法住寺地図

三十三間堂の東隣。
 後白河法皇が院政を執った法住寺の名を残し、
代々後白河陵を管理してきた。
明治維新の際に大興徳院と改名したが、
1955年に再び法住寺に戻った。 
 
 三十三間堂南大門を入った右手に法住寺跡の碑があるが, 法住寺は太政大臣

藤原為光が、娘低子(花山天皇女御)の死を悼んで建立した寺で,1032(長元5)年末に
焼失し, その跡へ後白河天皇が後院として法住寺殿を造営し、, 1161 (永暦2)年に移
り住み後白河院政の拠点となった。七条大路を挟んで大和大路以東,約400m 四方
の広大さであった。
 後白河院は1177(治承元)年五重塔を建立した。翌年清盛は法住寺殿を襲い, 院政
を停止した。次いで1183(寿永2)年木曽義仲が焼討ちし,源頼朝が再典,1192(建久3)年
には一堂を建立して丈六の阿弥陀三尊を安置した。1249 (建長元)年の市中大火で観
音堂と諸仏も延焼,2年後再建にかかり, 1266(文水3)年には盛大な落慶法要が行われ
た。これが現在の本堂(三十三間堂,国宝鎌倉)で、梁間5間·桁行35間,院政期の文化を
示す数少ない遺構である。

 本堂内の本尊千手観音坐像(国宝,鎌倉)は湛慶82歳の作で,全長335cmの大作。