と宮の名
徒然草 これも仁和寺の法師
天龍寺と夢窓
蛤御門
奈良仏教
日蓮宗
八角九重塔
平安京・平安時代
被差別の民とともに土を運ぶ
本隆寺「夜泣き止め松」
へそ石
法観寺
護国の寺
室町時代
京都三大鳥居
醍醐寺塔
石川丈山
三十三間堂を700年以上保たせた
西国三十三所
嵯峨野観光鉄道
羅生門
利休
蓮如の登場
四円寺
西陣
平安京
祇園祭りで怨霊退散
一条戻橋
六道珍皇寺
聖徳太子建立七大寺
八角円堂
難波京関連
最古の木簡
斎宮
追尊天皇
一休
安土桃山時代
桃山時代
薬子の変
運慶
宗印
康慶
遠近飛鳥の比較
盟神深湯(くがたち)
最澄
武内宿祢
空海
貞慶
桂川 |
私どもは車を、堤防道路の左左に片寄せてまった。老松がある。そのかげに建設省の表示板が立っている。 一級河川 桂川(大堰川)建設省 とある。この表示のように、一つの川が桂川ともよばれ、大堰(おおい)川ともよばれる。あるいは保津川ともよばれる。日本の河川の名のややこしさである。おなじ川ながら、渓流を舟で奔りくだる遊びの場合は「保津川くだり」という。「大堰川くだり」では、気分がでない。 保津川くだりの舟は、丹波側の保津町の保津橋付近を出発点としている。 丹波の保津町のひとびとは、古来、目の前の川を保津川とよんできた(ちょっとややこしいが、保津町より上流は、同じ丹波でも大堰川とよぶ)。舟で保津川を駆けくだって嵐山の渡月橋までくると、また大堰川となる。京都側では、ほんのつかのまの大堰川である。なぜかといえば、渡月橋からほんのわずか下流に桂の里があって、桂離宮がある。桂のひとびとは古来、桂川とよんできた。 街道をゆく (26) 司馬遼太郎 より |
車折神社 |
「飲み屋の」お好(おたか)はんは車折神社を「かけとり」の神にしてしまったが、この神社はべつに遊芸のひとびとが信仰していて、板の玉垣など朱色に塗られており、三味線の音でもきこえてきそうな感じがある。 境内に入ると、思わぬ色取り、須田画伯が足をすくませてしまった。 「祭神は、どういう神なのでしょう」 と、藤谷氏がとまどった。アメノウズミノミコトとか、「出雲の阿国」といったふうなら芸能の神にふさわしいのだが、そうではなく、祭神は平安後期の大学者清原頼業(よりなり)なのである。このあたりが、神道の奇抜さといえる。 嵯峨の車折神社のあたりは、当時清原氏の領地だったらしく、頼業は死後、いまの車折の境内地に葬られた。さらに、子孫によって墓所に祠堂も設けられたらしい。やがて武家の世になり、他の公家と同様、清原氏も所領をうしなったが、祠堂は土地のひとびとが護持し、いつのほどか村社になり、また桜大明神とも車折神社ともよばれるようになった。 「桜大明神」とは、墓域に桜の木があって春になるとひとびとの目をたのしませたところからできた通称らしい。一説によると、頼業は桜が好きで、遺族が桜の木を植えたともいう。もし桜の木がなかったらこの墓は無縁になっていたかもしれない。 ここに珍事がおこった。 嵯峨野を愛した亀山天皇は、上皇になるとしばしばいまの天龍寺付近にあった亀山殿に通ったのだが、当然ながら、下嵯峨街道ぞいのこの社を通りつづけたことになる。あるとき社前で牛車がうごかなくなった。やむなく車を降り、 「ここはどこか」 ときくと、かたわらの者が、 「経(ふ)りにし世の明経博士頼業なる者の墓前にて候」 と、答えた。車折(あるいは車前)という名はそこから出たといわれる。 街道をゆく (26) 司馬遼太郎 より |
西陣五水 | |
西陣一帯は、昔から水に恵まれた土地であり、晴明神社の晴明井や聚楽第ゆかりの梅雨の井など多くの名水が残っている。 名水の中では「西陣五水」が有名で、平安時代末期に建てられた安居院(あぐいん)ゆかりの安居井と、雨宝院の染殿井は今も現役で使われている。他の名水は鎌倉時代後期の尼僧・無外如大(むがいにょだい・俗名は千代野)が悟りを得たという本隆寺の千代野井、公園として復元された桜井、そして鹿子井である。西陣五水は、南北にほぼ一列に並んでいるため、同じ水脈ではないかといわれている。 雨宝院の染殿井は、その名のとおり織物が美しく染め上がるといわれ、かっては西陣の職人にも使われていた。雨宝院は、弘仁12年(821)嵯峨天皇の悩みが解決することを願い、弘法大師が大聖歓喜天を刻して祈祷したことに始まるといわれ、地域では西陣の聖天さんとして親しまれる。 カッパが語る 京の水 カッパ研究会 大滝祐一氏 より引用させて頂きました |
宗教年鑑昭和55年版
禅系 | 宗派 | 開山 | 寺院数 | 本山 | リンク | 地図 | 五山 | 京都 十刹 |
臨済宗妙心寺派 | 関山慧玄 | 3、429 | 妙心寺 | ⇒⇒⇒ | 妙心寺 | |||
臨済宗建長寺派 | 蘭渓道隆 | 405 | 建長寺(鎌倉) | ⇒⇒⇒ | 建長寺 | |||
臨済宗円覚寺派 | 無学祖元 | 209 | 円覚寺 | ⇒⇒⇒ | 円覚寺 | |||
臨済宗南禅寺派 | 無関普門 | 429 | 南禅寺 | ⇒⇒⇒ | 南禅寺 | 別格 | ||
臨済宗方広寺派 | 無文元選 | 240 | 方広寺(静岡) | ⇒⇒⇒ | 方広寺 | |||
臨済宗永源寺派 | 寂室元光 | 131 | 永源寺 | ⇒⇒⇒ | 永源寺 | |||
臨済宗仏通寺派 | 愚中周及 | 51 | 仏通寺 | ⇒⇒⇒ | 仏通寺 | |||
臨済宗東福寺派 | 円爾弁円 | 366 | 東福寺 | ⇒⇒⇒ | 東福寺 | 4 | ||
臨済宗相国寺派 | 春屋妙葩 | 116 | 相国寺 | ⇒⇒⇒ | 相国寺 | 2 | ||
臨済宗建仁寺派 | 明庵栄西 | 71 | 建仁寺 | ⇒⇒⇒ | 建仁寺 | 3 | ||
臨済宗天龍寺派 | 夢窓疎石 | 104 | 天龍寺 | ⇒⇒⇒ | 天龍寺 | 1 | ||
臨済宗向獄寺派 | 抜隊得勝 | 62 | 向獄寺 | ⇒⇒⇒ | 向獄寺 | |||
臨済宗大徳寺派 | 宗峰妙超 | 199 | 大徳寺 | ⇒⇒⇒ | 大徳寺 | (9) | ||
臨済宗国泰寺派 | 慈雲妙意 | 35 | 国泰寺 | ⇒⇒⇒ | 国泰寺 | |||
曹洞宗 | 永平道元 | 14、705 | 永平寺 ・ 総持寺 | ⇒⇒⇒ ・ ⇒⇒⇒ | 永平寺 ・ 総持寺 | |||
黄檗宗 | 隠元隆琦 | 462 | 万福寺 | ⇒⇒⇒ | 万福寺 | |||
(万寿寺) | 万寿寺(東福寺塔頭) | 5 | ||||||
(等持院) | 等持院(天竜寺派) | 1 | ||||||
(真如寺) | 真如寺 | 3 |
天台の中から、自力鍛錬を主張したのが、栄西である。臨済宗寺院は建仁寺のほか、九条道家が聖一国師(しょういっこくし)を開山として創建した東福寺、亀山上皇の発願で東福寺の無関普門(むかんふもん)を開山として離宮松下殿の下の宮を禅寺とした南禅寺、同じく上皇の離宮亀山殿跡に夢窓国師を開山として後醍醐天皇の菩提をとむらって建てられた天龍寺、夢窓と並んで禅林の双璧とされた大燈国師により創立された天下無双の禅苑といわれた大徳寺、花園法皇の離宮萩原殿の跡には大燈国師の高弟関山慧玄(かんざんえげん)を開山として建てられた妙心寺等々の名刹が多く、これらはいずれも時には五山の一として繁栄したもので、こんにちに法灯をつたえている。五山の一として終始したなかでは、白河天皇の創建になる六条阿弥陀堂を禅刹として万寿寺のみが衰頽して、東福寺の塔頭三聖寺に合併、わずかにその名をとどめている。 こうした京の禅寺が、すべて臨済宗であることも興味ふかい現象である。その理由は、曹洞禅の方が祈祷など伴って宗教性がつよかったのに比して、臨済禅には教養的な文化性がつよく、そのことが京都に受け入れられたのであろう。禅寺はそれほど親しみふかいものではない。しかしそのなかにながれる文化性は、こんにちでも一つの魅力になっているようだ。その文化性の一つの現れが茶であった。 そして京都の禅の、このような性格は、宗教的には相対立し矛盾するはずの禅と浄土の二つを、ときには相抱合することさえもゆるした。東山文化をつらぬく思想的支柱が、二本立てであり、慈照寺すなわち銀閣のなかには、そのようなおもむきがつよく感ぜられる。 京都 林屋辰三郎 より |
真言系 | 宗派 | 開山 | 寺院数 | 本山 | リンク | 地図 | ||||||
高野山真言宗 | 6,173 | 金剛峯寺 | ⇒⇒⇒ | 金剛峯寺 | ||||||||
真言宗醍醐派 | 1,085 | 醍醐寺 | ⇒⇒⇒ | 醍醐寺 | ||||||||
真言宗東寺派 | 103 | 教王護国寺 | ⇒⇒⇒ | 東寺 | ||||||||
真言宗泉涌派 | 56 | 泉涌寺 | ⇒⇒⇒ | 泉涌寺 | ||||||||
真言宗山階派 | 143 | 勧修寺 | ⇒⇒⇒ | 勧修寺 | ||||||||
真言宗御室派 | 789 | 仁和寺 | ⇒⇒⇒ | 仁和寺 | ||||||||
真言宗大覚派 | 383 | 大覚寺 | ⇒⇒⇒ | 大覚寺 | ||||||||
真言宗善通寺派 | 240 | 善通寺 | ⇒⇒⇒ | 善通寺 | ||||||||
真言宗智山派 | 2,877 | 智積院 | ⇒⇒⇒ | 智積院 | ||||||||
真言宗豊山派 | 2,588 | 長谷寺 | ⇒⇒⇒ | 長谷寺 | ||||||||
新義真言宗 | 213 | 大伝法院 | ⇒⇒⇒ | 大伝法院 | ||||||||
真言宗室生寺派 | 52 | 室生寺 | ⇒⇒⇒ | 室生寺 | ||||||||
|
浄土系 | 宗派 | 開山 | 寺院数 | 本山 | リンク | 地図 | ||
浄土宗 | 7,088 | 知恩院 | ⇒⇒⇒ | 知恩院 | ||||
浄土宗拾世派 | 6 | 一心院(京都) | ⇒⇒⇒ | 一心院 | ||||
浄土宗西山深草派 | 278 | 誓願寺(京都) | ⇒⇒⇒ | 誓願寺 | ||||
浄土宗西山禅林寺派 | 373 | 永観堂・禅林寺(京都) | ⇒⇒⇒ | 永観堂 | ||||
西山浄土宗 | 608 | 光明寺(京都) | ⇒⇒⇒ | 光明寺 | ||||
浄土真宗本願寺派 | 10,511 | 西本願寺 | ⇒⇒⇒ | 西本願寺 | ||||
真宗大谷派 | 9,478 | 東本願寺 | ⇒⇒⇒ | 東本願寺 | ||||
真宗高田派 | 641 | 専修寺(三重) | ⇒⇒⇒ | 専修寺 | ||||
真宗興正派 | 521 | 興正寺(京都) | ⇒⇒⇒ | 興正寺 | ||||
真宗仏光寺派 | 390 | 仏光寺(京都) | ⇒⇒⇒ | 仏光寺 | ||||
真宗三門徒派 | 41 | 専照寺(福井) | ⇒⇒⇒ | 専照寺 | ||||
真宗出雲路派 | 67 | 豪摂寺(福井) | ⇒⇒⇒ | 豪摂寺 | ||||
真宗山元派 | 21 | 証誠寺(福井) | ⇒⇒⇒ | 証誠寺 | ||||
真宗誠照寺派 | 76 | 誠照寺(福井) | ⇒⇒⇒ | 誠照寺 | ||||
真宗木辺派 | 189 | 錦織寺(滋賀) | ⇒⇒⇒ | 錦織寺 | ||||
時宗派 | 414 | 清浄光寺(藤沢市) | ⇒⇒⇒ | 清浄光寺 | ||||
融通念仏派 | 358 | 大念仏寺(大坂) | ⇒⇒⇒ | 大念仏寺 | ||||
|
天台系 | 宗派 | 開山 | 寺院数 | 本山 | リンク | 地図 | ||||||
天台宗 | 3,328 | 延暦寺 | ⇒⇒⇒ | 延暦寺 | ||||||||
天台寺門宗 | 265 | 園城寺(大津市) | ⇒⇒⇒ | 園城寺 | ||||||||
天台真盛宗 | 419 | 西教寺(大津市) | ⇒⇒⇒ | 西教寺 | ||||||||
修験宗 | 201 | 聖護院(京都) | ⇒⇒⇒ | 聖護院 | ||||||||
金峯山修験本宗 | 265 | 金峯山寺(奈良) | ⇒⇒⇒ | 金峯山寺 | ||||||||
和宗 | 28 | 四天王寺(大坂) | ⇒⇒⇒ | 四天王寺 | ||||||||
粉河観音宗 | 8 | 粉河寺(和歌山) | ⇒⇒⇒ | 粉河寺 | ||||||||
鞍馬弘教 | 71 | 鞍馬寺(京都) | ⇒⇒⇒ | 鞍馬寺 | ||||||||
羽黒山修験本宗 | 23 | 荒沢寺正善院(山形) | ⇒⇒⇒ | 荒沢寺正善院 | ||||||||
聖観音宗 | 26 | 浅草寺(東京) | ⇒⇒⇒ | 浅草寺 | ||||||||
|
奈良仏教系 | 宗派 | 寺院数 | 本山 | リンク | 地図 |
法相宗 | 262 | 興福寺 ・ 薬師寺 | ⇒⇒⇒ ・ ⇒⇒⇒ | 興福寺 ・ 薬師寺 | |
聖徳宗 | 24 | 法隆寺 | ⇒⇒⇒ | 法隆寺 | |
北法相宗 | 8 | 清水寺 | ⇒⇒⇒ | 清水寺 | |
華厳宗 | 144 | 東大寺 | ⇒⇒⇒ | 東大寺 | |
律宗 | 43 | 唐招提寺 | ⇒⇒⇒ | 唐招提寺 | |
真言律宗 | 91 | 西大寺 | ⇒⇒⇒ | 西大寺 |
唐招提寺金堂 | 善法律寺 | 空也上人 |
建築様式折衷様 |
日蓮系 | 宗派 | 創設 | 寺院数 | 本山 | リンク | 地図 |
日蓮宗 | 5,119 | 久遠寺(山梨) | ⇒⇒⇒ | 久遠寺 | ||
日蓮正宗 | 467 | 大石寺(静岡) | ⇒⇒⇒ | 大石寺 | ||
顕本法華宗 | 217 | 妙満寺(京都) | ⇒⇒⇒ | 妙満寺 | ||
法華宗(本門流) | 513 | 妙蓮寺(京都) | ⇒⇒⇒ | 本能寺 | ||
法華宗(陣門流) | 180 | 本成寺(新潟) | ⇒⇒⇒ | 本成寺 | ||
法華宗(真門流) | 208 | 本隆寺(京都) | ⇒⇒⇒ | 本隆寺 | ||
本門法華宗 | 104 | 妙蓮寺(京都) | ⇒⇒⇒ | 妙蓮寺 | ||
日蓮宗不受布施派 | 19 | 妙覚寺(岡山) | ⇒⇒⇒ | 妙覚寺 | ||
日蓮講門宗 | 8 | 本覚寺(岡山) | ⇒⇒⇒ | 本覚寺 | ||
日蓮本宗 | 52 | 要法寺(京都) | ⇒⇒⇒ | 要法寺 | ||
本門仏立宗 | 287 | 宥清寺(京都) | ⇒⇒⇒ | 宥清寺 |
平安京・平安時代 |
桓武天皇は延暦3年(784)都を大和の奈良から山背国(やましろ・山城)乙訓郡(おとくに)長岡に移された。しかし、種々の不祥事があって、10年を経ても、都を完成するに至らなかった。そのとき和気清麻呂の建議をいれて現在の京都の地、当時の葛野郡(かどの)宇太村に新都(平安京)を設けられた。 ここは鴨川と桂川のうるおす沃野であって、加茂川沿岸を賀茂県、桂川沿岸を葛野県といった。この地方は最も早く開けた農耕地帯で、かつ帰化人の多いところであった。賀茂には賀茂氏が上賀茂・下鴨神社を祭り、葛野には朝鮮から帰化した秦(はた)氏が栄えて、太秦(うずまさ)広隆寺・松尾神社・稲荷大社などがあった。あたらしい都は延暦24年(805)に完成したが、当時の規模は東西約4.5km南北約5.3km総面積24k㎡、その周囲には厚さ1.8mの垣をめぐらし、これを羅城といった。宮城(大内裏・だいだいり)は平安京の北部中央を南面し、周囲に12門をを設けた。・・・ 平安時代は、延暦13年(794)に桓武天皇が京都に都を定めてから建久3年(1192)に源頼朝が征夷大将軍に任ぜられて鎌倉に幕府を開く時期までのおよそ400年の期間をさす。 |
斎宮
天皇の代替わりごとに都から派遣され、伊勢神宮に仕えた未婚の皇族女性で、その名を斎王 といい、宮殿を斎宮という。 実在した最古の斎王は、天武天皇の娘・大来皇女である。それから後醍醐天皇の御代に廃絶 されるまでの約600年にわたり、60人余りの斎王が神宮に仕えたことになる。 斎王は葱華輦(そうかれん)という輿に乗り伊勢に向かう。群行(ぐんこう)というこの旅は、官人・ 官女あわせて500人を超える荘麗なもので、平安の都から5泊6日の旅だった。斎王が神宮に 赴くのは、6月、12月の月次祭と9月の神嘗祭に限られていた。 それ以外の日々は斎宮で暮らしていた。 野宮神社⇒⇒⇒ 伊勢神宮に仕えた未婚の女性皇族「斎王」の宮殿があったとされる国の史跡·斎宮跡(三重県 史博物館が6日、発表した。同時期に、天武天皇のもとで神宮の祭式が整えられ、祭記のため、 昨年8月、宮殿の内外を区画するために建てられたとみられる東西約8m、南北約10mの塀 塀で囲まれた区画は東西約41m、南北55m以上に及ぶと考えられる。さらに塀跡の内側で掘 日本書紀には、大海人皇子(後の天武天皇)が王申の乱(672年)の際に天照大神を祭る伊勢 皇家は守護神としての伊勢神営宮の地位を確立し、その証しとして皇族1人を伊勢神宮に派遣 斎宮跡ではこれまで奈良時代以降の区画しか確認されていなかった。博物館は「ほぼ同じ時期 |
夢窓疎石(1275~1351) 室町時代における禅宗発展の基礎を築いた名僧。 作庭にも才能を発揮し、苔寺(西芳寺)を再興。 夢窓は50歳を過ぎるまで、ひたすら名利を避けて山野で厳しい修行を続けた。51歳で後醍醐天皇から請われて南禅寺に入寺して以降の社会的活動は目ざましい。 後醍醐天皇崩御の後には足利尊氏・直義兄弟の精神的指導者として天龍寺の創建などを実現させた。 |
天龍寺と夢窓 |
天龍寺境内はいまはさほどではない。 が、往時、広大であった。 明治10年の太政官布告によって、天龍寺境内は10分の1になった。それまでは嵐山のほとんどと、亀山ぜんぶ、それに渡月橋付近から京福電鉄嵐山駅あたりまでが寺有地だった。むろん、天龍寺だけがこういう目に遭ったのではなく、諸大名の領地も同様の処分をうけている。 私どもが南門から入った。正面にむかってすすみ、方生池(ほうじょうち)や、松林やらをすぎてゆくと、法堂(はつとう・坐禅堂)にゆきつく。主構造は、必要なための瓦屋根、必要なための白壁だけでできており、ながめているだけで漱石ではないが、夢窓という人がわかってくる気分がする。 夢窓をさらにわかろうと思えば、大方丈の裏の庭園(曹源池・そうげんち)のほとりまでゆけばいい。夢窓は庭園で禅の境地を表現しようとした人で、この庭には禅がもつ抽象性の骨格がふとく組み込まれている。そのくせ、古今・新古今の日本的美意識の世界であり、大和絵そのものともいえる。 夢窓という人が、荘時「虚空の骨」を撃砕し、その後はは「撃砕」する主体もまた撃砕しつづけた人でありながら、日常、他からみれば春の野山のようにおだやかな風韻の人であったろうことが、この庭を見ればわかる 街道をゆく(26) 司馬遼太郎 より |
本隆寺第5世日諦(にったい)上人がまだ修行中の身だった1532年元日。本堂で経を黙読していた日諦は、乳児を抱いて涙を流す母親を境内に見つけた。その後、何度も姿を現した母親はある日、乳児の養育を日諦に依願してその場を去ってしまった。 日諦は預かった子どもを仏門に入れて弟子として育てた。だが、母親がいないためか子どもの夜泣きがひどかった。こまった日諦は、経を唱えながら本堂脇の松の木を回ると、子どもは不思議と泣きやんで、すやすや眠りについたという。 この話を聞いた夜泣きに悩む母親たちは、その力にあやかろうと松の葉や皮を持ち帰っては子どもの枕元に敷いた。たちまち町の評判になり、「夜泣き止めの松」と呼ばれるようになった。 現代の松は三代目とも言われている。 京都新聞 2007、4,19 ふるさと昔語り 山本旭洋 より |
洛西の広隆寺と並ぶものは、東山の法観寺である。町とともに生きるとでもいいたい。こんにちの寺のたたずまいも、二つの寺はよく似ている。この寺も祟俊天皇2年(589)聖徳太子の発願と伝えられるが、この寺地の八坂郷の地を占領していた高麗の調使意利佐の後裔の創立とするところである。高麗の帰化氏族は相楽郡の上狛・下狛の地を根拠として高麗寺を創建し、氏族の拠点としていたが、八坂造(やさかのみやつこ)の名でよばれたこの地の氏族は、この祇園社の前身となるべき神社をまつり、またこの八坂寺を建てた。寺じたいは遺憾ながら早く罹災によって衰亡したが、室町時代永享12年(1440)再建の五重塔がひとり立ち残って、東山の眺望に風情をそえている。 京都 林屋辰三郎 より |
平安京は、まったく人為的につくり出された都市であり、国家権力の中枢として、すこぶる政治的な意味を帯びた都市であった。そのなかにつくられた東寺・西寺の創建は、平城京における東大寺・西大寺と同様、国家鎮護の意味をもったばかりでなく、一歩進んで私寺を禁じて寺院を統制する意味をふくんでいたのである。 王城の守護として東寺といつも並称される比叡山延暦寺も、その起こりは延暦7年(788)、最澄がいわゆる根本中堂すなわち一乗止観院(いちじょうしかんいん)を建てたのにはじまったが、久しく公認せられずに比叡山寺という練行道場(れんぎょう)にすぎなかった。桓武天皇の御悩平癒を祈ったのが縁で、天台開宗を認められたが、延暦の寺号を許されたのは、弘仁13年(822)最澄の歿した翌年であった。そのほか洛北の鞍馬寺も、延暦15年(796)の創立であったが、東寺の造寺長官藤原伊勢人の一私寺であった。そのためみずから王城の北方守護をもって任じながら、宇多天皇の寛平年中までは公認せられず、根本別当峯延のころからようやく寺基が固まった。 奠都のころの創建では、延暦17年(796)7月坂上田村麻呂の造立になる清水寺が、ひとり同24年10月に太政官符をもって寺地を賜り、公認せられたくらいである。これは特別な例で、桓武朝における平安奠都とならぶ二大事績としての蝦夷平定の功を賞してのことであったろう。このようにみると、こんにち創建のころの伽藍配置をそのままに、壮大な堂塔をもって、古都の表情を豊かに示している東寺の位置が、おのずから理解できると思う。それは正確には教王護国寺といわれるように、きわめて政治色に富んだ官大寺として、宮廷の御修法(みしほ)はつとめても、民衆の祈祷を行うようなことはなかった。 ・・・平安京の再現を夢見る。東寺と朱雀大路を夾んで対称点にあった西寺は、早く亡んで今は廃址をのこすのみで、その西一町の唐橋にわずかに寺号をつぐ寺があって古瓦を保存しているにすぎない。そして南端にあった羅城門もまた。わずかに石の標柱がそのあとを示すばかりである。 古都 林屋辰三郎 より |
