タケミカズチノ神について

かぎろい 平成21年6月1日 第138号  文学博士 菅野雅雄

オオタタネコの父建甕槌命は、不思議な神です。この系譜のほかには、何の物語も伝わって
いません。

イザナキノ神と共に国を生み神を生んだ妻イザナミノ神は、その神生みの途中で火の神を生
んだ
ため体を損ねて亡くなりました。夫のイザナキノ神は愛する妻を一柱の子と替えてしまった
と嘆き、
所持していた刀で妻の生命を奪った火の神カグツの首を斬ってしまいます。その時、
刀の手元に
着いた血が湯津岩村に飛び散って三柱の神が生まれますが、その三番目に生まれ
た神の名を
建御雷之男神,亦の名は建布都神、亦の名は豊布都神と言いほす。ところがこの神
は後の物語では建御雷
神と書かれ、前述の建甕槌神と表記は異なりますが、読みは同じくタケ
ミカヅチノ神といいます。

▼火の神カグツチの首を斬った刀の名は、天之尾羽張,亦の名は伊都之尾羽張といいます。

▼時は巡って話が変わり、天上の神の世界高天原で天照大御神は、我が子天忍,耳命に葦原

中国を支配·統治させようと命令を下します。

命を承けて忍穂耳命は地上に降ろうとしますが葦原中国は騒がしく降臨はできませんでした。
こで高天原側では、地上の国土の主の大国主神許に、その国を譲らせようと使いを出しま
す。先
天照大御神の次子天菩比神が向かいますが役に立たず、次に大若日子が赴きます
が、この使い
も使命を果しませんでした。

▼三度目に使者に選ばれたのが伊都之尾羽張神で、この神は我が子建御雷神を推挙します。
建御雷神
は、天鳥船神を従えて出雲に降り、伊那佐の小で大国主神と談判し、その支配す
る葦原中国を
天照大御神に献上させることに成功します。これ古事記神話に見る建御之雷神
の大きな働きです。

▼この物語に働いた「建御雷神」とオホタタネコの父「建甕槌神」とは、訓みを同じくしていますが、
果たして同一神でしょうか、それとも別神で
しょうか。『日本書紀』では、オホタタネコは物主大
神の「子」と書かれていまして、そこには
建甕槌神の名は見られませんが、前記しました「国譲
り」の物語の使者を『書紀』は「武甕槌迚
」と書き表しています。

▼でも『書紀』では、大神神社の御祭神大物主大神が、この「国譲りの物語」で高天原(=天照
大御神)の交渉相手
となった大国主神の亦の名(別名)とされているのですから、タケミカヅチノ
神をオホタタネコの父神と語るわけにはいか
なかったでしょう。

▼考えてみれば『古事記』が大物主神の血筋として、「大物主大神ㄧ櫛御方命-飯肩巣見命_
建甕
槌命-意富多多泥古」の系譜を記したことに無理があると言えるのですが、『古事記』が何
故、何
の為に、この系譜を書き記したのか、という事に問題が残ります。天皇が大物主大神の
祭祀を委ね
たオホタタネコが、『書紀』の伝えるように「大物主神の子」なのか、それとも『古事記
』の伝え
のように「建甕槌神の子」なのか、『古事記』の伝は古伝なのか、それとも何か意味が
あって創作
されたものなのか。この疑問に、未だに明確な解答はできていません。

▼ちなみに、国譲りの物語で活躍した(建御雷神)は、現在、茨城県の鹿島神宮の祭神であり、
平城遷都後、藤原氏( 不比等か)によって奈良春日に勧請され、氏神社春日大社の第一殿の祭
神として
も祀られています。





西大寺 善財童子

 奈良·西大寺の善財童子像は、灰谷健次郎の小説「兎の眼」(1974年)でよく知られています。

 獅子に乗った文殊菩薩像を囲む 四侍者像のうちの1体です。西大寺の中興の祖とされる
叡尊の13回
忌にあたる1302年、貧しい人や病気の人の救済に生涯を捧げた叡尊をしのび
弟子たちが完成さ
せたとされています。

 ふっくらした顔と体つきで、ちょこんと手を合わせる87cmの像です。中野祥圓主事( 60 )は
「日本一
かわいい善財童子です」と言います。遠くを見上げるようにも、文殊菩薩を見つめる
ようにも見える
潤んだ瞳は、ウサギの目と同じように赤い色をしています。

 像の前には「兎の眼」の文庫本が置かれています。しおりの挟まれたページには、新任の
女性教師
が教え子の小学生たちと向き合い、悩む日々の中で西大寺を訪れ、童子を見つめる
場面が描かれ
ています。

