タケミカズチノ神について

かぎろい 平成21年6月1日 第138号  文学博士 菅野雅雄

オオタタネコの父建甕槌命は、不思議な神です。この系譜のほかには、何の物語も伝わって
いません。

イザナキノ神と共に国を生み神を生んだ妻イザナミノ神は、その神生みの途中で火の神を生
んだ
ため体を損ねて亡くなりました。夫のイザナキノ神は愛する妻を一柱の子と替えてしまった
と嘆き、
所持していた刀で妻の生命を奪った火の神カグツの首を斬ってしまいます。その時、
刀の手元に
着いた血が湯津岩村に飛び散って三柱の神が生まれますが、その三番目に生まれ
た神の名を
建御雷之男神,亦の名は建布都神、亦の名は豊布都神と言いほす。ところがこの神
は後の物語では建御雷
神と書かれ、前述の建甕槌神と表記は異なりますが、読みは同じくタケ
ミカヅチノ神といいます。

▼火の神カグツチの首を斬った刀の名は、天之尾羽張,亦の名は伊都之尾羽張といいます。

▼時は巡って話が変わり、天上の神の世界高天原で天照大御神は、我が子天忍,耳命に葦原

中国を支配·統治させようと命令を下します。

命を承けて忍穂耳命は地上に降ろうとしますが葦原中国は騒がしく降臨はできませんでした。
こで高天原側では、地上の国土の主の大国主神許に、その国を譲らせようと使いを出しま
す。先
天照大御神の次子天菩比神が向かいますが役に立たず、次に大若日子が赴きます
が、この使い
も使命を果しませんでした。

▼三度目に使者に選ばれたのが伊都之尾羽張神で、この神は我が子建御雷神を推挙します。
建御雷神
は、天鳥船神を従えて出雲に降り、伊那佐の小で大国主神と談判し、その支配す
る葦原中国を
天照大御神に献上させることに成功します。これ古事記神話に見る建御之雷神
の大きな働きです。

▼この物語に働いた「建御雷神」とオホタタネコの父「建甕槌神」とは、訓みを同じくしていますが、
果たして同一神でしょうか、それとも別神で
しょうか。『日本書紀』では、オホタタネコは物主大
神の「子」と書かれていまして、そこには
建甕槌神の名は見られませんが、前記しました「国譲
り」の物語の使者を『書紀』は「武甕槌迚
」と書き表しています。

▼でも『書紀』では、大神神社の御祭神大物主大神が、この「国譲りの物語」で高天原(=天照
大御神)の交渉相手
となった大国主神の亦の名(別名)とされているのですから、タケミカヅチノ
神をオホタタネコの父神と語るわけにはいか
なかったでしょう。

▼考えてみれば『古事記』が大物主神の血筋として、「大物主大神ㄧ櫛御方命-飯肩巣見命_
建甕
槌命-意富多多泥古」の系譜を記したことに無理があると言えるのですが、『古事記』が何
故、何
の為に、この系譜を書き記したのか、という事に問題が残ります。天皇が大物主大神の
祭祀を委ね
たオホタタネコが、『書紀』の伝えるように「大物主神の子」なのか、それとも『古事記
』の伝え
のように「建甕槌神の子」なのか、『古事記』の伝は古伝なのか、それとも何か意味が
あって創作
されたものなのか。この疑問に、未だに明確な解答はできていません。

▼ちなみに、国譲りの物語で活躍した(建御雷神)は、現在、茨城県の鹿島神宮の祭神であり、
平城遷都後、藤原氏( 不比等か)によって奈良春日に勧請され、氏神社春日大社の第一殿の祭
神として
も祀られています。





西大寺 善財童子

 奈良·西大寺の善財童子像は、灰谷健次郎の小説「兎の眼」(1974年)でよく知られています。

 獅子に乗った文殊菩薩像を囲む 四侍者像のうちの1体です。西大寺の中興の祖とされる
叡尊の13回
忌にあたる1302年、貧しい人や病気の人の救済に生涯を捧げた叡尊をしのび
弟子たちが完成さ
せたとされています。

 ふっくらした顔と体つきで、ちょこんと手を合わせる87cmの像です。中野祥圓主事( 60 )は
「日本一
かわいい善財童子です」と言います。遠くを見上げるようにも、文殊菩薩を見つめる
ようにも見える
潤んだ瞳は、ウサギの目と同じように赤い色をしています。

 像の前には「兎の眼」の文庫本が置かれています。しおりの挟まれたページには、新任の
女性教師
が教え子の小学生たちと向き合い、悩む日々の中で西大寺を訪れ、童子を見つめる
場面が描かれ
ています。

 「ひとの眼というより、兎の眼だった。それはいのりをこめたように、ものを思うかのように、静

かな光をたたえてやさしかった」灰谷が亡くなって10年以上が経つ今も、「兎の眼」を読んで来
という参拝者が日に1人か2人いるそろです。
  2018-1-19  朝日新聞
(宮崎亮)





継体天皇の謎

 継体の即位は五O七年とされる。継体朝には「任那四県の割譲 (五一二年)や「磐井の反乱
(五二七~五二
八年)など大事件が相次ぐ。動乱の六世紀の開幕であ 継体は「応神の五世の孫」
とされるが、作り話に過
ぎず、それまでの王統とは関係のない地方豪族の出身 ではないか、との
考え方がある。「王朝交代論」だ。武
力によって王権をさん奪したのではないか、との説もある。

 即位の場所は北河内。以後も山城を転々とし、二十年もの間大和入りを果たせなかった。陵も
歴代の陵墓
地帯から一つポツンと離れたところ (三島藍野陵=大阪府茨木市に比定) にある―。
こうしたことも、新王朝
説の根拠になっている。

 書紀によれば継体には九人の皇妃があった。三尾氏、息長氏、坂田氏など、近江の豪族の娘が
多い。尾張(愛
知県)の大豪族、尾張連の娘もいる。また、母の振媛は越の出身で、祖父は美濃
(岐阜県)から妻を迎えてい
た、とされる。近江とゆかり深い、允恭天皇の皇后、忍坂大中姫の系
譜に連なる、との推論もある。

 こうしてみると、応神天皇に連なる血統だったかどうかは確かめようのないところながら、琵琶
湖周辺を
中心に畿内北辺部に勢力を張り、北陸や愛知、岐阜県あたりとも関係の深かった大豪
族の出身だったことは
間違いないようだ。

 継体天皇は、在位二十五年目に玉穂宮で亡くなった。

死の直前に長子の勾大兄 皇子を天皇に立てた。安閑天である。都を大倭の勾金橋宮に置い
た。

 安閑は、わずか在位二年で亡くなった。子がなく弟の桧隈高田皇子が皇位を継いだ。宣化天皇
である。

都を桧隈の廬入野宮(いおり)に定めた。即位四年目に亡くなり身狭桃花鳥坂上陵に葬った。

 続いて継体と手白香皇后の間に生まれた欽明天皇立った。欽明の治世は三十二年続き、
没後は桧隈阪合
陵に葬られた。

 この時代になると実年代がほぼおさえられる。書紀本文に記す継体の死は「辛亥の年」で五三一
年。安閑
元年は「甲寅の年」で五三四年。さらに、宣化元年は五三六年、欽明元年は五四○年、
欽明の死は五七一年―。

 しかし、ここには大きな謎と問題をはらむ。

 まず、継体の崩年については、『古事記』では五二七年とする。また書紀は五三四年説も併記す
る。三つの
伝えがあるわけだ。

 また、安閑の即位年についても、書紀本文は「継体の死の直前に立てた」とするのに、「甲寅年」
を元年と
する記事もある。前者なら五三一年だが、後者をとれば五三四年。

 さらに、書紀は欽明の在位期間を三十二年とするのに対し、『上宮聖徳法王帝説』は四十一年
間とする。欽
明の崩年の五七一年は動かし難く、在位四十一年とすれば、継体が亡くなってすぐ
飲明が即位したことにな
る。

 『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』では、仏教伝来の年を「欽明七年戊午年」としている。「戊午
年」は五三
八年、書紀の記述に従えば宣化朝にあたる。逆に「欽明七年」が正しいのなら、欽明
朝は五三二年に始まっ
ていたことになり、やはり継体に次いですぐ欽明が即位したと考えなけれ
ばならない。

 つまり、継体の死後、安閑、宣化を経て欽明が登場したとする伝えと、継体の死後すぐに欽明
が即位した
とする二通りの伝えがあるわけだ。このため、喜田貞吉氏や林屋辰三郎氏らによっ
て、欽明と安閑·宣化が
同時に皇位にあった時期が何年かあったとする、いわゆる「両朝対立説」
が唱えられた。

 継体は安閑を皇位につけて亡くなったものの、蘇我稲目らを中心とする反対派が「皇統系」の
手白香皇女
を母とする欽明を擁立。ところが、大伴金村らを中心とする「新王朝派」が安閑を守り、
さらに宣化を立て
二つの朝廷が対立した―というものである。

 六世紀の大きな謎として、論争が続いている。

  靍井忠義  日本書紀の大和 より




大伴金村

 大伴金村は、五世紀末から六世紀前半に活躍した人

物として名高い。古代の大豪族·大伴氏の中でも一番

の著名人。

 仁賢天皇没後、大王への野心を表したという平群氏

の真鳥、鮪(しび)親子を討ち、武烈天皇を即位させた
のが金
村。
これにより、大伴氏が一気に頭角を現した。時を

同じくして物部氏も力を伸ばし、葛城、和珥、平群氏

の時代から大伴、物部氏の時代へと移った。

 金村は、継体天皇の擁立でも活躍する。越から招く

ことを提案したのも、樟葉宮での即位のとき天子のみ

しるしの鏡と剣を献上したのも金村。「王朝断絶」の危

機の中で、政府内第一の実力者としてリーダーシップ

を発揮したことが、書紀の記述からうかがえる。
  靍井忠義  日本書紀の大和 より




有間皇子

 斉明四年(六五八)の五月、建 王( 中大兄の子)が八歳で亡くなった。耳が不自由でことばが話せな
かった
孫の死。天皇はひどく悲しんだ。数多くの挽歌をつくり、いつもそれを口ずさみながら泣いた。

 十月になって、悲しみをいやそうと紀温湯(和歌山県·白浜温泉付近)へ出掛けた。中大兄らも同行
した。

 留守中、蘇我赤兄が有間皇子を訪ねた。 「天皇の政治 には三つの過失があります。一つは大き
な食庫を建て
人民の財物を集種すること。二つめは延々と渠水を掘 って公の食料を浪費すること。
舟で石を運び、丘のよ
うに積み上げることが三つめです」

 有間皇子は、赤兄が自分に好意を持っていると思い喜んだ。「私もいよいよ武器を取る年齢にな
った」

 二日後、こんどは有間が赤兄の家に足を運んだ。謀議の途中、脇息がひとりでに折れた。不吉な
前兆
有間はすぐ、市経(生駒市壱分付近)の家へ引き返した。 その夜更け、有間の家は兵に囲まれ
た。赤兄の裏
切りだった。赤兄は天皇のもとに使いを出し、謀反を報告した。

 有間は逮捕された。紀温湯に護送された。中大兄がじきじきに取り調べた。 「なぜ謀反したのか」。
「天と赤
兄とが知っていよう。 私は何も知らぬ」 有間は藤白坂 (海南市)で絞首刑に処された。
一味の
舎人ら二人が斬殺され、二人が東国く流された。

(巻二十六,斉明天皇)