京都三大鳥居 | 京都御苑 厳島神社石鳥居 唐破風鳥居 |
蚕の社 木の島神社 三柱鳥居 |
北野天満宮 伴氏社(ともうじ) |
京都三大祭 | 葵祭 | 祇園祭 | 時代祭 |
京都三大門 | 南禅寺 | 知恩院 | 仁和寺 または東本願寺御影堂門 |
京都三唐門 | 西本願寺 | 豊国神社 | 大徳寺 |
京都三大奇祭 | 鞍馬の火祭(由岐神社) | やすらい祭(今宮神社) | 牛祭(太秦) |
京都三大火祭 | 清凉寺(釈迦堂) | 五山送り火 | 鞍馬の火祭 |
京都三大念仏狂言 | 嵯峨大念仏狂言(清凉寺) | 壬生大念仏狂言 | 千本ゑんま堂狂言 |
京都三大珍鳥居 | 北野天満宮伴氏社の 蓮弁台座鳥居 |
蚕の社(木島神社) 三柱鳥居 |
厳島神社 唐破風鳥居 |
日本三大梵鐘 | 方広寺 | 知恩院 | 東大寺(奈良) |
三大名鐘 | 平等院(形) | 三井寺(音) | 神護寺(銘) |
日本三大祭り | 祇園祭 | 天神祭 | 神田祭 |
日本三大名月観賞地 | 大沢池 | 石山寺 | 猿沢池 |
日本三大荒神 | |||
日本三如来 | 清凉寺(釈迦如来像) | 平等寺(京都市下京区) (薬師如来像) |
善光寺(阿弥陀如来像) |
日本三大山城 | 高取城 | 岩村城 | 松山城 |
日本三大十一面観音 | 大御輪寺 →聖林寺 | 渡岸寺(どうがんじ・滋賀県) | 観音寺(又は普賢寺・京都府田辺) |
日本三文殊 | 安倍文殊院 | 文殊仙寺 | 亀岡文殊 |
日本三如意輪 | 神呪寺 | 観心寺 | 大和室生寺 |
日本三大会 | 薬師寺 | 興福寺 | 宮中 |
日本三奇 | 石の宝殿 | 天逆鉾 | 塩釜神社の塩釜 |
道真の三大宮 | 北野天満宮、 | 太宰府天満宮 | 菅原天満宮 |
三大怨霊 | 菅原道真 | 平将門 | 崇徳天皇 |
相輪は塔の高さの三分の一ほどを占めて安定しており、いかにも重量感にみちみちた堂々たる風格である。正面から見ると、各層の屋根は少しめくりあがったように見え、幾らか重苦しかったが、斜めから見ると、そうした重圧感は全然感じられなかった。塔の背後は稜線のなだらかな山で、そこを埋めている雑木の緑が背景をなしている。そのほか何もないので、雑木の中に塔がある感じであった。・・・ 三層の屋根のところに背後の山の稜線をおくのが、塔を最も美しく見せるのではないかと思った。ともあれ、法隆寺、法起寺、薬師寺、当麻寺、室生寺と時代追って造られてきた塔が、異国のものを少しずつふっきってきて、初めてここに日本の塔としての完成を見せたのではないかといった、そんなその時の印象であった。・・・ 醍醐寺の塔は、仏舎利奉安を使命としている建物でなく、建物自体が真言密教の教義を、両界曼荼羅を象徴することを目的として建てられたものなのである。 歴史の光と影 井上 靖 より |
当時の日本人にとっては、どうしても銀より金のほうが大切で貴重だったはずです。もうすでに義満が建てた金閣寺があって、これから自分が建てるものははじめから前のものほどになれないということを知っていた。定義として銀は金ほど貴重でないし、そして実際の建物からいっても、金閣寺のほうがはるかに立派であったでしょう。義政は、はじめから自分の世界に限界があると感じたのじゃないかと思います。 むしろ限界を意識的に設けておった人かもしれませんね。 自分の時代は金の時代でなくて銀の時代である、と。しかし、ここで私は考えるのですが、日本人の趣味からいうと、どうも金よりも銀のほうが合っているような気がする。金のような温かい黄色い色よりも、銀のような淋しい色のほうが日本的じゃないかと思います。ちょうど世阿弥(1363~1443)が「九位」で書いたように、花にはいろいろな段階がありますが、一つは銀の鉢に雪が積もっているような美しさ―――これは私にとってひじょうに日本的な美の観念です。そういう意味で、あるいはあとの時代の日本人にとって金閣寺よりも銀閣寺のほうが親しみやすかったのではないでしょうか。しかも東山文化の墨絵、お花、茶に湯というものは、同じ銀の世界のものとして受け取られたと思います。日本にはあらゆる趣味があるにちがいないのですが、もしも日本的な趣味を一つだけに絞ろうと思ったら、私は東山時代の文化じゃないかと思います。 日本人と日本文化 ドナルド・キーン より |
私は京都の中では、嵯峨についで上賀茂神社のあたりが好きな場所だ。まだそのあたりは、昔の京都がそのまま残っている。平安神宮の華やかさより、上賀茂神社の神さびた風情方が古都らしい匂いがする。 出離する前、私は京都に移り住んでからは、毎年、元旦に上賀茂神社に詣(まい)っていた。たいてい、誰かしら泊り客があって、その客のために行くような気持ちだったが、さて出かけて見ると、着かざった人々が白い息を鼻先に凍らせながら、晴れやかな顔で、破魔矢など持って初詣をすまして帰るのに行きかうには、こちらの気分まで、華やいでくるものであった。 下鴨神社は糺すの森というすばらしい森をひかえながら、すぐ側に車の往来の激しい通りが走り、人家が境内の傍近く立ち並んでいるので森厳の感に乏しい。それにくらべると、上賀茂神社は御園橋を渡ると、すぐ丹塗りの大鳥居が聳えており、これも色鮮やかな丹塗り垣根が広い馬場を囲んでいる。まわりにあるのは旧(ふる)くからある名物、焼餅の店くらいで、人家は一歩ひかえたふうにつつましく立ち並んでいる。 正月や祭りの日以外はいついっても人影がなく、森閑として、高い樹々の葉のそよぎが空にさやさや音をたてているだけである。 古都旅情 瀬戸内晴海 より |
上賀茂神社 京都で最も古い神社。神話によれば、神代の昔、山城の北 部一帯に定住する賀茂一族の娘賀茂玉依比売命がある 日、賀茂川で身をお清めになっていたとき、川上から丹塗矢 が流れてきて、それを持ち帰って床に祀っておやすみになっ たところ、御子(後のご祭神·賀茂別雷神)をさずかった。 御子が成人なされる際、外祖父賀茂建角身命が神々を招 いて七日七夜の宴をし、御子に父と思う神に杯を捧げよと申 されたところ、「我が父は天神である」と申され甍を突き破り り天に昇られた。賀茂玉依比売命が御子を恋い慕い悲しんで いたところ、御子が夢枕にたち
吾に逢わむとには、天羽衣天羽裳を造り 火を炬き鉾を擎げ之を待ち 又走馬を餝り、奥山の賢木を取りて阿礼に立て、 種種の綵色を悉し と仰せになり、その通り神迎えの祭を行ったところ、現在 の本殿の北北西約2キロにある神山の頂にある磐座へ御降臨 になったのが賀茂社の原点である。 天武天皇白鳳六年(六七八)に現在の社殿の基が整えられ、 境内は山林を含め二十三万坪を有す。 一ノ鳥居を潜ると参道両側に芝生が広がり、境内に は重要文化財指定の御殿が絶妙な位置関係で並び建 ち、その空間は平安時代以前の神祭の場所の姿を今に 留め、正面にある立砂を中心に一層荘厳な空気を醸し 出している。 また毎年五月十五日に斎行される同神社の例祭「賀茂祭」 (葵祭)は『源氏物語』『枕草子』『徒然草』などの文学作品 にも描かれ「まつり」といえば賀茂祭をさす程著名であった。
直会殿(なおらいでん・重要文化財) 前に供した神饌(お供え)をいただく直会の儀式が行われる 御殿。 主な建造物 現存する諸社殿は殆どが寛永五年(一六二八)造替で、室 町時代に描かれた古絵図とも社殿の配置は同様で、平安時代 の建築様式を今に伝え、森の木々を縫うように流れる川に沿 って配置された社殿群は一層荘厳な雰囲気を漂わせる。 ●本殿(国宝) 文久三年(一八六三)造替檜皮葺三間社流造 ●権殿(国宝) 常設の仮殿で非常の際大神をお遷しする 御殿
両殿共平成二十七年第四十二回式年遷宮に際し凡そ四十年 ぶりに檜皮屋根が一新された。 賀茂競馬信長御見物職中算用状 応に要した経費の算用状(収支計算書)。神社の一般会計で はなく、特別会計を組み接待に充てていることがわかる。
文久三年三月十一日孝明天皇が攘夷祈願として徳川将軍 家茂他を付きしたがえて当神社に行幸された幕末の大きな 出来事を絵馬にしている。 |
正体不明の風流人・石川丈山(1583~1672) ややこしい人物の一人に、石川丈山がいる。 大きい歴史の舞台にでてこないし、時代の流れに刺激を与えるようなこともやっていない。まして権力力でもないし、代表的な文化人でもない。 そのくせ、京都の東北、若狭街道の近くに、類例のない変わった建物をつくって住み、徳川氏に忌避されているはずなのに所司代・板倉重宗と親しくして、皇室とは意識的に遠ざかり、煎茶・書道・儒学・漢詩・造庭と万能であるうえに、鷹ケ峯の文化人集団とも親しかった。いったい彼の交際費や生活費はどこから出たのか。 詩仙堂という建物は、じつに奇抜な建物である。寛永18年(1641)にできたというから、彼の60歳のときのものである。彼が禄を離れて、27年め、敷地千坪以上の中に、数十人の観光客が入れるこんな建物を、どんな資力で造ったのだろうか。 さらにその建物には二階に当たる望楼がついている。これを瓦葺にすると城郭構造の一種だ。一階から二階に上がる階段の横に大きい丸窓が一つある。これから見ると二階の軒裏に忍び込む者があってもすぐ発見できる。二階は南は丸窓で京都の街が一望のもとにはいる。東面の角窓も開けられるから西は若狭街道から鷹ケ峯が見え、東は近江街道国への裏道を監視することができる。 そして、彼は意識的に皇室から避ける姿勢をとっている。後水尾天皇というと、幕府が東福門院を入内させながらずいぶん手を焼いた天皇だが、その天皇はうっぷんを詩仙堂の近くの修学院離宮造営に傾けていたので、造庭の技術もある丈山を御所へ召そうとされたとき、彼は、 渡らじな 蝉の小川は 浅くとも 老いの波たつ 影もはずかし という歌をつくって、天皇のお召しをことわっている。蝉の小川というのは賀茂川の支流で、上賀茂にある昔の禊ぎの川のことだが、ここでは賀茂川のことをいって、これを渡ると御所にいくことになるから、彼は生涯賀茂川を渡らない。すなわち京洛の巷や御所へ近づかないことを公言していたので、それをここでいっている。 秘密の日本史 樋口清之 より |
石川丈山は、天正十一年(一五八三)三河国(現在の愛知県安城市)に生まれた。石川家は父祖代々徳川譜代の臣であり、丈山も十六歳で 家康公に仕え、近侍となった。松平正綱、本多忠勝等はその親族である。三十三歳の時、大坂夏の陣では勇躍先登の功名を立てたが、この 役を最後とし徳川家を離れ、京都にて文人として藤原惺窩(せいか)に朱子学を学んだが、老母に孝養を尽すため、広島の浅野候に十数年 寛永十八年(一六四一)五十九歳蔵で詩仙堂を造営し、没するまでの三十余年を清貧の中に、聖賢の教えを自分の勤めとし、寝食を忘れてこ れを楽しんだ。丈山は隷書、漢詩の大家であり、また我が国における煎茶(文人茶)の開祖である。 寛文十二年(一六七二)五月二十三日、従容として、九十歳の天寿を終った。 |
これも仁和寺の法師、童の法師にならむとする名殘とて、各遊ぶことありけるに、醉ひて興に入るあまり、傍なるあしがなへをとりて頭にかづきたれば、つまるやうにするを、鼻をおしひらめて顔をさし入れて、舞ひ出たるに、滿座興にはいること限りなし。 しばしかなでて後、ぬかむとするに、大方ぬかれず。酒宴ことさめて、いかがせむとまどひけり。とかくすれば、頸のまはりかけて、血たり、ただはれにはれみちて、息もつまりければ、打ちわらむとすれど、たやすくわれず、響きて堪へがたければ、かなはで、すべきやうなくて、三足なる角の上にかびらをうちかけて、手をひき、杖をつかせて、京(みやこ)なるくすしのがりゐて行きける、道すがら人の怪しみ見ること限りなし。くすしのもとにさしいりて、むかひゐたりけむありさま、さこそことやうなりけめ。物をいふも、くぐもり聲に響きて聞えず。「かかることは文にも見えず、傳へたる教へもなし」といへば、また仁和寺へ歸りて、したし者、老いたる母など、枕上(まくらがみ)に寄りゐて泣き悲しめども、聞くらむとも覺えず。 かかる程に、あるもののいふやう、「たとひ耳鼻こそ切れ失すとも、命ばかりはなどか生きざらむ、ただ力をたてて引き給へ」とて、藁のしべをまはりにさし入れて、かねをへだてて、頸もちぎるばかり引きたるに、耳鼻かけうげながらぬけにけり。からき命まうけて、久しく病みゐたりけり。 |
このお堂は東に面し、見事な直線で設計されている。 そして、この直線は現在でも、いささかも狂っていない。台風や地震などの多くの異変に、700年を越える歳月を耐えてきたのである。 どうして、そのような高度な技術が可能だったのだろうか。 ここに、日本人の独特な自然観がある。"自然に逆らわない゛という考え方である。 現代の建築技術は、まず地盤を固めてから建てる。ところが、三十三間堂はまったく違う。わざわざ地盤を不安定にするのである。不安定というより"動くように゛といったほうがよいかもしれない。 うごかないように固めてしまうと、何百年という長い歳月の間には必ず陥没が起ったりする。 そこで、三十三間堂は、地面を粘土や砂利など弾力性のある土壌で固める。もし地震があった場合には、地面は直接に波動を伝える。だが、地震の波というのは、水の波と同じで土の粒子の上下、左右の回転運動によって伝わるものである。したがって土壌に弾力性を持たせておけば、地震エネルギーが放散されたあとは、土の粒子が元の静止した場所に帰る。ということは、地震が地震以前の状態に復元するということである。 この地盤に、水に浮きを並べるように柱をのせる礎石を、それぞれ独立して固定し、柱は地面近くでゆるく横木と連結され、エネルギーを分散させながら上部で固定される。いうならば、波に浮かぶ筏のようなものである。波が静まれば平面に静止する。三十三間堂は、このような構造に作られているから、今日でも、あの真っ直ぐな回廊がそのまま残っているのである。 日本人の土木工法の原点が、水田耕作によって育てられたものであることは、水田の水面を見て暮らしたおかげで、水平・垂直というものに対する観察が鋭く発達していた。 梅干と日本刀 樋口清之 より |
伝説の中で、礎石をヘソにたとえることは、きわめて考えられやすいことである。この石は六角堂の中央に、ヘソの名のようなくぼみがあるのだから、なおさらのことである。しかしこれを京のヘソとみることは、京都の町の歴史がかえりみられねばならない。京都の町の歴史のなかには、この六角堂がたしかに京都の中心として考えられる時点が存在したのである。それは実に天文元年(1532)9月、法華一揆のおころうとする時のことである。一向一揆が京都に迫り、その衆が猛勢で恐怖せられたとき、町人は日々に集会の鐘をうったが、上京は革堂の鐘、下京は六角堂の鐘で、終夜終日耳にさす如く、末世の為躰(ていたらく)云うに足らざるものであったという。この時に当たってこれからの町衆たちが、法華一揆の衆となって出陣し、ついに「天下の錯乱」といわれることになったのである。してみると六角堂は、上京の革堂と並んで、新しい商業都市として成長する下京の中心であったわけである。 京都 林屋辰三郎 より |
|
六角堂のヘソ石 |
六角堂が立華の家元でもあったことを忘れられない。六角堂のあたりがなお土車の里とよばれる森であったころ、太子がここに来かかって清水を浴びられたという池があったという。太子のことはべつとして、このあたりに池の多かったことは、まず信じてよかろう。そのほとりに堂僧の住房がつくられたのが、池坊であるという。 もともと仏への供華にはじまった花の道は、王朝のころから仏よりも人をよろこばせるものとして発展し、鎌倉時代から七夕会などに立華として展観されるようになり、室町時代にはまさに流行の頂点に達した。それは宮廷や幕府の周辺において流行するばかりでなく、やがては町々の寄り合いの主題ともなってきた。町の寄り合いといえば、狂言には好都合の素材を提供するところであったが、連歌の初心講、茶競べ、盆山があり、さらには祇園会の山の相談ということもあったのである。この立華が町のなかにながれこむ時点に、華道の中興の祖とよばれる池坊専慶がいたのである。 京都 林屋辰三郎 より |
源頼朝が征夷大将軍に任ぜられ鎌倉に幕府を開いた延暦13年(1192)から鎌倉幕府が滅亡する元弘3年(1333)までをさす。
|
足利氏が将軍であった時期だけに限定すると、足利尊氏が初代将軍となった暦応元(1338)から、天正元(1573)に15代の義昭が織田信長により失墜させられるまでということになる。この期間は明徳3(1392)までの南北朝時代といわれる時期を含む。 |
平安王朝の昔から、京都では、山といえば比叡山、祭りといえば加茂の祭りであったらしい。 5月15日の、その葵祭もすぎた。 葵祭の勅使の列に、斎王の列が加えられるようになったのは、昭和31年からである。 斎院にこもる前に、加茂川で身を清める、古式を生かしたものであるが、輿に乗った、小袿(こうちぎ)すがたの命婦(みょうぶ)を先に、女嬬(にょじゅ)、童女らをしたがえ、伶人(れいじん)に楽を奏でさせ、斎王は女子大学生ぐらいの年ごろであるから、みやびたうちにも花やかである。 古都 川端康成 より |
葵祭⇒⇒⇒ |
8月16日の大文字は、盆の送り火である。夜、松明(たいまつ)の火を投げあげて、虚空を冥府に帰る、精霊を見送る習わしから、山に火をたくことになったのだともいう。 東山の如意ヶ嶽の「大文字」なのだけれども、じつは、五つの山に火がたかれる。 金閣寺に近い大北山の「左大文字」、松ヶ崎の山の「妙法」、西賀茂の明見山の「船形」、上嵯峨の山の「鳥居形」、合わせて、五山の送り火が、つぎつぎともされる。その40分間ほどは、市内のネオン、広告塔も消される。 |
大文字 盂蘭盆会(うらぼんえ)におこなわれる京都の行事である。8月16日の夜8時になると、京都をかこむ山々で、東の如意ヶ岳の大文字から点火され、東北の松ヶ崎に妙・法、北の船山に船形、西北の衣笠山に左大文字、西の嵯峨野鳥居本に鳥居形とつぎつぎと火がともされてゆく。それぞれ山の中腹に火床がならんでいて、山のふもと集落の人びとの奉仕によって薪が用意され、はこばれ、くみあげられて、精霊(しょうりょう)をおくるために点火されるのだ。室町期にはじまった行事とされ、今日までほとんどたえることなくつづけられた伝統的な宗教行事である。 大文字はそれぞれ、いわれのある形で夏の夜空をてらすが、とくに如意ヶ岳の大文字は、その筆勢がりっぱなところから弘法大師の筆になると京都の人に信じられ、左大文字はおなじ「大」の字であるが、如意ヶ岳の大文字を反転させた鏡文字になっている。 この行事を「大文字焼」などとかいたものをみかけるが、無知もきわれりというほかない。 ・・・ 第一、大文字は「やく」ものではない。大文字は「ともす」もの、京都語でいえば「とぼす」ものなのである。灯をともしように、夜空にむけてともすのである。大文字に点火されて、あかあかと火がもえあがると、京都の子どもたちは口ぐちにはやしたてる。 とーぼった、とぼった 大文字がとーぼった 大文字はやはり「とぼる」なのである。 京都の精神 梅棹忠夫 より |
大文字送り火 その昔浄土院の本尊が火災に遭われたときに、火焔に煽られ如意が岳(通称・大文字)の山上に現れ、光明が空に輝くという奇瑞がありました。そのお姿を復元してお祀りしているのが今の黒仏様であります。 その時の光明をかたどり点火の儀式が行われ、たまたま大同3年(808)に疫病や飢餓が相次いだので弘法大師が勅命を享け、如意が岳に人射の大文字の法壇を設け、密行を修められたのが今の大文字の始まりであり、その後お精霊送りと併せ修せられるようになったのであります。 ・・・ ・・・ だから、ただ単なる夏の夜の火の祭典ショーではなく、各家々の祖先崇拝に連なる無縁仏等一切の精霊の追善供養と現世安穏の祈願を込めた、宗教行事としての送り火であると知ることにより、敬虔(けいけん)な気持ちで手を合わせることができるのではないでしょうか。 手を合わせることができる人は幸せです。そのことが現在は忘れられようとしています。淋しいことです。現在の混濁の世を救えるのはお互いが手を合わせて、信じあい拝み合う生活以外にはありません。 なにものの中にも、真美の生きざま、価値観を知ることによって拝むよりしかたのない尊さを知ることによる喜びの生活ができるようにならせてもらえるのであります。 知恩 浄土院住職 藤野俊雄 より |
大文字五山送り火