 「ひとの眼というより、兎の眼だった。それはいのりをこめたように、ものを思うかのように、静

かな光をたたえてやさしかった」灰谷が亡くなって10年以上が経つ今も、「兎の眼」を読んで来
という参拝者が日に1人か2人いるそろです。
  2018-1-19  朝日新聞
(宮崎亮)





継体天皇の謎

 継体の即位は五O七年とされる。継体朝には「任那四県の割譲 (五一二年)や「磐井の反乱
(五二七~五二
八年)など大事件が相次ぐ。動乱の六世紀の開幕であ 継体は「応神の五世の孫」
とされるが、作り話に過
ぎず、それまでの王統とは関係のない地方豪族の出身 ではないか、との
考え方がある。「王朝交代論」だ。武
力によって王権をさん奪したのではないか、との説もある。

 即位の場所は北河内。以後も山城を転々とし、二十年もの間大和入りを果たせなかった。陵も
歴代の陵墓
地帯から一つポツンと離れたところ (三島藍野陵=大阪府茨木市に比定) にある―。
こうしたことも、新王朝
説の根拠になっている。

 書紀によれば継体には九人の皇妃があった。三尾氏、息長氏、坂田氏など、近江の豪族の娘が
多い。尾張(愛
知県)の大豪族、尾張連の娘もいる。また、母の振媛は越の出身で、祖父は美濃
(岐阜県)から妻を迎えてい
た、とされる。近江とゆかり深い、允恭天皇の皇后、忍坂大中姫の系
譜に連なる、との推論もある。

 こうしてみると、応神天皇に連なる血統だったかどうかは確かめようのないところながら、琵琶
湖周辺を
中心に畿内北辺部に勢力を張り、北陸や愛知、岐阜県あたりとも関係の深かった大豪
族の出身だったことは
間違いないようだ。

 継体天皇は、在位二十五年目に玉穂宮で亡くなった。

死の直前に長子の勾大兄 皇子を天皇に立てた。安閑天である。都を大倭の勾金橋宮に置い
た。

 安閑は、わずか在位二年で亡くなった。子がなく弟の桧隈高田皇子が皇位を継いだ。宣化天皇
である。

都を桧隈の廬入野宮(いおり)に定めた。即位四年目に亡くなり身狭桃花鳥坂上陵に葬った。

 続いて継体と手白香皇后の間に生まれた欽明天皇立った。欽明の治世は三十二年続き、
没後は桧隈阪合
陵に葬られた。

 この時代になると実年代がほぼおさえられる。書紀本文に記す継体の死は「辛亥の年」で五三一
年。安閑
元年は「甲寅の年」で五三四年。さらに、宣化元年は五三六年、欽明元年は五四○年、
欽明の死は五七一年―。

 しかし、ここには大きな謎と問題をはらむ。

 まず、継体の崩年については、『古事記』では五二七年とする。また書紀は五三四年説も併記す
る。三つの
伝えがあるわけだ。

 また、安閑の即位年についても、書紀本文は「継体の死の直前に立てた」とするのに、「甲寅年」
を元年と
する記事もある。前者なら五三一年だが、後者をとれば五三四年。

 さらに、書紀は欽明の在位期間を三十二年とするのに対し、『上宮聖徳法王帝説』は四十一年
間とする。欽
明の崩年の五七一年は動かし難く、在位四十一年とすれば、継体が亡くなってすぐ
飲明が即位したことにな
る。

 『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』では、仏教伝来の年を「欽明七年戊午年」としている。「戊午
年」は五三
八年、書紀の記述に従えば宣化朝にあたる。逆に「欽明七年」が正しいのなら、欽明
朝は五三二年に始まっ
ていたことになり、やはり継体に次いですぐ欽明が即位したと考えなけれ
ばならない。

 つまり、継体の死後、安閑、宣化を経て欽明が登場したとする伝えと、継体の死後すぐに欽明
が即位した
とする二通りの伝えがあるわけだ。このため、喜田貞吉氏や林屋辰三郎氏らによっ
て、欽明と安閑·宣化が
同時に皇位にあった時期が何年かあったとする、いわゆる「両朝対立説」
が唱えられた。

 継体は安閑を皇位につけて亡くなったものの、蘇我稲目らを中心とする反対派が「皇統系」の
手白香皇女
を母とする欽明を擁立。ところが、大伴金村らを中心とする「新王朝派」が安閑を守り、
さらに宣化を立て
二つの朝廷が対立した―というものである。

