本殿(国宝) |
祭神 右 莵道稚郎子(うじのわきいらつこ) 中 応神天皇 左 仁徳天皇 国宝 世界遺産 平安時代後期 覆屋(おおいや) 桁行五間、 梁行三間 流造、檜皮葺 内殿三社(一間社流造、檜皮葺) 神社建築として日本最古遺構 |
創建 神社としての創建年代は不詳である。 現在の宇治上、宇治神社を合わせて、平安時代には、宇治鎮守明神、離宮明神、 離宮社とも称され、拝殿に収める江戸時代の棟札には、応神天皇を祀る故か 離宮八幡とも称されていた。 「離宮」の名を冠されるについては、平安時代初期、天皇の離宮「宇治院」の 鎮守社として祀ゆれていた事からか、或は、又より古い時代の菟道稚郎子の離宮 「桐原日桁宮」のあったところから由来するのかも知れない。 離宮社として文献上正確な記録の上に初めて現われるのは、治暦三年 (一0六七 ) 後冷泉天皇、平等院より神社に行幸の後、離宮明神に神位を授けたとあることである。 藤原氏が平等院を建立の後、その鎮守社として崇敬の実が大いに加わり、隆盛を極 めてゆくのである。 五月に斎行される祭は「離宮祭」と称され藤原氏から幣帛(へいはく)、神馬、乗尻を 奉り、宇治辺の村々からは田楽、散楽が奉仕され、競馬十番が行なわれ見物の雑人、 群集し喧躁を極めたことが「中右記」 (藤原宗忠の日記 )に詳しく記されている。 いづれも平等院と密接な関係において現われ、宇治の地が鳳凰堂完成の後賑いを 極めるようになり、祭儀が整えられ、現在の本殿三社が建築されたものと思われる。 |
右 莵道稚郎子(うじのわきいらつこ) | 中 応神天皇 | 左 仁徳天皇 |
覆屋とその中に並立して収まる内殿三社が、神社建築として日本最古の遺構である。 建築年代は年輪年代測定法により、1060年と判定されている。 内殿三社は平面的に大きさ、様式が細部において、わずかながら異にする。 左殿と右殿はほぼ同形式であるのに対し、 中殿は最も小規模かつ構造も簡素であり、また、左右両殿が構造の一部を覆屋と共通に用いるのに対して、 独立の形式をとっている。 内殿三社が現在まで耐えた要素の一つとして覆屋によるところが大きい。 内殿三社が平面的に大きさを異にするが、柱高だけは一致する点、覆屋を想定して建造されたと思われる。 また、左右両殿は、覆屋と側面 、壁面、屋根を一体としているところが、特徴的な建築様式である。 本殿は平安時代後期の、神社建築としては最古のものに属する建造物で、一間社流造(いっけんしゃながれづくり) 内殿三棟を左右一列に並べ、後世これらに共通の覆屋(おおいや)をかけたもの。 |
菱格子欄間上の蟇股(かえるまた)に特徴がある。 本殿、左右両殿の正面頭貫(かしらぬき)上にある蟇股は、奈良時代の板蟇股、棟木や天井桁をうける構造材として でなく、その輪郭を残し中を刳りぬいた様に、小木片を二つ合わせて造ったもので、荷重にに耐える力はなく、 構造上には役に立たず、斗共(ときょう)において装飾ようとして用いられるに至った。 刳抜式蟇股の発生を示す重要な実例とされる。 醍醐寺薬師堂、平泉中尊寺金色堂と共に藤原時代の三名蟇股と称せられる。 |
本殿、(国宝・写真はD.S氏ご提供) | 内殿 祭神 仁徳天皇 |
祭神は宇治神社の祭神でもある悲運の皇子莵道稚郎子(うじのわけいらつこ)のほか、 父の応神天皇と兄の仁徳天皇を祀っている。 創建時期は不明でるが、莵道稚郎子の霊をなぐさめるために建てられたとされている。 |
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かってここに離宮があったという説もあり、「離宮明神」「離宮八幡宮」などと呼ばれていた。 | |
1067年には、後冷泉天皇が神位を授けたという記録がある。 | |
その他拝観の手引き⇒⇒⇒ |
世界文化遺産宇治上神社の碑と鳥居 |
京都・世界遺産⇒⇒⇒ |