夏の夜空に点火されくっきりと浮び上る五山の送り火は祇園祭とともに京都の夏をいろどる一 なお、以前には「い」(市原野)・「一」(鳴滝)・「竹の先に鈴」(西山)・·「蛇」(北嵯峨)・「長刀」(観音 一般的に、送り火そのものは盆の翌日に行なわれる仏教的行事であり(「報恩経」)ふたたび冥 事実、江戸時代に山の送り火とならんで平地でもその風習が行われていたようである(「花洛細 点火の起源 大文字に代表される送り火について抱くことは、こ のとてつもない行事が、誰が何時はじめたものであろ うか、という疑問であるが、残念ながら、それぞれ俗 説はありながら、 不思議と確実なことはわからない。 如意ケ嶽の大文字については、これが送り火の代表 的なものであることから俗説も多く①時期は平 安初期、創始者は空海、② 室町中期、足利義政 ③江戸初期、近衛信尹などがあり (1)は「都名所図絵」などに記されるところで、往古 山麓にあった浄土寺が火災にあった際、本尊阿弥陀仏 が山上に飛来して光明を放ったことから、その光明を かたどって点火したものを、弘法大師(空海)が大の 字に改めたというのであるが、その後近世に至るまで 如何なる記録にも大文字のことが記されていないから 全くの俗説にすぎない。空海に仮託された起源説は其 の他数説あるが、(「大文字噺」「山城四季物語」等)いず れもとるに足らない。 (2)足利義政を創始者とする「山城名跡志」説は、義 政の発意により相国寺の横川景三が指導して義政の家 臣芳賀掃部が設計したとしている。(義政が義尚の冥福 を祈るために横川が始めたというのも同様のこと) (3)近衛信尹の説は寛文2年(1662)に刊行された「案 内者」によると次の如く記されている。 山々の送り火、但し雨降ればのぶるなり… 松ヶ崎には妙法の2字を火にともす。山に妙法と いふ筆画に杭をうち、松明を結びつけて火をとも したるものなり。北山には帆かけ船、浄土寺には 大文字皆かくの如し。大文字は三藐院殿(さんみ 著者の中川喜雲は寛永13年(1636)生れであり、慶長 19年(1814)に歿している信尹と年代的にあまりはな れていないこと、また信尹は本阿弥光悦、松花堂昭乗 とともに寛永の三筆といわれた能筆家であることそれ 故信尹に仮託されたと考えられないこともないなどか ら、この説の妥当性が考えられる。いずれにせよ、大 文字送り火はおそらく近世初頭にはじめられたものと 思われる。近年大文字送り火に関する古文書、ならび に大文字山が銀閣寺領であったという資料が銀閣寺か ら発見され、これらの記録から送り火は室町中期足利 義政を創始者とする説がもっとも正しいように思われ ると地元ではいっている。 松ヶ崎の妙法は麓の涌泉寺の寺伝によると、当寺が 鎌倉末の徳治元年(1306)日像の教化によって天台宗 から法華宗に改宗した際、日像が西山に妙の字をかい て点火したものだといい、法は妙泉寺の末寺下鴨大妙 寺二祖日良が東山にかいたのがはじまりといわれる。 妙·法の2字が同時に作られたものでないことは、妙 が法の左に画されていること(読みの順序が右読みで なければいけない)からでも推定されて、すくなくと も法は、時期として日良の時代(生歿年1590~ 1660)近 世初期。妙は大文字における空海説と同様、附会の説 と考えられ、戦国末期か近世初頭というところである。 船形は麓の西方寺開祖慈覚大師円仁が、承和年間 唐留学の帰路暴風雨にあい、南無阿弥陀仏と名号を唱 えたので、無事帰朝できたことから、俗にこの船形は 精霊船といわれており、その船形万燈籠をはじめたと 伝えられる。船の形をとった動機としてこの円仁の故 事が想起されたとしても、創始の時期を1100年以前に 遡ることは困難である。 鳥居形の場合、弘法大師が石仏千体をきざんで、そ の開眼供養を営んだとき、点火されたと云うが、むし ろ愛宕神社との関係を考えるべきであろう。 左大文字も計画だけは江戸初期にあったらしいが、 中期以降にはじめられたものであろうと伝えられる。 五山送り火の起源については明らかでないが、地元の 人々の信仰をもとにはじめられうけ継がれてきたから こそ、それが直ちに記録にもとどめられなかったので あろうと考えられる。 中世末戦国時代に盛んに行われていた大燈呂の風習 を、当時の公卿山科言継の日記「_継卿記」によれば 永禄10年(1567)に、京都の町で2間4方の大燈呂が つくられ、前代未聞人目を驚かしたといい、元#2年 (1571)には、そのような大燈呂が73もつくられ、町々 でその趣好が競われたという。大燈呂は精霊送り火の 一種である万燈会の余興化したものであり、おそらく そこに示された人々の信仰と意欲が、大規模な精霊送 り火である大文字五山送り火をつくり出すエネルギー 源となったものと考えられる。 |
10月22日の時代祭は、上賀茂神社、下鴨神社の葵祭、祇園祭とともに、祭りの多い京でも、三大祭りの一つと言われている。平安神宮の祭りであるけれども、その行列は、京都御所からでる。 平安神宮は、京に都がうつされて、千百年にあたる、明治28年にたてられたのだから、三つの大きい祭りのうちで、もっとも新しいのは、言うまでもない。しかし、京が都となったのを、ことほぐ祭りだから、千年の都風俗のうつり変わりを、行列に現してみせる。おのおのの時代の装いを現すのに、その名になじみのある人物を出すのだった。 たとえば、和宮、蓮月如(れんげつに)である。吉野太夫、出雲阿国である。淀君である。常盤御前、横笛、巴御前である。静御前である。小野小町である。紫式部であり、清少納言である。 また、大原女(おはらめ)、桂女(かつらめ)である。 遊女や、女役者、物売り女もまざっているので、女をまずあげてみたが、楠正成(くすにきまさしげ)や、織田信長や、豊臣秀吉や、王朝の公卿(くぎょう)や、武人の多いのはもちろんである。 京の風俗絵巻のような行列は、かなり長い。 女が加えられたのは、昭和25年からだそうで、祭りを艶(えん)に、花やかにしている。 行列の先頭は、明治維新ごろの勤王隊、丹波北桑田の山国隊で、後尾は延暦時代の文官たちが参列の列である。平安神宮に帰りつくと鳳輦(ほうれん)の前で、祝詞をのべる。 古都 川端康成 より |
5月の葵祭りと7月の祇園祭は千年以上続く伝統行事であるが、この時代祭りは、平安遷都1100年を記念して、明治28年に平安神宮が創建された。 明治になって都が東京に移り、京都の町衆は寂しい思いをしていた。幕末の動乱で街は焼け野原になり、天皇も御所をさり、暮らしの近代化は立ち遅れていた。この様なときに、平安遷都1100年を記念し、第4回の内国勧業博覧会が京都で開かれた。この平安神宮祭りとして市民が始めたのが、古都の歴史絵巻を見せる時代祭りであった。市民のお祭りとして始まり歴史はまだ浅い。 明治維新から延暦期まで八つの時代を20の行列に分け、2千人が時代をさかのぼって風俗・文物の変遷を、京都御所から平安神宮へと練り歩き、時代を再現する行列である。 時代祭り当日の10月22日は、桓武天皇が長岡京から平安京に入った日にちなむ。 京都三大祭りのひとつ。 時代まつり⇒⇒⇒ |
京都市の嵯峨野と京都府亀岡市の7.3kmを結ぶ嵯峨野観光鉄道は、複線電化のため89年に付け替えられたJR山陰線の旧線。明治32年(1899)、京都鉄道が八つのトンネルをうがつ難工事の末、開通させた。 トロッコ列車と保津川下りの乗り継ぎは、いまも人気の観光ルートだ。春の桜、秋の紅葉。 開業から16年、トロッコ列車は05年度に90万人近い乗客を集め、黒字路線を快走する。社長の長谷川一彦さんは「3年でつぶれる」といわれた会社を成功に導き、親会社のJR西日本の和歌山支社長に栄転しながら、希望して戻ってきた。 いま、ねづいた桜と紅葉は約4千本。あと10年もすれば、トロッコ列車が桜や紅葉のトンネルをくぐれるようになるはずだ。 2007-11-10付け 朝日新聞 ぽらっと沿線紀行 より |
何故かと云うと、この二三年、京都には、地震とか辻風(つじかぜ・つむじ風)とか火事とか飢饉とか云う災いがつづいて起った。そこで洛中のさびれ方は一通りではない。旧記(古い記録)によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹がついおたり、金 銀の箔がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪の料(しろ)に売ってゐたと云う事である。洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸が棲む。盗人が棲む。とうとうしまひには、引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さへ出来た。 そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。 ・・・ |
下人の眼は、その時、はじめて其死骸のかに蹲(うづくま)つてゐる人間を見た。檜皮色の着物を着た、背の低い、痩せた、白髪頭の、猿のよな老婆である。その老婆は、右の手に火をともした松の木切を持って、その死骸の一つの顔を覗きこむやうに眺めてゐた。髪の毛の長い所を見ると、多分女の死骸であろう。 下人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時は呼吸(いき)をするのさへ忘れてゐた。するとその老婆は、松の木片(きぎ)を、床板の間に插(さ)して、それから、今まで眺めてゐた死骸のに両手をかけると、丁度、猿の親が猿の子の虱(しらみ)をとるやうに、その長い髪の毛を一本づつぬきはじめた。髪の毛は手に従って抜けるらしい。 下人には、勿論、何故老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。 ・・・ すると、老婆は、見開いてゐた眼を、一層大きくして、ぢっとその下人の顔を見守った。まぶたの赤くなった、肉食鳥のやうな、鋭い眼で見たのである。それから、皺(しわ)で、殆ど、鼻と一つになった唇を、何か物でも噛んでゐるやうに動かした。細い喉で、尖った喉仏の動いゐるのが見える。その時、その喉から、鴉(からす)の啼くやうな声が、喘ぎ喘ぎ、下人の耳に伝はつて来た。 「この髪の毛を抜いてな、この髪の毛をぬいてな、鬘(かつら)にせうと思うたのじや」 羅生門 芥川龍之介 より |
利休
雪駄ばきの寿像のほか、利休処刑の罪状書きには「茶器の売買に不正を犯した」とも述べられているけれど、立場や職権を利用して利鞘を稼ぐぐらいのことは、仲間の茶人だって大いにやっていたろうし、・・・ 尊ぶあまり、茶聖扱いしすぎると、”乱世の茶”の本質を見失い、巨人利休を、かえって矮小化してしまうのではないか。 利休はもとより今井宗久、津田宗及ら戦国から安土・桃山時代にかけて活躍した茶人たちは、ほとんどが境出身の豪商であった。 当時、「境鉄砲」の名で宣伝されていたように、境は銃器の主産地として知られ、今井宗久などはその製造販売を一手に取り仕切って大財閥のキャップだし、他の茶人らの本業も鉄鋼・皮革・漆といった武具の製作に必要な材料、あるいは木や竹、石や瓦など築城用の建材のほか兵糧に使う穀類・塩・蒔炭や薬品等々、すべて軍需物資を主として扱う商人ばかりだったのだ。 利休の家は、これらの物資を一時保管して倉敷料(賃貸料金)をとる納屋貸し業、つまり倉庫業者だから、間接的ではあるがやはり軍需産業にかかわっていたのである。 つまり、この頃の茶は、天下取りの野望にとりつかれて戦争にあけくれていた武将らと、かれらの求めに応じて物資の供給、軍用金の融資を受け持ち、巨利を得ていた境の富商の双方を、結びつける仲立ちとして存在した。 茶室という名の狭い空間で語り交される密談には、戦略謀略、利害の懸け引きも混ぜるから、女など参入する余地はない。 利休の中にも侘び寂び数奇の理念はあった。しかしそれを、一種の哲学にまで押し上げたには、茶道としての茶に権威づけをほどこそうとした後世の人々である。利休のころの茶はもっとすさまじく、時に血臭(けっしゅう)さえ纏(まと)う現実的な、ふてぶてしいものだった。 女人古寺巡礼 杉本苑子 より
|
|||||||||||||||
せんのりきゅう —りきう【千利休】人 (1522〜1591)安土桃山時代の茶人。千家流茶道の開 祖。和泉国堺の人。法名は宗易。村田珠光相伝の侘茶 わびちやを武野紹鷗じようおうに学ぶ。茶器および諸 道具に工夫をこらし,簡素・清浄な茶道を大成。織田 信長・豊臣秀吉に仕えて御茶頭おさどうとなり,天下 一の宗匠と評される。政治にも参画するに至ったが, 秀吉の怒りを買い自刃を命じられた。 大辞林 第三版 |
蛤御門の変は、禁門の変・元治甲子(がんじかっし)の変ともいい、元治元年(1864)甲子年(きのえね)に起った。 前年の文久3年(1863)8月18日の政変で、長州藩は京都での地位を失墜した。その後、長州藩は藩主父子の名誉の回復と京都から追放された尊王攘夷派公家7名の赦免を願いましたが許されず、さらに翌年6月5日には、池田屋事件で藩士多数がころされた。 このような状況下、長州藩の勢力回復をねらい、三家老(福原越後・国士信濃・益田右衛門介)が兵を率いて上洛、7月19日、会津・薩摩・幕府連合軍と京都御所(正確には現京都御苑)蛤御門・堺町御門付近で戦い、長州藩は敗北した。 京都の中心部が激戦地となったため、市中はたちまち猛炎に包まれ、民家や社寺などを焼き尽くす大惨事となった。 長州藩邸や堺町御門から出た火が、手のほどこしようもなく燃え広がるありさまを京都の人たちは「どんどん焼け」「鉄砲焼け」などと称しました。 戦いは一日で終わったが、7月19日朝、長州藩邸等から出火した火災による被害は、北は丸太町通、南は七条通、東は寺町、西は東堀川に至る、現在の中京区・下京区のほとんどの地域に及んだ。21日に鎮火したが、2万7千世帯、そのほか土蔵や社寺などが罹災した。 名の知られた寺院では、東本願寺・本能寺・六角堂が焼失した。京都御所・二条城・西本願寺は、火がすぐ近くまできたが焼失は免れた。 火災としては、天明8年(1788)の天明大火に次ぐ大火であったが、どんどん焼けは幕末の動乱期に起きたため、市中は被害から容易に立ち直れなかった。その5年後には東京遷都が行われ、なおいっそう京都の衰退に拍車がかかることになった。 |
被差別の民とともに土を運ぶ
義政は東山山荘を造営するにあたって、指図をするだけではなかったという。みずからも土を運んだらしい。その義政の側近には、優秀な作庭家たちがいた。もっとも愛し信頼して工事を任せたのは世阿弥だ。その息子の小四朗、孫の又四朗も世阿弥の死後、その仕事を引き継いだ。 彼ら作庭家たちの出自は、河原者である。巨石や大木をたくみに操るすべを心得ている者が多く、「山水河原者」と呼ばれて重用されるようになった。義政も彼らの力量をかって登用したのだろう。はじめ、作庭の指揮者は石立僧と呼ばれる僧侶たちであった。 ・・・ 義政は奇妙なことに低い身分の者たちでも差別せず、偏見をもたずに河原者たちを優遇したらしい。晩年の義政が心を許したのは、山水河原者と禅宗の僧侶、念仏の僧侶だけだったのではないかという記述もある。 義政の絶望的な孤独と、世間から差別され肩身のせまい思いで日々をすごした河原者たちの孤独とが、庭という空間において、一瞬、共鳴しあったのかもしれない。 同じころ、本願寺を引き継いだ蓮如は、あらゆる人びとを差別なく受け入れて教線を広げていた。 ・・・ 当時蓮如は、義政の妻富子と会ったという記録もあり、蓮如の時代と義政の時代はしっかりと重なり合っている。同時代に、政治と宗教の指導者が、それぞれの思いで、最低辺の民衆と志を通じて心を通わせていたのは、偶然とはいえ、応仁の乱以後の東山時代が大きな歴史の転換期に直面していたことを暗示しているような気がしてならない。 百寺巡礼 五木寛之 より |
蓮如誕生の地⇒⇒⇒ |
これまで一度も火災に見舞われなかった南禅寺が大火災で炎上したのだ。 以後、文安4年(1447)に再び大火災、応仁元年(1467)には、応仁の乱の兵火によってまたもや大半の伽藍を焼失した。これによって、南禅寺は壊滅的な打撃を受けることになる。 南禅寺が再び息を吹き返して隆盛を誇るようになるのは、徳川家康の時代である。このときに活躍したのが、「黒衣(こくえ)の宰相」と呼ばれた以心崇伝(いしんすうでん)だった。 ・・・ 37歳という若さで南禅寺の住持になるのである。そんな年齢で「五山之上」の住持になるのだから、驚くべき早さだった。 家康はその崇伝の才能に目をつけたようだ。崇伝は家康に召し抱えられ、以後、江戸と駿府と京都のあいだを往復し、家康の政治の有力なブレーンとして活躍した。 崇伝は家康の意向にしたがって、さまざまな政策をとりおこなった。 たとえば、仏教の各宗派別に無数の法度をつくり、仏教教団の支配権を朝廷から幕府に移した。仏教を幕府の統制下に置いたわけだ。 徳川幕府の権力を磐石にするための政治的な画策でも彼は手腕を発揮した。 たとえば、大坂冬の陣と夏の陣では、豊臣家を没落においやった最大の功労者だったといわれている。彼が、豊臣家を苦境に追いやる謀略を立案したからであるらしい。方広寺の大鐘に書かれた銘文に、家康を呪詛(じゅそ)する文字があるといって豊臣家へ抗議の申し入れをしたのは、ほかならぬ崇伝だったという。 その崇伝が住持を務めたのが南禅寺だった。徳川幕府にとって、南禅寺は出先機関のような存在であったのかもしれない。 ・・・ 明治維新によって徳川幕府が消滅し、廃仏毀釈の波が仏教寺院を襲うようになると、幕府そのものだった南禅寺は集中砲火を浴びることになる。 たとえば境内の奥のほうにある、琵琶湖の水を京都に運ぶ疎水のことだ。 ・・・ 森閑とした緑のなかを真っ赤なレンガの連なりが走り、境内を分断するのである。この計画が示されたとき、南禅寺関係者は肝をつぶしたのではあるまいか。もちろん、抵抗はしたはずだ。しかし、政府の権力が格段に強かった当時にあっては、ほとんど効果はなかったらしい。 百寺巡礼 五木寛之 より 太閤分銅金の知恵⇒⇒⇒ |
寺名 | 廟所の対象者 | 建立時期 | 建立者 | 地図 |
壺阪寺 本堂 | 持統天皇 | 弁基 | 壺阪寺 | |
法隆寺 夢殿 | 聖徳太子 | 天正11年(739) | 行信 | 法隆寺 |
興福寺 北円堂 | 藤原不比等 | 元正天皇 | 興福寺 | |
興福寺 南円堂 | 藤原内麻呂 | 藤原冬嗣 | 興福寺 | |
栄山寺円堂 | 藤原武智麻呂 | 藤原仲麻呂 | 栄山寺 | |
広隆寺桂宮院本堂 | 聖徳太子 | 推古天皇30年(622) | 秦河勝 | 広隆寺 |
蓮如の登場
彼はまず、延暦寺の影響を一掃するため、天台宗の本尊や経巻など、ことごとく外に放り出して積み上げた。蓮如はそれで風呂を沸かしたという。さらに、寺の上段の間をとりはらい、門徒と同じ高さの平座で語り合えるようにもした。それは本願寺の権威主義をみずから打破する大胆な試みだった。 こうしたふるまいを延暦寺は見逃すわけがない。本願寺はやがて破却されてしまうことになる。 蓮如はそのとき、破壊されつくされた本願寺を目の当たりにしながら、天台宗の支配からいままさに自由になったと同時に、それまでの本願寺の重荷からも自由になったとかんじたのではないだろうか。 ここから、蓮如の大活躍ははじまるのだ。生きて地獄、死んで地獄と、暗闇のなかにいきていた民衆のなかに入っていき、めざましい勢いで教線を広げていくのである。 百寺巡礼 五木寛之 より |
蓮如(1415~1499)寂れていた本願寺を立て直し、中興の祖と呼ばれる。 蓮如忌恒例行事として、東本願寺から蓮如上人御影道中がある。門徒の中から選ばれた一行が肖像画(御影)を載せた輿を引きながら、福井県あわら市 吉崎まで240kmの道のりを7日かけて歩く。 文明3年(1471)蓮如がここに道場を開いた。北陸、東北からも参詣者が押し寄せ、わずか2~3年で200もの宿坊が軒を連ねる寺内町に変貌した。 蓮如が吉崎に滞在したのは4年余り。強大化する一向宗(浄土真宗)門徒への警戒を強める領主との争いが激しくなると、京に舞い戻った。 そもそも57歳になっていた蓮如が吉崎に向かったのは何故か。 蓮如が43歳で8代目の法主に就いた当時、京都・大谷にあった本願寺は、天台宗の寺院に属する貧乏寺にすぎなかった。浄土真宗の他派には繁栄しているところもあり、それをみるにつけ、何とか門徒を増やさなければという使命感は蓮如のなかに芽生えていた。法王になるまで、部屋住みの肩身の狭い日々を送るが、経典を片っ端から読破し、教化活動にもさまざまな布石を打った。 門徒が増え始めると、比叡山延暦寺側が黙っていなかった。寛正6年(1465)僧兵が攻め寄せ、寺を破壊。蓮如は近江に逃れるが、弾圧は続く。 越前と加賀の国境という権力の真空地帯にあり、三方を北潟湖が囲む天然の要害の吉崎に拠点を移す計画は、用意周到に進められた。 そして、その吉崎で、40年以上に及んだ雌伏期の努力が一気に実を結んだ。応仁の乱世(1467~1477)から学んだことも大きかった。 蓮如は、惣や郷の寄合に出向いて、信仰による魂の救済を説き、さまざまな身分、職業の寡黙な人々に「物を言え」と勧める。のちに「講」と呼ばれるようになるその場は、御文と並ぶ、布教の有力な武器となった。蓮如は、乙名(おとな)と呼ばれた地元の有力者に講を開くよう働きかける。惣や郷が一味同心して門徒になるというパターンはここから生まれ、教えは瞬く間に広がった。 蓮如のもとで固い結束を見せる門徒たちは兵力でもあった。蓮如は「領主に従い、争いを避けよ」と、何度となく御文で説くが、1474年、加賀国の争いに門徒を参戦させる。蓮如が主導した最初の一揆で、宗教上、敵対する勢力を駆逐する。 下剋上の風潮はここにも蔓延していた。蓮如が頼りにしていたはずの、門徒を束ねる有力者の中には、自分たちの勢力拡大をねらい、一揆をあおる者も出てきた。蓮如が畿内へ帰るのはそんな時期であった。 蓮如が去ったのちの長享2年(1488)の一揆で、守護を破り、それ以来、100年近く加賀を支配した一向一揆も、最後は、信長配下の武将、柴田勝家らの進攻によって壊滅させられる。 「宗教が宗教として生き残るためには、政治から離れなくてはならない。そう直感して、吉崎をあとにした蓮如は、慧眼の持ち主であり、今なお本願寺が一大宗教団としてあり続ける背景には、そうした哲学が生きている」と山折哲雄りさん。 朝(あした)には紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり――― 。蓮如は「白骨の御文」で、この世の空しさや人間のはかなさを説く。 吉崎は、今は150戸ほどの集落。 朝日新聞 2016-5-28より |