   磐代の浜松が枝を引き結び  ま幸くあらばまたか

   へり見む

   家にあれば筍(け)に盛る飯(いい)を草枕 旅にしあれば椎の

   葉に盛る

 あまりにも名高いこの二首の万葉歌は、護送される途中の有間が磐代(和歌山県南部町付近)で
詠んだ、と
伝える。草木の枝を結ぶのは旅の安全を祈る習慣、ひそかに許されることを期待してい
たのか。しかし、思
いもよらなかった「飯を椎の葉に盛る」旅、無念の思いがにじむ 有間皇子は
十九歳だった。孝徳天皇の一粒種。皇位
継承の有力候補者の一人だった。

 十八歳のときのこととして「陽狂(うほりくるい)す」とある。なぜか「狂人を装った」のだ。皇位への
野心を隠すためだ
ったのか。中大兄への警戒からだった、とみる向きが多い。父·孝徳帝への仕打
ちは記憶に生々しかったはず。

 さまざまな推理があるが、この事件もまた、冷酷非情な中大兄がライバルを消すために赤兄を使
って仕組
んだ、との解釈が圧倒的だ。現に赤兄は、事件後トントン拍子に出世、近江朝廷の左大臣
として重きをなし
た。

 ただ、 事件の背後にあった「民の不満」も見逃せない。「三失政」を挙げつらう赤兄のことばは、
「謀反の
道理」として説得力を持っていた。民衆を打ちひしぐ大土木工事、陰湿な謀略……。
斉明朝をして「狂乱の
時代」と呼ぶ研究者もいる。

  靍井忠義  日本書紀の大和 より




天武天皇の政治

 壬申の乱で、伝統的な畿内の大豪族は近江側にあった。このため、天武の勝利は、大豪族の中央
政治から
の排除を意味した。ここに、従来の大豪族連合政権的体制から脱け出し、天皇独裁への道
が開かれることに
なった。

 天武は大臣を置かなかった。もっぱら、皇后鸕野皇(のちの持統天皇)と草壁大津ら諸皇子が国
政を補
佐した。

 豪族たちの官僚化に意を尽くした。受け皿として大弁官、六官(法官、理官、大蔵、兵政官、刑官、
民間)な
どの官庁組織を整えた。

 また、各豪族の土地、人民の私的支配の制限に努めた。天智朝の民部(かきべ)を廃し、見返りに
国家が支給する食
封を定めたのもその一つ。狙いは、天皇の下で政治にたずさわる人たちから経済
的支えを奪い去り、給与生
活者にすることだった。

 給料の多寡は、個人の働きや才能によることを原則とした。とはいっても歴史を積み重ねてきた氏
を完
全に無視することはできない。そこで、「バ色(やくさ)の姓jを制定するなど、各氏族の再編成に取
り組んだ。各氏族
に、真人、朝臣、宿祢、忌寸、道師、臣、連、稲置の姓を与え、序列化すると同時に
上級官人を出せる氏を
制限した。

 さらに、四十八階の位階制で官人らを序列化した。皇族らも初めて序列に組み入れた。しかし、天皇
と皇
后は冠位を超越する存在として除いた。 それは、「現人神」の法制化を意味した。「天皇」号自体
も天武朝に確
立した、といわれる。

 
 たまたま太陽神を記っていた伊勢神宮を国家の神、
天皇家の神とした。新嘗祭などいまに伝わる皇
室行事の多くを国家祭儀として確立した。天皇の即位儀礼、大嘗 祭の本格化も天武朝といわれる。
仏教の統制にも
手を伸ばし、護国教化を進めた。

 一方で、「皇統の正しさ」を作り上げた。記·紀神話の体系化がその柱。『古事記』や『日本書紀』が完
成する
のは奈良時代に入ってからだが、いずれも天武の命で編さんが開始された。
  靍井忠義  日本書紀の大和 より





木の衣を脱いだ新薬師寺木造地蔵菩薩

 700年ぶり? 2019年に国重要文化財に指定された新薬師寺(奈良市)の「木造地蔵菩立像」。
鎌倉時代の12
38年に全裸の像としてつくられ、その後、木製の衣を貼り付けて着衣像に改造された
珍しい仏像です。

 1983年に調査した際に、この事実が初めてわかりました。寺は木の衣を取り外し、裸の像を元の状
に戻すことに。 木の衣はレプリカの裸の像に付け、新たな像に仕立て直しました。現在は裸の像と
着衣像
の2体となって保存されています。

 像内で見つかった願文によると、裸の像は興福寺(奈良市)の僧・尊遍(1194~?)が、亡き師の実尊
(1180~123
6)をしのんでつくったもの。尊遍は師と見立てた裸の像に本物の法衣をまとわせ、師に接
するように日
々、像に奉仕をしていたと考えられています。

 その後にあった木の衣を付ける作業は、形を合わせるために裸の像の腹部を削り取るなど手が込
んだもの
でした。 中田定観住職(76)は「自らの死期をった尊遍が、師を模した像を裸のまま後世に残
すのが忍びな
く、木の衣を着せたのでしようか」と話しています。
   2020-3-27 朝日新聞
(福岡龍一郎)



哭(泣)沢の女神

 哭(泣)沢の 杜に三輪(神酒)すえ 祈れども 我が王(大君)は 高日しらぬ
    万葉集巻2-202の 伝 桧隈女王

 
 この歌は、『万葉集』中で最長の
歌である柿本人麻呂高市皇子挽歌(巻二~一九九)の反歌の一首

です。一方で、『類緊歌林(るいじゅうかりん)』という歌集には「檜隈女王の泣沢神社を怨む歌」として
掲載されているとの
注も添えられています。つまり『万葉集』が編集された当時から作者は柿本人麻呂
か檜前女王か
の二説があったということになります。

 『類聚歌林』とは、『万葉集』巻一~:六番歌の注に山上憶良が編集した歌集であったと記されており、

ほかの箇所にも引用されていますが、現存しません。槍前女王は、この歌の作者としてのみ名前が伝
り、系譜や生没年などは一切不明です。

 この歌の注ではさらに、高市皇子の死去に関する「日本紀」の記事を紹介しています。
現行の『
日本書』(巻第三十)によれば、持統十 (六九六)年七月十日に「後皇子尊薨りましぬ」と記さ
れており、『万
葉集』の注と合致します。

 天武天皇の最年長の皇子ではあっても母親が皇族ではなかったため皇嗣とはなり得なかった高市皇

子を「後皇子尊」と称したのは、「皇太子」とされた草壁皇子亡き後にそれに次ぐ人物とみなされたこと
によるといわれています。

 「高日知らしぬ」とは、天孫とされた天皇にこそふさわしい死の表現であり、太政大臣であった高市皇
にとっては破格の扱いといえます。

 「泣沢の神社」とは、現在の橿原「市木之本町の畝尾都多本神社あり、祭神は伊邪那美命が火の
を産んで亡くなった際に伊邪那が嘆き悲しみ流した涙に成った泣沢女神である、と『古事記』上巻

に記されています。

 この女神に祈れば命がよみがえると信じられていたようです。しかし、祈りもむなしく神となって天上

世界へ去ってしまった、という嘆きがこの歌では表現されています。

 県民だより 奈良 2020-4月号  万葉文化館 井上さやか)



二人の建国者の謎

 『日本書紀』によると、建国の天皇として二人の名がみえる。その一つは「始馭天下之天皇(はつくにし
らす)」と記された神武天皇、他は「肇国天皇(はつくにしらす)」と呼ばれた崇神天皇である。

 現在ではともに「ハックニシラス・スメラミコト」と訓んでいるが、当てた漢字が異なるだけに、古くは訓み
も違っていたかもしれない。それにしても、建国者として伝えられていた王が二人あったととは確かである。

 同じ皇統譜の中で、建国者が二人いるということは矛盾である。そのととについては早くから指摘され
ていたが、第二次大戦後には皇室批判が自由に許されるととになって、この問題が再び取り上げられた。
その結果は、大和朝廷の建国者と認められるのは第十代の崇神天皇であり、それ以前の初代神武天皇
から開化天皇に至る九代は、神話的·架空的なものであるとして否定された。

 しかし、その否定の仕方には問題があった。神武天皇の条にだけ事績があって他の天皇には即位、
后の名、継承皇子の名、崩御と墳墓地だけが記され、何んらの事績もみえないことから、簡単に欠史
代として片付け、その実在を否定したととである。

 それはあまりにも学究的でない否定の仕方であった。そのため史学者の間では、あえて実在を主張し
ようという要求では な かったが、もっと論理的に考証すべきであるといらう声が出はじめていた。そうした
とき、拙著 『神々と天皇の間』を刊行して、初期九代の実在を論証し、それを「葛城王朝」と名づけたの
であった。

 その提唱は史学界に定着しつつあるが、前述の問題もそれによって明白になることになった。

 神武天皇の条にだけ事績があるのも、それは九代にわたる事績がそとに一括して記され ているからで
ある。伝承されていた原本が、この王朝の歴史をまとめて記述していたことによったからだとみられる。
とれに対し二代以後は、系譜に付記された注記をもとにした ために、事績のととが見えず、系譜的記録
になったのであろう。

 また『日本書紀』に建国の王が二人あるの葛城王朝と大和朝廷の異なった歴史を連続した一つの皇統
譜にしたために起こったものである。したがって、神武天皇は葛城王朝の建国者、崇神天皇は大和朝廷
の建国者であったとみてよいのである。
  鳥越憲三郎  大阪教育大学教授



二柱の皇祖神

 伊勢神宮の内宮に祭られている 天照大神は、皇祖神として皇室にとっても国家にとっても最も貴く重要
な神であった。天照大神が、太陽神であること、女神であるとと、伊勢神宮に祭られているとと、皇祖神と
いう最高の地位のぼったことなどの理由については、さまざまな方面から研究されているが、もう一柱の
皇祖神として高皇産霊神に注目する見解がある。高皇産霊神は造化三神の一柱で、またの名を高木神
といい、この神は天孫降臨国譲り、神武東征など大事な場面に天照大神とならんで種々の命令を下す司
令神としてしぼしば登場し、かなり尊貴な神として描かれている。高皇産霊神の司令神としての役割に注
目し、さらに又の名高木神の名義を朝鮮の檀君などと同じく山上や高い樹木に降臨する神と解釈すると
とによって、高皇産霊神とそ天皇族に固有な祖神であり、天照大神は天皇族が朝鮮を経て日本へ侵入
する前の先住農耕民の母神であって、先住民族との通婚の結果、先住民族の文化万般が天皇族のな
かに混入して二元性が生じ、皇族神についても高皇産霊神と天照大神という二元性ができたとする。
伊勢神宮の祭神は太陽神であった高皇産霊神で、それが後に新しい太陽神天照大神にとってかわられ
たとみる説も有力である。
  前之園亮一  学習院大学  



国譲り神話

 記紀における国譲り神話をい かに解釈するかは、とりもなおさず古代出雲の大和朝廷への服属過程
をどうみるかというととと同一である。すなわち、タカミムスヒノミコトアマテラスオオミカミの命をうけて、
タケミカヅチフツヌシの両神が葦原の中つ国に派遣されるが、その中つ国はオオクニヌシノミコトの治
める国であり、出雲国の伊那佐の小浜が国譲りのフィナーレの場所となった。まさしく服属されるべき
葦原の中つ国は記紀神話においては出雲の地であったのである。国譲り神話の解釈については、
出雲は被治者の世界、高天原は治者の世界を象徴する概念にすぎず、後者が前者を統一する事情の
神話化であるとする説、大和の出雲族の出雲国内への移住を反映しているとする説、出雲東部の意宇
(おう)の勢力が大和朝廷の助力を得て、西部の杵築勢力を滅ぼし、国造に成長していった史実の表現
とする説、東の大和に対して西の隅の出雲に代表される二元的対立が根底にあって、その神話的象徴
化が国譲りに他ならないとする説などを代表として、他にも幾多の説が存在する。
  前之園亮一  学習院大学  