応神天皇の末の皇子莵道稚郎子は幼くして学を好んだ。皇太子となり 天皇崩じたが敢えて位につかれず、兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと・ 後の仁徳天皇)に位を譲り、宇治の地に離宮を建てられ逃れられた。 しかし、兄の大鷦鷯尊も位につかず譲り合うこと三年が続いた。 このため、天下が乱れたので、弟莵道稚郎子はこれを憂い自ら命を 絶たれた、兄に皇位につかせた。 当社の地名は宇治であるが、かっては「うさぎのみち・莵道」と書いて 「うじ」と読んだ。 |
拝殿 |
国宝 鎌倉時代 桁行六間、梁行三間 一重切妻造、両妻一間庇付 檜皮葺 |
拝殿前の清め砂 | 拝殿内部 | |
拝殿の建築年代は、年輪年代測定法により、1215年と判定されている。 平安時代の建物として貴重なものとされる。 屋根の形が特に美しく、直線的で横長の建物の緊張を和らげる手法として、妻に庇をつけて、 軒隅を結ぶ手法に縋破風(すがるはふう)を用いており、建築全体の印象はより水平性の勝った 穏やかなものとなっているといわれる。 清め砂 拝殿前の砂で盛られた円錐形の二つの山を清め砂という。9月1日の八朔祭(はっさくさい) に氏子によって奉納される。境内のお清め用の砂として1年間盛られ続ける。 お正月やお祭り等大切な日に、境内にまき散らし、境内地をお清めする。 当社ではお清めの為の砂であり、他社で見られる、神が降りてこられる依代(よりしろ)を 表わしているものではない。 |
拝殿 |
摂社 春日神社(重文) | 桐原水(きりはらすい) |
春日神社 祭神 武甕槌命 天児屋根命 一間社流造、檜皮葺。 藤原一族の守護神を祀る。平等院鎮守社である離宮社の境内に勧請したものであろう。 建築年代は鎌倉時代とみられる。平安時代の様式の本殿、拝殿と比べると、木割の太い 、どっしりした鎌倉風の力強い構成を示している。 |
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桐原水(きりはらすい) 時代が室町期に入り、宇治茶が隆盛を極める様になって、茶園を象徴するものとして、 宇治七茗園が作られた。それに重なり伝えられる宇治七名水の一つに数えられた。 他の六名水がすべて失われた現在、現存する唯一のものである。 |
末社 稲荷社 | 末社 住吉社 | 末社 香椎社(かしい) |
祭神 倉稲魂命 (うがのみたまのみこと) |
祭神 上筒男命 底筒男命 |
祭神 神功皇后 武内宿祢 |
祭神 莵道稚郎子尊 宇治橋の上流宇治川の右岸、この辺りは 応神天皇の離宮(桐原日桁宮・きりはらひけたのみや) 跡でもあり、皇子の莵道稚郎子尊の宮殿の跡と伝えられている。 皇子は王仁(わに)博士から儒教の思想を学んでいたので、 天位は兄を差し置いて就くことが儒教の思想と違うため、譲り合うことになる。 結局死をもって節を全うした。 後に仁徳天皇は莵道稚郎子尊の祠を建て、神霊を祀ったのが この神社の始まりである。 本殿 鎌倉時代初期の建物で三間社流造り(さんげんしゃながれつくり)、 檜皮葺き、重文。 |
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宇治上神社は、明治維新までは隣接する宇治神社と二社一体で、 それぞれ、離宮上社、離宮下社と呼ばれていた。 |
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宇治川のほとりに鎮座し、平安時代の延喜式神名帳にも載る古社。 16代仁コ天皇の異母弟で、15代応神天皇の皇太子だった菟道稚郎子命 (うじのわきいらつこのみこと・宇遅能和紀郎子)を祭る。312年、仁徳天皇 が宇遅能和紀郎子の神霊を祭ったのが始まりとされ、宇治の産土神(うぶ すながみ)として信仰されてきた。ご祭神が聡明だったと伝えられることか ら、 学業・受験合格祈願の参拝者も多い。 本殿(鎌倉時代)と「木造菟道稚郎子命坐像」 (平安時代)は国の重要文 |
この仏徳山から眼下の宇治を眺めると、宇治川の清流に沿って塔ノ島と平等院、宇治神社そして宇治橋など数多くの遺跡や名勝が連なる。 |