下御霊神社地図
上御霊神社地図
上善寺 地図
山名宗全邸宅跡地図
一条戻橋地図
福長神社地図
報恩寺地図
千利休不審庵地図
本法寺地図
(小川と)百々橋の礎石地図
妙顕寺地図
尾形光琳乾山菩提所地図
泉妙院地図
宝滋院地図
応仁の乱勃発地地図
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下御霊神社

 川原寺で憤死した伊予親王とその母藤原吉子(注)の霊をなだめるため、承和6年(839)出雲路に創祀された
御霊社の一つで、上御霊社
南にあたるところから下御霊神社と呼ばれた。祭神は崇道天皇以下八所御霊
(橘逸勢吉備真備文屋宮田麻呂藤原広嗣火雷神)。

 中世は今の京都府庁のあるところに社地があったが応仁の乱で焼亡したので、天正18年(1590)現在の地に
遷座された。本殿は天明の大火(1788)後、寛政2年(1790)宮中の賢
所御殿を賜って再建されたもの。
社務所は天明の大火後の改築で、昔の神官の邸宅を伝える
貴重な遺構である。

 伊予親王は桓武天皇の第三皇子で、平城天皇の異母弟。母藤原吉子は藤原南家藤原是公の娘で桓武天皇

夫人。平城天皇の時代の807年(大同2年)、反逆の首謀者であるとして母藤原吉子とともに川原寺(弘福寺)に
幽閉され、絶食した後毒を飲んで自害した。異母兄平城天皇の側近であった藤原式家·藤原仲成
に操られた
藤原宗成に失脚させられたものとされる。後に親王の無実が判明し、839年に一品が追贈され
た。
祟道神社 御所⇒⇒⇒

 災害や疫病が繰り返し流行し、不安が広がった平安時代。人々は貴人

たちの怨霊が原因だと考え、たたりから免れるための祭事「御霊会」を

開くようになった。記録上最も古い、863年に神泉苑で行われた御霊会は、
下御霊神社の由緒とされている。

 神社は「疫病退散の神社」として知られ、医学が発達した今も不安を

しずめる願いが受け継がれている。


伊予親王 
伊予親王事件   平城天皇   八所御霊神社 



上御霊神社 地図

     
随神像 吽形    随神像 阿形
   

 祭神として崇道天皇(早良親王) 、吉備真備橘逸勢(はやなり)はしめ、十三柱の神靈を祀る。

 この地には、はじめ付近住民の氏寺として創建された上出雲寺があったが、平安京遷都(七

九四) に際し、桓武天皇の勅願により王城守護の神として、奈良時代・平安時代初期に不運の

うちに亡くなった八柱の神霊が祀られたといわれ、その後、明治天皇の御願(ごがん)により
祭神五社が
増祀され、現在に至っている。

 平安時代には、天変地異や疫病流行は怨霊のたたりであるとする御霊信仰が盛んで、怨霊を

なだめるための御霊会が度々行われ、疫病除けの霊社として名を広めた。朝廷から庶民に至る

まで広く信仰を集めたが、特に御所の守護神として皇室の崇敬が厚く、神輿や牛車等,皇室か

らの寄付品を多教蔵している。

 本殿は、享保十八年(一七三三) に下賜された賢所御殿を復元したものといわれている。

 また、境内は「御堂の杜」と呼ばれ、応仁元年(一四六七)正月十八日に畠山政長と義就
(よしなり)の
合戦が行われ、応仁の乱の発端となった場所としても知られている。

京都市

応仁の乱 勃発の地

 文正二年(一四六七)正月十八日朝、この付近すなわち御霊の森(上御畫神社境內)での合戦
から「応仁
の乱」は始まった。前日の十七日深夜、畠山政長は自ら屋救を焼いて、一族郎党や
奈良筒井氏の成身院(じょうしんいん)
光宣らと兵約二千を率いてここに布陣した。

 翌十八日早朝、畠山政長と畠山家の家督を激しく争っていた高山義就が兵三千余で攻撃をし
かけ、十
八日は終日激しい戦いが続いた。義就方には朝倉孝景,ついで山名持豊(宗全)の命を
受けた山名政豊
が加勢した。しかし政長方には頼みの細川勝元がこの時点ではまだ動かず、
まる一日の合戦の結果、政
長方は持ちこたえられず退去した。これが「応仁の乱」の最初の合
載である。