蓮如誕生の地、他⇒⇒⇒ 被差別の民とともに土を運ぶ⇒⇒⇒ |
唐破風は平安時代に日本に生まれ、現存最古級のものが法隆寺・聖霊院の厨子(鎌倉時代)である。初期のものとしては天理市の石上神宮の摂社、出雲建雄神社の拝殿もその一つで伸びやかな曲線が優雅である。 |
古来八角塔、九重塔の類例はときおり存在しても、八角九重の大塔は空前絶後の企画であった。その高さ27丈(約82m)と考定することができるので、それを下廻るものではなかったろう。東から逢坂山をこえて京都に入る人々が、最初に眼をみはるものは、この大塔の高さであり、やがてその意匠の奇抜であったことであろう。それはひとり法勝寺のものというよりも、やがて白河院によってはじめられる院政政権の象徴ともなったものであった。 ・・・ 法勝寺はこの院政文化というべきものの一つの極点を示すものであった。その巨大・奇抜の意匠のなかには、院政という権力への魅力を、地方富豪の間にひきおこすものがあったにちがいない。しかしその対極として、同じ院政時代には文学における「今昔物語」や「宇治拾遺物物語」に代表される説話文学、絵画には「源氏物語絵巻」や「信貴山(しぎさん)縁起絵巻」に代表される絵巻物が存在していた。 京都 林屋辰三郎 より |
|
法勝寺八角九重塔の基礎跡が、京都市左京区の市動物園内で見つかった。当時は最大の高層建築だっとみられる。 塔は1208年に火災で焼失後、1213年に再建されたが、1342年再び焼失。その後寺は衰退した。 八角形の塔の一辺は長さ約12.5m。巨大な塔を支える基礎は、地表から深さ約2mまで70cm程度の石を大量に詰め込んだうえ、粘土で補強していた。 |
八角九重塔の 復元模型 2010-3-12 朝日新聞より |
寺院名 | リンク | 地図 |
知恩院 | ⇒⇒⇒ | 知恩院 |
南禅寺 | ⇒⇒⇒ | 南禅寺 |
仁和寺 または、東本願寺御影堂門 |
⇒⇒⇒ ⇒⇒⇒ |
仁和寺 東本願寺 |
円融寺 | 円融天皇勅願 |
円教寺 | 一條天皇勅願 |
円乗寺 | 後朱雀天皇勅願 |
円宗寺 | 後三條天皇勅願 |
西国三十三所は京都や奈良など近畿を中心に2府5県にまたがる。道のりは1千キロに及ぶ。始まりは奈良時代の718年。「西国巡礼縁起」によると、長谷寺を開いた徳道上人が病で仮死状態になり、冥土で閻魔に会った。閻魔は「最近、地獄に落ちる者が多い」と嘆き、伝えた。「観音さまの霊場にお参りすれば、功徳を得られる。観音さまの慈悲を説け」。閻魔から33の宝印(印鑑)と起請文(契約書)を授かった徳道は現世に戻り, 33の宝印を広めた。この宝印に込められたのは「地獄に落ちないように」。西国三十三所は、いわば「地獄の免罪符」で、すべて巡れば地獄に落ちなくてすむことになる。 だが、伝承では、徳道のころはまだ巡礼が受け入れられず、徳道は兵庫·中山寺に宝印を納めた。平安時代の10世紀、花山法皇が宝印を掘り出し、三十三所を再興したと伝わる。平安後期には天皇や公家が巡るようになり、鎌倉時代から室町時代にかけ徐々に庶民にも広まった。巡礼がもっとも盛んになったのは江戸時代中期以降街道が整い、宿も増えた。庶民の楽しみの一つは旅。伊勢参りや熊野詣が三十三所と結びついた。江戸を出発して伊勢神宮を参拝し、三十三所1番目の和歌山·青岸渡寺へ。近畿をひと回りして、33番目の岐阜·華厳寺。さらに中山道へ抜け、信州善光寺をお参りして江戸に戻った。一生に一度の大旅行だった。それまでは、たんに「三十三所観音霊場」と言っていたが、このころ、江戸から見た「西国」を付けて呼ぶようになった。順番も今の1~ 33番に定まり、江戸の近くの坂東三十三所や秩父三十四所も盛んだった。西国三十三所は御朱印や千社が始まりでもあるという。お参りした証しに納経張を寺に納め、寺は確認の意味で印を押した。この印が、近ごろ人気の御朱印のルーツだ。また、参拝者は寺の天井などに木札を打ち込んだ。木札か紙に変わり、千社札になった。10年以上かけて33寺すべてを33回巡る参拝者も出てきた。三十三度行者と呼ばれ、三十三所を各地に広めた。帝塚山大学の西山厚教授(日本仏教史)は「多くの名刹を含み、わが国を代表する巡礼として、昔も今も多くの人々の心をとらえている」と言う。四国八十八カ所との違いは何か八十八カ所は山岳信仰などに由来し、海辺や山中で苦行する道「辺路(へじ)」が遍路になったとされる。同行二人(どうぎょうににん)といい、弘法大師とともに歩く。西国三十三所は観音さまの慈悲を授かる巡礼で、「遍路」とは呼ばない。極楽浄土にいる阿弥陀如来と違い、観音さまはあえて浄土に は行かない現世で苦しむ人々を幸せにしようと誓いをたて、33の姿に変える。33とは無限を意味し、あらゆる姿に変えて人々を救ってくれる。竹生島宝厳寺寺(滋賀県長浜市)の峰覚雄・管主(住職)は「観音さぼは正式には観世音菩薩。世の音を目で見るのではなく、苦しむ人の声なき声を心で観る」と言う。峰さんが実行委員長を務める 記念事業では、寺に親しんでもらおうと、子ども向けの御朱印帳や寺ごとの特別印を作った。来年4月15日には長谷寺で記念法要を営む。「心の豊かさがおろそかになった今こそ、観音さまの寺をお参りし、心の奥底に眠る真理を再発見してほしい」 2017-10-29 朝日新聞 (岡田匠) |
札所 | 寺名 | よみかた | ご本尊 | 地図 | 所在地府県 |
第一番札所 | 那智山 青岸渡寺 | なちさん せいがんとじ | 如意輪観世音菩薩 | 青岸渡寺 | 和歌山県 |
第二番札所 | 紀三井山 金剛宝寺(紀三井寺) | きみいさん こんごうほうじ(きみいでら) | 十一面観世音菩薩 | 紀三井寺 | 和歌山県 |
第三番札所 | 風猛山 粉河寺 | ふうもうざん こかわでら | 千手千眼観世音菩薩 | 粉河寺 | 和歌山県 |
第四番札所 | 槇尾山 施福寺(槇尾寺) | まきのおさん せふくじ(まきおでら) | 千手千眼観世音菩薩 | 槇尾寺 | 大阪府 |
第五番札所 | 紫雲山 葛井寺 | しうんざん ふじいでら | 十一面千手千眼観世音菩薩 | 葛井寺 | 大阪府 |
第六番札所 | 壺阪山 南法華寺(壺阪寺) | つぼさかやま みなみほっけじ(とぼさかでら) | 千手千眼観世音菩薩 | 壺阪寺 | 奈良県 |
第七番札所 | 東光山 龍蓋寺(岡寺) | とうこうざん おかでら(りゅうがいじ) | 二臂如意輪観世音菩薩 | 岡寺 | 奈良県 |
第八番札所 | 豊山 長谷寺 | ぶざん はせでら | 十一面観世音菩薩 | 長谷寺 | 奈良県 |
第九番札所 | 興福寺 南円堂 | こうふくじ なんえんどう | 不空羂索観世音菩薩 | 興福寺 | 奈良県 |
第十番札所 | 明星山 三室戸寺 | みょうじょうざん みむろとじ | 千手観世音菩薩 | 三室戸寺 | 京都府 |
第十一番札所 | 深雪山 上醍醐寺 (上醍醐) | かみだいご じゅんていどう(だいごじ) | 准胝観世音菩薩 | 醍醐寺 | 京都府 |
第十二番札所 | 岩間山 正法寺(岩間寺) | いわまさん しょうほうじ(いわまでら) | 千手観世音菩薩 | 岩間寺 | 滋賀県 |
第十三番札所 | 石光山 石山寺 | せっこうざん いしやまでら | 勅封二臂如意輪観世音菩薩 | 石山寺 | 滋賀県 |
第十四番札所 | 長等山 園城寺(三井寺) | ながらさん おんじょうじ(みいでら) | 如意輪観世音菩薩 | 三井寺 | 滋賀県 |
第十五番札所 | 新那智山 観音寺(今熊野) | しんなちさん いまくまのかんのんじ | 十一面観世音菩薩 | 今熊野観音寺 | 京都府 |
第十六番札所 | 音羽山 清水寺 | おとわざん きよみずでら | 千手観世音菩薩 | 清水寺 | 京都府 |
第十七番札所 | 補陀洛山 六波羅密寺 | ふだらくさん ろくはらみつじ | 十一面観世音菩薩 | 六波羅密寺 | 京都府 |
第十八番札所 | 紫雲山 頂法寺(六角堂) | しうんざん ろっかくどうちょうほうじ | 如意輪観世音菩薩 | 六角堂頂法寺 | 京都府 |
第十九番札所 | 霊麀山 行願寺(革堂) | れいゆうざん こうどうぎょうがんじ | 千手観世音菩薩 | 革堂行願寺 | 京都府 |
第二十番札所 | 西山 善峯寺 | にしやま よしみねでら | 千手観世音菩薩 | 善峯寺 | 京都府 |
第二十一番札所 | 菩提山 穴太寺 | ぼだいざん あなおうじ | 聖観世音菩薩 | 穴太寺 | 京都府 |
第二十二番札所 | 補陀洛山 総持寺 | ふだらくざん そうじじ | 千手観世音菩薩 | 総持寺 | 大阪府 |
第二十三番札所 | 応頂山 勝尾寺 | おうちょうざん かつおうじ | 十一面千手観世音菩薩 | 勝尾寺 | 大阪府 |
第二十四番札所 | 紫雲山 中山寺 | しうんざん なかやまでら | 十一面観世音菩薩 | 中山寺 | 兵庫県 |
第二十五番札所 | 御嶽山 播州清水寺 | みたけざん ばんしゅうきよみずでら | 座像十一面千手観世音菩薩(大講堂) | 播州清水寺 | 兵庫県 |
第二十六番札所 | 法華山 一乗寺 | ほっけさん いちじょうじ | 聖観世音菩薩 | 一乗寺 | 兵庫県 |
第二十七番札所 | 書寫山 圓教寺 | しょしゃざん えんきょうじ | 六臂如意輪観世音菩薩 | 圓教寺 | 兵庫県 |
第二十八番札所 | 成相山 成相寺 | なりあいさん なりあいじ | 聖観世音菩薩 | 成相寺 | 京都府 |
第二十九番札所 | 青葉山 松尾寺 | あおばさん まつのおでら | 馬頭観世音菩薩 | 松尾寺 | 京都府 |
第三十番札所 | 巌金山 宝厳寺(竹生島宝厳寺) | ちくぶしま ほうごんじ | 千手千眼観世音菩薩(観音堂) | 宝厳寺 | 滋賀県 |
第三十一番札所 | 姨綺耶山 長命寺 | いきやまさん ちょうめいじ | 千手十一面聖観世音三尊一体 | 長命寺 | 滋賀県 |
第三十二番札所 | 繖山 観音正寺 | きぬがさざん かんのんしょうじ | 千手千眼観世音菩薩 | 観音正寺 | 滋賀県 |
第三十三番札所 | 谷汲山 華厳寺 | たにぐみさん けごんじ | 十一面観世音菩薩 | 華厳寺 | 岐阜県 |
番外 | 豊山 法起院 | ほうきいん | 徳道上人 | 法起院 | 奈良県 |
番外 | 華頂山 元慶寺 | がんけいじ | 薬師如来 | 元慶寺 | 京都府 |
番外 | 東光山 菩提寺(花山院) | かざんいん | 薬師瑠璃光如来 | 花山院 | 兵庫県 |
ゑんま様は恐ろしいお顔から地獄の支配者のように思われているが、実は人間世界を司る仏。死者をあの世のどこへ送るかを決める裁判長の役目を担っているゑんま様は、人間を三悪道に行かせたくないために、怒りの表情で地獄の恐ろしさを語り、嘘つきは舌を抜くと説いている。 |
京都では、旧盆に先祖の精霊がゑんま様の許しを得て、各家庭に帰ってくるとされており、参詣者が多い。水塔婆を流し、迎え鐘をついて、その音に乗って帰ってくる。仏壇の扉を開いて迎える。15日夕~16日にはあの世に帰ってもらう「お精霊送り」(大文字五山送り火も精霊送りの行事)が行われる。 百人一首でも知られる小野篁(たかむら)はこの世とあの世を行き来する神通力を持ち、昼は宮中に赴き、夜は閻魔庁につかえていたと言う。小野篁が冥府と現生を往復した入口が、六道珍皇寺とゑんま堂に有るとか。篁は閻魔法王より現世浄化のために亡くなった先祖を再びこの世に迎えて供養する「精霊迎え」の法儀を授かった。この「精霊迎え」の根本道場として、朱雀大路(千本通り)で当時風葬地「蓮台野」の入口に篁自ら閻魔法王の姿を刻み建立した。それが千本ゑんま堂の始まりである。その後、寛仁元年(1017)比叡山恵心僧都源信の門弟定覚上人が藤原道長の後援を得て、諸人化導引接仏道として開山し引接寺と命名された。 |
西陣
京都市街の西北部は「西陣」とよばれている。この名は、学校、警察、郵便局などの名としては生きているが、きまった区域をさすわけではない。漠然とした地域名としてつかわれている。この西陣という名の由来は、応仁の乱で全国が二分し、細川勝元ひきいる東軍が堀川の東、花の御所に布陣したのに対し、西軍の山名宗全方が、堀川上立売下ルにあった山名邸を本陣としたのにはじまる。 西陣織といえば、高級織物の代表である。その西陣織は京都のこの西陣の地で生産されている。 西陣という店や会社があるわけではなく。この西陣の地が日本最大の機業地であり、そこで生産され出荷される織物に「西陣」という産地の商標がはられて、高級品として全国に販売される。 西陣は、江戸時代から現代まで一貫して日本を代表する機業地であり。京都でも最大の工業地帯である。織物については、つねに最先端をゆく地域でもあった。明治初頭、いちはやくフランスのリヨンから織機と技術をもちこみ、近代への変革をなしとげたことはよくしられている。 今日では、和服や帯といった着物については需要が減少し、西陣もその対応に苦慮しているという。しかし西陣は着物だけの産地ではない。西陣の高度な織物技術を利用して、織物と称されるあらゆる分野にのりだし、除々にではあるがその成果があらわれている。西陣は高級織物の地位をたもったまま、あたらしい変身をとげつつある。 京都の精神 梅棹忠夫 より |
平安京のモデルは中国の長安であるといわれている。たてよこ十文字に道をつけ、大内裏の正面から南に朱雀大路がはしる。これが現在の千本通りとほぼ一致している。その朱雀大路を軸に、大内裏から右側が右京、左側が左京である。そして左京も右京も主要街路によって四角にくぎられた区画を、長安にならい坊とよんで名前がついていた。 ところで、現在でも京都にくることを「上洛」というし、京都を「京洛の地」ともよび、市中、郊外のことを洛中・洛外といっている。このことばにつかわれる「洛」は、じつは唐の別の都、洛陽の洛なのである。なぜモデルにした長安でなく洛陽と京都がかさねあわされてイメージが定着しているのであろうか。 じつは、平安京が長安の都城制をモデルに造営されて以後、比較的はやい時期、唐風文華をこのむ朝廷は、右京を長安城、左京を洛陽城とよびならわすようになった。ところが、右京は湿地がおおくてさびれ、左京がさかえ、洛陽城が京都として定着したのであるらしい。現在の京都は盆地全体に都市がひろがるが、昭和初期のころまでは、この平安京における左京が京都の都市部を形成していた。「洛」という字は、このような京都の歴史を反映したものだ。 今日でも、長安や洛陽ゆかりの地域名、すなわち坊名を京都でみかける。学校名に都城ゆかりの坊名が使用されちる場合がおおいのである。一度天皇のおくり名や寺院などにもちいられ、あらためて学校名となった例もあるが、長安や洛陽の坊名とてらしあわせると、長安の場合、修徳、醒泉(せいせん)、光徳、待賢、崇仁などがあり、洛陽から教業、銅駝(どうだ)、陶化、淳風、仁和などの坊名が、京都の小・中学校に使用されているのである。 現在、平安京の坊名はつかわれず、みやことしての事物も歴史の底にしずんだかにみえる京都であるが、あらためてながめてみると、学校名のようなところに平安京のたしかな証跡をみいだすことができるのだ。 京都の精神 梅棹忠夫 より |
まるで乞食坊主である。眼光炯々(けいけい)として、射ぬくようなするどい相貌は、達磨に似ている。まことにこの人のつよさと偉さを表現してつきないが、五条橋下に25年くらした逸話をふりかえっても、権力者におもねった禅僧ではない。民衆とともにいるのである。いや、武士であろうと、天皇であろうと、乞食だろうと、この人に出あえば、身のすくみそうな容貌なのだ。 古寺巡礼 水上勉 より |
いつの頃か、牛頭天王と素戔嗚尊が、同一視されるようになった。八岐大蛇退治で知られる素戔嗚尊は、天照大神の弟にあたり、あまりの凶暴さから高天原を追放され出雲に下った悪神として有名である。しかし京の人々はその凄まじいマイナスのエネルギーを悪霊を退散させるパワーとして利用した。その疫病除けの祭礼が、現在の祇園祭りである。蛇⇒⇒⇒ 昔、素戔嗚尊が苦難の旅をしている途中、日暮れて、ある兄弟の家に一夜の宿を乞うた。裕福な弟のほうは宿を貸さず、貧しい兄蘇民将来は、粟飯で手厚くもてなした。素戔嗚尊は蘇民の家人に茅輪を腰に付けさせ、それ以外の者を疫病で死滅させた。そして「我は素戔嗚尊なり」と名を明かし「今後疫病が流行ろうとも、蘇民将来の子と記した茅輪を腰に付けていれば、難から免れる」と誓われた。蘇民将来は、八坂神社の境内にある疫神社の祭神である。祇園御霊会の時、粟飯を供えるのは、このときの話に由来している。 |
一条戻橋 地図
東から西へ渡らなければ思いがかなわない一条戻橋は、いわれの多い橋である。戻橋の名は平安時代の「権記(ごんき)」にすでに見られる。「源氏物語」にもこの橋は登場しており、「ゆくはかえるの橋」と記している。 橋の由来は、延喜18年(918)、文章博士(もんじょうはかせ)三善清行が蘇生した故事にもとづく。その息子浄蔵は熊野参詣の途中で父の死去を知る。急ぎ帰京した浄蔵は、この橋で父の葬列にあう。嘆き悲しみ棺に取りすがって神仏に祈ったところ、父は生き返る。そこから戻橋といわれるようになったという。 戻橋の西側に安倍晴明の邸があった(現在の晴明神社)。晴明は、この橋の上で毎晩星を占ったといい、式神(しきがみ)をこの橋の下に隠していたという話も伝わっている。また、橋の東側には、源頼光の邸があった。土蜘蛛や鬼たちが、この地を特別視していたことは、いうまでもない。魔物退治の第一人者が、この橋の両岸に暮らしていたのである。 また中世になると、この橋の付近は罪人のさらし場でもあった。刑場への引き回しルートのひとつで、来世は真人間になるようにとの願いが込められたという。天正19年(1591)、秀吉は大徳寺山門にあった千利休の木像をここではりつけにし、三日後にはその首をさらすように命じている。 ながい歴史のなかで、都人が無視できない俗説も多い。花嫁行列や縁談のある者は、現在でもこの橋を避け、渡らないという。一方で、「この橋を渡って旅に出ると無事戻ることができる」と言って出張する商人がいたりする。 木造だった橋も、今ではコンクリートに変わらないところが一ヶ所ある。若狭川の水面から橋までの距離である。戻橋は、橋から川面までが、異様なほど離れている。それは人間以外のモノが棲むのに、ちょうどよい空間である。 京都・異界をたずねて 蔵田敏明 より |
安倍晴明⇒⇒⇒ |
六道珍皇寺 地図
当寺は、慶俊僧都(けいしゅんそうず)を開基とし、施主は閻魔の庁の冥官といわれた謎多き人物小野篁(たかむら)で、珍皇寺の伽藍を整備したのも篁と伝わっている。境内東側には、閻魔堂があり小野篁と閻魔大王の木像が安置されており、その左右に善童子と悪童子が配されている。憤怒の表情がリアルな閻魔大王像は、篁の作ともいわれている。誰もあったことがない閻魔大王を、なぜこれほど克明に現すことができたのか、それは篁があの世とこの世を自由自在に行き来していたからだという。その冥界への入口は、珍皇寺の井戸であった。 毎年8月7日から10日頃行われる六道まいりでは、閻魔堂の北側にある鐘楼では「迎え鐘」が撞かれる。一打ちすれば十万億土に響き渡るというその鐘の音を頼りに、お盆の時精霊がこの世へ帰って来るといわれる。鐘は楼内にあり、その姿は見えない。堂穴からのびる縄を引っ張り、鐘を鳴らすのであるが、一説には、鐘の下にあの世へ通じる穴が開いているからだとも噂されている。 境内の南側には、無数の地蔵菩薩が安置されている。石仏の多くは室町時代のものといわれている。幼な子が迷わず冥土へ行けるようにと、掌を合わす人の祈りは深い。 小野篁が、井戸の脇に植わっている高野槇の枝をつたい、冥土へ下がって行ったといわれることから、亡き人の霊が高野槇に乗って迷わず家に帰れるよう、参詣人は高野槇を求める。 京都・異界をたずねて 蔵田敏明 より |