 六世紀の大きな謎として、論争が続いている。

  靍井忠義  日本書紀の大和 より




大伴金村

 大伴金村は、五世紀末から六世紀前半に活躍した人

物として名高い。古代の大豪族·大伴氏の中でも一番

の著名人。

 仁賢天皇没後、大王への野心を表したという平群氏

の真鳥、鮪(しび)親子を討ち、武烈天皇を即位させた
のが金
村。
これにより、大伴氏が一気に頭角を現した。時を

同じくして物部氏も力を伸ばし、葛城、和珥、平群氏

の時代から大伴、物部氏の時代へと移った。

 金村は、継体天皇の擁立でも活躍する。越から招く

ことを提案したのも、樟葉宮での即位のとき天子のみ

しるしの鏡と剣を献上したのも金村。「王朝断絶」の危

機の中で、政府内第一の実力者としてリーダーシップ

を発揮したことが、書紀の記述からうかがえる。
  靍井忠義  日本書紀の大和 より




有間皇子

 斉明四年(六五八)の五月、建 王( 中大兄の子)が八歳で亡くなった。耳が不自由でことばが話せな
かった
孫の死。天皇はひどく悲しんだ。数多くの挽歌をつくり、いつもそれを口ずさみながら泣いた。

 十月になって、悲しみをいやそうと紀温湯(和歌山県·白浜温泉付近)へ出掛けた。中大兄らも同行
した。

 留守中、蘇我赤兄が有間皇子を訪ねた。 「天皇の政治 には三つの過失があります。一つは大き
な食庫を建て
人民の財物を集種すること。二つめは延々と渠水を掘 って公の食料を浪費すること。
舟で石を運び、丘のよ
うに積み上げることが三つめです」

 有間皇子は、赤兄が自分に好意を持っていると思い喜んだ。「私もいよいよ武器を取る年齢にな
った」

 二日後、こんどは有間が赤兄の家に足を運んだ。謀議の途中、脇息がひとりでに折れた。不吉な
前兆
有間はすぐ、市経(生駒市壱分付近)の家へ引き返した。 その夜更け、有間の家は兵に囲まれ
た。赤兄の裏
切りだった。赤兄は天皇のもとに使いを出し、謀反を報告した。

 有間は逮捕された。紀温湯に護送された。中大兄がじきじきに取り調べた。 「なぜ謀反したのか」。
「天と赤
兄とが知っていよう。 私は何も知らぬ」 有間は藤白坂 (海南市)で絞首刑に処された。
一味の
舎人ら二人が斬殺され、二人が東国く流された。

(巻二十六,斉明天皇)

   磐代の浜松が枝を引き結び  ま幸くあらばまたか

   へり見む

   家にあれば筍(け)に盛る飯(いい)を草枕 旅にしあれば椎の

   葉に盛る

 あまりにも名高いこの二首の万葉歌は、護送される途中の有間が磐代(和歌山県南部町付近)で
詠んだ、と
伝える。草木の枝を結ぶのは旅の安全を祈る習慣、ひそかに許されることを期待してい
たのか。しかし、思
いもよらなかった「飯を椎の葉に盛る」旅、無念の思いがにじむ 有間皇子は
十九歳だった。孝徳天皇の一粒種。皇位
継承の有力候補者の一人だった。

 十八歳のときのこととして「陽狂(うほりくるい)す」とある。なぜか「狂人を装った」のだ。皇位への
野心を隠すためだ
ったのか。中大兄への警戒からだった、とみる向きが多い。父·孝徳帝への仕打
ちは記憶に生々しかったはず。

 さまざまな推理があるが、この事件もまた、冷酷非情な中大兄がライバルを消すために赤兄を使
って仕組
んだ、との解釈が圧倒的だ。現に赤兄は、事件後トントン拍子に出世、近江朝廷の左大臣
として重きをなし
た。

 ただ、 事件の背後にあった「民の不満」も見逃せない。「三失政」を挙げつらう赤兄のことばは、
「謀反の
道理」として説得力を持っていた。民衆を打ちひしぐ大土木工事、陰湿な謀略……。
斉明朝をして「狂乱の
時代」と呼ぶ研究者もいる。

  靍井忠義  日本書紀の大和 より




天武天皇の政治

 壬申の乱で、伝統的な畿内の大豪族は近江側にあった。このため、天武の勝利は、大豪族の中央
政治から
の排除を意味した。ここに、従来の大豪族連合政権的体制から脱け出し、天皇独裁への道
が開かれることに
なった。

 天武は大臣を置かなかった。もっぱら、皇后鸕野皇(のちの持統天皇)と草壁大津ら諸皇子が国
政を補
佐した。

 豪族たちの官僚化に意を尽くした。受け皿として大弁官、六官(法官、理官、大蔵、兵政官、刑官、
民間)な
どの官庁組織を整えた。

 また、各豪族の土地、人民の私的支配の制限に努めた。天智朝の民部(かきべ)を廃し、見返りに
国家が支給する食
封を定めたのもその一つ。狙いは、天皇の下で政治にたずさわる人たちから経済
的支えを奪い去り、給与生
活者にすることだった。

