上醍醐寺地図
上醍醐は醍醐寺発祥の地である。上醍醐には薬師堂と青龍拝殿の2棟の 国宝建築が立つ。 堂の創建は延喜 13年 ( 9 1 3 )のこと。その後朽損が進 み、保安 2年 ( 1 1 2 1 )に再建された。いまでは上醍醐最古の建築で、平安 時代の貴重な遺構である。 創建以来、本尊の薬師如来坐像と脇侍の日光・月光菩薩を安置していた。 しかし、上醍醐は山火事などが多く、保存のため、創建時の仏像は平成 13年 に下醍醐の霊宝館に遷された。平安時代初期の貴重な貞観仏である。 |
2008−8−24午前0時半ごろ准胝観音堂と隣接する休息所が全焼した。 本尊准胝観音座象も焼失した。 准胝観音堂は1939年に火災で焼失し、1968年に再建されたもの。 准胝観音堂⇒⇒⇒焼失前の写真 2008−6−13撮影 |
西国観音霊場11番札所 | |
札所の准胝堂、山道を約1時間程歩く。 落雷が原因とみられる火災で24日未明、焼失した。 お堂が復興するまで、朱印はふもとに近い女人堂(成身院)で行う。 |
概要と特徴 醍醐三宝院より、3kmの参道を登る。西国一の難所だが、途中醍醐味の霊泉に喉を 潤す。山上の準胝堂は昭和42年の再建。 |
醍醐の花見 慶長3年(1598)3月15日、秀吉は一世の善美を尽くした花見をこの槍山で催した。 千畳敷きとも呼ばれれる平地には新しい花見御殿が建てられた。 また、女人堂から槍山の間には、長束正家をはじめ各武将により趣向をこらした茶屋八棟が設けられた。 この花見にさきがけて山内馬場先から槍山に至る両側には畿内より集めた桜の木700本を植えさせた。 花見の当日、秀吉は秀頼・北政所・西の丸(淀君)・松の丸・三の丸を従え、 山下の桜が一望できる槍山の御殿で花見の和歌を短冊にしたため桜の枝につり下げた。 秀吉の栄華を誇る豪華な花見であった。 |
平安時代の貞観16年(874)に弘法大師の法孫聖宝理源大師によって開かれた。 聖宝大師は修験道(山伏)中興の祖と仰がれ、その遺風を今に残す。 山上には、平安・室町・桃山の各時代の国宝や重文が保存されている。 |
清龍宮拝殿(国宝) | |
創立は寛治2年(1088)であるが、永享6年(1434)に再建され現在に至っている。 懸造(かけづくり)・入母屋造・檜皮葺、邸宅風の手法を用いられた簡素ながらも気品 あふれる建物建築である。 |
清瀧宮の祭神・清瀧権現は、空海が中国・唐から密教の 守護神として 日本に勧請した 霊神だ。延喜 2年 ( 9 0 2 )、醍醐山に降臨し、それ以後醍醐寺の鎮守となつた。清瀧権現 が下伽藍に勧請されたのは永長 2年 ( 1 0 9 7 ) のこと。木殿と拝殿が五重塔の西側に立 ち、清瀧権現はいまも醍醐寺の伽藍を見守っている。 |
蟇股について宇治上神社⇒⇒⇒ |
薬師堂 国宝・入母屋造・檜皮葺、保安 2年 ( 1 1 2 1 ) 再建。本尊は平成年間に奉安された薬師如来。 |
如意輪堂 | 開山堂 |
女人堂(成身院) | 御千度石 |
女人堂 准胝堂が2009−10以降完成予定までの間、 朱印の受付がなされる。 |
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御千度石 上醍醐はかって女人禁制で、女性はここまでしか登れなかった。 女人堂との間を百回往復すると、上醍醐に参拝しのと同じご利益がある。 |