第61代 朱雀天皇(すざく)地図

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醍醐天皇(第十一皇子) 
藤原穏子(おんし)(藤原基経の娘)
誕生 …923年(延長元年)7.24 
御名・異称 (ひろ)(あきら)・仏陀寿
女御 煕子女王、藤原(けい)()
立太子 …925年(延長3年)10.21
即位 …930年(延長8年)9.22 
在位年数 …16年
崩御 …952年(天歴6年)8.15(年齢30才)
皇居 平安宮      年号 (えん)(ちょう)(じょう)(へい)(てん)(ぎょう)

皇太子であった実兄保明親王が21才で急逝し、8才で即位したため、藤原忠平が摂政として政治を執った。中絶していた摂関政治の復活である。

醍醐天皇は、自分も宇多天皇にされたように、幼い朱雀天皇に遺戒を残した。内容は神事を重んじ、寛平(宇多)法皇によく仕えること、左大臣時平の言葉をよく聞くこと等であった。この遺戒は宇多法皇と藤原家にも目を向けたもので、若い朱雀天皇を守る内容になっている。

治世中には多くの天変地異に見舞われた。又、いわゆる「承平・天慶の乱」が起き、世情は騒然となった。すなわち東国では平将門の乱、西国ではこれと期を同じくして藤原純友の乱が発生した。結局両乱とも鎮圧された。

 目付役の宇多法皇が崩御すると、摂政の藤原忠平の専横が極まった。朱雀天皇が病気でもなく子供が生まれようとしているさ中に、天皇の弟を皇太子に立てて退位させた。

陵墓名 (だい)(ごの)(みささぎ)  平墳
所在地
京都市伏見区醍醐御陵東裏町

御陵は人家の裏庭の竹林の中にあり、わずかに2間(約3.6m)四方で、石を四周に並べて墓域を画していたという惨めなものであった。さらに安永、天明の頃に東西13.9m、南北12.7mの長方形に拡張され、1864年(元治元年)7月、さらに修補、拡張されて現在に至っている。
現兆域は方形で南面し、周囲130m余で墳丘は見当たらない。火葬地も未詳であるが、一説には来定寺の北野としている。この来定寺も今は未詳である。「文徳実録」に来定寺のことが見えるが所在地は記していない。 泉涌寺雀ノ森町に、雀の森という一荒墳があり、追号の朱雀院の名と併わせ考え、これが火葬の地ではないかとする説もある。
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