百人一首11⇒⇒⇒ 六道珍皇寺⇒⇒⇒ |
聖徳太子建立七大寺
寺名 | リンク | 地図 |
法隆寺 | 法隆寺 | |
四天王寺 | 四天王寺 | |
中宮寺 | 中宮寺 | |
橘寺 | 橘寺 | |
法起寺 | 法起寺 | |
広隆寺 | 広隆寺 | |
妙安寺 | 妙安寺 |
大和国北葛城郡竹内というのが、竹之内峠の大和側の山麓にある。車はそこをめざしているのだが、私事をいうと、私は幼年期や少年期には、その竹内村の河村家という家で印象的にはずっと暮らしていたような気がする。そこが母親の実家だったからだが、母親が脚気であったためその隣り村の今市という村の仲川という家で乳をのませてもらっていたから、竹内峠の山麓はいわば故郷のようなものである。 村のなかを、車一台がやっと通れるほどの道が坂をなして走っていて、いまもその道は長尾という山麓の村から竹内村までは路幅も変わらず、依然として無舗装であり、路相はおそらく太古以来変わっていまい。それが、竹内街道であり、もし文化庁のその気があって道路をも文化財指定の対象にするなら、長尾ー竹内間のほんの数丁の間は日本で唯一の国宝に指定されるべき道であろう。 街道をゆく 1 葛城山 司馬遼太郎 より |
||
司馬遼太郎ゆかりの家 | 竹内・村街道 |
昭和25年(1950)7月2日午前3時前、京都市の臨済宗相国寺派鹿苑寺(金閣寺)庭園内の国宝・舎利殿(金閣)から出火し、全焼した。大谷大学1回生だった金閣寺の21歳の生徒僧が放火容疑で逮捕された。寺の裏の左大文字で胸を短刀を突いて自さつを図ったが、果たせずにいたところを発見された。この事件は三島由紀夫「金閣寺」、水上勉「五番町夕霧楼」「金閣炎上」など、小説やルポの題材になった。 舎利殿は全焼から5年後の昭和30年(1955)に再建。総工費3千万円余は住職らが全国を歩いて集めた浄財と5万人以上からの寄付でまかなわれた。 放火事件当日、すぐに母は実家から西陣署に向かう。しかし息子は「母は私に期待ばかりしてずっと冷たかった」として頑として会わなかった。母は翌日、実家に向かう列車から保津川に身を投げた。 息子は事件の年の暮れに懲役7年を言い渡されて服役。恩赦で55年10月に出所した。再建された新生・金閣の落慶法要から20日後である。そして半年足らずで、父と同じ肺結核で26年の生涯を終える。 平成21年5月9日 朝日新聞 夕刊より |
遣隋使裵世清は、難波津から船で大和川をさかのぼり、大和飛鳥の都へおもむいた。 陸路をとった使節は、難波から南下して、現在の堺市金岡、竹之内街道をを通って大和飛鳥の都に入京した。 |
白雉5年(654)に、孝徳天皇が難波長柄豊碕宮でなくなって、大和飛鳥に都が遷された。しかし、難波宮が廃絶されたわけではなかった。 複都の制が難波宮で採用された。そして、聖武朝におよんで、難波宮が再興された。 |
国生み神話は、おのごろ島を舞台としてくりひろげられる。淡道(淡路)の穂の狭別の島、大洲(大島)や吉備の子洲(児島)などの瀬戸内海の島々が国生みに登場する。 仁徳天皇の詠と伝える国見歌に、「おしてるや 難波に碕ゆ 出で立ちて わが国みれば淡島 おのごろ島 あぢまさの島もみゆ さけつ島みゆ」と詠みこまれているのも(古事記)、難波と大阪湾が、古代王権と密接な連がりを保有していたことを象徴する。 |
長柄豊碕宮が完成した翌年(653)、中大兄皇子は孝徳天皇と意見が合わず、皇極太上天皇、大海人皇子らと飛鳥に移った。間人皇后のほか、官人もこれに従った。天皇は失意のうちに、翌654年10月に亡くなった。そこで、皇極太上天皇が再び即位し(斉明天皇)、飛鳥に遷都した。 |
斉明天皇即位後の斉明6年(660)7月、百済が唐・新羅軍に攻撃され、滅亡した。そこで、難波津から畿内、東国から集められた兵が筑紫の那ノ津に船で送られた。斉明天皇も難波津から伊予を経て筑紫に赴いた。しかし、斉明7年(661)、天皇が筑紫の朝倉橘広庭宮で急逝し、中大兄皇子が称制のまま政権を担当した。 天智2年(663)8月、朝鮮半島の錦江の河口の白村江で、日本・百済と唐・新羅とが戦い、日本軍は大敗し、百済は滅亡した。 この敗戦処理が大きな課題となり、唐からの使節があいついで難波津に来朝した。 天智6年(667)、中大兄皇子は、再び飛鳥の地を離れ、大津に遷都することにした。中大兄皇子は対馬、壱岐、筑紫国などに防人を配備し、のろし台を設け、筑紫に水城を設置し、さらに、大和と河内の境に高安城を築いた。 天武4年(675)4月に新羅王子らの使節がわが国を訪れ、7月には日本からも遣新羅使が難波津から派遣され、外交上の危機的な状況は解消する方向で進展した。 |
難波津が再び活気を取り戻したのは、聖武天皇の即位後のことである。 この時期の建築技術は、大きく飛躍した。基檀上に礎石を用いて構築された。建物は瓦葺され、朝堂の各建物は堂と呼ぶのにふさわしいものになった。 |
天平12年(740)、大宰少弐藤原弘嗣が乱を起こした。すると、聖武天皇は突如、平城京を出て東国に行幸し、乱が平定された後も、平城京には戻らず、山背国の恭仁(くに)にとどまって遷都し、恭仁宮・恭仁京の造営が行われた。やがて、聖武天皇は天平12年(744)閏正月には、難波宮に行幸した。そして、2月26日、難波宮に遷都する勅が橘諸兄によって宣言された。しかし、その2日前に聖武天皇は近江の紫香楽に行幸し、大仏造立をすすめていた。 皇都となった難波宮では、再び首都として、整備が行われたであろう。 聖武天皇による恭仁京、難波京、紫香楽間の彷徨も、天平17年(745)5月、天皇の平城京への遷都によっておさまった。 |
長岡京の遷都にともなって、複都制としての難波宮、難波京が廃止されることになった。これは桓武天皇が財政再建をはかるために、経費節減、緊縮政策を採用したことにあるといわれる。長岡京は平城京からの遷都と難波京からの遷都をあわせて行うことによって、都を一つにまとめるようとした。その際に難波宮の中心部建物を選んで長岡京の造営が進められたのは、平城宮の社殿を運ぶよりも難波宮の方が難波堀江、淀川を経由することによって、運びやすい条件をいかしたものといえる。 その他に考えられることとして、遣唐使船が難波の江口で座礁したこともあり難波津に浅瀬が多くなり、難波津が機能低下したことがうかがわせるものである。長岡京遷都直後に和気清麻呂が瀬戸内海交通に便利な三国川(現在の神崎川)に通ずるようにした。 |
最古の木簡
難波の宮跡で、7世紀中頃のものとみられる、日本最古の万葉仮名の書かれた木簡が見つかっている。 この発見で、万葉仮名文の成立は7世紀末頃とされていたが、20~30年、さかのぶることになる。 万葉仮名文は7世紀末頃に柿本人麻呂が天武朝(672~680)に完成させたとの説に再考を促すことになる。 最古の文字らしきものは弥生時代の土器などで確認されている。やがて古墳時代に漢文が使われ、その中にある地名や人名など固有名詞は、漢字一字の音を借りた「音仮名」で表記するようになる。さらに漢文を日本語の語順に変えるなどの工夫をして、「書く」という行為の模索をしてきた。こうして形になってきた表記の方法を万葉仮名として体系化させた。 「はるくさ」は日常会話ではあまり使わないが、中国の漢詩では「春草(しゅんそう)という言葉が良く使われている。中国の漢詩に精通した教養の高い人が日本語風にして読んだ可能性もある。
|
天皇と宮の名
天皇 | 宮の名称 | 国名 | 宮の場所推定地他 | |||||
日本書紀 | 古事記 | |||||||
第1代 | 神武天皇 | 高千穂宮 | 大隅 | 鹿児島県姶良郡霧島山? | ||||
一柱騰宮 | 足一騰宮 | 豊前 | 大分県宇佐郡駅館川付近? | |||||
(→筑紫國岡水門) | 筑紫之岡田宮 | 筑前 | 福岡県遠賀郡蘆屋町 | |||||
埃宮 | 阿岐國之多祁理宮 | 安芸 | 広島県安芸郡府中町 | |||||
高嶋宮 | 吉備之高島宮 | 備前 | 岡山県児島郡中浦村 | |||||
畝傍橿原宮(うねびのかしはら) | 畝傍(うねび)橿原宮 | 大和 | 奈良県橿原市久米町 | |||||
第2代 | 綏靖天皇 |
葛城高丘宮(かつらぎのたかおか) | 葛城(かつらぎ)・高岡宮(たかおか) | 大和 | 奈良県御所市森𦚰 | |||
(→反正紀) | 御井宮 | 淡路 | 兵庫県淡路島?(和知都美命) | |||||
第3代 | 安寧天皇 | 片塩浮孔宮(かたしのおうきあな) | 片塩(かたしお)・浮穴宮(うきあな) | 大和 | 奈良県大和高田市三倉堂 | |||
第4代 | 懿徳天皇 |
軽曲峡宮(かるのまがりを) | 軽(かる)・境岡宮(さかいおき) | 大和 | 奈良県橿原市大軽町 | |||
第5代 | 孝昭天皇 | 掖上池心宮(わきのかみのいけこころ) | 葛城・掖上宮(わきがみ) | 大和 | 奈良県御所市池之内 | |||
第6代 | 孝安天皇 | 室秋津嶋宮(むろのあきづしま) | 葛城・室秋津島宮(むろのあきづしま) | 大和 | 奈良県御所市室 | |||
第7代 | 孝霊天皇 | 黒田廬戸宮(くろだのいほと) | 黒田・廬戸宮(いほと) | 大和 | 磯城郡田原本町黒田 | |||
第8代 | 孝元天皇 | 軽境原宮(かるのさかいはら) | 軽・境原宮(さかいはら) | 大和 | 橿原市大軽 | |||
第9代 | 開化天皇 | 春日率川(かすがのいざかわ) | 春日(かすが)・伊耶河宮(いざかわはら) | 大和 | 奈良市子守率川 | |||
第10代 | 崇神天皇 | 磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや) | 師木水垣宮(しきみずがきのみや) | 大和 | 奈良県桜井市金屋付近(かなや) | |||
第11代 | 垂仁天皇 | 纏向珠城宮(まきむくたまきのみや) | 師木玉垣宮(しきたまがきのみや) | 大和 | 奈良県桜井市巻野内付近(まきのうち) | |||
高宮 | 大和 | 奈良県高市郡志料久米寺兆域、久米御県神社 | ||||||
菟砥川上宮(うとのかわかみ) | 鳥取之河上宮 | 和泉 | 大阪府泉南郡泉南町(印色入日子命) | |||||
假宮 | 出雲 | 島根県簸川郡?(品牟都和気命) | ||||||
檳瑯之長穂宮 | 出雲 | 島根県簸川郡?(品牟都和気命) | ||||||
第12代 | 景行天皇 | 泳宮 | 美濃 | 岐阜県可児郡可児町 | ||||
纏向日代宮(まきむくひしろのみや) | 纏向日代宮(まきむくひしろのみや) | 大和 | 奈良県桜井市穴師付近(あなし) | |||||
高屋行宮 | 日向 | 鹿児島県姶良郡溝辺村麓字菅ノ口? | ||||||
高田行宮 | 筑後 | 福岡県大牟田市歴木? | ||||||
酒折宮 | 酒折宮 | 甲斐 | 山梨県甲府市酒折 | |||||
綺宮(かにはたのみや) | 伊勢 | 三重県鈴鹿市高宮 能褒野に近い | ||||||
志賀高穴穂宮 | 近江 | 滋賀県大津市坂本穴太町 | ||||||
第13代 | 成務天皇 | 近江志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや) | 近淡海之志賀高穴穂宮 | 近江 | 滋賀県大津市坂本穴太町 | |||
第14代 | 仲哀天皇 | 穴門豊浦宮 | 穴門豊浦宮 | 長門 | 山口県下関市豊浦町 | |||
橿日宮(かしひ) | 筑紫訶志比宮 | 筑前 | 福岡県福岡市東区香椎(息長帯日売命) | |||||
松峡宮 | 筑前 | 福岡県朝倉郡三輪町栗田(息長帯日売命) | ||||||
(神功) | 角鹿行宮 | 角鹿假宮 | 越前 | 福井県敦賀市曙町 | ||||
徳勒津宮 | 紀伊 | 和歌山県和歌山市新 | ||||||
磐余若桜宮(いわれわかざくらのみや) | 磐余稚桜宮(延喜式) | 大和 | 奈良県桜井市谷または池之内付近 | |||||
第15代 | 応神天皇 | 明宮 | 軽嶋豊明宮 | 大和 | 奈良県橿原市大軽町 | |||
吉野宮 | 大和 | 奈良県吉野郡吉野町 | ||||||
葦守宮 | 備中 | 岡山県吉備郡足守町 | ||||||
難波大隅宮 | 摂津 | 大阪府大阪市東淀川区東大道町・西大道町 | ||||||
第16代 | 仁徳天皇 | 高津宮 | 難波高津宮 | 摂津 | 大阪府大阪市中央区 | |||
菟道宮 | (宇治神社) | 山城 | 京都府宇治市 | |||||
第17代 | 履中天皇 | 磐余稚桜宮(いわれわかざくらのみや) 磐余若桜宮(いわれわかざくらのみや) |
伊波礼之若桜宮(いわれのわかざくらのみや) | 大和 | 奈良県桜井市谷または池之内付近 | |||
太子宮 | 難波宮 | 摂津 | 大阪府大阪市天王寺区餌差町? | |||||
(石上振神宮) | (石上神宮) | 大和 | 奈良県天理市布留 | |||||
假宮 | 大和 | 奈良県北葛城郡香芝町穴虫? | ||||||
第18代 | 反正天皇 | 淡路宮 | (→清寧記) | ー | 不明 | |||
多治比之柴垣宮 | 河内 | 大阪府松原市上田町 | ||||||
第19代 | 允恭天皇 | 遠飛鳥宮(とおあすかのみや) | 大和 | 奈良県高市郡明日香村 | ||||
藤原宮 | 大和 | 奈良県橿原市高殿町 | ||||||
茅淳宮 (ちぬのみや) | 和泉 | 大阪府泉佐野市上之郷? | ||||||
第20代 | 安康天皇 | 石上穴穂宮(いそのかみあなほのみや) | 石上穴穂宮(いそのかみあなほのみや) | 大和 | 奈良県天理市田町垣内 | |||
假宮 | 近江 | 滋賀県蒲生郡蒲生町・日野町 | ||||||
第21代 | 雄略天皇 | 泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや) | 長谷朝倉宮(はせあさくらのみや) | 大和 | 奈良県桜井市脇本または岩坂付近 | |||
吉野宮 | 吉野宮 | 大和 | 奈良県吉野郡吉野町宮滝 | |||||
第22代 | 清寧天皇 | 磐余甕栗宮(いわれみかくりのみや) | 伊波礼之甕栗宮(いわれのみかくりのみや) | 大和 | 奈良県桜井市池之内付近 | |||
忍海角刺宮 | 葛城忍海之高木角刺宮 | 大和 | 奈良県北葛城郡新庄町忍海(飯豊皇女) | |||||
第23代 | 顕宗天皇 | 近っ飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや) (弘計皇子神社) |
近飛鳥宮 | 河内 | 奈良県明日香村、大阪府 | |||
或本・小郊宮 | 播磨 | 兵庫県三木市志染町 | ||||||
或本・池野宮 | 播磨 | 兵庫県三木市志染町 | ||||||
第24代 | 仁賢天皇 | 石上広高宮 | 石上広高宮 | 大和 | 奈良県天理市 | |||
或本・川村宮 | 播磨 | 兵庫県三木市志染町 | ||||||
或本・縮見高野宮 | 播磨 | 兵庫県三木市志染町 | ||||||
第25代 | 武烈天皇 | 泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや) | 長谷之列木宮(はせのなみきのみや) | 大和 | 奈良県桜井市出雲付近 | |||
第26代 | 継体天皇 | 樟葉宮(楠葉宮) | 河内 | 大阪府枚方市楠葉 | ||||
弟國宮(乙訓宮) | 山城 | 京都府長岡京市今里 | ||||||
筒城宮 (綴喜宮) | 山城 | 京都府綴喜郡田辺普賢寺? | ||||||
磐余玉穂宮(いわれたまほのみや) | 伊波礼之玉穂宮(いわれのたまほのみや) | 大和 | 奈良県桜井市池之内付近 | |||||
第27代 | 安閑天皇 | 勾金橋宮(まがりのかなはしのみや) | 勾之金箸宮 | 大和 | 奈良県橿原市 | |||
第28代 | 宣化天皇 | 檜隈盧入野宮(ひのくまいおりのみや) | 檜坰之盧入野宮 | 大和 | 奈良県明日香村・橿原市 | |||
第29代 | 欽明天皇 | 磯城嶋金刺宮 (しきしまのかなさしのみや) | 師木嶋大宮(しきしまのおおみや) | 大和 | 奈良県桜井市外山(とび)・桜井市金屋付近 | |||
難波祝津宮 | 摂津 | 兵庫県尼崎市難波本町 | ||||||
樟勾宮 | 大和 | 奈良県橿原市曲川? | ||||||
初瀬紫籬宮 | 大和 | 奈良県桜井市初瀬付近 | ||||||
第30代 | 敏達天皇 | 百済大井宮(くだらおおいのみや) | 河内 | 奈良県北葛城郡広陵町 | ||||
訳語田幸玉宮(おさださきたま) | 他田宮(おさだのみや) | 大和 | 奈良県桜井市戒重(かいじゅう)付近 | |||||
第31代 | 用明天皇 | 磐余池辺双槻宮(いわれのいけのべのなみつきのみや) | 池辺宮(いけべのみや) | 大和 | 奈良県桜井市谷または池之内付近 | |||
上宮 | 上宮 | 大和 | 奈良県桜井市上之宮 | |||||
海石榴市宮 | 大和 | 奈良県桜井市金屋 | ||||||
水派宮 (みまた・美麻多) | 大和 | 奈良県北葛城郡広陵町大塚 地図 | ||||||
第32代 | 崇峻天皇 | 倉梯宮(くらはしのみや) | 倉椅柴垣宮(くらはししばがきのみや) | 大和 | 奈良県桜井市倉橋付近 金福寺 | |||
磐余から推古天皇の時に飛鳥の近くになり、舒明天皇の時に飛鳥に王宮が造営された。 ↓ | ||||||||
第33代 | 推古天皇 | 豊浦宮(とゆらのみや) | 大和 | 奈良県高市郡明日香村豊浦 豊浦宮:豊浦寺(現向原寺) 、 豊浦地に初めて飛鳥の近くに王宮が営まれる。 |
||||
耳梨行宮 | 大和 | 奈良県橿原市木原町 | ||||||
小墾田宮(おはりだにみや) | 小治田宮 | 大和 | 奈良県高市郡明日香村 小墾田宮:古宮土檀の地 |
|||||
斑鳩宮 | 大和 | 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺 | ||||||
岡本宮 | 大和 | 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺 法起寺 | ||||||
第34代 | 舒明天皇 | 飛鳥岡本宮 | 大和 | 奈良県生駒郡明日香村雷・奥山 | ||||
田中宮 | 大和 | 奈良県橿原市田中町 田中宮:法満寺 |
||||||
有馬温湯宮 | 播磨 | 兵庫県神戸市兵庫区 | ||||||
伊予温湯宮 | 伊予 | 愛媛県松山市三津町道後 | ||||||
廐坂宮(うまやさかのみや) | 大和 | 奈良県橿原市大軽町 | ||||||
百済宮 | 大和 | 奈良県橿原市飯高町(ひだか) | ||||||
第35代 | 皇極天皇 | 小墾田宮 | 大和 | 奈良県高市郡明日香村 | ||||
飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや) | 大和 | 奈良県高市郡明日香村 | ||||||
第36代 | 孝徳天皇 | 難波長柄豊碕宮、 | 摂津 | 大阪府大阪市東区法円坂町 | ||||
小郡宮、その他、いずれも難波の地 | 摂津 | |||||||
第37代 | 斉明天皇 | 飛鳥板蓋宮・飛鳥川原宮・飛鳥岡本宮 吉野宮 |
大和 | 飛鳥川原宮:川原寺 | ||||
第38代 | 天智天皇 | 近江大津宮・飛鳥稲淵宮殿 | 近江 | |||||
第40代 | 天武天皇 | 飛鳥浄御原宮 吉野宮 |
大和 | |||||
第41代 | 持統天皇 | 飛鳥浄御原宮・藤原宮 | 大和 | |||||
「宮」とは、本来「御屋(みや)」という意味で高貴な人(権力者)の住まいをいいますが、ここでいうとは天皇の住まいのことです。 実在性の高い第10代崇神天皇(3世紀~4世紀)は三輪山の麓、磯城に宮殿を営みました。 その後、磐余~飛鳥~ 藤原~ 平城と、一時難波や大津に遷都されたものの、8世紀の終り頃まではほとんどが大和、 今から100年前1915 (大正4)年11月に、奈良県教育会(教師、教育関係者を中心とする民間団体)が県下に存在する なお「藤原宮跡」は1952(昭和27 )年に国の特別史跡に指定されました。 |
||||||||
飛鳥岡本宮以後、基本的に王宮は同じ場所で造営される。 数百年の間続いた大和王宮の歴代遷都が、630年舒明天皇を境に途絶える。 唐の2代目の皇帝、太宗李世民は、四囲の国々に対する征服戦争を開始した。 629~630年に唐は東突蕨(とけつ)(とつけつ)を攻撃し滅ぼす。 また、631年、高句麗は唐による攻撃を防ぐために1千余里に及ぶ長城を築く。 飛鳥岡本宮が飛鳥盆地に造営されるのは、唐帝国の軍事的脅威から王権を守るためであった。 飛鳥盆地は南と東西を急峻な丘陵で囲まれており、防衛に適していた。北側に開口しているが、 軍事要塞となる飛鳥寺が入り口をふさぐように造営されていた。 |