 その年の三月、年号は「文正」から「応仁」と改まり、細川氏・山名氏の両陣営はそれぞれに味
方を
集めて戦時体制をかため、五月から上京を中心に将軍,足利義政の後継者争いも絡み合う、
東西両軍
の全面的な戦に入った。この戦は京の都を疲弊させ宝町幕府の権威を失墜させたが、
厭戦の風潮の中
細川・山名両氏の間に和睦が成立し、文明九年(一四七七)、十一年間に渡る
大乱はようやく収束をみた。

 なお、宗全の墓は南禅寺の真乗院にある。

京 都 市

   
 
     
     
   

牛 車 (雨眉網代廂)

 江戸時代初期(慶長年間)後陽成天皇の上皇当時の御寄進と伝えられていま

す。後陽成天皇は深く学問を好まれ、しばしば臣下に伊勢物語や源氏物語を講義さ

れたということです。

 牛車の現存例は大変少なく新たに造られたものは別にして、この牛車以外には毎

年葵祭に使用され現在京都御所に保管されている二輌以外には見当たらないよう

です。平成14年には中世交通史を御研究の皇太子殿下も調査のため来社されま

した。この牛車は毎年5月18日の当御靈神社の祭礼である御靈祭渡御之儀に
猿田彦神をまつり御神輿の先導をつとめます。   

応仁の乱勃発地
 

 文正二年(一四六七)正月十八日朝、この付近すな

わち御霊の森(上御霊神社境内)での合戦から「応仁

の乱」は始まった。前日の十七日深夜、畠山政長は

自ら屋敷を焼いて、一族郎党や奈良筒井氏の成身院

光宣らと兵約二千を率いてここに布陣した。

 翌十八日早朝、畠山政長と畠山家の家督を激しく

争っていた畠山義就が兵三千余で攻撃をしかけ、十

八日は終日激しい戦いが続いた。義就方には朝倉孝

景、ついで山名持豊(宗全)の命を受けた山名政豊

が加勢した。しかし政長方には頼みの細川勝元がこ

の時点ではまだ動かず、まる一日の合戦の結果、政

長方は持ちこたえられず退去した。これが「応仁の

乱」の最初の合戦である。

 その年の三月、年号は「文正」から「応仁」と改

まり、細川氏·山名氏の両陣営はそれぞれに味方を

集めて戦時体制をかため、五月から上京を中心に、

将軍·足利義政の後継者争いも絡み合う、東西両軍

の全面的な戦に入った。この戦は京の都を疲弊させ

室町墓府の権威を失墜させたが、厭戦の風潮の中

細川·山名両氏の間に和睦が成立し、文明九年(一四

七七)、十一年間に渡る大乱はようやく収束をみた。

 なお、宗全の墓は南禅寺の真乗院にある。

     京都市





上善寺 地図

     
山門  本堂 
 千松山遍照院と号する浄土宗の寺 院である。

 貞観五年(八六三)、僧円仁により天台密教の道場として千本今出川(上京区)に創建されたと

伝えられている。その後、丈明年間(一四六九~八七)に、春谷盛信によって再興され、
後柏原天皇
の勅願寺として栄え,文禄三年(一五九四)、寺域を現在の地に移し、浄土宗に改
められた。

 地蔵堂に安置寸る地蔵菩薩は、平安時代の初め、小野篁が一度息绝えて冥土へ行き、生身
の地蔵尊
を拝して蘇った後、一木から刻んだ六体の地蔵の、一つと伝えられ、「鞍馬口地蔵」、
「深泥池地蔵(みぞろいけ)」
「姉子の地蔵」などの愛称で親しまれている。 この地蔵は、当初、
小幡の里に祀られていたが、保元
年間(一一五六~五九)に、洛北の深泥池のほとり

に祀られ、更に当寺に移されたものといわれている。

毎年八月二十二・二十三日の京都六地蔵巡.には、多くの参拝者で賑わう。

   
 地蔵堂 観音堂 
   
 