 給料の多寡は、個人の働きや才能によることを原則とした。とはいっても歴史を積み重ねてきた氏
を完
全に無視することはできない。そこで、「バ色(やくさ)の姓jを制定するなど、各氏族の再編成に取
り組んだ。各氏族
に、真人、朝臣、宿祢、忌寸、道師、臣、連、稲置の姓を与え、序列化すると同時に
上級官人を出せる氏を
制限した。

 さらに、四十八階の位階制で官人らを序列化した。皇族らも初めて序列に組み入れた。しかし、天皇
と皇
后は冠位を超越する存在として除いた。 それは、「現人神」の法制化を意味した。「天皇」号自体
も天武朝に確
立した、といわれる。

 
 たまたま太陽神を記っていた伊勢神宮を国家の神、
天皇家の神とした。新嘗祭などいまに伝わる皇
室行事の多くを国家祭儀として確立した。天皇の即位儀礼、大嘗 祭の本格化も天武朝といわれる。
仏教の統制にも
手を伸ばし、護国教化を進めた。

 一方で、「皇統の正しさ」を作り上げた。記·紀神話の体系化がその柱。『古事記』や『日本書紀』が完
成する
のは奈良時代に入ってからだが、いずれも天武の命で編さんが開始された。
  靍井忠義  日本書紀の大和 より





木の衣を脱いだ新薬師寺木造地蔵菩薩

 700年ぶり? 2019年に国重要文化財に指定された新薬師寺(奈良市)の「木造地蔵菩立像」。
鎌倉時代の12
38年に全裸の像としてつくられ、その後、木製の衣を貼り付けて着衣像に改造された
珍しい仏像です。

 1983年に調査した際に、この事実が初めてわかりました。寺は木の衣を取り外し、裸の像を元の状
に戻すことに。 木の衣はレプリカの裸の像に付け、新たな像に仕立て直しました。現在は裸の像と
着衣像
の2体となって保存されています。

 像内で見つかった願文によると、裸の像は興福寺(奈良市)の僧・尊遍(1194~?)が、亡き師の実尊
(1180~123
6)をしのんでつくったもの。尊遍は師と見立てた裸の像に本物の法衣をまとわせ、師に接
するように日
々、像に奉仕をしていたと考えられています。

 その後にあった木の衣を付ける作業は、形を合わせるために裸の像の腹部を削り取るなど手が込
んだもの
でした。 中田定観住職(76)は「自らの死期をった尊遍が、師を模した像を裸のまま後世に残
すのが忍びな
く、木の衣を着せたのでしようか」と話しています。
   2020-3-27 朝日新聞
(福岡龍一郎)



哭(泣)沢の女神

 哭(泣)沢の 杜に三輪(神酒)すえ 祈れども 我が王(大君)は 高日しらぬ
    万葉集巻2-202の 伝 桧隈女王

 
 この歌は、『万葉集』中で最長の
歌である柿本人麻呂高市皇子挽歌(巻二~一九九)の反歌の一首

です。一方で、『類緊歌林(るいじゅうかりん)』という歌集には「檜隈女王の泣沢神社を怨む歌」として
掲載されているとの
注も添えられています。つまり『万葉集』が編集された当時から作者は柿本人麻呂
か檜前女王か
の二説があったということになります。

 『類聚歌林』とは、『万葉集』巻一~:六番歌の注に山上憶良が編集した歌集であったと記されており、

ほかの箇所にも引用されていますが、現存しません。槍前女王は、この歌の作者としてのみ名前が伝
り、系譜や生没年などは一切不明です。

 この歌の注ではさらに、高市皇子の死去に関する「日本紀」の記事を紹介しています。
現行の『
日本書』(巻第三十)によれば、持統十 (六九六)年七月十日に「後皇子尊薨りましぬ」と記さ
れており、『万
葉集』の注と合致します。

 天武天皇の最年長の皇子ではあっても母親が皇族ではなかったため皇嗣とはなり得なかった高市皇

子を「後皇子尊」と称したのは、「皇太子」とされた草壁皇子亡き後にそれに次ぐ人物とみなされたこと
によるといわれています。

 「高日知らしぬ」とは、天孫とされた天皇にこそふさわしい死の表現であり、太政大臣であった高市皇
にとっては破格の扱いといえます。

 「泣沢の神社」とは、現在の橿原「市木之本町の畝尾都多本神社あり、祭神は伊邪那美命が火の
を産んで亡くなった際に伊邪那が嘆き悲しみ流した涙に成った泣沢女神である、と『古事記』上巻

に記されています。

 この女神に祈れば命がよみがえると信じられていたようです。しかし、祈りもむなしく神となって天上

世界へ去ってしまった、という嘆きがこの歌では表現されています。

 県民だより 奈良 2020-4月号  万葉文化館 井上さやか)