||||||||
飛鳥の地に宮がおかれるようになる以前の4世紀~6世紀代は、記紀の記述では第10代崇神から第32代崇峻の時代にあたる。 この時期の宮は各代で変化している。しかしそれらの中でも、いくつか共通する地名を見出すことができる。 この時期の27個所の宮のうち、「イワレ(磐余、伊波礼)」とつくものが5箇所、「シキ(磯城、師木)」、「マキムク(纏向)」、 「ハツセ・ハセ(泊瀬、長谷)」とつくものがそれぞれ2~3箇所ずつ存在する。これらはいずれも、現在の奈良県桜井市域にあたる地名と考えられる。 このほか「百済」、「訳語田(他田)」、「倉梯(倉椅)」といった地名も桜井市域のものと考えられ、実にこの時期の半数以上の宮が、桜井市域の存在したということになる。 脇本遺跡の5世紀後半頃の建物が、雄略の「泊瀬列城宮」に関連するものである可能性が考えられる。 |
||||||||
|
天皇 | よみかた | 御名・異称 | 陵名 | 住所 | 地図 |
岡宮天皇 | おかのみや | 草壁皇子 | 眞弓丘陵 | 奈良県高市郡高取町大字森 | 岡宮天皇 |
祟道天皇 | すどう | 早良親王 | 八嶋陵 | 奈良県奈良市八嶋町 | 祟道天皇 |
春日宮天皇 | かすがのみや | 志貴皇子 | 田原西陵 | 奈良県奈良市矢田原町字西山7 | 春日宮天皇 |
祟道盡敬皇帝 | すどうじんけいこうてい | 舎人親王 | 黄金塚陵墓参考地 | 奈良県奈良市田中町 | 祟道盡敬皇帝 |
慶光天皇 | けいこう |
閑院宮典仁親王
|
廬山寺陵 | 京都府京都市上京区寺町通広小路上ル | 慶光天皇 |
不太上天皇即位
太上天皇 | よみかた | 御名・異称 | 陵名 | 住所 | 地図 |
小一條太上天皇 | 敦明親王 | 小一條太上天皇 | |||
後高倉太上天皇 | ごたかくらだじょう | 守貞親王 | 鵺塚陵墓参考地 | 京都府京都市伏見区深草本寺山町月輪南陵兆域内 | 後高倉太上天皇 |
陽光太上天皇 | ようこうだじょう | 誠仁親王 | 月輪陵 | 京都府京都市東山区今熊野泉山町 | 陽光太上天皇 |
後祟光太上天皇 | ごすうこうだじょう | 伏見宮貞成親王 | 伏見松林院陵 | 京都府京都市伏見区丹後町 | 後祟光太上天皇 |
歴代天皇列記経験女帝
天皇 | よみかた | 御名・異称 | 陵名 | 住所 | 地図 |
神功皇后 | じんぐうこうごう | 狭城楯列池上陵 | 奈良県奈良市山陵町宮ノ谷 | 神功皇后 | |
飯豊天皇 | いいとよ | 葛城埴口丘陵 | 奈良県葛城市北花内 | 飯豊天皇 |
北朝
天皇 | よみかた | 御名・異称 | 陵名 | 住所 | 地図 | |
北朝初代 | 光厳 | こうごん | 山国陵 | 京都府京都市右京区京北井戸町丸山 常照皇寺内 | 光厳 | |
北朝2代 | 光明 | こうみょう | 大光明寺陵 | 京都府京都市伏見区桃山町泰長老 | 光明 | |
北朝3代 | 祟光 | すこう | 大光明寺陵 | 京都府京都市伏見区桃山町泰長老 | 祟光 | |
北朝4代 | 後光厳 | ごこうごん | 深草北陵 | 京都府京都市伏見区深草坊町 | 後光厳 | |
北朝5代 | 後円融 | ごえんゆう | 深草北陵 | 京都府京都市伏見区深草坊町 | 後円融 | |
北朝6代 | 後小松 | ごこまつ | 深草北陵 | 京都府京都市伏見区深草坊町 | 後小松 |
宇治天皇 | 莵道雅郎子皇子 | 宇治墓 | 京都府宇治市莵道丸山 | 宇治天皇 |
一休 | |
いっきゅう いつきう【一休】人 (1394〜1481)室町中期の禅僧。諱いみなは宗純。号, 雲子。後小松天皇の落胤らくいんといわれる。京都 大徳寺住持となるが同時に退山。禅宗の腐敗を痛罵つ うばして自由な禅のあり方を主張。詩・狂歌・書画に 長じ,また数々の奇行で有名。いわゆる一休頓智とん ち話の類は後世の仮託。著に詩集「狂雲集」など。 大辞林 第三版 |
一六世紀後半の豊臣秀吉が政権を握っていた時代。秀 吉が築いた伏見城の地をのちに桃山と呼んだことに由来する。 大辞林 第三版 |
織田信長・豊臣秀吉が政権を掌握していた時代。すな わち,信長の入京(1568年)から秀吉の死(1598年)まで, または関ヶ原の戦いの1600年までの約30年間。 信長の居城安土城と秀吉の居城伏見城(桃山城とも)にちなむ名称。 全国的な軍事統合が進むとともに,兵農分離,石高制が確立して,日本社会の中世から近世への移行が推進された。 文化的には社寺や城郭建築,障壁画に多くの傑作を生み,茶の湯が大成された。織豊しよくほう時代。 大辞林 第三版 |
810年に起こった宮廷内の抗争事件。平城天皇の寵厚く,権勢の座にあった藤原薬子が,天皇の退位後, 兄仲成とともに再度実権を握ろうとして起こした事件。 嵯峨天皇の廃立,平城上皇の重祚(ちようそ),平城京遷都を企てたが未然に発覚,仲成は処刑され,薬子は自殺した。 重祚:一度退位した天皇が再び皇位につくこと。三五代皇極が三七代斉明となり,四六代孝謙が四八代称徳となった。復辟(ふくへき)。再祚。復祚。 伊予親王事件 ⇒⇒⇒ |
第六夜 山門の前五六間の所には、大きな赤松があって、その幹が ところが見ているものは、みんな自分と同じく、明治の人間である。その 「大きなもんだなあ」と云っている。 「人間を そうかと思うと、「へえ仁王だね。今でも仁王を 「どうも強そうですね。なんだってえますぜ。昔から誰が強いって、仁王ほど強い人あ無いって云いますぜ。何でも 運慶は見物人の評判には委細 運慶は頭に小さい しかし運慶の方では不思議とも奇体ともとんと感じ得ない様子で一生懸命に彫っている。 「さすがは運慶だな。眼中に我々なしだ。天下の英雄はただ仁王と 自分はこの言葉を面白いと思った。それでちょっと若い男の方を見ると、若い男は、すかさず、 「あの鑿と槌の使い方を見たまえ。 運慶は今太い 「よくああ 「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に 自分はこの時始めて彫刻とはそんなものかと思い出した。はたしてそうなら誰にでもできる事だと思い出した。それで急に自分も仁王が 道具箱から 自分は一番大きいのを選んで、勢いよく 夏目漱石 夢十夜 (青空文庫)より |
天才仏師・運慶が世に躍り出た。生きているかのようなリアリティで、仏教彫刻界を驚かせた。確かな作品は31体。 日本の仏像は、平安時代後期の仏師、定朝(じょうちょう)によって基本型が完成された。彫が浅く、衣の文様は流れるようで、瞑想するような姿。それを部分ごとに制作してまとめる寄木造りの技法も進んだ。 その流れは、京都の仏師集団、院派や円派に受け継がれる。運慶の父、康慶に始まる慶派は奈良が拠点で、どちらかといえば傍流だった。 しかし、平安時代の終わりが仏教彫刻の世界にも大きな影響を及ぼす。関東の武士が平安貴族にとって代わろうとし、その気風を示すような仏が求められた。 運慶はそのころに登場した。20代半ばで制作した円成寺の大日如来坐像は背筋が伸び、ゆったりした平安仏とは違う動的な緊張感がある。この動の感覚に武士たちは目をとめ、運慶を関東に呼び寄せて政策を依頼した。 |
平安末期、平家の兵火で奈良の東大寺と興福寺が焼失。その復興で活躍したのが、運慶率いる「慶派」と呼ばれる仏師集団。ここに属したのが、康慶の 息子で希代の天才仏師運慶だった。東大寺大仏の両脇侍像をはじめ、鎌倉彫刻の傑作・東大寺南大門の金剛力士像を造立した。力強さと写実を追求し、 宗教てきな存在を芸術作品にまで高めた。 |
運慶は「玉眼」を用いることで、仏像に生き生きした空気を与えた。 玉眼は、コンタクトレンズのような形をした水晶の板を仏像の顔の内側からはめ込み、瞳や血管を色づけする手法。 和歌山·金剛峯寺の国宝「八代(はちだい)童子立像」(1197年ごろ)は静かだが強い決意を感じさせる制多伽童子(せいたか)、 一方で、運慶は玉眼を多用することは避けた。 |
うんけい【運慶】人 (1150〜1223)鎌倉前期の仏師。康慶の子。慶派を代表 する仏師。写実的な作風で男性的な体軀と自由な動きをもった仏像を制作。文献上には作例が多いが,確実 な作品は円成寺大日如来像,快慶との共作の東大寺南大門仁王像など。 大辞林 第三版 |
宗印(そういん)
安土桃山時代の仏師。 宗印は、金峰山寺の本尊、金剛蔵王権現(重文)や、方広寺の大仏などを作った安土桃山時代を代表する仏師。 安部文殊院の維摩居士が宗印の作であることが判明した。 |
平安時代末期~鎌倉時代初期の仏師で運慶の父、快慶の師。平重衡の南部焼き打ち後の復興像仏の中心人物として活躍し、慶派の基礎を築く。 天平彫刻の古典にならい新たな現実的作風を提示したが、写実表現の完成度は運慶に及ばなかったとされる。 興福寺の不空羂索観音坐像は康慶の作。衣文が組んだ脚の形に対応していないなど写実に難があるとされる。 |
奈良時代の女帝称徳天皇の寵愛をうけて「法王」の座に就いた僧。 大阪府八尾市に、道鏡の故郷がある。 孝謙天皇はこの地に「由義宮」を造営しようとしたが、果たせぬまま世を去った。 天皇の看病をしたことがきっかけで重用され、「法王」の位に就き異例の出世を果たした。皇位までうかがったが和気清麻呂らに阻止された。 孝謙天皇は仏教界の頂点として道鏡を用い、神仏習合政治を実現しようとしたことが、貴族たちの反発を買った。 |
道鏡が建立した由義寺(ゆげ)があったとみられていた八尾市の東弓削遺跡(ゆげ)で、巨大な塔とみられる建物の基壇(土台)みつかっている。 基壇は約20m四方で、奈良時代後半の地層にある。基壇には60m級の七重塔が立っていた可能性がある。 付近からは塔頂部の装飾品「相輪」の破片とみられる銅製品も見つかっている。復元すると直径約90cmのお椀型になる。 由義寺は続日本書紀に登場。770年に由義寺の塔建設に携わった人々に位階を与えた記述がある。文献には、由義寺の称徳天皇ゆかりの都 「由義宮(西京・にしのきょう)」もあったとされいる。 |
762年、病気になった孝謙上皇に健康の回復祈祷をし、その功績で太政大臣禅師、法王と異例の出世を果たした。 769年5月、「道鏡を天皇にせよ」という豊前国(大分県)の宇佐八幡宮から平城京にお告げが下されたが、9月には和気清麻呂がそれを否定するお告げを持ち帰り、 即位を阻まれ、道鏡の天皇即位は夢に終わった。称徳天皇の病没もあって失脚した。 |
道鏡(?~772)は、物部氏の一族の貴族・弓削氏の生まれ。法相宗の僧・義淵(ぎえん)らに師事。葛木山で修行を積み、呪験力を身に付けたと伝えられる。 孝謙天皇の死後、下野国(しもつけのくに・栃木県)に左遷された。遺体は一般人として葬られたという。 |
河内国若江郡 (大阪府東大阪市・ の良弁僧正らに師事して、仏教を学ぶ。 宮中の看病禅師だった天平宝字5 (761)年、保良宮で孝謙上皇 (後に重祚して称徳天皇)が病に陥り、それを完治させたこと で信頼を獲得。 4年後には太政大臣禅師、翌年には法王に。 仏教界だけでなく、政界でも辣腕を振るった。.. 大改修が計画されたが、 翌年、天皇の死去に伴い中止に。 道鏡は神託と称して皇位の継承を企図したが、 和気清麻呂に阻まれたとされ、天皇死去の17日後、 下野薬師寺 (栃木県下野 市) の別当に配された。 宝亀3 (772)年、同寺で亡くなった。 |
道鏡ゆかり由義宮の遺構 地図 奈良時代の女帝。称徳天皇(在位764~770)と、その寵愛を受けて法王になった僧·道鏡(?~772)が建立した由義寺(ゆげ)があ ったとみられる大阪府八尾市の東弓削遺跡で、奈良時代後期の掘立柱建物跡や大規模な人工河川(大溝)が見つかった。称徳天皇が置 いたとされ、奈良時代の正史「続日本紀」に登場する「由義宮」に関連する遺構とみられる。由義宮の遺構が発見されたのは初めて で、謎に包ほれた実態の解明が期待される。 八尾市文化財調査研究会が16日発表した。 東弓削遺跡ではこれまでに、由義寺にあった巨大な塔とみられる建物の基壇(土台)が奈良時代後半の地層から発見。基壇は約20 m四方あり、高さ60m級の七重塔が立っていた可能性もあるとされている。 今回の調査場所はその北東約500 。見つかった掘立柱穴は一辺が60~80cmで角が丸まっており、直径20~25cm程度の柱を差し込 んでいたとみられる。穴は東西南北に規則正しく並んでいることから、調査研究会の広瀬雅信さんは一帯に正確な土地の区割りが存 在したと考えられる。碁盤の目のように整備された由義宮が、調査場所まで広がっていたのではないか」とみる。 大溝は長さ約10 m、幅16~20 m、深さ1mほど。昨夏、今回の調査場所から約70m南で発見された長さ約60mの大溝と合わせ、当 時総延長600~700mの人工河川があったとみられるという。由義宮や由義寺の造営資材の運搬用運河か、河川工事のための排 水用バイパスだった可能性があるという。 資材運ぶ運河か 木下正史·東京学芸大学名誉教授の話 確認された大溝は、由義寺や由義宮の造営資材を目的地まで運ぶために掘られた人工の運河の可能性が高い。 |
765年 | 天平神護元年 | 10月称徳天皇と道鏡、紀伊行幸の帰路に河内・弓削に立ち寄り、弓削寺に参拝 |
766 |
天平神護2年 | 10月道鏡を法王に任命 |
769年 |
神護景雲3年 | 5月豊前の宇佐八幡宮から「道鏡を皇位につけよ」という託宣が朝廷に伝えられる 9月和気清麻呂が宇佐八幡から「皇位には必ず皇族を立てよ」という託宣を持ち帰る 10月称徳天皇と道鏡が由義宮に行幸し、宮を西京とすることを宣言 |
770年 |
神護景雲4年 | 4月由義寺の塔の建設に携わった役人や技術者らに位階が与えられる 8月称徳天皇死去。道鏡は下野に左遷される由義宮も廃止か |
772年 |
宝亀3年 | 4月道鏡下野で死去 |
遠つ飛鳥 | 近つ飛鳥 | |
年代による遠近の説 | 第19代允恭天皇皇居 | 第23代顕宗天皇皇居 |
第17代履中天皇大坂から見て遠近 | 奈良県高市郡飛鳥村 (大和飛鳥) |
大阪府羽曳野市飛鳥 (河内飛鳥) |
日本書紀 応神9年4月 武内宿禰を筑紫に遣わして、百姓(おほみたから)を監察しむ。時に武内宿禰の弟(おとと)旨美内宿禰(うましうちのすくね)、兄(このかみ)を廃(す)てむとして、即ち天皇に讒(よこ)して言(まう)さく、「武内宿禰、常に天下(あめのした)を望(ねが)ふ情(こころ)有り。今聞く、筑紫に在(はべ)りて、密(ひそか)に謀(はか)りて日(い)ふならく、『独(ひとり)筑紫を裂きて、三韓を招きて己に朝(したが)しめて、遂に天下を有(たも)たむ』といふなり」とまうす。是(ここ)に、天皇(すめらみこと)、即ち使を遣して、武内宿禰を殺さしむ。時に武内宿禰、歎きて日はく、「吾(やつかれ)、元より弐心無(ふたこころな)くして忠(まめこころ)を以て君に事(つと)めつ。今何の禍そも、罪無くして死(みまか)らむや」といふ。是に、壱伎直(いきのあたひ)の祖(おや)真根子(まねこ)といふ者有り。其れ為人(ひととなり)、能く武内宿禰の形に似(たうば)れり。独武内宿禰の、罪無くして空しく死(みまか)らむことを惜びて、便(すなは)ち武内宿禰に語りて日はく、「今大臣、忠を以て君に事(つか)ふ。既に黒心無きことは、天下共に知れり。願はくば密(ひそか)に避(さ)りて、朝(みかど)に参赴(まう)でまして、親(みずか)罪無きことを弁(わきだ)めて、後に死らむこと晩(おそ)からじ。且(また)、時人の毎(つね)に云はく、『僕(やつかれ)が形、大臣に似(たうば)れり』といふ。故、今我(やつかれ)、大臣に代(かは)りて死りて、大臣の丹心(きよきこころ)を明さむ」といひて、即ち剣に伏(あた)りて自ら死りぬ。時に武内宿禰、独大きに悲びて、ひそかに筑紫を避りて、浮海(ふね)よりして南海より廻りて、紀水門(みなと)に泊まる。僅に朝に逮ることを得て、すなはち罪無きことを弁(わきだ)む。天皇、即ち武内宿禰と甘美内宿禰とを推(かむが)へ問ひたまふ。是に、二人、各堅く執(とら)へて争ふ。是非決め難し。天皇、勅して、神祇(あまつかみくにつかみ)に請(まう)して探湯(くがたち)せしむ。武内宿禰と甘美内宿禰と、共に磯城川の湄(ほとり)に出て、探湯す。武内宿禰勝ちぬ。便ち横刀(たち)を執りて、甘美内宿禰を殴ち仆(たふ)して、遂に殺さむとす。天皇、勅して釈(ゆる)さしめたまふ。よりて紀直等(きのあたひら)の祖(おや)に賜ふ。 |
日本書紀 継体24年9月 任那の使奏(つかひまう)して云(まう)さく、「毛野臣(けなのおみ)、遂に久斯牟羅(くしむち)にして、舎宅(いえへ)を起し造りて、淹留(とどまりす)むこと二歳、一本に三歳といふは去来ふ歳の数を連ぬ。政を聴くに懶(よそほしみ)す。ここに日本人と、任那の人との、頻(しきりに)児息(こう)めるを以て、諍訟(あらふごと)決(さだめ)難きを以て、元(はじめ)より能判(ことわ)ること無し。毛野臣、楽みて誓湯置(うけひゆお)きて曰く。「実ならむ者は爛れず。虚あらむ者は必ず爛れむ」といふ。是を以て、湯に投して爛れ死ぬ者衆(おほ)し。 |
神護景雲元年(767)渡来系氏族である三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として近江に生まれた。 14歳で国分寺僧として得度して最澄と名乗る。延暦4年(785)4月6日東大寺で具足戒を受け、総国分寺の大僧となった。しかし、7月中旬東大寺を出て比叡山に入り、願文を製し、樹下石上の山林修行生活に入った。禅を修め、華厳を学び天台に転向した。延暦16年(797)桓武天皇の意思を受け還学生として入党、天台の教え等を学び帰朝。大同元年(806)天台宗が公認された。以後、円仁ら門弟を育て、叡山は多くの学匠を生みだした。鎌倉仏教の担い手となった法然、親鸞、栄西、道元、日蓮など。法然⇒ 最澄は願文、山家学生式、顕戒論、法華文句等多くの著書を残し、弘仁13年(822)6月4日56歳で没した。貞観8年(866)仏教大師の諡号(しごう)を 贈った。 具足戒(ぐそくかい):僧の守るべき戒律。完全な戒,すべての戒の意とされ,一般に男僧に二五〇戒,尼僧に三四八戒があるとされる。 具戒。大戒。大辞林 第三版 |
最澄は南都との対立路線を歩んだ。桓武天皇という庇護者を失ったのちは、戒壇の設置に奔走する。戒壇の設置を認められていない状況では、南都六宗の東大寺へ赴いて、戒を授けてもらわなくてはならなかったのである。最澄の存命中、この願いは成就することはなかった。藤原冬嗣らの尽力により、延暦寺に 大乗戒壇の設置が認められたのは、弘仁13年(822)、最澄の死から7日あとのことであった。 |
さいちょう【最澄】人 (767~822)日本天台宗の開祖。姓は三津首みつのおびと。近江の人。比叡山に入り法華一乗思想に傾倒し,根本中堂を創建。804年入唐,翌年帰国し,天台宗を開創。「山家学生式さんげがくしようしき」をつくって大乗戒壇設立を請願したが,南都の反対にあい,死後七日目に勅許がおりた。日本最初の大師号伝教大師を勅諡ちよくしされる。書状「久隔帖きゆうかくじよう」は名筆として知られる。著「顕戒論」「守護国界章」など。叡山大師。山家大師。根本大師。 大辞林 第三版 |