山名宗全邸宅跡

   

 山名宗会は応永十一年(一四〇四)、但馬国(現在の兵庫県北部)出石に生まれ、
名を持豊(まちとよ)といい、後に出家して宗会と称したが、赤ら顔であったので
「赤入道」とも呼ばれた。但馬をはじめ十二箇国の守護職を兼ね、当時金国は
六十余州あったことから「六分の一殿 」とも呼ばれた。

 子供がなかった室町幕府入代将軍·足利義政は、弟·義視(よしみ)を後嗣にしょう
としたが、その後、義政の夫人·日野富子に義尚(よしひさ)が生まれたため、

将軍職をめぐる後継者争いが起こり、守護大名のお家騒動も絡み合い「応仁の」
へと発展した。義尚を擁する宗全は、この郎宅を本陣として、室町今出川の
「花の御所(足利家の住宅,室町幕府)」に陣を置く義視方の細川勝元と東西に分
かれて十一年間に及ぶ戦いを繰り広げた。

このため京の町の大半は焦土と化した.この情景を詠んだ歌に次のようなものが
ある。

  なれや知る 都は野辺の 夕雲雀

    あがるを見ても  落つる涙は

 この地にあった山名家代々の郎宅も焼失し、宗全は文明五年(一四七三)、陣中
で没した。このあたり一帯を「西陣」と呼ぶのは、山名宗全率いる西軍が陣をおいた
ことによる。

 なお、宗全の墓は南禅寺の真乗院にある。

 京都市



一条戻橋
 
 一條戾橋

  大正十1年から平城七年まて実際
に使用されていたものです。

御祭神安倍清明公ともゅかり深い橋ゆ
え境内に復元しました。
現在の房橋は、神社から南へ百メートル
の処に架かっています。 

   



福長神社    

     
 本社は福井神,綱長井神,稲荷神を祭神として祀る。社名は、福井、網長井の二神を合祀する
ことによるが、稲荷神も合記することから「福長桶荷」とも呼ばれた。

 福井神と綱長井神は、平安京大内裏内の神祇官西院(現在の大宮竹屋町辺)に祀られていた。

延喜式内社、宮中神の座摩巫祭神五座(生井神、福井神、綱長井神、波比伎神、阿須波神)。

のうちの二座である 。

 現在の地に遷され経緯については、社伝によると天正年間、豊臣吉の聚楽第造営、あるいは
廃城の際と伝んられるが、天正二年(一五七四)に織田信長が上彩議信に贈っなど伝えられる
洛中洛外図屏風(狩野永徳筆)には、すでに現在地に福長神社が描かれている。

 天明の大火(一七八八)で焼失した後は小さな祠となったが、明治時代以降も水の神(屋敷の
井戸や泉の神として地元の人々から篤く尊崇されている。

             京都市   



報恩寺

   
 

 寺伝では室町時代、一条高倉に開創したとあり

法園寺または法音寺という天台・浄土兼学の寺で

あった。文亀元年(一五〇一年)慶与が再興し、浄土宗

報思寺と改め、天正十三年(一五八五年)秀吉に

よって現在の地に移された。

 豊臣秀吉の所望により、寺宝の猛虎の絵を聚楽第

の床へ飾ったところ、夜中に虎の鳴き声が聞こえ、

秀吉は一晩中安眼できず、すぐに寺へ戻されたこと

から鳴虎として有名となった。この絵は寅年の正月

三が日に限り開される。なお、複製画は常時公開

されている(要予約)

 客殿に黒田長政が死去した部屋があり、長政の位牌

とその父・官兵衛(如水)の位牌が安置されている。

観世流家元歴代や志野流香道家元蜂谷家歴代の喜提寺

でもある。

 重要文化財の梵鐘は平安時代の作で、「勿撞(つかず)の鐘」

といわれる。仲の悪い丁稚と織子がお十夜の晩に

いくつ鐘が鳴るかで賭けを行い、賭けに負けた織子

が口惜しさのあまり死に到ったという話があり、以後、

除夜の鐘以外は撞かなくなったということである。

 門前の石橋には慶長七年(一六〇二年)架橋の刻銘

があり、今は埋められた小川の名残を止めている。

りる。


千利休不審庵

   