二種の天孫降臨

 天孫降臨というと『記紀』神話の瓊瓊杵尊日向高千穂への降臨伝承が有名である。しかし天から
神や祖先が降臨したという伝承はほかにも種々伝えられている。『出雲国風土記』には天乃夫比命(あ
めのふひのみこと)の天下り、宇夜都弁命(うやつべのみこと)の天下り、『常陸国風土記』には普都大神
(ふつのおおかみ)の天下りなどの記事がみえ、降臨伝承は各地に行われていたのである。なかでも注
目すべきは、物部氏の祖神饒速日尊の降臨伝承であろう。『紀』によると、焼速日尊は天磐船に乗って
天下り、のちに神武天皇の大和平定に際し、衆を率いて帰順したという。『先代旧事本紀』の「天孫本紀」
では、はるかに壮大にえがかれている。饒速日尊は天神から魂振(たまふり)の神器である天璽瑞宝十
種(あまつしるしのみずたから)を授けられ、三十二神および五部、さらに二十五部の物部を従え、船長
・梶取・船子の運転する天磐船に乗って河内国の哮峯(たけるがみね)に天下り、ついで大和の鳥見の

白庭山に遷り住み、長髓彦の妹三炊屋媛(みかしきやひめ)を娶って美真手命(うましまでのみこと)を生
んだが、饒速日尊は早死にしてまた天に帰っていったという。『先代旧事本紀』は物部氏関係者の手に
よって九世紀に作られた偽書とみなされているが、なかには『記紀』にみられぬ独自の記事も含まれて

おり、饒速日尊の降臨伝承も物部氏が独自に伝えていた古い祖神伝承であるとすると、これは瓊瓊杵尊
の降臨神話に匹敵する、あるいはより古い降臨伝承といえるであろう。
  前之園亮一  学習院大学


飛鳥時代の都市計画

 平城·平安京に先だつこと約一世紀、飛鳥の地で秩序ある都市づくりが採用されていた。

 千田稔·奈良女子大学助教授(歴史地理学)は、十月三十日大阪で開かれた人文地理学界で新しい学
説を発表した。

 同助教授の発表によれば、飛鳥時代に栄えた奈良県の飛鳥の都、斑鳩の里、大阪府の河内飛鳥は、
いずれも飛鳥寺造営に使われた高麗尺の二百五十尺(約二百二十二·五m)を一単位として区画割りさ
れた設計法で、そのモデルは百済の古都、扶余と推定される、というたとえば、飛鳥では、南北に走る
古道の一つ 「中ッ道」と東西に走る古道の交わる点を原点として、二百五十尺を一単位とするアミの目
を地図の上にひくと、飛鳥の中心線は東一単位の数とピタリと重なり、南二単位と三単位の間に建造 さ
れている。また川原寺都塚天武·持統陵なども区画線上か、線の交点にビタリと合致する。このととは、
斑鳩地方も河内飛鳥でも同様である。

 一方、百済の扶余について調べてみると、やはりきちんとした区画をもとに造営されているととがわか
る。

 このことから、飛鳥など三つの地域は高麗尺を物指しとする設計法が用 いられたとみるのが自然とい
うのが千田助教授の論拠である。この新説、今後、学界に波紋を投げかけそうだ。
 昭和52年10月31日



笠置寺

 京都府南東部の笠置山は花崗岩でできていて、点在する巨石や奇岩は弥生時代から信仰の対象になっ
ていたとされる。

 その山上にある笠置寺は、清少納言が枕草子で「寺は」と挙げた「お気に入り」の一つだ。ただ、清水寺
などと比べるまでもなく、昨今の観光客数は多くはない。

 もっとPRしようと、府が8月末、ガイドを養成する講習会を開いた。参加者は15人。記者も同行させても
らった。

 寺を中心に1周約800mのコースを、小林慶昭住職(57)らの解説を聞きながら回った。

 本堂・正月堂。東大寺の大仏を建立した良弁和尚の弟子、実忠が建てたとされ、最初に開かれた法要
は東大寺二月堂のお水取りの起源とされる。

 「どうぞ、近寄って触ってみてください」。小林さんの呼びかけに、参加者らが「パワーをもらえる」と喜んだ
のは、本堂横の白い岩壁。高さ約15mはある。触ってみるとざらついていて、ぬくもりを感じた。

 これが寺の本尊、弥勤磨崖仏だ。約1350年前に「天人(天界の人)」が刻んだと伝えられ、清少納言の
平安期には多くの人が詣でに来ていた。だが、鎌倉幕府と後醍醐天皇の間で1331年に始まった元弘の

乱で山が戦場になり、壊されてしまったのだという。

 標高288mの山頂部分は宮内庁が管理する「後醍醐天皇行在所跡」。元弘の乱で、後醍天皇は
三種の神器を持ってここに立てこもった。「れっきとした皇居跡です」と小林さん。

 ほかにも、「一番のパワースポット」として紹介された洞窟」千手窟」や、虚空蔵菩薩磨崖仏、「太鼓石」、
「ゆるぎ石」 など、いろんないわれのある石や岩が飽きさせない。

 境内はこれから紅葉の季節へ移る。寺を浮かび上がらせるように雲海ができる日もあり、さらに魅力を
増していくという。
   2020-9-18  朝日新聞(甲斐俊作)


栄山寺(語り部)

 五像市を流れる吉野川のほとりに古利·栄山寺(真言宗)があります。 この地域は古代には阿陀郷とよばれ
早くから開けた土地でした。

 藤原氏繁栄の基礎を作った藤原不比等(鎌足の子)の長男·武智麻呂(藤原南家の祖)が養老3年(719)に創
建したと伝えられるお寺が栄山寺なのです。吉野川をさらに少しのぼって行きますと神亀5年(728)に
武智麻呂が荒廃した社殿をみて改築したと伝えられます延喜式内社·阿陀比売神社があります。藤原氏に
あって唯一穏健な性格だったといわれる武智麻呂と深い関わりをもつ五條なのです。栄楽山寺はその
藤原南家の菩提寺であります。

藤原南家とは、大化の改新に関わった鎌足がその功により天智天皇(中大兄皇子)から賜った藤原の姓、
その後、不比等の4人の息子が興した4つの家を藤原四家(しけ)とよんでいます。武智麻呂の南家、房前(ふ
ささき)の北家、宇合(うまかい)の式家、麻呂(まろ)の京家です。父·不比等が築いた基礎をさらに盤石なもの
に固めようと画策する藤原氏のその強引な手ロに反発した人がいました。それが天武天皇の孫·長屋王
(高市皇子の子)でした。長屋王は藤原の息のかかっていない天武系の皇族として、藤原氏のやり方に不満
をもつ人びとの期待を一身に背負っていました。しかし、藤原氏によって一族滅亡へと追い込まれ悲劇の
物語を生みました。長屋王の一族を減ぼし邪魔者を消して4人の兄弟はこの世の春を調歌していましたが

長屋王の死から8年後の天平9年(737)、天然症が都を襲い藤原4兄弟はあっという間に亡くなってしまいま

した。4人の権力者があっという間に消える「これは長屋王の崇りだ!」 と誰もがそう思ったことでしょう。藤原
4兄弟の死によって、権力の空白状態が生まれます。ここに橘諸兄(もろへ)、吉備真備玄防らの反藤原政
権が誕生したのです。そしてその後、いったん没落した藤原氏を再興したのが武智麻呂の子·藤原仲麻呂
でした。栄山寺の国宝「八角堂」はこの仲麻呂によって父母追善供養のために建立されたと伝えられていま
す。 奈良の佐保山にありました武智麻呂のお墓が天平宝字8年(764)までに栄山寺の北側の山の上に改
葬されています。栄山寺八角堂はこの頃に建てられたのではないかと考えられています。仲麻呂は暴走
(恵美押勝の乱)し天平宝字8年(764)に斬殺されています。


仁徳天皇

第十六代 仁徳天皇(大雀命·巨大古墳時代)

 五世紀のはじめに大和朝廷の本拠は、大和から河内に移ったとせられます。それはこの時期、河内平野
の農地の開発が急速に進んだからで、その頃大和朝廷の勢力が河内に進出していた。それを物語るのが、
大坂府堺市に存在する仁徳天皇陵古墳です。また大阪市難波宮跡からは仁徳宮跡と見られる建物群が出
土しているようです。仁徳天皇陵をとりまく古墳群は百舌鳥古墳群と称せられます。また隣接する羽曳野市
には応神天皇陵を中心に古市古墳群があります。

 大山陵古墳とも呼ばれる仁徳陵は、日本列島で最大の全長四七五mをなしています。さてこの造築の土
木工事には役民が大量に動員されたに違いないのです。研究によれば延百四十万六千人が必要ではなか
ったと.そこで聖帝の美徳である課役を三年間免除したという所伝は、大土木工事による民衆の疲弊を考慮
しての政策であり、畿内各地の灌漑用の池の造成にとっても必要であったのでしょう さて仁徳天皇を聖帝と
称するに相応しい有名なエピソ-ド『』によれば 「天皇は高い山 (高殿·紀)に登って四方の国を見わたし「国
のなかに姻立たず、国みな貧し。いまより三年にいたるまで、人民の課(みつぎ)·役(えだち)を除(ゆる)せ」と
詔り賜った,そして自分の御殿の修理もしなかったので、雨漏りがひどかった。三年後ふたたび国見をすると、
家々から姻が立ちのぼり、民は富み栄えていた。そこでまた民に課役を命じた」と この説話は国見儀礼を
背景にして語られていているので、人民の窮乏を知っての課役を三年間免除、皇居が破損し、雨もりの放置
というのは儒教思想の影響のもとに、仁徳天皇を聖天子として尊重しようとする歴史観を背景にした善政(津
田左右吉)とい見解が示されていますが、ただ理想化されているのみでなく、この聖天子尊称をもった
仁徳天皇は、実在性を保証する中国の『宗書』に記載されている「倭の五王」、讃、珍·済·興·武の讃に比定さ
れるので、それに従うならば仁徳天皇は五世紀初頭の実在の天皇といってよいかと思います。

 仁徳天皇は幼名を大雀。応神天皇の第四子 (紀 )であり、母は皇后仲姫命です。兄大山守命と 弟
菟道稚郎子の間にあって、皇位をめぐる争いに巻き込まれ、結局は、弟菟道稚郎子から譲られて仁徳天皇
として即位されたのです。(拙著『扶桑樹呻吟記』-壬申の乱」(1990))。この複雑な関係は、この度は割愛さ
せて頂き、天皇として即位された時点から取り上げさせて頂きます。応神天皇崩後の空位三年を経て仁徳
元年春正月三日即位され、翌年即ち二年の春三月八日に磐之媛命(石之比売命 )を立てて皇后となすと 。
   宮地たか  奈良文化短期大学名誉教授


石之日売(磐之媛命『紀』)皇后について

 石之比売命 は、葛城襲津彦の娘です。当時の朝廷にとって最強有力者が葛城氏で、イワノヒメ命が仁徳
の皇后に迎えられたには強 引さもあったのではないかと.仁徳帝は幾人かの女性との関係をも ったが、皇后
は嫉妬にかられて「言立(こと)てば、足もあががに嫉みたまひき」と。立后は仁徳二年三月八日「磐之媛命を
立てて皇后となす『紀』,「三十五年夏六月に皇后磐之媛、筒城宮に薨りましぬ」。