宝亀5年(774)讃岐国に生まれた。父は地方豪族の佐伯田公(たきみ)。大学寮に入学するが、 真言の効験(こうげん)にひかれて出家し、土佐国の室戸岬などで修業に励む。 やがて最澄と同じ804年、留学生として遣唐使船に同行した。青龍寺の恵果(けいか)のもとで 本格的な密教を学び、最澄より1年遅れて帰国した。 弘法大師は宝亀五年(七七四)六月十五日、現在の香川県善通寺市(讃岐国多度郡屏風浦)に 生まれました。父は佐伯直田公、母は阿刀氏の出身で玉依御前といいました。幼名は真魚といい、幼 い頃から聡明な方だったといわれ、将来を大いに期待されました。特に母方の叔父にあたる阿刀大足が、 桓武天皇の皇子伊豫親王に、儒学のご進講をされたという学者であったためか、大師は十二、三歳の頃 には、「論語」や「孝経」などを学ばれていたといたといわれています。 延暦七年(七八八)十五歳の時、都に上り、阿刀大足について儒学を学び、十八歳の時、官立の大学 に入学しました。このころから仏典に親しむようになり、ある日一人の僧から「虚空蔵求聞持法」と いう記憶力を高め聡明になることができるという修行法を教わります。そこでその修法を実践しようと 決意し、大学を中退。四国の山野をはじめ、各地を廻って求聞持法を実践されたと伝えられています。 大学で儒学,道教を学び、四国での修行によって仏教の神髄を学んだ大師は、儒教,道教、仏教を比較 して仏教の勝れた点を指摘した『三教指帰』を著し、出家の決意を被瀝(ひれき)されたのでした。その後は奈 良をはじめとして、諸国の大きなお寺をめぐって仏教を勉強されていましたが、ある時大和の久米寺で 『大日経』に出会ったのでした。しかし、『大日経』に説かれる密教は師資相承といわれ、師から弟子 へ直接伝えられるものです。しかし日本には師になるべき人がいません。そこで、師を求めて中国へ渡 る決意をされたのです。 延暦二十三年(八〇四)五月、弘法大師に入唐留学生の勅許が下りました。そして七月六日、 大師を乗せた遣唐使船は九州田ノ浦を出発します。 途中,暴風雨に遭い、1カ月余りの日数をかけて、ようやく中国の福州の赤岸鎮に到着したのですが 目的地と違った地に漂着したため怪しまれてすぐには上陸の許可が出ません。軟禁状態で更に数カ月、 船上での暮らしを続けますが、遣唐大使の遺嘱をうけた弘法大師が上陸.入京をうながす文書を書き提 出したところ、福州の役人はそれを見て感心し、やっと上陸の許可が出たのでした。十一月三日、福州 を出発して長安の都に到着したのは十二月二十三日のことでした。 長安での大師は西明寺に留まり、市内の寺々を訪ねて教えを乞いました。そして、ついに密教の師、 青龍寺の恵果阿闍梨にめぐりあい、子弟の契りを結びました。この阿闍梨こそ正純密教を伝えた第七 番目の祖師であったのです。そこで阿闍梨は早速灌頂壇をもうけ、大師を引入して密教の法流をすべ て伝えられます。正純密教の継承者となった大師は両部曼荼羅や密教経典、法衣、法具など密教相承 に必要なものをすべて用意し、帰国の準備をされました。恵果阿闍梨は、その後まもなく六十歳で遷化 されてしまうのですから、大師が恵果阿闍梨にお遇いできたのは、まったく奇遇と言うほかありません。 翌大同元年(八〇六)、大師は多くの密教法具を携えて帰国されました。九州に到着した大師 は本来ならばすぐに京に上って報告するわけでしたが、二十年ほど留学するところを二年余りで帰国し たことについて、朝廷の許しを得るために持ち帰ったおしえの素晴らしさと、経典類のリスト「上 新請来経等目録表」(「御請来目録」)を朝廷に提出しました。 帰国を許可された大師は大同四年(八〇九)、京都の高雄山神護寺にはいります。そして弘仁三年 (八一二)には、その高雄山神護寺において初めて真言密教の教えを伝えるための両部灌頂を開壇し ました。その時、天台宗の開祖である最澄(伝教大師)をはじめ、多くの比叡山の学徒も入壇され たといわれています。その頃、嵯峨天皇が即位します。天皇は大師への帰依の心があつく、親密な交流 があったといわれていますが、特に書道に秀でた天皇と大師、それに橘逸勢の三人は「平安の三筆」 とよばれています。 大師はまた多くの著述を残されています。出家の決意書といわれる「三教指帰」、また「弁顕密二教 論」(密教以外の仏教〔顕教と密教とを比較対比して論じたもの)、「即身成仏義」この身このま まが大日如来と同体であると説くもの)「声字実相義」(大宇宙のあらゆる音声はみな大日如 来の説法であると説くもの)、「吽字義」(吽という梵字の中に大日如来の世界があると説くもの)、「般 若心経秘鍵」(般若心経を密教経典として解釈するもの)、「秘密曼荼羅十住心論」(人間の心を 十段階に分けてその聖の次第を説くもの)、「秘蔵宝鑰」(秘密曼荼羅十住心論」の引証経論を省略し、 新たに若干の加筆をなした略本)、「秘密曼荼羅教付法伝」(密教の成立から伝承された <付法の八祖> の伝記を記すもの)、「付法伝」(伝持の七祖の略伝)、「文鏡秘府論」(文章論) .(「文筆眼心抄」(f文鏡秘 府論 の要略)、「篆隷万象名義」(辞典)などをはじめ、多くの詩文、表白文等も残されています。 このほか大師は弘仁十二年(八二一)の讃岐国満濃池の修築の指導、 一般の人が入学できる綜藝種智院という学校の創建など多くの社会活動をされました。こうした数々の お大師さまのご逝去をわれわれは、特に「入定」と言っています。これは、お大師さまが、なおこの 世にとどまって、私たちを導いてくださる、という信仰から生まれた特別の呼び方です。 |
嵯峨天皇の時代に入り、朝廷の信頼は本格的に密教を学んだ空海へと移った。鎮護国家(ちんご)を仏教 の目的とする当時にあって、天台教学よりも密教の呪力が期待されたのである。 弘仁7年(816)に高野山金剛峯寺の創建に着手。6年後には南都戒壇・東大寺に道場を設立する。 その翌年には平安京の東寺を給されて、真言宗の根本道場を設立した。 朝廷や南都と協調路線をとった。 |
法然上人(1133-1212)は源空上人ともいい、伝記は知恩院蔵の国宝『法然上人行状絵 図』48巻としてよく知られている。 法然は長承2(1133)年4月7日美作国(岡山県)に生まれ、幼名を勢至丸といった。 法然は自力の限界に直面し自らの無力さを問うなかで、再び戻った黒谷の報恩蔵で善導 大師(613-681)の『観無量寿経疏』の中にある「一心専念弥陀名号、行住座臥不問時節 久近、念々不捨者、是名正定之業、順彼仏願故(一心に専ら弥陀の名号を念じて、 の本願の深意に出会い、決定的な回心を経験した。称名に徹すること、このことから弥陀 の本願に信順するという経験の本質は、古き自己が死して新しき自己が蘇る宗教的転換 承安五年の春、生年四十三、たちどころに余行をすてて一向に念仏に帰し給にけり 法然撰述とされる建久9 (1198)年撰の『選択(せんちゃく)本願念仏集』(以下『選択集』)は とあり、「正定の業とは、即ち是れ仏名を称するなり。名を称すれば必ず生を得、佛の本願に 法然の死後、華厳宗の明恵上人(1173-1232)は『摧邪輪(ざいじゃりん)』で法然の教えを 最晩年の著述の『一枚起請文』には「一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無知ともが らにおなじくして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし」と記し、法然の念仏 法然は、念仏停止(ちょうじ)の禁圧や土佐配流の咎めなど受けて波乱の晩年をすごした。 |
武内宿祢は景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇の五朝に都合224年間にわたって仕えた。 我が国最初に「大臣」の称を与えられた。(成務天皇によって抜擢された) 神功皇后を補佐して北九州に出陣し活躍した。幼少の応神天皇を抱く姿は五月の端午の節句に掲げる幟(のぼり)の絵柄となっている。 仁徳天皇55年春因幡国の亀金岡に双履(ぞうり)を遺し、360歳で隠れたたとされる。 宇倍神社⇒ 葛城氏⇒⇒⇒ 武内宿祢は蘇我氏、葛城氏、巨勢氏などの多くの中央豪族の祖先とされた伝説上の人物である。 波多野八代宿祢(はたのやしろのすくね・波多氏祖) 巨勢雄柄宿祢(こせのおがらのすくね・巨勢氏祖) 蘇我石川宿祢(そがのいしかわまろのすくね・蘇我氏・石川麻呂祖) 平群木莵宿祢(へぐりのつくのすくね・平群氏祖) 紀角宿祢(きのつぬのすくね・紀氏・坂本氏祖) 葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ・葛城氏・王手氏祖) 若子宿祢(わくごのすくね・江沼氏祖) |
|
畝火山口神社に掲げてある 神功皇后、武内宿祢、 応神天皇(抱かれて赤子)の図 |
重源
源頼朝や後白河法皇を後ろ盾にした。 治承4年(1180)12月28日。平清盛の命を受けた息子・重衡(しげひら)による火攻めで、東大寺・興福寺の境内は壊滅的打撃を受けた。 8ヶ月後、61歳の重源が東大寺の復興を担う造営勧進に任命される。高齢だが、武家や貴族に深い人脈を持ち、壮年期に中国・宋で先端の建築を吸収してきた技術通でもあった。 焼き討ちから4年後元暦2年(1185)3月7日、壇ノ浦の戦いの直前(元暦2年3月24日)頼朝は米1万石、大仏造像に必要な砂金1千両を重源に送った。 治承四年(一一八〇)に平重衡の兵火にかかって、大仏殿をはじめ主要建物の多くを失った東 重 源(一一二一~一二〇六)である。彼のその偉大な功績をたたえて、おそらく本像は造られた 上人を目のあたりにして造ったものか、あるいは亡くな問って後間もない頃の作か、そのいず この英僧の肖像は、ほかに兵庫· 浄土寺、三重·新大仏寺、山口·阿弥陀寺など、重源ゆかりの |
|
念仏堂
平家の焼き打ちによって伽藍の大半が焼失した東大寺。 平安末期から鎌倉初期にかけて復興に力を尽くしたのが、重源上人(1121~1206)だ。朝廷から勧進職を命じられたのは61歳の時。各地を回って寄付を募り、大仏殿 の再建を果たした。 大仏殿のすぐ東「猫段」と呼ばれる長い石段を上った先の高台に、重源上人ゆかりのお堂が立ち並ぶ。朱塗りの念仏堂もその一つ。普段も参拝者が入ることができる。鎌倉時代に建てられ、もとは地蔵堂と呼ばれた。堂内には重源上人や仏師らを追悼するために作られたという地蔵菩薩坐像がある。像高約220 cm。胎内には小さな地蔵が収められており、重源上人が持ち帰った「夜泣き地蔵」だとする説も伝わる。念仏堂のまわりには、重源上人坐像をまつる俊乘堂や、もとは重源上人の御影堂だった行基堂が立つ。 |
|
重源は東大寺再興の勧進や布教活動の拠点として近畿、山陽の7ヵ所に別所を設置し、阿弥陀如来をまっつた。その一つに播磨別所の浄土寺がある。 |
|
ちょうげん重源 (1121〜1206)鎌倉初期の浄土宗の僧。俊乗房しゆんじようぼう・南無阿弥陀仏と号す。密教を学んだのち,法然から浄土教を学び諸国を遊行。三度入宋したといわれる。東大寺再建のための大勧進職に任じられ,天竺様式をとり入れた大仏殿を完成。民衆の教化・救済,また架橋・築池などの土木事業にも尽くした。法然⇒ 大辞林 第三版 |
大仏殿の西に、華厳宗大本山の東大寺が浄土宗とも関係が深いことを示すお堂が立つ ている。浄土宗の開祖、法然上人( 1133~1212)をまつった指図堂だ。 本尊は法然上人の画像で、手に念珠をかけて合掌する姿が描かれている。草履を履い ており、各地を行脚している様子とみられる。 鎌倉期に東大寺を復興した重源上人は浄土信仰にあっく、自らを「南無阿弥陀仏」 と称して阿弥陀仏信仰を広めたとされる。念仏による浄土信仰を広めていた法然上人は 重源上人の招きに応じ、再建途上の東大寺で浄土三部経を講じたという。 当初、東大寺復興の勧進職に推されたのは法然上人だったという。しかし、法然上人 が辞退。代わりに推挙した重源上人が勧進職に就任し、復興の指揮を執ったことが「指 図」の名前の由来とする説がある。一方、江戸期の東大寺復興の際、大きな板に描かれ た大仏殿の設計図面(指図)がこのお堂にかけられていたため、とも伝えられる。 お堂はその後、大風で倒壊したが、江戸末期に浄土宗関係者の願いを受け、再建され た。堂前には「圓光大師(法然)二十五霊場」の石標が立ち、今も浄土宗信者らの参拝が絶 えない拝観は土曜、日曜のみ可。 |
江戸期の東大寺復興にあたり、公慶上人は大仏殿西側に勧進所を設けた。その中に |
825~80、才能豊かで稀代の美男子、恋愛が数多く描かれた伊勢物語のモデルに抜擢される。 右馬頭、右近衛中将、蔵人頭を歴任し、六歌仙、三十六歌仙として古今和歌集に30首も選ばれる歌詠みの才を持ち、しかも美男子。 恋愛が多く描かれている伊勢物語は彼の人生か題材とされる。 |
柿本人麻呂は、斎明天皇の御代(660頃~720頃)の飛鳥時代の歌人。 名は人麿とも表記される。後世山部赤人とともに歌聖と仰がれ、三十六歌仙の一人にも選ばれている。 天武天皇から文武天皇の御代、宮廷で活躍し多くの歌を遺している。 人麻呂は現在の櫟本町に居住し、、姓氏録には和珥氏の一族と記されている。 天照の誕生⇒⇒⇒ |
||
長歌19首、短歌75首が掲載されている万葉集第一の抒情歌人、また山部赤人と並び歌聖と讃えられる天才。しかし、その独特の言葉やリズムはどのようにして身についたかなど、その人生は未だ謎に包まれており、生地と伝わる櫟本にも、和邇下神社の西に建てられた歌碑が残るのみ。 万葉集は、奈良時代後半に成立した現存最古の歌集。編者は大伴家持で、約4500首もの歌が20巻になっている。 今のように仮名が無い時代に、漢字だけで、日本語の歌を表現することは大変難しいことであった。人麻呂は、漢字の音や意味をうまく使いこなし、歌の表現 を豊かに広げていった。音声で歌いつがれた和歌を文字化した先駆者、達人であった。 |
||
青山 茂先生の講義 1柿本氏 新撰姓氏録 大和皇別 「柿本朝臣=大春日朝臣と同祖。天足彦国押人命の後也。敏達天皇の御世、家門に肺樹あり、為に柿本臣氏となす」 柿本臣 爰(さる)。人麻呂の父か?親族か? 『大春日臣・膳臣大宅臣・栗田臣・小野臣・櫟井臣・柿本臣…凡そ五十二氏に姓を賜ひて朝臣と日ふ』 2生存時代(作歌から) 万葉集2-167 170 『日並皇子尊(草壁)の殯宮の時、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首…』 草壁皇子=天武天皇の皇子。持統三年(689)薨。 万葉集2-196.198 『明日香皇女木缶の殯宮の時、柿本朝臣人麻呂の作る歌……』 明日香皇女=天智天皇の皇女。文武四年(700)薨。 万葉集2-146 『大宝元年(701)辛丑、紀伊国に幸しし時、結び松を見る歌…」 (人麻呂歌集) 3死に臨む時の歌 (何処で亡くなったか) 万葉集2-223 『柿本朝臣人麻呂、石見国に在りて臨死らむとする時、自ら傷みて作る歌 「鴨山の岩根しまけるわれをかも知らにと妹が待ちつつあらむ」』 慶雲四年(710)疫病説、和鋼初年、平城遷都後等の死亡説。 鴨山・石川の所在地=石見·大和·河内。 4誕生地(何処で生まれたか) 和爾氏の同族(柿本氏·春日氏·櫟井氏・小野氏·大宅氏)の本貫地。 柿本寺一延久二年坪付·柿本宮愛茶羅 人麻呂の墓 柿本朝臣人麻呂勘文(寿水三年(1184)顕昭勘註了) 『墓所事。清輔語りて云ふ、大和国に下向の時、彼国の古老民云、添上郡石上寺の傍に杜あり、春道社と称す、その杜中に寺有り、 柿本寺と称す。是人丸の堂也。其の前の田中に小塚あり、人丸墓と称す(中略)。清輔これを聞き、祝を以て行向の虚、春道社は 鳥居あり。柿本寺は只礎ばかり也(中略)私按。人丸は石州に於いて死亡すると雖も、その屍和州に移す欺、其の例惟多し』 袋草紙(省略)京歌壇で人丸墓を決める。 5 歌塚 無名抄 『人丸の墓は大和にあり、はつせへ参る道也。人丸の墓といひて尋るには、知れる人もなし。 かの所には、うたつかとぞいふなる』 現在の「歌塚」。享保十七年(1732)歌人森本宗範建立。宝鏡尼(後西天皇皇女)揮毫・百拙元養(佛国寺)由緒書。 6 ワニ周辺の万葉集 万葉集2997 『石上布留の高橋高々に 妹が待つらむ夜そふけにける』 万葉集3289 『御佩を剣の池の 蓮葉に渟れる水の 行方無みわがする時に 逢ふべしと逢ひたる君を な寝そと母聞こせとども わが心清隅の池の 池の底われはわすれじ ただに逢ふまでに』 書紀歌謡94 『石上布留をすぎて 薦枕高橋すぎ 春の日春日をすぎ 物多に大宅すぎ 妻隠る小佐保をすぎ 玉笥には飯さへ盛り 玉怨に水さへ盛り 泣きそぼち行くも 影媛あわれ』 7高橋 新撰姓氏録 左京皇別 『天武十二年膳臣を改め「高橋朝臣」を賜ふ』(本貫地添上郡高橋) 東大寺文書 『添上郡高橋川』を改修して西北に流路を変更す。 近世文書 『添上郡宮郷櫟本・.楢・.森本…山郷高橋山243町5反5畝…』 |
||
和珥氏(わに)(和珥・和邇・,丸邇・.丸珥・丸・.和丹・.和安) 古事記 孝昭天皇 「帯日子国押人命(孝昭天皇)は天下治めす也。兄天押帯带日子命は春日臣・大宅臣・,粟田臣・小野臣・柿本臣・壹比 韋臣・大坂臣・阿那臣・多紀臣・羽栗臣・知多臣・牟邪臣・都怒山臣・伊勢飯高君・.壹師君・近淡海国造の祖也」 日本書紀 天武天皇十三年(684) 十一月朔 「大三輪君・大春日臣…膳臣…大宅臣・粟田臣…小野臣・櫟井臣・柿本臣…凡そ五十二氏に姓を賜ひて朝臣と日ふ」 複姓=「春日和珥」「春日小野臣」「春日粟田臣」。「和珥氏」から「春日氏」へ。代表者一族の首長・.族長勢力の移動。継体 欽明朝。
春日臣=物部渋川攻撃軍の一隊。 大宅臣軍=推古三十一年小德・新羅征討副将軍。 粟田朝臣真人=律令撰定、遣唐大使、参議、中納言、太宰帥、正三位。 小野妹子=遣隋使。 小野朝臣毛人=太政官兼刑部大卿、天武十四年墓誌。 小野朝臣毛野=遣新羅使、参議朝政、中務卿、従三位中納言。 柿本朝臣佐留・人麻呂。
|
||
|
||
和珥氏(わに) 臣姓豪族 始祖:天足彦国押人命(あまたらしひこおしひと・考昭天皇皇子) 開化・応神・反正・雄略・仁賢・継体・欽明・敏達など5~6世紀に大王家との婚姻関係を継続 日本書紀 神宮皇后紀 武内宿祢・和珥臣の祖武振熊に命じて、数万の衆を率いて、忍熊王を撃つたしむ。 欽明朝以降、ワニ氏の名が見えず→春日氏に改姓し本拠地を移転したか。 春日氏を中心に大宅・粟田・小野・柿本など16氏族が分立、巨大豪族に。 日本書紀天武紀 ワニ部臣君手の活躍 推古朝、小野妹子が遣隋使となる。 柿本人麻呂、万葉歌人として活躍。 古道とワニ氏 山の辺の道・上ツ道・・・南北方向 龍田道・都祁山道・・・東西方向 東は都祁から伊賀・伊勢に至る。 交通の要衝としての櫟本地区を支配する豪族として、ワニ氏が成立。 |
||
和理氏(わにうじ) 大和の古代豪族の一つ。孝昭天皇の皇子天足彦国押人命(天押帯日子命)の後裔と称する。丸邇·和爾とも 表記する。本拠は和爾(奈良県天理市和爾)の地、やがて北方の春日(奈良市春日野町以南、白毫寺町付近) の地方に発展し、氏名が春日となる。姓は臣。六世紀ごろ以降、春日氏のほか大宅·粟田小野·柿本など多く の氏族が分立し、あるいは非血縁氏族の同族化がすすみ巨大豪族に成長。開化天皇は和珥臣の遠祖姥津命 の妹、姥津媛を妃としたと伝え、応神天皇は和珥臣の祖日触使主の女、宮主宅媛を妃とし、反正天皇は丸邇之 許碁登臣の女、都怒郎女を妃とし、雄略天皇は丸遡之佐都紀臣の女、哀秤比売を妃とし、さらに仁賢天皇は 丸邇日爪臣の女、糠若子郎女を妃としたと伝えているように、特に五世紀から六世紀にわたって和珥氏は大和 政権の王家と婚姻関係をつづけ、大和の在地豪族としての勢力を誇っていた。佐紀盾列古墳群にある四~五 世紀築造の前方後円墳は和珥氏の墳墓ともいわれている。後世、かつて和(珥和爾)部の伴造氏族であったと 考えられる和珥部臣が栄え、壬申の乱の時の功臣、和珥部臣君手がいる。臣姓の和珥部のほか無姓の和邇 部(丸部)氏が、摂津·尾張·三河·伊豆·甲斐·近江美濃·若狭·越前·加賀·丹波·因幡·出雲·播磨·備中 周防·讃岐などの諸国に分布していた。(佐伯有清) 国史大辞典 第十四巻 |
||
柿本氏 柿本氏は、和珥氏の流れをくむ氏族の一つと考えられている。古事記によると第5代孝昭天皇の皇子の天押帯日子(あめおしたらしひこ)命を祖とし、春日、大宅、粟田、小野などと同族関係にあり、新選姓氏録には敏達天皇代に家門に柿の木のあったことから柿本の名がおこったと記されている。天理市櫟本町にある和邇下神社の境内に柿本氏の氏寺と伝わる柿本寺跡がある。柿本氏から人麻呂がでている。 |
||
人麻呂が大きな政治的な役割を持つのは持統3年からで、つまり持統天皇の権力確立の時代である。この持統天皇に人麻呂は寵愛され活躍する。この持統天皇の神格化が記紀 神話形成に一役買ったと思われる。そして持統3年から文武4年まで、彼の全盛期であった。 しかし、持統天皇の権力が衰えるや人麻呂の力も衰える。そして不比等権力に嫌われて追放流罪になり、そして最後に石見で水死刑になったと思われる。 |
||
なぞの多い人麻呂 古代の文学者といえば、まず第一に「柿本人麻呂」であります。その墓に「歌塚」があり人麻呂を 祭る寺「柿本寺」もありました。この柿本寺も東大寺の末寺であったし、また在原業平ゆかりの「在 原寺」も存在したのであります。 人麻呂は、持統·文武両朝に仕え、万葉歌人·宮廷歌人として、素晴らしい歌の数々を遺し今日も 多くの人々に感動を与え続けています。しかし、人麻呂ぐらい謎の多い歌人はない。生没年未詳、生 まれたところも亡くなった場所も不明。出身地も大和·近江·石見(島根県)と定かでない。身分も 低く、はじめ舎人として、草壁皇子(日並皇子)に仕え、のちに地方官として各地を廻ったらしいと いうくらいで、官職も伝わっていません。 しかし、墓だけが、ここ櫟本町の和爾下神社のほとりに存在する「歌塚」であります。したがって 最近は、人麻呂は歌俳優であった。万葉集に遺る数々の名作は、歌劇(物語り)の詞章であったとい う説さえ言われています。 |
||
柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ) 生没年不詳 万葉歌人。大化改新(六四五)以降に生まれ奈良遷都(七○ー)前後に没。慶雲四年(七○七) 石見国で病死したともいう。生地は大和·近江·石見など諸説があり、墓所の鴨山も大和·石見両説がある。 官歴などについてもほとんど不明である。和歌全史を通じての最高峰と称せられる。すでに万葉時代に模範と 1て仰がれたが、のちに歌聖といわれ、さらに神として祭られるに至った。『万葉集』中に人麻呂作と明記された ものは、或本の歌を含め長歌十八首、短歌六十六首。人麻呂以外の歌も載せ、『万葉集』に採られている 『柿本朝臣人麿歌集』には長歌·施頭歌·短歌合計三百六十五首。作歌は天智あるいは天武天皇時代に 始まったと思われるふしもあるが、年代のわかる最初の作は持統天皇三年(六八九)のもの。人麻呂以前の 『万葉集』の和歌は歌謡から転生したばかりの若々しいすがすがしさを共持つが、人麻呂はこれを成熟させ完成 させた。長歌では旬の音数を五·七に整え、段落を少なくして連綿と続け、末尾を五七…七の形にし、一首の長さ を著しく増し、しかも長大化によって緊張を失うことなく、感動のみなぎったものとした。枕詞·序詞·対句の豊富な 使用によって比類のない調べを生んでいるのも彼の特徴で、伝統を受けつつ新しい創造を遂げている。短歌に おいても沈痛重厚で弾力のある調べは前後にたぐいがない。歌材は皇室関係,恋愛·自他の死·旅·自然と 広範にわたるが、対象と運融する原始の心情に近いものを、当代開化の技法によって表現している。この前後 に類のない作品は、彼の資質が千載一遇ともいうべき時代に巡り合うことによって生み出された。彼が六位以下で あったことは歌の題詞によって知られるが、国司ぐらいにはなり得たかも知れない。柿本氏は「新撰姓氏録」に 大春日朝臣と同祖で天足彦国押人命のあととあり、『日本書紀』天武天皇十三年(六八四)十一月戊申(一日)条 に姓を臣から朝臣にされたとあるが、顕要の地位に上った者はない。(五味智英) 国史大辞典 第三巻 |
