第77代 後白河天皇(ごしらかわ)地図

 
鳥羽天皇(第四皇子)
(まつ)賢門(けんもん)(いん)藤原璋子(しょうし)(藤原(きん)(ざね)の娘)
誕生 …1127年(大治2年)9.11
御名・異称 雅仁(マサヒト)、行真
皇后 藤原(きん)()  
女御 皇太后建春門院平()()、贈皇太后源懿子(イシ)、藤原玲子
立太子 … ――――
即位 …1155年(久寿2年)10.26在位年数 …3年
崩御 …1192年(建久3年)3.13(年齢66才)
皇居 平安宮    年号 (きゅう)寿(じゅ)(ほう)(げん)
在位3年余りで、守仁親王(二条天皇)に譲位、二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽の各天皇五代にわたって、30余年間「治天(ちてん)の君」として院政を敷いた。
源頼朝から「日本一の大天狗」と評され、公家政権を守り抜いた最後の天皇である。
後白河天皇の後見役の位置を占めた藤原信西(通憲)は摂関家の藤原忠通と結び、後白河天皇、守仁親王、忠通による執政体制の構築に腐心した。
鳥羽法皇が崩じると、保元の乱が起こった。天皇方の清盛や義朝らは崇徳上皇らを白河殿に粉砕、上皇は讃岐に流された。
1159年(平治元年)、藤原信頼と藤原信西との確執に端を発した争いは、平清盛の熊野詣のすきに、源義朝・藤原信頼は兵を挙げ、信西を殺害、後白河上皇と二条天皇を皇居に幽閉した。しかし、上皇・天皇ともに脱出し、清盛が義朝・信頼を破り、平家一族が実権を得た。(平治の乱)
平治の乱後後白河院政派と二条天皇親政派の父子対立が激しく、親政は困難を極めた。後白河法皇と平氏の間に軋轢が生じ、清盛は法皇を鳥羽殿に幽閉、院政は停止された。
その後、木曽義仲や源頼朝により、平氏は劣勢になり、後白河法皇は院政を再開した。しかし義仲は法皇と対立、頼朝は義経らを上洛させ義仲を討たせた。法皇は義経らに命じ平氏の追討にあたらせた。
法皇は長命で、神仏への信仰厚く、熊野詣は34回に及んだ。
陵墓名 (ほう)(じゅう)(じの)(みささぎ)   法華堂
所在地 京都市東山区三十三間堂廻り町
蓮華王院(三十三間堂)の東側の法華堂に奉葬、堂の中には法皇の木造が奉安され堂下地中に石槨がある。
堂は西南する一辺約4m四方の規模で、瓦葺切妻造りの様式である。透塀をめぐらし、中央に高麗門を配置する。
法住寺⇒⇒⇒