 さて前掲したように仁徳天皇は五人の男御子と、一人の女御子をもったことになります。そのうち男御子四
人がイワノヒメの御子。そのうち三人ともに天皇位につくのですから、母のイワノヒメノ命は異例の幸運に恵ま
れたことになります。但し実際にその喜びを手にしたのは仁徳三十一年(343)に大兄来穂別皇子 (おおえのい
ざほわけのみこと・,履中天皇)が皇太子に立てられて四年後の、仁徳三十五年に磐之媛皇后は筒城宮で薨
ぜられています。覆中天皇の即位は更に五年後のこと磐余稚桜宮で行われたのです。その後の反正天皇
尤恭天皇までがイワノヒメ皇后の皇子です。にもかかわらずイワノヒメ皇后には満たされないものがありま
した。それは天皇の容姿が優れていて、女性の目をひく存在だったからです。「天皇、幼くして聡明(さと)く叡
智(さかしくまします)(仁徳紀)と。皇后は天皇の女性との親密な関係に嫉妬心する。このイワノヒメの異常な
嫉妬心が「記紀歌謡物語」となり、やがては「万葉相聞歌」へと、情感の質的変容を迷げながら運続していま
す。
   宮地たか  奈良文化短期大学名誉教授


仁徳天皇

 古事記は、16代仁徳天皇が高い山に登り、国見をしたことを記す。国見は初代神武以来、即位した天皇が

国造りに際し行う儀礼で、民の様子を把握する。

 天皇の目に映ったのは、飯を炊く竈の煙も見えない貧しい世である。このため、3年間にわたり課役を免除
した。この措置により、宮殿は雨漏りもするようになったという。

 こうした記述について、帝塚山大の鷺森浩幸教授は「国見は、王権の儀礼としてあったのは確実だが、免

税措置は仁徳を聖君主として描くものだったと思われる」ととらえる。

 国見をした仁徳天皇が課役を免じた後、国はやがて炊煙が満ちて繁栄したと古事記は書く。

 「民と天皇は、貧富において一体だというのである。 古事記によれば、初めて民に税を課したのは10代
崇神天皇だ。 その後、垂仁景行と国内の統治範囲を広げ、13代成務こそ短命だったが、仲哀( 神功皇后)

応神と外征し、渡来人を受け入れるほど国力を充実させた。 その末の仁徳天皇の免税を鷺森教授はこう考
える。

 「当時、多くの民衆は豪族層の支配下にあり、天皇が直接向き合うのは貢物、労力を提供した一部の部民

に限られた。天皇は豪族層の奉仕に支えられていた」

 天皇はすでに、豪族に対するリーダーシップを確立していたという指摘だ。

 記紀は、仁徳天皇が難波(大阪市)に「高津宮」を営んだと記す。高津宮がど」こにあったかは分かっていな
いが、後に上町台地に造られた36代孝徳天皇難波長柄豊碕宮や45代聖武天皇の難波宮があった地と
の関係も注目され、大阪歴史博物館の村元健一学芸員は「孝徳天皇が高津宮を意識した可能性はある」と
指摘する。

 仁徳天皇を祭る高津宮 (大阪市中央区高津)には、天皇が国見をした「高殿」(日本書紀)をイメージした絵馬
殿がある。この高台からはかつて市中が見渡せたといい、洋画家、小灘一紀さんが国見の様子を描いて奉納
した作品も掲げられている。

 「免税などを通じて民に寄り添いながら、土木事業で国家としての生産力を高められた。 身を粉にして民の
ために良い政をされたのでしょう」

 小谷真功宮司はそう語る。 日本書紀は仁徳天皇のこんな言葉も伝えている。

 「未だ百姓富みて君貧しといふこと有らず」

 民に支えられてこその天皇、政権だという思想を持っていたことをうかがわせる仁徳天皇の皇統は25代
武烈天皇まで続く。
   2019-11-20 産経新聞



磐之媛命

 聖帝·15代仁徳天皇のもう一つの顔は、皇后·石之比売命の激しい嫉妬に苦悩していたことだ。

 皇后は、天皇が他の女性を宮中に召し上げたと噂が立っただけで、足をばたつかせて嫉妬したと事記は書く。
そんな皇后がただならぬ噂を聞く。

 皇后は、宮中行事で使う御綱柏(みつながしは)を採りに出かけた紀伊国から船で、難波に到着しようとしてい
た。皇后の怒りを古事記はこう書く。

 <いたく恨み怒り、其の御船に載せたる御綱柏は、悉く海に投げ棄てたまふ>

 皇后はそのまま船で淀川を遡った。

 <ゆつ真椿(まつばき) 其(し)が花の照りいまし 其が葉の 広りいますは 大君ろかも>

 このとき、皇后はこんな歌を詠んでいる。 清らかな椿の花のように輝き、その葉のように大きい(寛容な)

天皇でいらっしゃいますことよ、という意味の歌だ。

 「重要儀式の準備に励む皇后の誇りを傷つける天皇の行いが、そもそもの怒りの原因。皇后の怒りや嫉妬

は、天皇への強い気持ちの裏返しでもあるのです」

 昭和女子大の烏谷知子教授はそう話す。皇后の出奔に天皇はあわて、鳥山という舎人を使者に立てる。そ

の心境は、鳥山に与えた歌が今に伝える。

 〈山代に い及(し)け鳥山い及けい及け 我(あ)が愛(は)し妻に い及き遇(あ)はむかも〉

 山代(山城、現在の京都府南部)で愛しい妻に追い ついてほしいと訴える歌は、焦燥感にあふれ、帝らしい
泰然さは微塵もない。

皇后は淀川から木津川に入って故郷がある奈良盆地の手前まで行き、望郷の歌を詠んで引き返す。身を寄
せた先は綴喜(つづき)地域(現京都府京田辺市など)の渡来系氏族だった。

 天皇は、臣下の丸迩臣口子(わにのおおみくち)も派遣した。 今度は夫婦愛に訴えて帰宅を促す歌を託して
いたが、皇后は面会すらしない。口子は仕方なく天皇に、「皇后は不思議な虫を見に行っただけで他意はない」
と説明した。

 虫とは蚕のことで、当時は珍しく、天皇はロ子にこう答える。

 「吾(あ)も奇異(あや)しと思ふ。 故(かれ)見に行かむと欲(おも)ふ」

 自分を迎えに行かせようとしている口子のお膳立てに乗ったのである。古事記の記述を同志社大の辰巳和弘
元教授は「神聖な王が農耕を、后は養蚕を司る中国の親耕親蚕思想を背景に天皇と皇后をたたえる意味があ
ります」と読み解く。天皇は、皇后のいる御殿まで出向き、戸口で歌を詠んだ。

 <さわさわに 汝(な)が言へせこそ うち渡す やがは枝(え)なす 来入(きい)り参来(まゐく)れ〉

 あなたが言い騒ぐからこうして大勢で来たのだという歌は、皇后をたしなめている。

 「皇后の怒りを鎮める過程で天皇は度量を大きくしていく。最初から聖帝なのではなく、聖帝へと成長し てい
くのだといえます」

 烏谷教授はそう話す

  2019-11-22  産経新聞 


養蚕と皇后

 古事記には蚕や機織りが女神や女性に関連して登場する。須佐之男命高天原の神聖を汚す場面では、
天照大御神の命で神々の衣を織る天の服織女が殺される。須佐之男命に殺された大気都比売神の頭に蚕が
生ったとの記述もある。

10代崇神天皇は、「女の手末の、調」として、手織りの布を税として納めさせた。

 日本書紀によると、21代雄略天皇は后妃らに桑の葉を摘ませて養蚕を勧めようと考え、国内の蚕を集めさせ
たという。.現在の皇居内でも養蚕施設で蚕が飼育され、明治以降、歴代皇后が作業を引き継いでいる。
  2019-11-22  産経新聞



仁徳天皇陵築造時期と没年にズレ

 仁徳天皇陵(大山古墳、堺市堺区) をめぐっては、「仁徳天皇の墓として疑う理由はない」「被葬者を絞り込
むのは難しい」など研究者の見解はさまざま。今回発掘は墳丘本体ではなく堤の一部とはいえ、研究者らは
調査成果に注目する。

日本書紀に記述

 「仁徳天皇の墓と考えていいのでは」と話すのは白石太一郎·大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長。「(仁徳
天皇の先帝に当たる)応神天皇の在位は、朝鮮の史料などからも4世紀末~5世紀初めと考えられる」と指
摘。応神天皇陵(大阪府羽曳野市)も出土し|た埴輪などから5世紀初めごろとした上で、「応神天皇陵の次に
築かれた巨大古墳は仁徳天皇陵であることは明らか」とする。

 仁徳天皇陵は歴史研究者の間で「あれだけ大きな古墳は仁徳天皇以外にあり得ない」との見方が多い。
日本書紀などが「聖帝」と記しているためだ。日本書紀は天皇が民の生活を大切にしたことを伝え、葬られた
地も「百舌鳥」と記す。

 ただ、仁徳天皇が死去したのは4世紀末ごろともいわれる。今回の調査で出土した埴輪は5世紀前半~中
頃で、仁徳天皇陵の築造も同じころとすれば年代が合わない、との指摘もある。

数人分の業績か

 仁徳天皇の墓でないとすれば被葬者は誰なのか。

 京都橘大の一瀬和夫教授(考古学)は、仁徳天皇陵には後円部と前方部、それに明治5年に前方部斜面で
見つかった石棺の、 少なくとも3体が葬られたと推測。そのうえで「文献に残る仁徳天皇の伝承は、当時の
大王の数人分を1人の業績としてまとめられたものではないか。(次に即位した)履中天皇の業績もそこに含
まれているかもしれない」と指摘する。

 宮内庁は履中天皇の陵として、仁徳天皇陵から約700m南にある上石津ミサンザイ古墳を指定。ただ、
築造時期は出土埴輪から4世紀末ごろとされ、仁徳天皇陵より古い ため、天皇の即位の順とは合わない。
考古学的な調査成果と日本書紀を結びつけるのは容易ではなく、謎は深まるばかりだ。

 天皇の即位順
  15代応神天皇ー16大仁徳天皇ー17代履中天皇
 
 天皇陵の築造順
  履中天皇陵ー応神天皇陵ー仁徳天皇陵

   2018-11-23  産経新聞




仁徳の御子初の兄弟継承

石之比売命ー⑮仁徳天皇 
男浅津間若子宿祢命
(おあさつまわくごのすくねのみこと)
允恭天皇 
水歯別命
(みずはわけのみこと)
反正天皇 
墨江中王
(すみのえのなかつみこ) 
伊耶本和気王 
(いざほわけのみこ)
履中天皇

 16仁徳天皇を祭る難波神社(大阪市中央区)は御子の18代反正天皇(水歯別命)が建立したと伝わる。天皇

が都とした河内国多治比の柴垣宮(しばがきのみや・現大阪府松原市)に建てられ、61代朱雀天皇の命で大江
の坂平野郷(現大阪市天王寺区)に移った。

 現在の御堂筋沿いの地に移ったのは豊臣秀吉の大坂城築城に伴ってのことだ。ビジネス街のビル群に交じ

って、 四方に鳥居を持つことを許された神社があることは、難波の高津宮に遷都して現在の大阪市につなが

る礎を築いた仁徳天皇への崇拝の表れだろう。

 治水と国造りに努め、聖帝と呼ばれた天皇には4人の妻と6人の御子がいた御子のうち4人は皇后·石之比売
命が産んだ男子で妃たちが産んだ子が少ないのは皇后の嫉妬がすさまじかったからだ。