慈恵大師良源(元三大師・がんさんだいし)
比叡山中興の祖、第18代天台座主慈恵大師良源(じえ・912~985)。良源は霊験に優れていたとされ、「鬼大師」や「角大師」として信仰され、正月3日に亡くなったため、「元三大師(がんさん)」の別名で親しまれている。 天台系円淨宗の大本山、蘆山寺(廬山天台護寺)を938年に寺を開いた。 お大師さんといえば真言宗では弘法大師だが、天台宗では元三大師。 |
|
912~85、名は良源(りょうげん)という。「元三}というのはこのひとが正月三日に亡くなったことから、弟子たちがそのように呼ぶようになっただけで、正式の諡号(しごう)は慈慧大師(じえい)である。 近江浅井郡の小さな豪族木津氏に身を寄せていただけともいう。父はわからない。 幼くして母に連れられ、坂本の坊を訪ねて僧になった。 この人は19年という長い期間、天台宗延暦寺の座主職にあった。その晩年、大きな鏡の前で禅定に入っているうちに、鏡にうつっている元三大師の姿が、骨ばかりの鬼になった。弟子たちのなかで絵心のある明普阿闍梨(みょうぶあじゃり)という者がすばやく写し取り、あとで元三大師に見せた。 ―――これを版木に刻んで刷れ。 と元三大師がいったのが古くから疫病よけの護符とされる「角大師(つの)」である。 元三大師は円仁がひらいた横川の後継者で、大いに横川教学を充実したといわれる。 かれの横川の本拠は「四季講堂」で、晩年はつねにここで坐禅をしていた。立ち去っても壁に良源の影が残っている。弟子たちが騒ぎ、やがて尋禅阿闍梨(じょうぜん)という絵の達者が壁の影を丁寧に写しとったところ、写しおえるころに壁から影が消えた。 この絵は良源の死後、四季講堂の本尊になった。 街道をゆく 元三大師 司馬遼太郎 より |
元三大師の銘のある燈籠 地図 |
真言律宗総本山西大寺の中興・興正菩薩叡尊(1201~90) 叡尊は鎌倉中期の南都を背負った戒律と真言の傑僧とされる。奈良時代に称徳天皇が創建した西大寺は、平安時代になって徐々に衰微。それを復興して真言律の根本道場に整えたのが叡尊である。 少年時代に出家、京都の醍醐寺や高野山などで修業、30代半ばで西大寺に入った。空海の真言密教、鑑真の戒律、行基の社会事業などを学んで「興法利生」を願い、戒律と密教を両輪にして活動した。 戒師の絶えた南都で唐招提寺中興の覚盛(かくじょう)らと戒師不在の自誓受戒を断行、戒律復興の旗手になった。幕府のあった鎌倉へも赴き、高弟の極楽寺忍性らと南都仏教の宣揚に努めた。没後の後伏見天皇から興正菩薩の名号(みょうごう)を受けた。 西大寺には、多数の弟子が80歳の師を祝って造った寿像(生前像)があり、叡尊に寄り添った奈良の仏師集団善派の大仏師善春が写実に徹して彫った。 大和には叡尊ゆかりの名刹が多い。百毫寺、福智院、般若寺、不退寺、海龍寺、法華寺、長弓寺、長福寺があり、国宝や重文の数々の文化財を所蔵している。 |
京都・醍醐寺などで主に密教を学んだ叡尊は、正しい悟りに至るには戒律を守る必要があると気づき、お釈迦様の教えに戻ろうと呼びかける。奈良時代には東大寺と並び立つ大寺院でありながら、平安時代にさびれた奈良・西大寺を、密教と戒律の道場として復興。他に600ものお寺を修理した。 戒律の肉を食べない、妻をめとらないといったことに立ち返り、弟子の忍性(にんしょう・1217~1303)とともに、貧しい人や病気の人を助けた。 叡尊は死後、興正菩薩の号を贈られた。 |
義淵僧正(ぎえんそうじょう)
奈良時代の法相宗の僧。 義淵は奈良県明日香村東部に居住した百済系渡来氏族・市往氏(いちゆき)の出身。父親が観音菩薩に祈って拾い子として授かり、それを吉事として天智天皇が養育したと伝えられる。 出家後は日本法相宗第三伝の智鳳(ちほう)に師事、大宝3年(703)に当時の僧階最上位の僧正に任ぜられた。神亀5年(728)に入寂、市往一族は義淵の功によって聖武天皇から岡連(おかのむらじ)の姓(かばね)を賜った。 岡寺(龍蓋寺・りゅうがいじ、明日香村)や龍門寺(吉野町)、龍福寺(天理市)など五箇龍寺を開いた。現存するのは岡寺だけで、龍門、龍福は廃寺となり他は縁起も定かでない。 義淵には七上足(しちじょうそく)と呼ばれる7人の高弟がいた。玄昉(げんぼう・入唐僧)、行基(社会事業や東大寺創建に献身した)、良弁(東大寺開山)、隆尊(りゅうそん)、宣教(せんきょう)などがおり、七上足以外にも道慈(奈良大安寺の造営を主導した)、道鏡らがおり、孫弟子以下には実忠(東大寺修二会の創始者)、勤操(ごんそう・三輪の学僧)、玄賓(げんぴん・法相の清僧、玄賓庵)らが続いた。 |
丈6は1丈6尺、立像だと485cm 坐像はその半分。 丈6は大仏の最小単位とされ、古寺の大伽藍などに多く作られた。 100m=33丈 1丈=10尺 丈6=16尺 1尺→0・303m 丈六の大仏は 丈6=16尺 16×0.303m→4.85m 方広寺の大仏であった6丈3尺は、 63尺×0.303→19m |
方丈:1丈四方、四畳半ほどの広さ。 |
解脱上人貞慶(じょうけい 1155~1213)は奈良・興福寺の学僧だったが、僧侶の堕落に嫌気がさして隠遁。しかし、その著作「愚迷発心集(ぐめいほっしんしゅう)には「何とも自分は頼りない。でも行動を起こすなら今しかない」とかかれている。 貞慶は8歳で法相宗の中核の奈良・興福寺に入り、11歳で出家。26歳の時には、平氏の南都焼き討ちを経験した。同寺で最重要の法会、維摩絵(ゆいまえ)の竪義(りゅうぎ・口頭試問)に28歳で合格するなど優秀だったが、39歳で笠置寺に隠れた。武力を背景にした僧兵や下級僧侶らの実力行使が相次ぐ仏教界に見切りをつけたのではないかといわれる。 しかしその後も、東大寺の復興の中心だった重源らと交流。興福寺北円堂の再興に動いたり、戒律復興にも尽力するなど、また、唐招提寺の重要な法要の一つ、釈迦念仏会を興すなど精力的に活動した。51歳の時には、浄土宗の宗祖・法然が広めた専修念仏を批判する「興福寺奉状」を記し、朝廷に取り締りを求めた。 貞慶が生涯を終えたのは海住山寺であった。法然⇒ |
ももやまじだい 【桃山時代】 一六世紀後半の豊臣秀吉が政権を握っていた時代。秀吉が築いた伏見城の地をのちに桃山と呼んだことに由来する。 大辞林 第三版 |
あづちももやまじだい 【▽安土桃山時代】 織田信長・豊臣秀吉が政権を掌握していた時代。すなわち,信長の入京(1568年)から秀吉の死(1598年)まで,または関ヶ原の戦いの1600年までの約30年間。信長の居城安土城と秀吉の居城伏見城(桃山城とも)にちなむ名称。全国的な軍事統合が進むとともに,兵農分離,石高制が確立して,日本社会の中世から近世への移行が推進された。文化的には社寺や城郭建築,障壁画に多くの傑作を生み,茶の湯が大成された。織豊しよくほう時代。→桃山時代 大辞林 第三版 |
栄西(えいさい・ようさい、1141~1215)臨済宗を伝えた。 東大寺復興は重源と親しい栄西に引き継がれた。 建永元年(1206)重源の後継者として東大寺大勧進職に任命されて大いに手腕をふるった。 栄西は備中吉備津宮の神職の家に生まれ,14歳で比叡山に上り葉上坊と号し,のち天台密教の奥義を極めて葉上流の一派を起こした。28歳で入宋,禅に関心を深めた。帰国後は密教の研究を続け,
47歳のときび度入宋,虚庵懐敞(こあんえじょう)に臨済禅を学び,4年後帰国して北九州に禅を広めた。1202 (建仁2)年将軍賴家の援助で五条以北,鸭川以東400m
四方の地を寄進され,3年後に念願の仏寺 を建立した。これが建仁寺で,土御門天皇は勅願寺として時の年号をとって建仁寺の号を与えた。 |
(寧波・三江口の)河岸の河港の岸に立つと、血のさわぎをおぼえざるをえない。 奈良末期にうまれて平安初期に入唐した最澄や空海もこの河港を知っていたし、平安京から鎌倉期にかけて若い僧の入宋留学(につそう)が流行したころ、 日本臨済宗の祖になった栄西も、この河港に上陸し、私どもが立っている場所の土を踏んだ。 日本の平安末から鎌倉期にかけて、明州(寧波)の町を歩いていれば、日に一人や二人の日本僧に出遭うといった状況でなかったか。明州に上陸した栄西が、西南のかなたの四明山や丹丘などを歩いているとき、日本僧である俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)に出遭ったという。平安末期の1168年、栄西28歳、重源48歳のときである。重源は日本ですでに名僧といった存在だったろうから栄西はむろん相手について多少しるところがあったはずである。 「ともに天台山へゆこうではないか」 と、重源に誘われ、よろこんで従った。 街道をゆく 船に乗る 司馬遼太郎 |
仏頭について
興福寺の収蔵庫に納まっている仏頭はもと山田寺の本尊だった。興福寺が治承年間、兵火で東金堂が炎上後、文治3年(1187)に山田寺から薬師三尊を白昼堂々奪って東金堂の本堂としてしまった。(玉葉)。 その後、雷火で炎上して本尊の行方が久しく分からなかった。ところが昭和12年9月7日、興福寺東金堂の解体修理の祭、本尊台座をとりのけると、この 仏頭がでてきて大変驚いている。仏頭は純忠の人石川麻呂の面貌(めんぼう)を思わせるかのような豊かな、しかもいたましい表情をたたえている。500kg余の我が国最古最高の金銅仏とされる。 山田寺⇒ 興福寺⇒ |
一の宮は民間でつけられた社格の一種である。由緒正しく最も信仰のあつい神社で、その国で 第一位とされた神社のことである。 一の宮と総社⇒⇒⇒ 建御名方が築いた新王国⇒⇒⇒ |
関東地区の一の宮 | |||||
神社名 | よみかた | 国名 | 都道府県 | 地図 | |
鹿島神宮 | かしま | 常陸国 | 茨城県 | 地図 | |
香取神宮 | かとり | 下総国 | 千葉県 | 地図 | |
玉前神社 | たまさき | 上総国 | 千葉県 | 地図 | |
安房神社 | あわ | 安房国 | 千葉県 | 地図 | |
洲崎神社 | すのさき | 千葉県 | 地図 | ||
氷川女體神社 | ひかわにょたい | 武蔵国 | 埼玉県 | 地図 | |
秩父神社 | ちちぶ | 知知夫国 | 埼玉県 | 地図 | |
寒川神社 | さむかわ | 相模国 | 神奈川県 | 地図 | |
鶴岡八幡宮 | つるおか | 神奈川県 | 地図 | ||
浅間神社 | あさま | 甲斐国 | 山梨県 | 地図 | |
一之宮貫前神社 | いちのみやぬきさき | 上野国 | 群馬県 | 地図 | |
宇都宮二荒山神社 | うつのみやふたあらやま | 下野国 | 栃木県 | 地図 | |
日光二荒山神社 | にっこうふたらさん | 栃木県 | 地図 | ||
東海地区の一の宮 | |||||
敢國神社 | あえくに | 伊賀国 | 三重県 | 地図 | |
椿大神社 | つばきおおかみyしろ | 伊勢国 | 三重県 | 地図 | |
都波岐奈加等神社 | つばきなかと | 三重県 | 地図 | ||
伊射波神社 | いさわ | 志摩国 | 三重県 | 地図 | |
真清田神社 | ますみだ | 尾張国 | 愛知県 | 地図 | |
大神神社 | おおみわ | 愛知県 | 地図 | ||
砥鹿神社 | とが | 三河国 | 愛知県 | 地図 | |
南宮大社 | なんぐう | 美濃国 | 岐阜県 | 地図 | |
飛騨一宮水無神社 未 | ひだいちのみやみなし | 飛騨国 | 岐阜県 | 地図 | |
三嶋大社 | みしま | 伊豆国 | 静岡県 | 地図 | |
富士山本宮浅間大社 | ふじさんほんぐうせんげん | 駿河国 | 静岡県 | 地図 | |
小國神社 | おくに | 遠江国 | 静岡県 | 地図 | |
事任八幡宮 | ことのまま | 静岡県 | 地図 | ||
諏 訪 大 社 |
諏訪大社上社本宮 | すわたいしゃ | 信濃国 | 長野県 | 地図 |
諏訪大社上社前宮 | すわたいしゃ | 信濃国 | 長野県 | 地図 | |
諏訪大社下社春宮 | すわたいしゃ | 信濃国 | 長野県 | 地図 | |
諏訪大社下社秋宮 | すわたいしゃ | 信濃国 | 長野県 | 地図 | |
北陸地区の一の宮 | |||||
若狭彦神社(上社) 若狭姫神社(下社) |
わかさ | 若狭国 | 福井県 | 地図 地図 |
|
気比神宮 | けひ | 越前国 | 福井県 | 地図 | |
白山比咩神社 未 | しらやまひめ | 加賀国 | 石川県 | 地図 | |
気多神社 | けた | 能登国 | 石川県 | 地図 | |
高瀬神社 | たかせ | 越中国 | 富山県 | 地図 | |
気多神社 | けた | 富山県 | 地図 | ||
雄山神社 | おやま | 富山県 | 地図 | ||
射水神社 | いみず | 富山県 | 地図 | ||
弥彦神社 未 | いやひこ | 越後国 | 新潟県 | 地図 | |
居多神社 | こた | 新潟県 | 地図 | ||
度津神社 | わたつ | 佐渡国 | 新潟県 | 地図 | |
近畿地区の一の宮 | |||||
賀茂別雷神社 (上賀茂神社) |
かもわけいかづち | 山城国 | 京都府 | 地図 | |
賀茂御祖神社 (下鴨神社) |
かもみおや | 山城国 | 京都府 | 地図 | |
出雲大神宮 | いずもだいじんぐう | 丹波国 | 京都府 | 地図 | |
元伊勢 籠神社 | もといせこの | 丹後国 | 京都府 | 地図 | |
建部大社 | たけべ | 近江国 | 滋賀県 | 地図 | |
大神神社 | おおみわ | 大和国 | 奈良県 | 地図 | |
枚岡神社 | ひらおか | 河内国 | 大阪府 | 地図 | |
大鳥神社 | おおとり | 和泉国 | 大阪府 | 地図 | |
住吉大社 | すみよし | 摂津国 | 大阪府 | 地図 | |
坐摩神社 | いかすり | 摂津国 | 大阪府 | 地図 | |
日前神宮・國縣神宮 | ひのくま・くにかかす | 紀伊国 | 和歌山県 | 地図 | |
伊太祁曽神社 | いたきそ | 和歌山県 | 地図 | ||
丹生都比売神社 | にうつひめ | 和歌山県 | 地図 | ||
出石神社 | いずし | 但馬国 | 兵庫県 | 地図 | |
粟鹿神社 | あわが | 兵庫県 | 地図 | ||
伊和神社 | いわ | 播磨国 | 兵庫県 | 地図 | |
四国地区の一の宮 | |||||
伊弉諾神宮 | いざなぎ | 淡路国 | 兵庫県 | 地図 | |
大麻比古神社 | おおあさひこ | 阿波国 | 徳島県 | 地図 | |
田村神社 | たむら | 讃岐国 | 香川県 | 地図 | |
大山祇神社 | おおやまづみ | 伊予国 | 愛媛県 | 地図 | |
土佐神社 | とさ | 土佐国 | 高知県 | 地図 | |
中国地区の一の宮 | |||||
中山神社 | なかやま | 美作国 | 岡山県 | 地図 | |
吉備津彦神社 | きびつひこ | 備前国 | 岡山県 | 地図 | |
石上布都魂神社 | いそのかみふつみたま | 岡山県 | 地図 | ||
吉備津神社 | きびつ | 備中国 | 岡山県 | 地図 | |
吉備津神社 | きびつ | 備後国 | 広島県 | 地図 | |
素戔嗚神社 | すさのお | 広島県 | 地図 | ||
厳島神社 | いつくしま | 安芸国 | 広島県 | 地図 | |
玉祖神社 | たまのおや | 周防国 | 山口県 | 地図 | |
住吉神社 | すみよし | 長門国 | 山口県 | 地図 | |
倭文神社 | しとり | 伯耆国 | 鳥取県 | 地図 | |
宇倍神社 | うべ | 因幡国 | 鳥取県 | 地図 | |
出雲大社 | いずも | 出雲国 | 鳥取県 | 地図 | |
熊野大社 | くまの | 出雲国 | 鳥取県 | 地図 | |
物部神社 | もののべ | 石見国 | 島根県 | 地図 | |
水若酢神社 | みずわかす | 隠岐国 | 島根県 | 地図 | |
由良比女神社 | ゆらひめ | 島根県 | 地図 | ||
九州・沖縄地区の一の宮 | |||||
住吉神社 | すみよし | 筑前国 | 福岡県 | 地図 | |
筥崎宮 | はこざき | 福岡県 | 地図 | ||
高良大社 | こうら | 筑後国 | 福岡県 | 地図 | |
天手長男神社 | あめのたがなお | 壱岐国 | 長崎県 | 地図 | |
海神神社 | かいじん | 対馬国 | 長崎県 | 地図 | |
宇佐神宮 | うさ | 豊前国 | 大分県 | 地図 | |
西寒多神社 | ささむた | 豊後国 | 大分県 | 地図 | |
柞原八幡宮 | ゆすはらはちまんぐう | 大分県 | 地図 | ||
與止日女神社 | よどひめ | 肥前国 | 佐賀県 | 地図 | |
千栗八幡宮 | ちりく | 佐賀県 | 地図 | ||
阿蘇神社 | あそ | 肥後国 | 熊本県 | 地図 | |
都農神社 | つの | 日向国 | 宮崎県 | 地図 | |
鹿児島神宮 | かごしま | 大隅国 | 鹿児島県 | 地図 | |
新田神社 | にった | 薩摩国 | 鹿児島県 | 地図 | |
枚聞神社 | ひらきき | 鹿児島県 | 地図 | ||
波上宮 | なみのうえぐう | 琉球国 | 沖縄県 | 地図 |
生没年不詳。同じく鎌倉時代を代表する仏師運慶とは兄弟弟子にあたる。「安阿弥陀仏」とも称したため、理知的で端正な作風は「安弥陀様(あんなみよう)」と呼ばれる。東大寺南大門の金剛力士像は、運慶らとの共同制作。 |
仏都・奈良の活力は、近世のこの傑僧が再生したといってよい。元禄、宝永年間に大仏と大仏殿を復興した造東大寺大勧進龍松院公慶(りゅうしょういんこうけい1648~1705)である。時の天皇は上人号を授け、人々は公慶上人と呼んで尊敬した。 東大寺は戦国末期の戦火で焼かれた。復興は德川五代将軍の太平の世とはいえ、簡単」ではなかった。少年僧のころ雨ざらしの大仏に涙した公慶が幕府から大仏修復とその勧進活動の許しを得たのは、37歳の時。そこから鎌倉時代の重源上人に倣った四半世紀に及ぶ巨大事業が始まった。 まず、銅板張りの仮仏頭を鋳造し直し、元禄5年(1692)に開眼供養。続いて大仏殿再建へ。九州~奥州間を勧進行脚し、江戸へは18回も通って将軍家を説き伏せ、多大な支援を取り付けた。 公慶の生涯、とくに終焉は劇的だった。大仏殿完成前の宝永2年(1705)7月12日、江戸で客死したのだ。東大寺の史料には「痢を病みて薨(こう)ず、時に年五十八」とある。 翻ってその年の3月。大仏殿の大屋根を支える大虹梁用(だいこうりょう)の巨松2本が九州・霧島山系で伐採され奈良へ。そして無事に大仏殿の柱上に架けられ、最難関工事をクリアした。翌々閏4月に上棟式、公慶は多数の役人や僧俗を招いて歓喜の大祝宴張った。 その6月。伊勢神宮を参拝した足で幕府への謝礼のため江戸へ。だが、到着後間もなく物心両面で復興を支えてくれた将軍綱吉の母桂昌院が死去。公慶は非嘆にくれ身命を奉じて葬送に臨んだ。 直後に今度は自らが赤痢か食中毒かで倒れた。心身の疲労が極まってか、医療の効なく急逝。 2013-9-28 朝日新聞より 公慶道 重源上人が再建した大仏殿は戦国時代、再び戦火に遭って焼け落ちた。江戸時代に入り、再度の復興に立ちあがったのが公慶上人(1648~1705)だった。 13歳で東大寺の塔頭,大喜院に入り、雨ざらしのままの大仏に心を痛め、大仏殿の再建を決意。幕府の許可を得て復興に取り組んだのは37歳の時だったという。 大仏殿の北東角から北へ約140mの細い小道が延びる。「公慶道」と呼ばれる。 大仏殿再建を胸に、公慶上人が日々、大喜院と大仏との間を行き来したと伝わる道だ。 大仏の修復は果たしたが大仏殿完成の4年前,公慶上人は江戸で病没した。公慶道の突き当たり、大仏殿東脇には再建用の材木を浮かべた長池が残る。 「復興を切に願った公慶上人に思いをはせる、東大寺にとって大切な場所」と、上司さんは話す。 公慶道の横、大仏殿の真裏には講堂跡が広がる。12本の柱が立つ間口11間の巨大な講堂で、それを取り囲むように3面の僧坊が立ち、千人を超す僧侶たちが講義や説教を行っていたという。 |
、
・