本法寺

 
 仁王門  
 

 叡昌山と号し、日蓮宗本山の一つである。

永享八年(一四三六)本阿弥清信が日親上人を

開基に請じて創建したのが当寺の起りという。

 はじめ四条高倉にあったが、天文五年(一五三

六)法華の乱によって山徒に焼かれ、のちここに

移った。江户時代には後水尾天皇・紀州德川家

の保護を受けて繁栄し、中山法華経寺(千葉

中山にある日蓮宗本山) 輪番にあたる上方

三山の一つでもあった。

 現在の堂宇は江戶時代後期に再建された

ものであるが、本阿弥光悅作庭の「巴の庭」は

有名である。このほか当寺は本阿弥家の菩提

寺であったことでも名高く、一門の墓もあり、

本阿弥光悦は多くの書画・什器をよせている。

寺宝には、銭舜挙筆と伝える蓮花図、群介図・
中文殊左右寒山拾得画像、長谷川等伯筆の

仏大涅槃図など絵画十点と本阿弥光悦筆の

法華題目抄など書二点の重要文化財を所蔵し
ている。

   京 都 市

 
 本堂
 
   
 多宝塔  開山堂 
 
  鐘楼、左は経蔵
   
 長谷川等伯像  
 
   
 



(小川と)百々橋の礎石(どどばし)

 
 かつてこの場所には, 本法寺や報恩寺の東にその痕跡を残す小川が南北に流れていた。

 百々橋の名は,『中昔京師地図』に記されている 「百百ノ辻」 に由来すると伝えられ,

戦国時代の京都を描いた「『上杉本洛中洛外図屏風』には, 法鏡寺殿 (宝鏡寺)の東を流れ

る小川に木橋が描かれている。

 この橋が知られるようになったのは, 戦国時代にこの地を中心として有名な合戦がお

こなわれたことによる。 とくに応仁・文明の乱 (1467~1477) では, この橋から一条戻

橋までの一帯が、 西軍の山名方と東軍の細川方との主戦場となった。

 小川は昭和 40年 (1965) には埋め立てられ, 江戸時代に石橋にかわった百々橋も解体

されたが、地域の方のご尽力により, 橋材は一時, 室町小学校で保管され, その後, 洛

西ニュータウンの竹林公園内 (昭和 56年 (1981) 開園) に移築された。 この礎石は百々

橋の橋脚を支える4基のうちの1基であり, 百々橋をしのぶ貴重な遺産としてこの地に

戻された。なお,竹林公園と室町小学校にも礎石が残されている。   



妙顕寺

   
   
   
   




尾形光琳乾山菩提所




泉妙院

 




宝滋院

 




応仁の乱勃発地

 

 文正二年(一四六七)正月十八日朝、この付近すな

わち御霊の森(上御霊神社境内)での合戦から「応仁

の乱」は始まった。前日の十七日深夜、畠山政長は

自ら屋敷を焼いて、一族郎党や奈良筒井氏の成身院

光宣らと兵約二千を率いてここに布陣した。

 翌十八日早朝、畠山政長と畠山家の家督を激しく

争っていた畠山義就が兵三千余で攻撃をしかけ、十

八日は終日激しい戦いが続いた。義就方には朝倉孝

景、ついで山名持豊(宗全)の命を受けた山名政豊

が加勢した。しかし政長方には頼みの細川勝元がこ

の時点ではまだ動かず、まる一日の合戦の結果、政

長方は持ちこたえられず退去した。これが「応仁の

乱」の最初の合戦である。

 その年の三月、年号は「文正」から「応仁」と改

まり、細川氏·山名氏の両陣営はそれぞれに味方を

集めて戦時体制をかため、五月から上京を中心に、

将軍·足利義政の後継者争いも絡み合う、東西両軍

の全面的な戦に入った。この戦は京の都を疲弊させ

室町墓府の権威を失墜させたが、厭戦の風潮の中

細川·山名両氏の間に和睦が成立し、文明九年(一四

七七)、十一年間に渡る大乱はようやく収束をみた。

 なお、宗全の墓は南禅寺の真乗院にある。

     京都市


























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