 <子、伊耶本和気王、伊波礼(現奈良県桜井市)の若桜宮に坐し、天の下治らしめしき>

 17代履中天皇について古事記はそう記す。正妻である皇后が産んだ長男が、聖帝の後継者に選ばれたと

いうことである。

 「兄の子は、既に人と成り、是れ嘆くこと無し。 弟の子は、いまだ人と成らねは、是れ愛し」

父の5代応神天皇から15代年長の子と年少の子のどちらが愛しいと思うかと問われてそう答え、異母弟の
宇遅能和紀郎子に皇位を譲ったのが仁徳天皇(当時は大雀命)である。その天皇が在位中から長男,伊耶本和
気王を後継者に決めていたことは、ずっと難波に住まわせていたことで推測できる。

 「長男を後継者としたのは、先帝の過ちで学んだからでしょう。仁徳王天皇は皇位継承で、決して無理をして
はいけないと考えていたと思います」

『日本古代の皇太子』などの著書がある荒木敏夫,専修大名誉教授はそう話す。 先帝の過ちとは、最年少の
宇遅能和紀郎子を後継者にしたことだ。この皇位継承に異母兄の大山守命が不満を募らせ、応神天皇の崩
御後に謀反を企てた。謀反は仁徳天皇の協力で鎮圧されたが、宇遅能和紀郎子は異母兄である仁徳天皇に

遠慮して皇位に就かず、そのまま早世した。

 「応神天皇から25代武烈 天皇までの時代は、異母兄弟の第1子は例外なく、皇位継承争いに関わっていま

す。それだけ年長者が皇位に就くのが妥当、年少者には務まらないのが天皇だという考えが広がっていたわ

けで、仁徳天皇は後継者選びでも常識のある人だったと思います」

 
 仁徳天皇の御子たちが歴史的に特筆されるのは、史上初の皇位の兄弟継承を行ったことだ。皇后が産んだ

4人のうち3人もが天皇になった。履中、反正、允恭までの3代である。その後も20代安康ー21代雄略
23代顕宗ー24代仁賢と、 兄弟継承が続く。

 一方で、仁徳天皇苦心の長男継承も、次男の墨江中王の反逆を生む。仁徳天皇以後は、皇位継承権とは何

かを考えさせる時代でもあ る。

仁徳天皇の妻子

 仁徳天皇の妻として古事記が記すのは、皇后·石之比売命のほかに髪長比売八田若郎女、宇遅能若郎女
の4人。髪長比売との間には大日下王と若日下部命の2人の御子が生まれたが、後の2人の妻との間には子供
はなかった。

 子をなさなかった2人の妻はいずれも、天皇の異母妹で、嫉族妬心の強い皇后も結婚を拒むことができなかっ
たと伝わる。

一方で天皇も皇后に遠慮して2人を宮殿に入れなかったため、子供に恵まれなかったという説もある。髪長比売
は、天皇が皇后を迎える前に妻としていたので、2人の御子を得たという。  
   2018-12-17  産経新聞



履中天皇襲われる

 16代仁徳天皇の後を継いだ長男、履中天皇が襲われた。場所は仁徳天皇が開いた難波宮。時は即位後の初

めての新管祭·大嘗祭を行って饗宴を催した夜だ。天皇は大酒し、酔って寝ていた。その虚をつき、弟の
墨江中王が宮殿を取り囲み、火を放ったのだ。

 夢うつつの天皇を、炎に包まれた宮殿から渡来人の阿知直らが助け出し、馬に乗せて退避させたと古事記

は書く。一行は、難波から大和へ向けて山越えをしようとしたところで、出会った女人から「武器を持った兵が
大勢、山をふさいでいる」と告けられる。

そのために迂回し、石上神宮(現奈良県天理市)に入った。

 墨江中王の反逆の理由は即位前の天皇の使者となった墨江中王が、天皇になりすまして黒媛と関係を持った
というのである。 事情はやがて、天皇の知るとこるとなる。

 <ここに仲皇子(墨江中王)、事有らむことを畏りて、太子を殺せまつらむとし、密かに兵を興して、太子の宮
を囲む>

 「婚姻のトラブルはあくまでも、皇位継承をめぐる争いを表現するパターンでしょう。 皇位継承を定めた皇太子
制がなかった時代ですので皇位継承に関わる勢力争いがあった不安定な時代だったことを記紀は伝えたかった
のだと思います」

 関西大の若井敏明非常動講師はそう話す。日本書紀には、天皇一行の行く手を阻む墨江中王側の勢力とし

て、倭直吾子龍、淡路の安曇連浜子の名を記す。「墨江中王側が一定の勢力を抱えているので、皇位を狙う

計画性があったと考えられます」と若井氏は言う。仁徳天皇が争いを生むまいと図った長男への皇位継承 は、
天皇の崩御直後には早くも崩壊の危機に直面したのである。

 日本書紀は、天皇を守って難波から大和に向かった者として、古事記が記す阿知直のほかに平群氏物部氏
の名を挙げる。石上神宮は物部氏の拠点だった。

 「石上神宮は、奈良盆地を一望にする高台に当たります。難波側から見て後背地は山になっており、ふもとに
は布留川が流れる。天然の要害といえます」

 天理市教委文化財課の北口聡人主任主査はそう解説する。文字通り、寝込みを襲われた天皇は、大和に逃

れて防御·反撃態勢を整えた。後の気がかりは、2人にとっての弟、水歯別命男浅津間若子宿称命の動向

だった。特に水歯別命は、身長が185cmもある屈強な御子だったので、去就が注目された。

石上神宮

 10代崇神天皇7年、物部氏の祖、伊香色雄命が創祠したと伝わる。主祭神は神武天皇の太刀と霊威である
布都御魂大神、十種の神宝である布留御魂大神須佐之男命が八俣大を退治した剣と霊威である
布都斯魂大神

 平安時代に白河天皇が、宮中で新嘗祭を行う神嘉殿を拝殿として寄進した。古代の氏族や大和朝廷の神宝
類が保管され、現在まで残るものとして、神功皇后の時代に百済から献上されたとされる七支刀(七枝刀) 4世
紀後半)、鉄盾(5~6世紀)があり、それぞれ国宝、重要文化財に指定されている。
   2019-12-18  産経新聞



履中と水歯別命

 古事記は、すぐ下の弟の墨江中王に襲われて大和石上神宮まで逃げた7代履中天皇のもとに、2番目の弟の
水歯別命(反正天皇)が駆け付けたと記す。しかし、天皇は面会を拒んだ。 墨江中王と同心していることを恐れた
の だ。

 天皇は、難波に下って墨江中王を殺すことを命じる。その後なら面会すると言ったのである。

 水歯別命は墨江中王の側近だった曽婆加里という隼人を、「大臣にする」と言って裏切らせ、墨江中王を殺害す
ることに成功した。

天皇は喜び、水歯別命を宮殿の中に招き入れて、語り合った。同母弟でも信用し切れない天皇の立場と、長兄へ
の忠誠心を持つ弟の心情を、古事記は克明に書いている。

 古事記は、天皇が64歳で崩御し、水歯別命が18代反正天皇として即位したと書く。直系継承を続けてきた天皇
家で、18代目にして初めての兄弟継承である。 残った2人の御子のうち三男が皇位に就いたのは、兄の天皇へ
の貢献度に加え、年長であることが影響したと考えられる。

 「同母の兄弟間での年齢の序列はあったと思われる。後には長子が『大兄(おおえ)』号を持つようになるが、そ

の前段階としてこの時代にはすでに、長子尊重文化はあったのではないか」 帝塚山大の鷺森浩幸教授 はそう話
す。反正天皇が兄から継いだ治世について日本書紀はこう記す。

〈是の時に当りて、風雨時に順ひ、五穀成熟(もの)れり。人民富み饒(にぎは)ひ、天下太平なり〉

 年長の弟が即位したことが、平和と繁栄につながったという価値観が読み取れる文章である。

 大阪府松原市の柴籬(しばがき)神社は、反正天皇が営んだ「多治比の柴垣宮」の伝承地とされる。多治比
(日本書紀は丹比)は、松原市などを合んだ旧丹比郡を思わせ、反正山(はじやま)などの地名は今も残る。

 「少なくとも江戸時代から、神社が伝承地と紹介されてきました。遺構が出ない限り何とも言えないが、地名や交
通の要所であったことなどから、有力な候補地であることは間違いない。

 同市文化財保護審議会の西田孝司委員はそう話す。神社は反正天皇らを祭り、安松昌志宮司は「(ご祭神 は)
兄の履中天皇への忠誠を誓い、兄が亡くなった後は偉大だった父·仁徳天皇と同じような政治をされた。在位は5年
と短かったが、その間は (日本は)穏やかだった」と語る。

 反正天皇の崩御は60歳のとき。100歳を超えると記紀が書くことも少なくない古代天皇にしては、聖帝 ·仁徳
御子は皆、短命だ。

最後に残った四男は持病のある男浅津間若子宿祢命(おあさつまわくごのすくねのみこと・允恭天皇)だ った。

柴籬神社(しばがき)

 大阪府松原市上田に鎮座し、「丹比柴籬宮」(多治比の柴垣宮)を営んだ反正天皇らを祭っている。

 社伝によると、24代仁賢天皇の勅命により創建。慶長年間に兵火で焼けたが、寛永年間に再建されたという。
井原西鶴も参詣し、句碑がある。

 ご祭神の反正天皇は、記紀の記述から美しい歯並びで知られる。境内の末社、歯神社(はがみ)は、高貴な女性
が愛児に乳房をかみ切られて亡くなった悲話が残る神社が別の場所から移されたもので、歯の健康を願い、8月

8日午後8時8分から祭礼が行われている。
   2019-12-19  産経新聞




履中と男浅津間若子宿祢命(允恭天皇)

 16代仁徳天皇の御子の18代反正天皇は、皇太子を立てないまま没した。

 〈群卿議(まへつきみたちはか)りて〉

 日本書紀は、群臣が集まり、仁徳天皇の残る御子2人のどちらが天皇にふさわしいか、相談したと記している。
仁徳天皇の皇后· 石之比売命が産んだ子は男浅津間若子宿祢命(おあさつまわくごのすくねのみこと・日本書紀

では雄朝津間稚子宿禰皇子)しか残っていないが、髪長比売が産んだ大日下王(同・大草香皇子)も人選の俎上に
載ったのである。

 「長(このかみ)にして仁孝(じんこう)にましませり」

 群臣は、年長で人格も立派な男浅津間若子宿祢命(19代允恭天皇) が勝るとし、皇位に就くよう進言した。
大阪市立大の毛利正守名誉教授は、一方の母は皇后で、他方は妃という格の違いに着目してこう言う。

 「石之比売命は大后(おほきさき)と呼ばれるほど格が高く、17代履中と反正の母でもある。

大后の出身豪族で強力な葛城氏の影響もあったでしょう」

 男浅津間若子宿祢命は群臣の申し出を断った。その言葉を古事記はこう記す。

 「我は一つの長き病有り。 日継 (ひつぎ・天下)を知らすこと得じ」

 日本書紀は、病状まで記述する。

 「歩行能(あた)はず」

 そして、男浅津間若子宿称命が内密に治療を試みて 失敗し、父の仁徳天皇から長生きしても天下を治めること
はできない」と非難されたこと、2人の兄に愚かだと軽蔑されていたことなど、苦悩を吐き出すように告げたことも
記す。 

