第104代 後柏原天皇(ごかしわばら)地図


後土御門天皇(第一皇子)
源朝子(源長賢の娘) 
誕生 …1464年(寛正5年)10.20
御名・異称 勝仁
女院 勧修寺藤子
立太子 … ―――
即位 …1500年(明応9年)10.25
在位年数 26年
崩御 …1526年(大永6年)4.7 (年齢63才)
皇居 平安宮
年号 明応、文亀、永正、大永
応仁の乱の後遺症はなはだしく、朝廷の経済は逼迫して即位の礼を執り行う費用をなかなか捻出することが出来なかった。管領細川政元は「内裏にも即位礼御儀無益なり、さ様の儀を行ふといへども正体無き者は王とも存せざる事なり。此分にて御座候といへども、愚身は国王と存じ申す者なり。然れば、一切大儀共末代不相応の事なり。」と放言し、諸家や公武等がこれに同意したため、即位の儀は取り止めとなった。
本願寺の実如や幕府の献金をもとに、ようやく1521年(大永元年)に即位は挙行された。もちろんこれだけの歳月を要したのは、公家らの地方離散も大きく影響していた。公卿らの邸も多くは戦火を被り、公卿らは諸国に逃れて大名らの庇護下にあった。
御柏原天皇は先帝の代から乱れていた朝儀の復興に力を注いだ。元日の節会、大元師法の修法(仏教的な宮中の年中行事)、国家鎮護の密教修法や春日祭・賀茂祭への勅使派遣等朝儀の再興に努められた。
陵墓名 深草北陵    法華堂    後深草天皇以下十三方合葬
所在地 京都市伏見区深草坊町
火葬され、深草法華堂に納骨された。12帝陵の一つである。
天皇の御灰塚は、今熊野字泉山にあり、25陵5灰塚9墓の一つで、この兆域の西に有り、西面する。盛土はなく、方形に区画して榊が植栽されている。御柏原・後奈良・正親町の三天皇とともに御灰塚は南北に並び西面する。四塚を一区画としている。