 「天下は大器なり。帝位は鴻業(こうげふ・大業)なり」

 男浅津間若子宿祢命は自分は天皇の器ではないとも述べるが、群臣の決意も固く、口々に口説いた 「帝位は、
以ちて久しくむなしくあるべからず(帝位は長く空にしてはなりません)」

 ご苦労でもどうか天皇の位についてください膠着(こうちゃく)状態を打開したのは男浅津間若子宿称命の妃・

忍坂之大中津比売命(同忍坂大中姫命)だ。洗手水の碗をささげ持って、夫にこう訴えた。

「群(もろひと)の望に従ひて、強(あながち)に即帝位したまへ(皆の願いに応じ、無理にでも即位してください)」

 時は師走。強風でこぼれた水が妃の腕に凍り付く。

 1時間余り過ぎて妃は倒れ、助け起こした男浅津間若子宿祢命はついに即位を決意した。

 「妃は、聖なる泉を持つとされた豪族、息長氏の系譜。妃が授ける水は新たな生命を意味し、病の治癒が

暗示されているのです」

 同志社大の辰巳和弘元教授はそう話す。

 〈使を遣して良医を新羅に求む〉

 天皇は即位後、新羅から医者を招き、治療によって病は癒えたという。日本医 史学会会員で大阪市の内科

医、竹中裕昭氏は天皇はかっけを患っていた司能性があると指摘し、こう述べる。

 「かっけは高貴な人しか口に入らなかった白米に偏った食事でなりやすい病。ビタミンB1を含む生薬によって
治癒したのかもしれません」

允恭天皇の治世

 允恭天皇の在位立は、日本書紀によると42年にわたった。父・仁徳天皇の87年には及ばないが、5年ほどの

履中と反正をはるかに超える。

 氏姓の秩序の混乱を正すために盟神探湯を導入した。 神に誓って熱湯に手を入れる神事で、真実を言う者

は何事もなく、偽ればやけどを負うとされた。皇后となった忍坂之大中津比売命の美しい妹を宮中に召し上

げようとし、皇后の不興を買ったこともある。

 皇后との間に9人の御子に恵まれ、三男の穴穂命が20代安康天皇となり、2代続いた兄弟間継承から伝

統の直系継承に戻った。 
   2019-12-20 産経新聞


志賀・大津宮

 石段を見上げると朱色の楼門がそびえる。競技かるたの聖地としても知られる近江神宮は、大津宮を築いた
天智天皇をまつる。大津に都があったのは667~672年のわずか5年間。

「その場所は4年前まで謎だったんです」。滋賀県立天名誉教授の林博通さん(74)と、神宮から南に延びる道
を歩き始めた。

「あの日」 と同じ道だ。 

 1974年10月。滋賀県教育委員会の埋蔵文化財技師だった林さんは下宿に帰る途中、住宅が並ぶ錦織地区で、
更地にある重機に目をとめた。この地区は有力視されていないものの、 大津宮の推定地の一つだった。

 林さんは土地所有者に調査を頼み込んだ。住宅を建てようとしていた所有者は困惑したが林さんが以前に
世話になった人や、事故で病院に付き添ってもらった人が親戚にいたことがわかる。偶然の出会いが重なり、

調査が許された。

 試しに3m四方のトレンチを掘ると、方形の大きな柱穴が見つかった。林さんは 「まさか、 と胸がドキドキした
のを今でも思い出します」。敷地全体から、整然と並ぶ13基の柱穴が発見され、内裏の南門と回廊の跡だと
判明した。大津宮の場所の謎は解き明かされた。

 「天智天皇が大津の都で目指したのは、唐や朝鮮半島の脅威から国家を守る防衛と、天皇を軸にした中央集
権の国づくり」と林さんは説く。日本書紀によれば、天智天皇は早くも大津の次の都を琵琶湖の東、滋賀県日

野町近辺につくる構想を抱いていたそうだ。

 天智天皇の没後、弟の大海人皇子(天武天皇)が息子の大友皇子(弘文天皇)を滅ぼす。この壬申の乱で、都
は大津から奈良。明日香に移った。大津宮の遭構から南に約1km、大津市役所の裏側に弘文天皇陵がある。

もし息子が弟に勝っていたら。静寂な陵で、いにしえの時代に想像をめぐらせた。 
   2020-10-9 朝日新聞(新井正之)  



木梨軽皇子と軽大郎女

 19允恭天皇には、5人の男子を含む9人の御子がいたと古事記は記す。皇后忍坂之大中津比売命との間に
生まれた第1皇子は、木梨之軽太子だった。

 〈木梨之軽太子の御名代(みなしろ)と為(し)て、軽部を定め、大后の御名代と為て、刑部(おさかべ)を定め>
 古事記はそう書く。御名代とは天皇や皇后、皇子たちの名を伝えるために、その名や居所を冠して置いた皇室
の私有民のこと。天皇が長男を、皇后と同様に愛し、後継者として期待していたことがわかる。ところが、軽太子
は皇太子となっても、皇位に就くことはなかった。

 <天皇崩(すめらみことかむあが)りましし後、木梨之軽太子を、日継(ひつぎ)知らしめすに定め、いまだ位に
即きたまはぬ間に、其のいろ妹軽大郎女に姧(たは)けて…>

 天皇が崩御した後、皇位継承者となった軽太子が即位する前に、同母妹の軽大郎女と恋愛関係になったと
古事記は書く。軽大郎女は衣通郎女(そとぼりのいらつめ)ともいい、「体から発する光が衣装を透けて外に出る
ほど美しかった」とされる美女だ。

 「当時、皇族でも豪族でも異母兄妹·姉弟での結婚はよくありましたが、同母兄妹·姉弟の恋愛は禁忌とされてい
ました」 

 大阪市立大の毛利正守名誉教授はそう話す。

 〈是(ここ)を以ち百官と、天の下の人等(ども)、軽太子を背(そむ)きて、穴穂御子に帰(よ)りぬ>

 古事記は、禁忌を犯した皇太子に多くの官人、天下の民が背を向け、(同母弟の)穴穂御子(20代安康天皇)
に心を寄せたと書く。 

「この時代には、豪族や民の信がなければ天皇になることができなかったことを記紀は伝えています」と毛利氏
は言う。

 軽太子は、その事態に恐れをなして、大前小前宿祢大臣の家に逃げ込み、武器を作って戦いに備えた。
穴穂御子も武備を蓄え、先手を打って、軍勢を率いて宿称の家を包囲した。

 「我が天皇の御子、いろ兄の王に兵をな及(し)きたまひそ。 もし兵を及きたまはば、かならず人咲(わら)はむ」

 穴穂御子のもとにやって来て、同母兄に武力を用いれば世の人の笑いものになる、といさめたのは宿称だっ
た。宿称は、自ら軽太子を拘束して皇居に参上すると約束した。穴穂御子は引き揚げた。

 〈軽太子は、伊余の湯に流しき>
 古事記は、この騒動の結末をそう記す。軽太子は松山市の道後温泉へ流刑となり、 妹の軽大郎女は後を追

って、その地で心中した。

松山市には現在、2人を祭る軽之神社があり、「姫原」などゆかりの地名が残 る。

 安康天皇となった穴穂御子はその後、強引に妻とした長田大郎女の連れ子の目弱王に暗殺される。突然の

天皇の崩御で、残った允恭天皇の男子3人の末弟、大長谷命の野心が膨らみ、2人の兄を次々と謀殺して皇位
に就く。21代雄略天皇である。

 兄弟間の争いを生むまいとして知恵を絞った仁徳天皇だったが、皇位継承だけは思うに任せなかったこと

を記紀は今に伝えている。
  2019-12-22  産経新聞 岩口利一、北村理、坂本英彰、安本寿久、山上直子  



沙本毘売命(さほびめのみこと)

沙本毘古の反逆

 古事記は、初国知らしし天皇(初めて国を統治した天皇=10代崇神天皇)の後を継いだ垂仁天皇の政治につい
て、こんな見出しから書き始める。天皇への反逆は、沙本毘古王が妹の沙本毘売命に発したこの一言から始ま
った。

 「夫と兄と敦(いづ)れか愛(は)しき」

サホビコ兄妹は9代開化天皇の孫。垂仁天皇のいとこで、サホビメは天皇の后になっていた。その妹にサホビコ
は、天皇と自分のどちらを愛しく思っているか尋ねたのである。

 「兄ぞ愛しき」

 兄こそ愛しいと答えた妹に、サホビコはたたみかける。

 「汝(いまし)まことに我を愛しと思はば、吾と汝と天の下治(し)らさむ」 

 2人で天下を治めようと言ったサホビコは、天皇の寝首をかくようにと、小刀を渡す。サホビメは、自分の膝枕で
寝ていた天皇を刺そうと3度、小刀を振り上げたが、果たせず、天皇に気づかれてしまう。事情を聴いた天皇は、
サホビコを討つ軍を編成した。 

 奈良市法蓮町の狭岡神社。サホビコの本拠地跡といわれる神社の境内には「狭穂姫伝承の鏡池」がある。

 〈(狭穂姫は)若い垂仁天皇とこの泉のほとりで恋のロマンスが生れて皇后になられました〉 

 神社の『参拝のしおり』にはそう記されている。 辻中二三夫宮司は「枯れ池だったものを、平成17年に寄付を
集めて石碑とともに整備したものです」と話す。

そのロマンスの地が、サホビメの一言で戦場になる。

サホビコは稲で城を作って天皇軍を迎え撃つが、「実際はこの (神社の) あたりの邸にたてこもったのでし ょう」
と神社世話役の川口幹夫氏は言う。

 城には、皇居を抜け出たサホビメも籠もった。天皇は攻めるに攻められず、にらみ合いの中でサホピメが天皇
の御子を産む。天皇は、御子を渡そうと出てくるサホピメを手荒にしても連れ戻すよう、兵に命じた。 しかし、兵
がつかんだ

衣服は破れ、髪は抜け、サホビメを捕まえきれなかっ た。天皇の心を推測したサホビメは、衣服や髪に細工 を
こらしていたのである。

 「おほよそ子の名は、かならず母の名づくるを、いかにか是の子の御名を称(い)はむ」

 「いかに為(し)て日足し奉ら む」

 「汝の堅めしみづの小帒(をひも)は、誰か解かむ」

 古事記は、天皇がサホビメを説得した最後の言葉を詳細に書く。子供の名の付け方や育て方がわからないと
嘆き、夫婦として愛し合った日々を思い出すように懇願したのだ。 が、サホビメの心は動かず、ついに天皇は総
攻撃を命じた。

 「天皇の愛情と、もう元には戻れないヒメの覚悟…。この悲劇は史実ではないでしょうか」と古代史研究家の
安本美典氏は話す。

「先代の崇神天皇がタケハニヤスの反乱をたたき、垂仁天皇もこの謀反をつぶした。一族の反乱を押さえ込み
、大和朝廷が権威を確立していったという事実を、古事記は伝えているのでしょう」

 狭岡神社のすぐ隣の常陸神社に、小さな祠がある。

祭られているのは佐保姫大神。春の女神ともいわれる神として、サホビメは祭ら れている。

   2019-8-21産経新聞

倭姫命   本牟智和気御子    



本牟智和気御子(ほむちわけのみこ)

 「火中(ひなか)に生まれぬ。故其(かれそ)の御名は、本牟智和気御子と称(まお)すべし」

 火の中で生まれたからホムチワケとしましょうー11代垂仁天皇に御子の名をこう言い残し、后の沙本毘売命
(さほびめ)は、燃える稲城(いなき)の中で兄の沙本毘古王(さほびこのみこ)に殉じた。古事記はそう記した後、
尋常ではない御子の描写に移る。

 <是(こ)の御子、八拳髭心前(やつかひげこころさき)に至るまで真事(まこと)とはず〉

 ヒゲが鳩尾(みぞおち)に届ほど伸びても話すことができなかったというのだ。日本書紀は「年既に三十」
「猶し泣(なおなきいさ)つること児(わかご)の如し」と記す。

 〈今、高往(たかゆ)く鵠(くくひ)の音を聞き、始めてあぎとひ為(し)つ〉

 古事記によると、御子は空飛ぶ白鳥の声を聞いて初めて何か言いかけた。 天皇はそれだけで喜び、鳥を見

せれば言葉を発するだろうと期待して、この鳥の捕獲を命じる。配下の者は紀伊や因幡、尾張と追い、現在の
新潟付近で捕まえた。 ところが、御子の状況に変化はなかった。

 「垂仁天皇は御子に、愛で結ばれていた亡き后、サホビメの面影を見ていたのでしょう。古事記は天皇を、后
や御子を深く愛した人物として描こうとしたのではないでしょうか」

 もの言わぬ御子に対する天皇の父親としての態度を、福岡女学院大の吉田修作名誉教授はこう解説する。

 苦悩する天皇は夢でお告げを聞く。私の宮を天皇の宮殿のように整備してくれれば、御子はものを言うであろ
うーと。 いったいどの神のお告げなのか、天皇は占った。

 〈その崇りは、出雲の大神の御心なりき〉

 出雲大神すなわち大国主命の崇りが、御子に災いを及ぼしていたことを知った天皇は、さらに占いで適任の随
行者を選び、御子を出雲に送った。すると出雲大神を参拝した帰路、斐伊川の中にしつらえた仮宮で突然、御子
が整然とした言葉を発した。

 すぐに伝令の早馬が天皇のもとに走った。 御子が戻ると天皇は、随行家臣の一 人を出雲にひき返させ、
出雲大神の宮を造らせた。

 古事記には、大国主命が天照大御神に国を譲るとき、立派な神殿造営を条件としたと記されている。

「垂仁天皇によってやっと、この約束が果たされた、との解釈もあります」。島根県古代文化センターの平石充
専門研究員はそう話す。

 
 御子が言葉を発した仮宮の位置は、現在の斐伊川が北から東へ向きを変える付近と推定される。江戸時代

の付け替え工事以前は西に流れ、出雲大社の方向が川下だった。 日本書紀は、御子が出雲で捕獲した白鳥と

遊ぶうちに話せるようになったと記す。近くでは「鳥取部」の文字が残る木簡が出土し、鳥屋神社や鵠神社(くぐい)

が鎮座するなど、鳥を捕る職業集団が存在していたことが確実視される。

 「奈良時代の出雲国造は代替わりのたび、玉や大刀などと一緒に白鳥2羽を大和に献上した。出雲の白鳥に
は災いを払う霊力があると信じられていたのです」

 平石氏はそう話す。垂仁天皇のわが子への思いが、大和と出雲の関係にも垣間見える。
  2019-8-22  産経新聞


鳥取部(ととりべ) 
 大和政権下で鳥の捕獲を職業とした集団。畿内や東海、 山陰などに所

在し、白鳥などを献上したり飼育したりしていた。

 日本書紀のホムチワケ伝承は、中央で鳥取部を管轄する鳥取造(ととり
のみやつこ)の創始話でもある。鳥取造の祖、天湯河板挙(あめのゆかは
たな)はホムチワケが片言を話すきっかけになった白鳥を「必ず捕まえる」

と奏上し、任務を与えられた。垂仁天皇は、約束通りに白鳥を捕獲した

湯河板挙に、鳥取造の姓を与えたとしている。鳥取部は今も鳥取県·市を
はじめ、大阪府阪南市鳥取など各地の地名に名残をとどめている。



土師氏

 〈大后比婆預比売命の 時、石棺(いしき)作りを定め、また土師部を定む〉

 古事記はこう記し、11代垂仁天皇が葬送儀礼の制度を定めたとする。土師部は葬送儀礼をつかさどり、古墳時代
に埴輪や土器を製造した一族。こうした一族が登用された背景は、日本書紀が詳述している。

 垂仁天皇が即位して28年、同母弟の倭彦命が亡くなった。 殉死の慣習に従って近臣たちが生き埋めにされたが、
苦しむ様子を知った天皇は苦悩し、こう命じた。

 「其れ古の風(のり)と雖(いへど)も、非良(よからず)は何ぞ従はむ。今より以後、議(はか)りて殉(したがひしぬる)
を止めよ」 

 4年後、皇后の日葉酢媛命(比婆預比売命) が亡くなった際、天皇は葬礼の方法を野見宿禰に尋ねた。野見宿禰は、
大和の力自慢、当麻蹴速の相手として出雲から呼び、相撲で見事に勝ったので所領を与えた臣下である。

 野見宿禰は、出雲から人や馬などの埴輪をつくる職業集団・土部(はにべ)を召し寄せ、陵墓の周りに埴輪を巡らせ

た。天皇は喜び、野見宿禰を陵墓の祭祀をつかさどる土師職(はじのつかさ)に任命した。

 「相撲は豊作を祈る農耕祭祀、埴輪は葬送儀礼で、いずれも国家統治の要。その祖が野見宿禰であり、 彼を得たこ
とは垂仁天皇の力を示しています」

 兵庫県たつの市歴史文化財課の岸本道昭専門員はそう話す。同市は、野見宿禰が出雲に帰る途中に病死した揖
保川流域の市である。

野見宿禰の死は、「龍野(現たつの市)」の地名由来として、播磨国風土記が書いている。

 〈立野(龍野)と号(なづ)けし所以(ゆえん)は、士師野見宿禰(略)病を得て死にき。出雲国の人来たりて連ね立ち、
川の礫(さざれいし)を上げて運び伝えて、 墓の山を作りき〉

 日本書紀は、野見宿禰が垂仁天皇の下で土師運(はじのむらじ)という集団の祖となったと記している。風土記の記
述は、 出雲の人たちが、自分たちを天皇の臣下にしてくれた野見宿禰を慕っていたことを示すものである。

 たつの市内の野見宿禰陵墓の近くには前方後円墳,・西宮山古墳(6世紀) がある。 古墳からは相撲を取る人や行司
らの装飾が施された須恵器が出土している。

 相撲を取る人を装飾した須恵器は全国で、少なくとも7例確認されているが、5例はたつの市など兵庫, 播磨地方と
山陰地方に集中している。

 「播磨地方では山陰の土器も多数出土している。両地域の交流が盛んだった証拠でしょう」

 兵庫県まちづくり技術センターの久保弘幸·技術専 門員はそう話す。「播磨国風土記にある『出雲国の人来たりて墓
の山を作りき』

の記述も、そうした歴史を示すものでしょう」

 出雲は国譲り神話で、国造りした大国主命が隠棲した地である。 国譲りされた天照大御神の子孫が歴代天皇だ。
垂仁天皇に仕える野見宿禰の逸話の数々は、11代天皇の時代には出雲も大和と盛んに交流し、天皇が日本列島を
揺るぎなく治めていることを強調するものでもある。
   2019-8-26  産経新聞 北村理、坂本英彰、正木利和、安本寿 久、山上直子 

野見宿禰陵墓 地図

 兵庫県の1級河川、揖保川に近い、たつの市龍野町の的場山の中腹にある。野見宿禰は出雲国造の始祖

アメノホヒの子孫とされることから、陵墓には出雲国造家の神紋がみえる。また、相撲の祖とされることから
明治·大正時代の歴代横綱らが参り、玉垣を寄進している。

 野見宿禰は、山のふもとの龍野神社に合祀され、同じたつの市内にある土師神社に祭神として祭られてい

る。このほか、出雲大社や松江市の菅原天満宮、東京·両国国技館の近くの野見宿禰神社などでも祭られて

いる。菅原道真は土師氏の子孫で、野見宿禰を先祖としている。



武内宿祢

 母の神功皇后と並んで、15代応神天皇を支えた存在として古事記が紙幅を割く、のは、大臣の建内宿称(日本書紀
では武内宿禰)についてである。

 「恐(かしこ)し、我が大神、其の神(神功皇后)の腹に坐す御子は、何(いづ)れの子か」

 「男子なり」

 「今かく言(こと)教へたまふ大神は、其の御名を知らまく欲し」

 14代仲哀天皇の死に際して、次の天皇を指名した神と対話し、正体を住吉三神と名乗らせるのは宿称なのだ。

 「律令以前の特徴である、神との仲立ちをする霊能者の側面も見えます」

 宿称の役割について、龍谷大の平林章仁 元教授はそう話す。外征 から帰国して応神天皇を産んだばかりの皇后
にとって、最大の危機は天皇の異母兄、忍態王(おしくまのみこと)らが企てた反逆だった。日本書紀はこう記す。

 <皇后(きさき)、忍熊王師(いくさ)を起して待てりと聞しめして、武内宿祢に命(みことおほ)せて、皇子を懐(うだ)

き、横に南海(みなみのみち)に出で、紀伊水門(きのみなと)に泊らしめ>

 皇后の命で宿称は応神天皇を抱き、忍熊王が待ち構える難波を避けて筑紫から、紀伊に向かった。

 紀伊水門は、和歌山市の安原地区にあったとされる。今は海まで約5kmあるが、古代には紀伊水道につながる入
り江だったという。市立安原小学校の校庭には、伝承を伝える『御船(みふね)山」と呼ばれる旧跡がある。

 「ここは宿祢の生誕地で、一族が勢力を張っているため、安心して滞在できると考えたのでしょう」

仮宮跡とされる安原八幡, 神社の大畑弥官司はそう話す。同神社奥宮の武内神社には、宿称の産湯に使ったとされ
る井戸があり、江戸時代には紀州徳川家が子女の産湯に用いたという。

 紀伊に着いた宿称はその後北上し、大軍勢を率いて宇治川で忍態王との決戦に、臨む。日本書紀はこの際、宿称が
忍態王にこう告けた と記している。

 「吾、天下を負(むさぼ)らず。唯幼き王(いとけなきみ)を懐き、君王(きみ)に従ふらくのみ(私は天下を貧らず、幼い
王を抱いて君王に従うばかりです)」

 和睦の提案とみせた策略だった。 油断した敵に武器を捨てさせ、自軍兵士には髪に隠させていた弦を弓に 張らせ
て、敵を討ち取る。

宿称は、見事な知将ぶりで古事記は宿祢の出自を8代孝元天皇の御子が、紀伊国の名家の女性に産ませた子だと
いうのだ。日本書紀は12代景行から16代仁徳まで5代の天皇に仕えた事績を記す。宿称には7男2女がいて、男児

の子孫は波多、蘇我、平群、紀、葛城ら5~6世紀の大和政権を支えるそうそうたる有力氏族となった。

 「大和政権は天皇中心の氏族連合体。多くの有力氏族をつなぐ祖先が宿称であり、各氏族の伝承で偶像化が進ん
だのでしょう」

 平林氏はそう解説する。

理想的な忠臣、宿称の力で皇位を得たのが応神天皇なのである。 
   2019-10-29  産経新聞



倭建の国見

 茨城県行方市(なめがた)。水郷で有名な潮来市(いたこ)の北隣にあるこの市の北部に「現原岡(あらはら)」と呼ば
れる低い丘がある。 常陸国風土記は、この丘に登った倭武天皇 (倭建命)の言葉をこう記している。

 「山の阿海(かまうみ)の曲り、参差(まじはり)ひ委蛇(もこよ)ふ。峰の頭に雲を浮かべ、たにの腹に霧を擁(いだ)く。

物の色可怜(うま)く、郷体甚愛(くにがたいとめづら)し」

 山は入り組み、海岸線の屈曲はうねうねと続き、峰の頂には雲が浮かんで、谷の空間は霧を抱いているー
ヤマトタケルは、霞ケ浦と北浦という2つの内海にはさまれて広がる土地の様子をそう述べて、趣のある形にとても心
ひかれると褒めている。 そして地名を命名する。

 この地の名は行紙(なみくは)し国と称(い)ふべし」

 風土記はさらに記述を続ける。

 〈後の世に、跡を追ひて猶し(やはり)行方と号(い)ふ〉

 小学校で子供たちに、みんなの住む市の名前はヤマトタケルがつけたんですよ。そんな昔から、ここの地名はある
んですと教えると、誇りに思えたと感想を言ってくれます。これこそ市民のアイデンティティーでしょうね」

 同市教委社会教育指導員の高崎啓子氏はそう話す。 

 ヤマトタケルが行ったのは、国見といわれる行為である。

 その最初の例を日本書紀は、初代神武天皇31年夏のこととして、

 現在の奈良県御所市の北東部にある丘に登って、国の様子を望み見て、「ああ、なんと美しい国を得たことよ」とお
っしゃったというのである。

 国見で最も有名なのは、 16代仁徳天皇が行ったものである。 その様子を古事記はこう記している。

 〈天皇、高き山に登り、 四方の国を見、詔りたまは く、「国の中に姻発(けぶりた)たず、 国みな貧窮(まづ)し。故
(かれ)今より三年に至るまで、悉ことごと)く人民の課役を除(ゆる)せ」とのりたま ふ>

 炊煙の上がらない国状に心を痛め、3年間課税をやめた天皇の政治を古事記は聖帝の御世」と評してい る。

 「国を治めるためには国土や国民の姿を知ることが不可欠。国見は古代から、国を統(す)べる、つまりは統める
スメラミコト (天皇) に欠かせないお務めだった」

 京都産大の所功名誉教授はそう話す。

 常陸国に足跡を残したヤマトタケルの東征は、12代景行天皇の御子として行われたものである。にもかか わらず
国見を行った理由について、所氏はこう推論する。

 国見は天皇自身が行うのが最善だが、準じる立場の者が行くことも少なくない。従わない者を討つ戦も広い意味で
は国見で、ヤマトタケルは朝廷の勢力圏の東限、北限まで行っているのだから、天皇の名代としてふるまい、周囲も
天皇として受け入れたのだと考え られます」


行方の郡
(なめかたのこほり)

 ヤマトタケルが「行細し国」 と名付けた国見の様子は、常陸国風土記の「行方の郡」の項買に記されている。
ヤマトタケルを地名由来とする記述も多く、無梶河(なしかは)や鴨野の由来など9ヵ所を数える。

 無梶河は、現原岡を下って舟で渡ろうとしだ川で、梶が折れてしまったことが由来。鴨野 は、飛んでいる鴨
を狙ってヤマ トタケルが矢を射たところ、射た瞬間に鴨が落ちてきたために、その名が付いたと風土記は書く。
こうした内容を行方市教委は小学校の副読本『なめかたのクニ たんけん風土記』にまとめ、郷土史として教え
ている。


気比神宮

 平安時代の『延喜式神名帳』に記載された越前国一之宮。「北陸道総鎮守」

として朝廷からも崇敬されてきた。

 創祀は神代の時代にさかのぼるとされ、主祭神は伊奢沙別命。仲哀天皇

神功皇后も参拝したと伝わる。大宝2ささわけのみこと(702)年の社殿修営にあ
たり仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、仲哀天皇の父である日本武尊(倭建命)、
皇后の妹の玉姫命、武内宿祢命を合祀して7柱を祭る。

 摂社·角鹿神社(つぬが)は敦賀の地名の発祥とされる。国の重要文化財に
指定されている「大鳥居」は日本三大鳥居の一つ。



仁徳天皇と兄弟

 <是(ここ)に天皇(すめらみのみこと)、大山守命と大雀命(おほさざきのみこと)とを問ひて詔(の)りたまはく、
「汝等(いましたち)は、兄の子と弟の子と、いづれが愛(は)しき」ととひたまふ。

 古事記は、15代応神天皇の子に対して、そう問いかけたと記す。年上の大山守命は、
「兄の子」と答えたのに対し、天皇の心を察した大雀命(後の16代仁徳天皇》は「弟の子」が愛おしいと答えた。
天皇の胸中にあったのは、2人より年下の宇遅能和紀郎子(うじのわきいらつこ)だった。天皇は、大雀命の回答

を喜び、こう命じた。

 「大山守命は、山海の政まつりごと)を為(せ)よ。大雀命は、食国(をすくに)の政を執りて、白(まを)し賜へ。
宇遅能和紀郎子は、天津日継(あまつひつぎ)知らせ」

 長兄には山海、つまり地方を治めさせ、次兄には天下の政治を任せ、未弟に皇位を継がせようとしたのである。

 古事記は、応神天皇の御子は26人と書く。大山守命と大雀命は母が姉妹で、異母兄弟ながら従見弟でもある。  

 宇遅能和紀郎子は、天皇が木幡村(京都府宇冶市付近)で出会った豪族(丸邇氏)の娘、宮主矢河枝比売を母
とする。 日本書紀は、菟道稚郎子と書き、百済から来た学者、王仁に典籍を学び、高麗からの上表文に対して
無礼さに怒りをあらわにするような人物と伝えている。

 「母親の違う複数の候補が幅広くいないと、血筋が続かない。だから大王家の中にいくつか小集団があっ た方
が良かったのだろう」

そうした背景の中で生まれた後継者候補の中から、天皇は剛毅な宇遅能和紀郎子を選んだと読み取れる。

 が、年土の皇子の気持ちは収まらなかった。天皇崩御後、大山守命は宇遅能和紀郎子の殺害を計画したのだ。
大雀命からの知らせで、それを知った宇遅能和紀郎子は、宇治川で大山守命を討つ。宇治川は、宇遅能和紀郎子
の母の実家の勢力圏である。記紀は、宇遅能和紀郎子が軍略にも優れ、天皇の眼鏡に狂いがなかったことも示
唆している。

 応神天皇は、兄弟の争いを見ることなく130歳で崩御し、後に武神、八幡大神として祭られた。 大阪府羽曳野市
の応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)が陵に治定され、南側には天皇を祭る誉田八幡宮が鎮座する。

 「応神天皇のころは新しに技術が大陸から伝えられ、文化が大きく発展した」と中盛秀宮司は話す。

同宮は、、多くの子を産んだ8人の后妃も八后神として祭る。中宮司は、「いかに世継ぎのことが大変だったか」
と天皇の苦悩にも思 いをはせる。 天皇が後継者に指名した宇遅能和紀郎子は、大山守命を討った後、異母兄
の大雀命と皇位を譲り合い、結局は皇位に就くことなく崩御する。大陸ので文化を受容し、国家を勃興させた天皇」

の治世は「聖なる君主」へ 引き継がれていく。
   2019-10-31   産経新聞 岩口利一、北村理、坂本英彰、安本寿久、山上直子


西塔の発掘調査

 平安時代に平安京の入り口近くにあった西寺の跡地での発掘調査で、説教などが行われていた講堂のサイズが、
一緒に造られた東寺より一回り小さかったことが判明した。京都市文化財保護課が2日、発表した。東寺と西寺が
左右対称の規模ではなかったことが、裏付けられたという。

 これまでは東寺の歴史をまとめた「東宝記(とうほうき)」をもとに、両寺の講堂は同じ規模と考えられてきた。文化
財保護課によると、東寺を任された空海が建築途中で設計変更した可能性がある。

 西寺は、794年の平安京遷都に伴い、都の南辺中央にあった羅城門を東寺を挟むようにして建てられた。講堂や
塔などがあったが、990年に主要部が焼失して今に至る。

 市が9月下旬から跡地の公園で発掘調査をしたところ、講堂跡付近で、建物の柱を支える礎石を抜き取った穴(直
径約2m)が五つ見つかった昨年の調査で見つかった別の礎石跡の位置も踏まえて、講堂が東西約30m、南北約
17mだったことが判明した。講堂の土台である基壇が東西約39m.、南北約25mだったことも分かった。

東寺の講堂は東西35m、南北約16m。その基壇は東西役42m、南北23m。西寺の方が小さかったことになると
いう。講堂内に仏像を安置するための「須弥壇」も見つかり、東西17m、南北約6mのサイズだった。これも、東寺
より東西幅が約7.5m小さかった。

 網伸也・近畿大教授(考古学)は「須弥壇の大きさから、大日如来を中心にいろんな仏がいる曼荼羅の世界を表し
た密教の東寺と、それよりも仏の種類が少ない(文字や言葉で教えを説く)顕教の西寺の教義の違いが分かる」と話
す。

 10月末まで調査を続けた後、埋め戻す。 
   2020-10-23  朝日新聞 (高井里佳子)


蛇・龍について

 倭人社会の伝承を伝える『記紀』や『風土記』には、土地や水の精霊としての竜蛇の類を描いた神話や説話が

認められる。記紀では、三輪山の神は、櫛筒(くしげ)に隠れる小さなとして描かれ(箸墓伝承)、雷鳴を轟かせ、
稲光を走らせる大蛇としても描かれる(雄略記)。ヤマトタケルを苦しめた伊吹山の神も大蛇だった。記紀や風土記
には、有足の蛇(仁徳記のミズチ)、有角の蛇(常陸国風土記のヤツノカミ)も登場する。

ヤツノカミ(夜刀神)は、谷の池に棲み、胴体が蛇で、頭に角がつく。群れをなして現れ、見る人の家門を滅ぼし、
子孫を絶やしてしまうと言われ、開墾作業を妨害したため、マタチ (麻多智)によって成敗された。

 また、最近、奈良時代の疫病対策として話題になった二条大路木簡の呪符では、 南山の下の流れない水の中に、
九頭一尾の大蛇があり、あまり物を食べないが、「唐鬼」(天然痘)を食すと記される。その霊力に期待して、 「朝に
三千食え、暮に八百食え。急々如律令」 とまじないを行った。記紀に見えるヤマタノオロチ(八岐大蛇 ・八俣遠呂智)
は、八頭八尾の大蛇で、人身御供を要求した。このように、記紀や風土記等に見える竜蛇の類いは、オロチや大蛇
と表記され、四肢を備えた「龍」ではない。つまり、古代中国の龍は、さまざまな生き物の要素が接合した「ハイブリ
ッド」型だが倭人社会の「竜蛇」の姿態は、有角あるいは有足以上のハイブリッド化が進まず、ヤマタノオロチにして
も、二条大路木簡の九頭一尾の大蛇にしても、頭や尾など、身体の一部を同じ形でクローンのように過剰化させた
特徴を持つ。このように異形の「竜蛇(オロチ)」は、強い霊力をもち、人々から怖れられた存在だった。
   天理大学文学部教授 桑原久男